つらつら日暮らし

「出家四料簡」について

「四料簡」という言葉がある。これは、臨済義玄禅師(?~866)の接化の手段とされるが、以下のように説明されている。

 済果たして鎮州臨済に住し、黄檗の宗旨を建立す。学侶雲集し、普化・克符の二道者、股肱と為りて、法道一時に振るう。
 示衆、大凡、宗乗を演唱するには、一句中に須らく三玄門を具え、一玄門に須らく三要を具うべし。権有り、実有り、照有り、用有り。汝等、諸人、作麼生か会す。
 即ち、三玄・三要・四料簡・四賓主・四喝・四照用等、許多の閒絡索有り。大法、未だ明らかならず一途一轍に滞在せる底、藩籬を窺んや。
    『仏国禅師語録』巻下「普説」


仏国禅師とは、鎌倉時代の臨済宗で活動した高峰顕日禅師(1241~1316)のことである。以上の通り、臨済禅師の様々な接化法について端的にまとめておられる。そこで、臨済禅師の見解としては、以下のような教えが知られている。

 師、晩参し、示衆に云く、
 有時、奪人不奪境。
 有時、奪境不奪人。
 有時、人境倶奪。
 有時、人境倶不奪。
 時に、僧有りて問う、如何なるか是れ、奪人不奪境。
    『臨済録』


上記の通り、「人」「境」という二項について、「奪」「不奪」との組み合わせを考えると、2×2で4つになるわけだが、これを「四料簡」と呼んでいる。それで、この4項目を挙げて事象を考察させる「四料簡」を用いて、出家と在家を考えた事例があるので、見ておきたい。

 在家の出家なる者有り、
 出家の在家なる者有り、
 在家の在家なる者有り、
 出家の出家なる者有り。
 俗舎に於いて処して、具えて父母・妻子有り。而も心、恒に道に在りて、世塵に染まらざるは、在家の出家なる者なり。
 伽藍に於いて処して、父母・妻子の累有り。而も名利に営営として、俗人と異なること無き者は、出家の在家なる者なり。
 俗舎に於いて処して、終身に纏縛せられ、一念の解脱無き者は、在家の在家なる者なり。
 伽藍に於いて処して、終身に精進し、一念の退惰も無き者は、出家の出家なる者なり。
 故に古人、身心出家の四句有り。意、正に此の如し。然りと雖も、出家の出家なる者は、上士なること無論なり。
 其の出家の在家為らんよりは、寧ろ在家の在家為る者なり。
 何を以ての故に、袈裟下に人身を失すれば、下の又た下なる者なり。
    『雲棲法彙』巻14「出家四料簡」


こちらが、中国明代の雲棲袾宏(1535~1615)が設定した「出家四料簡」である。検討されている項目は、「出家」「在家」という二項を、「俗舎」「伽藍」という居場所と、更には当事者自身の生活法などを踏まえて論じたものである。その結果、以下の4つの分類が生まれている。

在家の出家
出家の在家
在家の在家
出家の出家


そこで、現代の人の認識だと、この辺が意外と純粋な場合も多いので、おそらくは「出家の出家」については、期待とともに理解されていると思う。ところが、実態として多いのは、「在家の出家」「出家の在家」「在家の在家」ではないかと思う。それにしても、明治時代より前でも、浄土真宗などの一部の宗派では家族で寺に住んでいた場合があるが、明治時代以降は他の日本仏教各宗派でも、家族で寺に住む事例が増えた。

そうなると、先に挙げた「俗舎・伽藍」の二分法を充てて良いのかどうかが分からない。例えば、浄土真宗の寺院とは、「伽藍」という設定がされているのだろうか。この辺、もう少し詳しい人に聞いてみるか、論文でもあるのかな?

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