母の生きてきた道を自分史から続きます(抜粋)
結婚・産婆開業
東京でお産の器具を購入、確か70円と記憶している。
昭和12年4月20日結婚式は飯田市で、披露宴を自宅で行う。
新婚旅行は天竜峡、新居での生活が始まった。
その頃、風呂が無く、外に桶を置いて、竹のササが落ちてきたとも
その内にタイルで作ったのが珍しく、近所の方々が入りにも来た。
自分のつわりが始まったが、お産に呼ばれれば、自分のつわりがどうのと
言っておれない。 初めて行った家の名前、と順追って記載有り。
お産一件5円くらいが相場だった中には3円という家庭もあった。
当時米一斗(約15㎏)は楽に買えたような記憶あり。
時代は「産めよ、殖やせよ」の時、忙しくなった。
道路はデコボコ、外灯もない山道や田圃道でもなるべく近道を選び
産婦の待つ家へ急ぐ、足には自信が有った、自分のお産もまじかになっていたが
それでも何とか熟した。
自分の陣痛が始まり産婆をお願いしてあったが、他家へ行って留守、近くの学校の先生の奥さんが
産婆の資格を持っているという話を聞き、急遽お願いした。
午後9時10分長男誕生(700匁…約2700g)
ところが3日目から産褥熱で39℃、近くの医者が注射をしてくれても下がらず
飯田からT.産婦人科医をお願いして、兄からの輸血を受けてようやく平熱に戻った。
その往診治療費が記述支払いが大変で何方かに立て替えてもらったとか。
結婚・産婆開業
東京でお産の器具を購入、確か70円と記憶している。
昭和12年4月20日結婚式は飯田市で、披露宴を自宅で行う。
新婚旅行は天竜峡、新居での生活が始まった。
その頃、風呂が無く、外に桶を置いて、竹のササが落ちてきたとも
その内にタイルで作ったのが珍しく、近所の方々が入りにも来た。
自分のつわりが始まったが、お産に呼ばれれば、自分のつわりがどうのと
言っておれない。 初めて行った家の名前、と順追って記載有り。
お産一件5円くらいが相場だった中には3円という家庭もあった。
当時米一斗(約15㎏)は楽に買えたような記憶あり。
時代は「産めよ、殖やせよ」の時、忙しくなった。
道路はデコボコ、外灯もない山道や田圃道でもなるべく近道を選び
産婦の待つ家へ急ぐ、足には自信が有った、自分のお産もまじかになっていたが
それでも何とか熟した。
自分の陣痛が始まり産婆をお願いしてあったが、他家へ行って留守、近くの学校の先生の奥さんが
産婆の資格を持っているという話を聞き、急遽お願いした。
午後9時10分長男誕生(700匁…約2700g)
ところが3日目から産褥熱で39℃、近くの医者が注射をしてくれても下がらず
飯田からT.産婦人科医をお願いして、兄からの輸血を受けてようやく平熱に戻った。
その往診治療費が記述支払いが大変で何方かに立て替えてもらったとか。
社会の環境は日々驚く速さで変わる。
おばあさんの時代から今を想像出来たでしょうか・・・。
健康管理のこと、参考になりました。
冷たいビール、気の合った友達も薬になりますね。
多少の不安はこの歳になるとありますが、楽しく過ごしていきたいです。
法律などの制度に阻まれたこともあったでしょうけれど
やはり女が働く事の職業では、公務員、教員、看護婦か産婆だったでしょうけれど、結婚を機に辞めて、再就職したM,型がほとんど、雇用均等法が出来てからだから、婦人の問題は昭和60年代ですよね、しかし、自分で保健所に登録、所属はなく、あくまでも個人、そのうちに公務員として病院に勤務で、年金を積み、今交付がある。 ※ カルテットで暑気払いを!しよう!。
助産師さんの働き方も幅広くなって、21世紀に生まれていたら、お母様の働き振りは如何様になっていたかしら?
きっと大活躍したでしょうね。
いまでこそ男女平等ですが、父親の理解があってこそ続けられた仕事
産婆の亭主と美U+26ABU+FE0FU+1F535の亭主はロクなもんじゃないとか?
父親から聞いた言葉ですが、母がしっかりして居て、父の存在が可哀想に
思って、私は父と一緒にいたいとおもったほどです。
兄達が進学するのに地元に残ったのも事実、友達は、父親が居ないと思った人が多く
存在感が薄かった。金銭的にも、父が郵便局にいれば問題無しが、退職して、母方の
伯父の手伝いをしながら事務と言われながらも重労働させられた、病に伏して辛かったと思う
母は、自宅で開業したが、父の仕事は冬場のみで、悩んだ様子、このような両親を見て育ったから
私は、中途半端な人生、母は、父親に感謝しておりますが。
丹精込めて咲いたら、皆を楽しませてくれて…。
どれも見事な色ねぇ。
綺麗に咲けば皆で一緒に 楽しめて良かった。
花は和みます 。