休みの度のおじいちゃんの様子うかがいは続いている。
先日、私の息子が進学のためこの地を離れるので、「おじいちゃんの生きてる姿、最後かもしれないから会っておきなさい」と連れて行った。
息子も素直に応じてくれた。
その日、いつものとおり孫の名前は出てこないが、来てくれていることでおじいちゃんは上機嫌だった。
しばらくすると、自分の手首(腕時計のする位置)を指さし「これ、これ」と言う。
時間を知りたいのか、腕時計を見たいのかわからなかったが、私は、腕時計をしたままの手を見せた。
差し出した腕の時計を見ながら
「もう、ここいいんじゃないか。そろそろな」
という。
夕方だったので「そろそろ帰れ」と言う意味かな?と思ったが、顔が違う。
おじいちゃんは、目いっぱいの機敏さで、自分で身支度を始めた。
「どこ行くの?」
と聞くと「いや、ここ、もういいからさ」と身支度を続ける。
「おじいちゃん、ここじゃなくてどこいくの?」と聞くと無言になるが身支度の手は止まらない。
ここ1か月ほど、施設の人に「ここを出たい」と言っていたのは知っていた。
ただ、私に対しては言い忘れるのか、『本心は口に出さない』もともとの本質からなのか、その話はしてこなかった。
あえて、
「外行くの?外は寒くて風邪ひいちゃうよ」とか
「買い物行くの?何欲しいの?」とか
「床屋かな?まだ、髪伸びてないよ」などはぐらかしているとミルミル顔色や形相が変わる。
この様子を初めて見る息子は、帰り道
「顔、変わって怖かった」
と漏らした。
精神病院入院中、もっと激しい退院希望の訴えがあり、納めるのに一苦労した。
退院後、家に戻れず施設入所することも抵抗し、何度も説得して落ち着いた。
ようやく、おじいちゃんの生活リズムもでき、我々の面会訪問もそろそろ間隔を開け始めようか・・・と思っていたが、また、説得のために、納得してもらうための訪問が続きそうだ。
私の息子は「おじいちゃんの人相が豹変することが怖かった」と言ったが、私は「この施設から出されたら・・・」を考えることの方が恐怖だ。
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