一方、金言寺では数年の後、はたして庭先に投げ捨てられていた銀杏の木の
朽ちた碁盤、然も、其れの中央から発芽して次第に成長し遂には、枝葉天を覆
うに至ったので後世此の樹を貞心尼銀杏権現と称へ、玉垣を結び祭っている。
何時の頃からか誰云うとなく人畜共にお産に最も験多しと云うので、遠く伯
耆地方から辻講を設けて参拝し、境内は非常に賑わひ続けていた。
つづく
一方、金言寺では数年の後、はたして庭先に投げ捨てられていた銀杏の木の
朽ちた碁盤、然も、其れの中央から発芽して次第に成長し遂には、枝葉天を覆
うに至ったので後世此の樹を貞心尼銀杏権現と称へ、玉垣を結び祭っている。
何時の頃からか誰云うとなく人畜共にお産に最も験多しと云うので、遠く伯
耆地方から辻講を設けて参拝し、境内は非常に賑わひ続けていた。
つづく
ふとした病がもとで床につき、丁度庵に移転して三年目の九月、海端が死んだ
命日に彼女は、しばし神がかりの如き状態となり、私が死ねば魂塊は出雲國馬木
の荘松尾山金言寺に立帰り庭のほとりに捨てられてある、あの銀杏の碁盤の中央
から芽を生じ永くこれに留まり海端の霊を慰めん、又、諸人の病気、殊に女の病
気一切を全治せん。と叫んだかと思うとそのまま息は絶えた。
数奇な運命にさいなまれるた可憐な乙女、白百合の花の精にも似た彼女の生涯
はあまりにも弱く、あまりに短かった。
有縁無縁の衆相はかつて、彼女の最後をあはれみ、庵のかたはらに、一基の地
蔵尊を安置し貞心地蔵尊と名づけその後供養を怠らなかったと傅へられている。
つづく
二八の装ひも見ず、幼より佛門に入った輜衣圓頂の若き女僧貞心尼の
心にも春は訪れて来た。かの女のきめこまかな色白い天来の麗質はなま
めかしい脂粉の香こそなけれ、墨染の衣の中よりめけ出た一輪の白百合
の花の如くけだかくも藹たけた姿に清新な乙女の誇りは照り輝いていた。
然し、かの女の妖艶な黒みをとって鈴を張った様な瞳には、にじみ出る
さびしい若いなやみがひそんでいた。かの女の歓心を買ふために村のた
れかれや、家中の若侍共が俄に佛信心を始めるなど、美しい娘のたれも
が一度は持つ華やかな世界が彼女の上にも巡って来た。そして、佛の道
に叛くとは知りつつも、かの女の胸に段々濃くなり大きく育っていく魔
物の影は、か弱い女の力ではどうする事も出来なかった。人もあらうに
師と仰ぐ海端の情を受けたのは、花恥ずかしい彼女が二十三歳の春四月、
甲斐平城のかなたに大きな朧月が静かに懸かった晩であった、ほんに思
ひば、今から七年の昔・・・とまろび泣くこのあはれな尼僧姿の彼女の
狂乱生活は庵に移って一年後から始まった。道行く人も足を留めて此の
若い美僧をあはれみ惜しまぬものはなかった。
つづく
海端の従妹で剃髪佛門に入り、海端に仕へて居た妙齢な美人に貞心尼と云ふのがあった、
翌朝、師匠の最後を知った時かの女は天地がさかさになったと思った、不慮闖入者によっ
てわづか数日間に堂宇を奪はれ、然も師匠を奪はれたのだから、前後不覚に彼女が泣き入
ったのも無理はなかった。情けある人々の助けをかりて野邊のおくりもいとねんごろに営
み、海端の切腹した短刀を懐にして、つきぬ名残を惜しみつつ、少しのゆかりのあるをた
よりに摂津の難波に出て、或る商家に水奉公したが、かの女は時日の過ぐるに従ひ、益々
海端の温情忘れ難く、或日思ひあまって形見の短刀を取り出し鞘をはらってよく見るに其
の切っ先に曇氣のただよふを発見した。之は師匠が無念のあまりまだ成佛せない証拠だら
うと悟り、暇を乞ふて難波の片田舎に去り、庵を結びてひたすらに今はなき海端老師の冥
福を祈ってやまなかった。
然し、をさまらぬは海端の胸の内である、怨恨の焔はどうしても押さへ切る
事が出来なかった。何物をも焼きつくさんとする彼の恨みの却火は日と共に熾
烈を加へ、憔悴し切って骨ばかりになった、彼の顔には悲痛の色が益々深く刻
づけられて来た。
金言寺平の秋色も漸くたけなわらんとする。それは淋しい秋雨の降る夜であ
った、決然立った海端は人の寝息をうかがひ、無念の碁盤を庭の一隅に投げ出
し、之に腰うちかけて、しばし感慨無量の態であったが、遂ひに立派に腹かき
切って果ててしまった。
つづく