そこで、約束により涙を呑んで上人の門に降り改宗して堂宇は全部譲り
渡してしまった。茲に於いて日尊上人は三號を松尾山とし寺號は其のまま
金言寺とし、甲斐平城主多胡氏の帰依を得て益々法華経弘道の事に努め、
日を経ずして小馬木なる浄土宗安養寺へ法戦にむかはれた。
つづく
そこで、約束により涙を呑んで上人の門に降り改宗して堂宇は全部譲り
渡してしまった。茲に於いて日尊上人は三號を松尾山とし寺號は其のまま
金言寺とし、甲斐平城主多胡氏の帰依を得て益々法華経弘道の事に努め、
日を経ずして小馬木なる浄土宗安養寺へ法戦にむかはれた。
つづく
海端は評判の強情者とて、之が仇討ちを自己の得意な碁でうたうと
懸碁を上人に申し込んだ、それは海端が勝利の際は上人が住持に随身
し、上人が勝利の時は海端が直に上人に随ひ改宗すべしと云ふのであ
る、よって證人として城主の臨場をもとめた。甲斐平城主多胡左右衛
門尉は事容易ならざることを覚り、早馬を以て駆けつけ臨場した。
両僧、對局二晝夜にわたり、各秘訳をつくし力戦苦闘したが、時利
あらず海端は惜しくも再び惨敗した。
つづく
阿図馬颪は常に吹きすさむ中國山脈の麓なる古刹真言宗金言寺にては
時の住持を山川海端と云ひ、雲南の地頭多胡左右衛門尉甲斐守将監の菩
提所にして、其の名聲、四隣に聞こえ高かりければ、日尊上人大いに喜
び、杣人の案内で金言寺を訪ね一夜の宿を乞ひ客となった。或る時、日
尊上人は種々物語の後、真言の大日経と法華経の宗義につき法論を始め
遂に住持海端を美事ヘコマかした。が海端は評判の強情者とて、之が仇
討ちを自己の得意な碁でうたうと懸碁を上人に申し込んだ。
つづく
御題目の有り難き事を説き、尚ほ此山を下りて宿るべき人家の有無を
問ひ給ふに若き杣は心に思ふやう、此御坊こそ只人ならず氣高き御方な
らんと懇ろに道を曲がり谷を渡りて、出雲國仁多郡馬木村なる小峠の部
落を過ぎ大畝にて真言宗金言寺に案内しける實に今を去る六百数十年の
昔、正安三年秋九月の中頃であった。
つづく
其翌日御開山日尊上人は、三井野より御題目の聲高く森林鬱蒼たる
中の新鍛冶屋、赤羽根の嶮をよぢて峠に着きここにしばし憩はれ給ふ
に、谷の彼方にて斧の響き聞こえければ、それをたよりに下り、若き
杣の炭焼きに會ひ給ふ、上人はいちゃはらかに杣に向かひて教へ諭し、
つづく