ひさびさに記事を書いている。自分は結構すぐなんでも行き詰まるので、しばらくいつも休みが必要だ。
最近、重力のことを考えていた。
今の地球の重力がもっと大きかったら人間は二本足で立っていなかったかもしれない。
そうしたら人間のそもそも文明は生まれたろうか。
今の時代、ほとんどの人が現代文明という疲労と疲弊の代名詞のなかで疲れ果て毎日眠っている。
ある意味、現代人は重力の重みにうちひしがれているのかもしれない。
だから、こんな時代には重力に反抗する夢の存在が重要だ。
愛の本質は、聖なるものか、それとも聖なるものもか。
愛の本質は反重力である。
その本質は夜は夢のなかかもしれないが、昼は観念の飛翔だ。
現代人は物質文明を極致にまでおしすすめて、物質の豊満していない世界など思いもよらないようになった。
そして、それは自分たちの生活すらも世俗化させてしまった。
するとどうなるかといえば、物質的なものしか信用できない。ところが、さらに相手のことも物質的な人間としてしか想像できなくなっている。年を経て思うことは、ともかく自分については静かな観念的生活が欲しいということだ。
これは、しかし自分がまだかなり元気であったときも同様ではなかったかと思う。
ただ、若さというもののなかで自分のそういう存在に気づかなかっただけなのかもしれない。
自分の場合を考えると、たとえば、ドイツのヘーゲルが若い頃、老人とよばれていたようなもので、実はその関心のほとんどは精神的作用にあったと思う。ただそれをどう表していいのかわからなかった。その頃にはブログもなにもなかった。
思うに、若いからといって精神的で無いということが赦されるかというとそれはないと思う。
それに若いといった日々は、30歳までの日々にしかすぎない。
若いというのは肉体的に重力に抗するということであり、やがてそのなかから精神的なものへの憧憬がでてくる。
話はだんだんわからなくなるが、愛の本質は精神であると思う。
ただ、そうではないという世界が今日どんどん膨大化している。
今の自分は、観念をとばして山の上を散歩するのが好きである。
そうするとかつて誤解されてわかれていった少女ももどってくるような気がする。
つまり分かれなければその本質はわからないが、分かれないということになると肉体的・物資的現実が眼前にあらわれてきてしまい、愛の本質からとおざかってしまう。
愛の本質はわかりあうことである。自分のほうばかりが精神的になってもはじまらない。
愛の本質は精神的にお互いがなることである。
愛の破綻にはその精神性を信じることができなくなったときである。
そして愛の精神性を疑わせるのが悪魔メフィストフェレスである。
愛の回帰が精神性によって果たされる。
最近、重力のことを考えていた。
今の地球の重力がもっと大きかったら人間は二本足で立っていなかったかもしれない。
そうしたら人間のそもそも文明は生まれたろうか。
今の時代、ほとんどの人が現代文明という疲労と疲弊の代名詞のなかで疲れ果て毎日眠っている。
ある意味、現代人は重力の重みにうちひしがれているのかもしれない。
だから、こんな時代には重力に反抗する夢の存在が重要だ。
愛の本質は、聖なるものか、それとも聖なるものもか。
愛の本質は反重力である。
その本質は夜は夢のなかかもしれないが、昼は観念の飛翔だ。
現代人は物質文明を極致にまでおしすすめて、物質の豊満していない世界など思いもよらないようになった。
そして、それは自分たちの生活すらも世俗化させてしまった。
するとどうなるかといえば、物質的なものしか信用できない。ところが、さらに相手のことも物質的な人間としてしか想像できなくなっている。年を経て思うことは、ともかく自分については静かな観念的生活が欲しいということだ。
これは、しかし自分がまだかなり元気であったときも同様ではなかったかと思う。
ただ、若さというもののなかで自分のそういう存在に気づかなかっただけなのかもしれない。
自分の場合を考えると、たとえば、ドイツのヘーゲルが若い頃、老人とよばれていたようなもので、実はその関心のほとんどは精神的作用にあったと思う。ただそれをどう表していいのかわからなかった。その頃にはブログもなにもなかった。
思うに、若いからといって精神的で無いということが赦されるかというとそれはないと思う。
それに若いといった日々は、30歳までの日々にしかすぎない。
若いというのは肉体的に重力に抗するということであり、やがてそのなかから精神的なものへの憧憬がでてくる。
話はだんだんわからなくなるが、愛の本質は精神であると思う。
ただ、そうではないという世界が今日どんどん膨大化している。
今の自分は、観念をとばして山の上を散歩するのが好きである。
そうするとかつて誤解されてわかれていった少女ももどってくるような気がする。
つまり分かれなければその本質はわからないが、分かれないということになると肉体的・物資的現実が眼前にあらわれてきてしまい、愛の本質からとおざかってしまう。
愛の本質はわかりあうことである。自分のほうばかりが精神的になってもはじまらない。
愛の本質は精神的にお互いがなることである。
愛の破綻にはその精神性を信じることができなくなったときである。
そして愛の精神性を疑わせるのが悪魔メフィストフェレスである。
愛の回帰が精神性によって果たされる。
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