時の喫茶店

趣味は歴史そして哲学 自然の中に溶け込んでいく心を追い求めたい

美しい人のこと

2014-10-30 19:04:44 | 日記
思うにブログを書き始めたのが遅いのではないか。
あと10年早ければ、と思うが10年前の自分は今の心境ではとてもない。
思うにカントが『純粋理性批判』を著しヨーロッパ中を衝撃の海に巻き込んだのは彼が60歳のときのことだ。
そしてそれから一つの難問にぶつかりそれに対する自分なりの解答を導きだすに10年かかっている、のを見ると、今の自分の状態は決して遅くないし、とも思う。
学生のときにシュヴェーグラーの『西洋哲学史』を読んで人生が変わるほどの感動を覚えたのは、仙台での冬の夜。
大きい街とはいいながら貧しい東北を背景とした学徒仙台には、新幹線が開通した華やかさの隅に、地味で堅実な哲学的というか歴史教養的な空気がまだ十分に残っていた。
上記の本は、東京大学に赴任した外国人教授が教科書に用いたものだそうだが、今でもカントを知るには第1級の本であると思う。
自分は理解力が遅いというよりかは、東大の先生の本は言葉が難しくてほぼ読めないので、自分のわかる範囲の本を探す必要がある。
カントは時間と空間の軸により感性が悟性に昇華されるようなことを言った。
ただしこの悟性は難しい翻訳語であり、理性と道徳性のあわさったものであるようか。
時間軸に空間軸を加えると、それは二次方程式のX軸・Y軸の平面であるようだ。
だが、人の意識がなにかにであって質的に大変動をおこすことをカントは説明できなかった。
そして、それをカントなりに解決したのが構想力という概念である。
つまり、たとえば10年前に自分がブログを開始しても今見るような観念の大変動、を経験していない限り現在のブログを生み出すこともできず、現在とのつながりもない。構想力の拡大についてみるならば、自分の今は過去と完全に断絶している。
ある意味カントが60歳になって生み出した哲学は、彼がそのときにならなければ生み出せないものであったのかもしれない。
自分の今のこころを大切にしたい。
書くことはたくさんありそうで実は全然ないのかもしれない。
楽しいことも書きたいが、後回しになっている。が、ちかぢか書きたい。
思うに美の衝撃こそはおそらく地軸的展開なのであろう。
「美しい人」という言葉はなにか大江健三郎氏のことばづかいを思い出させる。
最近、北杜夫氏の『楡家の人々』を第三部途中で放棄し、大江健三郎を読み始めたらわけもわからずおもしろい。
このわけもわからずおもしろいのがノーベル文学賞の原因ではなかろうが、なにかすごいものがある。
美の極致としてニケを見て以来の美の衝撃のなかにいる。
『廃市』と大江健三郎と『ダブリンの市民』をごっちゃにしたような、そんな感覚なのかもしれない。
しかし、ジョイスもわからない。『ダブリンの市民』はいいが、ほかは全然わからない。
アイルランド文学のイェイツもわからない。人生をずっとケルトの妖精と過ごす精神もわからない。
ただわかるのは彼が「こんな美しい人がこの世にいるとは思わなかった」という女性に振られ続けて20年以上も経ったということだけか。
自分もそう思っているからだが。イェイツのように妖精と一緒に住むのはできないのでささやかにアンティークをみて過ごしている。
仙台の駅の冬の風景に、チアガールたちが受験生を応援するというのがあるらしい。ルーズソックスをはいてミニスカをはいているその姿を写真でみると「完全ににいっちゃってる」という表現がふさわしい。人間はなにか楽しいこと、それ以上になにかにおいていっちゃってるのがなにか人生の一条の糸としてある。
自分も美しい人のことでいっちゃっているのかもしれない。
だから眠いのにこんなことを書いてひとりでいっちゃっている。
さすがに11月になろうとしている。寒くなった。

コメントを投稿