時の喫茶店

趣味は歴史そして哲学 自然の中に溶け込んでいく心を追い求めたい

古今和歌集

2015-01-28 19:20:42 | 日記
 日本の文化は縦書きの文化であると思う。
思うというのは、このブログをはじめ今やほとんどの文章は横書きで書かれているから。

けれどもどうであろうか、自分は時々、無性に縦書きの文章を書きたくなる。
縦書きでは、書くというより、綴るといった感じか。

たとえば、月が照っている、こう書くと、その月のしたで水が揺れている。
しずまりかえったあたりで、あなたのことを思っている。

そういうただの文章も書ける。
それが横書きだと、そうはいかない、横書きは論理の言葉であるから。

縦書きでは、千々にものこそ思えけり、といった感じで、論理以前の日本の感性にもどれるような気がする。
そして、そのような日本の感性もわからない女とはさよならだ、と思ってしまう。

論理ですべてを覆おうとする現代文明には疲労と疲弊の文明という感じがする。


それを思って図書館によったときなど、いろいろながめているが、最近、ふと万葉集を図書館で読んでいた。

正岡子規から万葉集に再び入ったのだが、どうもなにかが違う気がする。

もっと草食的なというか、理知的なというものを求めていた。

なぜ理知的かというと西洋文明に対抗するには、どっか理知的なものではないとという心の欲求があったような気がする。

現代の日本人の感性はいったいどうなっているのだろう。

大都会に住んだこともなく、棲もうとも思わず、いまは山のふもとに棲みたいと思っている。

東京の人たちは自由でいい。流行も最先端が有り、文化もあふれるばかりに存在する。

ただ、どうも自然というか、田んぼがないと自分はやっていけない気がする。

どこの国の文化かもしれずに学ぶことができない。

そのどこかの国になることに抵抗がある。

そんなとき、ブックオフで見つけた古今和歌集、それも岩波文庫の全訳なし。

手にとってみた。

すばらしい。

日本の心がここには輝いてある。

最近、思考の地平線を拡大しつづけて、こころがまとまらなかった。

でも、しばらく生きていけそうだ。

風が吹くとき

2015-01-13 19:18:28 | 日記
風が吹くときあらわれるもの、それは風の又三郎。
宮沢賢治の物語は、東北人ではない自分にとって、なぜか謎だ。
早池峰山のなかの森のなかを思わせるような動物たちの集まり。
ただ、風が賢治にとっての物語のきっかけになっている。
風は、賢治にとって生者の世界と死者の世界を渡すものになっているようだ。

ドドドドドド
どどどの歌、
又三郎は人なのか、風の妖精なのか、それとも死者なのか。

賢治の物語は、なぜかどこかわからないようにつくってある。
賢治は、もはや人にわかってもらうために書いていないようだ。

人は人にわかってもらいたい。
それは、自分が思い出す人にだ。

賢治は誰にわかってもらいたかったのか。
若くして死んだ妹にだろうか。
というか妹も賢治とどこかおなじ感性をもっていたのかもしれない。

どっかに出会う人、その人には自分をわかって欲しい。
でも、出会い、そして気づきは、気づいた時には、もう遅い。

いつか風が吹くとき、出会いだったのがわかる。
そこに帰っていくものがあること、それが人が人にひかれるすべてだ。

自分のこころはどこをさまよっている。

秋、11月ごろ、花巻にまでいったことがある。
大学主催の仏像鑑賞旅行みたいなもので、友人から誘ってもらった。
保険料千円だけだったので、大学本部の古い建物に申し込みに行った。
思えば、あのころは自分に友人というものがいたらしい。

そして、岩手県の黒岩寺などをみてまわった。
花巻によった。
紅葉がとても美しくて、
乗り合いバスの小さいのが、停留所の近くに止めてあった。
ここが終点なので、運転手さんはどっかに行っているのだろう。

お堂のなかには、5㍍もある坂の上田村麻呂像があって、岩手出身の先生が、
土地の老人のことばを標準語になおして説明していた。

そこに、風が吹いた。
銀杏の絨毯がざくざく言った。
風の又三郎がいたのだ。

もし、自分と話したい人がいままであったなら、
それは、きっと又三郎、風の記憶を話してといっているのだ。

冬、木枯らしの季節。

今年はあたたかくて、雪は小雨になって降っている。
風が吹いてくる。
風にあたろう。

求めていたものの、ある場所を風は教えてくれるかも。


思考停止の日本

2015-01-01 17:18:09 | 日記
今の日本をここに至らせたものは、思考停止の言語だろう。
「かわいい」ということばがあるが、ある人にサファイアのお気に入りを見せたら、「かわいい」ということばが帰ってきた。自分としては日本人好みの濃いブルーというかほとんど藍のサファイア、どこか日本海の色を染め上げた加賀友禅の黒のなかの波の花のような思いがする。
最近、007Skyfallを見ていた。007seriesは、あまり動きが緩くてみなかったものだが、このシリーズに関してはおもしろい。とくに上海の夜景など、今やどこの世界が世界の中心をなしているかが、わかる気がする。この映画を見て思うのは、今の日本はやがて中国にのみこまれてしまうのではないか、ということだ。
そもそも日本のさまざまな財政問題、さらには福祉政策の財源の問題の根底には、さまざまな福祉政策を実現する根底には日本の財源があるということだ。たとえば、現在、介護保険の問題があるが、このままさまざなな施設が膨張していったその先に、介護保険の破綻があるのではないかとうことだ。
もともと日本の財政破綻に関する問題は、直接税から間接税にその財源が移行するなかで決定づけられているのではないかということだ。1000兆円をこえる借金に首が回らない国日本。
一方で、ドラゴンのように上昇する中国経済。
日本人が「かわいい」の言葉で思考停止し、あいかわらずの1980年代の道徳観念で自分をしばりつけ、そのせまくなる世界の周囲に縄をはり、動きつづけるアジアの動向から目をそむけて、自己満足の快感に酔っていたころ、中国では、日本よりうんとまじめにお金のことを考えていた。
日本人が「かわいい」の思考停止をしているあいだに、中国をはじめとするアジアは、日本をメーカーだよりの国家に収縮させていった。そして、今、日本のゆとり思考にどっぷりとつかった誰であろうか、日本の製造精神の根底を崩壊させるような自己満足の日本社会を製造しようとしている。
今にかぎらず、日本人の思考の根底には、変な正義を面にしているその内側で金銭万能主義がどこかありつづけている。ソクラテスは、金銭万能のアテネ社会を攻撃しているのだが、日本人の今の金銭万能主義は、それと並行しなければならない、技術革新あるいは確実な知識建設への方向がないのでよけいに始末が悪い。
一方、中国を見ると、金銭万能の派手な側面と、技術革新あるいは新たなシステム建設の面のふたつの側面が並行して走っているような気がする。「かわいい」などという言葉を発している余裕がおそらく中国にはない。正月が来てみると、今年は初詣の人が多い。おそらくこれは不確実な時代を背景としているのだろう。
昨年、自分がいろいろな人たちと接して思ったのは、本を読んでいる人がいない、ということだ。
日本は、しだいに中国に完全に追いつかれていく。その際に、日本は、ふたたび原点に帰って、日本をかつて上昇させた理由である絶えざる技術革新を思い出す必要がある。正直言って正月にマラソンというのはもういいような気がする。その間に流れるCMは新車とパンの宣伝ばかりで、思うに、今の日本は年収200万円の家庭ばっかりで、そんなものを買う者はいない、ということだ。百均の宣伝でもしたほうがよい。
日本は、こうして表面上豊かな振りをテレビのなかではしている。しかし、実際には、それどころではない。
今のお年玉は万円単位であろうが、ずっと昔のまだお年玉が少なかった時代のころのほうが日本は健全であったと思う。そこには、未来に対する希望が見えていた。自分の家がいかに貧しくとも、国家の文教政策がしっかりしており、社会的上昇による社会の流動化を予測することができた。
しかし、今はどうであろう。落ちていくなかで日本は経済大国の表面面を保つためにあがいている。
もういちど日本は、すっかりなにもない状態になって、人生の再出発を語ることが必要ではないのだろうか。