日本の文化は縦書きの文化であると思う。
思うというのは、このブログをはじめ今やほとんどの文章は横書きで書かれているから。
けれどもどうであろうか、自分は時々、無性に縦書きの文章を書きたくなる。
縦書きでは、書くというより、綴るといった感じか。
たとえば、月が照っている、こう書くと、その月のしたで水が揺れている。
しずまりかえったあたりで、あなたのことを思っている。
そういうただの文章も書ける。
それが横書きだと、そうはいかない、横書きは論理の言葉であるから。
縦書きでは、千々にものこそ思えけり、といった感じで、論理以前の日本の感性にもどれるような気がする。
そして、そのような日本の感性もわからない女とはさよならだ、と思ってしまう。
論理ですべてを覆おうとする現代文明には疲労と疲弊の文明という感じがする。
それを思って図書館によったときなど、いろいろながめているが、最近、ふと万葉集を図書館で読んでいた。
正岡子規から万葉集に再び入ったのだが、どうもなにかが違う気がする。
もっと草食的なというか、理知的なというものを求めていた。
なぜ理知的かというと西洋文明に対抗するには、どっか理知的なものではないとという心の欲求があったような気がする。
現代の日本人の感性はいったいどうなっているのだろう。
大都会に住んだこともなく、棲もうとも思わず、いまは山のふもとに棲みたいと思っている。
東京の人たちは自由でいい。流行も最先端が有り、文化もあふれるばかりに存在する。
ただ、どうも自然というか、田んぼがないと自分はやっていけない気がする。
どこの国の文化かもしれずに学ぶことができない。
そのどこかの国になることに抵抗がある。
そんなとき、ブックオフで見つけた古今和歌集、それも岩波文庫の全訳なし。
手にとってみた。
すばらしい。
日本の心がここには輝いてある。
最近、思考の地平線を拡大しつづけて、こころがまとまらなかった。
でも、しばらく生きていけそうだ。
思うというのは、このブログをはじめ今やほとんどの文章は横書きで書かれているから。
けれどもどうであろうか、自分は時々、無性に縦書きの文章を書きたくなる。
縦書きでは、書くというより、綴るといった感じか。
たとえば、月が照っている、こう書くと、その月のしたで水が揺れている。
しずまりかえったあたりで、あなたのことを思っている。
そういうただの文章も書ける。
それが横書きだと、そうはいかない、横書きは論理の言葉であるから。
縦書きでは、千々にものこそ思えけり、といった感じで、論理以前の日本の感性にもどれるような気がする。
そして、そのような日本の感性もわからない女とはさよならだ、と思ってしまう。
論理ですべてを覆おうとする現代文明には疲労と疲弊の文明という感じがする。
それを思って図書館によったときなど、いろいろながめているが、最近、ふと万葉集を図書館で読んでいた。
正岡子規から万葉集に再び入ったのだが、どうもなにかが違う気がする。
もっと草食的なというか、理知的なというものを求めていた。
なぜ理知的かというと西洋文明に対抗するには、どっか理知的なものではないとという心の欲求があったような気がする。
現代の日本人の感性はいったいどうなっているのだろう。
大都会に住んだこともなく、棲もうとも思わず、いまは山のふもとに棲みたいと思っている。
東京の人たちは自由でいい。流行も最先端が有り、文化もあふれるばかりに存在する。
ただ、どうも自然というか、田んぼがないと自分はやっていけない気がする。
どこの国の文化かもしれずに学ぶことができない。
そのどこかの国になることに抵抗がある。
そんなとき、ブックオフで見つけた古今和歌集、それも岩波文庫の全訳なし。
手にとってみた。
すばらしい。
日本の心がここには輝いてある。
最近、思考の地平線を拡大しつづけて、こころがまとまらなかった。
でも、しばらく生きていけそうだ。