快読日記

日々の読書記録

「「老いる」とはどういうことか」河合隼雄

2020年09月30日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
9月28日(月)

「「老いる」とはどういうことか」河合隼雄(講談社+α文庫 1997年 「老いのみち」1991年を再編集文庫化)を読了。

20代のころよく読んでいた河合隼雄をものすごく久しぶりに読みました。
わたしもだいぶおじいさんに近づいてきたという自負があったので。
だけど、新聞連載の短~いエッセイ(たぶん原稿用紙2枚くらい)を収めただけなので、
タイトルに釣られて「どういうことなのか教えてくれー!」と読み始めたら裏切られるかんじです。

これを読んではっきり分かったのは、
わたしは「老いる過程」の具体的な変化やその捉え方を知りたいのであって、
でも、河合隼雄はとっくに老いている(老練と言った方がふさわしい)わけで、
もう「完成したおじいさん」の完成した姿を見せられても、
いやいや、だから、その途中はどうでした?生まれつきおじいさんだったわけじゃないですよね、とすがり付きたくなるけれど、おじいさんは答えてくれない、ということです。


つくづく、昔の人は年をとるのがうまかった気がします。
中年期から、差し迫る「老い」と格闘したり焦ったりモヤモヤしてるのって、今の人ですよね、昔の人はそんなことしない。

目指す老人像として、河合隼雄は難易度が高すぎる、というのが結論です。
お前は一体何を目指しているのか、と聞かれても、もうわかりません。

「ぜんぜんたいへんじゃないです。」朝倉かすみ

2020年09月30日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
9月24日(木)

「ぜんぜんたいへんじゃないです。」朝倉かすみ(朝日新聞出版 2010年)を読了。

いくつか小説作品を読んだので、この作家のエッセイも読んでみたいな、と思いまして。

ちょうど「田村はまだか」でのブレイクを挟んでその前後、という時期の連載エッセイが収まっていて、
静かな夫婦二人暮らしをしていた新人作家妻が、
あれよあれよという間に人気作家になっていく様子が加速度的に描かれています。
周囲の環境もどんどん変わり、そんな中で何度か「よいものを書きたい」という独白があったのがグッときました。

「アンソロジー お弁当。」阿川佐和子 ほか

2020年09月30日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
9月22日(火)

「アンソロジー お弁当。」阿川佐和子 ほか(PARCO出版 2013年)を読了。

「弁当」がテーマのエッセイのアンソロジー。
好きな人のやつだけ拾い読みしようと思って借りたら、結局全部読んでしまいました。おもしろくて。


食卓に並べてあれば普通のごはんなのに、
それを箱に詰めて移動するだけでものすごく魅力的なものになるのはなぜなんですかね~。


あと、このPARCO出版のアンソロジーシリーズ、チョイスもいつもすばらしいです。
今人気がある人だけでなく、図書館の閉架書庫から全集を引っ張り出してもらわないと読めないような作家のものもツルッと入れてあったりして、
このアンソロジー自体が豪華な幕の内弁当みたいです。

「おしゃ修行」辛酸なめ子

2020年08月27日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
8月27日(木)

「おしゃ修行」辛酸なめ子(双葉文庫 2020年)を読了。

おしゃれの修行と、ちょいちょい出てくるスピリチュアルとのバランスが実に悪くて本当におもしろいです。

おもに服と靴と鞄の話でげらげら笑いながら(だから自宅でしか読めない)、
髪型や化粧にはあまり意識が行かないのも不思議でした。

あと意外だったのは、辛酸なめ子がパーティーによく参加する人だということ。
でも、ほとんど誰とも話さず壁際に佇んでいるというのはイメージ通りです。
たしかに修行、っていうか苦行。

パリピは写真を撮るとき、よくキス顔や舌出しをするよね~、あれは何?という考察のあと、
パーティピープルとカルチャーピープルは違う人種であると気づくあたりも遅いです。

「片付けられない女は卒業します」辛酸なめ子

2020年08月15日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
8月14日(金)

「片付けられない女は卒業します」辛酸なめ子(メディアファクトリー 2007年)を読了。

帰宅すると、一瞬「空き巣に入られた?」と錯覚し、
モノの山をまたぎながら移動するような部屋、
それはまったく他人事とは思えないありさまなんですが、
さすが辛酸なめ子!と感心するのは、
その解決策が“新しくマンションを買って引っ越す”であるところでした。
女の人生において、引っ越しこそ出産と並ぶ最大のデトックス!という名言にも納得です。

修羅場と化した部屋→新しい部屋探し→怒濤の引っ越し→新しい部屋のインテリアにドはまりする、という展開と、
臆病すぎる結果大胆になってしまうなめ子の魅力で一気読みです。
ちょいちょい出てくるスピリチュアルワードと皇室情報(紀宮関連)、
ものすごく極端な思考と行動にときめきます。

「いかがなものか」群ようこ

2020年08月03日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
8月3日(月)

「いかがなものか」群ようこ を読了。

なんかこう、ご隠居の説教みたいだし、正義感がすごいです。

例えば、おばさんが「女子会」という言葉を使うことに異議をとなえている(っていうか怒ってる)けど、
年齢が上がるほど、そこでいう「女子会」は自嘲であり、ふざけて言ってるだけで、
そんな目くじら立てなくてもねえ。

と言いつつ、その風紀委員みたいなカタブツ感もおもしろいです。

あと、表紙や扉のイラスト(元祖ふとねこ堂)がめっちゃいい!

「介護うつ」清水良子

2020年08月02日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
8月2日(日)

「介護うつ」清水良子(ブックマン 2009年)を読了。

わたしの介護生活も4年めに突入しまして、
怒涛の1年めに比べたらだいぶ平穏な今日この頃なんですが、
そんな今だからこそ、後学のためにも読んでおこうと思いまして。

亡くなった清水由貴子さんの実妹の手記です。
この妹さんと二人で、お母さんの世話をしていたんですね。

タイトルは「介護うつ」ですが、
うつの症状がどんなものだったかについてはそれほど触れられていません。
(そういえば、ちょっと様子が変だった、というかんじ)
ざっくりいえば「思い出話」と「事件の顛末」が語られています。

どの家にもそれぞれ事情があるから、一概にああだこうだは言えないけど、
この本から学ぶとしたら、
辛かったりしんどかったりしたら、とりあえず誰かに愚痴れ!ということです。

10代のときから一家の大黒柱として仕事をし、家まで建て、昔からずっと体が弱かったお母さんをみてきて、
なんというか「もういいや。もうだめだ。」みたいになることもあるだろうな、と理解できます。
勝手な想像をゆるしてもらえるなら、
介護がしんどくて死を選んだという単純な話ではなく、
もっと複合的にいろんな要因が絡み合った挙げ句のことだと思いました。

愛読していた五木寛之の本には、書きかけの読者カードが挟まっていて、
短いそのメッセージを見ると、
9歳でお父さんを亡くしてからずーっとひたすら頑張ってきて、
やっと50歳手前まで来たところに、
お母さんの介護は“最後の藁”になってしまったんだと察します。

「徹子の部屋」に出たときには自らを「人に相談するってことができない」と分析していました(読後、Youtubeで見た)が、
人に相談するってことは、ある程度現状を把握してまとめる作業が必要なので、
それができたら解決まではあと1歩、なんですよね。

福祉の世話になることすら申し訳なく感じてしまうような生真面目な性格が、悪い方に作用して招いた不幸だと思いました。

「ふたりの山小屋だより」岸田衿子 岸田今日子

2020年05月24日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
5月22日(金)

「ふたりの山小屋だより」岸田衿子 岸田今日子(文春文庫)を読了。

岸田姉妹のエッセイや日記が交互に収まっていて、
読むうちに、どっちの文章か分からなくなっていくのでした。
子供のころから10代後半くらいの二人の写真も、たまに見間違える。

じゃあ何もかもそっくりかと言えばそうではなく、
その後も山小屋に住み続けた社交的な詩人の姉、
どちらかといえば人見知りなのに都会で暮らす女優の妹、という取り合わせなのも不思議でおもしろい。

北軽井沢の山小屋暮らしには、三島由紀夫をはじめ、さまざまな芸術家や学者や地元の人たちが登場して、意外とにぎやかでした。

岸田今日子17歳当時の日記なんていうレアな文章もあって、
日常のささいなもの・小さいものを見つめながらの生活と、それを捕らえる心的視力のよさが読み取れます。


巻末、谷川俊太郎との鼎談では、衿子さんを「岸田さん」と呼んだり「衿子さん」と言ったりしています。ふふふ。

「私の暮らしかた」大貫妙子

2020年05月16日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
5月15日(金)

同じ本を繰り返し読む、ということをしなくなって久しいけど、
ふと「私の暮らしかた」大貫妙子(新潮社)を手に取ったら一気に読み終わってしまいました。

この本(に限らず大貫妙子の本)は、読んでる最中の心地よさがたまりません。

もちろん内容も充実してるんですが、それ以上に読んでる間すごい幸福感がある。

毅然とした人だと思えば、ハラハラするほど脆いかんじもするし、でもやっぱりキリリとしていて、やっぱりすてきですなー。

そういえば、IMALUって大貫妙子に似てますよね~。

「いやよいやよも旅のうち」北大路公子

2020年05月16日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
5月14日(木)

自粛生活継続中。

それで、“読書の合間の読書”みたいなことになる。

他にすることないのかなー。
ないなー。

それで、全然アクティブじゃない人がアクティブな旅を強要(?)されたらこうなる、という「いやよいやよも旅のうち」北大路公子(集英社文庫)を読了。

北海道で犬ぞり、山梨は樹海と富士急ハイランド、岩手の花巻、三重では伊勢神宮、香川のこんぴらさんと来て、最後は沖縄の海。

自転車やシュノーケリング、絶叫マシンなどにしつこく嫌がるのもおもしろいけど、
やっぱり北大路公子はその“脳内”がおもしろいので、
あちこち引っ張り廻すより日常生活を送ってもらいたい。

いや、むしろ“缶詰め”にしてずーっと妄想を書き綴ってもらいたい、絶対読む!

「真っ赤なウソ」養老孟司

2020年05月10日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
5月6日(水)

ぽちぽち読んでいた「真っ赤なウソ」養老孟司(PHP文庫)を読み終わる。

オウムの事件当時、みんなが首をかしげた「優秀な理系エリートがなぜ?」という疑問に対して、
池田清彦が、“一見正反対に見える宗教と科学だけど、両者を突き詰めると、全てをコントロールしたい(できる)という地点で重なりあう”という話をしていました。

養老先生は昆虫マニアで解剖医の“ザ・理系”であるけれど、
その“理系エリート”たちとは対極のところに立っています。

同じものを学び、同じもを目の前にしたとしても、そこから何を得るかで人間が決まってくるのか~と思うと、
ちょっと目が覚めるというか、
ぼやぼやしてたらいかんなーという気になります。
気になるだけですが。

「日本衆愚社会」呉智英

2020年04月07日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
4月6日(月)

タイトルに“衆愚”とはあるけど、
呉智英が昔からずっと批判しているのは、わたしたち庶民ではなくて、いわゆる知識人とか文化人とか言われる人たちでした。

発端のひとつは彼らの言葉遣いが不正確なこと。
そして、その背景には、ちょちょっと辞書を見たらすぐわかるその確認すら怠る横着ぶりがあり、
それでも少しでも難しめの言葉を使って文章をかっこよくみせてやれという見栄がある。
そういうのが大嫌いなんですね。

それから、自己の言動の矛盾に無自覚な人にも厳しい。
たとえば、“反戦運動家”たちが、関ヶ原古戦場を観光資源としてお祭りさわぎをすることには大賛成なのはなぜだ、とか。

そう批判されたらほとんどの“大人”は苦笑いをして、たしかにそうだね〜でごまかすでしょう。

そう。呉智英はそういうごまかしが我慢できない、中島義道に通じるものがある。


そして、世の中の欺瞞や偽善をガンガン攻撃してくれる呉智英に対して、
20年前には「スカッとする〜!」と感じていた自分が今はいないことに気づいて、
あ、わたしも愚かに年をとってしまったんだなあ、とため息をつく今日このごろです。

「ロスねこ日記」北大路公子

2020年03月27日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
3月26日(木)


どうしてこんなことになっちゃったかというと。

さかのぼること2週間ほど前、
本屋でこの「ロスねこ日記」(北大路公子 小学館)を見つけ、
あ!北大路公子の新しいやつだっ!と、ちょろっと開いたら、
猫を亡くし「心にぽっかり空いた猫の穴は、脳内猫や他人の猫写真では埋めきれないのだ。私は一生、この穴を抱えて生きて行くしかない」、
という一節が目に飛び込み、慌てて本を戻しました。

うちの猫がいよいよ弱ってきたと感じていたころで、
この調子で北大路家の斉藤さん(猫の名前)を悼む話が続くなら、とても心穏やかには読めないと危惧したからです。

猫がいなくなることなんか考えたくもないわ!と現実から目をそらし、
「紀ノ川」(有吉佐和子)、「最後の付き人が見た渥美清最後の日々」他数冊を買って本屋をあとにしたのでした。


ところが、その数日後の朝、
寝たままの状態で死んでいる猫を発見。

そのあと1週間ほど猫の画像や動画を見て暮らしたあと、
ネット書店を開いてぼーっとしているとき、
「今なら読めるかも」と思って「ロスねこ」もポチッとしたのです。

悪いことや悲しいことは「来る!」と怯えてるときが一番しんどくて、来てしまえば諦めもつくというもの。


そしてその日の夕方、
枕元の本の蟻塚を片付けていたら、
「紀ノ川」の下にこの本を発見。

一瞬、頭の中が真っ白になりましたが、
つまり、
あの時、本屋で、手放さず、レジで、金を払って、買ってきてしまって…いた…。

自分の行動がすっぽり記憶から抜け落ちるって、こんなに怖いことなんですね。
もうだめだ。


そんなわけで、同じ本が仲良く2冊並ぶはめになりました。

気を取り直して、すぐ読みました。
(1冊だけ)

キミコが心に空いた猫穴を埋めるべく、植物を育ててみる、という話。

もちろんおもしろかったです。

植物の育成を軸に、亡くなった猫のことや、ご両親の体調やいろいろあって、なんだか知らぬ間にテーマが“生命”みたいになっていて、思いがけずじーんときたラストでした。

それにしても、
周知の通り北大路公子の文才は賞賛に値するものですが、
とくに擬人化がうまいったらない。天才か。

「わたしの流儀」吉村昭

2020年03月03日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
3月1日(日)

「わたしの流儀」(吉村昭 新潮文庫)を読了。

実直で、ちょっとカタブツなくらいの人柄がにじみ出ています。

最初はこの、人柄と作品との関係にギャップを感じていたけど、このくらい真面目だからこそ、あんな凄みのある作品が書けるんだと気づきました。

普段穏やかで真面目な人ほど、怒らすと怖いでしょう、そういうかんじ?

警察官や配管工事の人に間違えられるのも、この人がしっかりした堅気の人間である証拠で、堅気が心底本気を出したらハンパなヤクザ者なんか適わないということなんではないか。

そして、いくつかの小さいエピソードには「あ、あの作品のあれだ!」と思わされ、なんだかにやにやしてしまいました。

でも、まだ吉村昭4冊くらいしか読んでないから、このエッセイもっと先のお楽しみにしてもよかったかもしれないです。