快読日記

読書とともにある日々のはなし
メッセージはこちらまで kaidokunikki@gmail.com

「熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録」井川意高

2014年01月25日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《1/16読了 双葉社 2013年刊 【手記 大王製紙前会長 カジノ】 いかわ・もとたか(1964~)》

大王製紙前会長の手記。

御曹司として生まれ育つって、うらやましい反面、なんだか孤独みたい。
何か困難にぶち当たったとき、「みんな似たようなもんだ。おれも同じだ」っていう逃げ(なぐさめ)が許されなくて。

「大王製紙で仕事をしていて「楽しい」と思ったことは、実を言うと一度もない」(262p)

創業者の息子であるお父さんがとにかく完璧な“強い父”として君臨しているのが印象的でした。
大赤字を抱えた子会社を任された意高氏が見事に立て直したのに、後になってそれがすべて父親のお膳立てどおりだったと知ったという気の毒なエピソードも。
さらに、社内で同じ立場の人間がいないから、弱さやダメさを分かち合う相手もいない、仲間と一緒に苦労を背負って乗り越える喜びもない。
交流する“セレブ”たちは金のにおいに集まってきているだけ。
本人に寂しいという自覚がないからよけいにつらい感じがします。

ギャンブルにはまった理由としては、
生育環境に問題があるんじゃないかとか、
なまじ能力があるからこそ、約束された成功じゃもの足りなくて、ヒリヒリするような勝負の快感にのめり込んじゃうんだとか、
そういう解釈を世間はしたがったし、
わたしもそう思ってました。

読んでみた印象としては、それらは半分当たり、半分はずれ、というかんじ。
そして、そうやって分析されることをかたくなに拒む雰囲気に満ちた本でした。

「私は小学生のころから、ゲーム性が高く頭脳プレイを必要とする麻雀を好んできた。その私が、なぜ丁半バクチのようなバカラにはまってしまったのだろう」(170p)

たまたまはまったのがギャンブルだっただけで、他のもの、例えば麻薬だってありえたんじゃないか。
どっちがマシだったのかな。
でも、彼がただの人であれば、たとえバクチにはまっても、106億円あまりの会社の金をつぎ込み、背任で有罪になることはなかったわけで、
そう考えると、“金持ちだからこそできた犯罪”なんですね。

/「熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録」井川意高

「僕の死に方 エンディングダイアリー500日」金子哲雄

2014年01月08日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《12/19読了 小学館 2012年刊 【自叙伝】 かねこ・てつお(1971~2012)》

考え方としては、わたしはこのやり方には賛同しかねます。
自分が死んだあとのことは、遺った人に任せるのが自然だと思うからです。
最低限の準備・処理(主にお金のこと)は必要としても、
戒名や葬儀に関してまでここまで徹底的に準備するのはちょっと。
というのは、遺された家族は喪の仕事をこなして忙殺される中で、少しずつ回復して日常に戻っていくだろうから、そういう機会を奪うのはどうかと思うわけです。

しかし。

この“旅支度”があったからこそ、筆者は告知から最期の時間を生きられたのかもしれません。
恐怖や絶望や悲しみを、かりそめとはわかっていても遠ざけられたのかもしれない。
旅支度をしてるうちは旅立たないわけだから、この作業がずーっと続くことをどんなに願っただろう。
そう思うと、なんとも言えない気持ちになります。

この本、感想文まとめるのにだいぶ時間がかかりました。
わたしも1971年生まれです。
筆者の中高生時代のエピソードは懐かしかった。
そう。カセットテープ、必需品だったもんなあ。
「人生における早期リタイア制度」を利用するにはあまりにも早すぎました。

/「僕の死に方 エンディングダイアリー500日」金子哲雄

「捨てる女」内澤旬子

2014年01月07日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《1/4読了 本の雑誌社 2013年刊 【日本のエッセイ】 うちざわ・じゅんこ(1967~)》

“捨てる快感”に取り憑かれた中崎タツヤ「もたない男」にはほとんど共感できなかった(けど、すごくおもしろかった)わたしですが、内澤旬子の気持ちはよくわかる気がします。
ド●・キホーテのようにぎっしりモノが詰め込まれた場所が嫌で、あー!気持ち悪い!とか言うクセに、自分の部屋はまさにそれ、という事実から目をそらし続けた長い年月よ。
たしかにビジネスホテルみたいな部屋で暮らせたらどんなにいいでしょう。うっとり。

それはともかく、本書は乳がん・離婚といった人生の一大事との格闘と同時進行で、あふれるモノとの決別を果たした顛末。
旧作「身体のいいなり」「飼い喰い」の裏ばなしとしても読めて、「ああ、あのときはこうだったのか」という感慨もひとしおです。

筆者を圧迫する膨大なモノ(のメインは書籍と溜まったイラスト原画と製本材料)とすっぱり別れ、さっぱりした部屋を手に入れたあと、彼女が生き物を求めるという終盤には不思議な感動がありました。
何かを手放せば、何かを得る。
では、わたしもここで断捨離じゃ!
…と宣言したいところですが、後悔するだろうなあ。
しかもそれを後々まで引きずるだろうなあ。
想像しただけで目がうるんでくるよ。
だめだ俺。

そういえば、テレビで“片付け名人”みたいな人が、モノを捨てるってことは、過去・現在・未来の自分との対話だ!って言ってるのを見て、何を大げさな、と笑ったけど、あのセリフは正しい。
決断して動く。
簡単なようでなかなかできない、踏ん切りがつきません。

あ、自分の話で終わっちゃった。


→「もたない男」中崎タツヤ


→「身体のいいなり」内澤旬子

→「飼い喰い」内澤旬子

→「世界屠畜紀行」内澤旬子

→「おやじがき」内澤旬子

/「捨てる女」内澤旬子

「ビロウな話で恐縮です日記」三浦しをん

2013年10月17日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《10/16読了 太田出版 2009年刊 【日本のエッセイ】 みうら・しをん(1976~)》

「「方言か造語かわかりませんが、母親って自分だけの言葉遣いをしますよね。うちの母は『ずんだくれる』といいます。
「それはいったい……?」
「『ずり下がっている』という意味です。母に言わせるとルーズソックスは、『あんなずんだくれ靴下なんて履いて』とのことです」」(190p)

これは友人あんちゃん(三浦しをんのエッセイにこの人が登場するとなぜだか安心する)の話。
たしかに。
うちの母も母語を連発します。
高いヒールなんかで足首をひねっちゃうことを「ぐりんこする」、聞きようによっては「ぐりんこんする」とも言いますが、母以外にこの言葉を使う人にまだ一度も会ったことがありません。
誤用も多い。
例えば「見るに見かねて」を「見ずに見かねて」と言います。
見てないのに見かねちゃう、よほどのことですね。

こういう、どうでもいいけどおもしろい話というのが脳内の6割強を占めているのがわたしたち。
…って一緒にしたらいけないですか。

ブログですでに読んでるのにまた読んじゃう、寝る前とか休憩時間とかにぽちぽちと読んでくすくす笑うのにふさわしい1冊です。

最近ブログの方は、たまにしか更新されていないようです。
それも告知のことが多い。
ちょっと寂しいですが、しかたないですね。


/「ビロウな話で恐縮です日記」三浦しをん

「とりあえず今日を生き、明日もまた今日を生きよう」なだいなだ

2013年10月09日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《8/29読了 青萠堂 2013年刊 【日本のエッセイ】 なだ・いなだ(1929~2013)》

がんの告知を受けたところから始まるエッセイ集。
ブログで発表された文章が多いせいか、若い頃のしつこさやねばりが抜けている印象を受けますが、
それでもその気骨みたいなものはビシビシ伝わりました。
巻末に収められた講演もうれしい。
これまでの仕事の成果を振り返るような記述もあり、なんだか長いお別れの手紙みたいな本になっています。

そういえば、若いころの本に「生きがいなんか必要ない」という話がありました。
生きがいというのは海に浮かぶ木材の切れっぱしみたいなもので、自力で泳げるうちはむしろ不要のもの、それにしがみついて泳ぐようになったらおしまいだ、という主旨だったような。
だいぶ自己流な表現になっていますが大きくはズレていないと思います。
そして、なだいなだこそそれを実践した人だと確信しました。
無神論を通し、とことん理性と理知の人であり続けた厳しさと強さ。
「とりあえず主義」を標榜し、包容力とユーモアで読者を導いた情の深さ。

そして、性別も年齢も国籍も問わず、誰もがとりあえず今日を生き、明日もまた今日を生きるしかないんだ、と再確認したところで読了です。

/「とりあえず今日を生き、明日もまた今日を生きよう」なだいなだ

「空き巣なう プロの空き巣が「この道半世紀」を語る」田岡大介

2013年08月18日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《8/17読了 第三書館 2013年刊 【手記】 たおか・だいすけ(1940?~)》

久しぶりの大ハズレ。

タイトルは悪ノリだとしても、副題はおもしろそうだったのになあ。
いきなり“強盗に比べたら空き巣は上等だ。被害者だってすぐ忘れる”という信じられない言い草で始まるので嫌な予感はしたんです。
内容も「オドロキの体験談」というにはあまりにもお粗末。
何があっても誰に何を言われても自分の都合のいいように解釈するその了見が気持ち悪い。
侵入先でのやりたい放題はまさに唾棄すべき所業。

そうした内容以上に不快だったのは、この本の作られ方があまりにも手抜きなことです。
表現に重複や矛盾が多くて、誤字や変換ミスが平気で何度も出てくる、とにかく雑なんだよ~。
イライラしました。
それでも、我慢して読んでいけば興味深いエピソードのひとつもあるかと思って読了してしまった自分が憎い。

第三書館? なんだこの会社!

/「空き巣なう プロの空き巣が『この道半世紀』を語る」田岡大介

「安部公房とわたし」山口果林

2013年08月05日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《8/4読了 講談社 2013年刊 【手記 安部公房】 やまぐち・かりん(1947~)》

やっぱりそういうことだったのかー。
かなりせきららな、これが書ける範囲ギリギリなんだろうと思わせる告白本で、正直なところ驚きました。

18歳で、23歳年上の安部公房に誘われたら、そりゃはまるわ~。考えただけでクラクラする。
終始、「安部公房」とフルネームで呼ぶ、その気持ちもなんだか分かる。
師であり、恋人である、その絶妙な距離感が(二人はほとんど衝突しない)、男にとっては居心地いいだろうなあ。

そして、若い頃の山口果林の写真、これが真知夫人に似てるんですよね~、なんだそれ、そもそも好きなタイプの女で、加えて、娘みたいな歳だから、真知夫人のように芸術家同士!対等!ってならなくて楽チンなのか!っていう。
なんかこう、安部公房ふつうの男じゃん!みたいな印象で、ちょっとモヤモヤした。

資料としては、安部公房が他作家をどう評価していたかとか、その死因となった病気のこと、闘病のことなど、一人娘ねりさんが書いた「安部公房伝」では触れられていなかったこともよくわかります。

それからこの本は、安部が離婚できなかった理由を、ノーベル賞をもらうまではスキャンダルはご法度、という出版社の意向だといっています。
山口果林としてはそう信じたいだろうけど、やっぱり安部公房が真知夫人を手放せなかったってのが真相なんじゃないかと思うんです。

何回か、山口果林vs安部真知の修羅場が再現されていますが、どうしても真知夫人の煮えたぎるような苦しみの方に同情してしまう。
安部公房が亡くなって8ヶ月後の月命日にあとを追った夫人のせつない執念みたいなものを感じます。
そして、「愛人」と呼ばれたこの人の執念(記録を残してやる!という)の方はこの本に結実したわけです。
壮絶だ。


それにしても若い頃の山口果林はものすごくかわいい。
野性的で色っぽくて。
「果林」という芸名は安部公房がつけたそうです。
本名は「静江」。
もし安部公房と結婚してたら「あべしずえ」になるとこでした。

「安部公房伝」安部ねり


/「安部公房とわたし」山口果林

「もたない男」中崎タツヤ

2013年07月13日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《7/12読了 飛鳥新社 2010年刊 【日本のエッセイ】 なかざき・タツヤ(1955~)》

例えば、椅子の背もたれを使わないから切って捨てる。

ボールペンのインクが減ると空いた部分が無駄だから切って捨てる。

パソコンもテーブルもソファも片っ端から捨てる。

でも、買い物は好きなので、新製品が出ると買っちゃう。

そして、しばらくするとやっぱり捨てる。

その捨てっぷり(と買いっぷり)は想像を超えてました。
思い出系のモノも迷わず捨てるし、自分の漫画原稿まで捨てちゃうところまで来るとちょっと壮絶です。

この人は、無駄がイヤ、モノを持つのがイヤ、という以上に、捨てることそのものが快感のように見えます。
そこは少しだけわかる。
25年も一緒に暮らす奥さんもすごいです。

藤原智美が何かで取り上げていたので読んでみたんですが、
買っては捨ててを徹底的に繰り返すことに取り憑かれてるとしか思えない、その性癖に加えて語り口も独特で、本当におもしろかったです。

もちろん、本も「もたない」わけで、読後捨てる・図書館を利用する、というのはともかく、読み終えたページを次々に破いて捨てるって!
推理小説とか、あれなんだっけ?ってときに戻れないじゃないですか。
なんて緊張感みなぎる読書なんだ!と感服しました。

/「もたない男」中崎タツヤ

「聞く力 心をひらく35のヒント」阿川佐和子

2013年06月07日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《6/2読了 文春新書 2012年刊 【エッセイ】 あがわ・さわこ(1953~)》

まず意外だったのは、週刊誌のインタビュー連載が始まったきっかけ。
エッセイ連載が終了しての…で、インタビュアーとしての手腕が認められて、というわけじゃないんだそうです。
そこからの試行錯誤っぷり、失敗談(とても率直に書かれている)、そして身についたコミュニケーションの秘訣、「相手が話したいこと」を気持ちよく聞き出す技、各界様々なインタビュイーとの逸話が満載。

北野武の前に付き人が出したおしぼりをきっかけに、あの事故の意味を本人が語り出す場面や、河合隼雄・城山三郎といった聞き上手のエピソードがよかったです。
渡部篤郎はめんどくさい人だ。

阿川佐和子のすごいところは、目の前にいる相手の周波数にすっと合わせられるところですね。
馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、って言葉を思い出す。
かといって、ぐいぐい奥に入り込むような熱や人間臭さとは無縁。
育ちがいいって、こういうことなんだな、きっと。

でも、本人が「語りたがること」より「語りたくなかったこと」や「うっかり口を滑らしたこと」の方がおもしろいに決まってるので、名インタビュアーというとやっぱり吉田豪を押したいんです。
インタビュー後、活字にしないでくれ!って相手に頼まれるような仕事を読みたいです。

あ、そんなの阿川佐和子じゃないか。

/「聞く力 心をひらく35のヒント」阿川佐和子

「犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日」柳田邦男

2013年05月30日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《5/30読了 文藝春秋 1995年刊 【ノンフィクション】 やなぎだ・くにお(1936~)》

仕事で柳田邦男のエッセイを読む機会があって、ふと「そういえば代表作って言われてるこれ、読んでないな」と思ったのがきっかけです。

わずか25歳で生きることを自らやめてしまった筆者の次男(生きていたら今年46歳くらいか)。
彼が脳死と判定されてから心停止までの11日間の記録です。

気になるのは、彼の近くにはキリスト教があり(その教えには懐疑的だったといいますが)、信仰について考える場面は多かったはず。
そんな中、見事なくらい東洋的な思想を避けていることが不思議です。
追い詰められて心が弱っているとき、西洋的価値観や科学的な合理主義は容赦なさすぎて救いにはならないんじゃないかなあ。
彼は、人の役に立つことを切望していたけれど、別に役に立たなくなって生きてていいんだよね。
立派な人にならなくたってかまわないと思うんです。
わたしのようなぐうたら者に言わせれば、むしろそこまで自分自身の価値を高く設定できることが驚異です、厳しい言い方をすれば僭越だ。
ああ、でも、そんな風に思えるのもわたしが40を過ぎたからかもしれないなあ。
生きてたら分かることってあるもんなあ。
やっぱり自殺は、どっちかといえばやめた方がいい。

それから、タイトルにもなっているタルコフスキーの「サクリファイス」。
わたしも同じ頃に見たけど、まっったく意味が理解できませんでした。
筋すらよくわからなかった。
それはそれですごいなあ。
それだけ能天気な小娘だったってことですね。

それでいいのだ。

/ 「犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日」柳田邦男

「この年齢だった!」酒井順子

2013年04月09日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《4/9読了 集英社 2012年刊 【日本のエッセイ 人物】 さかい・じゅんこ(1966~)》

登場する人たち:レディ・ガガ/山口百恵/オードリー・ヘップバーン/与謝野晶子/松田聖子/金子みすゞ/清少納言/ダイアナ元イギリス皇太子妃/マリー・キュリー/アガサ・クリスティ/皇太子妃 雅子さま/持統天皇/市川房枝/マザー・テレサ/安室奈美恵/ジェイン・オースティン/樋口一葉/宇野千代/マドンナ/長谷川町子/紫式部/森英恵/ビアトリクス・ポター/岡本かの子/オノ・ヨーコ/向田邦子/マーガレット・サッチャー

古今東西27人の女、それぞれの“転機”となった年齢を軸に、その人を紹介・考察する“女の偉人伝ダイジェスト”。
女性誌に連載されていたものなので、女同士で“この人の一生はこんなかんじだったのかー。ほうほう。”と語らうみたいな雰囲気です。
彼女たちの人生を批判しない方向で話は進むんですが、そこは「負け犬」の筆者、尊敬してるのか褒めてるのかおちょくってるのか、一筋縄ではいかない底意地の悪さがちらちらとのぞくのも魅力です。
(例えば金子みすゞの項)

「伝記とは、大人にこそ必要なものではないか」(110p)と筆者がいうとおり、
昔から「キュリー夫人」や「エジソン」なんてのを子供なりに感動したりしなかったりしながら読むんだけど、
やっぱり年をとってはじめてわかることが圧倒的に多いわけで、
確かに中年の今こそ、伝記の読みどきかもしれません。
ナイスミドルの女子におすすめ。

/「この年齢だった!」酒井順子

「リハビリ・ダンディ -野坂昭如と私 介護の二千日」野坂暘子

2013年03月23日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《3/21読了 中公文庫 2012年刊(2009年に中央公論新社から刊行された単行本に加筆・文庫化) 【手記 野坂昭如】 のさか・ようこ(1941~)》

72歳で脳梗塞に倒れ、もう10年。
自分の70代を振り返って「みじめ」(216p)と答える野坂だけど、
親身になって介護をしてくれる奥さんがいていいじゃないですか、ねえ。

で、その奥さんが書いた本。
こういう介護ものというのはその衝撃と苦悩、そして、それでも前向きに日々を送る私、みたいな展開になることが多くて、この本も例に漏れず、です。
介護手記を書くことは、気持ちを整理し、「こうありたい自分」を「現実の自分」の上に刷り込む効果があるんじゃないか、と思うのは意地悪でも皮肉でもなく、文章を書くことの効能がこういうところにもうかがえると率直に想像しているわけです。
そのくらい介護というのは心身への負担が大きい。
そもそも介護って、進んだ医療が生み出した新しい行為(形態?)ですよね、「死」なんかと比べたらずっと歴史が浅い。
だから介護手記は次々と出版される。需要もある。
そこは理解できる。

でも、この本にあまたある介護本とは違う価値があるとしたら、それは前向きに介護生活を乗り切る人の話にではなく、被介護者が野坂昭如である、という一点にあるはずで、そういう関心から読むとちょっと物足りないかんじがします。
野坂の読者から見れば、あれだけの言葉の使い手が脳梗塞を病むとはどういうことか、などなどいろいろ考えたくなるから。
しかし、たとえ作家であろうと人間国宝であろうと、家族からしたらただの夫や父親に過ぎないんだから、そういう視点から考察するのは他人の仕事なのかもしれませんね。


/「リハビリ・ダンディ」野坂暘子

「生きる力 心でがんに克つ」なかにし礼

2013年03月10日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《3/9読了 講談社 2012年刊 【手記 食道がん 陽子線治療】 なかにし・れい(1938~)》

読後の印象を一言でいえば“強い男だなあ”です。
死ぬことより負けることを徹底的に拒むんです。
さらにいえば“男なのに強いなあ”かな。
この人の武器は“知性”と“感性”。
“この世に弱い女と強い男はいない。私が強いのは半分女だから。”と言った美輪明宏みたい。
なかにし礼って容貌も思想もマッチョとは違う。
女の一人称で語られる名曲もたくさんある、と思えば北島三郎「まつり」みたいなのを書いたりもする。
自身の中の“男”“女”双方をしっかり自覚しているはずです。
だからこそのしなやかさ、強さなんではないかと。

特に、放射線治療の苦痛のさなかの絶望感--「俺はがんに侵された人間のボディにすぎないんだ。私の感情、個性、知性、意識、意志、というこの私自身を作り上げている最も大切な精神的なものはすべて打ち捨てられ、ボディだけが治療のためのベルトコンベアーに乗せられ、わけもわからず運ばれていく」(88p)--からすぐこんな風に巻き返していくところは感動的でした。

「俺はボディだ。だが、このボディに栄養を送らなくてはならない。(略)栄養とは? それは精神的な歓喜だ。歓喜とは? 感動だ。その日から、私は猛烈な勢いで本を読みはじめた」(91p)

闘病記として読むと、筆者がお金持ちで社会的地位が高いことと、その精神があまりにも強靭なのがあいまって、なんか参考にしづらいんだけど、所々に挿入される引き揚げの経験談がすごくよかったです。
こういう幼年時の体験と、生来の聡明さ・洞察力が、「強い男」を作ったんですね。

運命さえも力(彼の場合は知力と精神力)でねじ伏せるみたいな考え方はすごく苦手なんですが、それでも、読んでよかったと思いました。

「人というのは、自分が患者になった途端に、自己の判断力や決断というものを放棄しがちなものだが、自分が自分であることを決してやめてはいけない。もし自分でなくなったら、生きながらえたって意味がないではないか。自分、自分、かぎりなく自分中心であれ」(133p)

各章にカフカのタイトルが当てられている理由は読み始めるとすぐわかります。
これは闘病ものというより、不条理劇だから(あ、結末は不条理じゃありません)。

/「生きる力 心でがんに克つ」なかにし礼

「無名の女たち 私の心に響いた24人」向井万起男

2013年02月12日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《2/12読了 講談社 2012年刊 【日本のエッセイ】 むかい・まきお(1947~)》

例えば、仲のいい女3人で食事しようというときに「あ、あの人も呼ぼう!」って誘われる男はなかなかいないと思うんだけど、それがマキオちゃんです。
ステキでしょ。
マキオちゃんがイキイキとした女性たちと意気投合するのは当たり前。
女だからといって見下すわけでも変にいたわるでもなく、本当に対等に自然につきあうんですね。
しかも結構言いにくいことを言い、訊きにくいことを聞く。
でも、これも女からしたら潔くて楽チンでうれしいことかもしれない。
まあ、人によるだろうけど。

ここに登場する24人の女性たちは年齢も仕事も性格もバラバラ。
共通点をあげるとすれば、みんなキリッとしていて、物怖じせず、裏表がない、いわゆる“女に好かれる女”ってところでしょうか。

わたしもマキオちゃんに「イイ!」って言ってもらえるような人間になりたいなあ。

/「無名の女たち 私の心に響いた24人」向井万起男

「お友だちからお願いします」三浦しをん

2013年02月01日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《1/30読了 大和書房 2012年刊 【日本のエッセイ】 みうら・しをん(1976~)》

小説作品の方はもうしばらく読む気がしないけど、エッセイは好きだぞ。
という認識だったので、久しぶりのエッセイ新刊に期待していました。

でも、結論からいうとイマイチ。
若い頃の(今も若いけど)オタク女子独特の暴発するようなバカおもしろさが好きだったんだけど、
よく言えば練れてきた、
悪く言うと…キレが悪くなった?
重くなった?
うまくなった?(よくない意味で)
例えば、今お気に入りの津村記久子のエッセイと比べたら、さすがこっちは芸が達者だわ、とは思う。
“巧い”文章と“旨い”文章は必ずしも一致しないってことかな。
あとは、初期のエッセイからよく登場していたお友達の「あんちゃん」とまだ仲良くしているようでよかった。
…っていう感想もイマイチぱっとしないです。

んー。
こういうことがあるたびに、変わったのは作者なのか読者なのか、と考えてしまうけど、まあ、両方なんですかね。
どっちも生きてるもんね。
両者とも進歩してるんだ、と思うことにする。
古い読者が離れ、新しい読者がつく、というのも悪いことではないだろうし。
新陳代謝か。
わたしと三浦しをん、別離の時を迎えるのか。
別れる前にもう1冊、同時刊行だった書評本があるようなので、そっちも読んでから考えよう。

→「舟を編む」三浦しをん

/「お友だちからお願いします」三浦しをん