快読日記

日々の読書記録

「おばあさんの魂」酒井順子

2015年08月21日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《☆☆ 8/4読了 幻冬舎文庫 2014年刊(2011年に幻冬舎から刊行された単行本を文庫化) 【日本のエッセイ】 さかい・じゅんこ(1966~)》

橋田壽賀子(90)は毎日1km泳ぐそうですがそれはともかく、「我々はいかにしておばあさんになってゆくべきか」は中年女にとって切実なテーマです。
それを他ならぬ酒井順子が考察してくれるというんであれば、読まねばなりますまい。

本書は、筆者の祖母・綾子さんを筆頭に、がばいばあちゃん、文楽や歌舞伎の「三婆」、いじわるばあさん、森光子、ターシャ・テューダー、瀬戸内ジャッキー、ジョージア・オキーフ、内海桂子、市川房枝、駒尺喜美、小倉遊亀などなど、あらゆるおばあさんモデルの見本市です。

でも、「すごいおばあさん」は生まれつき「すごいおばあさん」だったわけではなく、女の子だったりお姉さんだったりおばさんだったりした時代があるわけで、そこらへんでどう生きたかの「結果」なんですよね。
おばあさんたちの時代、女であることは現実的に大きなハンデで、彼女たちはそれと戦い、乗り越えてきたツワモノです。

あなたはどのおばあさんになりたい?

続編があるとしたら、篠田桃紅、黒柳徹子、緒方貞子なども取り上げてほしいです。

読後得た「どんなおばあさんになるか」の答えは、「今、どう生きているかの中にある!」です。
わたしたちはある日突然おばあさんに変身するのではなく、今歩いているこの道がおばあさんにつながっているんです。

/「おばあさんの魂」酒井順子

「誰も書けなかった「笑芸論」」高田文夫

2015年08月18日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《☆☆ 8/16読了 講談社 2015年刊 【日本のエッセイ 演芸】 たかだ・ふみお(1948~)》

2012年4月不整脈で倒れ、8時間もの心肺停止から生還した高田文夫。
ペースメーカーを入れ、「自力じゃもう心臓ドキドキしないのか。生きてる内に覚えてることを書いとかなくては……。(167p)」というんで書かれた本。

子供のころ近所に住んでた森繁久彌の思い出に始まり、三木のり平、青島幸男、渥美清などのナマで接した芸人たちの回想はもちろんおもしろいし、談志や志ん朝といった「ザ・芸人」以外に、景山民夫や大瀧詠一の項があって感涙。

第二章「ビートたけし誕生」は、その出会いからたった一晩で急激に親しくなるようすはほとんど「恋愛モノ」で、ブレイク直前の閉塞感や焦燥感もひしひしと伝わりました。

随所に挟まれる芸人の年表もおもしろい。
例えば、永六輔の1947年「ラジオに興味を持ち、鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清だった」なんて、高田文夫じゃなければ誰が書く?

この永六輔と渥美清の話にも言えることですが、
この本、終始だれそれはどこそこの生まれでどこそこで育ち…といった“町の子”“東京の子”東京の地名オンパレードの話なんです。
これは地方の子をバカにしてるとかそういうことではなく、「縁」について語っているのだと気づいたとき、高田文夫が書きたいことがわかった気がしました。
子供のころ憧れた芸人との縁、仕事を始めて出会った人との縁、続く縁、途切れた縁。
そう思うとよけいに切ない1冊です。
笑いながら読みましたけど。

/「誰も書けなかった「笑芸論」」高田文夫

「サザエさんの東京物語」長谷川洋子

2015年06月20日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《☆☆☆ 6/5読了 文春文庫 2015年刊(2008年に朝日新聞社から刊行された単行本に書き下ろし2篇を加えて文庫化) 【日本のエッセイ 手記 長谷川町子】 はせがわ・ようこ(1925~)》

「サザエさんうちあけ話」や「サザエさん旅あるき」などのエッセイ漫画を読むと、長女まり子さんやお母さんに比べて出番が少ない三女洋子さんの手記。

最初は町子作品の副読本くらいのノリで、「このエピソードはあれに出てくるやつだ」なんてのんきに読んでたんですが、大学進学を控え、数専科を希望した洋子さんに町子がダメ出しをして、無理やり国文科に変えさせたあたりから、「あ、ちょっと違うかも。これは真剣に読まねば」というかんじになりました。

女性ばかりの長谷川家で、洋子さんは冷静に、母親や姉たちと少し距離を保って暮らしていたという印象です。
一方、自分たち三姉妹を「串だんご」と呼んだ二人の姉の密着ぶりは想像できます。
自分が思うことは姉も(妹も)同じように考えてるに違いない、という絶大なる安心感。
親子とも夫婦とも友達とも違う、姉妹独特の関係かもしれません。
気楽で居心地がよく、絶対裏切ることのない心強い味方です。
しかし、洋子さんは串だんごの3個目になることにずっと小さな違和感を持っていた。なじめていなかった。

還暦近くになった彼女が二人の姉と別れる場面は比較的サラッと書かれているけれど、こここそがこの作品のテーマだと思いました。
激しい気性の長女まり子さんは、洋子さんの決断を最後まで許さなかったそうですが、長谷川町子はどう感じていたのか、とても気になります。
半生を振り返ったエッセイ漫画には、芯が弱そうで本音が見えない女性として洋子さんが描かれている気がします。
本来は理系で理知的な妹にいまひとつ(まり子さんに対するような)一体感が持てないままだったのではないか。
洋子さんの“自立したい”という気持ちも、まり子・町子姉妹の寂しさも、どちらもよくわかるだけに胸が痛む1冊なのでした。

/「サザエさんの東京物語」長谷川洋子

「名人に香車を引いた男 升田幸三自伝」升田幸三

2015年06月10日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《☆☆☆ 6/5読了 中公文庫 2003年刊(「升田幸三自伝 名人に香車を引いた男」朝日新聞社 1980年刊 を文庫化) 【自叙伝 将棋】 ますだ・こうぞう(1919~1991)

「独特老人」のインタビューがあんまりおもしろかったので自伝を読んでみました。

母の物差しの裏に「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」と書き残し、数枚の下着と握り飯だけを持って家を飛び出したのが満13歳。
賭将棋で食いつなぎ、木見金治郎名人に弟子入り。
そこから爽快なくらいグイグイ強さを増していく様子は花登筐の小説のようです。
段位を獲得してからの数々の事件や名勝負、ライバルとの攻防もおもしろかったです。
所々に挟まれる棋譜の意味がわかればもっと楽しめるはずですが、それは仕方ないとして。

そういえばいつだったか、テレビですごく若い面打ちの職人(というか作家)を見たんですが、その人が面に魅了されてプロに弟子入りしたのが6歳なんですよ。
自分が一生を賭けるものを、わずか6歳で見つけるなんて!と驚いたけど、よく考えたら6歳であろうが見つかる人は見つかるし、60歳でも見つからない人は見つからないんでした。

それはともかく、この本いいなあと感じたのは、天性のものにプラス「気づく能力」を持っていて、ささいなことを大きなきっかけに変えることができるところ。

例えば、17歳の内弟子時代、おつかいに出された帰りに転んで豆腐を台無しにして、先生の奥さんに「使いっ走りも満足にできんどって、なにが将棋や」と怒られる場面。

「そうだ、オレが間違っとった。トウフを買いに行きながら、道すがらオレは別のことを考えていた。なぜオレばかりこき使うんだとか、なぜあんな将棋を負けたんだとか、頭の中は雑念でいっぱいだった。そのため用心を忘れ、足もとがお留守になってコケた。これじゃいかん。トウフを買いに出たら、そのことだけ考えなくちゃいかん。「何をするにも集中力を持て」そう思った。一つ、目が開けたんですな」(98p)

カンが強くて攻撃的な一方、きめ細やかな神経を持ち合わせているのが魅力的。
でも、彼の体力がそれに耐えられないところがせつない。

終盤になって、冒頭の落書き「名人に香車を引いて」がまさかの予言になっていて、震えがきました。

/「名人に香車を引いた男 升田幸三自伝」升田幸三

「看護師という生き方」宮子あずさ

2015年05月04日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《☆☆☆ 4/19読了 2013年刊 ちくまプリマー新書(筑摩書房) 【日本のエッセイ 看護師】 みやこ・あずさ(1963~)》

看護師への道を考えている中高生がターゲットということですが、もし、わたしが高校時代にこれを読んだら「うわ、自分にはとてもつとまらないわー!」と逃げ出すことうけあいです。

語られるエピソードはどれもすごくおもしろいし、じんとくるし、厳粛な気持ちになる。
しかし、あまりに生々しい人間の姿というのは、本で読むくらいがちょうどよくて、もし知ってる人の目を背けたくなるような言動に触れてしまったらかなりのダメージを受けるはず。
わたしはそういう未熟なやつなんです。
そこへ行くと看護師というのは本当に許容量が大きい人たちなんですね。
いや、経験がそうさせたのだ、という意見もあるでしょう。
だけど、例えば同じ高3でも、好きなことをもっとやりたいから進学!というやつ(それはわたし)と、一生食いっぱぐれない仕事を得たいから看護師を目指すわ!という人と、そもそもの質が違う気がします。
尊敬する。
しっかりした人生に憧れる。

そうだよなあ、そういう人生もあったんだなあ、と、ぬるま湯の毎日にどっぷりつかりながらぼんやり思うのでした。

/「看護師という生き方」宮子あずさ

「人生をいじくり回してはいけない」水木しげる

2015年04月30日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《☆☆ 4/30読了 ちくま文庫 2015年刊(日本図書センターから「人生のエッセイ」シリーズとして2010年に刊行された単行本を文庫化) 【日本のエッセイ】 みずき・しげる(1922~)》

「私は学校からも追い出され、会社に入ってもうまくいかず、そのたびに殴られたり笑われたりした。戦争で片腕を失くしたりもした。それでも平気だったのは、いつも自分にとって楽しいことを見つけ、自分が幸せになる術を身につけていたからだ」(29p)

「九九%のニンゲンは無能なんです。(略)成功を欲しがるのは、無能なヒトなんですよ。優秀なヒトなら、放っておいても成功しますよ」(207p)

「結局、人というのはそれほど幸せじゃないけれど、それほど不幸せな状態でない、っていうことで墓場まで行くんじゃないでしょうかね」(213p)

「だから幸福ってのは、これは線の引き方かもわからんね」(214p)

なんというか、滞った悪い血液がサラサラ流れ出す名言ですね。
一方、好きなことは徹底的に努力しろ!とも言っていて、「うん。おじいちゃん、僕がんばるよ!」と叫びたくなる。

でも、幸せを感じるのも好きなことをするのも、平和でなくちゃできないこと。
エビちゃん(蛭子能収)が「一番大事なのは自由と金。戦争はそれを奪うから嫌」とか言ってたけど、そういうことですわ。

「確かに勇ましいのは気持ちがいいです。「大和魂」だとかなんとか言ってね。でもね、兵隊に行って勇ましくしてると結局死なにゃならん。戦争もその勇ましさが引き起こしたんですよ」(106p)

ここで語られる水木さんの半生はすでに知ってる話も多んだけど、この何度も繰り返し聞くというのがたまらなくいい。
じんわりじんわりしみてくる話です。
こういう話をしてくれる日本人は絶滅寸前かもしれないですね。
今のうちにしっかり入れて、自分の財産にしたい。
妖怪の世界、虫の世界、南国の世界、つまり、今の自分を取り囲む小さな世界以外の、そうじゃない価値観や常識をもった世界がいくらでもあるんだってことを忘れずにいきたいです。

/「人生をいじくり回してはいけない」水木しげる

「私の暮らしかた」大貫妙子

2015年04月05日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《☆☆☆ 3/21読了 新潮社 2013年刊 【日本のエッセイ】 おおぬき・たえこ》

アルバムを全部聴いてる!とは言えないけど、書籍化されているものは全部読んでます。
この本、今までで一番いい。

大貫妙子の地に足の着いた考え方と生活がよく伝わります。

音楽家の大貫妙子というより、1950年代に生まれた一人の女の人の記録、というかんじ。
だから、その音楽を聴いたことがない人でも関係なく読めると思います。

80歳を過ぎた両親それぞれの人柄も、彼女との関係も、実寸大で書かれていて、それがまた重い直球でずしりと届く。
そして、しばしば登場する野良猫たちもせつない。

生き方ではなく「暮らしかた」というタイトルもいい。
こうしている今もどこかで大貫妙子が「暮らして」いると思うと、なんか心強い。変な言い方ですが、自分もがんばろう、という気になります。

/「私の暮らしかた」大貫妙子

「猫の品格」青木るえか

2014年11月02日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《11/1読了 文春新書(文藝春秋) 2009年刊 【日本のエッセイ 猫】 あおき・るえか(1962~)》

ずーっと犬飼いだった我が家に、震災の前年の夏あたり(だったかな)から猫♀が棲みつきました。
もううち中がメロメロ。
そして、つくづく「動物のお医者さん」(佐々木倫子)のミケの描かれ方はすごいな、と感服しました。
本書でも、小説や漫画作品に出てくる有名猫を挙げた中、ミケがいちばん(猫の実像に近い)!と断言していて、激しく共感。
猫漫画というと大島弓子ですが、映画「グーグーだって猫である」にこう切り込んで(決して責めたり否定したりしてるわけではないんです)います。

「浮き世離れした少女が「困った猫おばさんになっていく」という、そういう物語なのが『グーグーだって猫である』であって、ほのぼの猫マンガなどでは断じてない。
それが小泉今日子だと。
ちがうだろう。
(略)ここは対案を出すべきだ。小泉今日子じゃなかったら誰がやるべきか、誰もが納得のいくキャストを出せば、いずれ誰かがそのキャスティングで再映画化してくれるかもしれないではないか。
代替キャストは考えてある。
中森明菜。」(132-133p)


特に、緒形拳が「猫のように死にたい」と言ったらしい、という話に噛みつくところや、民主党・岡田氏のカエル愛を否定したあたり、青木るえかの“猫”観や“人間の品格”観がよく表現されている気がしました。
そして、彼女の真っ直ぐすぎてかえって屈折して見えるその考えがわかるだけにもどかしさもひとしおです。
というのは、ここで披露される“品格”(飲み屋に現れたゴリラ男の話や、もし猫がお茶席に来たら、という空想で、よーく伝わる)が、わかる人にはあたりまえ、わからない人には一生わからない、という類の話だからです。
まあ、それはそれでいいんですが。

最後にひとつだけ。
なんでこれ文庫じゃなくて新書なんだろう、ってのが腑に落ちない。
まあ、どうでもいいっちゃいいんですが。

/「猫の品格」青木るえか

「日本ぶらりぶらり」山下清

2014年10月01日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《9/29読了 ちくま文庫 1998年刊(1958年に文藝春秋新社より刊行された単行本を文庫化) 【日本のエッセイ】 やました・きよし(1922~1971)》

テレビでは、山下清はみとこう門みたいにしょう体をかくしているので、さい後にばれてしまうので、それが本当かと思っていましたが、ちがいました。
放浪の画家、清のことは日本中のみんなが知っていて、絵をかいてくれ、とよう求するので、人を怒らせたくない清はおうじてしまうので、しかも、多くの人は清に金をくれないので、わたしははらが立ちました。
しばらくして、同じ家に行ったときに、あの絵はありますかと聞くと、人にゆずってもうないとか言いやがる話にいたっては、悲しくなりました。
これは、清の作品が正当な評価をされていなかった証拠です。
清の知的しょう害と、その作品の評価とは、切りはなされるべきだとわたしは思います。
しょう害者のげい術作品“だから”ほめたり持ち上げたりするのはおかしい。
そういう人がいるから、さむらごうちさんみたいなことが起きるわけです。
清の作品は、それ自体がすばらしいし、文しょうもほんとにおもしろいので、こうしてまねをしているのですが、わたしの力ではまったくいけません。むつかしいですね。

この本の中で、わたしがとくに好きだと感じたのは、世の中のぎまんにしょう面からつっこむところと、するどい観さつがん、でも、れっ等感としゅうち心が人一倍強いので最後まで食い下がれないちょっと弱気なところです。

「力道山と話してみたら、肉をたくさん食べるとみえてそばにいると肉のにおいがした」(66p)

「はたちはおとなのはじまりで、六十はおとなの終りなんだろう」(49p)

「人間はあまりいい場所をねらいすぎるとかえって迷ってしまうんじゃないか。欲がでるとおちつかなくなる。ぼくはあまり欲がないから大ていのところでいいと思ってしまう」(150p)

/「日本ぶらりぶらり」山下清

「ひとりぼっちを笑うな」蛭子能収

2014年09月28日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《9/10読了 角川oneテーマ21(株式会社KADOKAWA) 2014年刊 【日本のエッセイ】 えびす・よしかず(1947~)》

「「友だち」を作る努力をするくらいなら、「家族」を作る努力をしたほうがいい」(56p)

「生まれてこのかた、誰かに「嫌われている」って思ったことがないんです。(略)それは、“僕は誰かに嫌われるようなことをなにひとつしていない”からです。(略)それは“他人に余計なことをしない”こと。だだそれだけで十分。だから、僕の場合は、他人に対して余計なことも言わないし、余計な頼み事もしません。もちろん、なにかを言われても反論しません」(79p)

「自分の意見を求められたときは、正直に自分の意見を言ったほうがいいでしょう。でも、そうじゃないときは、自己主張なんてきっとしないほうがいい」(84p)

この本を読みながら脳内を流れていたのは、♪短いこの人生で~いちばん大事なもの~ それはおれの自由 自由 自由~!という清志郎の声。
できるだけ他人と摩擦を起こさないのも、人と群れないのも、金の貸し借りをしないのも、無理な延命を望まないのも、戦争のない国を望むのも、すべては自分の自由のため、という考えはクールかつピースフル(←佐野元春)。
好きな言葉は“絆”とか“仲間”とか無自覚にほざく…いや、おっしゃる人たち=この国のマジョリティとは正反対の主張ですが、それでも「いまの時代は生きづらくない」(120p)と言い切る蛭子さんにはダンディズムすら感じます。


で、ここからはこの本を作った人に苦情。
巻末に「取材構成」として3人の名前が記されているように、この本はいわゆる聞き書きモノなんですよね。
それはいい。
しかし、やっぱりその人の語り口みたいなものはしっかり生かして欲しかったです。
すごく不自然で、“蛭子さんこんなしゃべり方しないだろ”みたいな表現が目立って、終始違和感がありました。
これは吉田豪の蛭子インタビューを読んでるせいでよけい感じることなんだろうけど、例えば「Kitano par Kitano-北野武による「たけし」-」(北野武 ミシェル・テマン著)が、たけしの口調や雰囲気をうまく伝えてその価値を高めたように、語り口って結構重要だと思うんです。
だって、結局それが“文体”になるわけですからね。
編集者(なのか?)が変にスマートな文章に直すくらいなら、1冊丸々インタビューにした方が、その人柄や思想を伝えるのには効果的だったのでは?と感じました。
この本では触れられなかった結婚観や女性観、あるいはちょっとした狂気(のようなもの)もじんわりにじむのではないかと。

/「ひとりぼっちを笑うな」蛭子能収

「蚊がいる」穂村弘

2014年07月18日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《7/11読了 メディアファクトリー 2013年刊 【日本のエッセイ】 ほむら・ひろし(1962~)》

相変わらずの世界音痴っぷりですが、ほむほむも50代に突入したせいか、妙な滋味が出てきていて、それがとてもいい読み心地。
妙な、としか言いようがないけど、世界に調和できない分、地上から数センチ浮いている天使みたいな視点を持っている…と言ってて恥ずかしいですが。
平たく言えば、いいかんじに年をとっているのだなあ、という印象です。
世の中との間にあったへだたりが、むしろ理想的な距離となりつつあるのかなあ。

巻末の又吉直樹との対談もおもしろいんだけど、世界音痴同士の会話はややもすれば病気自慢合戦になりかねなくて、例えば太宰治の魅力は読者に“この人を真に理解できるのは自分だけだ”と思わせることだというから、本書でほむほむと又吉があんまり意気投合して“僕たち同じ種類だよね”って公言しちゃうのはなんだか興ざめかも。
というのはただのファン心理ですね。

そして、なんといっても横尾忠則のブックデザインが素敵。

/「蚊がいる」穂村弘

「創作の極意と掟」筒井康隆

2014年07月16日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《6/28読了 講談社 2014年刊 【日本のエッセイ】 つつい・やすたか(1934~)》

序言の「作家としての遺言」というのは冗談やシャレではありませんでした。
小説家の心構えや技術論などを、自作も含めた古今東西の作品を引き合いに出しながら惜しげもなく説いていて、それは後輩作家(と、これから書き始める人たち)へのエールになっています。

筒井康隆の奇想・深遠なテーマ・悪趣味・諧謔の土台には作家としての誠実さがあるってことがよーくわかります。
いわゆる世界の名作も現在のライトノベルも全く同じ地平に並べて評価するところにも小説家の矜持や公平さを感じました。
どんな職業についても一流になる人なんだろうと思います。
ブログを読んでいると、精力的に仕事をし、健啖家で、高齢であることを忘れそうな日々を送っているようですが、筒井康隆にだって寿命はあるわけで、残りの時間にどんな仕事をすべきか、逆算しているのかもしれません。

もちろん、読者にとっても、示唆に富む1冊です。
“小説をどう書くか”は“どう読むか”に直に関わってくるからです。
身を削って無から有を生み出す小説家の凄さやおもしろさも伝わるし、天才と呼ばれて何の違和感もない筒井康隆が実はどれほど努力の人かもよくわかります。

全力でふざけ、文学と格闘し、いよいよ人生の終盤で、後ろを歩く後輩たちと読者に率直な言葉を残すんだなあと。

/「創作の極意と掟」筒井康隆

「霊能者として生まれて生きて」宜保愛子

2014年05月28日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《5/26読了 講談社文庫 1992年刊(単行本/講談社1991年刊) 【手記】 ぎぼ・あいこ(1932~2003)》

目次「第七章 有名人を霊視する」の項の「派手派手な人-戸川昌子」や「陽気なギニア人-オスマン・サンコン」という霊能者じゃなくてもわかる見出しに衝撃を受け、気づいたときには購入してました(ブックオフで100円だった)。
たぶん本人の手による手記(インタビューを編集者がまとめたものではなさそう)です。

ものごころがつく前から、“この家は火事になる”とか“ここんちのおじさんが死ぬ”とか予言して気持ち悪がられた、という“霊能者あるある”から始まり、成長、結婚、彼女の「霊視」 の話で幕を閉じます。

「「ねえ、愛子ちゃん、うちのおじさん、どこへ行ってしまったのか見てくれないかしら」
(略)
「おばさんちのおじさんはね、今女の人と一緒にいるよ。何だか知らないけど、とても仲良くしているから、早く行った方がいいと思う」
(略)
「玄関が狭くて暗い家で、上がると右にカレンダーがたてかけてある、黒い茶ダンスの家、そこにいるんだよ。でも、おじさんと浮気している人はおばさんと目がとてもよく似ているよ」
と言ったとたん、そのおばさんは、
「あっ、私の妹だ」
と言いながら、涙を浮かべて急いで出て行きました」(172p)

霊との対話を続けた21歳のとき、激しい悪寒と高熱におそわれ、臨死体験のようなものがあったあと、しばらく霊能力が消えた、という経験もあるそうです。

特に何か目新しいことや驚くことはないけど、高橋三千綱の解説にもあるように、その人柄のよさは伝わります。
昔、テレビで彼女が欧米人と英語でバンバン会話しているのを見た記憶があって、ひょっとして留学経験でもあるのか?と思っていたのですが、そこらへんは空振りでした。
男兄弟の話はともかく、全く交流がない姉妹というのも気になります。
まだまだ謎だらけの人です。

その「霊視」の真偽はわかりませんが、細木数子のように人を脅したり追いつめたりしない、普通の人の感覚を持った姿に当時から好感を抱いていて、そのイメージは変わりませんでした。
生きている人間同士の間には“共感”ってありますよね、宜保愛子は相手の生死に関わらず、この“共感”する力が高い人なんだと思いました。

「(略)宜保さんは、いったい何によって救われていくのだろうと考えていた。
誰がこの人を、霊界と現世の仲介役を果たして疲れきっているこの人を、救ってあげるのだろうかと」(245p 解説より)

/「霊能者として生まれて生きて」宜保愛子

「客の多い家」吉田知子

2014年04月14日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《3/30読了 読売新聞社 1992年刊 【日本のエッセイ】 よしだ・ともこ(1934~)》

この生活臭に満ちた日常話や戦中戦後の思い出話を読むにつけ、その小説世界とのすごいギャップを感じます。

大勢の客を家に入れ、手料理をふるまうタフなおばちゃんと、ちょっと気難しい文学者の二重人格みたい。

でもこの二者は地続きなんですよね。そこがすごい。

読みながらふと冨士真奈美を思い出しました。
バラエティ番組の自由な姿(クイズの途中でアルファベットチョコを食べてた)と、冴えた俳句との落差。
女の人のこういう多面性って、頼もしくて好ましい。


本当に半径10メートルの身近な話題、自身について書かれたものが多いので、先月のトークイベントの前に読んどけばよかったなあ。

/「客の多い家」吉田知子

「欲と収納」群ようこ

2014年03月13日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行
《3/12読了 角川文庫 2014年刊 【日本のエッセイ】 むれ・ようこ(1954~)》

着物・洋服・台所用品・本など、“じわじわ増え続けるモノたち”を時にはさっぱり、時にはちょこちょこと捨てていくようすをつづったエッセイ。
捨てっぷりでは内澤旬子「捨てる女」にはかなわないけど、むしろそのマイルドなかんじがリアルで共感しました。

一見バブルとは縁がなさそうな群ようこですが、この世代がバブルの波をかぶらないわけがない。
わたしは数年前から読み始めたにわか読者なのでピンと来ないだけだと思うんだけど、この人にもブランドものをバンバン買ってた時代があるんですね。
モノが増えるってことは、それだけ“買ってる”わけで、
何に金を使うかはその人の価値観と直結、つまりその人自身をズバリ表してるわけで、
それを処分するってことは人生の始末をつけるってことだから、
還暦くらいになればわたしも追い詰められて片づけられるかな。
そんな日がくるといいんだけど。
モノを捨てるって、本当に「欲」との戦いなんですね。
納得。

それはさておき、部屋が散らかれば片づけの本、太ってくればダイエットの本、だるいときにはストレッチの本、料理をしたい気分のときは料理本を読んで、「やった気になる」癖をなんとかしなければ。

/「欲と収納」群ようこ