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《6/19読了 新潮文庫 1969年刊 【日本の小説】 ありよし・さわこ(1931~1984)》
ちょっとした行き違いでチャンスを逃した女優の卵(新人女優か)が、自棄半分で旅に出た。
たまたま訪れた黒島での20日間とその後の話。
昭和34年に新聞連載され、高度経済成長の影で置き去りにされたような島の生活が活写されています。
「日本の国の中に、こんなところがあるんです。みんなから忘れられているのに、一生懸命で生きている人たちがいるんです。その人たちの生活に入りこんで、熱心に指導している辺地の先生たちがいるんです。叫びたいような気持を抑えて、万里子はできるだけ詳しく、離島の実態を彼らに伝えようとしていた」(262p)
島に配属された先生たちはみな人格者で、離島での教育(島民全員への啓蒙といってもいい)に粉骨砕身していますが、それが決して聖人風ではなく、“ああ、昔の学校の先生ってこうだったかもなあ”と思わせる説得力。
島民の方も、光枝と忠一の若いカップルや笑うことが少ない子供たち、障害を抱えた時雄など、大きくスポットが当たることこそないけど、生き生きと描かれています。
生きる努力抜きでは生きられないような島の暮らしに対して、「華やかな脚光を浴び、人々の話題をさらい、美しい衣装を着た」(288p)がる新人女優を主人公にした意味は大きいと思いました。
直情型で素直な性格の彼女は、都会の生活を知る教員たちと打ち解ける一方、島民との交流は意外にも浅くて、そこらへんもおもしろい。
彼女が持参した新しい繊維の洋服が熱湯でドロドロに溶けたり、赴任したばかりの先生の眼鏡が壊れるととたんに何にもできなくなっちゃったり、ところどころに都市に暮らす人間の脆弱さが見られるのも作者の皮肉かもしれません。
でも、あくまでも好みの問題ですが、人間の“生活”より、“中身”に焦点をしぼって、心のひだまで書き尽くすような他の有吉作品と比べると、これは少し物足りない気がします。
/「私は忘れない」有吉佐和子
ちょっとした行き違いでチャンスを逃した女優の卵(新人女優か)が、自棄半分で旅に出た。
たまたま訪れた黒島での20日間とその後の話。
昭和34年に新聞連載され、高度経済成長の影で置き去りにされたような島の生活が活写されています。
「日本の国の中に、こんなところがあるんです。みんなから忘れられているのに、一生懸命で生きている人たちがいるんです。その人たちの生活に入りこんで、熱心に指導している辺地の先生たちがいるんです。叫びたいような気持を抑えて、万里子はできるだけ詳しく、離島の実態を彼らに伝えようとしていた」(262p)
島に配属された先生たちはみな人格者で、離島での教育(島民全員への啓蒙といってもいい)に粉骨砕身していますが、それが決して聖人風ではなく、“ああ、昔の学校の先生ってこうだったかもなあ”と思わせる説得力。
島民の方も、光枝と忠一の若いカップルや笑うことが少ない子供たち、障害を抱えた時雄など、大きくスポットが当たることこそないけど、生き生きと描かれています。
生きる努力抜きでは生きられないような島の暮らしに対して、「華やかな脚光を浴び、人々の話題をさらい、美しい衣装を着た」(288p)がる新人女優を主人公にした意味は大きいと思いました。
直情型で素直な性格の彼女は、都会の生活を知る教員たちと打ち解ける一方、島民との交流は意外にも浅くて、そこらへんもおもしろい。
彼女が持参した新しい繊維の洋服が熱湯でドロドロに溶けたり、赴任したばかりの先生の眼鏡が壊れるととたんに何にもできなくなっちゃったり、ところどころに都市に暮らす人間の脆弱さが見られるのも作者の皮肉かもしれません。
でも、あくまでも好みの問題ですが、人間の“生活”より、“中身”に焦点をしぼって、心のひだまで書き尽くすような他の有吉作品と比べると、これは少し物足りない気がします。
/「私は忘れない」有吉佐和子