
《6/9読了 光文社知恵の森文庫 2004年刊(書下ろし) 【日本のエッセイ 漫画】ますだ・みり(1969~)》
自分の歩いている道は「お母さんコース」じゃないことに気付いちゃった40歳前後の女子にとって、
「お母さん」というのは「こうなっていたかもしれない自分」であり、
自分を裏切ったり見捨てたりすることのない他者であり、
認めたくない自分自身の姿を映し出す鏡であり、
かつて自分をその温かい海に浮かべてくれていた子宮そのものであり、
…なんだかフクザツな存在です。
筆者は故郷を離れて暮らしている身なので、さらに恋しさ倍増かもしれない。
でも決してベッタリではない。
例えば、近所のおばさんたちの手作り小物を自宅に飾るお母さん。
その行為に関する考察には唸りました。
それから、大笑いしつつホロッとくる「お母さんのメール」。
野口英世の母の手紙みたい、と言ったら言い過ぎでしょうか、言い過ぎですね。
筆者はあとがきで、過去に「愛されて育った人間はもの書きになんかなれないと言われた(176p)」と言っていますが、
こんな体温を持った作品は、愛されて育った人にしか書けないはずです。
「お母さん」について考えることは、自分がどこから来てどこへ向かうかに思いを馳せることと同義なのかも。
→益田ミリ「すーちゃん」
自分の歩いている道は「お母さんコース」じゃないことに気付いちゃった40歳前後の女子にとって、
「お母さん」というのは「こうなっていたかもしれない自分」であり、
自分を裏切ったり見捨てたりすることのない他者であり、
認めたくない自分自身の姿を映し出す鏡であり、
かつて自分をその温かい海に浮かべてくれていた子宮そのものであり、
…なんだかフクザツな存在です。
筆者は故郷を離れて暮らしている身なので、さらに恋しさ倍増かもしれない。
でも決してベッタリではない。
例えば、近所のおばさんたちの手作り小物を自宅に飾るお母さん。
その行為に関する考察には唸りました。
それから、大笑いしつつホロッとくる「お母さんのメール」。
野口英世の母の手紙みたい、と言ったら言い過ぎでしょうか、言い過ぎですね。
筆者はあとがきで、過去に「愛されて育った人間はもの書きになんかなれないと言われた(176p)」と言っていますが、
こんな体温を持った作品は、愛されて育った人にしか書けないはずです。
「お母さん」について考えることは、自分がどこから来てどこへ向かうかに思いを馳せることと同義なのかも。
→益田ミリ「すーちゃん」