当ブログは記事をUPしても訪れる人は数人の場末の立場にある。ボクはそんな所で記事を上げているのだが、一応表現者としての矜持はある。山関連のものを除く記事の多くが校正前は十倍くらいの分量がある。それを個人を攻撃した表現になっていないか、とか人を煽る過激な表現になっていないか、など見直して削減してあの記事になっているのだ。gooblogには利用規約があって誹謗中傷や違法行為に関する投稿は禁止されているが、禁止されていない範囲なら個人ブログだから何書いてもよいというわけではない。ボクとしては特に特定の個人を攻撃するような批判記事はできるだけ避けている。例えば今の政府の政策をよく思わないからといって、安倍首相や麻生大臣を過度に批判することがよいとは全く思わない。あくまでも批判されるべきは政策であって個人ではないからだ(この記事もそんな考えに則っている)。
「批判を面と向かって対象者に伝える勇気・自信はありますか?」と問われて、実際にそれができるという人はほとんどいないだろう。特定の個人を対象に面と向かって批判すれば、逆に自分も反論や批判を浴びる可能性があるからだ。相手の反論を直接受けないからつい過度に批判してしまう。ありがちなことだが、それが問題なのだ。ボクが特定の個人を攻撃するような批判記事の投稿を避けているのは、知らず知らずのうちに個人攻撃が盛り上がってしまうからだ。自分の中でどんどん相手を攻撃してしまいたい気持ちが強くなってしまうこともあれば、周りが勝手に盛り上がったりあるいは煽ってくることが往々にしてある。だからたとえ正当な批判であってもできるだけ抑制的な表現で記事を書かなければならないと考えているのだ。
ある女性プロレスラーの死を巡ってテレビ局批判が強くなっている。ボクは件の番組を見たことがない。ピート・バーンズが出ていたリアリティショーや件の番組の前身となっていた番組なら見たことがあるけれど、自分の生活とあまりにもかけ離れていて正直興味が持てなかったし、個人のプライベイトを覗き見するようであまり良い趣味だと思わなかった。それにテレビカメラが撮影している以上、全くの素を曝け出している出演者はそれほど多くないだろうとも思っていた。ピート・バーンズのような強烈な美意識を持った人ならともかく、通常なら場の空気を読んで行動する人が多いだろうし、また場の空気に支配されやすい日本人なら余計に役割を演じてしまう人がいたとしても不思議ではない。演出の是非が問題になっているが、そもそもリアリティショー自体が人為的な設定の下に行われる、役割を強要されやすい不自然なものだという認識は必要だろう。
テレビ局の演出の問題は十数年前からSF作家の山本弘さんが著作で指摘していたもので、今回の件も含めて批判されるべきものだ。しかしだからといって所謂ネットリンチに加担した人たちの責任が減じられるものではない。法的な責任を負うかは別として、批判者の表現行為が人を死に追いやったという事実に変わりはないのだ。番組の演出に煽られたから特定の個人を批判しても(道義的な)責任は無いと考えているなら、その人はネット上での表現行為は止めたほうがいい。ボクは記事の冒頭で「表現者としての矜持」と書いた。表現行為に責任を持つからこそ、たとえ拙いものであっても自信を持ってネット上でも表現行為を行うことができる。ネット上の書き込みは便所の落書き程度のものだと思い込んでいるのかもしれないが、実際は記録として残り続け、かつ人の目に触れるものだ。あえて「ネット民は謝罪しない」という挑発的なタイトルにしたのは、しばしばネット民がネット上の書き込みをあまりにも表現行為として軽いものと勘違いしていること、そしてマスコミ等に責任転嫁して責任を自覚しない(あるいは反省しない)状況を憂いているからだ。個々人が責任を自覚しなければマスコミや番組制作会社等がどんなに対策を取ったところで似たようなことは繰り返される。もし特定の個人を攻撃するかもしれないようなネット上の書き込みをしようとしているのなら、必ずこう自問自答していただきたい。「今書き込もうとしている内容を本人に会って直接伝える勇気と自信はありますか?」と。
「批判を面と向かって対象者に伝える勇気・自信はありますか?」と問われて、実際にそれができるという人はほとんどいないだろう。特定の個人を対象に面と向かって批判すれば、逆に自分も反論や批判を浴びる可能性があるからだ。相手の反論を直接受けないからつい過度に批判してしまう。ありがちなことだが、それが問題なのだ。ボクが特定の個人を攻撃するような批判記事の投稿を避けているのは、知らず知らずのうちに個人攻撃が盛り上がってしまうからだ。自分の中でどんどん相手を攻撃してしまいたい気持ちが強くなってしまうこともあれば、周りが勝手に盛り上がったりあるいは煽ってくることが往々にしてある。だからたとえ正当な批判であってもできるだけ抑制的な表現で記事を書かなければならないと考えているのだ。
ある女性プロレスラーの死を巡ってテレビ局批判が強くなっている。ボクは件の番組を見たことがない。ピート・バーンズが出ていたリアリティショーや件の番組の前身となっていた番組なら見たことがあるけれど、自分の生活とあまりにもかけ離れていて正直興味が持てなかったし、個人のプライベイトを覗き見するようであまり良い趣味だと思わなかった。それにテレビカメラが撮影している以上、全くの素を曝け出している出演者はそれほど多くないだろうとも思っていた。ピート・バーンズのような強烈な美意識を持った人ならともかく、通常なら場の空気を読んで行動する人が多いだろうし、また場の空気に支配されやすい日本人なら余計に役割を演じてしまう人がいたとしても不思議ではない。演出の是非が問題になっているが、そもそもリアリティショー自体が人為的な設定の下に行われる、役割を強要されやすい不自然なものだという認識は必要だろう。
テレビ局の演出の問題は十数年前からSF作家の山本弘さんが著作で指摘していたもので、今回の件も含めて批判されるべきものだ。しかしだからといって所謂ネットリンチに加担した人たちの責任が減じられるものではない。法的な責任を負うかは別として、批判者の表現行為が人を死に追いやったという事実に変わりはないのだ。番組の演出に煽られたから特定の個人を批判しても(道義的な)責任は無いと考えているなら、その人はネット上での表現行為は止めたほうがいい。ボクは記事の冒頭で「表現者としての矜持」と書いた。表現行為に責任を持つからこそ、たとえ拙いものであっても自信を持ってネット上でも表現行為を行うことができる。ネット上の書き込みは便所の落書き程度のものだと思い込んでいるのかもしれないが、実際は記録として残り続け、かつ人の目に触れるものだ。あえて「ネット民は謝罪しない」という挑発的なタイトルにしたのは、しばしばネット民がネット上の書き込みをあまりにも表現行為として軽いものと勘違いしていること、そしてマスコミ等に責任転嫁して責任を自覚しない(あるいは反省しない)状況を憂いているからだ。個々人が責任を自覚しなければマスコミや番組制作会社等がどんなに対策を取ったところで似たようなことは繰り返される。もし特定の個人を攻撃するかもしれないようなネット上の書き込みをしようとしているのなら、必ずこう自問自答していただきたい。「今書き込もうとしている内容を本人に会って直接伝える勇気と自信はありますか?」と。
今は何処にも行けませんけど
飯能とか入間川に行っています
元加治駅から
こちらの記事を観て入間川行って来ました
これからも記事あげて下さいね
楽しみにしています
(# ⌒Å⌒# )
お体ご自愛くださいませ
>飯能とか入間川に行っています
元加治駅から
元加治、良い所ですよね。西武線の車内から見た入間川の夕日は未だに自分の人生の中でベストだと思っています。
>これからも記事あげて下さいね
山歩きに関してはそろそろ再開できそうです。