浅田次郎さんの『降霊会の夜』を読みました。浅田さんの作品を読むのは久しぶり。しかも長編ではなく、このくらいサラ~ッと読めるボリュームのものってぇ~のも久しぶりですね。
山荘に一人住んでいる「ゆうちゃん」と呼ばれていた初老の主人公。幼いころから他者との距離を置いて、安全な場所に逃げ込んできたようなところがあり、そんな卑怯な自分自身を後悔しながら年月を重ねてしまった。ある嵐の夜、庭に迷い込んでしまったのか、一人の女性を助ける。梓と名乗るその女性から、ミセス・ジョーンズが行う降霊会に誘われた「ゆうちゃん」はが聞いた死者の声は……。
梓が登場してくるシーン、ミセス・ジョーンズの家で行われる降霊会、ゆうちゃんが聞く死者たちの声。この流れだと、ラストのシーンは想像できるものでした。でもだからって「ありきたりの展開のオカルトチックな作品でした」ではないところが、浅田さんの凄いところなんだと思います。
とくに私が考えさせられたのは、「キヨ」と呼ばれていた哀れとしか言いようのない少年の人生。それが描かれた時代が昭和35年、4年後に東京オリンピックが開催されようとしていた時代でした。
東京オリンピックに向けて東京はとてつもなく発展し、15年前まで戦争のために一面焼け野原だったとは思えないほどの復興を遂げた、と思ってました。それは確かにそうなのかもしれないけど、本当はそうではなかった部分もあるのだということが衝撃的でした。
確か昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と書かれて、戦後復興の終了を宣言した言葉として流行語にもなったはず。でもこの小説で描かれている昭和35年は、まだ「戦後」でした。「戦後ではない」との宣言は、ひょっとしたら、映画や舞台美術の書き割りのようなものを指していたのではないか、そう感じました。そう考えるとこの作品、深いです。
東京はまたオリンピックが開催される都市になりました。前回のオリンピックのときに高速道路がバンバン走るようになって日本橋が残念な姿にされたのを、今度のオリンピックまでに元の姿に戻すとか。新しい国立競技場のデザインが今になって見直されるとか、競技会場の変更とか、何だか「あと出しジャンケン」的にいろいろ問題が発生しているようです。
あのときは「戦後」だったけど、今は「震災後」であることを、忘れないでいてほしいと思うのです。どうか世界中の凄い人たちが集まるオリンピックが「書き割り」的なものにはなりませんように。
山荘に一人住んでいる「ゆうちゃん」と呼ばれていた初老の主人公。幼いころから他者との距離を置いて、安全な場所に逃げ込んできたようなところがあり、そんな卑怯な自分自身を後悔しながら年月を重ねてしまった。ある嵐の夜、庭に迷い込んでしまったのか、一人の女性を助ける。梓と名乗るその女性から、ミセス・ジョーンズが行う降霊会に誘われた「ゆうちゃん」はが聞いた死者の声は……。
梓が登場してくるシーン、ミセス・ジョーンズの家で行われる降霊会、ゆうちゃんが聞く死者たちの声。この流れだと、ラストのシーンは想像できるものでした。でもだからって「ありきたりの展開のオカルトチックな作品でした」ではないところが、浅田さんの凄いところなんだと思います。
とくに私が考えさせられたのは、「キヨ」と呼ばれていた哀れとしか言いようのない少年の人生。それが描かれた時代が昭和35年、4年後に東京オリンピックが開催されようとしていた時代でした。
東京オリンピックに向けて東京はとてつもなく発展し、15年前まで戦争のために一面焼け野原だったとは思えないほどの復興を遂げた、と思ってました。それは確かにそうなのかもしれないけど、本当はそうではなかった部分もあるのだということが衝撃的でした。
確か昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と書かれて、戦後復興の終了を宣言した言葉として流行語にもなったはず。でもこの小説で描かれている昭和35年は、まだ「戦後」でした。「戦後ではない」との宣言は、ひょっとしたら、映画や舞台美術の書き割りのようなものを指していたのではないか、そう感じました。そう考えるとこの作品、深いです。
東京はまたオリンピックが開催される都市になりました。前回のオリンピックのときに高速道路がバンバン走るようになって日本橋が残念な姿にされたのを、今度のオリンピックまでに元の姿に戻すとか。新しい国立競技場のデザインが今になって見直されるとか、競技会場の変更とか、何だか「あと出しジャンケン」的にいろいろ問題が発生しているようです。
あのときは「戦後」だったけど、今は「震災後」であることを、忘れないでいてほしいと思うのです。どうか世界中の凄い人たちが集まるオリンピックが「書き割り」的なものにはなりませんように。