現代へのまなざし

日本とはなにかを探求します。

自由民主党の改憲草案と家父長制-民主主義からの逸脱-

2024-07-28 14:57:54 | 政治
 日本国憲法については、未だに自由民主党が改正を進めようとしている。しかし、自由民主党の憲法改正草案は民主主義を実現する憲法から逸脱し、個人の尊厳という価値観から家族主義による和(個人の尊厳よりも家族のための孝忠という価値観の重視への転換)へと退化するような内容を含んでいる。自由と民主主義という日本国憲法から自由の制限と家族主義という戦前的価値観に転換しようと企てていると考えられる。それはなぜか。

 現在の日本国憲法の大きな特徴は、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を掲げていることである。第2次世界大戦以前の大日本帝国憲法では、国民主権ではなく天皇主権、基本的人権は法律の留保によって大きく制限され、平和主義はそのかけらもなかった。
 自由民主党の憲法改正草案では、その前文で「国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」と天皇をわざわざ特だしし、さらに「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」と「和」や「家族」を記載しているのである。
 自由民主党の憲法改正草案の各条文を一つ一つ検討することは、その検討にも値しない草案であるため、労力を省く観点からも行わないが、天皇、家族という第2次世界大戦以前の、国によって定められた価値観が大きく盛り込まれているのである。「個人」という文言を削除している点も大きな特徴である。

 第2次世界大戦で日本が負けるまでの、日本における家族制度とはどのようなものだったのか。
 「日本社会の家族的構成」(岩波現代文庫、川島武宜著、2000年)に収録されている「イデオロギーとしての「家族制度」」が詳しく説明しているので、その一部を抜粋したものが次の文章である。(p.153~p.157)

 「家族制度」は「家」および家父長制の二つの要素が離れがたく結びついている家族秩序である。そして「家」とは、「世帯の共同とは関係のない血統集団であって、構成員の死亡・出生・結婚等による変動はあってもその同一性を保持して存続してゆくものだという信念を伴うところのもの」と定義することができるだろう。

 「家」は次のような意識(信念体系・価値体系)によって支えられている。第一に、血統連続に対する強い尊重、及び祖先と子孫が一体であるという信念。第二に、その結果、多産の尊重、子を生まない妻の蔑視。第三に、祖先の尊重。第四に、伝統の尊重。第五に、個人に対する「家」の優位。第六に、家の外部においても個人をその属する家(特に「家格」)によって位置づけること(「毛並み」の尊重)。

 そして、家父長制は、家長が家族構成員に対して支配命令し、後者が前者に服従する社会関係である。その具体的内容は、第一に、家族構成員に対してその行動を決定し、それに服従させる家長の権力。第二に、この権力を保障するための道具としての、幼少時からのしつけ、及び家族内の「身分」の差別と序列。家長による財産の独占と単独相続性。

 この家と家父長制が結合しているということは、家族制度を特色づける。そのもっとも重要な点は家長の権力を神格化し、それを伝統の力によって補強し、且つ権力支配を外見的に見えにくい・あるいは外見的に穏和なものにする、ということである。


 このような家族制度が第2次大戦前のものであるが、敗戦によって家族制度がいきなり変化することもなく、昭和時代の家族には「家」と「家父長制」が色濃く残っていただろう。未だに、結婚式や葬式では「家」が持ち出されているため、今でも色濃く残っている家族があるかもしれない。

 そして、この「家」「家長」を国家に適用した場合、家長は言うまでもなく天皇であり、国民(当時は臣民と言われていた)は天皇の子供であり、天皇は家族に対し支配命令し、子供である国民は家長である天皇の命令に服従するということが絶対的な道徳(当時は「修身」と言われていた)であり、この道徳に反するものは徹底的に攻撃され排除されたのである。
 さらに、このような道徳(修身)を盛り込んだものが教育勅語にほかならない。自民党議員の一部が教育勅語を学ぶように主張するのは、このような第2次世界大戦前の天皇制支配の原理や家父長制を復活させようという意図があるからに他ならない。

 その前文で「和」や「家族」を持ち出している自由民主党の憲法改正草案とは、現在の日本国憲法の基本原則を変更し、第2次世界大戦以前の日本における支配原理、個人ではなく家を優先し、その結果、個人よりも国を優先するような支配原理を復活させようと意図したものにほかならない。
 しかし、このような大きな問題であるにも関わらず、表面的な議論に終始し、マスメディアなども問題を深く検討することもなく、権力に忖度したような報道を繰り返すであろうから、憲法改正論議には気をつける必要がある。
 国民の多くが、個人よりも「家」や「国家」を優先し、また、「家」や「家父長制」を支持し、その結果、天皇を特別な地位に就けることを支持するのであれば、自由民主党の改憲草案に賛成すればいいが、今の社会状況を考えれば、自由民主党の改憲草案は、自由、民主主義という日本社会の方向とは全く逆方向のものであることは間違いない。

 自由と民主主義をその価値観とする日本において、自由民主党の改憲草案は家父長制を復活させるような全く時代錯誤的なものである。個人の尊厳や基本的人権の尊重という戦後民主主義を否定し、戦前への回帰を意図するものが、自由民主党の改憲草案であると言わざる終えない。
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日本の家族形態-権威主義的性格を備えた家族制度-

2024-07-07 10:09:01 | 政治

 歴史人口学者のエマニュエル・トッド氏は世界中の家族形態を絶対核家族、平等主義核家族、直系家族、共同体家族という類型に分類し、それぞれの家族類型による特徴を述べている。

 日本の家族形態については、直系家族の類型に分類されているが、直系家族とは、子供のうち跡取りは成人して結婚しても家に残り、すべての遺産を相続するもので、跡取り以外の子供は他の場所での生活の道を選ぶ。家長としての父親に権威があるため、親子関係は権威主義的であり、兄弟間は不平等である。

 

 さて、日本の家族制度に関する有名な論考としては、民法・法社会学者の川島武宜氏による「日本社会の家族的構成」(「日本社会の家族的構成」(川島武宜著、岩波現代文庫、2000年)に収録)がある。

 なお、この論文は1946年に中央公論で発表されたものであり、「戦後日本の民主化のためには,家族制度の徹底的解明と批判が不可欠であるという鮮烈な問題意識のもとに,広汎な農村実態調査から日本の家族を武士的家族と農村的家族に類型化し,家父長制国家の虚偽性を衝く家族制度研究の古典的論稿」と紹介されている。

 この中で、日本の家族制度を「武士階級的家族制度」と農民や漁民、都市の小市民の家族制度に分けて家族生活の基本原理を説明している。

 「武士階級的家族制度」(封建的士族層、貴族、大地主、大町人を支配してきた家族制度)について、士族層封建武士的・儒教的なこの家族制度は、一つの強固な「秩序」であり、この固定的な秩序そのものが、動かすことのできない「権威」である。この神聖な権威的秩序の担い手は、家長(戸主)であり父、夫である。彼らは家族、子供、妻に対して「権力」を持っているが、この権力は服従する人々の精神に対する絶対的な高い威力、すなわち「権威」として現れ、その結果、服従者は抗しがたいものとしてこれを意識し、むしろすすんでこれに服従する、というのである。

 農民や都市の小市民などの民衆の家族(農村的家族)の構造は武士階級的家族制とは異なり、そこでは女や子供、老人を含めたすべての家族員が、それぞれの能力に応じて家族集団の生産的労働を分担するため、儒教的家族におけるような型での家長の権力や権威は存せず、「協同的な」雰囲気が支配する。各人がそれぞれに固有の生産的労働を分担することに対応して、各人は家族内で固有の地位をもっているが、ここでも永い伝統によって抗しがたい客観的制度に固定しているために、家族の「秩序」は一つの権威であり、その中に生きている人々に対し絶対的な権威として君臨する。

 そして、これらの家族生活の基本原理が、家族外の関係にも反射し、貫徹していると言う。

 第一に、「権威」による支配と、権威への無条件的服従。権威者の前では自らの価値を低いと感じる「子分」の卑屈な感情であり、人は、主義・主張が同じだから他の人と行動を同じくするのではなく、親分がある行動をとり、又は行動を命じるために、そのような行動を無条件的にとる。

 第二に、権威への追従や雰囲気への追随に由来すると思われる、個人的行動の欠如と、それに由来するところの個人的責任感の欠如。

 第三に、権威主義的あるいは馴れ合い的な秩序や平和が害されるのを恐れるために、一切の自主的な批判・反省を許さないという社会規範として現れる。自分の意見を言わないことや雰囲気に追随することは、人の下に立つ者のみならず人の上に立つ者にとっても、忘れてはならぬ「処世術」となり、このような社会では、自らの個性を発展させることは許されないし、また不可能であり、個性を没却して雰囲気とともに流れるようにつとめる人が「修養を積んだ」人として尊敬される。

 第四に、親分子分的結合の家庭的雰囲気と、その外に対する敵対的意識との対立、すなわち対内的モラルと対外的モラルとの対立。これこそが「セクショナリズム」の本体である。セクショナリズムの弊害を無くすためには、まず、この家族的感情に根強く由来する家族的結合と、それに固着する内外へのモラルの分裂対立とをなくすことが先決問題である。

 

 エマニュエル・トッド氏が日本を直系家族と分類し、直系家族の特徴として権威主義的であるとしているが、川島武宜氏の「日本社会の家族的構成」を読むと、日本の家族の権威主義的な性格が非常にわかりやすく記載されている。

 ・「権威」による支配と、権威への無条件的服従

 ・個人的行動の欠如と、それに由来するところの個人的責任感の欠如

 ・一切の自主的な批判・反省を許さぬという社会規範

 ・セクショナリズム、その本体である親分子分的結合の家庭的雰囲気と、その外に対する敵対的意識との対立、すなわち内輪の規範と対外的規範の対立。

 

 これらの特徴が未だに日本で見られるのではないか。マスコミなどでは日本は民主主義であり、権威主義とは違うような前提で報道を行っているが、アジア・太平洋戦争終結直後に発表された論文に掲載されている日本の家族的構成の特徴が未だに残っているのではないか。

 自民党には、保守派(右翼)議員などが、教育勅語を賞賛してみたり、日本の家父長制的家族制度を残そうと考えてみたり、民主主義ではなく権威主義をその主義主張としているような議員も存在する。

 世代を追うごとに民主主義的要素が増え、権威主義的要素が減っているだろうが、未だに昭和時代の規範を身につけている人も多いだろう。例えば、子供を自分の所有物のように考え、子供の自由を奪い、自分の考えを押しつける親というのは、毒親などと言われるが、未だに存在している。

 民主主義を自分の価値観であると主張するのであれば、今の日本にこの権威主義的要素が残っていないのかどうか、日本社会を観察しながら考え、改善すべき点があれば改善していくことが必要だろう。

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