現代へのまなざし

日本とはなにかを探求します。

跋扈するタカリ住民、そしてバラマキ

2013-01-26 11:31:35 | 日記
 古来、民衆は自分達で完結するような生活を送っていた。王様、殿様、国家を必要とすることはほとんどなかった。
 民衆同士のもめごとを解決するための司法機能、罪人などを罰し、治安を守るための警察機能などがその機能であり、普段の生活は村人同士の助け合いなどの地域コミュニティで完結していた。

 社会の進展とともに、国家、地域政府(local gevernment)の役割が拡大し、生活の様々な場面で関わりを有することとなった。現在では、道路、公共施設などのハード整備、教育分野から環境分野、医療・福祉分野、経済・産業分野、労働分野など様々な分野でサービスの提供や規制が行われている。

 日本国憲法の施行により、国民に様々な権利が認められ、国民の意識にも徐々に変化が起こった。「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」という憲法の規定は、天皇の官僚だった明治憲法を否定し、公務員は全国民に対して職務を実行するものという基本的な考えを明確にしたものだ。
 民衆は、この規程を、公務員は公僕として国民にサービスを提供するものというように捉えるようになり、納税者である国民は奉仕者である行政から相当のサービスの提供を受ける権利を有しているというように考えるようになり、次第に、行政は住民に給付を行う存在であるというように変化していき、納税は嫌だけど給付をよこせという住民、すなわちタカリ住民が生まれ、増殖していった。
 タカリ住民の特徴は増税という言葉、負担増という言葉に即時に拒絶反応を示し、給付拡大、負担減という言葉に即時に賛意を示すことである。貰えるものは喜んで貰うが、支払は苦痛を伴うものという感覚が身に染みついている。
 タカリ住民には、持続可能な社会を構築するため、少子化の進展を止めることが必要であるとか、国家財政の悪化を止めるために増税が必要であるとか、給付を減らさなければ財政悪化が進み持続可能性が損なわれることなどを考える能力は無い。

 福島県などの原子力発電所が立地されている地域では、原発立地交付金や電力会社からの寄付金を受け取る代わりに、事故時には放射性物質をばらまく原発を受け入れるというやり方に賛成した住民がいる。これもタカリ住民と似ているが、単なるタカリ住民と異なりリスクを受け入れているので、リスク費用として補償費を受け取ってるという意識があるかもしれない。
 純粋なタカリ住民は、危険なものを受け入れたりしない。自分達に関係ない場所に原発ができようが、米軍基地ができようが反対しないが、自分に関係のある場所に立地するとなると、絶対反対を訴えるのがタカリ住民である。

 タカリ住民は便利な生活、安全な生活を求めるので、基本的に原発には賛成だし、米軍基地にも賛成である。ただし、自分が危険を負担するのは絶対反対なので、自分達に影響のある場所への原発立地や米軍基地移転には絶対に反対する非常に我が侭な住民である。

 このタカリ住民を満足させるのがバラマキ行政である。選挙前になると、このタカリ住民から票を得ようとバラマキでタカリ住民を釣り上げようとする政党が現れる。選挙前に増税を訴えようものなら、タカリ住民からの拒絶反応により敗北が待っている。その結果、選挙前には、バラマキの公約をぶち上げ、選挙が遠ざかるとバラマキから増税に変化していくのである。

 今回政権を奪還した自民党は、この手法を丁寧に使用し、バラマキでタカリ住民の票を獲得し、消費税率引き上げを行った民主党は当然のごとく敗北した。次の選挙は参議院議員選挙である。今年の7月に実施予定の参議院議員選挙が控えているため、新たな増税の話を政権党は持ち出さないだろう。

 バラマキ、負担減の公約を持ち出すことでタカリ住民の票を受け取り、選挙後、公約を破ることが予想される。タカリ住民は、一方で知的レベルが低いようで、この同じパタンを何度経験しても学習能力がないため懲りることはない。タカリ住民が減れば、よりまともな政策論争が活発になるかもしれないが、今のタカリ住民は政策論争よりカネをくれという姿勢なので、政策論争が活発化することはない。
 政治家の質が低いと嘆く人達もいるが、政治家の質が低いのは、タカリ住民のような知的レベルが低い人達によって政治家が選出されているからに他ならない。このようなタカリ住民が選挙権を行使することができるシステムがある限り、日本の政治の質は向上しないだろう。
 
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複雑怪奇な古事記-作り上げられた神話-

2013-01-19 14:10:07 | 日記
 古事記の内容は複雑怪奇である。

 高天原でアマテラスと諍いを起こしたスサノオは追放され、そこでスサノオの食事の準備をしていたオオケツヒメ(大気津比賣神)が口、鼻、尻から食べものを出している姿を見て、スサノオはオオケツヒメを殺す。スサノオに殺されたオオケツヒメは、地面に倒れこみ、その死体からいろいろな食物の芽が出てきた。頭はカイコに、二つの目は稲に、二つの耳は粟に、鼻は小豆(あずき)に、女陰(ほと)は麦に、尻は大豆になった。そして、オオケツヒメの体から生まれた五穀をカミムスヒ(神産巣日神)が拾って種にした。

 その後、スサノオは出雲国(島根県)に到着し、アシナヅチ(足名椎)とテナヅチ(手名椎)の夫婦、その娘であるクシナダヒメ(櫛名田比賣)と出会い、八岐大蛇を退治することになる。
 このアシナヅチとテナヅチは、オオヤマツミ(大山津見神)の子供であるが、このオオヤマツミはイザナギとイザナミから生まれた神である。

 そしてスサノオの子孫がオオクニヌシ(大国主命)になるのである。しかし、一方で、オオクニヌシはスサノオが住んでいる根の国を訪れ、スサノオの様々な試練を乗り越え、根の国からスサノオの娘であるスセリビメ(須勢理昆賣)と逃げだし、スセリビメを妻にするのである。そしてスクナビコナ(少名昆古那神、父親はカミムスヒ)の協力を得て、葦原中国を作り上げていくのである。(ある程度国ができあがったときに、スクナビコナはトコヨクニ(常世国)に渡っていく。)
 アマテラスはオオクニヌシが治めていた葦原中国を奪おうと様々な方策を考えるが、最終的にはタケミカヅチ(建御雷神(武甕槌神))を派遣し、オオクニヌシに国譲りを迫り、オオクニヌシは国を譲り、出雲大社に隠れたのである。
 アマテラスは自分の孫であるニニギを高天原から日向の高千穂に向かわせ、葦原中国の統治をさせることになるが、その際、ニニギはコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜昆賣、オオヤマツミ(大山津見)の娘)と結婚することになる。


 ここまでのストーリーで、スサノオの妻であるクシナダヒメは、オオヤマツミの孫であり、ニニギの妻のコノハナサクヤの姪ということになる。スサノオの子孫であるオオクニヌシはスサノオの娘を妻にし、スサノオの子孫であるオオクニヌシとスサノオの娘であるスセリビメが統治する葦原中国を奪ったのはスサノオの姉であるアマテラスの指示による。
 この物語の混乱こそが、当時の土着神話を朝鮮半島から進出してきた天皇家が自分たちの神話に取り込んだ証拠でもあろう。イザナギ、イザナミよりも先に誕生するタカミムスヒが天皇家の祖神であり、イザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、オオクニヌシという土着の神を自分たちの神話に取り入れたため、話が混乱し、つじつまが合わなくなったと考えられる。物部氏の衰退・没落と藤原(中臣)氏の支配が古事記や日本書紀の神話における神々の意味合いの変化を生んでいることも考えられる。

 住民を統治するためには、住民が信じている神を取り込み、自分たちの祖先であるという話を信じ込ませることが非常に有効である。絶対性・神聖性を自分たちの血統に取り込み、宗教的な信仰により絶対的な存在として君臨しうるからである。


(卑近な例:政治家の名前を使ってるのはリアリティを出すためで、全くのフィクション・作り話です。)
 例えば、菅直人さんが総理に就任したときに、市民運動をしていた経歴が報道されていたが、これが、実は菅直人さんは後醍醐天皇の子孫であるという物語を作ったら、国民はどのような反応を示したであろうか。
 後醍醐天皇が隠岐の島に流されたとき、後醍醐天皇に愛されていた貴族の女性が島への旅路の途中、岡山県で体調を崩した。そのときには後醍醐天皇の息子を身ごもっていたが、岡山で無事出産することができた。
 後醍醐天皇は隠岐の島からの脱出の際、その女性と息子に会うため寄り道をし、子供の聡明な顔つきに驚いた後醍醐天皇は次期天皇にすることを決意するが、鎌倉幕府との争いの中でそれは実現できず、常に心の中で天皇に即位させることを思いながら南北朝時代を過ごす。
 後醍醐天皇はついに決心し、皇子を迎えに行こうとするが、病に倒れてしまう。その後の争いの中で、その皇子の命を狙う勢力も現れたため、皇子は身を隠し、平民として生きることを決意した。
 朝廷には皇子を慕う勢力もあり、貴族の一部が後醍醐天皇に託された本物の三種の神器を持参し皇子の周辺の世話をしていた。足利末期から戦国時代を経て、徐々に彼らのことは忘れ去れ、大政奉還により幕府から明治政府に実権が移った後も、南北朝のわだかまりなどから、その存在は無視されていた。
 しかし、その血脈は着実に受け継がれ、その正統な子孫が菅直人さんである。南北朝時代、後醍醐天皇が保有していた本物の三種の神器を受け継いだ正統な子孫である菅直人氏こそが、天照大神から万世一系である天皇の正統な継承者である。

 というような話を作り上げると、その話を聞いた庶民は菅直人氏に皇統を見いだし、批判することすらできなくなるのではないか。でっち上げの話なので、追求されるとつじつまが合わなくなってしまう。それが日本書紀・古事記に見られる不整合であり、複雑怪奇さにつながっている。
 上記の例は、天皇の子孫ということにした話だが、科学的な知識がなかった時代に、民衆が信じていた神の子孫とすることは、より神聖性を高め、民衆から崇められる存在になる。このように、神話を作り上げることで、権力は神聖性を帯び、絶対的なものとなるのである。
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橋下市長の権力による暴力、現代の八十神か

2013-01-19 10:40:40 | 日記
先日、因幡の白ウサギの話を書いたが、これには続きがある。

オオクニヌシの兄達(八十神)がヤガミヒメに求婚するが、ヤガミヒメはそれを断りオオクニヌシと結婚すると答えた。
八十神は怒って、オオクニヌシを殺そうと相談し、伯耆国(鳥取県)の手間の山の麓にやって来て、オオクニヌシに言った。

「赤いイノシシ(猪)がこの山に居る。我々(八十神)が追い立てるので、お前は待ち伏せして捕らえろ。もし待ち伏せして捕まえないなら、必ずお前(オオクニヌシ)を殺す」

八十神はイノシシに似た大きな石を焼いて、オオクニヌシに向かって転がし落とし、オオクニヌシは落ちてきた石に焼かれて死んだ。

オオクニヌシが死んだことを知った母(サシクニワカヒメ)は泣き悲しんで、カミムスヒ(神産巣日神)に救いを請い、カミムスヒはサキガイヒメとウムギヒメを派遣して、オオクニヌシを治療・蘇生させた。

※カミムスヒ(神産巣日神)は、アメノミナカヌシ(天之御中主神)、タカミムスヒ(高御産巣日神)とともに、古事記の最初に出てくる神で、この三柱は全員が独神(性別がなく単独の神)で、身を隠された。

オオクニヌシが殺され、その後蘇生する話は、あまり聞かない話だと思う。


ところで、大阪市の橋下市長は、1月17日の記者会見で、教師の体罰による生徒の自殺に関して、桜宮高校の体育系2科の募集中止、さらに校長をはじめ教員の総入れ替え、校長、教頭とクラブ活動の顧問は最低限全員入れ替え、予算の執行権は市長に属していることから、現在、桜宮高校に在籍する体育教師が来年度も在籍していればその職員に係る人件費を執行停止を教育委員会に伝えたと発言した。

橋下市長が予算執行権を振りかざし、教育委員会の人事に介入し、思い通りの人事異動がなければ予算を執行しないと、半ば脅迫まがいの発言をしている。バスケットボール部の顧問の教師は物理的暴力により部員を自殺に至らしめたが、橋下市長がやっているのは自分の権限による暴力、強力なパワーハラスメントと言うべきものである。
自分の思い通りにならなければ、邪魔になったオオクニヌシを謀議によって殺した兄達である八十神と同じような思考形態をしているのかも知れない。

日本の首長は大統領と同じような存在で、直接選挙により選ばれているため権限も強いが、地方自治では同じ住民代表である議会がチェックすることで首長の暴走を止めるシステムを採用している。しかし、議会と首長が蜜月であれば首長は大きな権限を行使できるようになっている。

以前、鹿児島県の阿久根市長が暴走し、市政が混乱したことがある。当時阿久根市長だった竹原氏も市職員を敵にすることで市民から支持を受け、市長に当選していたが、その構図は橋下市長の手法に似通ってるような気がする。

市長は市民の福祉(public welfare)向上のための市政を担うものであり、幅広い視野から市民が健康で文化的に生活ができ、日々の暮らしの中で幸福を実感できるように市政運営をする必要があるにも関わらず、ある一点を殊更大きく捉え、そのために不幸をまき散らすのは本末転倒であり、日本の伝統とは異なるものであると感じる問題である。
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愛国心とは

2013-01-14 17:47:27 | 日記
 因幡の白ウサギという有名な話が古事記に記述されている。

 要約すると次のような話である。

 オオクニヌシには、多くの兄「八十神」がいた。
 八十神たちは、ヤカミヒメに求婚するため、オオクニヌシに大きな袋を背負わせて、イナバに出かけた。

 八十神がは、途中で出会った、倒れていた赤裸のウサギに
 「海水を浴びて、吹く風に当たって、高い山の頂に伏せていなさい。」と言って、去って行った。

 ウサギは八十神の教えのとおりにしたら皮膚が傷だらけになった。
 ウサギがあまりの痛みに耐えかねて泣いているところへオオクニヌシがやって来た。

 どうして泣いているのか、オオクニヌシがウサギに尋ねると、
 ウサギは、隠岐の島からこの地に渡るため、海に住むワニをだましたが、
 だましたことをワニに言ったところ、ワニに捕まって毛をはがされた。
 そのときに通りかかった八十神の教えのとおりにしたら、体が傷だらけになった。と答えた。

 それを聞いたオオクニヌシは、
 「すぐに河口に行って、真水で身体を洗い、蒲黄を摘んで来て、その上に寝ころべばおまえの身体は治るだろう。」と言った。

 ウサギがオオクニヌシの教えのとおりにすると、ウサギの身体は元通りに治った。

 これは小学生の時によく聞いた話であるが、今の教育で教えているのかどうかはよく知らない。

 さて、愛国心とはどのようなものであるか。
 愛国心とは、自分が帰属する共同体、地域社会に対して抱く愛着や忠誠心、それらに基づく行動である。愛国心は、その土地、風習などの生活様式に対する愛着であり、それは地域の固有の生活様式の中ではぐくまれた内面であり、その生活様式に反する者があらわれた場合には、防御的は行動をとるようなものである。

 日本では、各地域によってその生活様式は異なるが、日本的と言われるものが総体的な特徴である。因幡の白ウサギを引用したが、これを学ぶ場合には、オオクニヌシのように優しい人間となりなさい、八十神のように困った人に塩を塗り込むような卑しい人間になってはならないという教えがあった。
 地域における慣習を守り、一方でその慣習を破るような者がいれば村八分のような制裁が行われていた。地域でお互いに助け合い、思いやりを持って生きるのが日本人の美徳である。

 一方で、最近では、自分がよければ周囲の人間が迷惑を被っても知らんぷりをし、あるいは弱者を叩いて溜飲を下げるような人たちが増えたように思える。グローバルスタンダードという日本固有の文化と異なるものが侵入し、その中で不満を抱き、その不満を晴らすために弱者を叩く。あるいは周辺国や周辺国の人たちに対し、差別的な発言を繰り返す。
 この人たちは、八十神に見られるような態度をその行動原理としているようにも見えるが、この人たちこそが、自分たちは愛国者であり、弱者や周辺国の人たちに優しさ、思いやりを示す人たちは売国奴である、というような発言を繰り返している。
 これは愛国心とは異なるものであり、単なる暴力的な排外主義であり、自己中心的な人間というべきものである。

 失われつつある日本人の良さを取り戻して欲しいと感じる。
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朝鮮半島からの渡来系である天皇家、神話による神聖化

2013-01-12 10:58:10 | 日記
 高天原から日向に降臨したと神話に書かれるニニギ、そのニニギを天下らせたのは、日本書紀によれば本来の祖神であるタカミムスヒ(高皇産霊尊)である。
 このタカミムスヒは太陽神であり、朝鮮半島の始祖と同じく騎馬民族が崇めた太陽神である。例えば、現代なお農耕儀礼が重要な意味を持つ地方で、崇拝の対象となるのはもっぱら水の神、山の神である。神話の構造からも天皇家が朝鮮半島系であることがわかる。平成天皇が、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と発言したことも記憶に新しい。

 朝鮮半島から渡ってきた天皇家は、北九州、山陰地方にはすでに強大な豪族が勢力を展開していたため、南九州に上陸し、その後、日向地方で農耕を営みながら勢力を拡大していく。戦いを繰り広げる中で特に強大だった出雲の勢力との争いが困難を極めたことや、土着勢力の神話を取り込む必要があったことから、国譲りの話を象徴的に物語に取り込んだ。
 やがて大和の地へ進出するが、そこでも抵抗に遭うもののやがて大和の地も支配することになった。

 朝鮮系である天皇家は自分たちの支配を正当化し、また自分たちの存在を絶対化するために神話を作り上げる必要があった。この神話が日本書紀であり、完成したのは720年である。

 土着の神話を取り込む中で、本来の祖神であるタカミムスヒから土着のアマテラスに祖神を変更し、天孫降臨の話により王としての神話的能力、すなわちカリスマ性を身につけさせ、神聖性を表現する。
 その後、神武東征の神話によりその神聖な天皇家の武力支配を正当化したのである。

 アマテラスについて、天空高く輝く超絶的な太陽を明確に神格化し、祖神として独占し、それと結びつけて天皇家の始祖の地上界統治の由縁を語ることによって、支配者的地位の神聖性・絶対性の証としようとしたのである。

 明治期以降、このような神話による民衆の心理的従属を行い、天皇をカリスマに仕立て上げることによって、国家主義を内面的にささえてきたのが政府であり、靖国神社でもあった。
 第二次世界大戦に敗北した後、このような神話による統治は廃止され、日本国憲法により法治国家となったが、戦後レジームからの脱却と宣う安部晋三内閣は、国家による民衆支配を確立するため天皇や靖国神社を利用し、民衆を欺きながら国家による支配を強化するのではないかと不安である。
 権力者による専横から国民を守るものが憲法であるが、この憲法改正に執着する安部晋三は、憲法の意義も理解できず、劣った自分を国家によって補完しようとする弱者にしか思えない。合理的な思考ができない総理の下で、感情的な、神話的な、あるいは宗教的な話によって、国民を守るべき憲法がその姿を変え、また、国の政策がゆがめられるのは日本の悲劇としか言いようがない。

(参考)
 タカミムスヒ(高皇産霊尊)。タカミは尊称、ムスは生ずる意で、「君が代」の歌詞にある「苔のむすまで」の「ムス」と同義。ヒは霊力を意味する。「偉大な生成の霊力」を意味している。
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