おはようございます。トピアリスト宮崎雅代です。
4月13日は石川啄木の忌日。
1912年の今日、肺結核により27歳で亡くなりました。
私の義父の父、つまり祖父宮崎郁雨(大四郎)は石川啄木の妻、節子の妹ふきを妻に迎えており、彼とは親戚ということになります。
私が嫁に来たころ、沢山の写真を見せていただき「へぇ~」と驚いたものでした。
義父の死去を機に、義母はそれらの写真を函館市中央図書館に寄贈し、その梱包作業を手伝ったことを思い出します。
理由は、次の世代に負担を掛けたくないから。
確かに啄木研究者を名乗る方々がひきもきらず訪れ、義父母はその対応に忙殺されていました。
また、その折に「すこ~しずつ」開示した資料が減っていったことも記憶しています。
誰がどうしたなどわかるはずもないのですが。
学術を極める(と思い込んでいる)方々はいろいろだ、という事も知りました。
味噌製造所「金久」の坊ちゃまだった義父は生活力のなかった啄木に関わることを嫌っていました。
しかし、義父の従妹だった義母は丁寧に来客に接していました。
またその記憶は素晴らしく、まるで石川啄木の生き字引のような人でした。
あ“~なんであの時写真をスキャンしていなかったのか。
改めて宮崎郁雨のウィキペディアを見ると、あ、あの時の!という写真が沢山でてきます。
これ、どこから入手したのかな。
ともあれ、おじいちゃま郁雨とそれを黙って支援した宮崎家のおかげで今の私たちは護られている、と感じるのです。
義母が話していました。
おじいちゃま(宮崎郁雨)だって当時は若造。
見守り支援したのはその家族だ、と。
文学を愛したおじいちゃま、ありがとう。
▲石川啄木記念館の企画展ポスター(2015年)
▲妻フキとおじいちゃま(中央と左)