占いの部屋

宮崎県高鍋町で占いを致しております。

お気軽にお問い合わせ下さい。

暗殺

2018-01-14 10:56:40 | 日記

NHK 長谷川浩解説主幹の変死 2001年10月 じっくり掘り下げてみました
<< 作成日時 : 2012/07/16 22:41

驚いた ブログ気持玉 500 / トラックバック 1 / コメント 13

画像
NHK解説主幹、長谷川浩氏
9.11事件の1ヶ月後に
NHK内で変死

2001年10月17日の朝日新聞夕刊にNHKの解説委員主幹である長谷川浩氏(55歳)の変死を報じる小さな記事が掲載される。同氏はNHK放送センタービルの近くで発見されたもようで、自室の窓から転落したと見られている。同氏は国際テロについての専門家で、同年10月10日に放映された9.11同時多発テロをテーマにしたNHK特別番組「あすを読む:新しい戦争と世界」で自説を述べていた。その中で同氏は世界貿易センタービルの攻撃の犠牲者の中にユダヤ人が一人もいないという事実を指摘していた。長谷川浩解説主幹は同番組の中で、世界貿易センタービルに勤務するユダヤ系の職員のほとんどが、9.11のまさにその朝に奇妙にも欠勤していたと語った。


2001年9月11日:起算日
いわゆる“9.11事件”が起こる。


2001年10月10日:29日目(9.11から)
9.11事件の1ヶ月後に、長谷川浩氏はテレビの特別ニュース番組で同事件について話をしていた。
NHK特別番組「あすを読む:新しい戦争と世界」という番組で、9.11事件後の約1カ月間に、長谷川浩解説委員を主幹とするNHKの解説委員たちが総力をあげてこの大事件について調査・研究した成果を発表したものである。長谷川氏は8名のパネリストのうちの1人として、自らの徹底した調査に基づいて、世界貿易センタービルの犠牲者の中に奇妙にもユダヤ人がいなかったことに触れた。そして、9.11同時多発テロの首謀者がアラブのテロリストであるというブッシュ大統領の声明を鵜呑みにすることについて、視聴者に注意を促した。


2001年10月15日:34日目(9.11から)
長谷川浩氏は、上記のテレビ出演のわずか5日後にNHK内で変死しているのが発見される。
NHKの解説委員である長谷川浩氏はテレビ出演での発言のわずか5日後に自らの職場であるNHKの敷地内で横たわっているのが午前11時すぎに発見される。正確に言えば、発見された時点ではまだ死んでいなかったもようである。状況からして高層部の自室の窓から転落したように思われたが、けっきょく検死解剖もされなかったので事実はわからない。遺書などはいっさい残されていなかった。家族も同僚も同氏が自殺するような動機はまったく思い当たらないとしている。


長谷川氏の死亡について日本のメディア内で組織的な無視もしくは隠ぺいと思われる動きがあった。
奇妙にも、同氏の死亡はその日に報道されなかった。同氏のまさに職場であるNHKのテレビニュースでも、民放のニュース番組でも、そしてその日の日本のどの新聞でも報じられなかった。もしこうした変死が午前中に警察に通報されれば、夕刊には報道されるはずである。長谷川氏の死亡事件の場合、同日の夕刊に優に間に合うはずであったが、実際は報道されていない。かりに夕刊に掲載されるのに間に合わなかったとしても、テレビの午後や夕方のニュースではいくらでも報道できたはずである。NHKの場合、自局の敷地内で起きたことであるから、まさに降ってわいた“スクープ”だったかもしれない。しかし、けっきょくどのテレビ局も長谷川氏の死亡事件をその日に報道することはなかった。これは戦後の日本のメディアの歴史において非常に異例で異常なケースである。


2001年10月17日:36日目(9.11から)
記事の“差し止め”がついに解除、しかし不当に小さな扱い
長谷川氏の死亡を報じる小さな記事が“発見”の2日目についに大新聞に掲載される。しかし、朝刊ではなく夕刊であった。実は、報知新聞は大新聞に先駆けて16日に報道していた。大新聞の場合、“差し止め”は50時間を超えたことになる。そしてその解除も差し止めと同様、日本のメディアの上層の誰か、もしくは何らかの力によって、もしくは日本政府の、はたまた何らかの海外からの力によってなされたのかもしれない。さて、大新聞に掲載された同氏の死亡記事はいずれもごく小さな紙面を割くにすぎず、その大きさは名刺大ほどで、写真もなく、どれも同様のそっけない記事である。どの新聞の記事も、死者1名の交通事故の記事のような書きぶりである。長谷川氏の場合、明らかに死因が不審であるにもかかわらずである。報道されるまで50時間以上もかかっているわりには、詳細が書かれていない。新聞紙上のそれらの記事はあまりにも小さく、しかも変死にしてはあまりに扱いが軽かったために、当時、長谷川氏の死亡事件は一般の注意をほとんど引かなかった。背後で忙しく暗躍していた人間にとってはまずまずの成功であったのかもしれない。


こうした報道は“予防的な最小限のメデイアリリース”というものかもしれない。全面的な無視はいずれにしても不可能であるし、むしろ余計に疑惑を招いてしまう。いくら完全な隠ぺいを図っても、けっきょくいつかは暴露され、逆に隠ぺいを図ったことを追及されることになるのがオチである。長谷川氏の変死に対する注意・関心のレベルを可能な限り低く抑えるという目的のためには、死亡記事を、桁違いに小さな紙面で、しかも2日間という冷却期間を置いてから出させるほうが、受け入れ難い度合いがより少ない選択肢だったのかもしれない。いくら不当に小さな扱いであっても、隠ぺいはしなかったという言い訳にできるかもしれない。

警察は検死解剖をすることもなく、自殺と断定した。
問題の2日間ものの差し止めの期間に、同氏の遺体の検死解剖はなされていない。これは変死、不審死の場合、通常考えられないことである。殺人の可能性の線での捜査もなされていない。遺書も残されておらず、遺族や同僚たちも自殺の動機は思い当らないとしている。”転落死”であるとするならば、事故の可能性もあるだろうが、警察はその可能性すらも排除し、検死解剖もすることなく単に”自殺”と断定した。遺体は検死解剖されることなく火葬された。


長谷川浩氏に関する情報はネット上で今でもコントロールされている。
長谷川氏のかつての存在と業績は、彼の死後、組織的に可能な限り消されてきている。NHKといえども、さすがにそのウェブサイト上の放送の記録から彼に関するものをすべて消すことはできない。たしかに記録はある。ただし、タイトルだけである。中身はない。逆に彼の活動の痕跡すべてを消したら、却って怪しまれるだけであろう。長谷川氏は、亡くなるまでの数年間、NHKニュースの解説主幹として非常に活発な仕事ぶりであった。“あすを読む”という自分の番組を持ち、主に国際関係、防衛問題、国際テロに関したテーマで鋭い分析、解説を披露していた。9.11事件が起きると、同氏は同事件に取り組む上でNHKの中で自然にリーダーシップを取ったし、日本の中でも同氏がリードしていた。彼は自分の“あすを読む”に1997年から 2001年10月まで60回近く出演している。しかし、今日現在、それらをNHKは公開しない。また、それらの番組について触れたウェブサイトも多数あったに違いないが、現在ネット上ではほとんど見つからない。それらは組織的に回収されたか削除されたように思われる。

長谷川浩氏の写真について言えば、NHKの看板解説委員で信頼性のあるコメンテイターとして数多くの写真がネット上に流布していたはずであるが、現在ネット上には、たった1点、それも小さくて、ざらついていて、色の薄いものしか見つからない(本ページのトップを再度参照されたし)。これも、余計に疑惑を招くことを避けるためにすべてを消さずにおく“最小限のリリース”の例の1つであろうか。彼の写真のこの少なさ(1点!)は、他のふつうに物故したニュースキャスターの場合と比べてみても極めて異常である。ここには何らかの見えざる力による組織的な抹殺の臭いがする。


素朴な質問:
-長谷川浩氏の変死と、亡くなる5日前のNHKのニュース番組での同氏の指摘とのあいだには何らかの関係があったのだろうか。
-もしあったとしたら、それは同氏の指摘が本当だったからなのか、まちがいだったからなのか。
-同氏の指摘は、誰かに、もしくは地球上のある人々にとってそんなにも不都合なことだったのだろうか。

”NHKの長谷川浩氏”がタブーであってはならない。彼は希有な功労者である。
9.11事件には多くの謎がある。ジャーナリストであれ、一般人であれ、同事件に関係して謎めいた死をとげたひとは少なくない。ある人々は9.11についての真実を知ろうとしていて、また別の人々は図らずも9.11の真実をたまたま知ってしまったように思われる。9.11についての真実を追求する人々はしばしば“9.11の真実追求者(9/11 truthers)”と呼ばれる。長谷川浩氏は、9.11についての真実を追求するなかで最初に命を奪われた “9.11の真実追求者”だったのかもしれない。ジャーナリストは、そもそも好奇心が旺盛である。本物のジャーナリストは真実の追求をやめはしない。真実の追求が抑圧されたり、妨害されてはならない。

長谷川浩氏と彼の死を闇に葬ってはならない。彼の変死は、彼が世界に伝えようとした事実の重大性を物語っている。また同時にその重大さを十分認識しながらも真実の追求、公表をやめなかった彼の勇気も物語っている。しかし、彼の変死についてのその後のメディアの沈黙は日本のマスコミが死んだことを意味する。(何も報道しなかったわけではないと後で言い訳できるように小さな記事だけは掲載してあるだろうが、それっきりである)ここで、ご注意願いたいが、日本のマスコミが死んだのは長谷川氏が死んだからではない。そうではなく、日本のマスコミが長谷川氏の変死について触れることをずっと避けているからである。真実から逃げるジャーナリストはニセモノであり、死んだも同然である。日本のジャーナリズムにとって“NHKの長谷川氏の変死”に触れることはタブーなのである。あなたが今まで“NHKの長谷川氏の変死”について知らずにいたという事実そのものが日本のジャーナリズムの闇と現代史の深淵を物語っている。

このページの英語版は以下にあります。
NHK Hiroshi HASEGAWA and 9/11

渡部悌治

2018-01-14 07:03:59 | 日記


渡部悌治氏のユダヤ研究


 (最新見直し2013.03.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 渡部悌治「ユダヤは日本に何をしたか」(成甲書房、2009.4.30日初版)を確認する。今や日本のユダヤ禍研究の古典的地位を占めている本書をざっと読みしていたのを精読してみた。時間があれば、有益な個所を拾い出ししてサイトアップしておきたい。目下は、ネット上に出ていたのを拾っている。 「黒船来航時のユダヤのラビの呪い」の出典を探して読み始めたのだが本書には記載がなかった。それはともかく本書の有益性が分かったのが収穫だった。

 2006.1.14日 2013.3.22日再編集 れんだいこ拝

【渡部悌治氏の履歴】
 渡部悌治氏は、明治45(1912)年山形県生まれ。東北学院神学部から国学院に転学。昭和16(1941)年卒業後、神道大教本局・神道学院に奉職。1943(昭和18)年より1945(昭和20)年の敗戦による解散命令の日まで、当時ユダヤ研究の最先端機関であった「国際政経学会」監事を務める。実際にユダヤの手先・工作員らの動きを丹念に調べた。

 大田龍の時事寸評№2753回(2009.4.10日)は次のように記している。
 2753回、2009(平成21)年4月10日

 渡部悌治先生は、明治四十五年生まれ。國學院大学卒業。国際政経学会(昭和十一年から二十年まで)唯一人の証言者である。しかし、明治四十五年生まれと言うことは今年九十九歳。数年前から、年賀状の交換も行われなくなり、「ユダヤは日本に何をしたか」(成甲書房刊)も絶版になっていた。しかし、今回、成甲書房は渡部悌治先生の娘さんに当たるお方、孫娘に当たるお方と連絡を取り、ご親族との出版契約を結んで正式に復刻出版が実現した。

 本書は、日本における民族派有志にとって、必読必見の著作である。本書にはきわめて多数の極秘情報が掲載されている。そのうち一つだけ挙げておけば、それは堀川達吉郎問題だろう。渡部悌治先生によれば、堀川達吉郎は、大正昭和初期、まぎれもない日本におけるフリーメーソンの代表格であった。と、述べられている。堀川達吉郎が、かつて、日本におけるフリーメーソンの代表格であったとすれば、中丸薫とは何者なのか。渡部悌治著におけるもう一つ重要な情報は、「日支闘争計画」であるだろう。(了)

 【注】本書は自費出版として「攘夷の流れ」として最初刊行された。[新版]「ユダヤは日本に何をしたか」渡部悌治著、成甲書房。四月十六日発売。
【「ユダヤは日本に何をしたか」目次】
序として
第1章  フリーメイソンによる数々の対日謀略事件
日光屋敷の怪
東北帝大青年助手変死事件
民間組織「攘夷の流れ」の本流
原爆の機密を売り渡した湯川秀樹
真の戦争犯罪人ユダヤ
日米交渉妥結を壊した黒田善治
チャーチルが熱望した日米戦争
あてがわれた女たち
秘密地下室の拷問部屋
謀略の中心は外人宣教師
空襲を手引きした二人の日本人
賀川ミッションの対日戦略
ライシャワーと黒田善治
第2章  世界支配を狙うフリーメイソンの正体
フリーメーソンのユダヤ化
満州国の存在を許さなかったイルミナティ
ロ―タり―・クラブも外郭団体
仕組まれたマルクス理論
世界支配に邪魔な日本への敗戦指令
皇室キリスト教化の策謀
「迫害」という言葉で惑わす切支丹不況
キリスト教者どうしの熾烈な対立
「建国会」にまで延びた第三国の手
右にも左にもカネの両刀戦術
第3章  ユダヤが策した日支闘争計画
実施期間は太平洋問題調査会
蠢動したゾルゲ
コミンテルン第7回大会と特別指令
日本がとらされた南進策
西安事件の立役者
ユダヤの操り人形ルーズヴェルト
夷をもって夷を攻めさせる策
ひきずり込まれた日支事変
和平交渉は時間稼ぎだった
日支闘争継続がユダヤの利益
第4章 第二次世界大戦の筋書き
「王冠を懸けた恋」の裏側
状況次第でつけかえる二つの仮面
戦争はユダヤによって作られる
南進を決定づけた諜報レポート
 第5章 ユダヤの陰謀に踊らされた日本人たち
山本五十六メイソン説
国全体がユダヤの諜報網の中に
天野辰夫との会談
大川周明が戦犯を免れた真の理由
大川に接近した甘粕正彦の真意
大杉栄殺害の裏のユダヤ禍
頭山翁に問うた中野正剛自刀の原因
石原莞爾のユダヤ利用論
疑惑の東亜連盟
帝国大学新人会
浅原健三の偽装転向
二重スパイだった宮嶋鎮治
堀川辰吉郎を利用した岡田茂吉
大本教をめぐる人々
架空の人物イエスの墓
 第6章  キリスト教の三次にわたる日本攻略
先達なき集団と化した日本
ローマ法王の工作員、サビエルの挑戦
宣教師サビエルはユダヤ人
アヘン取引拡大に来航したペリー提督
第三次挑戦を担ったマッカーサー
  おわりに
 
 序として(11P)

 「私は明治の末年、山形県酒田湊(さかたみなと)の商家に生まれた。幼くして無常を観じ、菩提寺の住職の慈愛に浴して在家の悟りを求めた。生家には法印、行者の奇寓する者が多く、法力・法術の競いを見て育った。十代の初めキリスト教の牧師と接し、イエスの教説に感ずるところあり、その機縁によって仙台の東北学院神学部に入学した。学院の生活以外に、早朝はカトリック教会の礼拝、夜は善導寺の念仏の会に、旧制第二高等学校の知友らと参修した。また、日時を定めて東北帝大に来講されていた宇井伯寿博士の仏教学を仙台の東本願寺で聴講する機を得た。その間、ユダヤ問題を東北帝大の奥津彦重師に学び、同じ頃日本におけるユダヤ問題の体験者、熊谷寂師の知遇を得た。師は純正愛国陣営の聖者と称された渥美勝先生の懐刀であり、学生時代、ユダヤ・キリスト教の対日工作の内偵中、毒を盛られ九死に一生を得ていた。渥美先生も、牧師の吉田清太郎宅で毒にたおれた。渥美先生の道統の骨子は、武士は死して名を遺し、虎は死して皮を残すというが、ひとり純正愛国陣営の徒のみは、名さえ残さぬのみか、汚名さえ着せられて逝く覚悟に徹さねばならぬ。暗雲が漂うとも、決してクーデターを起こしたり、加わったりしてはならぬ。それはわが国に内乱を起こさせて金融支配を狙うユダヤの計画によるものだからである。日本人として、この生命をもって何に捧げようかを己に問え。というものであった。私もまたこの道統を継ぐため、東北学院の神学部を退学し、国学院大学に山本信哉先生を頼って入学した。初めて大学に入った日の昼のことである。正門の皇太神宮に「禊(みそぎ)」の中野佐柿師に伴われて拝礼した刹那、瞬時、天空より一筋の雷電が頭骸を徹し、脊椎を貫き、足下に突き抜けた神秘を体験した。冲天あくまで碧(あお)く深く、大地に立ち天を仰ぎ、先祖の活き徹しのいのちの霊統を感得した。………草莽(そうもう)の民 渡部悌治」
 日光屋敷の怪(11P)

 「昭和の初めのことである。春の穏やかな日の朝、ある友人が、二人づれの外人とボートで横浜港の水際から沖に向かって漕ぎ出していくのを遠目に見ている青年がいた。翌日、一人の若い男の死体を乗せたボートが沖に漂っていたことが報道された。警察当局が、その男の死因を捜査したかどうかは不明であるが、何らかの有力な筋からの証言があったとかで、この男の死は自殺として処理されたのである。死体で見つかったこの男は、第三国の諜報網に属していた貿易商社の社員であった。その商社は、第三国人であった先代の社主の死後、先代の現地妻と組織、財産とを受け継いだ日本人が経営しているものであった。自殺と断定されたこの男の死について、彼が外人二人とともにボートを漕いでいくのを遠目に眺めていた青年は、この死を暗殺と断じ、日本を狙う第三国の陰謀と対決する決意をして、その対日諜報ルートを辿っていった。すると、謀略本拠と見られるものが、フリーメイソンの集会所であることを知った。それが横浜の根岸不動坂にあった通称「日光屋敷」である。

 日光屋敷とはサンシャイン屋敷のことだ。サンシャインという名称はユダヤのものに多い名である。三越デパートのライオン像に類似のものが、その外部に取り付けられてあった。日光屋敷は後年フリーメイソンロッジと明示して移築されているが、昔はフリーメイソンロッジとは言わず、「ユダヤの寺」と呼ばれていた。メイソンロッジをユダヤの寺といっていたということは、とりもなおさず世人がフリーメイソン結社がユダヤのものであることを肌で感じていたということであろう」。
 東北帝大青年助手変死事件(30P)
 原爆の機密を売り渡した湯川秀樹(35P)

 戦時中、日本で一日も早くその完成が待たれていた、マッチ箱一つの大きさで戦艦一つを沈めうるといわれていた新兵器は、今日でいう原子爆弾のことであった。そして仁科芳雄博士の研究では、実験段階では既に完成していた。しかし、その基礎理論が完結を見ないでおり、理研内では研究員たちが手分けして研究にあたっていた。それが一応のまとまりをみたとき、これを一つの学説として発表してはどうかという案も出たが、軍の機密に属することでもあり、早計に外部に漏らしてはならぬという仁科博士の意見で発表は厳禁されていた。ところがそれを、当時理研にいた研究補助員の湯川秀樹が米国に売り渡したのである。米国は終戦後、湯川の功績の論功行賞としてノーベル賞を授与させている。米国のためになったということで褒美がもらえたのだ。まさに国賊である。 
 真の戦争犯罪人ユダヤ(36P)

 こう見て来ると、第一次世界大戦もユダヤの世界支配計画によって勃発させられたものであり、それゆえに敗戦によってドイツが賠償の責を負うこともなかったし、第二次世界大戦後の日本における東京裁判もまったく不正義なものであつた。すべてユダヤの為すがままの世界の動きなのだ。今や世界は一つになって、ユダヤのことを考えてみなければならないことになる。まさに「ユダヤ対世界」という図式の問題である。

 第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、ユダヤが計画し、勃発させたものである。それゆえに英国の元首相チェンバレンも、「イギリスに戦争を強いたのは、アメリカと世界のユダヤ人とである」と言明していたのである。真の戦争犯罪人はユダヤなのだ。
 あてがわれた女たち(44P)

  そして、ここに私は、原子兵器関係の機密に関連した東北大学金属研究所に起きた一青年助手の死が、単なる自殺として葬り去られてはならなかった理由をみるのである。彼の死は、宮城県警当局によって自殺と断定されたのだが、それは既に日本が敵国の張り巡らしていた対日攻略網に取り込まれていたからであり、真相究明のために捜査に乗り出すとしても、その上層部にはそれを阻む組織ができあがっており、満足な捜査もできない仕組みになっていたのである。 ここで、この失踪死した金属研究所員の件をいっそうよく理解するために、この青年の周囲の状況を振り返ってみることにする。

  菊池清太郎というこの青年は、仙台市の東北帝大に籍をおいていたが、彼のように重要機密の研究にたずさわっていた軍関係の委託学生や青年技術下士官たちは、等しく敵国スパイの狙うところであり、その謀略の罠からは容易に逃れ得なかった。

  まず、彼らには手頃の女性がかならずあてがわれる。それら女性の身元、品格、性情なども綿密に調べ上げられており、あてがう男の好みにあった女性がつけられる。カトリック教会や聖公会につながる良家の婦女子もあれば、夜の女たちもいた。 したがって、その関係も正式に結婚を予定したものもあり、単に性の享楽だけの者もいた。その逢い引きには、あらかじめ諜報のためにしつらえられていた共産党員の家や、東亜連盟の関係者の家の一室が提供されていた。

  情報の盗り方にもいろいろあったが、特定の良家の子女と婚約していた委託学生が、婚約者以外の女性と、仕組まれた場所で会っていたとする。あらかじめ指示を受けていたその女は、きわどいところまで男を誘っておき、頃合いを見て叫び声をあげ、助けを求める。そこに主人という男が踏み込んで、その学生の弱みを握り、許嫁者(いいなずけ)の親元に言うぞとおどして機密を聞き出し、その後も「機密を漏らした」ということで、さらに深く探り出すという仕組みもあった。

  このようにして洩らされた機密が敵国に流れ、それによって精鋭青年技術将校団の移動が敵に知られ、極秘に極秘をかさねたにもかかわらず、忽然と雲間から舞い降りる敵機や、突如波間に浮かんだ潜水艦によって、一瞬で海の藻屑となって消え去った悲劇が幾度もあった。
 秘密地下室の拷問部屋(47P)

 私が仙台の空襲の報を聞き、東京から翌朝仙台に着いてすぐ現地を見にいったところ、建物も地下室も空爆を受けて跡形もなく破壊しつくされていた。大東亜戦争直前に真白く塗り替えられた細い高い煙突の換気搭も、空襲の目標としての任務を終って瓦礫となっていた。(中略)

 東京が空襲されていた頃、私は銀座方面に出かけて、敵機がどこを狙うのかを確かめようとしたことがある。大本営では敵機の盲爆を宣伝していたが、実際は逆で極めて精確であり、見事な狙いだった。敵の攻撃目標を事前に察知することは、市民を被曝から守るために絶対に必要なことであった。敵機が爆撃しない地点、市民を誘導して待機させうる場所、それはいくつか予断できた。例えば、動坂の聖学院、銀座の教文館ビル、服部時計店などもそのうちの一つであった。実際、銀座の空襲直後に見回ったところ、服部ビルと教文館ビルとは無傷でそのまま残り、紙一重で両ビルの間のビルと商店街は壊滅させられていた。
 フリーメーソンのユダヤ化(64P) 
 満州国の存在を許さなかったイルミナティ(67P)
 世界支配に邪魔な日本への敗戦指令(76P)

 その国その民族から国家意識と民族感情を取り去って、いわゆる精神的国際人を作り上げるために「ユダヤの寺」が用いていた観想の法に、「心内の声を聴く」という心霊術系統の念法があった。聖霊主義を唱えていたキリスト教諸派・終末論的無教会派など、いずれも同じ流れを汲むものであり、心霊術の研究とテオブル・ティピングなども、この寺に出入りする者たちの間で流行していた。

 この心霊術系統の諸研究は、その頃の日本の新興宗教の根底をつちかうものになったのであるが、大本教をはじめとして大禮堂、岡田茂吉のメシア教、大本教から出て般若心経の空観に立ち、華厳の実相論を踏まえ、カールメニンジャーとクリスチャン・サイエンスの体系を作り上げた谷口雅春にいたるまで、いずれも「心内の声を聴く」系統につながるものである。一般に実相論起こりて国滅ぶといわれるように、インドも大乗実相論が普及して国家が滅んでいる。


 心内の声を聴くには国境はない、という考え方になると国家を脱することとなる。信教の自由を唱えるフリーメイソンはそこを狙っている。心内の声によって国を失い、やがてきたるべき神の子の天降りを待ち望むこと、これ旧約の書と新約の書であるキリスト教教典の示すところだ。

 キリスト教会で使う児童向けの絵カードに、白衣に緋色の衿姿の少年が、天空から射る光の中に座した姿のものがあった。聖公会で目にしたものだ。これはイエスの再臨を表現している(引用注:実は反キリスト世界王ですかね)。これが昭和初期のキリスト教の「神の国運動」であり、ユダヤの寺で説いていた「主の道を直くせよ」との意味なのである。そして、「天降るべきユダヤの王」のために直くされた道とは、すなわち国際連合を意味するのである。

 人種、民族、国境は人為にすぎず、国際連合によって主の道を直くし、そこにユダヤの王が天降るのだということは、とりもなおさずユダヤの世界支配を意味する。主の道を直くするためと称して、ユダヤは第一次世界大戦を勃発させ、それによって国際連盟を作り、各国に主権と軍備とを認めてしまったためにそれは失敗に終わったのだとして第二次世界大戦を計画し勃発させ、それによって第二次の国際連盟、つまり国際連合を樹立したのである。昭和十六年(一九四一年)二月の、世界ユダヤ人会議[World Jewish Congress]議長ゴールドマン[Nahum Goldmann, 1895-1982, Polish/Israeli Zionist. President, World Jewish Congress, 1948-1977. President, World Zionist Organization, 1956-1968.]の言明どおりである。
 このゴールドマンの言葉を受けて、イスラエル初代首相ベングリオン[David Ben-Gurion]は次のように発言している。「すべての国々は世界支配されるようになり、国際警察のもとに管理される。すべての軍隊は破壊され、もはや戦争は存在せぬ。エルサレムで本当の意昧での国際連合が、世界連邦のための預言者の神殿を造るであろう。これは世界連邦のすべての論争を解決するための人類の最高裁判所の座を占める」。
 それゆえに、ユダヤ・フリーメイソンとキリスト教とコミンテルン(国際共産主義)の三つは三位一体のものであり、これらに対してわが愛国陣営の先覚は等しく攘夷の態度をとり、その適性からわが国を守ろうとした。すなわちわが国の愛国陣営は、既に早くから敵の正体を見すえていたのである。

 かつて国際連盟が開かれていた頃、その会合の開催される前日にかならずユダヤ会議が開かれ、その予備会議で決定されたとおり本会議で議決されていた事実は、会議に参集していた各国の情報官によって伝えられている。

 ユダヤと利害をともにすることができなかった国家群が、国際連盟を脱退しなければならなかった原因もここにあったのである。 キリスト教とユダヤ・フリーメイソンとコミンテルン、これらをつらぬく敵性が、歴史と伝統とを保持する国々に革命を起こして滅ぼし、これら敵性に拮抗して自国と民との自立共栄を念願していた国々を地上から抹殺しようとした理由もまた、この「主の道を直くする」ということのなかに意図されていたのである。

 「主の道を直くする」というユダヤの寺の教理はその後も永くキリスト教伝道の基調になってきたのであるが、日本における「神の国運動」も、ユダヤの王の再臨を準備するということであって、賀川豊彦らがアメリカ共産党からの資金によって主唱していたものであった。この運動も日本に敵国の内応者を養成する企みからなされたものだ。キリスト教の単なる信仰上の運動なら問題はなかったのだが、陰に隠された企みがあったのである。

 この陰謀は、私が東北学院の神学生だった頃、御殿場の東山荘で開催されたキリスト教青年夏期講習会に出席し、講義の内容と講師たちの密議から体験によって知りえたことである。

 「日本人がユダヤの王の前に立つためには、日本という国家を背負った驕り高ぶったままの姿であってはならない。悔い改めによって遜らなけれぱならぬ。日本人はそう簡単には国を捨てない。国を捨てさせるには、国そのものを無くしてしまえばよろしい。それは戦争によって日本を負かすしかないのだ。日本が戦争に敗れて打ちのめされて初めて遜るようになるのである。そうなれば天皇の神格も地に落ち、国民も拠りどころを失う。それによって日本も共和国となりうる」というのが密議の主旨であった。

 回顧すれば、昭和六、七年頃からユダヤ・キリスト教はすでに日米戦争を予定して計画を進めていた。中国・日本に差遣された宣教師らも、その使命をおびての伝道であった。マッカーサーによる来攻の目的もここにあったと断ずることができる。いつか 賀川豊彦の近親の者が、「何が理由で収監されたのかわからない」と雑誌に書いていたが、収監を進言したのは私なのである。その理由は前述の密議の内容に基づいて、賀川が収監直前まで日本敗北の運動を鼓舞していたからだ。

 米国共産党のユダヤ人サムエル・ゴンバース[Samuel Gompers]との関係を保っていた賀川豊彦らが、日本を「反戦ではなく戦争によって敗戦させ、それによって革命を実現する」というユダヤ・フリーメイソンの敗戦テーゼに従ったものであった。賀川らが米国系共産党員としての本性を発揮して、日本の敗亡を目指した神の国運動を展開し、日本の革命を図ったという理由での収監であった。
 「迫害」という言葉で惑わす切支丹布教(83P)

  そもそもキリスト教の日本への渡来は、天文18(1549)年にフランシスコ・デ・サビエルによって始まったものである。彼らが何をしに来たのかといえば、黄金の国ジパングをポルトガル王やローマ法王の領土にするための尖兵として来日したのである。

  サビエルはカトリック教会の主であるローマ法王の僧兵団の一員であり、東方渡来はジョアン三世の要請によるものであった。彼はローマ法王パウルス三世から聖使に任ぜられ、インドにおける法王の代理としての全権を与えられ、ポルトガルの東方植民地の官吏のすべての上に、一切の俗権を行使できる権能を与えられて来たのである。インドにおいて土民をキリスト教に改宗させるために宗教裁判を実施し、改宗を強制し、従わない者は惨殺・焚刑に処した。富裕の者の財産は強奪して僧兵団の手に没収し、僧院・教会を建設した。

  天文18年夏、日本は黄金の国であり、数百万の人口を有するジーペンの人たちを改宗させれば、巨億の富が入ると思い定め、日本の首都を目指してマラッカを出帆したのである。 彼の後、各派各団の宣教師らが渡来した。いずれもサビエルと大同小異の心組みで訪れてきたのである。日本の富と国土を狙って来た者であり、日本人を奴隷として売り渡したり、一国の領主に金を貸して領地を担保にして取り上げたりし、ついには島原の民百姓を煽勤して大乱を起こさせている。しかも原城に立て籠もって死んだ遺骸には、この信心深い素朴な人々の自殺行為を招来したイエズス会士も、一人のバテレンの遺骸も見つからなかった。煽るだげ煽りたてて死にいたらしめ、自分たちはとっくに逃げうせてしまったのである。

  これに対し豊臣・徳川は布教を禁圧し、宣教師らの国外退去の策に出た。これが国法であり、国禁であり、国をあずかる者の当然の施策である。国禁を犯し、国法を蔑(なみ)する者はこれを罰する。キリスト教が宗教裁判で異端・異教を焚刑・傑刑に処したように、徳川もまた同じことを行なったまでのことである。それを「切支丹殉教」とか「切支丹迫害」などと称するのはおこがましいかぎりである。日本人自らが発するべき言辞ではない。

  彼らバテレンたちは日本の金山・銀山を狙って金堀師らを帯同してきていた。今日でも鉱山の鉱脈の露頭に彫り刻まれた十字の印が見られる。そこには異人の堀り師が潜み、隠れ切支丹らの祈祷所としていたのである。
 ユダヤの操り人形・ルーズベルト(111P)

 山本五十六フリーメイソン説(144P)

 山本五十六が司令長官になった頃、ハーバード大学ルートの情報で、米国の海軍力は山本五十六が司令長官である間ならば、日本に撃って出ても勝算があり、悪く行っても五分五分で決着がつく。早々に戦端を開くべきだという海軍側の意向が伝えられて来た。しかもその理由の中に一項目、山本はフリーメーソンの結社員だからという条項が入っていた。(略) 山本五十六が、米内光政や高橋三吉らと、日独伊三国の軍事同盟反対の密議を凝らしていた場所は、東京麻布の狸穴(まみあな)にあった。この妾宅の若い女性は当時18歳で、新橋あたりで芸妓をしていた。(略) 山本が戦死した報を得て、須藤某が文書の遺稿でもと狸穴に訪ねた時には、すでにこの女性が一切を処理し終えた後であり、
 国全体がユダヤ諜報網の中に(146P)
 
 戦時中、米内光政の身内や縁故者たちから、国の機密に属する事柄が敵国に流されていたことは事実であり、しかもその事柄が、日本の戦争遂行を不可能にするほどの重要なものもあったことを特筆しておく。またこの縁辺の者のうちには、首相であった東条の鎌倉での生活苦を賄っていた者もあり、それらを取り巻く近親の者たちの言動から察知された国家機密が直ちに敵国に通報されていた事実も明白になっていた。

 日本に張りめぐらされていた敵国のスパイ網は、ミッドウェーの完敗を喫したように、誰かが写真に撮り、誰かが盗聴し、それを集めて誰かが通報するようなスケールの小さいものばかりではなく、はるか以前から計画的に仕組まれ、長年かかって出来上がった全日本的なものが多く、単に一回的なものだけではなかった。
 大川に接近した甘粕正彦の真意(156P) 

 満州の赤化が満鉄の調査局を中核としてようやくその激しさを増してきた頃、時の満鉄副総裁・八田嘉明は、赤化防止の方策を立て、安田生命問題のとき、北一輝とともに大川と袂を分かった島野三郎氏を東亜経済調査局長の椅子に据えようとしていた。このポストを狙っていた大川周明が、河本大作を操って自分が局長になる工作をし、それが実現して大川の局長就任となったのである。だが、それによって満鉄内には赤色勢力が滔々として流れ入り、防共の策も立たぬほどになったのである。このあたりの経緯については、戦時中、成城の島野氏の自宅を訪ねて詳しく聞いたところである。後になってから大川周三氏(周明実弟)に確かめたが前述のとおりの経緯ということであった。

 満鉄を赤の巣窟にし、大川に甘粕を加え、さらに黒川を足して満州協和会を作り、さらに石原莞爾が加わり、それに支那問題研究所とソルゲ・ルートの昭和研究会及び国際問題研究所まで取り入れた頃には、ユダヤの企てていた中国を中核とした一連による極東攻略の陰謀も、ほぼその実現の域に達していたのではなかったか。それゆえにこそ尾崎秀実は獄中にあって、「日本の革命準備は、九分どおり成れり」とうそぶいていたのではなかったのか。

 大杉栄殺害に関係した甘粕が、満州に渡る機会を得たのは参謀本部の人選による。甘粕が大川に師の礼をとり、大川の周辺に身をおこうとした真意が何であったかは不明だ。

 甘粕が金を出し、大川が人選にあたるということで、私の友人・香川文雄君が偶然にも選ばれてドイツに留学することになったことがある。満州からわざわざ東京・渋谷の私の下宿まで、渡独留学のことについて相談に来たのであったが、今さらドイツにまで出かけて勉強でもあるまい。ドイツで出来る勉強なら日本でも出来る。つまらぬ真似はしないことだということになって、留学の件を甘粕に返上した。だが、機縁というのは不思議なもので、香川君の代わりに選ばれたのが、やはり知人であり、同郷の★斉藤信治氏であった。留学先はカイロであった。日独交換学生を望んでいたのだが、同輩に出し抜かれて失意のうちにあったときの朗報であった。東北大学の小山教授の人選で、大川が甘粕に推薦したのである。★留学の目的は回教研究ということであった。もちろんこれは甘粕の特務機関用務であったと思われる。

 大川の弟の周三が、特務関係の仕事で南方に行けるつもりでいたところ、それが沙汰止みとなり、東京の近親のもとに身を寄せていた頃、その南方行きの沙汰止みは単なる甘粕の邪魔くらいにしか考えていなかったが、それは周明の行動に疑いの持たれるふしがあって、達識の士が周明の行動を調査させていたからであった。

 この調査にあたった者たちは中野学校系であった。行動に移る前の事前説明において、その説明にあたった人物が甘粕正彦その人だったのである。甘粕はその説明のなかで、大川がユダヤ財閥と特殊な関係を持って行動していることを明確に指摘したというのである。

 鮎川義介、大川周明、石原莞爾らが、ユダヤ利用論者であったことは周知の事実であった。甘粕が日華事変の長引くのはユダヤの陰謀によるものと断じ、世界を牛耳るのがユダヤであり、大川をその一連の者として厳重に監視するよう指示したことは、一体どう解釈したらよいのか。表面は大川の指示によって動いていたように見せて、裏では大川の動きを封ずる策に出ていたとみるべきであったであろうか。

 石原莞爾が戦後、郷里の山形に仮寓していたとき、私の友人でかつて石原の秘書であった桐谷誠君を使って、石原の対ユダヤ観を徴させたことかあった。桐谷君に石原は「利用論者」と告げたということであった。これで石原将軍もユダヤ利用論者であったことが明確になったのである。

 甘粕が日華事変の長引くのはユダヤの陰謀によるものと断じ、世界を牛耳るのがユダヤであり、大川をその手先の者として厳重に監視するように指示したのは、いったいどう解釈したらよいのか。表面は大川の指示で動いているように見せて、実は大川の動きを封じる策に出ていたとみるべきであろうか。甘粕は「南方に出張しました」と言っては大川宅に立ち寄り、妻女にワニ革のバッグなどを土産として持参していた。
 大杉栄殺害の裏にユダヤ禍 (159P)
  
 北一輝が刑死して、その遺骸が北家に送り届けられたとき、焼香に来た大川を北夫人が拒絶した話が伝えられていた。その大川は機会をとらえて、北と自分の関係が最後までうまくいっていたように見せようとしていた。自分が北に信じられていたということを、ことさらに印象づけようとして、極端に作為したのはどうしたことか。それは遠藤無水氏や横山雪堂和尚に尋ねる必要もなかった。愛国陣営の大川に対する不信を糊塗するための作為にすぎなかったのである。

 革命者として一家を成した北一輝が、単にその場その場だけの気分に駆り立てられる煽動屋にすぎなかった大川を、どの程度相手にしていたかは、北の腹のうちにあったことであり、私の想像は許されない。

 猶存社に堀やす子(*堀保子。堺利彦の義妹で大杉栄夫人)がおり、北の弟(*吉)が大杉栄からフランス語を学んでいたりしたためか、甘粕が大杉らに手をかけたことを知ったとき、北は激怒したという。その北一輝がヨッフェ問題では、その来朝を願っていたところの大川や満川亀太郎らとは反対の行動をとり、これが原因で北が大川や満川らと訣別するにいたった、と言われるほどの態度に出たのは何ゆえか。
 *北一輝『ヨッフェ君に訓(おし)ふる公開状』は、大正12年5月9日付で約3万部が全国に配布されたという。

 ヨッフェの来朝の工作をしたのは藤田勇だともいわれ、あるいはその以前に、大杉栄が後藤新平の内意を受けて北京に潜行し、事前の工作をしていたのだとも言われていた。その大杉を死なせた甘粕が、出獄してから川渡(かわたび)温泉に身を潜めていた理由は何か。単なる静養のためではなかったはずである。
     
 朝日新聞の国見特派員が甘粕を川渡温泉の高友旅館に探しあてる前に、既に渥美先生の懐刀の熊谷甚平(寂)先生が甘粕を訪ねている。そのとき甘粕は身辺に危険を感じ、身を潜めていたという。

 甘粕が出獄後、身辺に危険を感じなければならなかった理由として熊谷先生から説明をうけたが、大杉は愛国陣営から好感を持たれていたからだったという。大杉たちが憲兵隊員に連行されたときも、淀橋署員が尾行していたし、検束されたことが直ちに警視庁に通報されたのも、大杉に対する警察当局の特別の慮りからだったと当時の愛国陣営では考えていたようである。またある者は、大杉は警視庁の特命を帯びて危険思想の陣営に入りこんでいたものだとも想像していた。

 この大杉の★警視庁密偵説の真偽を確かめるため、私が私設秘書をしていた貴族院議員で元警視総監の赤池濃氏に尋ねたことがあったが、氏は言下に否定された。ちょうど会話が大和のや朝鮮人の頭目の鄭寅学のことにふれていたときであった。「私が警保の当路にあたったときのことであり、間違いない」とのことであり、故意に事実を蔽うふうでもなかった。生前の赤池氏からは、大杉栄と後藤新平との接触のこととか、ヨッフェ来朝の真意などについても聞いておくべきことが多くあったが、空襲を受けて話も中断し残念なことをした。その後間もなく大阪駅で暗殺の厄にあわれ、まったく心残りであった。

 大杉栄の警視庁密偵説を赤池濃氏にただしたことには付記することがある。甘粕が大杉を殺さなければならなかった理由を、甘粕自身の口から聞くこととする。

 ―上海のガーデンブリッジを渡り、一つ目の四つ角を右に入ったところに、酒池肉林の地下室を持つキャバレーがあり、その奥の部屋に、長身で黒眼鏡に鳥打帽の男が入っては消えてゆき、数日間は出て来ない男といえば、それは上海においての大川周明のことであった。大川は上海に現われると、その宿舎とされていたホテルやビルには入らずに、大抵は、まずこのキャバレーを通路としていずこへか消え、上海に出先機関を有するユダヤ財閥と連絡を保っていた。

 その大川の動静を探らせるための機関員に対して、予備知識を与えるために大川を解剖した甘粕の説明のなかに、甘粕の渡満のきっかけとなった大杉栄事件があった。甘粕の言うところによれば、大杉は★後藤新平の内意を受けて、ヨッフェ来朝に使いし、それが成功したので、いよいよ名声を博するようになった。甘粕がその大杉を抹殺しなければならなくなった理由は、★大杉がユダヤ財閥と深い関係を持っていたからであり、その殺害は、ユダヤと大杉との関係を絶つためであったという。警視庁は、親英米派である重臣どもの息がかかっていて実行できないから、憲兵隊でこれを始末するしかなかったというのであった。

 甘粕のこの説明のなかで、特に興味を覚えるのは、彼がはっきりユダヤ禍を口にしたことである。そのユダヤの陰謀が日本に禍いしていたこと、さらにはユダヤの陰謀に大杉が関与していたことを甘粕が知っていたということである。日本の重臣どもが既にユダヤの虜となっており、その重臣の意によって動く警視庁では、このユダヤの禍根は絶ち切れぬと甘粕らが判断してかかった事実は、ユダヤ問題をナチスの宣伝とした大川や石原らの主張に反駁するに足る証左といえよう。 
 頭山翁に問うた中野正剛自刃の原因 (163P)
 
 確かな人から確かなことを聞いておきたいと思い、私か確かめに訪れていった人物に頭山満がいる。それは中野正剛の死について真相を知りたいと思い、末永節翁と中野佐柿(さかき)先生に相談したところ、中野の遺書は頭山翁に宛てたものだけだから、東京・渋谷の常盤松に翁を訪ねてみたらどうかとの指示によったものである。

 古い話だが、小泉輝三朗の『大正犯罪史正談』が出版されたとき、赤松克麿や三田村武夫らにひどく叩かれたものだが、私は特に、《中野正剛の謎の項》に深い興味を覚えていた。

 ユダヤに日本を売り渡した者たちによって招来された敗戦後の今日では、外国から金をもらってその手先になっても、節を売ったとして自らを恥じることもなく、他もまたこれを売国奴として難ずることもなくなったが、昔はそうではなかった。張学良経由の米国からの対日謀略資金を、キリスト教婦人運動家たちの手を経て受け取っていた者や、労働者が残業までして最高一ヵ月に十円程度だった頃、日本共産党に巣喰った煽動屋たちはソ連から月二百円ずつの支給を受け取っていたものであった。

 中野正剛がきわめて勢い盛んであった頃のことであったが、私たちは中野が右翼ではあっても、真に愛国陣営に属する者であるかとうかということを疑っていた。それで中野が死んだということを聞き、その死がわれわれの疑念をはらしてくれる何かを持っているのではないかと期待したのである。そこで私は中野の死の直後、先輩を訪ねて中野が死ななければならなかった理由を問うたことがあった。先輩は即座に答えて、それは中野がロシアからもらった金を苦にしたからだと言うのであった。

 正剛の死はきわめて立派なものだったと言われていた。その模様については頭山翁からも築地の高乃屋の女主人からも聞かされた。それほどまでして死んだ中野の死が、単に東条の弾圧の結果だという風評は、にわかには信じえなかった。東条の圧迫といわれていた政治管制は、なにも東方会に限ってなされたものではなかったからだ。

 これでは説明にならないので、今度は、中野の取調べが進められると、累が宮様に及ぶことになるから、中野は責めを一身に負って、事実が明るみに出るのを防いだのだという解釈が出た。一身に負うなら負えばよろしいので、死ねば負えないことになる。説明にはならない。

 私自身もその渦中にあったからふれておくが、当時、宮様担ぎ出しには二つの流れがあった。中野がそのどちらかに加わっていたということは、当時は聞かなかった。近衛は東条内閣の末期、弟を使って、次期政権への野心を重慶に表明していたが、既に重慶の軍令部には、東条の次には東久邇宮の内閣という情報が入っていた。もちろん、この情報も黒田善治の判断によって修正され、日本の重大危機にあたって、皇族が内閣の首班になるなどということはありえないという見方に変わったのであるが、宮様担ぎ出し工作は実際あったのである。東亜連盟、ゾルゲ関連系統による東久邇宮、私たちによる高松宮様内閣構想であった。東久邇宮様担ぎ出しは、最後の狙いを赤色政治犯の釈放におき、終戦への早期借置を急務とし、ソ連の対日参戦をも計算の上で、対英・米工作にソ連を仲介させ、次に重慶を足がかりにした対米和平工作をするという東条抹殺の運動であった。

 これに対し私たちのものは、敵国と通ずる君側の奸を除き、一挙に宮様内閣を樹立し、必戦の態勢を打ち立てようとしたものである。しかし、この頃には陛下の大綱も既にソ連仲介、対連合国和平交渉に傾かれており、時機は既に去ったとの感が深かった。

 それで、中野がそのどちらかに加わっていたということは聞いていなかったので、中野取調べの進むにつれ、彼がのっぴきならぬ立場に追い込まれることになるのだとすれば、その理由はやはり純正愛国陣営が言っていたごとく、ロシア系の資金を受け取っていた事実が明るみに出されることを苦慮したからのものと考えられたのである。

 中野への工作費が、ロシアから渡されたものであることがはっきりすれば、日本の右翼も左翼も、ともに同じくユダヤに踊らされてその資金と指令とを受けて操られていたことの立証がなされる。そのため、私はこの中野の死の原因を徹底的に洗い出す必要を感じていたのであった。

 私が中野正剛の死の理由を知るために、渋谷の常盤松に頭山満翁を訪ねた日、翁は病臥しておられた。枕元でゆっくり話すつもりであったところ、起き直られて丹前を羽織られ、私はその横に坐して、耳近く話すことにした。病中のことであり、三点にしぼってご教示を願った。それは次の点についてであった。

 一、中野は右翼といわれながら、ロシアの《赤い金》、背後関係のある第三国の資金を受けたといわれるが、赤色革命関係の金を実際に受け取ったことがあるのか。中野の死は、それを苦にしたものか。

 二、日支事変は日支闘争計画によって起こされたものであり、日本の敗戦と革命とを招き、支那を米・英・ソと連合させて、日支戦争を世界戦争に発展させたのだから、翁が蒋介石は話せばわかるといって事を進めても、いたずらに敵側に乗ぜられるばかりだと思うがどうか。

 三、大川周明と米国ユダヤとの資金関係、及び二・二六事件のとき、岡田首相は官邸にいなかったのだということ。その真偽。

 以上三項目のうち、第三項の大川と米国ユダヤとの交渉に関するものは知らぬとのことであった。岡田啓介が二・二六事件の起きた日に官邸にはいなかったことについては、世間ではどう言っているかとの問い返しであった。岡田はあの夜は赤坂の料亭で、頭山翁その他と会っていたのだと言い、岡田の弟の松尾大佐はぜひ岡田に会って話す必要があったので、戻らぬ兄を待って一泊したために兄啓介と間違われて殺されたのだと言われている。岡田の天機奉伺が遅れ、後藤文夫が臨時首相代理となった理由もそこにあった。もしそれが本当ならば、岡田を官邸から助け出したという★迫水久常の正体を明かす必要がでてきますと話したところ、いちいち頷かれていたが寡黙、ついに語るところがなかった。

 蒋介石とはよく話しさえすればわかってくれるのだということについては、翁が日ごろ考えておられた構想をいろいろ話されたが、やはり蒋を昔日の彼と同一視しておられ、彼がユダヤーフリーメイソンの指令によって動き、ユダヤのサッスーン財閥と結託して、支那の金銀をユダヤに提供して、紙幣という紙屑と取り換える制度を立て、己れの利得は外国のユダヤ銀行に預託して、中国をユダヤに売り渡したのですよと話し、米英の援助で対日戦を継続しているので、和平の心などありませんと説明しても、翁の理解を得ることは既に遅すぎていた。

 第一の主題の中野正剛に死を覚悟させた理由について、東条の退陣工作に宮様を関係させたことで、累の皇族に及ぶことを恐れたからだという憶測もあるが、以前ロシアから赤い工作資金を受け取ったことが明るみに出ることを慮ったためというのが正しい見方ではないですかと尋ねたところ、巷間の噂や、赤色資金の情報の出どころなどを聞かれたのでお答えしたのだが、ロシアからの赤い金のことについては、一言もそれを否定する言辞はなかったのである。私はこれによって、中野の死の理由は、検察の調べがその赤い金に関したことであったと理解し、右翼に身を置きながら、左翼の金を受け取っていた汚点ゆえに身を潔くするための自刃と確信したのであった。

 翁の語るところは、故人にきわめて同情的であり、愛弟子を追憶して悼む心情に切なるものがあった。ことに中野の後半生における生活態度の立派さを褒めてやまなかった。その語るところを略述すれば、

 ― 中野も若い頃には数多く馬鹿げたことをしたものだ。しかし一切を清算してしまった今は、それは許してやれ。後半生における彼の精進ぶりは、立派に昔の愚行を償ってあまりあるものであり、ことに彼が妻に死なれた後の生活やその心境は、まさに透徹した清らかさを持っていた。まことに見上げた神韻の域に心身を置いたというべきで、遠く余人の及ふところではなかった。ようやくあの男もものになると思っていたところ、今度のようなことになってしまい、まことにかわいそうなことをした。中野の若い頃の愚行は責めてはいけないよ。というものであった。それで、頭山翁の以上の言辞から、中野がまだ血気さかんであった頃、いわゆるロシアからの資金と関係があったということを理解し、小泉輝三朗著するところのものによって、その証左を得たとしたのである。

 小泉氏は、東方同志会系の人たちからいろいろと反駁を受けたが、中野自らが師事していた頭山翁の私に語られた口吻を跳ね返すに足る中野側の論拠に接したことはない。
 ローマ法王の工作員、サビエルの挑戦(191P)

  サビエルは伝道のためではなく、戦いを挑んできたのだ。サビエルはローマ法王の僧兵の一人なのである。ローマ法王は全世界を支配する皇帝であり、この世においては法王の権威に勝るものはないとされていた。サビエルはその法王から、法王の代理としての全権のみならず、ポルトガルの東方植民地における軍隊と官吏とに対する命令の全権をも与えられていたのである。

  それゆえ東方占領地においてキリスト教に改宗しない土民を殺戮し、財産を奪い、焚刑に処し、寺院を焼き払い、暴虐の限りを尽したのである。異端・異教は悪魔の教えであるとして、愉しければ愉しいほどキリスト教の神は悦ぶとした。欧州・東方・南米において、キリスト教によって虐殺された人の教は一千万を超す。

  私が20代の頃、仙台の東北学院神学部で講義を受けてい教授に出村剛という教授がいた。キリスト教会史の講義の時間にいつも述懐していたことは、キリスト教のこの異端・異教を虐殺した事実であった。そして教授は、キリスト教による異端虐殺史を集大成して世に問うことを念願していると告白したものである。

  異端・異教迫害に関する研究書の頁を開き、挿絵を示してくれたが、女性を全裸にして、陰部から杙(くい)を突き刺し、頭蓋まで貫いていたのを裸馬に跨がらせて練り歩いているエッチングであった。「キリスト教ほど、このような罪悪を犯した宗教はない」と幾度も呟いていたのを60年後の今日でも思い起こす。この絵はローマ法王の命によるカタリー教徒皆殺しのときの情景の一つであった。

  これは異端皆殺しの例であるが、異教の地インドにおけるポルトガル宣教師らの土民虐殺と財宝奪取、南米太平洋岸諸国のスペイン宣教師の手引きによるスペイン軍隊たちの人民殺戮と財宝収奪とは、歴史上顕著な事実であり、西欧諸国のキリスト教宣教師らによる先導によって植民地占領がなされていた事実も蔽い隠すことはできまい。しかし、そのようなことは日本においては果たすことはできなかった。その理由は次に示すイエズス会のドン・ロドリゴとフランシスコ会の宣教師フライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書に記すところである。

  「殿下を日本の君主とすることは望ましい。しかし、日本には住民が多く、城郭も堅固であるため、軍隊の力による侵入は無理であるから、福音を宣伝する方策をもって日本の国民が殿下に悦びいさんで臣事するように仕向けるほかなし」 と、敵情報告に判断を付して諜報している。 ザビエルもまたポルトガル国王に、 「軍備においては日本はヨーロッパと同水準にあるため、軍隊をもって征服する望みは抱かぬほうがよろしい。それよりも心に訴えて納得させれば、この上なく忠実なキリスト教の下僕となるのだから、もっと智能の勝れたバテレンを派遣せられたい」 と上申している。武力占拠は断念し、諸藩を貿易の利潤で誘い、キリシタンの布教を公許させる方策に出たのである。いずれも日本乗っ取りの方策の謀であった。

  この書翰に見るように、キリシタン・バテレンたちの正体は、対日諜報員であり、対日工作員であったのだ。日本をまずキリシタンにしてしまってからキリスト教国の属国として占領してもよく、キリスト教国の属国として占領してからキリスト教化してもよかったのである。 以前、アメリカ・ミッションから差遣されていた宣教師たちが帰米するたび、まず軍の関係機関に立ち寄って報告を終えてからそれぞれの地に帰ったという話を、留学を終えて帰国した日本人神学生に聞かされていた。
 「1947年9月20日、天皇が、日本占領軍の指揮官ダグラス・マッカーサーと、マーシャル国務長官に送ったメモが、ワシントンの米国・国立公文書館に存在している。そこには、『沖縄に米軍の大部分を駐留させ、沖縄を米国領土とすることによって、日本本土を米軍支配から独立させる方法を取りたい』と、記載されている。つまり沖縄を『日本から切り捨て』、『沖縄だけに米軍を置き、犠牲にする事』を、天皇自身が米国に『提言』していた」。
 「太平洋問題調査会に集った人々
 太平洋問題調査会は(IPR)は、大正15年(1926)から日本で常設となった機関であるが、これはロックフェラーとソ連の指令下にあった秘密工作組織である。

 「日支闘争計画案」は大正7年(1918)にモスクワのイルミナティ会議(ユダヤとボリシェビキとの合同)で採択されたが、内容は「日本と支那の内部破壊をはかるとともに、支那に反日運動を起こさせ、日支の武力闘争にまで発展させる。これをソ連とアメリカが参画する戦争にまで発展させて日本を倒し、同時にヨーロッパに社会革命を起こさせる第二次世界大戦を計画する」というものである。

 IPRの日本代表は、新渡戸稲造、松岡洋右、鶴見祐輔 であり、幹事長はキリスト界の斉藤惣一である。

 第三回会議は昭和4年に京都で開催され、アーノルド・トインビー、ジョン・ロックフェラーⅢらが参加した。米国代表のオーエン・ラティモアはソ連のスパイ。親英・親米と見せながらコミンテルンに身を置いていた、西園寺公一も参加。

 IPRは以後対日・対中謀略ルートとなり、ゾルゲもこのルートをたどった。尾崎秀実もIPRの協力者である。

 世界支配の英国諜報網とユダヤの金権情報網が合流したユダヤ・フリーメイソンは、日本の政・財・経・軍の機密の大略を入手していた。それは、フリーメイソン網と、その外郭情報機関であるロータリー・クラブからの報告によるものであった。それらの情報は、上海にあったユダヤ・サッスーン財閥に集められた。
 日本は、チャーチル、ルーズベルトによって戦争に引き込まれた。
 「フリーメイソンはユダヤの組織である。その歴史も階級も、職務、標語、規則もユダヤのものである」(ユダヤのラビ、アイザック・ワイズ)
 ユダヤ・フリーメイソンの陰謀が日本で問題視されたのは、ナチスの宣伝やシベリア出兵後のことではなかった。新渡戸稲造や吉野作造らがユダヤ・フリーメイソンであったことが知られていた。
 ユダヤがユダヤの砦として造りあげた二つの人造国家、フリーメイソンによるアメリカとマルキシズムによるソヴィエト社会主義共和国連邦とは、表は拮抗対立と見せ、裏は一つに結んでいた。赤と白として見せたほうが、ユダヤが儲かるというだけのことであった。
 平沼騏一郎、赤尾敏、大川周明は米国の対日工作員であった
 甘粕のこの説明のなかで、特に興味を覚えるのは、彼がはっきりユダヤ禍を口にしたことである。そのユダヤの陰謀が日本に禍いしていたこと、さらにはユダヤの陰謀に大杉が関与していたことを甘粕が知っていたということである。日本の重臣どもが既にユダヤの虜になっており、その重臣の意によって動く警視庁では、このユダヤの禍根は断ち切れぬと甘粕らが判断してかかった事実は、ユダヤ問題をナチスの宣伝とした大川(周明)や石原(莞爾)らの主張に反駁するに足る証左といえよう。
 ルーズベルトは就任早々ユダヤの要請に基づいて、日本に戦争を仕掛ける計画をたてはじめた。計画に参加したのはIPRのヘンリー・スチムソンである。一方ユダヤは同委員会を利用してゾルゲをはじめ共産主義者らに日本のスパイ網を組織させた。資金はチェースマンハッタンから出た。西安事件は、抗日擁ソのための統一戦線構築のためで、日本の戦力拡散をねらったものである。

 宇垣内閣では、ゾルゲグループの一員であった米共産党系の宮城与徳の近親者・矢部秀が秘書をしていた。林内閣ではコンミンテルンの浅原謙三と十河信二が密着していた。近衛内閣では、後藤隆之助による昭和研究会の取り巻かれながら、左翼の風見章を中心に、ゾルゲ関係の尾崎秀実、西園寺公一らによって牛耳られていた。

これと前後して、蒋介石を盟主とし日本を米国の1州として、アジアをソ連が支配するという原理にたつ東亜連盟が、石原完爾を表にたてて偽装右翼活動をとりはじめた。石原を林銑十郎に進言して仙台から参謀本部に転出させたのは浅原謙三である。

 すべては夷をもって夷を攻めさせるという日支闘争計画を知らないでは理解できない。近衛も米内も、日支の衝突を画策する者のあることを感じてはいたが、その正体を知らなかった。

 ユダヤが策した日支闘争計画

 1919年(大正7)にモスクワでイルミナティ(ユダヤとボリシェビキの合同)会議がひらかれ、「日支闘争計画案」が採択された:

・日本と支那の内部破壊

・支那に反日運動を起こさせる

・日支武力闘争から、ソ連・アメリカが干渉する戦争へ発展させて日本を倒す

・ヨーロッパに社会革命を起こさせる第二次の世界大戦を計画する

 この実行機関となったのがIPR(既出)である。

 1931年(昭和6)の満州事変以来、ユダヤが日本と中国の共産党にとらせた行動とは:

・中国大陸への日本の進出を軍事的に失敗させ、日本の革命を進める

・中国人民の抗日感情をあおり、国民党と日本の妥協を不可能にする

・戦線を華北から華南にまで発展させ、ソ連包囲体制にひびを入れ、国府軍と日本軍との衝突の間隙に乗じて中共の発展をねらう

 南進を決定づけた謀略レポート

 1941年(昭和16)に独ソ戦が始まると、ソ連は「日本がシベリアに侵攻しないようあらゆる工作をすべし」との指示を日本共産党員にだした。満鉄調査部にいた左翼の佐藤大四郎は、シベリアの農産物と畜産事情のレポートを求められて、「日本軍100万の食料はシベリアでは調達不能」という報告書を提出した。同調査部には尾崎秀実もいて、この内意を佐藤は受けていた。

 ユダヤに踊らされた日本人

 米内光政の身内や縁故者たちから、国家機密が敵国に流されていたのは事実である。縁故者の中には東条の鎌倉での生活費を賄っていた者もいる。ミッドウエーの敗戦は、ユダヤ問題の犬塚惟重と国際連盟に身を置いた稲垣守克が情報を流したことによって起こった。

 大川周明は、裏表が多く、見え透いた嘘が多い扇動家である。北一輝も扇動家であり、北と大川の訣別は安田保善問題が原因といわれるが、金の分け前を巡る争いである。この金銭授受にはユダヤの代理人巖本善治が関係している。巖本は米英ユダヤの手先となり、私設外交官として暗躍していた男で、大川周明との関係は愛国陣営にまでもユダヤの手が伸びていたことを示す。巖本と大川の資金元は上海ユダヤのハードン財閥である。大川は反英を装いながら親米であり、ユダヤの資金ほしさに巖本に近づいた。

 大川のいわゆる日米経済提携というのは、ユダヤの対日謀略の一環として計画されたもので、ユダヤ資本の援助を受けていた西川末吉からでたものである。

 大川は戦後、自分は中国と事を構えるのに反対していたと書いているが、これは明らかな嘘である。

 佐々弘雄が戦後に大川周明、楢橋渡、児玉誉士夫の三人がハードン財閥と直結していたことを発表している。


ユダヤは・・・

2018-01-14 06:40:47 | 日記

「ユダヤは日本になにをしたか」渡部 悌治・著


先日から「ユダヤ資本」の正体を知りたいと思い、いくつもの本を読んだ。

で、問題は「ユダヤ資本=ユダヤ人」なのかが、私は一番興味がある。

私の考えでは、残虐なユダヤ資本と呼ばれる連中は、ユダヤ人の一部であるのでは?

そう考えていたのだが、まず「衝撃のユダヤ5000年の秘密」では、「ユダヤ人すべて」の悪の民族だと書かれているが、明らかに「偏見」を含んでいると感じた。

で、この「ユダヤ人は日本に何をしたのか」の著者は、戦前・戦中・戦後のユダヤ人が、日本にどれだけ破壊工作をしてきたかが、詳しく書かれていて、ユダヤ人は左と右の二つのルートから資金提供をして、争わせるということまで、ちゃんと解っていたらしい・・・

ただここでも「ユダヤ人」は一つだと思われている節があるが、その答えを私に納得のいく形で提供してくれたのが【「闇の支配者」最後の日々】ベンジャミン・フルフォード著なのだが、そこでは、そのユダヤ資金と呼ばれる連中は、元々パレスティナに住んでいたユダヤ人ではなく、

まず「ユダヤ資本」とよく言われるのを、彼は「ハザールマフィア」と呼ぶのだが、それは純粋にユダヤ人というものではなく、エセユダヤ人とでもよぶべき存在らしい・・・

その起こりは、17世紀にサバタイと言う男が現れ、自分はユダヤの救世主だと言い始めた。

彼は熱狂的な支持者を多く集めたが、ところがトルコの皇帝に捕まり「イスラム教に改宗しろ」と迫られ、それを受け入れた。

彼の支持者も改宗したのだが・・・

実は表向きはイスラム教でも、彼らは内部からイスラム教をのっとったと言う・・・・

彼らは次はキリスト教徒のふりをして、キリスト教ものっとった・・・

ハザールは7世紀から10世紀にかけてカスピ海からコーカサスに栄えた「遊牧民」たちだと言う。

彼らはエジプトをのっとったのだが・・・

その時に内部から協力したのが「ユダヤ人」だったらしい・・・

その違いを、説明している本が少なく、すべてのユダヤ人は同じだと考えている人が多いらしい・・・・

よく、日本人の祖先はユダヤ人だと言う話が有る。
ところがベンジャミン・フルフォードが言うには、とある皇室の人から電話があったらしく、ユダヤというよりエジプトが起源だと言う話らしい・・・

確かに神輿などはユダヤにもエジプトにもあるらしい・・・

で、エジプト起源だということは、純粋のユダヤ人と、元々遊牧民で「他民族は家畜として扱え」と言った、エセ・ユダヤ人のハザールマフィアの可能性もありうる。

問題なのは、そのハザードマフィアは同民族のはずのユダヤ人でも、平気で虐殺している。
昭和天皇も、東京大空襲や原爆で多くの国民が犠牲になっているのに、他人事みたいな言動があったと言う話が有る。

そうすると・・・・ハザールマフィアの系統の可能性も否定できないのかも・・・・

ただ、その行動は昭和天皇であり、今の天皇や皇太子は、逆に平和を望まれていると言う。
(資)文化財復元センター おおくま
010


掲載日:2016年7月3日| カテゴリー:①-読書録

山本五十六はフリーメイソン

2018-01-14 06:02:56 | 日記

金貸し勢力のスパイの証言(19)~山本五十六海軍大将の正体は世界秘密結社メンバー~
山本五十六 太平洋問題調査会

山本五十六海軍大将         ここから拝借

前回から引き続き、高橋五郎氏は著書:『伝説の秘密諜報員 べラスコ』の中で、渡部悌治の『ユダヤは日本に何をしたか』から、戦前の“国賊”に焦点を当てて分析されています。



渡部悌治なる方は、戦前から日本支配を目論むユダヤ勢力に気付き、半ば命を掛けて日本での彼らの活動を監視してきた数少ない真の愛国者です。



その中で、山本五十六海軍大将は世界秘密結社:フリーメイソンのメンバーで、ユダヤ勢力→国際金融資本の「日支闘争計画案」の計画通り、日本の“敗戦”を推し進めた主犯格とのことです。

これについては、ベラスコ自身も情報を得ていたとのことで、詳しくは、著書の後段に書かれていますので、是非ご一読を。



また、日本におけるフリーメイソンメンバーの活動拠点である「太平洋問題調査会」の事務所の家賃はロックフェラー家が払っていたとのことで、このころにはすでに、彼が日本を“手中”に納めていたことを示すものである。



以下、「伝説の秘密諜報員 べラスコ」(高橋五郎著)を基に転載紹介します。

*********************************

◆世界勢力の意図に呼応して日本の進路を誤らせた多くの“国賊”たち



ベラスコは外国から日本を監視した。愛国陣営の神道家渡部悌治は外国勢力(ベラスコたちのユダヤ金融と宗教勢力=世界寡頭権力)を監視した。では外国勢力は昭和天皇時代のどんな日本人らと連携したのか。日本人の誰が世界勢力の意図に呼応して日本の進路を誤らせたのか。私は渡部と新宿花園神社内の一室でお会いしたことがあった。凛とした人物だった。渡部の視野の前に現れた多くの“国賊”のうち一人が山本五十六海軍大将だった。同書『ユダヤは日本に何をしたのか』のなかでベラスコの呟きを逆証明する情報を渡部はいくつも明かしてくれている。その体験談情報をさらに紹介させて戴こう。



山本は軍事研究とキリスト宗教に強かったが、国際ギャング(寡頭権力者勢力)の背後に隠れたキリスト教会のさらに背後に忍んでいたイエズス会の存在、つまり世界宗教組織に対する認識は欠落していたようだ。その山本がアメリカ海軍の圧倒的勝利説に関与した疑いが渡部らの純正愛国陣営を密かに揺るがしたことがあった。その時期は山本五十六が日本連合艦隊司令長官として開戦を睨んでいたころだった。勝利説の根拠は山本が日本海軍のトップの座にある間に戦えばアメリカ海軍は勝利または五分五分でも有利に決着はつくというアメリカ発の情報にあった。

にほんブログ村 経済ブログへ

その節が純正愛国陣営に衝撃を与えたのは、その情報源が山本の留学したハーバード大学関係者からの情報だとされたことに加えて、実は山本の正体は世界秘密結社メンバーだとする疑念が陣営関係者の間で囁かれていたことにもあった。そこへこの説がハーバード大学ルートからの情報として伝わってきたことからアメリカ海軍勝利説の信憑性はいやがうえにも高まった。いや、この説はもっともらしいアメリカ側のトリック情報だからその説に挑発されてはならぬ。日本の純正愛国陣営はそう結論づけた。



反戦主義に便乗して目的をスリ変えたカッコつきの愛国平和主義者ならびにまがい物の愛国者つまり、アメリカ、イギリス勢力の意向に乗って同調する日本人(純正愛国陣営が唾棄する“売国奴”)の一人と噂されていた人物が山本だというのだ。渡部は世間が知らない山本について自著で次のように書いている。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

山本五十六が米内光政や高橋三吉らと、日・独・伊三国の軍事同盟反対の密議を凝らしていた場所は、東京・麻布の狸穴にあった。この妾宅に情報を掴みに出入した人物がいた。憲兵隊の須藤清輝君である。須藤君はこの娘芸妓を高く評価していた。山本が戦死した報を得て、須藤君が文書の遺稿でもと狸穴を訪ねたときには既にこの女性が一切を処理し終えた後であり、失望して帰庁する途次〔渡部の自宅に〕立ち寄ってくれた記憶は消えない。十八歳なのにしっかりした女だとつくづく述懐するのであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



以下は渡部悌治ら「純正愛国陣営」が見た戦争直前の日本だ。陣営の敵を世界ユダヤ勢力と呼んでいるが、それは本書でいう世界寡頭権力者勢力のことで同じ勢力のことだ。日本と支那を何とか戦わせるのがユダヤ勢力の狙いだとする渡部らの陣営の指摘はこうなる。日支を争わせるものだと指摘した渡部ら陣営の根拠は、こうなる。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

西紀1918(大正7)年9月17日、モスクワにおいてイルミナティ(ユダヤとボリシェビーキとの合同)会議が開かれた。そして「イルミナティの壮厳な会議において、15名の会員、国民ソヴィエトの五委員会、全連盟共産党中央委員会の秘書役1名が署名して交付するもの」という「日支闘争計画案」を含む文書が交付された。文書には「1918年8月中旬、イルミナティ大会は、ユダヤ世界最高会議より発せられた教書を受領した。この教書は今後におけるヨーロッパ及びアジアの同時闘争の決定計画を指示するものである。」と冒頭に注意書きしてあったという。



この案の日支関係について要約すると、「直ちに日本と支那との内部破壊を図るとともに、支那に半日運動を起こさせ、それを日支の武力闘争にまで発展させ、それに対してソ連と特にアメリカとを干渉させる戦争にまで発展させ日本を倒し、それとともにヨーロッパに社会革命を起こさせる第二次世界大戦を計画する。」というものであった。



元警視総監、故赤池濃氏によれば、この計画の項目のひとつに、「われらはロシアをコミンテルンの城砦とし、恐るべき社会的破壊の災害を惹起せしめるのであるが、それは最高度の社会主義的原理に導くためである。」という項があったという。最高度の社会主義的原理というのは、暴力革命を意味したのであり、その原理の実現のためユダヤは、ソ連を世界最強の武装国とする必要を感じ、ここにあらゆる援助を行って、数次にわたる五ヵ年計画を実施させ、膨大な軍備を備えさせ、ついに第二次世界大戦への道に踏み出させたのである。



このいわゆる「日支闘争計画案」なるものは、その後永く日本の親英米・親ソ容共派の行動を内面から指導し続けた原理であった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



さて、ここからが面白くなる。



渡部らの純正愛国者陣営は監視結果として、先の日支闘争計画案の原理を実行する日本の機関が太平洋問題調査会(前述のIPR)だと名指しした。これはなんとも衝撃的な指摘なのだが、日本ではまったくその“お化けクラブ”の正体が隠されている。いや、この会に出入してきた著名人らの名誉(不名誉!?)のためにいえば、著名人自身がこの会の本当の目的が何なのかについてまるでトンチンカンのままだったのだ。1926年(大正15年)から常設されている太平洋問題調査会の事務所とその家賃は誰が払っていたのか。この会の開設資金、基本経費は最終的にはロックフェラー一族すなわちユダヤ世界寡頭権力者勢力の負担だったのだ。日本を陥れるためのこの会を根城にして日本のために活躍したつもりの、もはやマンガチックな“昭和の著名人”らの名前を挙げておこう。



新渡戸稲造、松岡洋右、鶴見裕輔、西園寺公望、牧野伸顕、原田熊雄、会の幹事長を務めたキリスト教会の斉藤惣一や新聞記者の尾崎秀実、そして外国人は、ソ連のスパイのオーエン・ラティモア、ヒヒャルト・ゾルゲなどのほか、京都で行われた会議(1929年)にはアーノルド・トインビーやジョン・ロックフェラー三世らも出席した。日本人の著名人らはこの日比谷・内幸町に置かれた敵のアジトを国際平和のための高度な情報交換の場と錯覚して、実はこの会のメンバーらの手で日本の開戦と敗戦とが企まれて処理された事実も知らずに、戦後の現在になってもまだ誰一人知らずにいる。太平洋問題調査会が、日本ではどう説明されている課、その能天気な実態を別項で紹介した。作家、野口雄一郎のレポートに登場する前田多門が出入した太平洋問題調査会という短いくだりから類推されたい。大新聞社もNHKもこの太平洋問題調査会(IPR)に出入した人物たちがあたかも世界へと飛び出す期待される日本人の晴れがましい桧舞台だったかのように信じてその誤った近現代史を恥知らずにも、今だ国民に知らして平然としている。

List  投稿者 tasog | 2016-01-29 | Posted in 02.日本の金貸したち, 08.金融資本家の戦略 | No Comments » 
< 2016年 プーチンの新年の挨拶/オバマが完全降伏する?!金貸し勢力のスパイの証言(20)~すべての国々は世界支配されるようになり、国際警察のもとに管理されている~ >