道東を発見する旅 第3の人生

見えてはいるが、誰も見ていないもの

検査体制がまともになります

来週から、コロナウイルスのPCR検査が保険請求できるようになって、民間検査業者への依頼が可能になり1日あたりの検査件数がぐっと増えます。

総理の英断で、パンデミックへの防疫体制が、本来あるべき姿に変わっていくようです。

検査体制の拡充が、なぜこんなに遅れたのか、その背景には、厚労省の役人と感染研のOBが疫学データの収集に横やりを入れて邪魔していたという話があります。

なぜ、こうなったのか、野党はいまこそ真相を明らかにしてほしいですね。

さて、今回は、今、読んでいる本から印象に残った記事を紹介します。

哲学者の鷲田清一氏は、大阪大学の総長を退任後に京都市立芸術大学の学長に就任されたそうです。

その間、それぞれ4年、合わせて8年、入学式や卒業式に式辞を述べたそうですが、それをまとめた式辞集を出版されました。

鷲田氏の言葉は、以前から、何度かこのブログでも紹介していますが、今回は式辞なのでとても格調高い内容の話が出てきます。

本の後書きに書いてありましたが、ご本人も「式辞を述べるというのは、気持ちの上では学長職のなかでもとくに重い仕事でした」とあります。

哲学者の背景で、若い世代に向けて時間をかけてエネルギーを注いだ式辞の内容は素晴らしいの一言に尽き、そのままで埋もれてしまうような内容ではありません。

今回は、その本の中から、2016年度 京都芸術大学卒業式の一部を引用して紹介します。

「岐路の前にいる君たちに」 鷲田清一 式辞集 朝日出版社  2019年12月 初版

68ページから引用

一昨年に亡くなられた詩人の長田弘さんは、若いころ、オートバイによるヨーロッパ縦断の旅に出られ、その紀行文のなかにこんな言葉を書きとめられました。

< 見えてはいるが、誰も見ていないものを見えるようにするのが、詩だ。>


哲学を専攻している私は、ここで詩と言われているのはそのまま哲学のことだと思い、体の芯から震えました。

わたしは今日まで長田弘さんの書かれる文章の「詩」のところを、いつも「哲学」に置き換え、それらの文章を哲学の研究者にも宛てられたものとして読んできました。

引用終わり

ここまでの感想

なぜ、(若き日の)哲学者が、体の芯から震えたのでしょうか。

見えているが、誰も見ていないもの、とは何でしょう。

私は、それが世の中の根底に存在する真理であり、その探究の方法論として詩や哲学や学問、芸術がある。すなわち人が生きていくうえでいつも心がける真理の探究の本質をそこに見たからではないかと思います。

それぞれの人が、見てるけど、誰もが見えていないことの中に、いまだ明らかになっていない真理(定理や公理、新しい仮説など)の断片がある。

それを、詩人は詩で、哲学者は哲学で、また生命科学者は、生命科学の実験で、それを目に見える形にして明らかにしていくことなのだと思います。

さて、これは著者が、長田弘さんを紹介する前置きの文章です。話は、さらに広がっていきます。

69ページから引用

その長田さんが晩年に書かれたものに、「チェロ・ソナタ、ニ短調」というエッセイがあり、それはこんな文章で書きだされています。

<  ひとがもつ微妙な平衡感覚をつくっているのは、そのものがそのものとしての正しい大きさを持っていると信じる、あるいは信じられるということだ。

正しい大きさの感覚が、認識を正しくするのだ。  >

そのものとは、ひとのことで、(正しい大きさの感覚)とは、身体の容量に基づくそれのことです。

人間は自分の身体の大きさを物差しとしてしか世界を測れないからです。

じじつ、わたしたちはこれまで、みずからの身体を基として世界を測定してきました。

世界を測るとは、自らの大きさを手がかりとして、正しい大きさにあるものたちのあいだの均衡を知るということなのです。

そして、そのことをつうじて、ひとは宇宙のなかのじぶんの大きさ、小ささを知るのです。

そういう意味で、世界のリアリティの基は個々の身体にあるといえます。

そして、このリアリティは、まずは身近にある他者の身体とみずからのそれとがいわば生身でまみえ、交感するなかで、時間をかけてじっくりと形成されていきます。

引用終わり

まとめ

この後、現代社会においては、ものの大きさや宇宙の大きさがテレビやスマホの映像で簡単に相対化されてしまい、人間の存在が大きすぎて、他の存在がまるで操作の対象のように扱われてしまい、この世界にあるものたちの間の均衡が揺らいでしまって、(正しい大きさの感覚)までもが傷つけられてしまう、長田さんは、それを憂慮されたのではないか、と書いています。

世界を測るとは、自分の身体の感覚を通してリアリティ、すなわち生きている真実を体で感じとることのような意味なのでしょう。

まとまりのないような展開に思えますが、じぶんのような年寄りになると、じぶんの身体を通して世界のリアリティを知るというのはよく理解できます。

じぶんも長年、筋トレをしてきましたが、最近になってようやく股関節の使い方や肩甲骨を開いたり閉じたりするときに感じる微妙な筋肉からの反応、呼吸によって全身を駆けめぐる、気のエネルギーの感覚など、5年、10年前にはわからなかった自分の体感がどんどん研ぎ澄まされて来ているように思います。

気功の大家、西野先生は「世の中のことはすべて幻想のようなもので、自分にとっての真実はただ一つ、呼吸だけだ。呼吸することで生命のエネルギーが活発になり運命も変わる」と言っておられました。

寄り道しました。

式辞はこの後、楽器や彫刻などなど実技系の学びは、自分の身体にまさにそうした「正しい大きさの感覚」を呼び戻すためにあり、演奏や制作のなかで、過去の芸術家たちの探究に学び、それらと辛抱強く対話し、さらに現代の課題に応えるべくそれを超えていこうと研鑽し続けて、伝承と刷新、保存と創造のダイナミズムに、それぞれが身をさらしてきた。

それが実技の学びであり、演奏する曲ごとに、制作する作品ごとに、一つの行為の始めと終わりを何度も経験してきた、それが最大の財産であると卒業する学生に向けてエールをおくっています。

最後に、71ページからのエッセイを引用して終わります。

エッセイの末尾にラトヴィア生まれのチェリスト、ミッシャ・マイスキーの独奏をじかに聴いた時の思いをこう綴っています

< 小柄でひとなつっこい顔をしたチェリストは、実に愛おしそうに、チェロを抱いて弾く。一人のチェリストにとって、チェロの正しい大きさを愛することなのだというふうに

ひとのもつ全体の感覚を、いま、ここに生き生きと呼び覚ますのが音楽ならば、ショスタコーヴィチのチェロ・ソナタ、ニ
短調がまさにそうだった >と。

そう、チェリストはチェロを、世界を測るみずからの身体の一部としたのです。

いいかえると、チェロという、もう一つの身体を手に入れることで、チェロという楽器を基に、世界をさらに正確に、それまで人が知らなかったところまで測り始めたということです。

引用終わり

いかがでしたか。式辞として、大学の講堂で口から発せられて、そのまま埋もれてしまうには、あまりにももったいないような気がします。

また、続きを書きたいと思っています。

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