秋分の日に明日香村で行われた中学硬式テニスの試合を見に行きました。
11時ぐらいに到着して息子発見。
気付かれないように道の脇で体育座りをしていたら、すぐに見つかりました。
「そんなところでお山座りしてたら変な人に思われる」
と言われ、息子に迷惑をかけないようにおとなしくしてました。
もう1試合ぐらい終わったのかと思いましたが、どうもまだらしく、
「2番コートで次に試合がある」と教えてくれました。
どうやら見に来たのがそんなに嫌ではないらしい。
来てしまったものを帰れとは言えないか。
相手は同じぐらいのレベルでそんなには高くない。
接戦でなんとは一回戦突破。
その後二回戦は2時半ぐらい。
かなり間が空きました。
二回戦は一回戦よりも弱そう。
1ゲーム目をほぼ息子のサーブだけで勝ったので、余裕で三回戦進出かと思ったら、その後ミスの連発で逆転負けしました。
終わったのが3時ぐらい。
二試合しかしてないのにかなり時間がかかるものです。
自分の出番を待ってる間は、昔のように他の人の応援をするわけでも他の人の試合を見て研究するわけでもない。
友達と喋ってジュース飲んでパン食べて自由に過ごしています。
ものすごい時代が変わった感じがします。
中にはテントの顧問のとこまで来て大声で
「お願いします。試合の報告に来ました!」
と土下座並みの礼をしている学校もあります。
昔の部活のイメージのままですが、これが正しいのか間違いなのか。
でも私は嫌い。
このせいで私は今まで「スポーツを楽しむ」というのを経験したことがありません。
私は野球、サッカー、卓球、バレーボール、体操、拳法、太極拳、ボルダリングといろいろやって来ましたが、何かスポーツに「目的」を求める癖がついてしまったみたいです。
「勝ち負け」「スキルアップ」「精神修行」など。
単純に「楽しむ」ことをできなくなったように思います。
だから今でも「意味」を考えてしまいます。
上達するためには必要なのかもしれませんが、本来のスポーツの姿じゃないような。
「出来てない」「才能がない」と言われ続けることで、二度とその運動をしたくなくなるわけです。
私は決して運動音痴ではなかったと思いますが、「勝つ」という目的に必要なほどは才能がなかったです。
去年からずっと考えていることですが、
「出来ないことを頑張ることは無駄なのか?」
ということ。
武道であれば目的が「人を殺すこと」と考えれば、一生無駄に終わってしまいます。
「精神的な向上」と考えれば、どこまで行き着くかわからないですから、それも無駄に終わってしまうことになります。
「スポーツは体に悪い」
ロバート・フルフォードも言ってますが、これは紛れもない事実。
体格や性格、生まれつきの才能でスポーツが上手いか下手かが決まります。
では、下手な人はスポーツをしてはいけないのか?
スポーツをする意味は無いのか?
今までの練習法はスポーツに人間を合わせて篩いにかけるような方法だったんじゃないでしょうか。
じゃあ、なぜ行うか。
「楽しいから」ではいけないのか?
息子がテニスをする姿を見て羨ましく思いました。
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