JR東日本ウィークエンドパスを使って、土日にて、野暮用で福島へ、そしてその合間に、秋にボランティアで行く予定の南三陸町へ、行ってまいりました…
まずは、途中駅で腹ごしらえ…
福島・郡山の学校の校庭です…ブルーシートは校庭の土を削った砂山でしょうか…
途中、少し新幹線で移動…
その車窓です…
福島市街です(新幹線車窓)
福島・伊達付近です(新幹線車窓)
甲子園の常連校、福島・聖光学院です(新幹線車窓)
仙台では牛タンを…
一夜明けて…
宿泊した、宮城・古川地区です…こちらも液状化があったようです
宿泊したホテルと、陸羽東線列車…
車窓です…
小牛田より、石巻線に乗ります…このルートは2ヶ月前と同じです…
列車本数の関係から、とりあえず石巻へ寄ります…
ここから先はまだ不通区間です…
6月以来の再会…
周辺は、まだまだ不通区間が…
海から離れているこの場所でも、ビルの壁の汚れが物語るように、津波は、ジェロニモの足の高さまで来たそうです…
また移動開始です(車窓)
気仙沼線・柳津にやってきました…
ここから先も、不通です…
代行バスに乗ります…3~4人しか乗ってなかったです
そして、南三陸町到着です…これは、気仙沼線の高架でした…
南三陸町の中心駅、志津川駅です…
個人的には10年ぶりに訪れました。この志津川駅は思い出の駅でした…あまりに変わってしまった姿に言葉がでません…
あまりにも変わってしまってました…
ここには線路がありました…
水門です
満潮になると水没する、元交差点です…
屈強だったはずの堤防も…
地盤沈下の影響で、こちらも、満潮時になると、海水が浸入してきます…
道路に魚が泳ぐ…
そして、道をふさぐ、黒いかたまり…
これは、SLで唯一被災した車両かも知れない、南三陸町松原公園に展示してあったC58-16号機です…
マンションの4階にまで到達する、巨大大津波に飲み込まれながらも、数十メートル流されただけで済んだという、このC58です。
半年近く経っても、撤去されずに残っているということは、復興のシンボルとして、残してくれるのかもしれない…
と希望的観測が頭をよぎりました…
その、C58の下敷きになっていた、50年前のチリ地震津波を、後世に伝える記念碑です…
こちらは、昭和35年のもの…この教訓は活かされたのでしょうか…
“津波非難ビル”となった4階建てマンションですが、その4階まで津波は来たそうです…
何もなくなってしまった志津川駅前から、代行バスに乗り、思い出の地、志津川後にします…
柳津駅に戻ってきました…
帰路のローカル線に夕陽があたる…
また石巻駅に戻る…。石森キャラクターがお出迎え…
石巻から仙石線に乗る…
途中、まだ不通区間があるため、バス代行による振替輸送となる…
松島で下車…
松島地区も被災してしまったため、支援の意味もこめて、営業中の飲食店にて夕飯をとりました…
この後は、仙台へ出て、新幹線で帰京しました…
一人で乗車帰京中の新幹線では、ボランティアへの意欲が一層強まりました…
まずは、途中駅で腹ごしらえ…
福島・郡山の学校の校庭です…ブルーシートは校庭の土を削った砂山でしょうか…
途中、少し新幹線で移動…
その車窓です…
福島市街です(新幹線車窓)
福島・伊達付近です(新幹線車窓)
甲子園の常連校、福島・聖光学院です(新幹線車窓)
仙台では牛タンを…
一夜明けて…
宿泊した、宮城・古川地区です…こちらも液状化があったようです
宿泊したホテルと、陸羽東線列車…
車窓です…
小牛田より、石巻線に乗ります…このルートは2ヶ月前と同じです…
列車本数の関係から、とりあえず石巻へ寄ります…
ここから先はまだ不通区間です…
6月以来の再会…
周辺は、まだまだ不通区間が…
海から離れているこの場所でも、ビルの壁の汚れが物語るように、津波は、ジェロニモの足の高さまで来たそうです…
また移動開始です(車窓)
気仙沼線・柳津にやってきました…
ここから先も、不通です…
代行バスに乗ります…3~4人しか乗ってなかったです
そして、南三陸町到着です…これは、気仙沼線の高架でした…
南三陸町の中心駅、志津川駅です…
個人的には10年ぶりに訪れました。この志津川駅は思い出の駅でした…あまりに変わってしまった姿に言葉がでません…
あまりにも変わってしまってました…
ここには線路がありました…
水門です
満潮になると水没する、元交差点です…
屈強だったはずの堤防も…
地盤沈下の影響で、こちらも、満潮時になると、海水が浸入してきます…
道路に魚が泳ぐ…
そして、道をふさぐ、黒いかたまり…
これは、SLで唯一被災した車両かも知れない、南三陸町松原公園に展示してあったC58-16号機です…
マンションの4階にまで到達する、巨大大津波に飲み込まれながらも、数十メートル流されただけで済んだという、このC58です。
半年近く経っても、撤去されずに残っているということは、復興のシンボルとして、残してくれるのかもしれない…
と希望的観測が頭をよぎりました…
その、C58の下敷きになっていた、50年前のチリ地震津波を、後世に伝える記念碑です…
こちらは、昭和35年のもの…この教訓は活かされたのでしょうか…
“津波非難ビル”となった4階建てマンションですが、その4階まで津波は来たそうです…
何もなくなってしまった志津川駅前から、代行バスに乗り、思い出の地、志津川後にします…
柳津駅に戻ってきました…
帰路のローカル線に夕陽があたる…
また石巻駅に戻る…。石森キャラクターがお出迎え…
石巻から仙石線に乗る…
途中、まだ不通区間があるため、バス代行による振替輸送となる…
松島で下車…
松島地区も被災してしまったため、支援の意味もこめて、営業中の飲食店にて夕飯をとりました…
この後は、仙台へ出て、新幹線で帰京しました…
一人で乗車帰京中の新幹線では、ボランティアへの意欲が一層強まりました…