![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/39/6766fd2298cbd5e4a0c893522562d5c0.jpg)
↑
日本赤十字社へのリンクを暫く貼らせていただきます。勿論無断だよ☆ ←いいのか?
にほんブログ村のトップページに紹介されていた義援金受付のお知らせ。
日本赤十字社のサイトの中にあるページに飛びます。
【日本赤十字社】寄付・献血・ボランティア|東北関東大震災義援金を受け付けます
(http://www.jrc.or.jp/contribution/l3/Vcms3_00002069.html)
====================
さて、本日の本題。
当事者意識を持てないことに負い目を感じる人は多いと思います。
私もしょっちゅう思います。今回の地震でも思いました。
「当事者意識」とは何でしょうか。
事に当たった人と同じだけの切迫感や恐怖を感じることでしょうか。
当事者ではない人が、同じくらいの強い感情を感じることはできるのでしょうか。
これは、(少なくとも私には)とても難しいことです。
大分脱線しますが、例えば失恋について考えてみましょう。
私が大好きな人にふられました。
それを友達に打ち明けて、慰めてもらいます。
友達は
百戦錬磨で失恋皆無かもしれない。
ふられたばっかりかもしれない。
ふられてばっかりかもしれない。
ちょっと前にふられたけれど、今はラブラブな恋人がいるかもしれない。
けれど、誰も私(あさほうき)ではないので、当事者ではないのです。
誰も、あさほうきの愛した人をあさほうきの視点で見たことはないし、
あさほうきの感覚でその人を愛したことはないし、まして、その人に
ふられたあさほうきにはなりえないのです。
だから、誰も当事者にはなれない。
けれど、当事者ではないから出来ることもあります。
それは「思いやる」こと。
自分のことを「思いやる」ことはなかなかないと思います。
だから、「思いやる」対象というのは、大抵他者ですね。
失恋皆無でも大切な人を失う気持ちを想像して思いやることは出来るでしょう。
ふられたばっかり・ふられてばっかりだったら自分の経験に即して思いやれる。
経験の有無、さらに経験の度合い(上手く言い表せない…)に拘わらず、
思いやることは出来ると思います。
そして、「冷静な判断」が出来るのも当事者ではないからです。
当事者への『熱い』思いやりと『冷静な』判断は同居可能ではないでしょうか。
誰も当事者にはなれない。
このたび被災された方も、お一人お一人抱えているバックグラウンドが異なるでしょう。
共有していた家財や思い出はあっても、それに寄せる思いとその思いの根源である
人格が異なるのですから。
だから、だれも当事者にはなれない。
けれど、思いやることはできる。
この思いやりまで含めて当事者意識というのであれば、
当事者意識は誰でも持つことが出来るのではないかなと思いました。
一秒でも一瞬でも早く、しんどいことが遠ざかりますように。
====================
以下、地震とは関係のない呟き。mixi日記の改訂版。
私はいつも目の前のことにかかり切りになってしまう。
だから、遠くを見渡せる目がほしい。
遥かな過去を まだ見ぬ未来を
広大な海原と 見渡す限りの草原と
深い海溝と 高い山々と
乾いた砂漠と 雨季のジャングルと
其処を旅する人と 其処に行けない人と 其処に思いを馳せる人と
その全てを見たい。同じ思いを共有したい。
見たら知りたくなるだろうか。
どうしてあんなことをしてしまったのだろう?
これから何が起こるのだろう?
海は飲み干せるのか 何日かかれば草原を歩いて渡れるのか
何故この海溝はこんなに裂けてしまったのか
何故この山々はこんなに盛り上がってしまったのか
いつ雨が降るのだろう いつ雨が止むのだろう
知りたくなったら、私は細部を細部を突き詰めていくだろう。
肉眼で 虫眼鏡で 電子顕微鏡で
けれど、ときどき全体を見たいと思うだろう。
肉眼で 望遠鏡で 天体望遠鏡で
そうして、いつも揺れていたい。
「絶対にこうでなくてはいけない!」と固執したくは、余りない。
固執、というより、硬化したくない。
硬化しないという思いに固執する自分ではありたい。
行ける人と 行けない人と
行く人と 行かない人と
何も思わないひとも含めて
できることなら、全ての人の思いを知りたい。
理解できなくても知っておきたい。
そうして、見える自分と見えない自分の間でたゆたっていたい。
折れる事なく揺れる 揺るぎない信念だろう
(BUMP OF CHICKEN 『ハルジオン』)
====================
境界人(マージナルマン)という言葉に惹かれます。正確には言葉の響きに。
「マージン」という単語はひどく魅力的ですね。
「利ざや」になったらギラギラしてアグレッシブなイメージ。
「余白」になったら余裕のある感じ。
「境界」になったら深みがある。
ギラギラしてアグレッシブなんだけれど、余裕綽綽で、けれど薄っぺらくなく、
吐く言葉に深みがある。そんな人に惹かれるかもしれない。
私は「マージン」に「あはい」という訳を当てたいです。
「あはい」を持つ人は、きっと、言葉を吐かずに「紡ぐ」と思います。
====================
私と同じ空気を吸う人にも、私の父母と同じ空気を吸う人にも、
安らかな安らかな朝と昼と夜と眠りが訪れますように。
京都から祈っております。