結局、やさしさの話なんだと思う

日記やエッセイや動画の感想を書いていきながら、やさしさについて考えて整理してみようと思っています。

いつかBella Freudのスーツが欲しい

2025-01-13 21:52:31 | エッセイ

 最近聴いたPodcastの話。Bella FreudのFashion Neurosisという番組。年始に2回目のコロナに罹患して、体温が熱が上がったり下がったりするのをベッドの中でやり過ごしていた数日間に、びっくりするくらいの時間をInstagramに吸い取られてしまっていた中で、唯一の掘り出し物がこのPodcastだった。彼女がFashion NeurosisというPodcastの番組で往年のスーパーモデル、ケイト・モスをインタビューしているクリップが流れてきた。ちょうど、彼女を一躍有名にした雑誌THE FACE(1990年)の撮影時のことを話していた。ケイト・モスが話しているところをちゃんと聴いたのは、もしかしたら初めてだったかも知れない。副鼻腔炎でいろんなところが詰まって朦朧としている中でもとても興味が湧いて、Podcastのエピソードをダウンロードして聴き、同じエピソードをYouTubeでも観てしまった。

 

 

 インターネット前の90年代、オサレな雑誌には必ずケイト・モスがいた。雑誌や新聞記事に切り取られた全ての場面で彼女は最強に見えた。毎夜毎夜、オサレなパーティーにスリップドレスで現れてはタバコを加えてはしゃいでいるイメージだった。自分が美しく無敵であることを知っている人なんだと勝手に思っていたものだから、彼女について考えたり思いを馳せたりすることが無いままこの年まで生きてきた。世の中には、シンパシーを感じる人と感じない人、またそれとは別に私のミジンコみたいなシンパシーなんか必要としない人の3種類があって、彼女は確実にミジンコシンパシーの活動範囲とは一切交わることのない次元に生まれて落ちて、なんならその次元にかかる重力は、私たちミジンコよりもかなり軽いんじゃないかとすら思っていた。

 そんな彼女が、例のTHE FACEの撮影でトップレスになったことについて、あの撮影の後に何度もそのことを考えて泣いたと話すのを聞いて深くショックを受けた。彼女はとてもシンプルに、何度も泣いたと話していただけで、事実以上の分析をしたりはしなかった。「私はまだ16歳だった」と彼女は言っていた。16歳。撮影をしたフォトグラファーはコリン・デイ。女性だった。フォトグラファーが女性だったことと、自分の裸の上半身が雑誌を通して多くの人の目に晒されることは別問題。ケイト・モスはそれがすごく嫌だったんだ。そのシンプルな事実に、この後に及んで初めて気がついた。#MeTooくらいからか、この近代史の中での女性の扱われ方、セクシュアリティ、差別、マイクロアグレッション、また現代社会において文化とその脈略を健全に享受するために、知識として最低限必要な情報を取り込んで、理解して装備していると思っていたのに、私はケイト・モスに象徴されるミジンコパワーの活動範囲と一切交わることのない次元に生まれ落ちたと私が勝手に分類した人たちの人権や感情をとてもとても雑に扱っていた。それを深く反省した。

 こんな思いがけない気づきをもたらしてくれたBella Freud。私は彼女が誰なのかはもしかしたら知っていたことがあるかも知れないけれど、記憶の表面には残っていなかった。とても特徴的な苗字で、おそらくジークムント・フロイトと関係があるんだろうと思った。父親が芸術家だったという話をしていたので、お父さんはルシアン・フロイドだとしたら、あぁなるほどね、その娘さんか。なになに?ファッション・デザイナーなの?彼女のInstagramを見てみた。彼女のショップのサイトも見てみた。とても素敵なベルベット素材のスーツがあった。同じ素材のベストもボタンの大きさや襟の開き具合と言うの?そのデザインがとてもカッコいい。いつかBella Freudのスーツが欲しい。かなり裾上げしないといけないんだろうな。

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自尊心を探しに

2025-01-13 15:16:42 | カサンドラ症候群(仮)からの生還

 カサンドラ症候群(仮)からの生還というタイトルで、経験したことを整理しようと思ってから、どういう順番で書いていこうかと時々考えながら時間が経ってしまった。私が「カサンドラ症候群(仮)」と呼んでいる状況について、まず説明した方が良いのかも知れない。

 私は45歳の時に、2回目の結婚に踏み切った。1回目の結婚を総括すると「苦しかった」ので、もう一度結婚したいとはこれっぽっちも思っていなかったし、他人と生活を擦り合わせることそのものにエネルギーを費やすことも正直したくなかった。それでも再婚することにした理由は大きく2つあって、1つ目は、再婚相手と私の双方の子供が成人しているか、または既に家を出ていること、つまり生活に子供達を含める必要がなかったこと。2つ目は、お互いの仕事の関係上、籍を入れて一緒に生活をしているかたちをとった方があらゆる面で効率的、つまり面倒くさいことが少なかったから。正直に言えば、楽な道を選んだということ。

 カサンドラ症候群というのは、AIによると「自閉スペクトラム症(ASD)などの発達障害を持つ人とのコミュニケーションや関係構築が難しく、心身の不調をきたす状態」を指し、私がこの状態にあったということは、「自閉スペクトラム症(ASD)などの発達障害を持つ人」が居たわけで、それが前の記事に書いたYちゃんで、彼女は私の再婚相手の娘にあたる。Yちゃんは、私の知る限りでは「自閉スペクトラム症(ASD)などの発達障害」として診断を受けたことはなく、あくまでもYちゃんの言動や症状を見てきた中での素人目線の見立てであって、それもあって私のカサンドラ症候群には(仮)がついている。

 Yちゃんの言動については様々なエピソードがあって、今となっては面白いネタがいっぱいあるけれど、それらをつらつら書きたい気持ちにはなれなくて、これは私が回復した証拠でもあるのかなと思う。間接的にではあっても家庭内のことなので、気軽に誰かに相談することもできず、私自身がメンタルの病気なのかも知れないということを認めて、国家資格を持つ心理カウンセラーを探し、信頼して話ができるカウンセラーに出会うまでは、常に良からぬ考えが思考の真ん中を横切るようなギリギリの精神状態だった。

 相手が再婚相手の子供であることで、私のエゴ(自我)が冷静な判断を狂わせていたと思う。相手に「良い人」と思われたいエゴ、再婚相手に「良い再婚相手」と思われたいエゴ、再婚相手の家族に親身に寄り添うことで周りに「頑張っている人」と思われたいエゴ。最終的には、自分のエゴが創り出した良い人像と自分の本音が全く噛み合わなくなり、自分の中の二面性の間の底無しの溝に嵌ってしまった。絶望的な気持ちだった。

 信頼して話ができるカウンセラーに出会うまで、複数のカウンセラーにカウンセリングの導入としてYちゃんとの関係と自分が陥っている状況について全く同じ話をした。そのうち3人は、話を聞くなり今すぐに距離を取りなさいと言った。それしかないと。そんなことを言われてもそれができるならとっくにしてるわ!それができないから相談しているんじゃないか!と、カウンセラーに対して半ば怒りに近い感情も覚えた。Yちゃんから距離を取るなんていうことは到底無理だと思っていて、想像することもできなかった。なので、4人目のカウンセラーに相談した。4人目のカウンセラーは、まず、なぜ私がそう考えてしまうようになったのか、私自身の人生の脈略を整理することを提案してくれた。遠くの遠くの方からアプローチするその提案なら、取り組めそうな気がした。そして1年近く時間をかけて、ウンセリングの中で私自身の思考の癖を紐解いた後にやっと、Yちゃんから距離を取ること、それも徐々にとか自然にとかそういう中途半端な方法ではなく、本人にはっきりと「距離を取りたい」と伝えることの必要性を理解することができた。私は一際頑固だったからなのか、ものすごく時間がかかった。時間はかかったけれど、自分で自分のことを底無し沼から掬い上げることができた喜びは、誰からの承認も必要としない私だけがその価値を知る成果として、今となっては自尊心の支えとなっている。

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パトリックのこと

2025-01-05 15:24:18 | エッセイ

最近の誰かとの会話の中でDislexiaという単語が出てきた。日本語では難読症、識字障害、読字障害と呼ばれているらしいこの単語から、記憶の一部が鮮やかに甦ってきたので、記憶の欠落部分を編集で繋ぎながら書いておこうと思う。

 
私は90年代後半にロンドンの美術大学で現代アートを学んだ。現代アートコースの私たちの学年は、日本でいうところの高校から大学進学の資格を得て進学してきた生徒よりも、社会人経験者や主婦など様々な背景から再度大学で学ぶことを選んで来た大人の方が多かった。その中にパトリックがいた。
 
パトリックは、当時51歳(だったかな?)の白髪のおじさんで、白雪姫に出てくる7人の小人の中の「先生」と呼ばれてる人からメガネを取って、髭を剃って、シュッと大人サイズにして、水色のシャツ、ブラウンのコーデュロイのジャケットとパンツを着せたような、そんな人だった。
25年ほど前の美術学生はまだまだアナログで制作していたので、何かと荷物が多かったのにも関わらず、彼の持ち物はスーパーのビニール袋一つ。「カバンなんか持ったら、そこに大事なものが入っていると世間に宣言するようなものだ。ビニール袋で十分だ」と言い、毎日このスタイルで休むことなく通学していた。多分ワイシャツは白とオフホワイトと水色を着まわしていて、ジャケットは同じブラウン系のツイードの時もあったと思う。
彼のスタイルのモットーは、とにかく目立たないこと。
 
パトリックが51歳で当時のロンドンでは有名だった美術大学に入学するまでの経緯は、何度も聞いたはずなのに思い出せない。一つだけ覚えているのは、アンティークの時計の修理が趣味だったことと。骨董品のマーケットやアンティークショップにもよく通っているようなことを話していた気がする。
確か彼は孤児で、家族親戚という存在が一人もなく、彼のことを唯一「知っている」のは、彼が住んでいるアパートの大家さんだけだった。当然、婚姻歴もなく、そのほか「友達」もいないどころか、人との継続的な繋がりを意図的に避けながら生きてきた人だった。そんなパトリックだったけれど、決して気難しいわけでも話しかけづらいわけでもなく、留学生で且つ英語をどこまで理解しているのか見当もつかないアジア人の私相手にも、全く態度を変えることなく接してくれる人たっだ。
 
パトリックが好きだったアーティストに、ウィレム・デ・クーニングとジャクソン・ポロックがいた。当時私が付き合っていた彼も同じコースにいて、彼もデ・クーニングとポロックが好きだったので、そんなところから私は彼を介してパトリックのことを知ることができた。
 
そのパトリックがDislexiaだった。私がDislexiaという単語と障害について初めて知ったのはパトリックからだった。いくら美術大学とはいえ、当然、授業があって、資料が配られ、課題が出て、レポートや論文を書いて提出する。会話によるコミュニケション以外にも、文字による相互理解が必要になる場面はとても多かったのに、パトリックは文字を全て正しく読むことはできなかった。資料や書籍については、読めないなりに感じ得たものを頼り、周りの学生に確認することで理解していた。文字が読めないということは正しく書くこともできなかったので、レポートや論文を書くときは、同じ学年の優しい青年ジョンが、教室内でパトリックが話す言葉を一文字一文字書き起こして代筆してあげていた。そんな大仕事をボランティアで「やってあげるよ」と周りがついつい言ってしまうのも、パトリックの7人の小人要素のなせる技というか、彼が彼の歩んだ人生の中で磨いてきた生きる術なのかもしれない。
 
当時の私の彼はパトリックのことが大好きで、彼に近づきたくて近づきたくて仕方ないのに、パトリックは一定距離以上に人が近づこうとするのを巧妙に避けるので二人の距離は一向に縮まらず、その二人の攻防を側で見ているのも面白かった。心理学的な考察をするつもりはないけれど、当時の私の彼は早くに父親を亡くしていて、当時のパトリックは彼の父親世代だった。そんなことも関係しているのかなとは思った。
パトリックは、大学に通うためにロンドンの安いアパートを借りていたけれど、自宅はバースという郊外の街にあって、毎週末そこに帰っていた。ある時、春休みだったか夏休みだったか、パトリックのことが大好きだった私の彼は、パトリックに内緒でバースに行ってみようと言い出した。
私たちは車でバースまで行き、パトリックとの会話の中に出てきた店の名前、駅からの距離、建物の階数など、小さな情報を組み合わせてパトリックの住んでいるアパートはここだろうという部屋を探り当て、その道路の反対側から写真を撮って帰って来た。
後日、彼は嬉々としてパトリックにその写真を見せた。パトリックがどんな反応をしたか、正直はっきりと覚えていない。特に何も言わなかった気がする。少し怒って、少し驚いて、少し気持ち悪がって、そしてほんの少しだけ嬉しかったような、そんな目をしていたと思う。
パトリックに物理的にも心理的にあそこまで近づけたのは、当時の私の彼だけだったんじゃないかなと思いたい自分がいる。
 
パトリックとは学校内の作業スペースが近かったので話もしたし作品も毎日見ていたのに、彼がどんな絵を描いていたのか、今となっては一切思い出せない。なんだかとても寂しい。
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