最近の誰かとの会話の中でDislexiaという単語が出てきた。日本語では難読症、識字障害、読字障害と呼ばれているらしいこの単語から、記憶の一部が鮮やかに甦ってきたので、記憶の欠落部分を編集で繋ぎながら書いておこうと思う。
私は90年代後半にロンドンの美術大学で現代アートを学んだ。現代アートコースの私たちの学年は、日本でいうところの高校から大学進学の資格を得て進学してきた生徒よりも、社会人経験者や主婦など様々な背景から再度大学で学ぶことを選んで来た大人の方が多かった。その中にパトリックがいた。
パトリックは、当時51歳(だったかな?)の白髪のおじさんで、白雪姫に出てくる7人の小人の中の「先生」と呼ばれてる人からメガネを取って、髭を剃って、シュッと大人サイズにして、水色のシャツ、ブラウンのコーデュロイのジャケットとパンツを着せたような、そんな人だった。
25年ほど前の美術学生はまだまだアナログで制作していたので、何かと荷物が多かったのにも関わらず、彼の持ち物はスーパーのビニール袋一つ。「カバンなんか持ったら、そこに大事なものが入っていると世間に宣言するようなものだ。ビニール袋で十分だ」と言い、毎日このスタイルで休むことなく通学していた。多分ワイシャツは白とオフホワイトと水色を着まわしていて、ジャケットは同じブラウン系のツイードの時もあったと思う。
彼のスタイルのモットーは、とにかく目立たないこと。
パトリックが51歳で当時のロンドンでは有名だった美術大学に入学するまでの経緯は、何度も聞いたはずなのに思い出せない。一つだけ覚えているのは、アンティークの時計の修理が趣味だったことと。骨董品のマーケットやアンティークショップにもよく通っているようなことを話していた気がする。
確か彼は孤児で、家族親戚という存在が一人もなく、彼のことを唯一「知っている」のは、彼が住んでいるアパートの大家さんだけだった。当然、婚姻歴もなく、そのほか「友達」もいないどころか、人との継続的な繋がりを意図的に避けながら生きてきた人だった。そんなパトリックだったけれど、決して気難しいわけでも話しかけづらいわけでもなく、留学生で且つ英語をどこまで理解しているのか見当もつかないアジア人の私相手にも、全く態度を変えることなく接してくれる人たっだ。
パトリックが好きだったアーティストに、ウィレム・デ・クーニングとジャクソン・ポロックがいた。当時私が付き合っていた彼も同じコースにいて、彼もデ・クーニングとポロックが好きだったので、そんなところから私は彼を介してパトリックのことを知ることができた。
そのパトリックがDislexiaだった。私がDislexiaという単語と障害について初めて知ったのはパトリックからだった。いくら美術大学とはいえ、当然、授業があって、資料が配られ、課題が出て、レポートや論文を書いて提出する。会話によるコミュニケション以外にも、文字による相互理解が必要になる場面はとても多かったのに、パトリックは文字を全て正しく読むことはできなかった。資料や書籍については、読めないなりに感じ得たものを頼り、周りの学生に確認することで理解していた。文字が読めないということは正しく書くこともできなかったので、レポートや論文を書くときは、同じ学年の優しい青年ジョンが、教室内でパトリックが話す言葉を一文字一文字書き起こして代筆してあげていた。そんな大仕事をボランティアで「やってあげるよ」と周りがついつい言ってしまうのも、パトリックの7人の小人要素のなせる技というか、彼が彼の歩んだ人生の中で磨いてきた生きる術なのかもしれない。
当時の私の彼はパトリックのことが大好きで、彼に近づきたくて近づきたくて仕方ないのに、パトリックは一定距離以上に人が近づこうとするのを巧妙に避けるので二人の距離は一向に縮まらず、その二人の攻防を側で見ているのも面白かった。心理学的な考察をするつもりはないけれど、当時の私の彼は早くに父親を亡くしていて、当時のパトリックは彼の父親世代だった。そんなことも関係しているのかなとは思った。
パトリックは、大学に通うためにロンドンの安いアパートを借りていたけれど、自宅はバースという郊外の街にあって、毎週末そこに帰っていた。ある時、春休みだったか夏休みだったか、パトリックのことが大好きだった私の彼は、パトリックに内緒でバースに行ってみようと言い出した。
私たちは車でバースまで行き、パトリックとの会話の中に出てきた店の名前、駅からの距離、建物の階数など、小さな情報を組み合わせてパトリックの住んでいるアパートはここだろうという部屋を探り当て、その道路の反対側から写真を撮って帰って来た。
後日、彼は嬉々としてパトリックにその写真を見せた。パトリックがどんな反応をしたか、正直はっきりと覚えていない。特に何も言わなかった気がする。少し怒って、少し驚いて、少し気持ち悪がって、そしてほんの少しだけ嬉しかったような、そんな目をしていたと思う。
パトリックに物理的にも心理的にあそこまで近づけたのは、当時の私の彼だけだったんじゃないかなと思いたい自分がいる。
パトリックとは学校内の作業スペースが近かったので話もしたし作品も毎日見ていたのに、彼がどんな絵を描いていたのか、今となっては一切思い出せない。なんだかとても寂しい。
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