この文は古い記憶を辿り、思い出しながら書いたものです。当時のしきたりや風習で現代とは全く違います。それに記憶違い思い違いもあり得ます。その点をお含み願います。
先日「路線バスで寄り道旅」という、何時も観ているテレビ番組(東京近辺ではテレビ朝日)を見ておりました。
その中で昔の遊郭の「吉原大門(おおもん)」が出てきたのです。
実は私が未だ20代前半の頃、北海道で2年半暮らし、昭和33年1月に引き上げてきた時の話が浮かんできました。これまでコツコツ貯めた後、こちらでも結構郵便貯金は貯まりましたから、少しはのんびりと暮らせます
青函連絡船を降り青森駅に入ると、薄明りで青森発最終上野行き2本の列車が見え、右側ホームに大勢の乗客が乗り込み、左ホーム列車にはぼつぼつしか行きません。
生憎列車旅行やダイヤには縁がなく、ただ発車が10分遅いだけの空(す)いている、左ホームの列車に乗り込みました。
あとで知ったのですが、本州中央ラインを走る東北本線と、太平洋側久慈駅まわりの常磐線だそうです。
常磐線列車後尾から乗り込むと、4人席に2人連れが荷物を置いて、他の乗客が座れないようにしていたりして、中々席が見つかりません。
仕方なくどんどん前に進むと、左側3人連れ酔っ払いのシート手前右側に女性1人だけの席がありました。
もう後ろから空席探しの車内移動で疲れ果てているので、「ここ空いていますか?」と声をかけると、「空いていますよ」と置いてある包みを荷棚に上げてくれたのです。
特に驚くような美人ではありませんが、若くて紺色の服上下を着ておりました。
旅慣れをしていないので、車内用の飲食物は買っておりません。大きなズックケース1つしか持っておりません。
彼女はそれに気が付いたらしく、荷棚に上げたケースから、ジュース瓶やおにぎりを分けてくれたのです。
それから話し始め、旅行経験がないことを話すと、「朝食は仙台で買えばいい」とか色々教えてくれました。
出発後車両出入り口の隙間風か、冷たい空気が流れてきました。煖房は窓下の熱湯管を包む足載せケースだけで、とても眠れません。何しろ蒸気機関車ですからね。
すると彼女が「2人のコートを重ねて、一緒に入りませんか?」と言ったのです。
一寸驚きましたが、確かに別コートで肩を寄せ合っても、この寒さは防げないでしょう。
そこで2人で体を寄せ合い、半身ずつ狭い2つのコートに入り、2人の体温で如何にか冷気を防げました。
うとうとしたようで、彼女に揺り起こされると、反対側に海らしきものが見え、松島だと教えてくれました。
如何にか仙台に着くと、多分夜中におにぎりを貰ったために、朝食がなくなり駅弁を買うため、立ち上がりました。
どんな弁当がいいか訊かれましたが、さっぱり見当がつきません。
その時持っていた高額紙幣は10円だったか、あるいは1000円だったかは覚えていません。でも当時とすれば結構な金額でした。出稼ぎで貯めたのです。
その1枚を彼女に渡し、同じものにしてくれ、と頼みました。
駅弁お茶などのお釣りと、彼女の代金も一緒に渡してくれました。でもそれは当然受け取れません。若しかすると大企業の社員かも・・・と思いましたよ。それ程きっちりした対応です。
何処だかで電気機関車に変わったのか、ばい煙がなくなっておりました。車内はもう満員で2人並んで座り、上野に着いたら何処らまで行くのか尋ねました。初めは押し黙り答えませんが、何回も尋ねるうちに遂に耳元で「吉原」と囁いたのです。
驚きました。何かの小説で読んだのですが、遊郭では花魁などを逃亡させないために、普通の着物を着たりさせず、また掘割を巡らせてあるそうです。
でも全く小説とは違いますね。だって普通に話すようになってから、何処出身か訊いた時に「くろいし」と聞きました。勿論知らない地名です。
今は多分青森県の黒石市らしいですが、町なのか村なのか当時は判りませんでした。
そうそう、何故吉原にいるこの女性が故郷に帰れたのか? おそらく「売春防止法」施行が昭和33年4月1日・・残り2か月・・からなので、籠の鳥から開放される女性たちの、今後の生活の対応を選ばせるためですかね。
別れ際彼女はバックから手帳を出し、店の住所、電話番号、店での呼び名を書いて渡してくれました。更に地元不案内なので、来たくなったら、事前に電話してから馬道のトロリーバスに乗り、「大門(おおもん)」で降りればそこで待っている、と言ってくれたのです。
最初は悩みました。だってお女郎さんですからね。でも列車での優しい扱いを思い出し、一度逢ってお礼を言いたいと、考えたのです。
半月くらい経って実家に落ち着き、思い立って近くの電話ボックスから呼び出してみました。
暫く待たされ(当時の電話料金は通話時間に関係なし)都合を聞くと、誰かに訊きながら自宅から遠いので、着くのは夕方になるかもしれないとのこと。そろそろ客が来始めゴタゴタするので、明日午後の方がゆっくり出来る、と言ってくれました。
翌日出かけて昼前に地下鉄浅草に着き、電話を入れると昼食は如何するか訊かれ、ここで食べていくと答えると、安くて美味い良い店を教えてくれました。
終わってもう一度連絡すると「トロリーバスに乗り大門で降りたら、迎えに出ている」と言ってくれました。
でも降りて見わたしても、歩道の塀際に着物を着た綺麗な女性がいるだけで、紺色の服上下を着た彼女の姿はありません。
すると和服の女性が近寄り「お久しぶりね」と言ったのです。考えてみれば吉原入り口ですものね、着物が当たり前でした。それに厚化粧ですから見間違えたのです。
廓(くるわ)に入りあちこち道を廻って、やっと彼女の働く店に着きました。
そこの女性たちの待ち合わせ場所なのか、10分くらい待たされると彼女が戻り、自分の部屋に案内してくれたのです。
廓の仕来たりは判りません。客なのか知り合いが訪ねてきたのか、それで使用料がかかるのか、迷うばかりです。
出入り口から入ると縦に三畳間があり、その先が六畳に押し入れ、それとヤカンを掛けた火鉢がありました。彼女が店に出ている間は、ラジオを聞いていました。そして戻るとお別れです。
2回顔だけを見て帰り、或る日訪ねた時暫く話しているうちに、どちらからとなく体を寄せ合い、昼間なのに初めて彼女を抱きました。
これまでに葛藤がありました。不特定多数の男に抱かれたら、性病の恐れがあるかも・・と言う恐れです。それで思いきって訊ねてみたのです。答えは[専門機関で毎月精密検査を受ける]というような意味だったと思います。
その日は夕方帰りましたが、如何したらいいのか判らず、財布を渡すと「五百円もらうね」と言い、店の前まで見送ってくれたのです。
その後は当時電気通信関係の自営仕事をしていたので、合間をみて彼女の部屋に泊まるようになり、相変わらず買い物などで財布は預けているので、多分二千円位払っていたと思います。金額は推定ですけどね。
そのうち判ってきました。四国の老舗のご主人だかご隠居さんだかが、月に一回取引か何かで上京、終わってから彼女に逢いにきて、泊まっていくと言ってくれました。
暫くしてご本人と顔を合わせました。事前に話を聞いていたのか、初顔合わせしましたが若造に先に頭を下げ、「可愛がってあげてください」というのです。
その夜その方は彼女と一緒に立派な客間に泊まりましたが、途中で彼女に「あの人が待つ部屋に戻っていい」と言ってくれたそうです。
矢張り人の上に立つ人は、周りの人への優しさを失わないのですね。廓が閉まったら、この人のところで世話になる約束があると、彼女から聞いているので、この人なら彼女の家族も、少しは助けてくれそうで、安心しました。
やがて売春禁止法施行2日前の1月30日に、この方が上京し31日朝方彼女を連れて帰ると聞き、28日に最後の一夜を過ごし、別れを告げたのです。
なお、二人だけの嬉しい出来事を思い出し、5月28日に追記しました。
たまには鰻の蒲焼でも一緒に食べようかと思い、驚かそうと何も言わずに昼少し前頃呼び出しました。街で会う時正体(吉原の女)がばれないように何時も使うタクシーで来た彼女を連れ、今は見かけた場所・・田原町だか国際通りだか・・も覚えていない鰻店に入りました。
上うな重を頼もうとした時、彼女が言いました。「私はウナギが駄目なの」驚いて何で先に言わないんだとなじると、「あなたの好きなものを食べて欲しかった」と言ったのです。
何も言えませんでしたね。彼女は店では安い粗末な食事をおえました。
人によっては見下げる、体を売る仕事・・貧しい家族を養う・・などを、卑(いやしむ)かもしれません。でもそれはその人の勝手ですよ。
遊女が恋人なんて変な奴、なんて思われるかもしれませんが、時代によってはこんな愛か恋があってもいいんじゃないですかね。
完