「もののふの八十(やそ)宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも」は、
叙景か叙情か。
これは専門家の間でも意見の分かれる難題だ。
何だい、難題か。
と心を重くされる読者もいるだろう。
が、しばらく、お付き合い願いたい。
事実を報告するのか。
それとも、
主観を述べるのか。
時と場合による、
と答えるのが無難だ。
僕は、しかし、
そんな返答を求めていない。
僕は毎日君を追いかけた。
過去に遡り、そう述懐したい時もある。
僕は君と一緒に一つの物語を作りたい。
未来に対して意欲を強化し、そう言いたい時もある。
人は気紛れだ。
今、三角形の面積を求める公式を使っている人もいるだろう。
今、人知れず涙を流している人もいるだろう。
物事には継起と飛躍という二つの展開の様態がある。
誰もが或る日、突然、自分になるのだ。
「波の行くへ」も計算できますよ、
と豪語する賢者もいるだろう。
月に着陸して地球に帰還した人間もいた。
それを実現した科学者でさえ、
しかし、女心を操ることは出来ないだろう。
僕は今夜、人生の一回性について思いを巡らす。
非情を生きる。
生きざるを得ない場面がある。
誰もが皆剣が峰に立っている。
人は人を殺すこともあれば、
殺されることもある。
これが僕の人生についての〈要約〉だ。
ハッピーエンドで終わる小説など読まない。
「失われた時を求めて」のように
何事も「未完」で終わるのが良い。
永遠の命などどこにある?
僕も土に還る。
ゆえに、
僕は十分に練られた言葉よりも
アドリブに賭けたい。
何を?
次の瞬間にはどこへ行くのか分からない「波のゆくへ」のような自分のすべてを。
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