エビフライにかぶりつき、ビールを飲み干す。そこに娑婆の幸福を見出す。これも確かに捨てがたい。しかし、浦内川のカヌー体験をしてからは、(その時のガイドの話、マングローブと輸入エビとの関係を聞いてからは)、もう無邪気にエビフライを頬張れない。
エビフライを食べるたびに、東南アジアのマングローブ林は消滅していく。海と森の生態系が破壊されていく。マングローブ林の周辺地域に住む人々の暮らしが失われていくことになる。
2011年9月4日、西表島入りをしてから三日目。沖縄県最大の川、浦内川を再訪。朝一番の9時の遊覧船に乗った。乗客は5名。寂しそうな青年が一人、ペットボトル1本だけを手にぶら下げていた。小柄で恋人のいなさそうな、しかし、いつかは男が寄り付く可能性がありそうな女性が一人、高級カメラを首からぶら下げていた。大柄で恋人のいなさそうな、そして、私の趣味ではない女性が一人、頑丈そうな背中にリュックを背負っていた。彼らは皆一人旅だった。女性は二人とも地味な服装だった。性犯罪防止の意図があったのだろうか。出航すると、船頭は私たちに帽子を飛ばされないように気をつけてくださいと拡声器で注意を促した。涼しい川風が心地よく頬を撫でていった。
4年前は、浦内川の水量が減っていて、途中から遊覧船は航行できなくなり、引き返した。今回は満潮だったので、浅瀬に乗り上げる心配はなかった。乗船場から8キロ先にある軍艦岩で下船し、そこから亜熱帯の森をカンビレーの滝まで歩いた。途中のマリュドゥの滝へは近づくことができない。展望台から見下ろしただけだった。軍艦島から滝までの往復90分程のトレッキングコースは整備されていた。観光客の通行の便のためにコースを遮るような草木の枝は切られていた。その切り口から夥しく分泌された黄色や透明の樹液が、ゴムのように固まり、長く垂れ下がっていた。ジャングルの雰囲気を感じた。掌ほどの巨大な女郎蜘蛛があちこちに糸を張っていた。耳には蝉の鳴き声が途絶えることなく入ってきた。
トレッキング後、軍艦島から正午の便で元の乗船場へ戻り、休憩所で弁当を食べ、午後のカヌー体験に備えた。私たちがカンビレーの滝から帰ろうとした時、大勢の観光客がやって来た。行きも帰りも私たちの船内はガラ空きだった。休憩所では、愛想のない、30代半ばくらいの長髪の青年が弁当を配ってくれた。お茶は山で使うようなアルミ製の浅い皿に注いでくれた。弁当は「キッチンいなば」のものだった。私たちが泊っているホテルのすぐ近くにあるレストランだ。千円の値打ちはないな、と思いながら食べた。食中毒にさえならなければ、何だっていい。この時は、この陰気そうな弁当青年が後で私たちのカヌー体験の名ガイドになるとは分からなかった。
青年はカヌー乗り場で「平と申します」と初めて名乗った。参加者は若者ばかりの5名と馬鹿者夫婦の私たちだけだった。平氏はカヌーの操作方法、転覆防止法等について教示した。陰気そうだった青年が段々と本領を発揮していった。私の第一印象は見事に打ち破られた。教えられた通り、川の中でカヌーの両側を両手でつかみ、飛び上がるようにして乗り込んだ。私たちを含め、3組は二人一組で参加したので、二人乗り用のカヌーに乗った。ガイドと一人の青年だけが一人乗り用に乗った。乗って一漕ぎ二漕ぎしただけで楽しい気分になってしまった。以前にもどこかでカヌーには乗ったことがあるが、心の奥の野性が目覚めるような喜びを味わったのは、今回が初めてだった。
浦内川を遡り、支流の宇多良川へ入って行くと、両側にマングローブ林が広がっていた。先頭を漕ぐ平氏は自分も楽しんでいるかのように、「急がなくていいです。ゆっくりと楽しんでください」と皆に声を掛けた。私は時間を川の底に捨てた。そうだ、この川とこの両側の景色を味わうことが大事だ。今は、この一瞬一瞬、この一漕ぎ一漕ぎがすべてなのだ。ここで歓喜の歌を歌わなくてはどこで歌うのだ。私は9月3日の午前に船浮のイダの浜で味わった失望感をようやく喜びで穴埋めすることができた。4年振りに再訪したイダの浜の透明度は確かに私の期待を裏切った。しかし、それが海なのさ。時々刻々、表情を変えていくのは当然だ。そう私は自分に言い聞かせた。パドルを肩幅に持ち、ゆっくりと左右交互に漕ぎながら、私は3日の午前からずっと心の中で小さく苛立っていた波が段々と宥められていくように感じた。
平氏の指示により、私たちは岸辺に上がった。細い道がジャングルの方へ通じていた。平氏は周りの亜熱帯の動植物の説明をしてくれた。名前を忘れたが、危険な植物もあった。平氏が「葉っぱに触るだけなら大丈夫ですが、樹液が体に付着すると神経を侵します。死ぬ場合もあります」と言いながら、一枚の緑の葉っぱを手で折った。すると、たちまち切り口から白色の濃厚な液が出てきた。私は思わず前に進み出てカメラを向けた。排気ガスにも強いので、道路際にもよく生えているとのことだった。記憶力がないので内容は忘れてしまったが、平氏が他にも色々と面白い説明をしてくれたことだけは覚えている。蝙蝠が食べる木の実の話、巨大な雌の女郎蜘蛛が小さな雄を食べる話、一夜だけ咲く花の話、幹に小判の模様を付ける木の話。今後人の話を聞く時は、メモを片手に聞く必要がある。
宇多良川の奥に宇多良炭鉱の跡があった。1935(昭和10)年頃が最盛期で戦後廃れたという。去年完成した見学コースを辿りつつ、「こんなジャングルの中に映画を上映する施設を備えた炭鉱の町があったとは信じられない」と思った。平氏は、しかし、近代的設備という隠れ蓑の裏側の生き地獄の証人から得た悲話を私たちに語った。強制労働に従事させられた挙句、マラリヤで死んでいった底辺に生きた人々の悲劇。快適なリゾートホテルのベランダでオリオンビールを飲みながら、東シナ海に沈む夕日を眺めることだけを夢見ていた私の耳に、その時、初めて西表島の大地から舞い上がった現実の風が入り込んできたようだった。言わば、素顔の西表島の一端を垣間見たような気がした。
宇多良川から浦内川に引き返した私たちは左岸のマングローブ林に案内された。足が川底に着く地点でカヌーから降りると、平氏は自分のパドルを川底に突き立て、5隻のカヌーをそのパドルに舫った。ツアー参加者の一人が「きれいな水ですね。泳いでいいですか」と聞いた。平氏は「いいですよ」と言うが早いかバシャッバシャッと自らが一番に泳ぎ出した。皆、後に続いた。女性たちも「気持ちいいですね」と叫びながら泳いでいた。私も思い出のために泳いだ。救命胴衣を着けていたため、浮かんでいるだけで気持ち良かった。
ひとしきり泳いだ後、左岸に戻り、私たちは平氏の後を追ってマングローブ林の中に入って行った。何度もオヒルギの根っこに躓きそうになった。マングローブとは、一つの樹木名ではなく、亜熱帯地域の河口汽水域の塩性湿地に生える常緑高木の「総称」だった。初めて知った。葉の丸いメヒルギ、水中からボコボコ出ている黒っぽい屈曲膝根が印象的なオヒルギ、自らのバランスを取るために蛸足状に支柱根を生やすヤエヤマヒルギ、これらが現地で説明を受けた個々の樹木の名前と特徴だ。浦内観光が一社で厳格に管理している浦内川沿岸は、私の目にはマングローブの聖域のように映った。平氏は「一度観光客を案内した区域は2週間立入禁止にしています」と言った。私がその理由を尋ねると、落下し水底に堆積したマングローブの葉を食べる何万という蟹の生活環境を守るためだと答えた。「蟹がいるから、この川の水が汚れずに保たれているんです。マングローブだけを保護しても生態系は守れないんです」昼に私たちに弁当を配っていたあの陰気そうな青年の顔が、いつの間にか神々しいまでの光を帯びていた。私は同性に好感を持つことは滅多にないのだが、彼には段々と魅かれていった。緩やかに流れる浦内川の中で、私たちは平氏を中心に輪になって立ち話をしていた。黄色い遊覧船が川の中央を通過して行った。船上で誰かが手を振った。私たちもそれに応えた。その立ち話の中で、平氏は、次のようなことも言った。東南アジア、たとえば、インドネシアでもベトナムでもいい、そこのマングローブ林はエビの養殖池になっている場所が多い。しかも、焼畑式の養殖だから、エビの病気予防のための大量の抗生物質等で汚れた養殖池は数年後には放置されたままになる。養殖池になる前の、地域住民に素朴で豊かな暮らしをもたらしていたマングローブ林は、その生態系を含めて破壊されてしまうことになる。一度破壊されたマングローブの再生には長い年月がかかる。・・・「日本人はエビが好きですからねえ」この言葉はまだ私の耳に残っている。確かに、輸入エビを最も多く食べているのは米国と日本だ。エビフライの向こう側に東南アジアの破壊されたマングローブがあったとは。私が舌鼓を打って食べ、「うまい」と言って味わっていたのはエビではなかった。実は、知らず知らず東南アジアの人々の悲しみを食べていたのだった。
9月5日朝、私たちはバラス島へ向かった。シュノーケリングのツアーを申し込んだのだが、ツアー客は私たちだけだった。ホテルまで迎えに来てくれたインストラクターは、地元西表島出身のハンサムな青年だった。ショップの名は「レイリーフ」。上原港からバラス島までは指呼の距離にあるが、その夢のように透き通った岸辺の水を見た瞬間には誰もが感嘆の声を上げるだろう。珊瑚のかけらだけで盛り上がった小さな、青い海の上の白く輝く宝石。もう他のどこにも行きたくなくなるような、明日にでもまた行きたくなるような、心を虜にする美しい幻。私はその白い宝石の上に大の字に寝て空を見上げた。心の中で、来て良かったと呟いた。潜れば、海の中では、青色と夢とを透明な水で溶け合わせたような美しい色の小魚の群れが、私の目の前をひらひらと舞うように泳いで行った。
楽しい遊びだったが、水中にいると、なぜかすぐ疲れるので、私はすぐ島に上がり、休憩した。私も女房も腹が出ているせいかウエットスーツで体を締め付けていると気持ち悪くなった。許可をもらい脱ぎ捨てた。島に上がる時、目の前に19歳くらいの可愛い女性が洋服を着たままで座っていた。「いやあ、すごい。海の中には綺麗な珊瑚礁もあるし、カラフルな可愛い魚もいっぱいいますよ」と話しかけたら、「いやあ、そんなこと言われたら、入りたいわあ」と関西系の抑揚で返答してきた。彼女は家族旅行で来ていたようだった。レイリーフ号とは違う船の船長が巨大なバナナボートを引いて来ていた。彼女はそれを見て「あれに乗りたいわあ」と父親らしい人に頼んでいた。
彼女が水の中に立っていた船長に「あれに乗ったら濡れますか?」と尋ねた。
「ビシャビシャに濡れます。泳いでいるのと同じです」
近くでシュノーケリングをしていた父親も「濡れるから止めとき」とか何とか言っていた。
船長が「どうして泳がないんですか?」と聞いた。その一瞬、私はある予想をした。彼女は臆することなく、「女の子の日なんです」と甘い声ではっきりと答えた。聞かなくてもいいのに、あの船長はひょっとしたら、自分が聞きたい答えを言わせたくて聞いたのかもしれない。いやな男だ。そういう私も、しかし、その女の子のいかにも可愛い答え方に新鮮さを感じ、私の耳と心がしばし酔い痴れたことは事実だ。困ったものだが、素直に告白しておこう。心の中に野卑な部分がない凡人などいない。
9月6日、西表島を離れる日の朝、私たちはレンタカーに乗って、観光スポットとではない畑の方へ行った。最後は細い未舗装の道に入り込んだ。行き止まりになっていた。正面の背丈の高い草木の向こう側に群青色の海が少しだけ見えていた。周囲には誰もいなかった。「ここで写真を撮ってくれよ。言わば、素顔の西表島だ。せめてその一端なりとも記録しておきたいんだ」海の反対側の干し草を眺めていた私の顔を女房は写したが、写真を見ると、その私の背景に海の色はほとんど写っていなかった。
無事帰宅して、最初の週休日に帰省した。畑の草刈りもする必要があった。伊吹山麓の某ホームセンターに草払い機用混合ガソリンを買いに行った私は、開店数分前のぶらつきで、壁際に積まれたバービキュウ用炭の箱の側面に「マレーシア林野庁推奨 マングローブ切炭」という表示を発見した。一瞬にして、私は浦内川での平氏の話に戻った。私の心の中の旅は、途切れ途切れになりながらも川のようにまだまだ続いていきそうだった。
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