その一
悲しみというシミは、一度ついたらぬぐえない。
悲しみというシミは、掌につく。
ベタベタと触れば、どこにでもその痕がつく。
悲しみというシミは、足の裏にもつく。
歩いても歩いても、どこまでもついてくる。
悲しみというシミは、一度ついたらぬぐえない。
どんなに幹が太くなっても、残っている傷のようだ。
悲しみというシミが生きている、おまえではなく。
おまえこそがシミになりさがっていて、
悲しみがまるでおまえのように生きている。
大空に向かって謳歌する日はいつのことか。
悲しみというシミは、ある夕方、台所で、
異変の煙が隙間から立ち昇る中で、
まだ暖かみを持ったまま倒れている。
誰にも看取られずに、
たった一人でシミが、現実のシミになっていく。
悲しみというシミは、一度ついたらぬぐえない。
その二
もう戻らない。
舌の下に唾が枯れ果てる。
僕は僕の他人になって、どこかの町外れに立つ。
もう戻らないはずだった僕が、家に戻る。
見慣れた本棚を見上げると、
砂時計の砂のように小やみなく降り積もっていた惨めさが、途切れる。
長い沈黙。
うたかたの泣き笑い。
長い沈黙。
もう戻らない。
舌の下に唾が枯れ果てる。
僕は僕の他人になって、どこかの町外れに立つ。
その三
川の水がコンクリート製の床を濡らす。
緑色のナイロンブラシで僕は擦る。
水は朝から晩まで流れている。
僕は日銭を稼ぐために擦る。
水が流れてくる。
僕はブラシで擦る。
朝から晩まで流れているのは川の水。
僕は縦、横、斜めに擦る。
きのうも擦った。
きょうも擦った。
あしたも擦るだろう。
この一擦り一擦りが人生なのか。
この一擦り一擦りが人生なのだろう。
君は向こうを向いたままだ。
川の水がコンクリート製の床を濡らす。
緑色のナイロンブラシで僕は擦る。
その四
僕はブラシで擦る。
やることがない。
僕はブラシで擦る。
時給は安い。
僕はブラシで擦る。
仕事をしている振りだ。
僕はブラシで擦る。
今は役に立っていない時間だ。
僕はブラシで擦る。
誰か僕に何かを命じてくれ。
ブラシで擦られているのは、
僕の、隠れ場所を探しているような魂だ。
その5
想像していた凶事が、一つの具体的な現実になる。
そこで感じる現実と想像との違い。
具体的な一つの現実がもたらす圧倒的な、
息苦しいほどの、
耐えられそうもない重圧の時間。
僕は浴槽をたわしで擦る。
洗濯物を取り入れ、畳む。
レシピに忠実に従い、料理を作る。
僕は圧倒的な浴槽を擦る。
息苦しいほどの洗濯物を取り入れ、畳む。
耐えられそうもないレシピに忠実に従い、料理を作る。
僕は圧倒的に擦る。
息苦しいほどに畳む。
耐えられそうもなく料理を作る。
擦りながら、
畳みながら、
料理を作りながら、
僕は遥かに遠い日の、
清らかな湧き水が流れ出ている土手を思い出す。
そこで感じる現実と思い出との違い。
具体的な一つの思い出がもたらす果敢ない、
心地よいほどの、
眠りに誘われるような愛惜の時間。
その6
儲けようなんて考えるのは、愚。
取ろう取ろうなんて気張るのは、徒労。
何もかもなくなってゆく、行く行くは。
石になる記憶は、けだるく砂と散るだけ。
成れの果て、果てしなく泣く。
誰もが、残らず残り物。
強情の果ての往生、すっからかん。
空缶に酢なし、空瓶に死なし、空箱に差なし。
その7
希望でもなく、
絶望でもなく、
ただひたすら往くだけ。
止まりながらも、
振り向きながらも、
ただひたすら往くだけ。
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