岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

ニセコアンヌプリ紀行2008年

ニセコアンヌプリ紀行2008年
山際 うりう

部屋の窓の中心から左右に歩きながらレースのカーテンを開けると、窓の向こう側には細くて白っぽい立木が並んでいた。起き掛けの覚醒度の低い目で見たのは平凡な風景だった。にもかかわらず、樹間のそこかしこに漂うような神韻を感じ取った瞬間、僕の心は揺さぶられ、一気に目覚めた。風景の中の何かに咄嗟に反応したのだろう。気韻生動、そんなふうに言いたい絵画的な世界が眼前に広がっていた。暁闇の薄明るさの中に、ほっそりとした背の高い白樺の雑木林が、横長の窓一杯に広がり、細い枝と枝とを絡めて上品な静謐をこぼさないように保持していた。まだ暗い朝霧の向こうから白馬が出現しそうな雰囲気だった。そこまで言ってしまうと、逆に、俗悪になってしまうだろうか。この壊れやすそうな束の間の詩情にそっと包み込まれたくなり、僕は窓際の椅子に腰を下ろした。僕はただ自然美を感じるために眺めた。あるいは、眺めながら自然美に酔った。その日はニセコから多治見に帰らねばならない日だった。名残惜しい。去って行かねばならないからだ、こんなに後ろ髪を引かれるのは。例えば清掃人として毎日の暮らしの中で向き合っていたら、多分こんなありきたりの雑木林を悲しくなるほど眺めることはないだろう。チェックアウトは午前11時までだった。ホテルの部屋の冷蔵庫の中には函館の白ワインとニセコのカマンベールチーズとがまだ残っていた。貧乏人としてはそれらを11時までには胃袋の中に詰め込む必要があった。数年前のフランスのドゴール空港内のレストラン。こざっぱりした高齢の英国紳士とその夫人(いや、夫人と性急に決め付けてはならないが)は、僕の隣のテーブルで、白ワインを氷の入ったバケツの中で冷やして飲んでいた。彼らは白ワインを三分の一ほど残して、彼らのテーブルと僕のテーブルとの狭い間を擦り抜けて、立ち去って行った。金持ちだ、ワインを残すとは。そんな遠い日の心の呟きを蘇らせながら、ホテルの窓際で僕は冷えた白ワインを大匙2杯分ほど飲み干した。一滴も残さずに飲み切るつもりだった。どうして残して帰れるだろう。もし何者なのかと問われたら、僕は「人間である前に貧乏人だ」と答えたい。そう答えるのが一番間違いない。ふと気付くと、白樺林をすっぽりと覆っていた闇がいつの間にかより薄くなっていた。こんなふうに人は誰も〈流れる時〉に身と心とを委ね切って漂ってもいいのだ。そう自らに言い聞かせながら、ゆっくりと漂った。いつの間にか空からは粉雪がひらひらと音もなく舞い降りていた。窓際の椅子で僕はプルーストの「失われた時を求めて」を開けた。何度読んでも理解できない部分がある。その度に、僕は苛立つ。僕は「本当にこれは20世紀最高の文学なのか」と自問する。白樺を見る。読み解けない部分は残したまま、次の段落に移るしかない。それが毎度の答えだった。人生には仮の答えだけで済まさねばならない時がある。庭の飛び石のように「留保」があってもいい。「留保」と言う名の庭石を飛び越えてでも、渡り着かねばならない岸がある。天命などは人事を尽くさずに待つところに醍醐味があるのだ。人智よりも天、仮の答えだけで小説も、人生も閉じていいのだ。そう僕は自らに言い聞かせた。いつの間にか朝の爽快な明るさが白樺林の中に芽吹き、広がり、もうどの枝を探しても一片の闇も引っ付いていなかった。風の有無は分からない。多分無風だろう。ただ枝から時折、枝の上部に溜まった雪の塊が、霧のように微細に広がりながら落下したり、落下の途中で他の雪の塊とぶつかり、崩れ、粉のように散り広がったりした。一瞬間に乱れ散る粉雪の花だった。帰る日になって、ようやくニセコの看板、パウダースノーを僕は見ることが出来たのだった。

何もせずに雪を見ながら酒を飲む。何もせずに波の輝きを見ながら泡盛を飲む。旅立つ前は、そんな過ごし方を夢見る。しかし、目的地が海にしろ、山にしろ、現地に到着し、いざ杯を手に持ち、ゆっくりと流れる時間を味わおうとすると、心の底の方で小さな焦りがどうしても生まれてしまう。妄想があれこれと浮かぶ。ここにいていいのか。いけないのか。他にすべきことがあるのではないのか。先の事を、しかし、深く考えるタイプではない。僕は利己主義と感傷主義という逃げ場に避難する。ゲレンデで滑りたい者は滑ればいい。海に潜りたい者は潜ればいい。僕は雪の塊が枝から枝へ引っ掛かりながら落下するたびに、その果敢ない短い時間を見つめた。雪が落下しているのか、時間が落下しているのか。ただじっと眺めていると、訳もなく愛おしかった、こんなふうに異郷に一人でいる時間そのものが。指の間から時間が落ちて行くのを止められないもどかしさ。いや、指の間から落ちて行くのは時間ではなかった。心の中で時間が止まってしまうような永遠の美を所有していない虚しさが、僕の指の間から落下したのだ。彼岸ではなく、此岸にしかいられないことの絶望感。それにしても、眼前に広がっているのは何という幻想美だろう。此岸にいながら、玉響僕は彼岸に渡り着いた錯覚に囚われた。ホテルの暖かい部屋から眺めている限り、空からふわふわと際限なく舞い降りる雪の欠片も、撓む枝から不意に落ちこぼれ、しばし霧状に漂い揺れる雪の香りも、甘く、切なく、美しかった。窓のこちら側ではなく、たった1枚の窓ガラスの向こう側にもし佇めば、しかし、こんな叙情詩は即座に〈しばれる〉世界で砕け散るだろう。ここにいていいのか。いけないのか。氷点下の雪原で〈ここにいること〉の可否について愚図愚図と悩んでいては心身ともに凍り付いてしまうばかりだ。いつどんな問いをどのように自らに問うのが賢明なのか。これを繰り返し問うしかない。ある詩人の歌を僕は藪から棒に歌った、「ほんの少しだけれど、心の奥に積もりそうな雪だった」と。この支離滅裂さ。死ななきゃ治らないだろうが、何とかならないものか。

千歳空港に降り立ってバスに乗ってからも、外の世界は雨と霙と曇り空。どこを見ても、寂しく枯れた風景だった。尻別川を渡っても雪不足だった。旅の目的地、ニセコに到着しても、僕の心は躍らず、枯れ果てたままだった。旅の総体は暗色に彩られていた。一度だけ、すぐ傍で見上げたアンヌプリの頂がヨットの帆のようにまぶしく白く太陽に輝いていた時間があった。僕の心がアンヌプリを抱き締め、アンヌプリが僕の心を抱き締めてくれた瞬間だった。このほんの短い抱擁の幸運を、僕は有り難く受け入れ、深く感謝した。去年は確かにもっと多くの幸運に恵まれた。しかし、僕は比べて嘆かないようにしなければならない。賽の目は既に目前に出てしまっているのだ。もはや遡って他の目は決して出ないのだ。僕はここに自らやって来たのだ。既に来てしまっているのだ。故に、自ら肯定することから出発せねばならない、よくぞ逡巡を断ち切って賽を振ったと。そうだ、人は誰も死という目が必ず出ることが分かっていても賽を振らねばならないのだ。乗ったJALの飛行機が落ちても落ちなくても、僕にとっては同じように一つの奇跡であらねばならなかった。現瞬間が奇跡でなくて一体何なのか。一瞬一瞬が正に〈有り難い〉ことなのだが、この〈有り難い〉ことが牛の涎のようにだらだらと続いていることこそ天の摂理によるのだろう。

平成20年12月20日土曜日、午後4時過ぎ、僕はニセコ地区に到着した。新千歳空港からのバスの中で、僕は外の雨ばかり気にしていた。美笛峠のトンネルを抜けたら、雪に変わっているだろうか。ひらひらと舞い降りる粉雪の出迎えを期待していたのに・・・。夜の間に雨は雪に変わってくれるだろうか。何となくそういう予感は湧いていなかったが、心の中で思うだけは思った。念じても無駄と分かっていても、人は念じる。ホテルの名はノーザンリゾートアンヌプリ。二度目の利用だった。黒い制服を着た小柄な女性が僕を部屋に案内してくれた。上着を脱ぎ捨て、靴をスリッパに履き替えた頃、部屋に充満している異臭に気付いた。煙草の臭いか。僕は禁煙室を予約していた。フロントに電話すると、意外にもあっさりとすぐ別の部屋を用意するという返答だった。254号室に変わった。部屋番号は「二階に越したことはない」と暗記した。最近は物覚えが悪くなったので、意識的に覚えないと何事もすぐ忘れてしまうのだ。貸しスキーの予約をして、酒を飲んで、その日は終了だった。一人旅の気軽さは一度味わうと病み付きになる。今回は、しかし、実は、ある素敵な女性を間接的に誘ったのだが、色よい返事がもらえなかった結果だった。鏡の中の自分を直視してから誘うべきだったか。盲目になっている者に、しかし、直視など出来る訳がない。今回の旅は、一面では、焦心と傷心の、小心者のセンチメンタルジャーニーでもあった。

12月21日日曜日。朝7時に朝食。ヴァイキング形式。僕の貧乏人根性がどれほどのものか。特筆することでもないが、黙っているのも寂しい。「すべての料理、飲み物を飲み食いしなければ損をする」と感じる、こう言えばほぼ的確だろう。根が卑しい。自分でもそう思う。卑しいくせに美に酔いたがる。虚栄心が強いだけか。窓の外では大型の雪上車が黄色灯を点滅させながらゲレンデ整備をしていた。

朝8時半、リフトが動く。僕はゴンドラに乗る。雪不足のため、ゲレンデの所々にブッシュが見える。ゲレンデ整備係が長くて赤い竹竿を危険箇所に立てる作業をしていた。雪質を告げるロッカールーム内の掲示板には「パウダー」ではなく、「アイスバーン」と表示されていた。赤い竹竿とブッシュを避けるたびに、僕は「何のためにニセコまで来たのか分からない」と心で思いながら滑った。去年は昼飯も食べずに6時間連続で滑ったのに、今年は2時間程度で嫌になってしまった。雪質の悪さと朝食を食べ過ぎて吐き気を催していたという事情、この二つが滑る意欲を沸き立たせなかった。僕は一旦部屋に戻り、風呂に入り、ベッドで休むことにした。大浴場が1階にあった。去年は部屋の風呂にしか入らなかったため知らなかったが、このホテルの大浴場はいわゆる源泉掛け流しの温泉だった。筋肉痛や痔に対しての効能があると表示してあった。信じる者は救われるだろう。風呂上りに生ビールを飲みたいという誘惑に駆られたが、僕は我慢してもう一度ゲレンデに戻ることを選んだ。飲むことではなく、スキーが目的の旅なのだ。ベッドで休んでいる間、そう自分に言い聞かせた。いちいち書かないが、今回は自分に言い聞かせる場面が大変多い旅だった。

体調が少し良くなったせいか、二度目の挑戦ではかなり気分よく滑れた。やっぱりスキーは楽しいな。滑りながら、そう思った。ゲレンデでは迷彩服を着た自衛隊員の訓練が目に付いた。同じ服、同じ白一色のスキー板、同じフォーム。ゴンドラの中で、あるカップルと一緒になった。美男美女だった。男が「あいつらは給料もらって滑ってるんだ」と言った。皺一つない愛らしい幸せそうな女性は、笑顔で、「でも、遭難した時には助けてもらえるよ」と答えた。僕には理解できなかった。こんな素敵な女友達がいるのに、どうしてこの青年はこんな不満顔をしているのだろう。僕はゴーグルの中から真ん前に座っている女性を盗み見た。見ているだけで心の中の汚濁が何もかも浄化されてしまいそうな端麗な顔立ちだった。僕はほんの短い間、時間を超越する感覚を覚えた。もし僕の隣に彼女が座っていたら、僕は自衛隊員の話ではなく、「晴れていたら、あそこに羊蹄山がそそり立っているんだよ」と指差しながら説明しただろう。見えていても見えていなくても、羊蹄山は美麗だった。

12月22日月曜日。午前7時、ヴァイキング形式の朝食に対して慎重に取り組んだ。後でゲレンデで吐き気を催さない程度に食べなくちゃ。なるべく多くの種類の料理を少量ずつ取った。特別に好きな物もなければ、特別に嫌いな物もなかった。

ゲレンデでは前日より快適な気分で滑降できた。時間的にも前日の2倍以上滑った。相変わらず、ニセコは外国人が多い。地元新聞によると、今年は円高の影響でオーストラリアからの客は少なく、香港、シンガポールからの客が多いということだった。僕の感覚では、日本人2に対して外国人8の比率だった。耳に飛び込んで来る言語は、圧倒的に中国語のような言語が多かった。帰りのバスの中で、僕の真後ろに座っていた男女の子供たちの会話は、日本語と英語のチャンポンだった。(ちなみに、このチャンポンは、中国語の「欃和」という言葉から来ているという説がある)。完全なバイリンガルだ。こういう子供の兄弟とは他にもホテルの中で出会った。彼らがどういう場面で日本語を話し、どういう場面で英語を話すのか、知りたかったが、その使い分けについては把握できなかった。ただ彼らの脳の中の素早い切り替えには舌を巻くしかなかった。その夜、自室で、雑誌の中で、僕は谷崎潤一郎派の或る婆さん小説家のエッセイを読み直した。自分で自分の首を締めないこと。この単純な教えを引き出してから、僕はベッドに潜った。ベッド1台に付き、なぜか枕が3個も備え付けられていた。2個は標準の大きさで白色で、1個はやや小振りで茶色で硬めだった。世間知らずの田舎者には一つの小さな興味ある謎だった。

12月23日火曜日。千歳空港で「白い恋人」という名の菓子を初めて買った。北海道出身のテニス仲間、髭某が言っていた通り、格別おいしいものではなかった。往路、飛行機の窓からは眼下に白山連峰の雪に覆われた秀麗な姿が見えた。復路は夜のため何も見えなかった。読書灯を点けて機内で、あるいは、名鉄特急の中で、あるいは、中央線の中で立ったまま僕はプルーストを読んだ。時代も国も違うのに、最近は、段々と僕の現実の世界とプルーストの世界とが一つに溶け合っていくような錯覚が生まれ始めている。こんな長い小説が気の短い、我慢強くない性格の自分の座右の書になろうとは夢にも思っていなかった。奇跡的に生きていれば、2009年のニセコでは、僕は第何巻を読んでいるだろう。


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