私の目を閉じさせそうにさせた自動車のヘッドライトは、右側から連続的に疾走してきた。その間隔は1回息を吐く間もないくらいだった。私も周囲の帰宅途上の通勤者も横断できないまま途切れを待った。そして、信じられないほどの長い時が経過し、私たちは皆路傍で飢え死にしてしまった。唯一停止した車両が救急車だったことは言うまでもない。
体臭に染まっていない狭い通路を選んで縫うようにして車両の中を移動して辿り着いた場所は窓際に座る君の斜め上だった。君は白地に5mmの透き通った青い線が縦横に交差しているシャツと深い紺色のジャケットを着ていた。私は君の薄桃色の若々しい唇を見つけたまま見とれてしまった。君が私の方に目を上げた。恋はいつでも急激で偶然の滑落だ。失うために人は生きているのだろうか。何を・・・?今までいた自分を自分の中から失ってしまった私は、その次の次の瞬間には君さえも自分の視野から失ってしまった。列車の扉は駅でただ開閉しただけだった。
君の目には屑のような存在にしか見えない私にも過去がある。第3者にとってはあるいは屑のような時間の堆積に過ぎないかもしれない私の過去でも、当事者の私にとっては掛け替えのない1回限りの生の証になるものだ。或る時は急速に、或る時はゆっくりと自分を失っていく病(仮に自己喪失症候群と名付けよう)に対して、私はどのように思い出すべきかも分からないまま随意に自分の過去を思い出すことによって生き直してみたい。生き直すなどという臭味のある言葉をここでなぜ使うのか。私はいつか自問してみなければならない。私の目を閉じさせそうにさせた自動車のヘッドライトは、右側から連続的に疾走してきた。この場面から始めれば多分どこかには到着する気がする。到着するどこかとは今の私や今の私の延長線上の私とは違う私という内面的な場所のことを意味することになるかもしれないけれど・・・。
私は茶色だけを使って濃い色から薄い色までの菱形を楕円状に並べて行った。ぎょろ目の美術教師はいつも茶系の上着を愛用していた。君は命ぜられて美術室の中央の椅子に座ってモデル役を務めていた。私はコンテを動かさずに、もう何年も前に見つけていた君の横顔をただ見ていた。彼女はその後私が夏休みの課題を提出しなかったために美術教師から落第点を付けられたことを知らない。
「君はなぜ夏休みの宿題を提出しなかったのだ?」
私はぎょろ目の美術教師の茶系のジャケットの肘当てを見ていた。
その楕円形の肘当てはジャケットの茶色よりも濃いチョコレート色に近い色だった。肘の部分が擦り切れていたから肘当てを縫い付けたとも思えない。私はそのデザインの奇妙さに気を取られていた。
「ペーパーテストでいくら良い点を取ったって、作品を出さなきゃ落第だよ」
私はその夏、伊吹山麓の岡神社の境内で確かにスケッチをした。作品を提出したのかしなかったのか、その点は記憶が曖昧だった。私は美術教師の横に黙って突っ立っていた。信じられほど長い時間が経過し、私は君の段々女性らしくなってきた体の線が描く湾に沈んでいった。
体臭に染まっていない狭い通路を選んで縫うようにして車両の中を移動して辿り着いた場所は窓際に座る君の斜め上だった。私と同時に乗り込んだ婆さん姉妹はつかつかと車両の奥へ入って行った。空席はなかった。と、座っていた禿げ頭の爺さんが「替わりましょうか?」と申し出た。「いいです。同じくらいですから」と婆さんが応えると、爺さんとその連れの婦人が吹き出し、大笑いし出した。爺さんは「私の方が若かったらどうなるんだろう」と言うと、更に大きな声で笑い出した。その連れの婦人も、婆さん姉妹も、皆腹の底からしばらく笑い続けた。列車の中で、知らない乗客同士が、私の子供の頃はこんなふうに話し合い、笑い合ったものだ。一瞬、私は50年前に逆戻りした気がした。二本のレールの上を一心に走る電車は何の悩みも持っていないようだった。君を包むシャツの白地に描かれた薄青い微細な格子模様から立つ香りを私は密かに味わわずにはいられなかった。君が窓際の席から立ち去るために立ち上がる時、私は君の胸元に付いていた石榴色の校章に目を引き付けられた。君は美術室でモデル役をしていた君とは別人だった。この物語の中で、君たちの存在を重ねることなしにただ「君」と同じ人称で紛らわしく呼ぶ私は果たして同一人物なのだろうか。私はどこへ走って行くことになるのか見当もつかない。海の果てへか山霧の奥へか。私は何を手掛かりにして自分のいる場所と走って行く方角とを認知すればいいのだろうか。
同封してあった白いスピッツを抱いた君の白黒写真の両頬には笑窪があった。私は二十歳を過ぎていた。君はそれを同封した瞬間から、私はそれを見た瞬間から互いを縛り付ける運命の糸に巻き込まれていった。白川村の山奥で、伊吹村の山奥で、私たちはそれぞれどんな空を見上げたのだろうか。何も話さなくても、何を話しても、私たちは幸福感に包まれていた。君はまだ18歳だった。高山本線白川口駅で私たちは初めて出会った。飛騨川にかかる橋、駅の南側の山の中、そしてその東屋での初めての愛撫、今、それらを思い返すと、私にはすべてが決められた通りに必然的に展開していった物語のように見える。私の言動の何が悪かったのか。君は数年後には断崖から投身自殺をしてしまった。海の藻屑と消えた君の骨を拾い集めて白川村に持ち帰ったのは私ではなく、君がその頃交際していた高校の教師だった。
君は私を白川口駅から山の方へ案内した。人一人が歩けるだけの狭い道だった。君の案内の仕方から推測すると、君はその道を歩くのは初めてではなさそうだった。霧が私たちを現世から隔離するかのように包んでいた。人目のない所で私たちは狂ったように抱き合い、接吻を交わし、何かを貪るように何もかも忘れて突き進んだ。私の両膝は板の間に擦れて血が滲んだ。正気を失ったような目の表情のままで君は私の最も敏感な部分を私が戸惑うほど飽くことなく頬張り続けた。強烈な刺激を味わいながらも私は君の過去における甘い秘密をスラッシュの隙間の肌を見るように垣間見ずにはいられなかった。
時と共に生起する泡のような一つ一つの生きている場面も、脈絡もなく想起する思い出の断片の数々も、すべてが偶然だ。敢えてサイコロを振り、偶然の目を出したくなる時がある。私は6を待ち望む。私は一人でも、「君」は一人ではない。右であれ、左であれ、楽しむためには万華鏡は回転させねばならない。「君」は私にとって単なる変化する模様の一つだった。
私たちは名古屋の繁華街に足を踏み入れた。その夜が始まるまでは夢想だにしなかった展開が私に大人の遊びの楽しさを味わわせてくれた。遊び慣れた荒木氏に導かれるまま私は仕事仲間6、7名と一緒に高級感が漂う黄金の匂いのする部屋に入って行った。忘年会か何かの会の後の二次会だった。費用はなぜか全部荒木氏が支払うことになって いた。楕円形の大きな飴色の木製カウンターは艶々していた。少し飲んだ後、地階のダンスホールへ降りて行った。始めは何人かで一緒に踊っていた。そのフロアーはまるで貸切状態で、他の客は一人もいなかった。踊り疲れたのか、飽きたのか、1人欠け、二人欠け、最後は私と君の二人だけになった。テーブル席に座った時、君は突然私に横顔を見せ、「見て、私の目、光ってるでしょ?」と言った。私は何のことかと彼女の目の中を覗き込むと、彼女の瞳が薄紫色に輝いていた。ミラーボールの輝きが反射しているのではなかった。彼女は花のように微笑していた。「すごい、綺麗だね」とだけ言うと、後はもう抗えない魅力に縛られるように私は彼女の唇に唇を重ねた。と、その時、私の肩を誰かがトントンと叩いた。春日氏だった。「もう帰るよ」と彼は私に言った。君は決まり悪そうな表情で笑った。私たちの抱擁は途切れたが、心の中では何かが続いていた。「コーヒーでも飲みに行く?」私と君のどちらが誘ったのかもう覚えていない。1階に戻ると、私たちは共犯者のように二人だけで素早く皆から離れ、近くの喫茶店へ隠れた。その後、君は名古屋市の外れにあった私の汚い家に来た。夜はすぐ明けた。仕事に出かけなければならなかったが、私たちはまだ離れられない気分の中にいた。休暇を取ることにした私たちは一旦帰って着替えをしたいという彼女の家に行った。
セーラー服を着ているところを見ると、君は伊吹山麓の村立中学校の生徒らしい。南側の窓に背を向けて、正面の黒板に左の頬を向ける形で、君は、後ろの席の机に右肘をついて教室の後方右隅に座っていた私の方を見ていた。私が右肘をついていたことに対する君からの意識的な反応だったのか、あるいは、無意識の単なる偶然の一致だったのか、いずれにしても私の人生を織りなすモザイクの貴重な一枚になっている。雪が降る頃になると、その地方の女学生はほとんど皆「スラックス」という名の黒のズボンを着用した。脚が長く、キリッとした表情の君は私の目には誰よりも冴え冴えと見えた。私は中学時代、一方的に一人の下級生と4人の同級生に恋心を抱きながら漂っていたが、君はそこに突然彗星のように「真似仕草」を多用しつつ割り込んできた。或る日曜日、私は家の南側の畑に積もった雪の上に棒切れを使って君の名を示す暗号を書き、写真を撮った。純白に輝く雪の上に「雪」と書いたのだった。もし君がこの物語を読めば、この「雪」が自分を示すことだと気付くだろう。私が君に夢中になって五里霧中になっていたことは感じ取っていたはずだから。
その畑の一角で、同級生のEと私は最近40年振りに偶然出会った。偶然とは言っても、Eは同じ村の同級生でしかもその畑の所有者だから出会う確率は高かった。顔は変わっていても、声は昔のままだった。立ったまま同級生にまつわる一通りの世間話を交わした後、彼女が「好きだった女の子の名前を言って。今どうしてはるか教えられると思うから」と言った。私が躊躇っていると、Eは思いつくまま順番に女の子の名前を挙げていって、自分が把握している限りの彼女たちの近況を私に教えてくれた。3人、4人とリストアップが進むにつれて、私は内心「どうしてだ?」と驚かずにはいられなくなった。なぜなら、彼女は当時私が好きだった女の子の名前ばかりを的確に挙げたからだった。最後に彼女は「還暦の同窓会には来てくれる?」と尋ねた。縦でもなく、横でもなく、私は首を曖昧に斜めに振った。もし彼女たちに会ったら、当時憧れだったばかりでなく今も時々憧れている彼女たちの姿形が、私の心の中で今も当時のままに保たれている輝きや瑞々しさを一挙に失うような気がした。例えば、秋の夕暮れ、校庭のブランコの傍で一緒に遊んだS嬢の愛らしい顔に、今更三段腹をくっつけるために会うのは賢明な男のすることだろうか。そういう私も変わり果ててしまって無残な姿になっているのだ。
大学の研究室の扉を開けると、学生から山僧と呼ばれていた塗料の専門家が、素足に草履を履いて、部屋の真ん中に置いてあったストーブの上にアルミ製の鍋を置き、飯を炊いていた。坊主頭は白くなっていた。私の目には70歳に見えた。その頃、私は瀬戸市の山奥に下宿していた。自室で即席ラーメンや焼きそばを作ったことはあったが、飯を炊いたことはなかった。偶々老教授が鍋で炊爨している現場に立ち入った私はなぜか新鮮で、心躍るような、喜びに近い感情に包まれることになった。23歳前後だった私が、30数年後に、この一見孤独な炊爨こそ老年性鬱からの脱却の最も手堅い手段だと気付くことになるとは私自身思い及ばぬことだった。高い貯蓄高はなるほど有名レストランでの美食を約束するだろう。安楽な生活を保障するだろう。しかし、美食や贅沢が人に幸福をもたらすわけではない。幸福だから鍋で一人でも炊爨できるのであり、一人で炊爨するからそこに幸福を見出せるのである。寝たきりになったベッドで看護師にスプーンでお粥を食べさせてもらっても、私は幸福を味わえない。幸福の味わえない長い生よりも短い幸福な生を私は望む。どんなに拙い方法であろうとも、私は私の方法で飯を炊く。
「君はどこの出身だ?」ストーブの向こう側から山僧が私に尋ねた。私は「滋賀県です。伊吹山麓です」と答えた。
「長浜の近くだね」
「はい。長浜から30分ほどの所です」
こんな何気ない会話さえ私にとっては嬉しかった。先生は新幹線の車両に使う塗料の開発に携わった専門家だった。専門家は専門分野に命を賭ける。私は天和2年の八百屋お七のように恋にさえ命を賭けられずにいた。私は山僧の草履と鍋と自分の中の空虚感だけを見ていた。その時、私の下宿には君からの手紙が届いていた。
同級生のEは確かに私の中学時代の夢を彩った少女たちを知っていた。しかし、人は誰でも、そして、勿論この私もいつかは自分一人だけの足で踏みこんで行かねばならない深い森の中へ彷徨うことになる。
結婚して絵に描いたような幸福な暮らしを暫時展開することになっても、人は或る時或る異性の出現によって、突然に、非連続的に、きのうまでの自分を喪失し、その見たこともない瞳の輝きに魅せられてしまうことがある。心の故郷から離れるには知っている道から一歩足を踏み出し、知らない道へ入り込みさえすればいい。放火が知らない道への新たな踏み込みならば、単なる物理的な接近もその一つだ。19歳の君は3歳上の私のどこが気に入ったのだろうか、私に心と体を開きながら接近してきた。君は病院で働きながら定時制高校で勉強していた。遺体と一緒に一晩を過ごす緊張感を私に話してくれた君は少なくとも私よりは多くの現実との接触を持っていた。私の経験と言えば、田んぼの藁塚の蔭で、拾ったエロ雑誌を読んだ程度のものしかなかった。私たちが通っていた定時制高校は彦根市にあった。私たちはいつしか、大胆にも夕方授業の始まる前の誰もいない教室の後方の黒板の前で、授業後の彦根城内の一角の闇の中で抱擁をするようになった。君がその薄闇の中でブラウスを脱いだ時、パシパシと音を立てて静電気が光った。私は急いで君の乳房を吸い、星屑を嘗め尽くそうとした。私の目には君は幸せそうに映った。
悲劇の中にも喜劇はある。私たちの火遊びが悲劇だったとは言わないが、或る夜、その事件は起きた。親しくなってから私たちは授業後はいつも連れだって彦根駅まで帰った。帰り道、私たちはいつも火遊びをするために適した濃い闇の塊を探しながら歩いた。或る時、建物と建物との間に一段と濃い闇を見付けた。二人の足は無言のままそちらに向かった。心が揃えば足並みもおのずと揃った。私たちはすぐ抱き合った。君はブラウスを脱いだ。私は自分の右足と左足との間に君の太腿を感じ取った。こんなことをされたのは初めての経験だった。私は段々と深い森の中へ入って行く自分を見出していた。どういう弾みか、その後すぐ、私は比重が重そうな液体の中へズブズブと沈んで行った。胸の辺りまで沈んだ。それは多分廃屋の便槽だった。私たちは闇の中の草叢で抱き合うはずだった。思惑は思わぬ臭い結果に終わってしまった。その夜私がどのように帰宅したのかなぜか記憶にはない。
二人の桃色遊戯が深化することはなかった。いつどのように彼女との関係が切れたのか、それを私は思い出せない。霧が漂い私たちを包んだ時、私たちは闇から闇へと抱き合い、新たな胸の鼓動を感じながらも、なぜか私たちは結ばれることはなかった。
何を言ってるんですか?あなたが朱美ちゃんを誘惑しようとしたからじゃないの。私は夜勤で一緒になった時、朱実ちゃんから相談されてびっくりしたわ。信用できない人は私も朱実ちゃんも嫌なの。
研究室から下宿に戻ると、君からの手紙が届いていた。君は「遊園地ですか。いいですね。私も遊園地に行って何もかも忘れて遊んでみたい。でも、忙しくて会えそうにもありません」と書いていた。君は私たちより一級下でその定時制高校では誰よりも可愛かった。君たちは同じ病院で働いていた。君は私たちが一緒に富士山登山をしたことも知っていた。富士山のような樹木のない登山道でも私たちは岩陰を利用して短い抱擁と接吻を味わわずにはいられなかった。しかし、私たちの親密な関係はいつの間にか霧のように立ち消えてしまった。いつ、そして、なぜ私が私の恋心を彼女から君へ移したのかは自分でも分からない。廊下などで擦れ違う時に君が私に花のような甘い笑顔を差し向けたからだろうか。君たちは夜の遺体安置所で私の噂をしていたのだろうか。
私は君の住む湖東地方の小さな町へ行った。君の住んでいる家がどこにあるかも知らないのに私は出掛けた。偶然だったとしか言いようがない。三叉路の近くの電信柱の横で私は君に出会った。君はどこかへ出掛ける様子だった。君は私の姿を認めても驚かず、「用事があるので、家に来てもらえないけど、すみません」と言った。私はゴーストタウンの三叉路で一本の電信柱になってしまった。その後、どのように私は自宅に帰ったのだろう。記憶にない。
先生は戦争の話をした。「明日死ぬと分かっている特攻隊の青年に私が『君は女を知っているか』と聞いた。『知りません』と言う。『じゃ、ついてこい』と私が女の所へ連れて行った。死ぬ前の晩だ。『どうだった』と聞くと、青年は『ありがとうございました』と一礼した。君には分かるか。私は死ぬ前に岩波文庫を読む人間よりも女を買いに行く青年のほうを信用する」私は南方のジャングルで先生が日本の方向を向いて、さらばラバウルよと泣きながら歌っている姿を想像した。私は戦死する前の晩にいるわけではなかったが、君を知りたいと思いながら霧の中を彷徨っていたのかもしれない。
夜はすぐ明けた。仕事に出かけなければならなかったが、私たちはまだ離れられない気分の中にいた。休暇を取ることにした私たちは一旦帰って着替えをしたいという彼女の家に行った。彼女の瞳はもう薄紫色に輝いていなかった。彼女は笑うと鼻柱に数本の横皺ができた。私たちは彼女の車で名古屋市近郊の青少年公園に出掛けた。貸自転車を借りて公園の外周を1周することにした。利用規定により、私たちはヘルメットを着用した。半周ほどした地点で私たちは休憩した。緑樹の下で口づけをしようとすると、私たちのヘルメットの縁がコツンとぶつかった。君はその瞬間声を立てずに笑った。平日の外周コースには私たちしかいなかった。コース沿いには各県の木が植えてあった。君の出身地山口県の木もあった。
私たちの関係は針金がプツンと切れるように切れてしまった。何と折れやすい、脆い関係性しか築けなかったことか。行きずりの恋ならば、何の未練もなく淡々と思い出せるだろう。寂しい霧に包まれながら私は今、君と新潟のスキー場で偶然出会った頃に戻りたいと思っている。君は私が知っている限り二度結婚した。君は今、どの時点に戻りたいと思っているだろうか。それとも、若い頃のように君は意味のないジメジメした思考様式には今も関心を持たないだろうか。
君は私の部屋に入って来ると、すぐトイレを貸してほしいと言った。私の部屋は最初君が来た県境に近い汚い部屋ではなかった。私がフライパンでスパゲテイか何かを作っていると、君は卓上のワインを取り上げてそのフライパンの中に注ぎ込んだ、「こうしたら、美味しくなるよ」と言いながら。私は君の唇と乳房を味わった。君の乳首は干し葡萄のように固く黒っぽかった。その日は君が華燭の典を挙げる2週間前だった。
私たちの関係は針金が切れるように切れてしまった。寂しい霧に包まれながら私は今、君と新潟のスキー場で偶然出会った頃に戻りたいと思っている。回想を巡らし、壊れて飛び散った私たちの過去の断片を繋ぎ合わせて、今更私は何を得ようと言うのだろう。それが分かっていれば、誰も時間を空費しないだろう。人生においても山においても、人は進むべき道筋が分からないからこそ彷徨するのだ。
赤倉温泉スキー場の旅館「後楽荘」の前で、私と年下の仕事仲間の遠山君は、同じバスツアーで知り合った大谷君に記念写真を撮ってもらった。伊吹山スキー場と比べると、赤倉はゲレンデの規模が大きく、リフト設備の輸送能力も桁違いだった。スキーと温泉が同時に楽しめることにも驚いていた。私は遠山君と四六時中一緒に滑っていたわけではなかった。昼頃、食事かトイレのために、私は緑色の屋根の食堂へ入った。中は混雑していた。うろうろしていると、「あれえ」と親しげに言う女性の声が列の中から聞こえた。振り向くと、君がいた。まったくの偶然だった。12月の下旬、運命がまた揺らぎ始めた瞬間だった。
「びっくりした。こんな所で会うとはね」
いつものように鼻筋に数本の横皺を作り、愛らしい笑顔を見せたまま、君も私に「びっくりした」と言った。
「旦那は?」と尋ねると、君は少し戸惑ったように「友達と来てるの」と答えた。友達とは男友達のことだった。私は自分が誰と来ているか、どの旅館に泊まっているかを説明した。私は彼女を誘えないことを少し悲しく感じた。人ごみの中にいたのに彼女は、しかし、なぜ自分から自分の存在を私に知らせたのだろう。外観だけからしか判断できないが、彼女はいつものように満ち足りて幸福そうだった。
赤倉のスキー場から名古屋に戻った私は君を誘ったのだろうか。君は自由な女だった。私は私だったのか、八百屋お七のように恋に狂っていたのか、人妻となった君と一緒に十和田湖へ行くことを望んだ。君は私が望まなければ決して一緒に旅に出掛けなかっただろう。結婚前も結婚後も君はいつでも満ち足りて幸福だったが、結婚前も結婚後も「満ち足りた幸福」を不断に追い求めずにはいられないほど孤独だった。「愛するよりは愛されたい」と君は或る時私に告白した。私は君が私に語ったたった二つの思想を今も記憶している。もう一つは、私たちの別離の日に君が語った「人生は孤独との闘い」だ。この孤独という言葉を耳にした時、私は意外感に捕らわれた。誰よりも美しくて賢くてセクシーだった君がなぜ孤独感に苛まれていたのか理解できなかったからだ。私は十和田湖での自分の身勝手な行動を今も悔やまずにはいられない。
雪がこんもりと降り積もり、日の光に純白に輝くと、私は汚れない雪の上に「雪」と書いた日に今もしばしば戻る。私たちは偶然、名古屋駅から近江長岡駅に向かう列車の中で出会った。私は綺麗なワンピースを着ていた君を前にして、心の中で、君が大学4年生の頃、君の学友が4、5人君の家に遊びに来ている場面を思い出していた。中学、高校(定時制でない高校にも私は在籍していたことがあった)、そして、大学時代の君を、私はいつも憧憬していた。ただ、その気持ちを正面から伝える勇気に欠けていた。列車が少し揺れた時、私はそれを利用して、私の膝小僧を君の膝小僧に接触させた。最初で最後の私たちの触れ合いだった。君は私の膝小僧を感じ取ると、すぐ膝小僧を引いた。少し悲しい瞬間だった。私の心には、しかし、深く刻まれることになった瞬間だった。私たちは列車の中で当たり障りのない世間話をした。近江長岡駅に到着し、改札口を出る時、君は私に「バスすぐないでしょ。弟が車で迎えに来てるから、送っていくよ」と言った。私は悲しい霧を追い払えていなかったまま、「悪いよ」と一度は断ったが、君はなぜか優しく「いいわよ。乗って」と言ってくれた。彼女の家はTという部落にあり、私の家はSという部落にあった。TとSとの間は車で6分ほどだった。私は車の後部座席に身を沈ませながら、高校時代、雪の中で、彼女を近江長岡駅前に呼び出した日のことを思い出していた。雪のように白い怜悧な顔とその時君が着ていた青い防寒着、その瞬間を私は「あの瞬間」と呼べばいいのか「この瞬間」と呼べばいいのか分からない。それほどその瞬間は私の中で永遠性を帯びている。私は同窓会で君に逢うと、多分その永遠性を永遠に失うような予感がする。私は何度伊吹の畑の一角で同級生のEに出会い、何度同窓会に誘われても、首を曖昧に振るだろう。
君の家は商店だったと私は思う。誰に聞いたわけでもなく、いつ確認したとも言えないが、私の子供の頃、私の家の入口の前の高野槇の根元に君の父親が置いて行った醤油樽があった。私の父親の妹夫婦がS部落で食料品店を経営していたので、私の家はその鶴羽屋でいつも買い物をしていた。高野槇の根元に置かれたあった醤油樽には、「暫時、ここに置くことをお許しください。もし必要な時があったら、封を切ってお使いください。お代はご使用後に請求させていただきます、必要でなかったら、そのままにしておいて下さい。機を見て引き取りに参ります」という意味があった。押し売りというよりは言わば「置いてき売り」だ。越中富山の置き薬の商法に似ている。余談だが、高野槇は不思議な樹木で、60年経過しても太くならない。今でも子供の頃に見た高野槇がそのままの姿で残っている。
その高野槇の向こう側に村道が東西に真っ直ぐに走っている。私は中学生の頃、窓から高野槇越しに道端に立っていた君の姿を覗いていた。見慣れたセーラー服姿ではなかった君の見慣れない真っ白いワンピースは私の目には刺激的だった。伊吹山山麓の片田舎の道端には似合わない清楚で可憐な花のように見えた。私の胸は高鳴った。なぜ君が私の家の近くにいるのだろう。驚きだった。服のせいか君の胸の辺りや腰回りの優しい曲線がその日に限って特に私の心をざわめかせ、私に異性を鋭く意識させた。夏休みか日曜日だった。多分君はS部落の友達に会いに来ていたのだろう。その前もその後も、私は君を見かける度に恋心を募らせていった。そこには、まさに非連続の連続性があった。私の心の中のアルバムには、今も、多分君自身さえ忘却してしまっている影像の幾つかが色褪せることなく輝いている。
或る日私は君の家に電話をした。「ユキホさんいますか?」と聞くと、母親か祖母らしい声が「今、御不浄に行ってます」と答えた。私は高校1年だった。「御不浄」という言葉は初耳だったが、何となく意味は察することができた。自分がまだ足を踏み入れたことのない領域に1歩足を踏み込んだような感覚を持った。また別の日に、私は君の家に電話した。君は私の誘いに対して嬉しがっている様子を見せなかった。私が「恐いのか?」と聞くと、君は会うことを承知した。私たちは近江長岡駅近くの雪道の中で出会った。不思議なことに、私たちは擦れ違う時に何か一言二言交わしただけで別れた。何のために会う約束をしたのか。青い防寒衣を着た君は本屋の泰山堂へ向かって行った。私は私自身も向かうべき道筋も失ってしまっていた。
ごろごろと転がっている自分の無数の死に気が付かないまま、私は或る夕闇の中を走る乗り合いバスの中の緑色の座席に身体を沈み込ませながら、私に死について質問した。私は私に率直に「死とは望みもしない時に、望みもしない場所で、望みもしない理由のために、望みもしない塗料で闇の中へ塗り込められることだ」と言った。人は一体どこへ帰るのだろう。同封してあった白いスピッツを抱いた君の白黒写真の両頬には笑窪があった。私は二十歳を過ぎていた。君が私宛にそれを同封した瞬間は、多分君の眼前には青々とした広大無辺の海がまばゆいばかりに輝いていたことだろう。波頭の一つ一つが菱形に光りきらめき、歓喜の協奏曲を奏でていたことだろう。その日は、今の時点で規定するなら、君にとっても私にとっても未来と言う名の希望を孕んだ良い日であったと同時に悲劇的結末に向かう序章でもあった。
君はある駅のプラットフォームで、習いたての手話で「やはり私はあなたが好き」と示した。初めて君が私の汚い下宿に来た時、君はセーラー服を着ていた。初夏だった。風呂もシャワー設備も窓もない牛小屋並みの部屋だった。君にはしかし私のことしか目に入らなかっただろう。昼間なのに薄暗い部屋の中で、私たちはすぐに抱き合い、日に干したこともない煎餅布団の上で絡み合った。君の目の辺りは白川村の山林の中でのように赤黒くなり、愛らしい線を崩し、身体全体が欲望に狂った波のようにうねった。君の身体から噴出した汗と体液が私の身体の汗と体液に混ざり合い、私たちは私たちが開いた溶鉱炉の中で激しく渦を描いた。君は多分私の下宿に来る前に想像の中で何度も私に抱かれたことだろう。私はタオルを水に濡らし、君の汗ばんだ身体を拭いた。「気持ちいい?」と聞くと、君は両頬に笑窪を見せながら頷いた。セーラー服を着ると、どこにでもいる明るい女子高校生だった。私も君が好きだった。君の心の中のどこに、そしていつから深い霧が立ち込めていたのだろう。私たちはもう戻りたくても戻れない別々の次元にいる。君は彗星のように私の人生を横切って行って、あえなく燃え尽きてしまった。私が初めて君に自己紹介の手紙を書いた時、自分の好きなものを列挙した。今なら、その好きなものの最後に君の名を付け加えるだろう。乾いた涙でしか書けないから私以外の者には読み取れないだろうけれど・・・。私がどこかを今後も一人で彷徨い続けるとしたら、それは多分私の心の奥に君が時々笑窪を見せながら微笑んでいるからだろう。
JR中央本線の大曽根駅のプラットホームでぼんやりと電車を待っていた時、突然、なぜか君のことを思い出した。長い間、思い出していなかったことを思い出しながら、私は私たちの交流の断片の幾つかを心の中で再生した。私の目には君は裏通りを歩く少女に見えた。彦根市の定時制高校で君が私の下級生だったことは覚えているが、朱実ちゃんと同級だったのかどうかは判然としない。校舎内では会話をした覚えもない。どういうきっかけで知り合いになったのか、まったく分からない。多分帰宅する方角が同じ米原方面だったから、彦根か米原の駅のプラットホームで話しかけたのかもしれない。私のアルバムには君の写真が載せてある。琵琶湖でボート遊びをした時のスナップ写真だ。頭の中央で分けた君の長い髪が頭の両脇に垂れ下がり、バルドー風の厚めの唇が肉感的に少し開き、襞飾りの付いた白いブラウスが陽に輝いている。私はいつも君を包んでいた暗い霧に魅惑されていた。
私と喋る時も私の前で笑う時も君は青い薔薇のように控え目で、それでいて刺があった。君には父親がいなくて、姉がいた。昼間は何の仕事をしていたのだろうか。それも覚えがない。プログラマーになる勉強をしているとは言っていた。私の知らない職種だったので、それは私の耳には新鮮に響いた。或る夕暮れ、私が卒業する年だっただろうか、私と君は近江長岡駅前の交差点近くにいた。私は自転車の前籠に学校の教科書を入れていた。君に譲るためだった。定時制高校に通う生徒は一部の者を除き皆貧乏人だった。君も貧乏だった。私は通りでスタンドを立て自転車を止めた後、君の背後から抱き付き、両手で君の胸に触った。すると、君は、(そう言えば、君は私に合気道を習っていたと語ったことがあった)、落ち着いて、私の左右の手の指を1本ずつ握って自分の胸から剝すようにした。何も怒ったような様子は微塵も見せなかった。この身体的接触が私たちの一番濃密な接触だった。この日の後だったか前だったか、君は夏休みに札幌に嫁いでいる姉の家に行くと言った。君の姉は相手の男と出会ってから3日で結婚を決めた。私は君が札幌に到着する時刻を聞き出した後、「僕も行くから札幌で会おうよ」と言った。君はどんな返答をしたのだろうか。私は結局札幌に出掛けた。駅の構内の掲示板に君宛の連絡事項を白墨で記入した。私たちは札幌で会うことはなかった。私は霧に包まれた君の暗い次元に誘い込まれたのだろうか。今でも私ははっきりと覚えている、一人で空しく札幌駅から野幌駅まで行ったことを。いつの頃からか、私は君に会う度に甘い誘惑の言葉を囁くようになった。君の耳にはしかし届かなかった。学校からの帰り道だった。私は駅のホームでいつものように「僕は南村さんといつも一緒にいたいだけなんだ」とか何とか口説いていた。君は唇を少し開けたまま私を憫笑するように、「山際さんはいつも夢の世界にいるみたい」と言った。君は学校ではいつも黒っぽい服を着ていた。歩く時は黒猫が用心しながら道の端を歩くように歩いた。そんな君が揺らめく波の上で、珍しくも襞飾りの付いた白いブラウスを陽に輝かせていた。ボートが揺れる度に夢のような時間も揺れた。私は一度ならず社会から落伍した人間だった。誰もいない裏道を君が寂しく歩いているのなら、私も一緒に歩いて行ってみたかった。愚かな夢と言えば愚かな夢を見ていた。仮に病院勤務の朱実やその先輩の多勢子と長い間交際をしたとしても、私は多分南村との半日の交際で得るものを得られなかっただろう。私は彼女の中に自分の影を見ていた。池面に山桜が一片音もなく舞い落ちるように、君もたまに静かに笑った。私はそんな日の夜は君の静かな笑いを月が傾くまで幾度も心の中で思い返した。或る日、私が名古屋で就職して数年経った頃、或る喫茶店で私は斜め前の席に座った二人の若い女性に視線を移した。私の前に座っていた私の大学時代の友人は、私が突然、半ば驚いた声で「南村さんじゃない?」と斜め前の女性に尋ねた時、びっくりした。彼女は違いますと言って顔の前で手を横に振った。私は彼女の瞳の奥まで見入ったが、確かに彼女は君ではなかった。私は自分でも知らずに意識下でずっと君を探していたのかもしれない。人ごみの中では人は探しているものしか見付けない。
夜霧は私たちが二人乗りの自転車で田んぼと田んぼの間の坂道を上って行くに従って濃くなった。金曜日だった。君とは生徒会の選挙を通じて親密になった。何人かの学友から私の噂を聞いていた君は私よりも私のことを知っているようだった。「山際君、私の応援演説してくれない?」と君は年上の私を君呼ばわりした。その天真爛漫さに私の心の中の氷柱は溶け始めた。君は誰よりも美しかったと述懐すれば、嘘になる。良く言えば、正倉院の鳥毛立女屏風の樹下美人に似ていた。悪く言えば、お多福に似ていた。選挙戦の君のライヴァルは容姿端麗な女の子理香子だった。座席が階段状に高くなっていた教室の底で、私は全校生徒と教員(と言っても少数だったが)の前で、熱弁を振るった。可愛くて、賢くて、礼儀正しい理香子の優勢は誰の目にも明らかだった。私は理香子とは話をしたことがなかった。君に頼まれなかったら、私も理香子に一票を入れていただろう。理香子は誰にも応援演説を頼んでいなかった。応援演説をしている時、私は私の演説に酔ってしまいそうになった。演台から降りる時、私は心の奥で、「ひょっとしたら、勝てるかも」と思った。結果は君の勝利だった。君は私に「廊下を歩く時、山際君はいつも下を向いてるね」と言ったことがある。誰にも言われたことがないことを君から率直に指摘された私は返礼として君を抱くことに決めた。私は屑のような男だったが、君が望むなら夜霧を裂いて、君の身体の奥に熱い火を植え付けてもいいと思った。
私は田んぼの脇の小屋の前で自転車を止め、小屋が作る周囲より濃い菱形の闇の中に入り、君を抱き、セーラー服の上から楕円形の乳房を愛撫した。小屋の扉は施錠されていなかった。私たちは中へ入った。暗くてほとんど見えなかったが、藁が置いてあったのは分かった。私は君の服を乱すと、持っていたマッチに火を付け、君の秘密の部分を照らした。私にとっても初めての男女の連結だった。あるいは、それに近い経験だった。その時、空には月や星屑があったのか、雲があったのか、少なくとも私は知らない。
次の金曜の夜も私たちは近江長岡駅から自転車に二人乗りして田んぼの間の坂道を上り、既に切り裂かれた霧の間隙に忍び入り、同じ小屋の中の同じ藁の上で交わり重なり繋がり、熱く蕩け出した体液と泥にまみれた。彦根市内の紡績工場で「女工さん」をしていると自虐気味に言っていた君は普段は寮生活をしていた。実家に頻繁に帰るようになったのは私と親しくなってからだった。昼間ホテルに入り込んで浴槽の湯がこぼれおちるのも知らずに欲望を満たしたこともあった。或る夜、いつもの坂道で、君は「妊娠したら、私のおなかを蹴ってくれればいいよ」と言った。私は意味よりもその時の軽い言い方や何の心配もしていない声の調子に驚いた。まるで「風が強かったら、窓を閉めてくれればいいよ」と言っているような口振りだった。或る金曜の夜、私たちは近江長岡駅で電車から降り、改札口を通り抜けた瞬間、その7、8m先のベンチに君を待っていた君の母親の姿を見付けた。その夜も自転車を二人乗りして小屋に行く積りだった私は、心の中で少し残念な気持ちを密かに味わいながら一人で自転車置き場の方へ向かった。歩く速度も変えずに短くさよならと言ったのは、君の母親に二人の関係を察知されないためだった。君は金曜の夜になると、実家に帰ることが多くなった。金曜の夜になると、深夜にスカートを汚して帰ることが多くなった。金曜の夜になると、幸せそうな匂いを漂わせて帰ることが多くなった。君の母親は盲目ではなかった。定時制高校を卒業して5、6年経った頃だろうか、私たちは長浜駅前の平和堂の3階フロアで偶然出会った。私は何か実家の用事でそこへ買い物に来ていた。君の方が私を見付けた。一言二言挨拶を交わしただけで私たちは別れた。君はその時も、昔と同じ乾いた調子で私のことを「山際君」と呼んだ。
私は定時制に通っていた頃、一度だけ君の家に遊びに行ったことがある。君の母親と君の妹に会った。妹は彦根市内の全日制の高校生だった。私は君の妹とも親しくなった。彦根駅前で私は妹のマヨに小説を貸したことがある。返してもらったのも同じ駅前だ。傍にはマヨの学友がいたせいか、マヨはいつも頬を赤く染めながら姉の男友達である私に接した。そんなマヨと私との関係がいつ、またなぜ男女関係に変わってしまったのか、私には記憶がない。君たちにも父親がいなかった。いや、いたかもしれないが、長い間、家を留守にしていたのではなかったか。私は霧の極細粒子のように君たちの心の隙間に流れ込んで行ったのだろうか。
国道から東を見上げると、伊吹山が優しく聳えている。その山に続く村道を私たちはそれぞれ自転車を押して上ってきて、誰もいない私の家の中に入った。私は玄関の戸締りをして、カーテンを閉め、百合山の雑木林の中でしたことの続きを始めた。カーテンを閉める時、南側の畑を見ると、同級生のEがしゃがんで草むしりをしていた。そのスカートの奥の方では白い下着が菱形に浮かんでいた。私はEに気付かれないようにカーテンをゆっくりと閉めた。私が押し入ろうとすると、君は仰向きのままずり上がって行き、とうとう君の小さな頭が硝子戸にぶつかってしまった。そこで、ようやくわたしの粘膜は君の花びらのような粘膜に浅く接合した。まだ発育途上だった君とはそれ以上の本格的な深い身体関係にはならなかった。それでも、私の粘膜には君の赤い囁きが付着していた。「初めてだったのか」と聞くと、「当たり前よ」と君は答えた。服を整えた後、君は「お姉ちゃんともこういう事してるの?」と尋ねた。私は君を優しく胸に抱きしめた。答えないことが私の回答だった。私の家から出ると、君は自転車のサドルに跨らずにペダルに左足をかけたままずっと坂道を国道の方へ下って行った。私は家の前で君の姿が見えなくなるまで見送った。
百合山の中腹で誰かが木の陰にしゃがんで私たちの方を見ているのが私には見えた。風のない明るい午後だった。私は君を誘惑するつもりだった。君はカヨの2歳下の妹で、私たちは私が君の家に遊びに行った時に知り合った。私が帰った後、マヨは姉のカヨに「いい人だね」と言った。マヨは全日制の高校生だったので、彼女が帰宅するために彦根駅に来る頃、私は定時制の高校に行くために彦根駅に到着していた。時々、私たちは駅前で行き会うことがあった。そういう些細な何でもない偶然が君をなぜか晴れやかな気分にさせた。君の心の空にも長い間思い通りにならない霧がかかっていたのか。いつの頃からか私自身鬱陶しい霧のような存在だったが、それゆえに、霧を追い払ってくれる光と風に対する憧憬を抑え込むことは出来なかった。私は私を警戒しないマヨの少女っぽい心の揺らぎの中にも私だけに向けられた光と風を感受した。木の陰にしゃがんで私たちを盗み見ている者と姉の目を盗んで妹を誘惑しようとしている私とどちらが変質者なのか分からなかったが、少なくともマヨは後戻りする気はなかったようだ。私たちは百合山から自転車で20分ほどの所にある私の家に行くことにした。私の家に着くと、君はすぐ「トイレ貸して」と言った。
人は一体どこへ帰るのだろう。同封してあった白いスピッツを抱いた君の白黒写真の両頬には笑窪があった。特攻隊の一員として南方の海に散る前の晩に女を買った私は今も暗い海底に眠っている。いや、眠っているのではなく、もがき苦しんでいる。私は祖国の家族に宛てて最後の手紙を書いた、「死とは望みもしない時に、望みもしない場所で、望みもしない理由のために、望みもしない塗料で闇の中へ塗り込められることです」と。私はどこにも帰れずに海の底に沈んでいる。満足に親孝行もできず、家計を支える力にもなれず、英霊と言う名で沈んでいる。考えもつかないような永劫の時間を悔恨の中で過ごさねばならない。海面にボート遊びの恋人たちがやって来る度に、私は自分の不運を嘆いている。私は私が帰るべき優しい瞳を探している。帰る場所は分かっているのに帰れない。
年下の君は高校の美術室でぎょろ目の美術教師の依頼によりモデル役をしていた私の同級生の君とは別人だった。この物語の中で、君たちの存在を重ねることなしにただ「君」と同じ人称で紛らわしく呼ぶ私は果たして同一人物なのだろうか。私はどこへ走って行くことになるのか見当もつかない。海の果てへか山霧の奥へか。私は何を手掛かりにして自分のいる場所と走って行く方角とを認知すればいいのだろうか。この解きほぐせぬ迷妄感と焦燥感が、私の操縦桿捌きを狂わせた。敵艦と思って決死の体当たりを試みた瞬間、私は自分が霧に覆われた島の突端に激突する直前にいることを知った。「「あっ島だ、島った!」となぜかつまらぬギャグを叫びながら、私は急降下を止めようとしたが、強いGが掛かっていてもう間に合わなかった。私は左翼を岩壁に接触させたあと、海に真っ逆さまに落下した。1945年、私が特攻で死ぬ日の朝、ラバウル航空隊の石田海軍中尉から受けた最後の言葉は、「幸運を祈る」だった。祖国のためにも役立たないまま無駄な死を死んだ私は今も文字通り海の藻屑となっている。私は君が投身自殺をしたことを潮の流れで知った。君も藻屑となったのか。一体君は何に対して、或いは、誰に対して、そして、何のために決死の体当たりをしようと試みたのだろう。罪深い自分に対して断罪のために自ら身を投げ打ったのだろうか。
目覚めたその朝、私は「きょうの正午過ぎには自分の肉体は単なる血塗れの肉の断片になっている。もう二度と『朝』を見ることはないのだ。これが自分にとっては『最後の朝』なのだ」と思った。窓の向こう側には椰子の木が何事もないかのように、当分は何事も起きないかのように、そよ風に穏やかに揺れていた。私は朝霧のヴェイルがゆっくりと溶け始め、ラバウルの海と椰子の木が清浄な光にまみれながらその姿を現すのを見るのが好きだった。私は窓外の見慣れた景色を見ながら、「西太平洋、パプアニューギニア、ニューブリテン島北東、ラバウルよ、さらば」と独り言を言った。と同時に、なぜか伊吹村の生家近くの井戸端で7歳の頃一緒に遊んだモコちゃんの幼顔を思い出した。モコちゃんの父親はセメント会社の部長で社宅に住んでいた。私の目にはモコちゃんは村の子とは何かが違う可憐な花に見えた。そんな遠い日の薄れて消えかかった小さな思い出をよりによってこの最後の日に思い出したことに不思議な揺らぎを覚えながら、私は出撃準備を始めた。絹のスカーフを手に取りながら、「こんな物は要らない。あと数時間後には私は私を完全に失うのだ」と心の中で言った。祖国の父母に宛てた遺書と共にスカーフを菱形模様の風呂敷包みの中に入れると、私はピクニック日和の明るい空の下へ飛び出した。もう二度と生きて兵舎には戻れなかった。
零戦が私の最後の搭乗を待っていた。
先生は幾度も私に昔の戦争の話をした。大学の研究室の窓外ではスープのように濃い夜霧が呪いをかけるかのように蠢いていた。「明日死ぬと分かっている特攻隊の青年に私が『君は女を知っているか』と聞いた。『知りません』と言う。『じゃ、ついてこい。』と私が女の所へ連れて行った。死ぬ前の晩だ。『どうだった』と聞くと、青年は『ありがとうございました』と一礼した。君には分かるか。人生の幸福がどういうものなのか。高速移動する物体の表面に塗る塗料を開発する喜びだけで人は生きていけない。愛する女の瞳の中に人生の幸福を見出す前に私の多くの部下はソロモンの海に散って行ってしまった。私は私の部下に死ぬ前にせめて幸福の輪郭だけでも垣間見せてやりたかった」私は先生の部下のように戦死する前の晩にいるわけではなかった。私は、しかし、自分が先生の部下の特攻隊員のように片道の燃料しか積まずに空母から飛び立つ感覚を持つことがあった。もう生きては戻れないという旅、もう自分を失わずには引き返せない冒険、そういう言わば日常の延長とは違う異次元への飛翔に自分の全存在を賭けてみることがあった。
生きては戻れない旅と言っても、それは例えば「井戸の周りをモコちゃんと一緒に駆け回る遊び」であったし、「姉の目を盗みながらその妹を所有すること」であったし、「人妻になったばかりの知人と一緒に十和田湖へ行くこと」であった。私を失っていた私を認めてくれた異性を抱くことは、私にとっては一時的に私を私の心に繋ぎとめておくことだった。私は「自分を失いつつある自分」を失うために敢えて引き返せない冒険を試みたのだ。この身勝手な試みは、しかし、私をより濃密な霧の中へ迷い込ませただけだった。私はなぜかいつも仮初にしか人を愛せなかった。
「自分を失いつつある自分」を何とかして取り戻そうとするのではなく、逆に、果敢に一気に失えば、私は新生を手に入れることができるという予感があったのだろうか。自分自身が理非に疎い、気紛れで軟弱な仮初の存在だった。おかっぱ頭のモコちゃんが片手に持ったペロペロキャンデーを嘗めながら私の方に目を上げた。二人とも半袖シャツを着ているところを見ると、井戸の周りは初夏だろう。恋はいつでも急激で偶然の滑落だ。君の誰よりも澄み切った黒い瞳は私の心を一瞬に奪った。失うために人は生きているのだろう。今までいた自分を自分の中から失ってしまった私が君を追いかけたから君が逃げ回ったのか。君が逃げ出しから私が追いかけたのか。私たちは井戸の周りをぐるぐると何度も回った。夕闇が濃くなる頃、私たちは井戸の周りでいつしか溶けてしまいバターになってしまった。私の掛け替えのない時間も君のペロペロキャンデーもみんなバターの堆積の中に埋もれてしまった。
逆上せ上がらぬ恋はない。「カヨとマヨの姉妹は私に逆上せている」と思い上がっていた私は今も私の心の奥に生き長らえているだろうか。私の不正直を一度も責め立てなかった彼女たちは私のことを今ではどう思っているだろう。過去という霧の中から時々浮かび上がっているように私には見える私の不正直を、彼女たちがもし寛恕してくれているのだとしたら、私は彼女たちに対して感謝せずにはいられない。もし出来ることならば、私はもう一度35年前の彼女たちに会ってみたい。私が本当に失ったものは、「自分」などという曖昧なものではなく、純情素朴で、人を疑うことを知らない少女の心だった。
先生はいつものように医者が着るような白衣を着て階段状になった講義室の底にある教壇に立った。私はいつものように最前列に座っていた。先生は、しかし、その日いつものように戦争の話はしなかった。先生の顔の形はお握りのような形だった。年齢に似ず、その顔、物の言い方からは活力が漲っていた。先生は目に見えない人の心よりも目に見える外に現れた行動のほうを重視すると言った。誰かが心の中である人間のことをどんなに否定的に考えていても、目に見える形でその相手に対して親切な行動を示すならば、先生はその見える部分だけでその人を評価すると言った。この先生の見方を援用した場合、カヨとマヨの姉妹に対して仮に私が不正直な心を持っていたとして、私のカヨとマヨに対する個別の目に見える行動は罰に値するものだっただろうか。意識するかどうかは人それぞれだが、恋人たちは自由と責任を背負いながら求め合うものだし、求め合うべきものだ。私と彼女たちの関係は彼女たちがまだ高校生だったので、(私も身分上は同じ高校生だった)、大人の恋人同士の関係と呼ぶことはできないが、お互いに井戸の周囲を駆け回って遊ぶ年齢でもなかった。私がどんな心を抱いて彼女たちに接近したとしても、彼女たちは私と一緒に「心の踊る甘美な時間」を間違いなく共有したはずだ。私に彼女たちの心と身体が必要であったように、彼女たちにも私の心と身体が必要だったのではないだろうか。吹き荒ぶ嵐の中の突っ走る青春に涙と悔恨は付き纏うものだ。こう言えば、あまりにも紋切り型の思考になってしまうだろうか。しかし、凡人愚人から紋切り型の思考を取ってしまったら、何も残らなくなってしまう。どんな目が出るにしろ、人は誰も節目節目でサイコロを振らねばならない。否、既に出た目を読むことによって私たちはサイコロを振ってしまったことに気付くのだ。先生は出た目しか読まない、出た目しか信じない人だったのかも知れない。
彼女は山口県出身だった。短大を出た後、名古屋市のP社に就職した。私は彼女より年上だったが、P社への就職は彼女よりも後だった。彼女は甘い顔立ちの持ち主で、どんな男の心をも引き付ける匂い立つような魅力が身体を包んでいた。「もしもしカオリさん、山際です。お忙しいところ申し訳ないですけど、ちょっと複式簿記教えていただけますか?」こんなふうに私はしばしば社内電話で隣室にいる彼女に手助けを頼んだ。彼女は快く教えてくれた。P社には美しい三人娘がいた。カオリとミサとサキコだった。私が初め仲良くなったのは背の高いミサだった。ミサが或る時、「部長が『サキコが一番美しい。次がカオリで、おまえは3番目だ』と私に言ったの」と私に言った。ミサはなぜかよく私を遊びに誘ってくれた。私が大人の女性の体に初めて触れたのはミサのそれだった。名古屋駅前の某クラブの暗がりの中のソファに座ったまま、私たちは桃色遊戯を繰り返した。周りを見ると、カップルばかりで、或る時は、隣の暗闇の中で女子高校生が乱れた姿を見せていた。ミサは自分で薄桃色のブラウスの前ボタンをはずすと、「どうぞ」と言って私に乳房を差し出すようにした。彼女はその日、会社を早退し、自宅で入浴し、デート用の服に着替えてその店に来た。
彼女が自分からそう説明した。ブラジャーは付けていなかった。私は乳房を愛撫しながら、「柔らかいんだね」と言うと、ミサは「女の子はみんなそうよ」と言った。私は数少ない経験を思い出しながら「ほんと?」と言ったが、その優しい柔らかさは私が本当に初めて味わうものだった。彼女は私の閉じた睫毛に舌の先で触れてきた。「こうすると、気持ちいいでしょ?」と言いながら、彼女は私の閉じた睫毛に舌の先で触れてきた。伊吹山麓の田んぼの脇の傾いた古い小屋の中での私とカヨとの交歓の場面と比較すると、ミサの都会的な洗練されたテクニックは正に異次元のものだった。私がスカートの下に手を忍び込ませ、熱く湿った小さな洞窟壁画を中指でなぞっていると、より熱い溶岩流が奥の方から湧き出てくるのを感じることができた。私は暗がりの中で「女」を舐めていた。スカートの下から指を取り出すと、ミサは自分のハンカチで私の指を拭ってくれた。私に対してこんなに優しかった女性となぜ私は別れることになったのだろう。いまだに分からない。ただこういう事を彼女が私に言ったことは覚えている。彼女は時々、自分の家の晩飯の残りを使って私のために弁当を作って会社に持って来てくれた。私たちは別の部署で働いていたから、昼飯を一緒に食べることはなかった。昼になると、清掃係のおばさんが「これミサちゃんからよ」と言って紙バッグに入った弁当箱を渡してくれた。私は彼女の大胆かつ直接的な優しさに対して何か嬉しさとは少し違うものを感じた。彼女から事前の予告は何もなかった。驚きと共に困惑に似たものをも感じながら、私は染み出た煮汁で少し汚れていた紙バッグの中の弁当箱を受け取った。そんな日々の中の或る日の夕方、二人で喫茶店でコーヒーを飲んでいた時、彼女が「お弁当箱ぐらい洗ってから返してね」と言った。迂闊だった。非常識だった。彼女にそう言われるまで弁当箱を洗って返すなどという事は当時の私には思い至らなかった。それは心の底からは彼女に感謝していなかったことの証左になるだろうか。この日に限らず私たちは二人の間で色々な話をしたはずなのに、彼女の科白としてはなぜかこの日のこの科白と某クラブでの「気持ちいいでしょ?」の二つしか私の記憶に残っていない。恋は所詮自分の心が相手の外観や言動から感じる好悪の印象の恣意的な粗描だ。私の定時制高校時代の下級生だった南村の幻に惑わされた日に私の正面に座ってコーヒーを飲んでいた私の友人は、名古屋駅前の某ホテルの玄関に立っていた。私は彼と酒を飲みに行く約束をしていた。ミサは「だったら、私も名駅方面に買い物があるから少しだけ一緒にいてもいい?」と社内電話で私に言った。秘書室勤務だったミサは社長の日程と私の日程だけは完璧に把握していた。私が約束の時刻にホテルの玄関で友人と会い、芭蕉と大垣との関係などを話し合っていると、ミサが薄い桃色のワンピースを揺らして私たちの前に現れた。私は心の中で「きょうも風呂に入って、着替えをして来たんだろうな」と思った。なぜか胸に赤い薔薇の花束を持っていた。薔薇とミサの身体から漂う甘い匂いに私は何年気を失っていただろう。気付くと、ミサは私の友人に花束を差し出しながら「どうぞ」と言っていた。友人は「え!僕がもらっていいんですか?」とキツネにつままれたような顔で言った。ミサ自身の思考の中では多分脈絡があったのだろう。私にはしかし、彼女が一人で編み出している絵模様の全体が読み切れなかった。個々の斑模様としては理解できたが、それは単に私の理解速度が遅かっただけの結果だっただろうか。名古屋の地下街を一緒に歩いている時、ミサはよく洋服店に立ち寄り、気に入ったものを見付けると、「明日の夜買いに来ますから、取っておいてもらえませんか?」と店員に頼むことがあった。ミサと知り合うまで私にとってそれは見たことも聞いたこともない買い方だった。そういう日々が1年も経過しないうちに、突然、ミサは退職し、私の前から消え去った。微細にわたって筋がたどれるような物語は実際の世の中にはあるようでない。
山口県出身のカオリは名古屋の短大を出た後、P社に就職した。P社の事務所は名古屋駅前のツインタワーにあり、大株主のJR東海から仕事をもらうことが多かった。私とカオリは同じ経理部で働いていた。私たちは毎週土曜日には東山テニスセンターのインドアコートで得意先の人と一緒にテニスをして遊んだ。カオリは短大時代テニス部の部長をしていただけあって上手だった。親しくなればなるほどカオリは悪戯好きの一面を覗かせることが多くなった。或る時、コートサイドで、私にカオリは小さな袋に入ったお菓子をくれた。口の中に入れて噛むと、お菓子が口の中でパンパンと破裂した。一瞬驚いたが、悪戯っぽく笑っているカオリの表情を見ているうちに私は私の驚きが段々と喜びに変わっていくのを感じた。その頃私は鏡の中の自分の顔を見て、「どこかで見たような顔だな。誰だろう?」と首を捻ることが多くなり始めていた。私は私にとって他人のようだった。カオリは、しかし、いつも私を友達のように扱ってくれた。私は君が好きだった。君は私の新しい部屋に入って来ると、「道に迷っちゃった。トイレを貸してくれる?」と言った。私の部屋は最初君が来た県境に近い汚い部屋ではなかった。私がフライパンでスパゲテイか何かを作っていると、君は卓上のワインを取り上げてそのフライパンの中に注ぎ込んだ。帰る時、君は自分の車の運転席でアクセルを踏み込みながら、傍に立っていた私に「ほら、アクセルを踏むと、ヘッドライトが明るくなるでしょ?」と言った。確かに、踏み込む度に路上の黄色い円錐形が明るくなった。私は君が愛おしかった。君がその2週間後に結婚したということを私は4週間後の荒木氏主催の結婚を祝う会で初めて知った。その祝福の席で、私は私の心の中の二人の秘密がダイヤモンドのように寂しく輝き出すのを感じていた。人妻になったばかりの君と私は一緒に十和田湖へ行った。特急電車の冷房装置が一時的に故障した。私が扇で君の顔を煽ぐと、君は「涼しい」と言った。そして、私の手から扇を取ると、今度は君が私を煽いでくれた。夜になった。仙台駅前のグランドホテルへ私たちは入った。ベッドで君を抱こうとしたら、君は私を拒んだ。グランドホテル全体が深い霧の底に沈んでいた。どうして私は十和田湖で君を一人置き去りにして自分だけで貸し自転車を借りて湖一周をしたのだろう。私の行動には脈絡が欠けていた。
「あなたが私をほっといたからよ」カオリの言葉に対して、私は何も言えなかった。私は十和田湖一周に何時間かかるか知らずに出掛けた。私は私から抜け出していた。カオリが待っていると言った場所から離れれば離れるほど私の心の中のカオリの存在は掛け替えのないものになっていった。ひたすらペダルを漕ぎ、坂道では自転車を押して歩き、一刻も早く君の元へ戻ろうと頑張った。しかし、十和田湖は大きかった。漕いでも漕いでも恋は遠かった。私は私の一番美しい青春時代のすべてを空費してしまった。私は30年間十和田湖の周囲を漕いでる。何年も前のことだから曖昧な記憶だが、君は確か「いいわよ。行って来たら?」と私に言ってくれたはずだ。たとえそう言われたとしても、私は君を一人にさせておくべきではなかった。君は寂しがり屋だったのだ。ここではないどこかへ、心が満たされるどこかへ、君はいつも行きたかったのだ。結婚したのも結婚せずにいる寂しい今から抜け出したかったからなのだろう。結婚したばかりなのに夫に嘘をついてまで私と一緒に旅行することを決めたのも、寂しい今から抜け出したかったからだろう。君の心の中の埋め尽くせない寂しさがどこから来るのか私は知らない。ただはっきり言えることは、私の中の寂しさは君と一緒にいる時は霧のように消え去っていたということだけだ。私が十和田湖一周から戻ると、君は大型オートバイの傍で行きずりの男に抱かれていた。君は私に「私、今から東京へ行く。あなたは好きなようにして」と言った。私は君に何かを言った。君は「あなたが長い間私をほっといたからよ」と応えた。君は後ろから黒ずくめの男の身体にしがみつき、爆音だけを残して矢のように消え去って行った。東京とは違う方角を向きながら、私は「さらば、ラバウルよ。又来る日まで」と心の中で歌った。
毒にも薬にもなりそうにない味気ない日常生活に私は「戻った」と思い始めた頃、夜の9時頃、私の下宿の電話が鳴った。意外にもカオリの夫からだった。「カオリがご迷惑をおかけしました。申し訳ございません」私は自分とカオリが子供染みた世界で喧嘩をしていて、その夫だけが大人の世界に住んでいるような印象を受けた。彼は私たちの十和田湖行きを全部知っていた。知能指数の高いカオリがなぜ告白したのか、私には推察出来なかった。多分、私たちの無軌道な行動よりももっと性的に激烈な行動を隠蔽するために、カオリはその夫にまだ比較的に可愛い罪を告白したのではなかろうか。嘘をつくために嘘をつくのは賢明な人間のすることではない。本当の嘘つきは自分の最大の嘘を隠すために最小の真実を言う。私のカオリに対する気持ちは、しかし、今でも変わらない。それは、言わば「寂しい憧れ」だ。もう二度と繋がることのない糸の切れ目ばかりを見ている人生は廃人のそれに似ている。私は私を指の間から砂のように零す。時を覆う霧の向こうでは、零戦が私の最後の搭乗を待っているはずだった。あの零戦に乗ったら、もう私は私の指の間から私を零すこともなくなる。数時間後には世界が滅亡すると思えば、私は愛も非情も直截に表現するだろう。八百屋お七は天和2年に寺小姓と恋仲となった時に既にその心眼に世界の滅亡を映していた。恋をすれば、恋の相手以外の世界はすべて滅んでしまうのだから。どうすれば私は私のカオリと再会できるだろう。放火することによって時を遡り、憧れの異性と再会できるのならば、誰でも放火するだろう。
何十年も前のことだから曖昧な記憶だが、君は確か「いいわよ。行って来たら。私ここで待ってるから」と私に言った。君も十和田湖1周の距離が50キロだということを知らなかったのだろうか。私にとっては君に向かって行く愛しい50キロの旅だったが、君にとっては君を置き去りにする者の君から離れて行く旅だったのか。そんなことを思い起こしながら、私は京都の清水寺の境内を参拝順路に従って歩いていた。入口で私の妻は「私は前に来たことあるから、ここで待っている」と言った。外の世界は冬の曇り空。石の椅子の上で一人で待っているには寒い日だった。「ほんとに、いいの?」と私は聞いた。私は一人で清水の舞台から飛び降りた。歩いても、歩いても、登っても、登っても、東山の頂上には着かなかった。妻が心の中で辿っている参拝順路と私が実際に辿った参拝順路とは違っていた。確かに他の人々は右回りに15分程度で回って出口に着いていた。私は、しかし、残念ながら妻に向かって行く愛しい15分の旅をしていたのではなかった。私は灰色の冬空に向かって、霧に包まれて見えない細い道を登っていた。周囲には誰もいなかった。私はカオリを置き去りにしたかったのではなく、本当は一緒に自転車で一周したかったのだ。君がそれを望まなかったのだ。違うのか。待っていると言うから私はやむなく一人で出掛けたのだ。1200年前に桓武天皇が見下ろした眺めと同じ物はないかと私は東山の頂から270度のパノラマを眺めた。同じ物があることに気付いた。山や川の姿ではなく、山や川を眺めている二人がそこに立つまでに生きた時間の堆積がほぼ同じだった。私は幾度も「今どこにいるの?」という妻からの携帯電話を切り捨てながら、言わば清水寺の裏山を少し刺々しい気分の中で味わっていた。待っていると言うから私はやむなく一人で出掛けたのだ。100年待っている積りでないならば、人は曖昧に、たやすく「待っている」などとは言わないほうがよいだろう。それとも、カオリは私を初めから逆に100年待たせるきっかけを作るために「待っている」ことを選び取ったのだろうか。もしそうだとしたら、彼女は単なる寂しがり屋ではなく、サディスティックな性向を隠し持っていたことになる。私の指の間から私が零していたのは私だけではなく、カオリも妻も零していた。否、すべてものを零していたのではなかったか。信じられないほどの長い時間が過ぎ去っていた。私が清水寺の出口に戻った時、私の妻は楕円形の冷たい石になっていた。
いつものように医者が着るような白衣を着た先生は階段状になった講義室の底にある教壇に立った。いつものように最前列に座った私は先生の30年前の話をふと思い出し、その言わば外面性重視論を自分の経験に当てはめてみることにした。今は亡き先生を絵皿に盛れば、灼熱の赤だった。先生は目に見えない人の心よりも目に見える外に現れた行動のほうを重視すると言った。誰かが心の中である人間のことをどんなに否定的に考えていても、目に見える形でその相手に対して親切な行動を示すならば、先生はその見える部分だけでその人を評価すると言った。裏返しの例を一つ挙げれば、Aがどんなに心の中でBを受け入れていたとしても、その外的言動面にBに対する憎しみが表現されていたら、先生は「AはBを憎んでいる」と判断するということだ。もっと突き進んで言えば、先生はAという人間を丸ごと信じるのではなく、Aの外面的な表現力のみを評価の対象にするということだ。生も表現も死によって終わる過程上のものだ。人は各々もがきつつ自分と自分の世界を表現するしかない。鮮やかに表現する喜びを一度覚えた者はその困難性を知りつつ再度鮮やかに表現しようとする。先生は出来れば目に見える形となって外面に表れた温かい心だけを見たかったのだ。目に見える形とならずに奥に潜んだままの心は、たとえそれがどんな心であれ先生にとっては見るに値しないものだった。人は、しかし、いつも素直で巧みな心の表現者であるとは限らない。私はP社の仕事に慣れた頃の秋の日のことを思い出す。突然退社したミサの代わりに秘書室勤務として雇用されたナリサは新婚ほやほやだった。私とナリサとは半年以上真面目な会話しか交わしていなかったが、或る日、ふとしたことから私たちは堰を切ったように猥談をするようになった。そのきっかけが何だったのか、自分でも今思い出せるものなら思い出したいのだが、思い出せない。ただシーツの話から急展開して桃色の世界に入り込んだことは覚えている。ナリサは夫の好みに応じて毎晩セーラー服を着てベッドに入ると言った。巷にそういう男がいるという話は仄聞していたが、現実に自分の目の前にいる女性がそういうことをしていると知った時は、私も少々興奮した。私は通常は電車通勤だったが、その日、私は荷物が多かったので車で会社に行った。私が会社から南へ5分ほどのL駐車場に車が置いてあると言うと、ナリサは「そこへ5時に行けば、乗せてもらえるのね」と応えた。思いがけない言葉に私は一瞬聞き間違いではないかと思った。可愛い丸い顔をしていたナリサが私の目の中を見ながら言った。その頃の二人はいつも冗談や猥談ばかりするようになっていたが、その日のその時のナリサは冗談を言っているようには見えなかった。人はいつも素直で模範的な人間でいるとは限らない。私はナリサを乗せると、会社からも名古屋からも、自分を縛るすべての関係性からも離れるためにアクセルを踏んだ。周りは閑静な住宅街だった。石垣とそよ風に揺れる樹木とが私たちの車を取り囲んでいた。私の舌先が触れたナリサの舌は生温かい楕円形だった。「最近、毎晩、彼が遅く帰ってくるから、私は一人で待ってるの」とナリサが言った。「だから、私も偶には遅く帰ってやるの」そうしないとまるでバランスが取れないかのようにナリサが私の耳元で言った。私は女性心理は十把一絡げにして考えることはできないと思った。十人女性がいれば、十種類の心理がある。それぞれ精一杯の自己表現をしている。私はナリサの心の中には入らずに、ただその唇の線や胸の隙間から漂う甘い香りに酔っていた。彼女が心の中で誰を愛しているかは私にとって問題ではなかった。私は私とナリサとの関係が近付けば近付くほど自分自身を表現できそうな予感を持った。今は亡き先生を絵皿に盛れば、灼熱の赤だった。私も赤く燃え立つべきだった。
プラットホームで習いたての手話で「やはり私はあなたが好き」と私に示した君にも名を与えねばならない。瑠璃子と呼ぼう。君が私の汚い下宿に初めて来た時はセーラー服を着ていたが、その後私が中央線沿いのS駅付近に転居し、その部屋に君が遊びに来た時は短パンとTシャツだった。その時も初夏だった。そして、それが私たちの最後の夏だった。一年前の下宿とは違い、その部屋には風呂もシャワー設備も窓も電話もあった。君は高校卒業後、高山市の看護学校に在籍していた。長い時間をかけてわざわざ名古屋にまで来てくれたのだった。君は勤務先の医者たちと一緒に登山に行った話などをしてくれた。楽しそうな日々を送っているように見えた。私たちは、しかし、話し合うために会っているのではなかった。すぐに布団の上で抱き合った。いつものように君は抱かれるとすぐ表情が崩れるようになった。私が下になると、君は上になり、私が上になると、君は下になり、私が後ろになると、君は前になった。上になった君が激しく腰を動かした時、私は「これは初めての動きだ」と思うと同時に「どこで覚えたのだろう」という疑念が私の頭の片隅を掠めた。「上手になったね」と私が言わずもがなのことを言うと、君は両頬に笑窪を作った。「泊まっていけるの?」と聞くと、君は頷いた。私たちは夜も次の朝も抱き合った。陰と陽の体と体とが結合している間だけが本当の時間のような気がし、その他の時間は虚ろな時間のように感じた。私は翌朝、君をS駅のプラットホームまで送った。プラットホームで電車を待っている間のことだった。君がバッグの中の物を取り出すためにしゃがんだ時、私は短パンとTシャツの間から見えた君の背中の一部をなぜか見苦しいと感じた。周囲には通勤通学の客ばかりがいた。その時に限ってなぜか肌の露出度が異様に大き過ぎる、目を背けたくなるほど挑発的だと感じた。私は、しかし、何も言わずに彼女に「じゃ、また」と言った。2週間後のある夕方、突然瑠璃子から「名古屋に来てるの。今から行っていい?」という電話があった。私はその時、他の女性と一緒だった。場所をたとえどこに変えようとも3人で同じ時間を過ごすことは出来なかった。無慈悲だったが、私は断らずにはいられなかった。結果的にはそれが私たちにとっての最後の会話になってしまった。私と瑠璃子とは一度も言い争ったことがなかった。会えば、いつも仲良く過ごしていた。その年の晩秋に聞いた彼女の投身自殺の報は私にとってまさに寝耳に水だった。外面からだけでは人の心を理解することは出来なかった。毎日覗き込んでいるはずの自分の心の内部さえ私は把握していなかったのだから。
だからこそ、と先生は力説するかもしれない。私と瑠璃子との小さな恋物語を先生が聞けば、「だからこそ、あたしゃ言うんだよ。人間の内面には確かに色々な悩みがある。しかし、それらを煎じ詰めていくと、最後にたった一つのものが残る。すなわち『死ぬ運命』というものだ。そんなものは、しかし、どう足掻いたって避けられない。特攻隊員であろうとなかろうと、みんな明日は死ぬんだ。そんな自覚を持った人間存在に残された唯一の行為は、目に見える形で人を愛するということしかないんじゃないか。毎日自分の心の中を覗き込んでいたって『死ぬ運命』しかありゃしない。そんな暇があったら、重い荷物を背負って階段を昇っている婆さんの荷物の半分を背負ってやることだ。昨日は昨日、今日は今日、あたしゃ人間の今日の善行しか信じないね。あんたの恋人の内面にどんな悩みがあったにしろ、多分、あんたにゃ悪いけど、彼女にはあんた以外に恋人がいたね、あんたはただの時間潰しの相手だったんだよ。そりゃ、彼女はあんたに手話で示した通り、あんたが好きだったと思う。しかし、それはあんたの人間性に惚れたというよりあんたの身体的存在、身体的利便性に惚れたんだよ。もっと言えば、彼女が心地よいと思った身体性を持つ者ならば時間潰しの相手は別にあんたでなくても良かったということだ。あたしゃそれを悪いことだと言ってるんじゃない。若い時は誰だって異性の身体的魅力に惑溺するもんだからね。あんたは恋人の悩みにもっと早く気付いて支えてやりたかったと後悔しているかもしれんが、あんたの恋人が自殺したのはあんたの責任じゃない。あんたは彼女と一緒に過ごす時間を持つことによって、逆に、彼女の死ぬ運命を少し先に引き延ばしたとも言えるんじゃないかな。みんなギリギリの所で奮闘してんだよ、一つの小さな喜びが一つの小さな心の支えになるんだよ」私は元気だった頃の先生が、年末に、教職員の有志から集めたお金を大学の清掃業務に携わっていた年配の女性たちに給料とは別に渡していたことを思い出す。先生の隣人愛は灼熱の赤色を帯びていた。私は、時々、先生の部下として1945年のラバウル航空隊に舞い戻り、決死の任務遂行のために零戦に搭乗するもう一人の私に変貌した。
制限字数に近くなりましたので、
この続きは、【その2】を見てください。
*この物語はフィクションです。実在の人物、団体等とは何の関係もありません。
「続く」
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