岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

京都紀行 

京都先斗町には、雪ではなく雨が降っていた。
僕のいる薄暗い畳の部屋に君は盆を持って幾度も出入りし、酒や料理を運んできた。鴨川に沿った細い路地の左右に並ぶ飲み屋を一軒一軒見て歩いていた時、夕闇迫る店先で僕に声をかけてきた君の顔に純粋さが仄明るく残っていたので、僕は入ることに決めた。感じるままに動き、心を揺さぶる印象に素直に従うこと、それがその夕べの僕の羅針盤だった。濡れた合羽の上着を入口で脱ぎ、借りたタオルで濡れた合羽のズボンを拭き、僕は入室した。黒っぽい廊下には僕の濡れた足跡が残った。君が指さす席に川を背に着座すると、「そちらでよろしいですか?」と草色の優しい声が僕を包んだ。僕の薔薇色の心はすぐ色褪せてしまった。むさくるしい部屋に16人分(対面2席×4箇所×2列)の座布団が並べてあった。小粋な部屋を予想していた僕の落胆をどう語ればよいだろうか。濡れた足で廊下を汚した僕としては帰りたくても帰れなかった。僕はメニューを見て料理と酒を注文した。僕のいる薄暗い畳の部屋に君は盆を持って幾度も出入りし、酒や料理を運んできた。その度に僕は君の横顔を盗み見た。むさくるしさに心を曇らせていた僕の心が、段々と軽い羽毛におおわれ、どこかへ飛んで行くのを感じた。小柄な体つき、澄んだ黒い瞳、怜悧そうな横顔、優しい物の言い方。君の顔を見る度に、声を聞く度に、僕の心は酔っていった。君の顔を見る度に、僕の心は鉛色から紫色、紫色から黄金色に変わっていった。一目惚れ、そうとも言えるが、そんな俗な表現で片付けるには、君の瞳はあまりにも黒く澄み、横顔の線は清らかで優しく端麗だった。何と言えばいいだろうか。僕はかつて得たことも失ったこともない君に対する〈喪失感〉で塗り潰されてしまった。会った時から僕は〈君を失っている〉という喪失感に陥ってしまった。密かに恋した瞬間からどうにもならない別離の感情に生き埋めにされてしまった。こう言えばいいだろうか。この急激な、辻褄の合わない感情に呪縛されたような時間が、薄闇の中で流れた。ここでもし出会わなかったら、僕は心の均衡を失うことなく、しかし退屈な夜を一人で味わっていただろう。出会って別離状態であることの悲しみを一人で味わうのと出会わずに一人で退屈を味わうのとどちらが良いか。自分に対するこの種の問いに対しては、いつでも曖昧な不決断の中での自分自身の実践で応答するのが賢明だ。どんな道を選んでいても、結局は、「なるようにしかならなかったのだ」という感慨で終わりになるのだ。或る日、或る時の、或る瞬間に滲み出た自分の全存在を受け入れること、良いにしろ悪いにしろ、結局は、これ以外の在り様は無い。僕の背後には鴨川が流れていた。否、その夜も鴨川は流れていたと言うべきだろう。僕はただ鴨川の流れを見ただけだった。時々、激しい雨が窓の外の床を叩く音がした。座ったまま僕は後ろを振り返った。闇の中に鴨川が荒い波を銀色にうねらせながら流れているのが見えた。僕の隣で飲んでいた二人の若い女性は、よく飲み、よく話していた。心も体も酔っていた僕は、それにもかかわらず、彼女たちが生ビールを何杯飲むかをなぜか数えていた。小柄で華奢な体なのに、一体どこへ大量の生ビールが入っていくのだろう。彼女たちはますます飲み、ますます陽気になっていった。同じように今夜初めて出会ったのに、どうして君とは〈離れている〉という遣る瀬無い感情に塗り潰され、隣の女性たちとの間には何の感情的混乱も生じないのだろう。所有欲が満たされない時、人は悲しみに溺れる。遅れ馳せながら、一つの想念が舞い降りた。息を飲んで君に見とれていただけの時間、あの時の僕は何だったのだろう。この世における最も短い、かつ、最も濃く永い時間、そこで私の片恋は泡のように生じた。勘定を済ませて店先に出ると、君が見送りに来てくれた。
「おおきに。これから帰らはるんですか?」君が問うた。
「帰らない」
「どこか行きはるんですか?」君が問うた。
僕は無邪気な君の目の中を覗き込みながら、
「これから僕は、君の目の中に入って行くんだ」と言った。
それを聞いた瞬間、君は急に顔を背けた。
少し気障だったかもしれない。客と店員という安定した関係を、僕は一瞬にして少し曲げてしまったかもしれない。僕は言わなければ良かっただろうか。しかし、言わずにいられない気持ちもあった。どこかへ君を連れ去りたいような衝動が心の奥で芽生えそうだった。
「どうせバイトでしょ。来月来たっていないでしょ?」と僕が重ねて言うと、
君は意外にも、一転して淑やかな声で、僕の方を向いて、
「バイトです。でも、卒業までは働くつもりです。また来てください」と答えた。僕は僕の心に微かな熱をもたらした君の言葉に対して、しかし、当意即妙なアドリブを返すことが出来なかった。また来たい、君に会うために。言葉にならなかった。2011年10月22日土曜日、雨の先斗町。後ろ髪を引かれる思いで僕は彼女から離れねばならなかった。(なぜなら、一つには、僕には早寝早起きの長年の習慣があったから。)

宿に戻ると、(宿は国立京都国際会館のロッジ。10月22日は時代祭の関係で多くのホテルは満員だったが、ここは空いていた。)、ポケットから先斗町R店の「雨具引き換え札」が出てきた。明日、これを返しに行こうか。もし君が今夜と同じように店先に立っていたら、札を返す際に、電話番号でも聞こうか。心が千々に乱れた。会いたい気持ちに嘘はなかったけれど、同じ心の別の場所は、なぜか僕を抑え込み引き留めた。翌朝になっても踏ん切りがつかなかった。22日土曜日予定されていた時代祭は、雨天のため23日日曜に延期になっていた。日曜日、行列の始まる正午まで、僕は洛東を散策することにした。若王子神社で石川県から来ていた3人組の若い女性と出会った。みずみずしい若さ。言うまでもないことだが、3人とも顔には皺など1本もなく、甘く匂うような魅力にあふれていた。3人の中で一番背の高い女の子の眉を注意深く見ると、生き生きした本物の眉毛で、お絵描きした跡はなかった。彼女たちは土曜日から京都駅前で貸自転車を借りて乗っていた。場所を尋ねると、背の低い一人の女の子がガイドブックなどを取り出して、親切にも貸自転車屋の情報を教えてくれた。背の高い女の子を誘ってみたかったが、仲が良さそうな3人組の三角形を崩すのは容易ではない。自分の心の奥に燻っている情熱に自分一人だけの力で火をつけるのは凡愚には出来ない。諦めた。諦めて法然院の方へ向かったが、暫くの間、少々悔いが残った。淡い希望を悔いや妬みで包み込んで当てもなく引きずって行くしかない人生。法然院の境内は樹木におおわれて薄暗かった。それゆえに、人は花火のような慰藉を刹那主義的に求める傾きがある。法然院の境内は樹木におおわれて薄暗かった。移ろい、果敢無く散ってゆく美しさに酔い、その都度その都度何もかも忘れてしまう時間が、僕らにはなぜか必要だ。法然院の境内は樹木におおわれて薄暗かった。果敢無い恋を百回しても果敢無いが、その果敢無さの他に味わうべきものは、僕ら凡愚にはほとんど何もない。法然院の境内は樹木におおわれて薄暗かった。

法然院へ行くと、「九鬼周造の墓がある」という表示があった。誰も皆死なねばならない。芸妓と懇ろになって、お茶屋から大学に出勤したという伝説もある九鬼は、幸福な死を迎えただろうか。法然院は30数年振りの訪問だったが、見覚えがあったのは茅葺の門だけだった。若い頃偶然この境内で出会った少女を思い出しながら歩いたが、どの辺りで出会ったのか分からなかった。我が家の押入れには、探せば、多分、自転車に乗りながらはにかんでいる彼女の8ミリ映像が残っているはずだ。甘美な幻影に身を沈めた後は、暫くの間、恍惚感に浸れる。が、過ぎ去った記憶に幾度縋ろうとしても、何もこの手には残らない秋の空。もう法然院を訪れることはないだろう。(法然院貫主と私とは4歳違い。多くの点で考え方に共通点があるが、貫主の死刑制度廃止の考え方にはどうしても同意できない。それについては、後日また語りたい)。

23日正午前、御所の北側の門から入ると、時代祭の行列の出番を待っている人々がいた。興奮して暴れている馬もいた。武士、姫、童、様々な衣装を身につけた人々がカメラマンの被写体になっていた。道路の両側には背伸びしないと行列が見えないほど人垣が延々と続いていた。僕は御所から、河原町御池、平安神宮へと行列を追いかけて行った。歩き疲れた。行列から離れた。平安神宮の近くに「ふれあい会館」があった。ぶらりと入ると、ちょうど舞妓が舞いを披露する場面に出くわした。無計画の旅だったが、長い間見たくてたまらなかったものを思わぬ場所で見ることが出来た。

10月24日月曜、僕は「ルビノ堀川」の部屋にあったパンフレットを見ていた。その観光コースにあった洛西の祇王寺へ行くことにした。市バス停留所「嵯峨小学校前」で下車。降りると、道路際に観光案内マップが設置されていた。祇王寺へ行く途中に落柿舎があった。現在の落柿舎は再建されたもので、ここに去来や芭蕉が住んでいたわけではない。300年前の落柿舎も300年後の落柿舎も僕にとっては幻影だ。僕は庭に落ちていた柿の葉っぱを拾い上げ、空に浮かんでいた雲を見上げた。応々といへど敲くや雪の門。この去来の句も、九鬼の著作「いきの構造」も、僕にとっては雨の先斗町で受けた印象に比べると、色褪せる。しみじみと心に受けた印象を、例えば、俳句にすれば、何かが変わるのだろうか。

24日落柿舎へ行く前に祇王寺へ行った。朝9時だった。門を潜ると目に沁み込むような一面の苔の絨毯。そこに並び立つ細い立木。庭の西側の垣の向こう側に広がる竹林。誰もいない、現世と掛け離れたような緑の空間。誰もいない時間帯の妓王寺では、観光客の多い銀閣寺では味わえないより深い感動に満たされた。「平家物語」を繙いて白拍子の妓王と平清盛との関係等を調べてから訪れる必要はない。たった一人で彷徨うように訪れて、庭の中で、心と耳を澄ませば、無条件に自分を許せる場所だ。誰も皆死なねばならない。

10月22日土曜、朝、御所の一隅にある九条家別荘「拾翆亭」での寛ぎ。洛北鷹峰の源光庵の丸い窓と四角の窓。源光庵の近くの光悦寺。光悦寺の近くの光悦茶屋。ここには、25年前に秋篠宮が訪れていた。先斗町へ行ったのは、その夕方だった。

23日、日曜の朝、国立京都国際会館から洛東へ向かった。和辻哲郎を偲び、若王寺神社周辺を歩いた。ついでに、法然院、銀閣寺を訪ねた後、正午前、時代祭の行列を見に行った。 
24日、月曜、妓王寺、落柿舎、苔寺へ。苔寺拝観は事前申し込みが必要だった。迂闊だった。癪だった。山の上から苔寺の庭園が見えはしないだろうか。そう考えて僕は苔寺の後方に回った。すると、松尾山経由で阪急嵐山駅まで1時間半程度で行けるという案内があった。サンダルを履いていたが、尾根伝いに歩くことにした。道端の立て札には「京都一周トレイル」と書いてあった。10分ほど登って行くと、上から若い女の子が一人で下りてきた。まさか人に出会うとは考えてもいなかったので、びっくりした。

24日夜、ホテル大蔵で夕食。死んだら終わりだ。僕は6000円のシャンパンを注文した。美味しいと感じたものは、しかし、シャンパンや京料理ではなく、漬物だった。接客係に尋ねると、錦市場の打田漬物店から取り寄せているということだった。帰宅する日、25日の午後、宇治市から京都に戻ると、錦市場の打田漬物店を探し出し、3種類の漬物を土産に買った。自宅で食べて美味しかったのは、そのうちの1つだけだった。対象が漬物であっても、耄碌した自分にとっては探求心を持つことは重要だった。探究心さえ持っていれば、探していたものを、或いは、探していたものではない良いものを発見することができる。人生においては偶然と呼ばれるものが決定的な運命と意味をもたらすことがある。

25日火曜朝、JR京都駅から宇治に出向き、宇治茶の体験学習を試みた。玉露を飲む際は、湯の温度を40度に下げた方が良いということだった。・・・・

・・・しかし、もうこれ以上、旅の断片を拾い集めて書き留めることはやめておこう。君の印象が薄れてしまいそうだから。

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