心には憧れの女性が、隣には古女房がいるにもかかわらず、浮気性の私は久米島のホテル「サイプラスリゾート」で働いていた女の子にちょっかいを出すことを抑えられなかった。(悪く言えば、心が病気。良く言えば、心が正直。多分、両方のバランスをうまく取ることが唯一の療法になるのだろう。)
持てないくせに、洟垂らしの頃から女好きの傾向があった。暇な時に、一度振られた回数をまじめに数え上げたいくらいだ。
さて、その久米島の「サイプラス」のフロントや売店で働いていた女の子の名を、仮に、クメオパトラ嬢と名付けておこう。所謂一目惚れで、彼女の年齢は24歳くらいだ。制服の上着は薄茶色、巻きスカートは濃い茶色。しゃれた感じはなかった。「サイプラス」の正面玄関も、そう言えば、味気ないものだったな。ただ彼女の顔は七難隠す色白で、性格面も、一見するところ素直そうな感じがあるように見受けられた。
「こんな所に可愛い子がいるね。久米島出身じゃないでしょ?」
「久米島出身じゃないですけど、沖縄ですよ」
「どこ?」
「伊江島です」
「ああ、人偏のイと江戸の江でしょ?聞いたことあるよ」
これが私たちの会話の始まりで、後はクダクダと思い付くままに喋り続けたが、ここに全対話を再録するのは、時間もないし芸もないので、当たり障りのない部分のほんの一部だけを紹介するに止めたい。クメオパトラは、人口5千人の知った人ばかりいる島から一度出たくて福岡で働いたことがあるが、暖かい所がやはり住むにはいいのでまた沖縄に戻ってきたと言った。
「どうして久米島で働こうと決めたの?例えば、那覇のほうが何かと便利だし、同じ職種を選ぶにしても働き口が多かったと思うけど」
「久米島には行ったことがなかったし、離島のほうが周りに誰も知った人がいないからいいかなって」
宿泊三日目の午後、後で話す「お菓子作り体験」から戻ってくると、フロントの男と話している黒い服を着た娘の後ろ姿を見付けた。お洒落な女の子だが、どんな顔だろうと右側から接近すると、観光客ではなく、私服のクメオパトラ嬢だった。何だ、仕事を終えて寮に帰るところなのか。しかし、地味な制服を着ている仕事中の彼女とは全然違っていた。身体全体から驚くほど愛らしい雰囲気が甘く漂っていた。確かに魅力を際立たせる服装というものはあるものだ。髪型、服装、化粧、態度、要するに外見の価値だが、それらを見る側も見せる側も、どちらも俗間で生きている限り侮ることはできないと、私は再確認した。
「帰るんだね。お疲れ様。これ、サータアンダギー、『アジマー館』のお菓子作り体験で作ったんだ。あげるよ」
「いいんですか?」
「うん。上手にできたよ。先生に褒められたよ」
「ありがとうございます」
5階の西角の部屋に戻る途中、私はあの二人は関係があるに違いないと思った。フロントにいた男とクメオパトラ嬢。あの二人の間に漂っていた雰囲気は他人同士が醸し出すものではない。妬みが私の心に全然生まれなかったわけではないが、その時は、なぜか素直に「幸せになってくれればいいよ」とも思った。
梅雨の久米島。空の色も海の色も冴えない。結局、一度も青い海を見ずに帰途に就くことになった旅。もし菓子作りの体験学習をしなかったなら、私の心には何の種も播かれなかったことだろう。今、思い出の中に、一粒の種が息づいている。人を信頼することなしには自己という名の世界の開闢も開墾も開放もない。人は不安と疎ましさと期待、これら三つの複合感情の中で、乾坤一擲の企図に体当たりする。生きることの選択は賭けだ。自分一人だけの意志で物事が決まることは少ない。研ぎ澄ますべきものは爪や石斧だけではなく、自己の未来に対する創造力だ。一粒の種が私たちを私たちの知らない世界へ導いてくれる可能性がある。希望はいつでも一粒の小さな種の形をとる。希望は私の心の中だけで生まれるものではない。私と私を必要とする他人との間の相互作用によって生まれる。今夜は、一応、こんなふうにまとめておこう。
2011(平成23)年5月16日月曜。雨という天気予報を受けて、私たちは海を諦め、「あじまー館」での菓子作りに挑むことにした。午前10時に会場に到着するように、私たちは宿舎の「サイプレス・リゾート」をレンタカーで出発した。会場に入ると、「サーターアンダギー」と「チンビン」、この二つの菓子のレシピが調理室正面のホワイトボードに書いてあった。講師の佐久本フキ先生はかなりの年配で、「足を手術したばかり」という個人的な事情を説明された。私たちは先生の指導の下に2種類の沖縄の菓子を作った。サータアンダギーのレシピにはMサイズの卵を使うと書いてあった。たまたまその日調理台の上にあった卵はLサイズだった。私には卵のサイズなど大きな問題ではないと思われた。先生は、しかし、その差にこだわり、その他の材料、小麦粉などの量についても、いちいち、スケールを用いて、卵のサイズに比例しての微増を指示した。菓子作りはそんなに繊細な作業なのか。厳密な指示を聞きながら、私は内心密かに少なからず驚いていた。
レシピの細部については割愛する。要点は、ただ、卵、砂糖、小麦粉、ふくらし粉、これらを練りすぎないということと揚げる油の温度管理だけだった。二つ目の菓子作りが無事終了した後、私たちは試食しながら雑談をした。先生が夕食はどこで食べるのかと問われた。私は「どこかいい居酒屋を教えてください」と頼んだ。先生は、どこも似たり寄ったりのものしか出さないから、「うちに来る?」とおっしゃった。私は先生の発言内容を自分の耳底でもう一度確認した。私は沖縄旅行ではいつも「素顔の沖縄」を発見することを念頭に置いていたので、招待を受けることに決めた。
午後7時に先生の自宅を訪問する約束をした。「あじまー館」を出た時は正午だった。その日の午後は、海洋深層水を使用した「バーデハウス久米島」という温浴施設へ行った。ジャグジーやサウナも設置されていたので、水着着用の混浴温泉のような雰囲気だった。
先生の邸宅の屋根にはブーゲンビリアの赤い花が冠のようにかかっていた。玄関前は、花屋のような花盛りだった。立派な邸宅だった。ご馳走になった料理の中でもっとも気に入ったのは紅芋のてんぷらだった。ジャスミン茶のような、先生が庭で育てた香り高い葉を使ったお茶もおいしかった。料理の量が多くて、食べきれなかった。先生は一人暮らしだったが、近所に住んでいる三男が私たちの話し相手を務めるためにやってきた。陽気で外向的な性格の持ち主の先生は80代に見えたが、その子息は私よりは若いような気がした。ご子息は園芸に詳しく、屋根の上のブーゲンビリアも彼が育てたということだった。彼はまた自分で育てた糸瓜から瓢箪を作る趣味も持っていた。先生の居間には、表面に精巧な絵が施された彼の瓢箪の作品が3個ほど陳列してあった。午後8時半過ぎに私たちは暇を告げた。帰り際、謝礼品として近所の店で買った米3キロを贈呈した。先生は、今度久米島に来る時は、うちに泊まればいいよとおっしゃった。
その1日前、5月15日、日曜日、私たちは久米島の港から定員20名程度の小さな船に乗って無人の砂浜「はての浜」へ渡った。干潮のため船は航路を慎重に選んで走っていった。30分ほどで浜に到着した。曇天で、風が強かった。一度も私はシュノーケリングをしなかった。海の中に入れば、後で「寒い、寒い」と震えなければならないことが目に見えていたからだ。午前11時過ぎ、早めに弁当を食べた。私の古女房は脂肪製のウエットスーツを着込んでいたせいか、躊躇せずに一人で海の中に入って行った。私は「はての浜」にあった木製の簡易建造物(こういうだけで君の鼻にも匂うだろう)の周囲を回って動画を撮影した。干潮だったので、どんなに帰りたくても午後1時半ごろまでは潮の満ちるのを待つ必要があった。雨が少々降ってきた。風も強くなってきた。風雨を避けるため、私は細い木枠にぶら下がっていたゴム製の覆いを広げ、その陰に身を隠した。腕時計を見ると、日進市でテニス仲間が汗を出しながらテニスの練習をしている時間だった。それは、私が翌日佐久本先生と出会うまでは、「梅雨時の沖縄訪問」を悔まねばならない時間だった。接岸から離岸までの間、船頭とその助手の娘は、私たちに対して特別の配慮を何もしてくれなかった。娘は自分用に風除けのヨシズを木枠に立て懸けたが、私たちには「ここで風を防いでください」とは言わなかった。上陸後、娘は簡易トイレと危険個所の説明をした後、「ゆっくりしてください」と言った。午後1時過ぎ、娘は「潮が満ちるまであと30分ほど待ってください。それまでゆっくりしてください」と言った。私たちは7、8人の観光客しかいない「はての浜」を2周した。海に囲まれた白い砂浜。1周するのに40分ほどかかった。砂浜の上では、「時」は、確かにゆっくり流れていたのだろう。苛立つ私の心の中では、しかし、「時」は私の神経を逆撫でするかのように空回りするばかりだった。誰も責められず、私はただ風の音を聴くしかなかった。早くホテルに戻り、暖かいお風呂に入りたかった。私たちがいた場所から20メートルほど離れた所にいた娘の様子を見ると、娘は木製の台の上に身を横たえて猫のように丸まっていた。35歳前後に見える。寒くないのだろうか。娘ではなく夫婦なのだろうか。何もない平坦な砂浜の上で、私は心底、雨風を防ぐ洞穴だけがほしいと思った。帰る時、船頭は船の真ん中の席に座っていた私たちに、「干潮なので、一番前に座ってください」と言った。そうか、微妙なものなんだな。便利な船も、しかし、水がなければ浮かばないんだな。
久米島は湧水があるため飲み水に困ることはほとんどない。起伏の多い島だった。300メートル余の山もある。「久米島の久米仙」という泡盛工場はその山の麓の湧水を使っている。久米島には「米島酒造」という身内だけで経営している小さな酒造会社もある。私はホテルの夕食時に両社の泡盛を飲み比べたが、味の違いがまったく分からなかった。
クメオパトラ嬢は可愛かった。彼女との対話からは何も生まれなかったが、対話せずにいた場合に感じたであろう悔いを思うと、私は自分に努力賞を贈呈したい気分になる。佐久本先生はご高齢だった。にもかかわらず、先生の未来に賭ける企図力は旺盛だった。脱帽したい気分だ。私があの時、夕食への招待を断っていたら、先生も多分、私と同じように自分に努力賞だけは贈呈したことだろう。人生では、得られなかったものより、得られたものを数えたほうが良いようだ。
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