「万葉集」を繙けば、天平勝宝4(752)年よりも前に既にこのような呪術行為があったということが分かる。「魏志倭人伝」にも櫛を使わず穢れを一身に受ける者のことが書いてある。僕はきょう偶然にこの歌と巡り合った。福豆を食べながら、辞書で「節分」を引くと、「節分や家ぬちかがやく夜半の月」という秋桜子の俳句が載っていた。「家ぬち(やぬち・家内・屋内)」とは何か。更に辞書を引くと、上記の万葉集の歌が僕を待っていた。僕は7、8年前(正確には何年前かは分からない)のことを思い出す。僕らが伊吹の実家に帰る。老いた両親と短い時間を一緒に過ごす。僕らが多治見に帰る。そういう状況においては僕らが無事帰宅するまで親父は母に家の中の掃除をさせなかったらしい。親父自身がある時、僕にそういう呪術的行為をしている旨の話をしてくれた。その話を聞く前も聞いた後も、僕らは無事帰宅しても「今戻った」と実家に電話したことはなかった。もし僕がもっと早くこの万葉集の歌を知っていたら、どうだったろう。親父の打ち明け話は心の底にまで響いただろうか。それにしても、呪術の命は永い(僕はしかし、受け継いでいない)。今続いている状態を壊さずに、できればもう少し良くしたい。こんな自分本位の願いは、しかし、理に合わない。一瞬一瞬壊滅に向かって進んでいるのだから。だからと言って、人は、しかし、「斎ふ」ことをやめない。「斎(いは)ふ」とはこの場合、旅行く君の無事を祈るという意味だ。遣唐使でなくても、人は皆、毎日荒波の中を航海している旅人だ。
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