泣きながら、撤退同盟

このブログの半分は、薄情でできています。。。

光の子らしく歩みなさい(アエラ報道に関連して)

2008-04-11 | クリスチャンらしい話です
コンプライアンス(説明責任)というのは
民間の企業ならば、
今やどこの会社でも当たり前について回るものであるが、
「地の塩・世の光」として
俗世間の衆目を浴びるべきである、いや、浴びて当然のキリスト教会ならば
その民間企業以上に、
事実を公表すべきだし、
謝罪すべき点は謝罪すべきだし、
正すべきは聖書に従い正すべき、
だと思うんだけど。




ここ数日、
ずっと月曜発売の「アエラ」を探していました。


わたくしめ自身が気が付くのが遅かったため
もうコンビニや書店などの店先にはなく
(同じ月曜発売の「プレイボーイ」はコンビニにもあるのに。。。。。)
何軒か回って、ついに今日やっと地元の書店で見つけました。


・「スクープ・キリスト教会の性犯罪」(08年4月14日号より)




詳しくは、
「命と性の日記~日々是命、日々是性」より
この辺を参照してください。



以前このブログで、
「聖神中央教会」の問題に関連して、

元来、宗教においては、
自分が、特に指導者が
神と等しい立場にあると言うのは
タブーになるはず、
なんですが、
先程の理論で言うと、見た目での成功者ほど「宗教的に」成功したものだと勘違いを起こしやすく、
無意識のうちに、自分を神に近い存在に置き換えてしまう
可能性があるわけです。


と言うことと、


教会が教会の中のことを裁けないと言うのは
教会の意識が「神」よりも「人」(今回の場合で言うと永田と言う牧師)を中心として動いている
と言うことの象徴だと思う。

先程も言ったように
キリスト教は絶対的な「神」を中心とする「信じる」共同体であるはずなのに、
中心なのは「神」でなく「人」 になっているわけで、
そういった意味ではこの団体は
もはやキリスト教ではない訳です。



と書いたことがあるが、


今回の事例は
アエラの報道が全面的に信頼するものとした場合、

教会(教団)は報道内容のような事実があったとしても
それを受け入れず、
自らの咎(とが)と認めず
ごく個人的な問題として処理しようとしたきらいがあるようです。

しかし、
どう見てもこれは「パワハラ」であり、
手法としては
その以前話した「聖神中央教会」と、やっていることが
何一つ変わらないわけです。


そのことに
教会(教団)は気づいているのだろうか?


おふぃす・ふじかけ(blog) | アエラ最新号「牧師の性犯罪」記事を読んで

 私は、問題を起こした牧師や指導者たちが最初から、いい加減な活動をしていたとはまったく思わない。ただ、その牧師や指導者の活動が評価され、拡大していく(活躍していく)なかで、次第に「使命感」が膨張してしまうことが大きな問題と結びついていくと考えている。大きな働きをする指導者にとって、使命感と共感性のバランスが大切なのだが、ある人は使命感ばかりが膨張してしまい、この共感性が枯れていくので、いざというときに常識的な自己点検ができなくなる。

(ry

 豊かな共感性を備えた使命の人。自分の使命感を絶対視しない謙虚な人。・・・・そんな指導者が、本当の指導者なのだと思う。


主は心を見るが
人はうわべを見る。。。。。。


どうしても
見た目の成功を求めやすく、
その結果この世の成功者のように
自らを導きやすい、と思う。


でもなんで、それが
自らの性的欲求の解消に向かうのかが
わたくしめには、よく分からない。

よほど捻じ曲がった性感覚を持っていたのだろうか?
(昔の、運動すれば性欲なんか吹っ飛ぶ、という保健体育の教科書のような)



AERAのスクープから - 久保木牧師のblog ~ゆるく行きます!~JesusStyle - Yahoo!ブログ


ともかく、はっきりさせなければならないことは
「牧師は性犯罪を犯さないはず…」という思い込みは捨てて欲しい ということです。

以前のブログ記事に書いたように、牧師も男なら「スケベ」で「幼稚」で「弱っちい」のです。
( http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/54308864.html  
 をよろしければご覧下さい)
そうであるなら、
牧師も含め信徒も(家族以外の)異性と二人っきりにならない
というルールを教会で常識化していく必要があると思うのです。
(例外として、家族に性的虐待をする人がいるのなら、
家族であっても二人きりにならないようにする必要があります)

残念ながら、今回の3人の牧師の性犯罪は
いずれも密室であったり、二人きりになったところで起こっています。


以前のどこそかの牧師のように
人の奥さんとナンヤラしたというのであれば
それで済むと思うのですが、
今回の場合は典型的なパワハラです。
特定個人を集中的に誘っています、脅し文句を交えながら。



命と性の日記~日々是命、日々是性 | 週刊アエラに「キリスト教会の性犯罪」掲載

(2)ですから、この事実を認め、向き合うことかと思います。ごく一部とは言え、こうした事件が起こる背後には、コリント教会同様に、その要因や温床となるものが教会にあることを認め、必要な対処や改革を考えるべきでしょう。
(3)一般のメディアで取り上げられた限りは、もはや隠すべきではなく、学ぶべきことを学び、為すべきことを為す責任があるように思います。同時に興味本位やスキャンダルとして扱うのでなく、また、自分と自分の所属教会とは無関係と考えるのでなく、キリストの体として共に痛むべきではないでしょうか?しかし、一方で、報道による被害者の二次被害が起こらぬよう配慮や努力は、当然必要かと思います。
(4)ノンクリスチャンの見解に学ぶこと。「教会では起こりえない」という間違った前提を持っていること、簡単に事実を認めない傾向、スキャンダルに矮小化してしまうこと。防止や対応の対応整備ができていないこと。教職者への研修がなされていないこと。私はすべてその通りであり、真摯に受け止めて応答すべきだと思います。


 一方、間違った対処は以下のようなものでは?と考えます。
(1)報道したアエラと朝日を非難すること。宣教にマイナスをもたらすからといって、ジャーナリズムが報道すること自体を非難するのは間違いでしょう。(報道内容に問題があればその点は非難対象でしょうが)。少なくとも今回の記事は、興味本位のスキャンダル扱いではないと思いますので、事実報道自体を非難することはどうかと思うのです。
(2)極一部の教会の事件として、片付けること。つまりスキャンダルとしての矮小化です。事件としては極一部ですが、それを生み出す背景や傾向は強く教会に押し寄せています。「うちの教会、うちの団体、うちの牧師だけは大丈夫」と考えないことです。キリストの体として痛むべきでしょう。
(3)訴訟を起こした被害者を非難すること。被害者に対して「赦すべき」「指導者を裁いてはいけない」などのメッセージを送ることは、間違った聖書の言葉の適用と言わざるを得ません。同時に被害者にとっては最悪の二次被害です。



自らの苦しみを、苦しみと感じない団体(教会・集会)ほど
自らの存在意義があるとは思えないのだが。


聖書から。

ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、

きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。

神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。

一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、

しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。(heb 6: 1-6)
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2 コメント

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・・・ (にゃにゃ)
2008-04-12 23:09:19
アエラにそんな記事が出ていたんだね。
知らなかったよ。
牧師=清い
それはありえないと私も思うよ。
いつも自己点検して、
いつも謙虚でありたいなと思います。
韓国にもこの手の事件は多いよー。
よく報道されてました。
返信する
Unknown (umiusi45)
2008-04-13 00:24:23
韓国だと日本より教会数も多いし
色々大変だろうなぁ。。。。

牧師のために祈るのは当然なんだけど
もし何かあったとき、
牧師を妄信するのではなく、
という一呼吸を置くことが出来ればいいんだけど、
その状態になったらそうもいかないのかなぁ。。。。
返信する

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