先週の土曜日は、名古屋の真ん中辺まで出て
かなりクリスチャンっぽい集会に出席させていただきました。
で、そこで旧知の友人と合った時、
「オマエのブログは、何が書いてあるか分からない」
とのご指摘を受けました。
例えば他のクリスチャンの方が書かれたブログを読むと
キリスト教徒としての叡智が研ぎ澄まされ、
感銘を受けるものがある。
ところが「オマエのブログ」つまり、このブログには、その要素が無い
確かに、ない
聖書の解き明かしなんて、しゃれたことや、
日々の生活から受けた証など、
普通のクリスチャンブログにありがちなことは
微塵も載っていない(微塵ってことは、無いけど。。。。。)
もちろん、それは意図して書いていることであります。
聖書の文句よりもプリキュアの解説の方が詳しいと言うのは、意図したことです。
(まあ、そっちの方が好きだと言うのも、あるんだけど。。。。)
新約聖書の中で、その新約聖書の半分以上を占める書簡を書きまくったパウロという人が、当時技術の面でも芸術の面でも先進都市であったアテネで講演した箇所が、使徒行伝の17章というところに書いてある。で、すばらしい講演をされたのだが、その話を聞いた多くの人は
「ある者はあざ笑い、ある者は、それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」
ようするに、聞いちゃいない。。。。
クリスチャンがクリスチャン向けに、または自己研鑽のために、
素晴らしい文章を書いたとしましょう。
その文章を読むのは、
たぶん、
クリスチャンです。
世の中の9割以上を占めるクリスチャンで無い人は、
よっぽどでないと、読まない。
もっと、「書を捨てて街に出」る必要があるのではないかなあ~、と。
以前、このブログのタイトルを「泣きながら撤退同盟」にした理由をここに書きました。
いわゆる普通の、福音的な日本のクリスチャンであれば、
泣きながら撤退をする前に、
異性とそういう雰囲気になりそうな機会を徹底的に潰して回るかもしれません
「そういう話は、お酒を飲むような場所でなくても出来る」
「そんな雰囲気になるようなら、機会は最初から無かったようなものだから、そういう人とはお話しない」
「悪魔に(付け入る)機会を与えるな」とは、聖書に書いてある言葉です。
しかし、だからと言ってそう言った機会を最初から作らないということは、
わたくしめにとっては、未信者に対してかなり高圧的な態度をとっているような気がするのです。
例えて言えば、まるで高度4000フィートの高見から下界を見下しているような。
それに比べれば、
わたくしめの、なんと低空飛行なこと。。。。。
海面スレスレですね
神さまに対して責任を持つ、ということは大事です。
だからと言って、自らを至高の域に持っていく、ということは
他の人から見たら、まったく孤高の域になっている可能性も
あるのではないでしょうか?
イエス様は神の子であったのに、自らを高くされず、病人・被差別者・嫌われ者の友となられました。
使徒パウロも、同じようなことを書簡の中で述べています。
素晴らしい自己研鑽の記事を書いたブログは、世の中にたくさんあるので
わたくしめは素晴らしいことは書かず、
これからも海面スレスレの低空飛行のどうでもいいことばかり書くつもりで居ります。
かなりクリスチャンっぽい集会に出席させていただきました。
で、そこで旧知の友人と合った時、
「オマエのブログは、何が書いてあるか分からない」
とのご指摘を受けました。
例えば他のクリスチャンの方が書かれたブログを読むと
キリスト教徒としての叡智が研ぎ澄まされ、
感銘を受けるものがある。
ところが「オマエのブログ」つまり、このブログには、その要素が無い
確かに、ない
聖書の解き明かしなんて、しゃれたことや、
日々の生活から受けた証など、
普通のクリスチャンブログにありがちなことは
微塵も載っていない(微塵ってことは、無いけど。。。。。)
もちろん、それは意図して書いていることであります。
聖書の文句よりもプリキュアの解説の方が詳しいと言うのは、意図したことです。
(まあ、そっちの方が好きだと言うのも、あるんだけど。。。。)
新約聖書の中で、その新約聖書の半分以上を占める書簡を書きまくったパウロという人が、当時技術の面でも芸術の面でも先進都市であったアテネで講演した箇所が、使徒行伝の17章というところに書いてある。で、すばらしい講演をされたのだが、その話を聞いた多くの人は
「ある者はあざ笑い、ある者は、それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」
ようするに、聞いちゃいない。。。。
クリスチャンがクリスチャン向けに、または自己研鑽のために、
素晴らしい文章を書いたとしましょう。
その文章を読むのは、
たぶん、
クリスチャンです。
世の中の9割以上を占めるクリスチャンで無い人は、
よっぽどでないと、読まない。
もっと、「書を捨てて街に出」る必要があるのではないかなあ~、と。
以前、このブログのタイトルを「泣きながら撤退同盟」にした理由をここに書きました。
いわゆる普通の、福音的な日本のクリスチャンであれば、
泣きながら撤退をする前に、
異性とそういう雰囲気になりそうな機会を徹底的に潰して回るかもしれません
「そういう話は、お酒を飲むような場所でなくても出来る」
「そんな雰囲気になるようなら、機会は最初から無かったようなものだから、そういう人とはお話しない」
「悪魔に(付け入る)機会を与えるな」とは、聖書に書いてある言葉です。
しかし、だからと言ってそう言った機会を最初から作らないということは、
わたくしめにとっては、未信者に対してかなり高圧的な態度をとっているような気がするのです。
例えて言えば、まるで高度4000フィートの高見から下界を見下しているような。
それに比べれば、
わたくしめの、なんと低空飛行なこと。。。。。
海面スレスレですね
神さまに対して責任を持つ、ということは大事です。
だからと言って、自らを至高の域に持っていく、ということは
他の人から見たら、まったく孤高の域になっている可能性も
あるのではないでしょうか?
イエス様は神の子であったのに、自らを高くされず、病人・被差別者・嫌われ者の友となられました。
使徒パウロも、同じようなことを書簡の中で述べています。
素晴らしい自己研鑽の記事を書いたブログは、世の中にたくさんあるので
わたくしめは素晴らしいことは書かず、
これからも海面スレスレの低空飛行のどうでもいいことばかり書くつもりで居ります。
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