泣きながら、撤退同盟

このブログの半分は、薄情でできています。。。

生きていてもいいですか

2011-11-11 | がっこう!
一般社会が、
いわゆる「いじめ」に対して、
理解が無い(軽く捉えている)ことは、
何回かこのブログで取上げさせていただきました。

わたしの声が聞こえますか - 泣きながら、撤退同盟

言っている意味はわかる。
けど、
それは、強者の論理、
論理のすり替えだとおもう。


最近のいじめブームに関して、
武田鉄也が言っていたのはこういうことだった。

いじめる方は、どうやっても変わらない。
だから、
いじめられる方が変わらなければいけない。
もっと、言われてもくじけない強い人間にならなければならない。

苦しいときは過ぎ去るのだから、
いじめられる人間は自分がいじめられる事を苦にするのではなく、
自分の個性として伸ばすべきである。


後半部分は、
なんとなく分かるけど、

前半は、
なに?

それじゃあ、
たとえば、

米国は、どうやっても変わらない。
だから、
イラクが変わらなければいけない。
もっと、叩かれてもくじけない強い国民にならなければならない。

とか、



ヤクザは、どうやっても変わらない。
だから、
一般人が変わらなければいけない。
もっと、脅しをかけられてもくじけない強い人間にならなければならない。

とか、

そんなことを言われたら、
どういう気分になるか、
分かっていっているんだよね?

なんで、
そんなことが平気で言えるの?




わたくしめが、幼少期にほんとに死にたいと思いながら過ごしてきたことは以前書いたことが有りますが、
そのような人間からすると、こういう人たちって所詮、他人事ってのは良く分かるんだけど、
偽善者ぶっておいしい話題に介入し、
いいところだけをおいしく戴こう!という気がどうしても垣間見えるので、
本当に、腹が立つ!


さて、記事は先日の産経新聞から。

「黒板に『死ね』」「恐竜みたい」 女子大生らのいじめ体験が本に - MSN産経west

 この本は『いじめからあなたの笑顔を取り戻したい』(浪速社、1400円)。女子大生ら約150人のいじめの体験談が、幼稚園から小中高校、大学、社会人に至るまでの世代ごとにまとめられている。

 きっかけになったのは、吉野教授の「フェミニズム文化論」の講義。社会的に立場の弱い女性の問題を考えることが目的だが、学生たちに身近ないじめの問題からアプローチしようと8年前、学生たちにいじめ体験を無記名で書いてもらった。

 吉野教授は、想像をはるかに超える内容にがくぜんとした。

 アトピー性皮膚炎で顔が乾燥し、赤みがかっていたため「恐竜みたい」と言われた学生。小学3年から5年までいじめられたという学生は、「顔に墨を塗らせてくれたら無視しない」と友人に言われ、受け入れた。しかし、翌日も変わらず、「このとき人は信じてはいけないと思いました」と書いた。中学時代にいじめられた学生は、食事が喉を通らなくなり、過食症にもなり、「生きてきた中で一番つらい時期でした」と振り返った。中には、いじめる側だった自分の姿を正直につづり、「友達の苦しみを理解できなかった自分が嫌になる」と吐露する学生もいた。

 吉野教授は、こうした事例をもとに授業の中で討論するつもりだった。だが、あまりに生々しく深刻な内容に衝撃を受け、当事者である学生の卒業を待つことにした。

 いじめをつづった文章には「つらい体験をしたからこそ、生きることや思いやりに気付くようになった」と、力強く前向きな言葉がいくつも記されていた。吉野教授は何度も読み返すうち、「これから社会に出て、つらい出来事に遭遇したときの人生の指針になるかもしれない」という思いがわき上がった。「学生にとどまらず、多くの人の力になれば」と出版を決めた。

 吉野教授は今年度後期、この本をサブテキストに使った授業を行っている。「いじめという行為は浅はかで、非人間的。そういう認識をしっかり持って、物事をしっかり見極める賢い女性になってほしい」と話している。



「フェミニズムから見た女性文化論」を「女性への抑制・差別→いじめ」っていう安易なステレオタイプで片付けようとしたいうのがきっかけ、というのが大笑いだが、
今時の女性が、ジェンダーなんていう空論よりも、もっと身近なことで悩んでいることに気づかされたというのは、大いなる進展だとおもう。


いじめは、
当事者にならないと、
被害者にならないと、
ほんとうに苦しいのに、
そのことが誰も分かってくれない!そのことが苦しくて、
それこそ、死んでしまいたくなるような気持ちになる


ということが、わからないのだとおもう。

ここでこうして生きているわたくしめ、
そうして生きてこられたその方々、
その影で、ほんとうに苦しくて、
耐え切れなかった人たちもいるのです。


我々がまずすべきことは
いじめは、おこなわれている」ということを認識することだと思います。


いじめは、無くなりません
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2 コメント

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いじめる方が100%悪い! (佃力丸)
2012-09-20 20:38:59
クリスチャンの「ユニシス45」さまも名前はお聞きだと思いますが、創価学会の池田大作・名誉会長の言葉です。私もそこの会員です。結婚を機会に、入信しました。いままで黙っていて、申し訳ありませんでした。武田氏の言う「いじめられる人間は自分がいじめられる事を苦にするのではく、自分の個性として伸ばすべきである。」は、池田先生もおっしゃっています。ちょっとややこしくなるので、結論から申し上げますと、いじめる側の方が、いじめられる方よりも立場(境涯)は上なんです。
 いじめられる方は地獄のような日々です。十界論で言う一番下の「地獄界」です。
 いじめる方は下から3番目の「畜生界」、つまり人間以外の動物の境涯なのです。
 一番上の仏界、2番目の菩薩界にもっていくために私どもの活動があるのです。
 中学のころから学会に入っていれば、自分の受けたいじめ問題もスムーズに整理できただろうに・・・と思う、今日この頃です。


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コメント感謝です! (umiusi45)
2012-09-21 12:07:04
佃力丸さん、いつもコメントをありがとうございます。

この場で「宗教戦争」をするつもりもありませんし、どのような信心をもっていらっしゃるのかはその人それぞれだと思いますので構わないのですが、
ただ、現状の「いじめ」については、もっと理解が必要だと思うのです。

聖書にも「神は耐えられない試練は与えない」とありますが、それでも目の前の惨状には目を覆いたくなるばかりで、しかもそれが「生きていること=人格そのもの」を否定するような言動ばかり。
それを理論的に「弱いものは強い」と言われても、それはあまりにも高所からの発言だと思うんです。高見の見物だと思うんです。

ほんとうにすべきことは、低いところに降り立って、その人の視線で、手を差し伸べることだと思うのです。
そして今、わたしたちに求められているのはその、「低い場所に立つ勇気」だと思うのです
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