島崎城跡見学ガイド【一の曲輪】【古面五面】

茨城県潮来市の島崎城跡見学に役立つ情報を提供します。
見学ガイドを見ながら城跡見学を楽しんで下さい。

城跡見学ガイド「井戸」

2022-05-23 12:26:07 | 城跡見学
水の手は城のマストアイテム
城を築くさい、「水をどう確保するのか」は必須の課題でした。人が住み、活動するために必要であることはもちろんですが、城には「籠城戦」の可能性が宿命づけられています。もし、水の手がない城で籠城して、数日でも城外からの運搬が断たれるとしたら、たちまち死活問題になってしまうからです。
それでは、城内で水をどう確保していたのでしょうか? 真っ先に思い浮かぶのが井戸ですね。枯れたら困るので、井戸はひとつだけではなく、複数設けられるのが普通でした。築城名人とされる加藤清正は、居城の熊本城(熊本県)に100以上の井戸を設けたといわれており、今でも20近い井戸が残されています。清正は朝鮮出兵で過酷な籠城戦を戦っているので、飲み水を確保することに強迫観念にも似た思いがあったのでしょう。
とはいえ、当たり前ですが掘ればどこからでも地下水が湧くわけではありません。城を築くには絶好の地なのに、どうしても水が確保できないということもあったでしょう。その場合、解決策のひとつとして、城に面した河川があれば、そこから運び入れるという方法がとられました。
その例として、天竜川沿いに築かれた二俣城(静岡県)がありました。二俣城では井戸櫓(または水の手櫓)と呼ばれる専用の高層櫓が築かれ、水の運搬をしていました。ところが武田軍に攻められたさい、武田軍は川に大量のいかだを流して井戸櫓を破壊したため、城兵は開城を余儀なくされます。水の手に目をつけるとは、さすが武田軍は戦上手ですね。
城内に井戸がない場合、水路や樋によって引き入れたという例もあります。江戸は玉川上水などの水路が整備されていたことが知られていますが、神田川や水堀に懸樋(かけひ)が架けられ、そのまま江戸城内へと給水されていました。ただし、籠城戦で水路や樋を破壊された場合は一巻の終わりですので、水路や樋は補助的な手段だったといえるでしょう。
なお、城内で水を得るための場所や施設を「水の手」と呼びます。水の手のための曲輪が築かれ、土塁や石垣で囲んで守りを固めている例も少なくありません。城を訪れたさいに「水の手曲輪」「清水曲輪」「井戸丸」という水に関する曲輪名を見つけたら、ははーん、ここがこの城の水の手だったんだなと思ってもらってほぼ間違いはないです。
なんとなく想像がつきますが、山城は平城よりもずっと、水の手を探し当てるのが困難でした。城を築くにはベストポジションなのに、どれだけ探しても給水ポイントが見つからず、築城自体をあきらめたということも多かったことでしょう。補給基地や見張り台のような小さな山城では水の手がない例もありますが、ある程度の規模の山城ではたいがい、現在も井戸跡など給水ポイントの痕跡が残されています。
水の手は城の縄張り(構造)にも大きく影響しました。敵に攻められたさい、すぐに水の手を奪われてしまったら籠城戦どころではないからです。特に最後の砦となる本丸(主郭)の内側や裏手に水の手があることが理想です。
山城での水の手は、井戸だけではなく「溜め井(ためい)」という方法もありました。山の鞍部などに貯水池を設けて、湧き水や谷筋を流れ落ちる水を溜めておく施設です。土づくりだとすぐにしみこんでしまうので、岩盤を掘削して貯水池としました。
最後に、お城で井戸を見つけたら、是非その名称に注目してみてください。特別な名前が付けられている井戸がとても多いことに気づくでしょう。例えば、石田三成の居城だった佐和山城(滋賀県)のメインの井戸は、「千貫井(せんがんい)」といいます。千貫(ざっと1億円ほど)もの価値がある井戸ということです。先ほど紹介した岐阜城の水の手は「金銘水(きんめいすい)」と呼ばれます。「金ほど尊い」ということでしょうか。ちなみに、山城ではありませんが、大坂城(大阪府)にも「金明水」という名の井戸がありますね。  記事・城びと 超入門お城セミナーより転載



島崎城跡案内ガイド「切岸」

2022-05-23 11:08:14 | 城跡見学

切岸とは、山地などの斜面の土を垂直に近い角度で削り落とし、人の手によって断崖絶壁とした構造のこと。鎌倉時代から戦国時代に造られた日本の城において、敵が城内へ攻め込むのを防ぐ目的で造られた。
特に山の頂上に設けられる山城などで、敵が容易に登って来られないようにその周囲に切岸を設けた例が多い。城の周りから城内を見ることが難しく、攻め手にとっては視界を遮られることにもなる。
切岸の中段には犬走(いぬばし)りと呼ばれる兵の移動用の通路を設けたり、乱杭を設けたりして防御力を高めていた。

島崎城跡見学ガイド「島崎氏について」

2022-05-23 05:59:47 | 城跡見学
島崎氏について


嶋崎氏について
嶋崎氏の歴史は古く、鎌倉時代の初期に遡る。諸説はあるが「嶋崎盛衰記」や「新編常陸国 誌」などによると,常陸平氏の一族吉田大掾清靜(現在の水戸に住す)は、その子二男忠幹を 行方に、三男成幹を鹿島に配した。おそらく平安末期最期の郡司職ではないだろうか,といわ れている。
忠幹は行方郡行方(現在の麻生町行方)に移住し行方氏となったが,その子宗幹のとき源平の戦いが起きた。宗幹は源義経の軍に属して戦ったが,元暦元年(1184) 屋島の戦に討死してしまった。
鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、宗幹の軍功を賞し、その子四人を行方郡の要所に配した。長男を小高に,二男を嶋崎に,三男を麻生に、四男を玉造と,それぞれ舘を構えた。人はこれを 行方四頭と称した。
嶋崎氏は、この二郎高幹を祖として、鎌倉時代, 北朝時代・室町時代・安土桃山時代と, 約400年にわたり、激しい栄枯盛衰の中を生き続けた,中世の在地領主の一人である。
嶋崎氏 は代々左衛門尉を名乗り,13代長國の頃より勢力が強大となり,文明年間張國は,現在の福島 県より憎英仲を迎え,領内の上戸村芝宿に禅寺を建立した。現在の大興山長國寺がそれである。
その寺域は,平坦地4ヘクタールに及んだ。その子宗庵(安國)は、大永2年同族の永山氏を攻めこれを亡し、続いて富田城を攻略した。その後天正12年嶋崎氏幹は,同族の麻生氏を攻略して,勢力いよいよ強大となり,その領域は牛堀町の全域・潮来町全域・麻生町の一部に及んだ。
天正18年(1590)5月 天下取りを目指す豊臣秀吉は,小田原城を攻めたが,17代鶴崎安定(儀幹)も佐竹義宣の輩下に属し出陣した。その際秀吉に馬と太刀を献じ,佐竹の一族として 義宜の紹介のもとに,秀吉の重臣石田三成と増田長盛に謁見をしている。
小田原を攻略した秀吉は、名実ともに天下人となったが,佐竹義宣もその年の12月水戸城の 江戸氏・府中城の大掾氏を攻略して、東国にその威を示したのである。
小田原攻略にも水戸・府中攻略にも,佐竹に協力してきた島崎氏や,行方,鹿島の諸城主も、一見安堵と思われたが、翌年2月義定は行方、鹿島の諸城主を太田に招じ,これを謀殺した。安定はその子徳一丸と共 に,天正19年2月9日久慈郡大子町頃藤において,殺害されたという(六地蔵寺過去帳)。
戦わずして行方・鹿島の地を領した佐竹は家臣にそれぞれの城を利用させているが,嶋崎領 は、新らたに堀之内大台城を構築して,城は廃城となり、鎌倉時代以来の歴史を閉じたのであ る。(発掘調査報告書)

島崎城跡見学ガイド【古面五面】

2022-05-19 11:00:49 | 城跡見学
【古面五面の紹介】

大癋見は、物語性の強い面で、能楽において主に仏法に敵対する天狗魔障の類を演じる際に用いられる面であるため、目や鼻孔を大きく開き、口を真一文字に力強く閉口した尊大にして荘重な表情をしています。「癋見」は、口をへの字に曲げた顔つきのことを指す「べし」が転じたことに由来すると考えられます


抜頭も物語性の強い面で、親を猛獣に殺された胡人、あるいは女性が嫉妬に狂う様とされることから怒りの感情を象っています。御札神社の抜頭面は、朱塗りにして五面のうちでは最大のもので、高い鼻とその鋭くも荒々しい表情は、最も勇壮さ、勇猛さを感じさせます



貴徳とは、中国の黄河上流域に位置する地名です。匈奴という民族の  日遂王と漢軍との戦いで日遂王が降伏すると漢皇帝は日遂王を貴徳侯として丁重に迎えたとされます。このように貴徳も物語性の強い面で、 匈奴の日遂王の戦闘模様を象っており、高い鼻に鋭い目をしたその表情は古式を保っており、勇敢な王侯をイメージさせます


は、流麗に刻まれた皺と大きな眉、下り目の柔和な表情が特徴的です。 古くから猿楽や田楽と結びついてきたことから神聖にして儀式性の強い面であり、国土安寧/天下泰平/五穀豊穣/子孫繁栄を願い、目元や口元には満面の笑みを湛えています。


醜男は、現代の意味では主に醜い様を指しますが、「古事記」や「日本書紀」には武勇な男性または大国主命を意味する 「葦原醜男」 として登場し、国技の相撲では「四股名」を「醜名」と表記するなど「強く逞しい」ことの象徴とされました。醜男そのものの面は珍しく、素朴かつ土俗的でありながらも愛嬌ある表情をしています