一の曲輪予測図
一の曲輪発掘調査報告書
標高28mコンタ上の台地先端部,南々東を頂点とする三角形プランがⅠ曲輪である。平場は北側で東西60m,中央で南北70mを測り,面積は2728㎡である。今日の御礼神社境内で,南側に本殿・拝殿が位置し,本殿内には,古面(室町時代作・県指定文化財) 5点が納められている。
第1次・第2次発掘調査は,拝殿前方と北側虎口土塁を調査区域として実施した(後述)。土塁は南側先端部と北側の塁壁に残る。南土塁は御札神社本殿の建設(近世の段階)の折, 大きく抉り取られ、現状のような型となった。現在高さ2.5m, 槢(上幅)は最大730cmであるが、削り取られる前は上幅10mほどで櫓台を呈していたと認められる。この櫓台には、島崎城のシンボリックな建築が一例えば天守建築——存在したのであろう。(隣地にある堀之内大台域には、天守建築に相当する建築遺構が検出されている)。
北側土塁は虎口にあたる櫓台状土盛遺構と西側に延びる土塁とからなる。虎口土塁は,中央が鞍部となり,出入口である虎口であったことがわかる。昭和55年に御札神社拝殿を改修した折,ブルドーザで,この鞍部を大きく掘りさげ,東側を削りとり、車が社殿前へ登れるようにしてしまった。第2次発掘調査では,この削りさげた道路東側の壁面のセクション検出作業を実施,土塁基底部より古石塔群の集石状遺構の出土をみた(後述)。なお,昭和55年の削り去った土砂は,土塁外側の堀切に敷いて,虎口鞍部まで車があがれるように道路スロープをつくった。従って,旧土塁斜面は、虎口西側斜面にみられるが,敷部は,やはり遺構面を掘り下げている状況なのである。
この虎口土塁を地元古宿の人は「お鐘の台」といって,時報や登城合図を知られた鐘が吊ってあった、と伝承する。現状で土塁は高さ2.5m,楢部は東側で4m×2.6m, 西側で5m×3 mの平場を形づくる。いずれも櫓台状の形状を呈し,伝承の鐘を吊った櫓が存在した可能性は充分考えられる。虎口外側は、前述した堀切で,実効堀幅20~25m (上幅17~20m), 深さは現状でI曲輪側4m, Ⅱ曲輪2m~2.5mを測るが,前述の工事で客土をもって埋めたてられ,旧状は不明である。
虎口土塁の西側に高さ1~3mを測る土塁がめぐる。残存土塁は西側に延びるにつれ保存状況は良く,虎口土塁との接続部は,かつての御礼神社への参道(昭和55年の道路工事以前)にしたため消滅している。残存状況の良い西側土塁は,丘つづきで西1曲輪と自然地形でつながっていた部分を掘り切った上部にあたり,いわゆる出隅横矢となる。
西側土塁の塁壁外側は、行方台地を形成する常総粘土層と成田層岩盤を刳り抜いたいた空堀がめぐる。この空堀は、大手谷間からの隘口(虎口)からつづく空堀にあたる。
空堀は,西土塁下の堀底にたっと屏風をたてたように砂質の岩盤が切り立ち、築城工事を物語るかのように削り落とした風化溝状遺構がつづく。今日虎口から35m程が,道路布設ためかなり埋め立てられているが、1曲輪西側の保存状況は極めて良い。現状で,実効堀幅12m(上幅10m), 深さ7m~8mを測る。西に進むにつれカーブを描き、南へ60度曲がり, I曲輪と西1曲輪の中間堀切となる堀底は、おそらく空堀道として利用されていたとみられ,堀 底より西1曲輪へ登る桝形虎口が形成されている。
一の曲輪発掘調査報告書
標高28mコンタ上の台地先端部,南々東を頂点とする三角形プランがⅠ曲輪である。平場は北側で東西60m,中央で南北70mを測り,面積は2728㎡である。今日の御礼神社境内で,南側に本殿・拝殿が位置し,本殿内には,古面(室町時代作・県指定文化財) 5点が納められている。
第1次・第2次発掘調査は,拝殿前方と北側虎口土塁を調査区域として実施した(後述)。土塁は南側先端部と北側の塁壁に残る。南土塁は御札神社本殿の建設(近世の段階)の折, 大きく抉り取られ、現状のような型となった。現在高さ2.5m, 槢(上幅)は最大730cmであるが、削り取られる前は上幅10mほどで櫓台を呈していたと認められる。この櫓台には、島崎城のシンボリックな建築が一例えば天守建築——存在したのであろう。(隣地にある堀之内大台域には、天守建築に相当する建築遺構が検出されている)。
北側土塁は虎口にあたる櫓台状土盛遺構と西側に延びる土塁とからなる。虎口土塁は,中央が鞍部となり,出入口である虎口であったことがわかる。昭和55年に御札神社拝殿を改修した折,ブルドーザで,この鞍部を大きく掘りさげ,東側を削りとり、車が社殿前へ登れるようにしてしまった。第2次発掘調査では,この削りさげた道路東側の壁面のセクション検出作業を実施,土塁基底部より古石塔群の集石状遺構の出土をみた(後述)。なお,昭和55年の削り去った土砂は,土塁外側の堀切に敷いて,虎口鞍部まで車があがれるように道路スロープをつくった。従って,旧土塁斜面は、虎口西側斜面にみられるが,敷部は,やはり遺構面を掘り下げている状況なのである。
この虎口土塁を地元古宿の人は「お鐘の台」といって,時報や登城合図を知られた鐘が吊ってあった、と伝承する。現状で土塁は高さ2.5m,楢部は東側で4m×2.6m, 西側で5m×3 mの平場を形づくる。いずれも櫓台状の形状を呈し,伝承の鐘を吊った櫓が存在した可能性は充分考えられる。虎口外側は、前述した堀切で,実効堀幅20~25m (上幅17~20m), 深さは現状でI曲輪側4m, Ⅱ曲輪2m~2.5mを測るが,前述の工事で客土をもって埋めたてられ,旧状は不明である。
虎口土塁の西側に高さ1~3mを測る土塁がめぐる。残存土塁は西側に延びるにつれ保存状況は良く,虎口土塁との接続部は,かつての御礼神社への参道(昭和55年の道路工事以前)にしたため消滅している。残存状況の良い西側土塁は,丘つづきで西1曲輪と自然地形でつながっていた部分を掘り切った上部にあたり,いわゆる出隅横矢となる。
西側土塁の塁壁外側は、行方台地を形成する常総粘土層と成田層岩盤を刳り抜いたいた空堀がめぐる。この空堀は、大手谷間からの隘口(虎口)からつづく空堀にあたる。
空堀は,西土塁下の堀底にたっと屏風をたてたように砂質の岩盤が切り立ち、築城工事を物語るかのように削り落とした風化溝状遺構がつづく。今日虎口から35m程が,道路布設ためかなり埋め立てられているが、1曲輪西側の保存状況は極めて良い。現状で,実効堀幅12m(上幅10m), 深さ7m~8mを測る。西に進むにつれカーブを描き、南へ60度曲がり, I曲輪と西1曲輪の中間堀切となる堀底は、おそらく空堀道として利用されていたとみられ,堀 底より西1曲輪へ登る桝形虎口が形成されている。
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