島崎城跡見学ガイド【一の曲輪】【古面五面】

茨城県潮来市の島崎城跡見学に役立つ情報を提供します。
見学ガイドを見ながら城跡見学を楽しんで下さい。

島崎城跡見学ガイド「島崎氏について」

2022-05-23 05:59:47 | 城跡見学
島崎氏について


嶋崎氏について
嶋崎氏の歴史は古く、鎌倉時代の初期に遡る。諸説はあるが「嶋崎盛衰記」や「新編常陸国 誌」などによると,常陸平氏の一族吉田大掾清靜(現在の水戸に住す)は、その子二男忠幹を 行方に、三男成幹を鹿島に配した。おそらく平安末期最期の郡司職ではないだろうか,といわ れている。
忠幹は行方郡行方(現在の麻生町行方)に移住し行方氏となったが,その子宗幹のとき源平の戦いが起きた。宗幹は源義経の軍に属して戦ったが,元暦元年(1184) 屋島の戦に討死してしまった。
鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、宗幹の軍功を賞し、その子四人を行方郡の要所に配した。長男を小高に,二男を嶋崎に,三男を麻生に、四男を玉造と,それぞれ舘を構えた。人はこれを 行方四頭と称した。
嶋崎氏は、この二郎高幹を祖として、鎌倉時代, 北朝時代・室町時代・安土桃山時代と, 約400年にわたり、激しい栄枯盛衰の中を生き続けた,中世の在地領主の一人である。
嶋崎氏 は代々左衛門尉を名乗り,13代長國の頃より勢力が強大となり,文明年間張國は,現在の福島 県より憎英仲を迎え,領内の上戸村芝宿に禅寺を建立した。現在の大興山長國寺がそれである。
その寺域は,平坦地4ヘクタールに及んだ。その子宗庵(安國)は、大永2年同族の永山氏を攻めこれを亡し、続いて富田城を攻略した。その後天正12年嶋崎氏幹は,同族の麻生氏を攻略して,勢力いよいよ強大となり,その領域は牛堀町の全域・潮来町全域・麻生町の一部に及んだ。
天正18年(1590)5月 天下取りを目指す豊臣秀吉は,小田原城を攻めたが,17代鶴崎安定(儀幹)も佐竹義宣の輩下に属し出陣した。その際秀吉に馬と太刀を献じ,佐竹の一族として 義宜の紹介のもとに,秀吉の重臣石田三成と増田長盛に謁見をしている。
小田原を攻略した秀吉は、名実ともに天下人となったが,佐竹義宣もその年の12月水戸城の 江戸氏・府中城の大掾氏を攻略して、東国にその威を示したのである。
小田原攻略にも水戸・府中攻略にも,佐竹に協力してきた島崎氏や,行方,鹿島の諸城主も、一見安堵と思われたが、翌年2月義定は行方、鹿島の諸城主を太田に招じ,これを謀殺した。安定はその子徳一丸と共 に,天正19年2月9日久慈郡大子町頃藤において,殺害されたという(六地蔵寺過去帳)。
戦わずして行方・鹿島の地を領した佐竹は家臣にそれぞれの城を利用させているが,嶋崎領 は、新らたに堀之内大台城を構築して,城は廃城となり、鎌倉時代以来の歴史を閉じたのであ る。(発掘調査報告書)


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