うた。の消したい備忘録。

思い出供養の為に始めました。
思い出話や何か思ったことを書きます。

星空に何も見いだせなくなって久しい。

2022-03-22 03:29:34 | 日記
お久しぶりです。
うた。です。

また色々書きたくなったのでブログ再開しようと思います。




うた。流 詩の作り方。
私はTwitterで詩を書いてます。
詩を作る作業は簡単ではないと最近痛感していまして。
中々詩を作れず欲求不満状態。


詩を書けない理由をこれから書こうと思っているのですが、まず前提として、このブログを読んでいる人全てが詩人ではないと思います。

なので、詩作とはどういうものかを自分なりにリスト化してみました。
大体以下の通りに私は詩を作っています。


1 ありふれた日常の中でキラリと光るもの発見する
2 それを自分色に染める
3 発光する自分色の物体に対する感想を文字にする
完成!!

という手順を私は踏んでいます。
詩の作り方はこれぐらいにしておいて、なぜ今の私は詩が書けないのかを書こうと思います。




夜空に何も感じない状態
まず、今の私は仕事が忙しい。
本当に忙しい。
休み時間ですら気が抜けない状態が続いています。

困ったことに、その状態にあるのは現場の責任ではなく経営によるものなのでイライラもしています。
現場の責任であれば、私にもその一端があるのでしょうから府に落ちます。
しかし、今回の忙しさは経営陣の責任によるものなので腑に落ちない所か尻拭いをさせられてる始末。

イライラしてるし忙しい。

だからでしょうね。
日常が無いのです。

仕事と就寝で今の私は作られています。
その二つだけで生活が構成されているので、詩なんて作れません。

仕事の中で詩のネタを探そうともしましたが、イライラポイントが目につくばかり。


そう言うわけで今の私は詩が作れていません。




詩人としての失明
私のような素人詩人は、日常の中から気になったものを探すぐらいしかネタ探しが出来ないのです。

それを仕事の忙しさで奪われてしまうのは、失明に等しいのも。

目で探す詩人が視力を奪われてしまった。
詩を作る以外に趣味の無い私にとって非常に辛い事です。


いっそのことフリーランスとして生きていこうかとも思いましたが、この社会状況かつ生来の病により数字が苦手。
中々厳しい状態。


つまり、私は夜空に何も見えないのです。
輝く星も、それを遮る雲も。


腰も痛いし頭も痛い。
そんな状況。



でもいつか、いつの日にか「そんなことあったね」と笑い詩として昇華できる時を今は待ちたいと思います。

うた。は頑張りますよ!!

パパがガンになっちゃった2 弱った父は尚も。

2022-03-08 07:21:00 | 日記


入院準備のため三年半ぶりに実家へ
実家につくまでの間、なにも考えられませんでした。

緊張もあった、でも、それ以上に未来への明確な不安があった。

一応大黒柱の父の収入を失えば弟の進学に支障が出てくる。それだけは避けたかった。
いかに回避するか。どのように回避するか。
それだけを考えていたのを覚えています。


実家について父と対面。
言葉がでなかった。

中肉中背だった父が、痩せて骸骨みたい。
驚くのと同時に、今までの親子の軋轢を気にしてる場合ではないことがわかったのです。

気軽に会話が出来る状態ではなく必要なものを伝えられそれを用意しているうちにその日は終わり。
三年半もあってなかったとは思えないほど、感傷も思い出すものもな買った日だったのを覚えています。

翌日父はタクシーで入院。
短期の入院とはいえ手術もある。
もしもの事を考えるとくつろぐ気にもなれず、そわそわしたまま過ごしていました。





冗談を無理して言う親子。
退院の日が近づくにつれ、どういう顔をして迎えに行けば良いか分かりませんでした。

実家についたときは、やることがあってイチイチ気にしていませんでしが、よく考えれば三年半会話の無かった父。
どういう顔をして話せば良いのかわからないのです。

気の効いた冗談を言えれば良かったのですが、そんな教養もなく。
なんとか思い付いたのが「物を使ったメッセージ」でした。


退院当日、私はタクシーで病院へ向かい、父の入院したお部屋へ急ぎ足。
部屋に到着すると、弱々しく痩せてオムツをはいている父が居ました。
「俺はCalvin Kleinしか履かない」と思春期の私に突然報告してきて怒らせた父とは思えない姿でした。



私は「まだ生きてたの」と言いました。
今までの事を清算するため、精一杯の皮肉。
「まだでした」と父。

そんな会話を聞いていた看護師さんは苦笑いをしていた。


お医者さんから体調と術後の経過の説明を受け大事がないことを確認。

それも終わり私が荷物をまとめていると、父がお手洗いをを済ますためお部屋から出ている隙に、私は菊を一輪置いておきました。
不謹慎きわまりない冗談。
でも、これしか考えられなかったのです。



そして、父が部屋に帰ってきた。
机に目をやった。
菊を見た。

父は笑いながら私の頭を叩いた。
「まだ早いよ」

威勢だけは元気。
それでも、叩いたことでよろける父。
私は痛くも何ともない。



子供の頃、よく父に頭を叩かれた。
あんまりにも痛くて泣いたことだってたくさんある。
はっきりいって父の手は私にとって暴力の象徴。
それがどうだろう。
今や痛みは感じず、乾いた手が触れた程度。
形式上、叩かれてはいるけどその中身は変質していた。

暴力による教育から無理をして張った見栄に変わったと私は思う。
なによりも、お父さん弱くなったなぁと実感した。

それがどうしょうもなく悲しい。



しかし、その様子を見ていた看護師さんは苦笑いをしていた。




世代交代の儀式
家に帰るため、一緒にタクシーへ。
荷物を積めながら、父は「会社に挨拶に行くから帰るのはその後だ」と言い出した。

いつもいつもこうだ。
父は行き先を相談せず勝手に決める。
それが昔から嫌だった。

だから、今回は私が行き先を勝手に決めた。
「そんなの後にして、会社にも迷惑。さっさと家に帰る」と言った。



他の人からすれば何て事ない言葉かもしれない。
でも、私の家族の中では世代交代の意味合いを持つ。

「家に帰る」という言葉。
それは、責任を持つものが許される発言でした。

例えば買い物。
金を出すものの意向が優先され、その庇護にあるものはそれに従う。

父が「もう帰る」と言えば帰らなきゃいけません。
逆に私が「もう帰る」と言っても意味がありません。

私が「家に帰る」というのと父が「家に帰る」というのでは意味合いが違ったのです。
私の発言は単なるわがままで、父の発言は決定事項の周知。



だから、遠方から帰宅し入院の準備をして迎えにまできた私に今回は責任があるのです。
病人を無事に家まで届けるという責任が。

家族のルールに則れば、タクシーの行き先を私が決めたのは決定事項。
父の発言は会社の地位を気にした単なるわがまま。

父もその事を何となくわかったのでしょう。
少し笑いながら「わかったよ」と呟きました。
世代交代が完了したのです。

でも、なぜ笑っていたのか今でも私にはわかりません。
どんな感情があったのか。

当然ですが私は父と違います。
「父が決定事項しか口にしなかった過ちを、今は踏むまい」。
私はそう思いました。

私は相互理解のため父の同意を求めました。
「家にまっすぐ帰るよ。いいね?」



父と私がすれ違ったのは相互理解が原因。
これまでたくさんすれ違ったんだからもういいでしょう。


父は「はいはい、わかったよ」と不満の表情をせかしらに見せびらかしてきました。
私は「わかればいい」と昔の父の真似をして言いました。


私たちはタクシーに乗り込み家に向かいました。



本当に、本当に遅い相互理解。
でも、遅すぎた訳でもなかったな。






終わりに。

蒙昧な思い出を形にして書いてきました。
しかし、思い出はまだまだあるものの、形にできていないのが多いためしばらくブログ休みます。
二週間とか一週間ぐらい。

興味をもって貰えたらフォローして次の再開をお待ちいただければ幸いです。

皆様に幸せがたくさんありますように。

パパがガンになっちゃった!(五年前)

2022-03-07 10:30:00 | 日記
前提として
私と父は仲が悪い。
とにかく相性が悪い。

子供の頃から会話は少なく、歳を重ねるごとにひどくなる有り様。

そんな父との不仲が決定的になったのは、私が高校生の頃の三年戦争。
会話はなく、進路相談も事後報告。
喧嘩もなく、会話もない。
ある意味冷戦のような状態でした。

というのも、父には高校の学費を払えるだけの貯金がなかったのです。(昔の借金のせい)。

なので父が子に対して言う「誰が金を払ってると思ってるんだ!」みたいな会話は成立しない。
だって父には出すお金がない。

そんな父を嫌うのは年頃の子供にとってはある意味当然でしょう。
他所の家庭では当たり前に払われている学費が貰えないんですから。

そんな私は、祖母の遺産と親戚の協力によってなんとか高校に入学できたのでした。


和解は病と共に。

さて、そんな父との和解に至るまでついて書きましょう。


その後も戦争を繰り広げたまま私は奨学金を借りて進学し遠方で一人暮らしを始めました。

ワンルームの広い部屋。
汚れたりきれいになったりするけど、どれも立派な私のお城。
やっぱり嬉しい。
「私の城だ!もうお父さんとは会わないぞ!」
私は父親に対して籠城作戦を開始した。
籠城作戦は三年間続いた。

その間の三年は楽しくも退廃的な日々。
モラトリアムの意味も理解できないまま、酒に溺れたりしていました。
途中から勉学に励み、なんとかかんとか学びを深めていくことでそれなりに楽しい学校生活を送っていました。

当然、父から連絡が来たことは一度もありませんでした。



そんな私も就職活動を行わなければいけない時期が来ました。
幸い、就職活動はすぐに終わりました。
確か、四月の初旬。
同回生で一番早かったのを覚えています。


「いくら仲が悪くても就職活動が終わったことぐらい伝えないと」

そう考えた私は、約3年と半年ぶりに父に連絡を取りました。
「もしもし。私だけど。仕事決まりました。」
簡潔で情緒のない会話。
連絡といった方が的を得ているかもしれません。

いつもなら父は「そうか。了解した」と言うところ。
こちらも簡潔で情緒のない会話。
やはり連絡と呼んだ方が相応しい。

私もそう予想していたから上記のような連絡をしたのです。
しかし、予想を裏切り父は弱々しい声でこう言いました。「すみません。ガンになりました。前立腺がんですが転移してて明日入院で、明後日手術です。」


いきなり父の病の報告に呆気にとられる私。


思わず「何でもっと早く言わない?!」と言いそうになりましたが、ぐっと我慢しました。
それまでの父との関係性を考えれば、気軽に報告できるような間柄では無かったことは明白。
ましてや私は籠城作戦を開始した身分。


お互いの意地と見栄と愚かさが現状を招いている。
だから、お互いに攻めることは出来ない。
私たちは人に折れるよう作られてない。
しかし、無関心でいることも出来ない。
私と彼は親子なのだ。



私は苦し紛れに「明日はそっちに用事がある。ついでに病院につれていくよ」と虚偽の連絡と予定を伝えました。

父は「わるいな。」と消えそうな声での感謝。
見え透いた嘘を彼は見抜いたのです。


ついに、長く続いた戦争は私の勝利に終わった。
得るものもないまま。
バカだなぁ私は。


父と私がすれ違う
よく人生はマラソンに例えられる事が多い気がします。
若い人は前半で年寄りは後半。

その方程式に乗っとれば、父が病気になるのは至極当然。
後半になればなるほど、見栄が落ちて体にガタが来る。


なのに、現実はどうだろう。
私はその事実をいまいち認識できていない。
当事者である父もきっと同じだろう。
だから、お互いに戸惑っている。

対した会話もない中でここまで来てしまった後悔が胸を掠める。
父は私の好物も知らない。
私も同じ。
私は父の好物も知らない。


私たちは、お互い同じようなコースを走っている。
見栄っ張りのコースだ。
それは虚しく自己満足とほんの少しばかりの称賛位しか得られるものがない。

父はそのコースの折り返し地点に来た。
その知らせとして癌を患った。
私はコースを始めたばかり。
心身ともに健康とまではいかないが病院の世話になることがない。
似ているけど、なにかが決定的に違う。


父と私は病と言う知らせにより和解を果たした。
病の知らせを受けることでしか和解できなかった。
やはり後悔が胸を掠める。

「今更どの面を下げていけば、そもそも何を話せば良いのか。」
言語化できない感情を胸に秘め、私は父を迎えるってに行く為、自分の城を自分の足で出た。


続く(火曜日か水曜日に出します)


食べたいものはないが空腹。

2022-03-06 08:16:15 | 日記
私は食いしん坊。夕飯の後におやつを食べることだってある。
子供の頃、給食でたまにやってくる食後のデザートに喜びを覚えた。
時は進み、大人になった今は食後のデザートそれ自体に喜びは感じない、寧ろ食後にデザートが無いことに怒りを覚える。ただ食後のデザートの有無で「ある喜びより無い事への不満」という人間が持つある種の普遍的なテーマにまで繋がるから不思議。

しかし、更に時は進む。
それなりに大人になってしまった今。不思議と食べたいものがない。
言ってしまえば何でも買える状況にあると思う。おやつだって好きなものを食べれる、ご飯のメニューだって思いのまま。

なのに食べたいものがないのは(昨今の世界の食糧事情を見る限り)皮肉以外何者でもない。

ここ最近ずっとそんな調子なので食欲がない。
食べるのはお粥と納豆。
甘いものもしょっぱいものも久しく食べていない。

「これではいかん!」

思い出を振り返るのを辞めて、昔したかったことをやってみることにした。



子供の頃菓子パンにはまった。
菓子パンと言っても、メロンパンとかクリームパンの2つ。


子供の頃私はひらめいてしまった「菓子パンだけでも美味しいから、これにおかずがあればもっと美味しいはず!」と。


当然、食育上かつ家庭内経済的にも叶わぬ夢だった。
その夢を今こそ叶えよう!
私は近所のスーパーで足早にクリームメロンパンと牛ヒレ肉を買った。

牛ヒレ肉を焼いてそれをおかずに菓子パンを食べる。
牛ヒレ肉は少し厚い物を買った。
早速調理。
肉を焼いているとき私がどんな気持ちだったか皆さんは想像できるだろうか?

何しろ子供の頃からの夢を叶えるのだ。
胸が踊る。
お金がなくてロースハムを焼いてステーキと呼んでいたあの頃を思い出す。
それは、苦く遠い思い出。

現在目の前に焼かれている物との落差を感じつつステーキ完成。
本物のステーキだ。ロースハムを焼いたものではない!

そして、ついに実食。
美味しいおかずと菓子パンが目の前に並ぶ。
「いただきます!」
私は理性を忘れ菓子パンを食べた。

久々の甘いものだったこともあり半分ぐらいまで一気に食べた。
するとどうだろう、信じがたいがお腹が一杯になってしまった。「えぇ?そんなばかな。」と思わず呟いてしまった。

まだまだクリームメロンパンは半分以上ある。
更に牛ヒレ肉のステーキに至っては手をつけていない。

「はぁ~夢は夢か」

空腹は最大のソースという名言が満腹に染みる。3月の寒空を背景に食べたくもないステーキを食べたのだった。

私が、確かに愛した廃村。

2022-03-05 13:15:00 | 日記
私の故郷はもうない。
とはいっても、家そのものはある。
ただ村名が合併でなくなった。

そんな村を故郷に持つ私のお話。

(固い口調→説明
です.ます口調→心情)


名前ががなくとも。
「村名がなくても家があれば良いじゃない?」と言う人がいる。

まぁ間違ってはない。
村名がなくなっても土地そのものはある。
見た目の上では合併後と前で変わったことを探す方が難しい。

でも、よく考えてほしい。

村としての名前がなくなると言うことは「廃村一歩手前」という状態にあるということ。
そして残りの一歩は確実に踏み出すことになる。
もしかしたら、もう踏み出していて足が地面に付く寸前かもしれない。

どちらにせよ私の故郷は「死んではないが新陳代謝が行われない状態」なのだ。


それは確かに悲劇だ。
だが、喜劇でもある。




村が衰退した理由
簡単な話、時代に乗り遅れたのが主な理由。

農業以外の仕事は殆ど無く、お店の店員になるか長距離の配送をするか公務員になるかぐらいしか選択肢がない。

都会ではWebの仕事やテレビだなんだって言ってるときにこの様。

私が生まれた時点で、若者の流出を止められないどころか生産人口の流出を止められていない状態だった。

あくまで経済的な面だけで言えば衰退するのは当然。

それに対して対抗策もなく死んでいったのは、住民にとっては悲劇。
しかし、遠くからみれば死んだことも知らない地域だから「元から生きていたのかも知らない地域が死んだ」というのは、やはり何処か喜劇的。

ある意味では死んで当然だったのかもしれない。



ここからは個人の心情。

私は「衰退し無くなっていくあの村」を愛していました。





私が愛していた死に向かう村
私が物心付く頃には村は死にかけていました。
同級生は五人程度、夏休みのラジオ体操はおばあちゃんと二人きり、お盆の時ですら帰郷する人は疎らでやがて来なくなった。

村から石油や金が出土しない限り息を吹き返す可能性は殆どありませんでした。

そういった状況だからかもしれませんが、たくさんの愛情を注いでもらえました。


常に誰かが居てくれた。
何かあれば構ってもらえた。
泣けば優しく慰めてもらえた。
私の話を聞いてくれた。


私が受けた愛情は、どれもこれも特別なものではありません。
何処にでもある、ある意味普遍的なもの。

当時の私はそれにありがたみを感じず「あって当然のもの」
たくさんの愛情に対して、あんまりな感想を持っていました。
その程度に恵まれていました。


私がその普遍的なものの価値を知ったのは私と両親の引っ越しが終わってから。

核家族となった私は孤独を知りました。


家に誰もいない。
構ってくれる人も、泣けば慰めてくれる人も、話を聞いてくれる人も。


死にかけていた村でしか味わえない愛情をようやく知ったのです。





郷愁の念を知る
引っ越してからの私は、家にいるのに「家に帰りたい」と思う不思議な状態。

でも、村に帰ることが実現不可能だともわかっていました。

あの環境は、もう二度と戻らない環境であることは子供の私でも理解していて、だからこそより強く「帰りたい」と思うようになり事態は悪化の一途。

失った「私だけに向けられていた愛情」を知ったのと同時に「私が愛していた村が消えた」ことを知ったのです。
消えたのは私たちの方なのに。


結局、そのまま今の年齢になってしまいました。


現在、私が愛した故郷はもうありません。

地名を無くし、今や残された人々も少なくない。
見る影はあるものの、影ばかりで実体の無いあの村。
家屋ばかり残された、新陳代謝の止まった村。
帰ってもあのときはもう戻らない。


なのに、未だ帰郷の念を感じるのはおかしいことでしょうか?
それとも、帰郷の念とはそういうものなのでしょうか?






読んでくれてありがとうございます。
あなたにも幸せと帰る場所がありますように。

(あの村では手に入らない情報端末から、帰郷の念を込めて。)