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ばりん3g

マイクラ補足 兼 心理学のつぶやき

人間はリスクよりも、後悔するかしないかで選択している。

2021-08-31 | 旧記事群

1995年に発表された論文によると、人間は選択を迫られたとき、基本的に後悔が一番少なそうであろう選択肢を選ぶことがわかったそう。

その証拠に、実験参加者の半数は自分が選んだ選択肢に後悔しないように、選ばなかった選択肢の結末を知りたがらなかったという。「いまあるもの」と「あったかもしれないもの」の比較から生まれる幻滅(つまり、後悔)に陥りたくなかったから発生した行動だろう。

ちなみに、ほかの選択肢を選んでいたらどうなったかを聞いた人も少なからず存在した(つまり、後悔が生まれるかもしれない行動を進んで行った)が、これは喜びの予測や好奇心が勝った結果らしい。

 

ーーーリスクを避けるというよりかは、後悔を避けるために選択する。

自分が選んだ選択肢に後悔しないよう、選ばなかった選択肢に目を向けないのは勝手だが、

「経験から学ばない」のは何よりの痛手ではないのか?

 

 

参考文献

Marcel Zeelenberga,Jane Beattie et al. (1995) Consequences of Regret Aversion: Effects of Expected Feedback on Risky Decision Making.


自己効力感は成績を上げるが、自己効力感そのものが成績を上げているわけではない。

2021-08-30 | 旧記事群

2004年に発表された論文によると、自尊心と自己効力感は相関関係にあり、自己効力感は学業成績を向上させる1つの要素であることがわかったそう。

また自己効力感は過去の成績や成功体験から発生し、将来の学業成績に影響することもわかったそう。

 

自己効力感とは特定の物事を達成したりする能力に対する自己評価の度合いを指し、ちょうどやる気を出すために必要な『自律性』『関連性』『能力』という3つの欲求の総合的な満たし具合を示す言葉でもある。

「自分のちからと判断で物事を解決した」

どんなに小さなものであっても、そう言える経験は確実にやる気へとつながっていく。経験が積み重なるほどにその強度は増し、より大きい困難を乗り越えるための支えともなる。

 

が、自己肯定感そのものが成績を直接上げている、能力を上げているとはちょっと言い難い。

何故なら自己肯定感とは自己評価であり、歪んだ認知で形成されることもあれば、その場その場の環境で簡単に揺らいでしまうものでもあるからだ。

同じように形成される自尊心がそうであるように、自己肯定感はあくまでも自己評価、個人のやる気を発生・維持できるものに過ぎないのだ。

……だからこそ、自己効力感は成績に影響があるといえるのだが。

 

自己効力感がなければ、つまりやる気を出すための3つの欲求が満たされてなければ、人間は基本的に特定の物事へのやる気を失う。

その物事が自分のちからではどうにもできないと判断した場合、あるいは指示や命令で強制され自律性をも奪うような状況の場合、その物事への関与を回避する傾向が出始めるのだ。

物事への関与を回避していれば、物事に対する行動も、それに伴う能力向上も見込めない。成績も上がらないし、成功体験も得られない。

やる気を、自己効力感を無視すれば、その物事に関与する意義すら簡単に見失ってしまうのだ。

 

自己効力感や自尊心は学業成績や能力そのものをあげる要素ではないが、学業成績や能力を上げるための行動を維持する要素ではあるのだ。

だから自己効力感や自尊心は重要なのだ。

 

 

参考文献

 Lane, John; Lane, Andrew M et al. (2004) SELF-EFFICACY, SELF-ESTEEM AND THEIR IMPACT ON ACADEMIC PERFORMANCE.


子供に自発的に宿題をやらせるためには、どうすればいいのだろう?

2021-08-29 | 旧記事群

2011年に発表された論文によると、子供の心理的欲求に応えるような親の働きは、子供の宿題へのやる気を促進させたらしい。

また子供の欲求や行動を支えるような親の動きの度合いは、親の宿題に対する考えや行動の仕方によって決まるのだそう。

 

宿題というのは大半の人にとって、初めての外発的動機づけ、幼い対象が自身のやりたいこと以外に課されたやるべきことになっただろう。

宿題という外発的動機付けは往々にして親子のストレスになることが多い。

「やらなきゃいけない」という子と、「やらせなきゃいけない」という親のせめぎ合い。駄々をこねる子と、淡々と指示したり時に怒鳴りつけたりする親それぞれの苛立ち。

親の指示や怒号に従い渋々子供は宿題を進めるが、子供は渋々やらされているという、まるで成績でも下がったかのような不快感を抱える。これは望ましくない。

理想的なのは子供が自ら進んで宿題に取り組むことだが、果たしてそんなことが可能なのか?

 

一応は可能だ。

人間は基本的に『意思決定の度合い』『貢献度』『能力への自信』の3つの心理的欲求が充分に満たされたときにやる気が発生するという言説がある。

対象が自発的に、物事への貢献のために、能力を発揮できる環境がやる気の発生へとつながるのだと言う。

また言説中には、この心理的欲求が十分に満たされたとき、周囲からの指示が自身の意思決定により自分のやる気や目的と統合するという現象も発生するとのこと。

この言説の通りに動くとするならば、子供の内にある『意思決定の度合い』『貢献度』『能力への自信』という欲求を満たせば、子供は宿題を自分のやりたいこととしても扱うようになる、ということになる。

このようにして子供へのやる気を発生させたい場合、必要なのは親の理解と行動になる。

 

宿題の性質上、そして子供の性質上、この心理的欲求を満たすことができる相手は基本的にその親となる。

たかが宿題だと思わないでほしい。そこにあるのは大人でも嫌がる指示と課題だ。そこにあるのは大人でも満たせられるかが怪しい3つの心理的欲求だ。

「どのようにして子供をサポートすればいいのだろう」という、𠮟咤や怒号では決して解決しない複雑な問題に、是非とも頭を悩ませてほしい。

きちんと頭を悩ませているその姿勢が、子供にとって良いものとなるはずだから。

 

 

参考文献

Idit Katz,Avi Kaplan et al. (2011) The role of parents' motivation in students' autonomous motivation for doing homework.


ただ叱っても、ただ罰しても、人は何も学べない。

2021-08-27 | 旧記事群

2014年に発表された論文によると、アメリカにて行われた「Zero Tolerance」という教育スタンスが、教育現場の治安と規律の維持に役立ったことを示すデータは存在しないとのこと。

 

Zero Tolerance(ゼロ・トレランス)を日本語に訳すなら「一切許容しない」となるだろう。

これは昔々アメリカで掲げられた、学校内で犯罪を含む危険行為や規律違反を一度でも犯した生徒を停学・退学・逮捕するという教育スタンスを指す言葉だ。

授業妨害・いじめ・軽犯罪行為はもちろん、規則に反する色の靴下をはいてきても、バスに乗り遅れて遅刻しても、ハロウィンの仮装のために持ってきた斧であっても。

それが危険行為や規律違反であるならば、一切許容せず停学・退学・逮捕処分にした。非常に強権的な方法だ。

施行を推し進めた人は恐らく、些細なきっかけから起こる社会秩序の崩壊を過剰に恐れていたのだろう。強力な取り締まりがなければ秩序は簡単に崩壊する、と彼らは訴え、そしてその通りにことを動かしたのだ。

この一切の許容がない空間は、結果的に彼らが恐れたことを引き起こした。

そう、治安の維持に全く貢献しなかったのである。

 

何故、Zero Toleranceは治安の維持に全く貢献しなかったのか。

理由の1つに「なぜ生徒が危険行為や規律違反を犯したのか」への考察が一切なかったことが挙げられる。

生徒の行動・思惑・環境要因を一切無視し、ただ規律を犯したというだけで過剰なまでの罰を科す。規律を犯すまでの過程を一切無視し、ただ規律を犯したということに過剰なまでの罪を犯す。

規律を犯すまでの過程を一切無視していれば、なぜ生徒が危険行為や規律違反を犯したのかがわからず、同じ轍を何回も踏むことになる。

再犯防止のための策を練らず、ただ違反と行為に条件反射的に強権を振るった先にあるのは治安ではない。

それは一種の恐怖政治だ。

箸が転んでも停学だと言わんばかりの教室は圧そのものであり、生徒に多大な悪影響を及ぼすことになる。わかりやすく低下するものは、あの日訴えた彼らが一番守りたかったであろう、生徒の成績だ。

 

Zero Toleranceには効果がない。

むしろ生徒に悪影響を及ぼしかねない。

この結果をうけ、人間は「規律の維持とは、強権的な制裁といった単純な解決策では対処できない問題である」ことを学んだ。

そこから幾らか経ち、アメリカでは新たに問題を起こした生徒一人ひとりの状況を把握したうえでの対処と、それを起こさないための環境の是正に取り組もうという新しいスタンスが発案されたとのこと。

「なぜ生徒が危険行為や規律違反を犯したのか」に目を向け、そこから対処することに舵をきったのだという。

 

ーーーこれは他人事じゃねぇ。

特に、人の『気に食わないこと』に対し怒鳴りつけて終わりのそこのおまえ。

おまえが「なぜ人は『気に食わないこと』を起こすのか」について理解しない限り、おまえは人に対しずっと怒鳴り続けることになるぞ。

一切許容しないという姿勢は、楽に問題を解決したいという姿勢に変わりないからな。

 

 

参考文献

Russell J. Skiba (2014) The Failure of Zero Tolerance.


正論を挙げられることと、正論を成すことは同義じゃない。

2021-08-26 | 旧記事群

2014年に発表された論文によると、空想上での意思判断と実際の意志判断との相関関係は非常に弱く、空想上での行動や意思は現実のそれにあまり影響しないことが分かったそうだ。

つまりこれは頭の中でどれだけ正論が思いついても、その正論が現実でできるかどうかとは別であるということ。

ことわざなら「言うは易し」となる現象だ。

 

頭の中で延々と、延々と正論と理論ばかりを語る自分。

正論と理論ばかりを話すから、疲弊下の感情論ばかりでは一枚上手に立たれてしまう自分。

語られる正論と、現実を無理やり見比べられより疲弊が蓄積していく現実の自分。

頭に流れる正論を止めたく言い重ね、どんどん時間が過ぎていく現実。

……そんな「正論を語る自分と現状を語る自分のせめぎ合い」を経験した人は少なくないだろう。

頭の中に居座る自分は、ぐうの音も出ない正論と理論ばかりを構築していくから下手に手が出せない。まとまらないまま批判を出せば、その批判すらコテンパンにやられる始末。

そしてせめぎあいの中ではっきりと見えてくる理想と現実のギャップに、頭を抱え苦しみもがいてしまう。彼が表れてしまうだけに疲弊した心身は、そのギャップにより蝕まれていく。

普通にしんどいので止めたいのだが、正論と理論ばかり言ってくる彼にかつ術はあるのだろうか?

 

ある。

頭の中にいる自分に、事実を見させればいい。

「容易に想像できる正論が、素晴らしく完成度の高い理論が、想像できなかった要素により無下にされた」事実を見させればいい。

彼は基本的に自己認識が甘い。それは彼をかくまっている私たちもそうだ。

基本的に私たちは、自分たちでは気づけないような認知の歪みや、それを構築できるだけのバイアスがあったりする。ダニングクルーガー効果や平均以上効果などが例に挙がる。

自分には想像できない、認知できない要素はいくらもある。

それを踏まえずに語られる正論は、もはや暴論だ。

失敗しないことを前提とした原則や、ヒト・モノ・カネ・ジカンが足りない現場に「やれば、できる!」と𠮟りつける上司が掲げるような、どうしようもない暴論のことが多い。

 

彼の言い分は、それっぽく聞こえることがほとんどだ。

「ぐうの音も出ない正論や理論ばかり」を彼が言ってはばからないのであれば、こういい返してやれ。

「ではなぜ、私にはそれができていないんだ?」と。

「今までそう謳ってきて、その通りになったことはあるか?」と。

 

ーーー「理論上、人間はジェットコースターに乗ることができる」

怯える女の子をより泣かす勢いで訴える彼に、私はこうささやいた。

「キミが彼女を乗せたい理由と同じもので、彼女は乗りたくないんだぞ」

 

 

参考文献

Adam Feltz (2014) Experimental philosophy of actual and counterfactual free will intuitions.