ばりん3g

マイクラ補足 兼 心理学のつぶやき

心配性の人ほど、その心配を解消するだけ不快になる

2021-08-18 | 旧記事群

1996年に発表された論文によると、人々はネガティブな時にネガティブなものを期待するバイアスが発生するとのこと。

またポジティブな時はポジティブ・ネガティブなものの区別がつくが、これは認知機能に頼った判別だという。

 

この現象は感情バイアスと呼ばれるものの一種だ。

感情バイアスとは、目の前にある出来事や事象の区別に感情が干渉してしまう人間の特性のことを指す。

明らかに正しいことを言われているのに、「その言い方が気に食わない」と感情的な理由で正しいことを否定するような行動が例に挙がる。

人間は物事の判断や認知のしようを感情に左右されやすく、この現象は意識すればどーにかなるものでもない、難しいものだ。感情がどのようにして物事の判断に干渉するかは『評価的条件付け』で調べてみるといい。

 

感情バイアスを知った人間の一部は、己が持つ「感情は不要である」という理論をさらに固めることだろう。

その行動原理が感情をもとにしていることは、今回は黙っておくとしよう。

 

話を戻そう。

今回の論文を鵜呑みにするのであれば

「人間は自分の期待通りかどうかに優先的に興味を持ち」、「ネガティブな時にネガティブなものを好む」傾向があるということになる。

これはすなわち「心配性な人は心配という感情が長く続くような状態になっている」「時間経過とともに、うつ病の人がうつから抜け出せなくなる」ことも示している。

頭を抱えてしまうだけの、今すぐにでも投げ出したいぐらいの問題が解消されたときに、心に残る不快な感触。感触は苦悩しただけ膨れ上がり、それから逃れたいがためだけに怒りだすまである。

それこそが、ネガティブなことを望む感情バイアスである。

 

ーーー私はお人よしだから、彼の心配を解消してあげようと思った。

そしたら彼は、繰り返し「でも、でも」と次々と心配を作っていった。

まるで、心配性であることが望みかのように。

 

 

参考文献

GEOFFREY CHUNG, DON M. TUCKER et al. (1996) Emotional expectancy: Brain electrical activity associated with an emotional bias in interpreting life events.


IQが高いからといって、人付き合いが上手というわけでもない。

2021-08-17 | 旧記事群

2001年に発表された論文によると、いわゆる高機能自閉症の人間は自閉症の人よりもさらに強度の日常生活における支障が確認されたという。

また自閉症の日常生活における支障の度合いはIQと相関したが、高機能自閉症の日常生活における支障の度合いは言語系の障害の度合いと相関していたとも。

自閉症患者においては、IQと適応能力は相関しないともいえる。

 

高機能自閉症とは、言語発達と対人関係において障害を患う自閉症の中でも知能指数(IQ)の発達障害を伴わないグループのことを指す。

「成績は中の上より高くて勉強は結構できるけど、友達が作れずひとりぽつんと居座ることが多い人間」のイメージがわかりやすい。

彼らは「周りと同等の知能を持ちながらも、なぜか周囲になじめず孤立してしまう」という特有の問題を抱えていることがほとんどだ。

話は理解できるのに、話し手の言いたいことがあまり理解できない。彼らと同じような話題が理解できるのに、なぜか輪に溶け込めない。

そんな不協和音が体を蝕む感覚は、時に強烈な痛みを伴う。

 

心理学の分野では長いこと、知能指数が高ければ環境への適応もスムーズに行われると信じられていたし、それを示す証拠もたくさん求めだしてきた。

だから、知能指数が高いはずの高機能自閉症が日常生活に支障をきたしているという事実を発見したときは頭を悩ませた。

これに対し「高機能自閉症は言語系の障害を患っているから日常生活に支障をきたしている」という結論を一応は導き出せたが、それに伴い今まで心理学の分野で長く信じられていた事実を訂正しなければならなくなった。

※ただし、特定条件ではその限りではないと。

 

この発見は非常に喜ばしいことだ。

今まで「IQが高いから」「成績が良好だから」という理由で周囲と同等に扱われてきた高機能自閉症にも、支援の手が差し出されたからだ。差し出せるだけの理由ができたのだ。

成績が高いゆえに留まざるを得ず、なぜか周囲に馴染めない自分を自責する日々に終止符を打つ、ある程度の証拠が成ったのだ。

 

ーーーもはや高機能自閉症という言葉は適当ではありません。

彼らもまた周囲になじめず、ひとり孤独を感じる日々を送っています。

「周りと同じだけの成績を持っている」ことを理由に、その場にとどめることは非人道的と言えるでしょう。

 

 

参考文献

Miriam Liss, Brian Harel et al. (2001) Predictors and Correlates of Adaptive Functioning in Children with Developmental Disorders.


「そもそもさ、なぜ恋愛経験が積めないんだ?」

2021-08-14 | 旧記事群

2015年に発表された論文によると、夫婦円満である理由の1つである『関係に対する責任感』の発生にはそれぞれの性格特性が深くかかわってくるとのこと。

特に外向性と誠実性は正に強く、神経症的傾向と開放性は負に強くあるのだという。またこれらの性格は『関係に対する責任感』の変遷にもかかわっているとのこと。

 

要は義理堅くきちんと会話もできて、沸き上がった不安の赴くままに行動することがない人は恋愛関係や夫婦生活でも盤石であるという、当たり前のように聞こえるものだ。

で、実際にその当たり前はその通りだったということだ。

人間を大切にする人は、恋愛や夫婦での生活においてもきちんと成るという、ただそれだけ。

それだけのことを成すのに、いったいどれだけの時間が必要なのだろうか?

 

「若い頃に恋愛経験を積んでおかないと、人を愛することすら厳しくなる」なんていう主張を耳にした。

意図としては「恋愛経験は人を愛する能力を育むために必要である」ことを前提とした主張だとは思うが、真偽はわからない。

恋愛関係と人を愛する能力の関係を完全に調べ切ってはいないので、もしかしたら恋愛経験の欠けが引き起こす症状もあるかもしれないが。

個人的には「人を愛することができない人は恋愛関係も築けない」とするのが適解かなぁと。

 

ここからは人を愛する能力=『関係に対する責任感』として話を進める。

恋愛関係は対人関係の応用編だ。

どちらの関係でも『関係に対する責任感』は育まれるが、恋愛を継続させるためにはまずある程度の『関係に対する責任感』が必要となってくる。

身近な人との付き合いから、それを構築していく必要がある。

なければどうなる? 自分さえよければいいとつぶやける、自己中心的で配慮も知らぬ人間となる。彼らは1晩だけ異性を惑わせられたとしても、1か月だけ仲睦まじくできたとしても、続きはしない。

『関係に対する責任感』を必要としない恋愛は、それを恋愛と呼称しても良いものなのだろうか。

 

ここまで個人的な意見ばかりを並べてきたが、どうだろうか。

「○○できないとどうなるのか」という考察をしたいのであれば、「なぜ○○できないのか」という事実に目を向けるべきだ。大体は、そこに答えがある。

特に恋愛においては、なかなかに偏った事実が浮き上がってくるはずだ。

 

 

参考文献

Amin Hosseini  Kianoosh Zahrakar et al. (2015) The Relationship between Marital Commitment with Personality Traits.


「子供にSNSをやらせるな」という叫びは、あながち間違いではない

2021-08-12 | 旧記事群

2020年に発表された論文によると、幼少期に他者との比較のためにSNSを使うと自尊心が低下するらしい。

理由としては、SNSの普及により他者との比較がしやすくなったことで、SNSで見かけた人々に影響を受け判断基準や理想だけがランクアップし、現実と理想のギャップに苦しむようになるからだという。

幼少期と人口の層を絞ったのは、その人口層がより影響を受けやすいからである。

 

 

インターネットというものが広く普及してから、だいたい10年。

膨大な量の人間関係や人間に関する情報は、SNSという場所に一挙に集中することになった。

親族・知人・仲のいい親友や身近な知人から、遠い国の言語が違う人や考え方がぶっ飛んでる実力者・成功者、果ては治安の2文字を知らない群がりまで。

SNSは非常に扱いやすく、それが理由でSNSはあらゆる人口層に普及し、またあらゆる人口層の情報が集まることとなった。

もちろん、その集まったところから情報を抜き出し観察することだって簡単だ。それを説明してといわれれば、返し方に困るぐらいには簡単で馴染んだ行為なのだ。

その膨大な情報量と扱いやすさは、時に牙をむくことがある。

 

幼少期の人間は自我や自立心や自尊心が発育段階であり、『自分はどうあるべきか』という自問自答をまだ見つけられないぐらいには右往左往している。

故に、幼少期の人間は衝動にかられやすく、何を信じなにを疑えばいいのかもわからず行動し、結果的に『周りからの影響を受けやすい』という評価となる。

そこから幼少期の人間は自分の周囲の環境から学習し、成長し『周りからの影響を受けやすい』という評価を撤回していくのだが、この周囲の環境にはSNSという場所も当てはまってしまう。

 

SNSには膨大な量の人間関係や人間の情報が一挙に集中している。

自分に合う情報もあれば合わない情報も、考えもしないような情報もたくさん存在している。自分の身近にあるような人間からぶっ飛んだ考えを持つ実力者・成功者、果ては治安の2文字を知らない群がりまで、いとも簡単に知れてしまう。

私たちはそれらを『自分はどうあるべきか』という考えをもって扱っているが、もしそれらに『周りからの影響を受けやすい』幼少期の人間が接したらどうなると思う?

 

自分には合わない、考えられないような判断基準・理想を、『周りからの影響を受けやすい』がために自分に当てはめてしまうのだ。

そしてそれは自分には合わない、考えられないような判断基準・理想であるため、現実の自分との大きな差が生まれてしまう。

この理想と現実の差分が大きければ大きいほど、自尊心に結構なダメージを与えることになる。

どれぐらいか。

『周りからの影響を受けやすい』という評価が撤回できなくなるぐらいには。

 

別にこれは幼少期の人間だけの問題ではない。

諸事情により『周りからの影響を受けやすく』なった人間も同上の可能性がある。

非常に扱いやすいから忘れがちだが、SNSにあるのは私たちが古来から困難としてきた人間関係だ、人間の情報だ。

努々、油断なされぬよう。

 

 

参考文献

Silje Steinsbekk,Lars Wichstrøm et al. (2020) The impact of social media use on appearance self-esteem from childhood to adolescence – A 3-wave community study.


収入が増えても幸福にはならない。ならどうする?

2021-08-11 | 旧記事群

2010年に発表された論文によると、収入が増えても長期的な幸福度は変わらないことが確認された

 

収入が増えれば買いたいものがもっと買える。

収入が増えれば行きたいところにもっと行ける。

収入が増えれば、生きたいように生きれる。

「だから、収入が増えれば必然と幸福になれる。できることが増えれば、幸福になれる」と私たちは思い、日々勤しんでいる。一部は収入を増やすことに躍起になり迷走したり、お金だけ欲しさに宝くじに家賃用のそれをつぎ込んだり、なんとも。

 

確かに、収入の増加は短期的な幸福となる。

給料袋が厚くなったとき、通帳の数字が増えたとき、単身で海外に飛ばされなんだかよくわからないポストに就いたとき。

人間は収入が増えた現実に快感を覚える。それらの快感は私たちが想像する通りの景色だろう。

が、その快感は刹那も持たない。長期的な幸福にはならないのだ。

 

快感が続かない理由はいろいろ考えられる。

「収入によって得られる快感は、他者や過去の自分との相対的所得から発生するものがほとんど。環境が変われば快感は一概ではない」とか。

「金銭があること自体は快感にはならず、その使い道によって幸福かどうかが決まる」とか。

が、もっと単純に。

 

慣れてしまうんだ、その収入に。

宝くじに当たった人が浮かばれないのはそのためだ。

 

収入が増えたときに幸福になれるかどうかは、増えた収入で何を買いたいか、どこへ行きたいか、どう生きたいのかが纏まっているかどうかとも言えるのかもしれない。

 

 

参考文献

Richard A. Easterlin, Laura Angelescu McVey et al. (2010) The happiness–income paradox revisited.