おはようございます。
のんびり秋田からvisionです。
映画「浅田家」の原案になった「アルバムのチカラ」を読みました。
その中で藤本智士さんが佐野史郎さんの佐野家の古いアルバムを見ながらお母さんの若い頃の写真を見ながら「かわいいな〜 かわいいな〜」と言ったそうです。
そのとき、その写真を撮ったお父さんの気持ちが重なって感動したといいます。
「写真にはそれを撮った人がいる」
とても当たり前のように聞こえますが私は共感しました。
映画「浅田家」で少女が津波の後で「私やお母さんの写真は見つかったのにお父さんの写真だけみつからない。探して欲しい」というシーンがあります。
ネタバレになりますが、
これ写真撮る人のあるある話なんですよね。お父さんはいつもみんなのことを撮っているので自身は写っていないんです。
映画の中で浅田政志さんは「お父さんの写真見つかったよ」と言って、以前撮った海岸で撮ったときと同じ格好をしてもらい写真を撮ります。
そのとき写真を撮る浅田さんの姿がお父さんの姿に重なります。
私はこのシーンで嗚咽してしまいました。
写真を撮る自分の姿にも重なって、その気持ちがよくわかるのです。
写真には写真を撮る人の気持ちが詰まっています。
写真には撮る人の個性が現れます。
同じ場所に立って同じようにカメラを構えて写真を撮っても微妙な違いがあります。
それは撮る人の視点や思いに違いがあるからだと思います。
先輩と滝の写真を撮りに行ったとき、三脚にカメラを据えて自分では最高と思ったアングルを見ていただきました。
そしたら「これもいいけれど、こう変えてみたらどうだろう」と少しだけアングルを変えたら格段に良くなったのを覚えています。
写真仲間で撮影したプリント写真を見比べていると誰が撮った写真かわかります。
写真を見るということは、撮影者の視点になりその気持ちを読むということなんだと思います。
だからお父さんの姿は写真に無くてもお父さんの撮った写真を見ることでお父さんの優しい眼差しや気持ちに触れることができるのです。