たっつぁんのwahahaの日々

うたを歌っています。川下りをします。
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笠木透さんのこと 3

2015-02-16 | 日記
 その後、1983年頃、今度は笠木さんに新潟に来てもらった。加藤隆正さんは息子さんと一緒に車で新潟までやってきた。笠木透さんは大島博さんと一緒にやって来た。(加藤隆正さんはこの後フェリーに乗り、息子さんと二人きりの北海道の旅を楽しんだ。今でもこの時の事を昨日のように話してくれる。よほど印象深かったんだろう)

 会場は木揚場教会という会場で、新潟市の中心部にある古い教会だった。会場いっぱいの人で、それはそれは盛り上がった。そうだくんたちが旗を持って入って来て、コンサートが始まったように記憶している。新潟のメンバーは自分たちのうたを歌った。笠木さんたちも自分たちのうたを歌った。このコンサートのことは加藤さんや大島さんに聞くと、もっと立体的に見えると思う。

 そして、巻原発住民投票一周年のコンサート(1997年)へ。

 雑花塾が始まり、増田さんがいつも笠木さんと一緒に活動を始める。1997年にやってきた時、増田さんが笠木さんと一緒に話を聞きに行って、筆ぺんでインタビューを記録していたのが妙に残っている。なんでかな?筆ペンで書くのが不思議だったのかな?
 増田さんが残している笠木語録や取材記録をまとめることが増田さんのこれからの仕事かもしれない。

 この後、新潟の関係は関川村でのコンサートに続く。このコンサートの事は「ひとつだけの村 ふるさとの明日を語る関川村ライブ」(本の泉社)に詳しい。
 ここでも何回も関川村を訪れ、地元の人たちと交流しあいながらライブを準備してきた。本番でのコンサートは重要文化財の渡辺邸いっぱいの人たち、関川村の平田村長のユーモアたっぷりな話。シンポジューム。笠木透と雑花塾の演奏。それぞれがそれぞれ、あたたかい空気の流れるライブだった。

 改めて思う事は、笠木さんは現場を歩いてきた。現場から感じることが創作のエネルギーになっていた。そして、その地域に暮らす人たちとのつながりを大事に大事に作ってきた。
 ぼくの家に泊まったとき、ぼくの歌詞カードの入ったノートを読んでいたが、ぼくの歌については何も言ってくれなかった。話したくなる歌ではなかったのだろうか?
 笠木さんと歌づくりについて、もっと話せたら良かった。

 合掌

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