楽しく遍路

四国遍路のアルバム

37番岩本寺から 片坂 熊井隧道 土佐佐賀 浮鞭 入野

2024-02-14 | 四国遍路

 
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   このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
   そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
   その点、ご注意ください。

  平成21年(2009)12月18日 第2日目のつづき


雪が降り始めました、着ているポンチョがゴワゴワに固まっています。
予報では雪はやがて止み、風が強くなるとのことです。


国道56号
岩本寺から国道56号を5キロほど歩くと、「峰の上」(標高260㍍)です。ここから古い遍路道、・・片坂遍路道→市野瀬遍路道・・に入ります。
今日では、大きくヘアピンカーブする国道56号の、ショートカット道と勘違いされかねない道ですが、もちろん昔は、こちらの方が幹線で、岩本寺から足摺・金剛福寺に向かう遍路たちも、この道を歩いたのでした。『四国遍礼名所図会』には、・・(この道に)高岡郡・幡多郡の境標木(しるしぎ)有り・・と、標木の存在が記されています。幹線であればこそ、標木があったのです。


ヘアピン
写真は、平成15年(2003)、北さんと私が(旧遍路道ではなく)国道のヘアピン道を歩いたとき撮ったものです。雨が激しく、山道は危険だと考え、そうしたのですが、その長さにはうんざりさせられたものでした。苦い思い出です。後に、相前後して歩いていた女性から、・・山道を歩きましたけど、別になんてこともありませんでしたよ、・・と聞かされ、徒労感がいや増したのを覚えています。(岩本寺の手前では道に迷ったので)この日二度目の遠回りでした。(実は私達はこの後、この日3度目の遠回りをすることになりますが、そのことは、神ならぬ身の、知るよしもありません)。→(H15秋2)
なお、国道を歩けば4キロのところを、山道なら、1.7㌔に短縮することができます。


ヨンデン資材置き場
山道への登り口は、ヨンデン資材置き場の奧です。
出会った人が、・・ヒヤイねえ・・と声をかけてくれました。寒い中の温かい言葉です。予報通りに雪は止みましたが風が強くなっており、ずいぶん体温を奪われていたのです。


焼却場
ヨンデンとは、四国電力のこと。土地の人は四国電力を、そう呼んでいます。


山道
山道に入ると、木が風を遮ってくれるので、助かります。
上りは、けっこう厳しい径ですが、さほど長くはつづきませんでした。最高点(四万十町と黒潮町の境の地点)の標高はH280㍍なので、峰の上の260㍍から、20㍍高度を上げるだけです。


片坂遍路道
片坂遍路道は、基本、窪川台地からの下り道です。そのことを『四国遍礼名所図会』(元禄10年/1697刊)は、次の様に書いています。
・・上り壱丁斗りにして下り十丁余、是ハ昨日とふりし添身見ず坂半里上りしに下り五丁斗りゆへ爰ニてもどし・・。
片坂は、上りが一丁なのに下りは十丁と長い。これは、昨日歩いた添え蚯蚓坂の、上りが半里と長かったのに下りが五丁と短かったこととの相殺なのだ、というのです。


片坂遍路道
また、澄禅さんは『四国遍礼日記』(承応2年/1653)に、
・・窪川ヲ立テ片坂ト云山ヲ越テ行。是ハ東ヨリ西エイツ上ルトモ不覚シテ峠ニ至ル。下ル事ハツルベクダシ也。中々急坂也。・・と記しています。
上ったとの覚えがないうちに峠に着いて、そこから釣瓶落としのような、下りがはじまったとのことです。「片坂」という呼び名は、(上りが少なく)ほとんどが下り坂であることから、来ているのかもしれません。


片坂第二トンネル
片坂第二トンネルが下に見えました。道は国道56号です。6年前、北さんと私が歩いた道です。
見えているのは第二トンネルですが、この前後に、第一トンネル、第三トンネルがあります。いずれも、昭和46年(1971)竣工のトンネルです。
なお、今は町境の「標木」がなく、気づかなかったのですが、私はいつの間にか、四万十町から黒潮町へ、町境を越えていたようです。トンネルが見えるこの地点は、すでに黒潮町です。


市野瀬道へ
一度国道56号まで降りて、ふたたび市野瀬道に入ります。


市野瀬道
「釣瓶落とし」の片鱗がうかがわれます。しかし現代の「釣瓶落とし」は、手すり付きです。おかげさまで、安全に通過することができます。


下り
降りてゆきます。


国道へ
下に市野瀬が見えてきました。市野瀬の標高はH100㍍なので、前述の最高点280㍍から、約180㍍降りてきたことになります。
休憩所があるはずなので、一休みさせていただくつもりです。その後は、国道56号を写真奧の方向に、高度を徐々に下げながら、歩きます。
次の目標地は、市野瀬から9.1キロ先の、伊尾木です。


遍路墓
行き倒れたお遍路さんの墓でしょう。国道沿いに俗名 長吉さんの墓がありました。
かつては旧遍路道の脇に建っていたものを、国道工事の時、移動させ祀り直したものと思われます。
おそらく国道のこの部分には、下に古い遍路道が埋まっているのでしょう。


強風
ババババッ! ババババッ!
強風です。旗が音を立ててふるえています。


休憩
風は強いし地面は濡れているしで、休憩する場所がなかなか見つかりません。
幸い小屋型のバス停があったので、休ませてもらいました。ときどきドドーンと、小屋が風で鳴ります。


荷稲(かいな)駅入口
ここで、土佐くろしお鉄道と合流しました。
これで一安心です。いよいよとなったら、電車に乗るという手があります。ただし運転休止の恐れが、なきにしもあらずですが。


スクールバス乗り場
スクールバスが必要になったのは、小中学校の統廃合が進んだからです。
ある調査によると、平成9年(1997)から平成29年(2017)の20年間で、統廃合された全国の公立小学校は5823校、公立中学校は1739校だそうです。これ以前のデータが見つからなかったのですが、本ブログで取りあげた廃校は、前号に記した仁井田中学の昭和45年(1970)のように、いずれも昭和期でしたから、統廃合はもっと早くから始まっていたのです。
高度成長期に都会が繁栄した、その分だけ田舎は衰退し、多くの小中学校が統廃合の憂き目に遭ったのです。


下宇和中学跡の碑
(H28春4)に記した下宇和中学は、昭和40(1965)の廃校でした。
昭和22年(1947)、・・村人すべて精魂を こめてぞ築き育てたる(同中学校歌)・・学校が、わずか18年で、その歴史を閉じたのでした。
なお令和6年(2024)の現在、黒潮町佐賀地区の公立小学校は、拳ノ川小学校、佐賀小学校の2校、中学校は、佐賀中学の一校のみです。「協会地図」には伊与喜小学校が記されていますが、同小は、令和4年度末で休校となっています。事実上の廃校でしょう。明治6年開校の小学校でしたが、残念なことです。


身代地蔵
代われるものなら代わってやりたいと、心底、思うことがあります。そんな叶わぬ願いを、大慈悲の心もて、代行してくださるのが身代わり地蔵さんです。
代受苦(だいじゅく)・・仏や菩薩が、慈悲の心から、衆生の苦しみを代わりに受けることをいう、・・の德相を顕す地蔵菩薩。それが身代わり地蔵です。苦しむ人に代って、その仕事や苦難を引き受けてくださいます。病む人に代わって汗を流して働き、苦痛を訴える人に代わって、痛みに耐えてくださいます。



開けた場所に出て、風が一層強まりました。
奧の交通情報板には、・・夜間 早朝 凍結の恐れ スリップ注意・・とあります。
予報では、今夜からまた雪とのことです。


U字溝  
たいていU字溝の上は水平になっていて歩きやすいのですが、ここでは斜めに施工されています。初めて見ました。


黒潮町
黒潮町不破原(ふばはら)とあります。伊与喜まで、あと1キロもありません。


城跡  
おや?と思い撮ってみました。
町名は伊与喜、駅名も伊与喜駅、学校も伊与喜小学校なので、「いよき」は「伊与喜」と思っていたのですが、ここには伊与「木」城跡、とあります。
変だなと思い地図を調べると、伊尾「木」川もありました。(その支流に伊与「喜」川があるのは面倒ですが)。


伊与喜の表示
どうやら、古くは伊与木が使われていたのだが、比較的最近、伊与木は伊与喜に改められたと思われます。しかし長く親しまれた川の名や城の名は、そのままに「伊与木」を残しているのでしょう。
そう考えれば、伊与「木」川に架かる橋が伊与「喜」橋であるのも、理解できます。この橋は、昭和45年頃に架けられたようです。
なお、より拘れば、伊「与」木も、かつては、伊「與」木だったでしょう。


案内
・・遍路道 左折・・とあります。ここから山道に入ります。熊井隧道がある道です。国道のルートが逸れたおかげ?で、取り残されるようにして残ってくれました。
思い出しても悔しいのは、6年前、北さんと私はこの案内を見落として、その日3度目となる、遠回りをしてしまったことです。見落としたのは、もう暗くなっていた(16:50)からですが、今にして思えば、見落としに気づいて引き返すチャンスは、何回もあったのです。


熊井坂
熊井隧道がある道です。この道は、明治38年(1905)に開通し、昭和14年(1939)まで、県道として使われていたといいます。


熊井隧道
レンガは佐賀港から、小学生なども加わって、一個1銭で運んだそうです。小学生の稼ぎが自分のものとはならず、生活費として消えたことは、想像に難くありません。


熊井隧道
レンガは、イギリス積という積み方で積まれています。
扁額は右書きで、「人代天工」のようです。・・人、 天に代わりて工む(たくむ)・・とでも読めましょうか。「和魂」が「洋才」を取り込んだ姿、と言えましょうか。


出口
坑口はレンガ積みですが、内部壁は石積みのようです。
側の説明板に、・・トンネルというものは入口は大きいが、出口は小さいものじゃのう・・と言った人がいた、とありました。この人がもし北斎の「尾州不二見原」を見たら、・・富士山が入るとは、大きな樽じゃのう・・と言ったかもしれませんね。


線路
土佐くろしお鉄道の線路です。このすこし先に、土佐佐賀駅があります。


電車
うまい具合に電車がやって来ました。
入るトンネルは、熊井トンネルです。



海抜280㍍から、ゼロ㍍まで降りてきました。伊尾木川の河口部から鹿島が浦を眺めます。中央の小山は鹿島です。


前回の宿
民宿さかうえさんです。6年前、たいへんお世話になった宿です。
残念ながら今は閉店されています。


鹿島が浦
左手に海を見ながら歩きます。ここから今日の宿・民宿白浜さんまで、3キロ弱です。


海岸線
海の景色を堪能しながら、緩やかに上ります。鹿島が浦が、その全貌を見せてきました。
時刻は16:00。ゆっくり歩いても大丈夫です。



宿の前には国道56号、後ろには土佐くろしお鉄道が走っています。しかし騒音などは、まったくにになりません。
明日の朝は、この窓から朝日が見られることでしょう。楽しみです。

  平成21年(2009)12月19日 第三日目 

雪の朝
朝、起きると雪でした。すぐテレビで予報を見ると、・・雪は早い時期に止むが、気温は上がらない、・・とのことでした。予定では、24キロほどを歩いて中村を見学。中村に泊まることになっていますが、はたしてどうでしょうか。
この天候では、中村見学の時間が、とれなくなってしまうかも知れません。様子を見て、どこぞから電車利用を考えた方がいいかもしれません。


光芒
太陽光がきれいです。
薄明光線、レンブラント光線、ヤコブの梯子、天使の梯子など、いろいろに呼ばれますが、ここでは「光芒」としておきます。 


太陽
6:30 一階の食堂で朝食ですが、なかなか落ち着きません。というのも、この宿は東向きで、しかも海に面していますから、太陽が雲間から出る度に光が射し込み、その時は室内が光にあふれ、まぶしいばかりになるのです。
そうなると私は我慢できず、食事中にもかかわらず外に出て、景色を楽しんでしまいます。この写真は、食事中、船がいい位置に来るまで待って撮った一枚です。女将さん、すみませんでした。


歩きはじめ
7:00 歩き始めました。誰の足跡もない道を行きます。


日付
日付を入れておきました。
この手の落書きなら自然消滅するので許される、と思って書いたのですが、帰宅して写真を見て驚きました。その日付が間違っているではありませんか。
・・’09.10.19・・と記しています。正しくは、10ではなく、12です。後から来た人はこれを見て、どう思ったことでしょう。まさに旅の恥を「書き」捨ててしまいました。


気嵐 
上手く撮れなかったのが残念ですが、気嵐(けあらし)が海から立ち上り、海を這っているのです。
気嵐とは、・・夜間に陸地で冷やされた空気が、(相対的に)暖かな海面に流れ込み、水蒸気を冷やすことで霧を生み出す現象・・だそうです。初めて見る景色でした。


花に雪
右はマンリョウでしょうか。左は山茶花のようです。雪を被って、柄にもなく風情を感じています。


峠越え
井の岬の峠越えです。岬廻りの様子については、→(H22秋1)をご覧ください。


凍結
木の下を通ると、(陽で氷結が緩んだのでしょう)樹上から氷が落ちてきました。


井の岬トンネル
竣工は昭和44年(1969)。長さ315㍍です。
トンネルを抜けない、昔の遍路道ははっきりしませんが、→(H27秋3)で、すこしふれてみました。


伊田トンネル
竣工は昭和43年(1968)。長さ172㍍です。
今回初めてのお遍路さんに出会いました。逆打ちの人で、車道の反対側を歩いており、互いに黙礼してすれ違いました。


伊田観音寺
伊田トンネルを過ぎると、お寺が在りました。伊田観音寺。真言宗のお寺です。
調べてみると、黒潮町の広報誌「アーカイブ伊田 NO4」に、次のような記事が載っていました。
・・観音寺には、元の松山寺にあった本尊・地蔵菩薩と薬師如来が安置されており、松山寺の後身の寺院となった。以前は毎月地域の有志20人ほどが集まり、御詠歌を詠ったり、無縁仏のお地蔵さんの前掛けを丁寧に洗ったりしていた。(後略)


松山寺跡
・・黒潮消防署の横を海側に向かうと、その左側に松山寺跡の石碑がある。松山寺は、明治初年ごろ、廃仏毀釈の政策により廃寺となった。その後大正の時代に、四国37番札所である岩本寺の弟子僧が何度か再興に努めてくれたりもしたが、かなわなかった。→(h22秋1)



寒さで、境内の手水の水が凍っていました。


伊田小学校
観音寺の向かい側に、伊田小学校があります。明治6年(1873)開校の学校です。
私がここを通過した平成21年(2009)の児童数は、22名でした。校舎規模から考えて、最も多い時期には、2-300名は在籍していたと思われます。
なお同校は、平成26年(2014)、休校となって140年の歴史に幕を閉じています。その時の在籍数は、9名でした。


朝鮮国女の墓
有田焼、 唐津焼、高取焼、萩焼・・これらを伝えたのが、(秀吉の「朝鮮征伐」で)朝鮮国から連れて来られた陶工たちであることは、よく知られています。
看板にある「朝鮮国女」も、陶工たちと同様に、朝鮮国から連れ来られた人で、幡多地方に、新しい機織り技術を伝えたと言われています。


朝鮮国女の墓
朝鮮国女は、大方町上川口から出兵した小谷与十小郎が連行、連れ帰ったとされています。没後、小谷家が代々、供養してきたとのことです。
墓の場所は、元々の所からは移されているそうですが、今も小谷家の墓地内にあります。


朝鮮国女墓
遍路道に戻ろうと歩いていたら、おばあさんがやって来ました。話がある風なので立ち止まると、・・どこへ行くん?・・とおっしゃいます。道に迷ったのではないかと思い、追いかけて来てくださったのでした。
朝鮮国女のお墓にお参りしてきたと話すと、・・ありがとうございました。私、小谷です。・・とおっしゃいます。


線路下のベンチ
下川口駅下の陽の当たる「ベンチ」で、当地へ嫁入りして来た頃の話などなど、しばらくお話をきかせてもらいました。ただ小谷家が供養するに至る経緯は、残念ながら、あまり伝わっていないとのことでした。前述の小谷与十小郎云々についても、よくはわからないといいます。
なお、私はこの翌年、おばあさんのお孫さんと、偶然出会うことになります。そして、おばあさん思いのお孫さんは、私とおばあさんの再会を、取り持ってくださったのです。それについては、→(H22秋1)をご覧ください。供養に至る経緯についても、書き加えています。


新しい看板
写真は、天恢さんがグーグルのストリートビューで発見したという(コメント参照)、「朝鮮国女の墓」の新しい案内立て看板です。たしかに「むくげの花の少女」の文字とハングル文字が加わっています。
『むくげの花の少女: 朝鮮国女の墓』は、黒潮町の植野雅枝さんが平成9年(1997)に出した絵本で、英語版、韓国語版も発刊されているそうです。日本では平成23年(2011)、学校推薦図書に指定されたとのこと。寡聞にも私は、それを知りませんでした。天恢さん、ありがとうございました。
また『咲くや むくげの花―朝鮮少女の想い継いで』は、元毎日新聞記者の大澤重人さんの著作で、日本と朝鮮、日本人と朝鮮人の関わり合いの歴史を、自らの差別意識を踏まえながらたどった労作です。私はまだ読んでいません。なお「むくげ」は、韓国の国花です。


足摺岬
足摺岬が見えてきました。写真の左の部分です。
先端の金剛福寺まで、まだ50Kほどありますが、室戸岬を歩きはじめた頃は、もう永遠に見えないのではないかと思っていたのです。それを思えば、♫思えば遠くへ 来たもんだ・・と、ルンルンです。


海の王迎駅
「海の王迎」(うみのおうむかえ)の「王」とは、後醍醐天皇の皇子である尊良親王(たかよし親王・たかなが親王)を言います。元弘の変で(流刑の中でももっとも重い)遠流に処され、この地に流されてきたのです。この地から言えば「迎えた」ことになるので、「王迎」なのでしょう。「海の」は、船で来たことを意味するのでしょうか。
なお親王は、建武新政府の成立によって帰京。東国管領として、新田義貞とともに足利尊氏と戦います。が、闘い利あらず。やがて自刃に追い込まれます。


憲法九条
憲法九条は、戦後78年間、私達をからくも戦争から遠ざけてくれました。
しかし、今や満身創痍です。
これからも私たちの国が戦争をしない国であるために、憲法九条は守りたい。私はそう思います。
戦争に正義の戦争はありません。戦争は正義たり得ないのです。いかに理屈をあげつらおうと、戦争は悪です。


浮津海岸
浮津海岸です。遠浅の海岸で、夏には、海水浴場として賑わうと言います。
「浮津」の名は、かつて存在した浮津村・・吹上川(ふきあげ川)左岸の、東西に延びる海岸段丘上にあった漁村(日本歴史地名大系)・・の村名を継承した地名です。今は、浮津村の西隣にあった鞭村と併せて、「浮鞭」(うきぶち)という大字になっています。
なお「浮津」は、広辞苑によると・・「浮」は天上にあるの意で、天の川にあるという船つき場・・を意味すると言います。
   天の川 浮津の波音 騒くなり 我が待つ君し 舟出すらしも  山上憶良


タカクラ・テルの碑
へんろ小屋22号大方の側に、作家にして政治家、タカクラ・テルさんの碑がありました。生家が、この奧にあります。
「タカクラ・テル」は、自称です。本名は高倉輝豊、のち改名して高倉 輝。国語国字改革を推進する立場からの、自称と思われます。


厄神社
鳥居の先、少し上がったところに祠があります。
この神社は、中村街道沿いに建てられている、と考えるべきなのでしょうか、それとも海沿いに建てられたとするべきなのでしょうか。どのような厄祓いを願って建てられたものか、どなたかに尋ねてみたかったのですが、かないませんでした。
なお、所在地は前述の「浮鞭」ですが、あえて言えば、浮鞭の中の浮津寄りといえましょうか。


井の岬
ふり返ると井ノ岬が見えました。
この岬は、足摺岬に入ってからも長くみえつづけて、歩いた距離を自覚させてくれました。


月見ケ浜橋
吹上川に架かる橋は、月見ケ浜橋です。この辺の浜を月見ケ浜と呼ぶことから、付いた名のようです。
なお、この橋は帰途、電車の車窓からも見ることが出来ました。数秒で過ぎてしまいましたが。


吹上川の河口
橋の上から撮った写真です。


入野松原
若い松が多いのは、 おそらく松食い虫で一度、滅んだからでしょう。
昭和30年代の燃料革命がもたらした里山の荒廃は、松食い虫被害の爆発的拡大を、許してしまいました。それまでも被害がないではなかったのですが、喰われた松はすぐ伐採され、燃料として燃やされていたのです。だから被害はほとんど拡大しませんでした。便利は不便の始まりとは言いますが、まことにその通りではありました。


入野松原
前回ここを歩いたときは、大雨でした。
その雨で納経帳を濡らしてしまったという、苦い思い出が蘇りました。


海岸
手前に、板を渡しただけのベンチがあって、それに腰掛けて休みました。地面はまだ濡れているのですが、板は、もう乾いているのです。
沖でサーファーが二人、波に乗ろうと苦労していました。声が聞こえないので、パントマイムを見ているかのようでした。しばらく見ていました。


加茂八幡宮
土佐の歴史や地理、故実を記録した『南路志』に、要旨、次の様な記事があるそうです。
・・宝永4年(1707)、大地震で津波が押し寄せた。しかし加茂八幡宮の社殿は、流されはしたものの波の上に浮き、津波が引いたときには、元の場所に戻って建っていた、というのです。
主祭神・別雷命をはじめとする、加茂八幡宮が祀る神々の、神威を誇る譚です。


安政津波の碑
その譚に因んででしょうか、境内には安政津波の碑が残されています。上の写真では、社殿の向かって右に見えています。
碑文は、風化が進み、ほとんど読みとれなくなっていますが、側の説明板で、その全文を知ることができます。


安政津波の碑拡大
碑文は、前述の神威譚とは異なり、惨憺たる被害の記録です。その一部を記すと、次の様です。
・・忽大震動 瓦屋茅屋共崩家と成 満眼に全家なし 気埃濛々として 暗西東人倶に 後先を争ふて山頂に登 山上より両川を窺見るに 西蛎瀬川東吹上川漲り 潮正溢る 是即海嘯也 最初潮頭緩々として進 第二第三相追至 第四潮勢最猛大にして 実に胆を冷す 家の漂流する事 数を覚ず 通計に海嘯七度進退す・・


大方あかつき館
幡多郡出身の作家、上林暁(かんばやし あかつき)さんを記念する文学館です。
6年前に訪れたときは、砂浜美術館の「潮風のキルト展」が、雨のため会場を「あかつき館」に移して、開催されていました。入れてもらって、ずいぶん楽しませてもらったものでした。


あかつき館での結婚式
ですが今回は、生憎といっては申し訳ないのですが、結婚式が行われており、私は入館できませんでした。
なお、私は平成27年(2015)秋にも、あかつき館を訪れますが、この時も入館できておりません。
・・明日、マタヨシさんの講演があるので、その準備中なんです。すみませんが、入館をお断りしています。・・とのことでした。


入野松原の道
マタヨシさんとは、芥川賞受賞の又吉直樹さんです。(高知新聞によると)又吉さんが上林暁ファンだと知った学芸員さんが、2年間、交渉をつづけ、ようやく交渉成立にこぎつけたのだそうです。ところがその直後(7月)に受賞が決まり、あかつき館は、受賞ホヤホヤの又吉直樹講演会を催行できるという、幸運に恵まれました。であってみれば、準備に力も入ろうというもので、入館お断りも仕方のないことだったというわけです。
なお「大方あかつき館」の「大方」(おおがた)は、昭和18年(1943)、入野村など三か村が合併して発足した、「大方村」(おおがた村)に由来しています。本来は、この辺の遠浅海岸に発生した広大な潟、すなわち「大潟」(おおがた)と記したのではないでしょうか。


徳右衛門道標  
  (大師像)こ連より 足摺山江 十一里
足摺山には、「あしずり」と、ふりがながふられています。


願人
右面には、
 願人 豫州 朝倉上村 徳右衛門
とあります。
ただしこの道標は、再建されたもののようです。撮影時は気づきませんでしたが、どうやら下に置かれたいくつかの石が、折損した元の道標と思われます。この写真右下の石は、徳右衛門道標の特徴である、かまぼこ形の頭頂部を見せています。


防風林としての入野松原
入野松原が、防風林となって住宅地を守っています。
ブログ『松原盛衰』によると、・・入野松原は元来大潟の海中に出来た砂洲の上に,自然生の松が萌えそれが成長して松原になったものである。・・とのことです。遠浅の海に砂州が生まれ、砂州の内側の潟が埋め立てられると、砂州は砂丘となった。その砂丘に松が自生し、松原となった、・・ということでしょうか。


防風林としての入野松原
入野松原の始まりについては、異説もあります。
・・この松原は、長宗我部元親の家臣谷忠兵衛が罪人に防風林として植林させたのが起こりである、・・というものです。
しかし、『土佐物語』なる書物には、・・一条兼定との「渡川の戦い」(天正3年/1575)に勝利した元親は、その凱旋の帰途、入野の浜で休息。入野松原の景観を、「無双の景地」と称讃した、・・との記述があるそうです。
とすると、谷忠兵衛が植林したとの説は、怪しくなってしまいます。今では、谷忠兵衛は「植林」したのではなく、「補植」したのだろう、との説が有力のようです。


入野駅
さて、時刻は12:30です。
これから歩くと中村に着くのは15:30から16:00頃となり、宿には早く入れるものの、中村見学の時間はほとんど取れません。
そこで入野駅から、拾い歩きの気楽さで、電車を使うことにしました。電車なら13:30頃には中村に着き、ある程度の見学をすることができます。

というわけで、今日の午後から明日の午前にかけて、私は中村見学をするのですが、これを今号に含めると、字数制限に引っかかってしまいます。
中途半端ですが、中村見学は次号のお楽しみとさせていただきます。更新予定は3月13日です。
早くも1月は往んでしまい、2月は逃げようとしています。本当に早いですね。3月が去らぬうちに四国へと願っていますが、どうなりますでしょうか。

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コメント (2)
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土佐久礼 大坂遍路道 元37番高岡神社 37番岩本寺

2024-01-17 | 四国遍路

 
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 このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
 そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
 その点、ご注意ください。
 
  平成21年(2009)12月17日  第一日目

出発
光を通さない積雲が、その影を海に落とすなか、
搭乗機は、伊豆大島(写真中央)を左下に見ながら、西に方向を転じました。
冬遍路への出発です。
行く先は、南国とされる高知。しかし予報は、強い寒気団の襲来を告げています。厳しい遍路となるかもしれません


アンパンマン列車
  ボク、アンパンマン!
子ども達に大人気のアンパンマンは、高知生まれ「やなせ たかし」さんの作品です。
土佐久礼まで、アンパンマン列車に乗って行きます。


土佐久礼駅
現在の気温は5℃とのことです。これから山間部に入るので、もっと下がると思われます。少し高い山は、すでにうっすらと雪化粧しています。
行動食に大正市場で「ちらし寿司」を、とも思いましたが、高知駅で買ったパンで我慢することにしました。寿司は、たぶん寒さで強ばってしまい、食べにくいと思いました。


津波
高知県沖の南海トラフで想定されている巨大地震は、かならず大津波をともないます。寸刻を争って避難しなければなりませんが、地震に痛めつけられた人たちに、避難先はどんなにか遠いことでしょう。「その日」の来ないことを祈りたい気持ちですが、専門家は、・・30年以内に発生する確率は80-90%・・と予測しています。つまり、ほぼ確実に「その日」は来る、ということです。

追記:本号更新前の令和6年1月1日、「能登半島地震」が発生しました。M7.6の巨大地震です。地震、津波、そして火災も発生しました。備えては、いたのでしょう。しかし被害は甚大です。余震、雨、雪、寒さの中、断水、停電がつづき、土砂崩れや地面の陥没などが、救助を阻んでいます。痛めつけられた人たちが、その後も、二重三重に痛めつけられています。


大坂越えへ
今回の行程です。土佐久礼から中村まで歩き、引き返してきます。
往路:土佐久礼→大坂峠遍路道→元37番高岡神社37番岩本寺
   →片坂、市野瀬遍路道→土佐佐賀→入野松原→中村・石見寺
復路:中村→(電車)→窪川→添え蚯蚓遍路道→焼坂峠→安和→佛坂
   →宇佐→龍坂→36番青龍寺→塚地峠→清滝寺→帰宅


土讃線
当初は、清滝寺から宿毛までの、順歩きを考えていました。それが中村まで行って戻ってくることに変わったのは、土佐久礼からの道をどうするか、迷いはじめたのがきっかけでした。まだ歩いていない大坂遍路道も歩いてみたいし、高知自動車道の工事で添え蚯蚓や焼坂遍路道がどう変わっているのかも見てみたいのです。
写真の川は、大坂遍路道の大坂谷川河口近く。奧の鉄橋は土讃線です。


休憩所
いろいろと迷った末にたどり着いたのが、なんということはない、引き返してきて両方を歩くという、上掲の往復案だったというわけです。
しかしこの案、瓢箪から駒でした。仕上げてみると、けっこうワクワクする案となりました。訪れる寺社、歩く道、共に魅力いっぱいです。なかでも大坂越え、中村見物、龍坂は初めてなので、とても楽しみです。


桜並木
大坂谷川に沿った道をすすみます。春には堤防の桜がきれいに咲くのでしょう。
道は、峠越えの道とは思えないほど平坦です。しかしこの道は、仮初めにも「大坂」を名乗る道。このままではすまないのです。


七子峠へ
七子峠(ななこ峠)は、大坂遍路道にある峠です。
地図によると、この道は平坦のまま山に突き当たり、そこから七子峠(H287㍍)への急登が始まります。
現在地の標高は、およそ18㍍ほどですから、標高差約270㍍を一挙にのぼることになります。


黒竹
この辺は黒竹(くろちく)の自生地なのだそうです。
しなやかで曲がりが良いため、かつては釣り竿に多く使われていましたが、グラスファイバー更にはカーボン繊維が登場するに至っては、もはや勝負にはなりません。しかし今でも、内装装飾、熊手や茶筅などの工芸品になどには、貴重な材料として使われているとのことです。


景色
屋根にネットが張られています。太平洋からの風を、まともに受けるのでしょう。
干し柿が美味しそうです。


高知自動車道
大坂谷にかかる高知自動車道の橋は、まだつながっていませんでした。これがつながって、中土佐IC-四万十IC:間が開通するのは、この2年後の平成23年(2011)12月です。
完成時には、久礼坂トンネル(画面右方向)と大坂谷トンネル(左方向)をむすぶ橋となります。


七子峠へ
上方に見えるガードレールは、旧国道56号のものでしょう。とすると七子峠は、あの左上方にあると思われます。
なお新国道56号では、あの部分はトンネルになっているようです。


山道
これより七子峠への、山道に入ります。
道標には「七子峠1.0キロ」とあります。1キロ歩く間に、270㍍ほど高度を上げるということは、平均斜度25度くらいということでしょうか。


山道
強い繁殖力をもつ竹ですが、この径には進出できていません。
径の固さが、竹の進出を阻んでいるのです。年月かけて、無数の人が歩き固めた、固さです。


山道
急坂ですが、九十九折りになっているので、さほど苦しくはありません。



空が見えてきました。峠が近いのです。
案外楽に着いたと思っていたら、・・


階段
やはり楽はさせてくれません。フィニッシュの部分が、階段になっていました。それも最大傾斜線上に作られたような、急角度で段差が大きい階段です。上るにせよ下るにせよ、気をつけないと膝を痛めてしまいそうです。
写真では、ほとんど水平に見えますが、実際は、けっこう急なのです。


階段
全部が全部、こんなではありませんが、急で長くて段差が大きい階段です。


旧国道56号
上がってきました。これより旧国道56号を、5.5キロほど歩きます。新国道56号にほぼ並行した道です。


道標
12月中旬のこの時期、やはり歩き遍路は少ないようです。土佐久礼からここまで、一人の遍路にも会っていません。
掛かっているのは、数珠の落とし物でしょうか。



理論的には、標高が100メートル上がる毎に1℃、気温が下がるのだそうです。とすると、この辺は標高280メートルほどですから、平地より2-3℃低いということになります。つまり土佐久礼駅では5℃でしたから、今、この辺は2-3℃だということです。



厚手のジャンパーを着て歩いて、ちょうどいいくらいでした。
ホカホカしてくると、汗をかかないよう、ちょっとの間だけ休んで、身体を冷やしました。寒いとき、汗は大敵です。


あまんどさま
四国遍路で行き倒れた「あまんどさま」の霊を慰めんと、「あまんどさま」のお墓に、地蔵菩薩が祀られました。
地蔵菩薩像は、「あまんどさま」の徳を慕う安芸の国人たちが、安芸から運んできたと伝わります。
なお「あまんどさま」は、尼様を意味する、この地方の方言だそうです。


道しるべ
岩本寺10キロ、とあります。しかし時刻は、すでに15:30。冬の日没は早いので、もはや今日中に岩本寺に着くことはできません。
ただし、これは想定内のことです。
この先3.2Kにある土讃線仁井田駅で電車に乗り、窪川で泊まります。明朝、また電車で引き返し、高岡神社経由で、岩本寺に参るのです。


国道56号
日没が迫り、気温が一段と下がりました。風花が舞い始め、下校中の小学生達が雪だ雪だと喜んでいます。 
土地の人は、・・今日の寒さは年に二度しかない寒さだ・・と話してくれました。「二度しかない」は、三度はないが二度はある、という意味だそうです。聞けば、この方は農業をされているそうでした。経験から識ったことだ、と言います。きっと確かなことなのでしょう。
写真の右に、私が降りてきた山が写っています。


雪椿
掃除が行き届いた遍路小屋でした。「四阿 雪椿」の名は、この地に伝わる「お雪と順安」の恋物語に因んでいます。



お雪は、この辺の地頭の娘。順安は、影野・西本寺の若僧だとのことです。二人の仲を妬む者たちがいて、その恋は邪魔されますが、転変の後に成就。後、二人は幸せに暮らしたと言います。
写真は、順安と雪の墓です。
  池内喜左衛門 同人妻雪 墓 
とあります。「池内喜左衛門」は、順安の還俗名です。地頭職を嗣いでいます


雪椿
墓の側に、樹齢300年という椿の木が立っています。お雪、順安を偲んで、里人が植えたとのことです。
一説には、順安恋しさのあまり床についてしまったお雪を、里人が慰めようとして植えたもの、とも伝わります。


四万十合衆国
窪川州、大正州、檮原州、東津野州、大野見州から成る、「四万十源流合衆国」が建国されたようです。
中村を中心とする、下流域に対抗してのことでしょうか。そう言えば、四万十町と四万十市、どちらも「四万十」を譲らなかったようですね。
なお、五州のうち、東津野州、大野見州は四万十川の上流域。窪川州、大正州、檮原州は、中流域と言えましょうか。


六十余社
全国六十余州の一宮を集めた神社、それが六十余社です。
かつて六部(六十六部)たちは、おそらく10年近くもかけて、全国廻国巡礼を成し遂げたのですが、それが、たった1日一回の参拝でかなえられるというのですから、これは有り難い神社です。


六十余社
手軽すぎて、かえって有り難みがなくなるのではなどと御心配の向きは、浅草寺の「四万六千日」を考えてみてください。
一日一回の参拝で、46000/365=126.03ですから、126年分の功徳が戴けるのです。それでも有り難みが薄まるどころか、逆に大人気なのですから、ご心配は無用です。
信仰が民衆化する過程は、救済の簡略化、速成化の過程でもあるのでしょう。


交通標識
四万十市(旧中村)まで、54キロと表示されています。54キロは車用の表示ですが、この距離は、おそらく歩き遍路が歩く距離と、ほぼ同じ距離でしょう。というのも、これからの遍路道は、ほとんどが国道56号だからです。
因みに鉄道を計算してみると、影野から窪川までの土讃線が8.3キロ、窪川から中村までの土佐くろしお鉄道が43.0キロで、計51.3でした。


仁井田中の碑 
    ここに 仁井田中 ありき
  人みな戦後の混乱に戸惑う中 少年らめげず ここ茶堂山に集い
  元青年学校々舎にて 二部授業にも甘んじ
   時にリスや小鳥と興じ かつ師を敬し 厚き友情を結びて
  楽しき青春の日々を過ごせり。
  母校創立六十周年に当り ここ新校舎への校門脇に碑を建つ。
      撰文 一期生を代表して  山崎 博司
      揮毫 最後の分室主任   町田 精一郎
    平成十八年 陽春 仁井田中学校一期生建立


仁井田中学校 校歌
碑文理解のお手伝いとして、碑建立の背景を二点、記しておきたいと思います。
1.・・人みな戦後の混乱に戸惑う中 少年らめげず・・の背景
この碑を建立した仁井田中学一期生は、11歳までは、いわゆる「軍国主義教育」を受けてきた人たちです。仁井田中学の創立は昭和22年(1947)ですから、その一期生(13歳)たちは、11歳で敗戦を迎えました。
実のところは、・・戸惑う・・どころの事態ではなかったと思います。あたかも白が黒に変わるような、大激変の時代だったのです。・・少年らめげず・・とは、「生きようとした」ことの、抑えた表現なのでしょう。


仁井田川
2.・・母校創立六十周年に当り・・の背景
碑を建立した平成18年(2006)には、開校六〇周年とは言い条、既に仁井田中は存在していませんでした。仁井田中は、昭和45年(1970)には、他の町内各中学校と統合され、廃校となっているのです。・・新校舎・・は、正しくは、・・かつての新校舎・・でしょう。
碑の建立は、廃校後36年も経ったときのことでした。この時、一期生たちは72歳になっていました。(現在、仁井田中跡はコンビニになっており、碑は、その駐車場に建っています)。


土讃線仁井田駅
土讃線仁井田駅です。17:14の窪川行きがあります。
30分以上待ち時間があるとわかったので、駅前で四万十交通バスの発車時刻も調べてみました。すると(電車より1分早い)17:13発の窪川行きがありました。
それを知ったときの私の気持ちは、正直、えっ、なんで? でした。何で時刻を、もっと大きくずらさないのだろう。ずらしてくれていれば、もしかしたら私は、待ち時間なく窪川に行けたかもしれないのです。


ホーム
追記:上の記事について、天恢さんから次の様なご指摘をいただきました。
・・窪川駅から仁井田駅までは一駅で距離は4.5kmですが、窪川駅を発車したバスは途中4つのバス停を経て仁井田駅に着きます。点々とする集落を経由して乗客を駅から駅へ運びます。
出勤・登校や家路を急ぐ乗客が待たずに列車やバスに乗れるように、上りも下りも、おそらく列車の発着時間に合わせてのバス時刻と思われます。例えば主要駅では特急列車の到着を待って、発車後に普通列車が出発するなど・・・。
答えは、「いつも利用する地元の利用者を優先するダイヤで、たまに利用するお遍路さんのためのダイヤではない」ということです。

実は私も、このことは考えました。でも、それならなぜバスを先に出してしまうのだろう、と思ってしまったのです。
しかし、よくよく考えてみれば、おっしゃるとおりですね。これは電車とバスを接続させた、地元民のためのダイヤなのでしょう。


窪川駅
すっかり暗くなってしまいました。
明朝の電車とバスの時刻を調べて、宿に向かいます。
宿は、窪川駅近くの民宿「村の家」です。


村の家
・・わかりにくかったでしょう。亡くなる前に主人が、もう廃業するようにと言って、看板や案内を全部、取り払ってしまったんです。入口の硝子だけは残ったのですけど。
それでもご主人の意に反して、もう三年間も宿を続けているのは、・・宿をやっていると話も出来るしナ。・・だからだそうです。


うつぼの刺身
今日が区切り歩きの初日だと知らず、女将さんは「うつぼ」の刺身を準備してくれました。もうカツオは食べ飽きている、と慮ってくださったのです。
・・それならカツオにすればよかったかな。・・とのことですが、いえいえ、私、ウツボは大好きです。癖のないほのかな甘味、弾力のある食感。それに、カツオはこれからいくらでも食べられます。お心遣い、ありがとうございました。


行火
今一番注意していることは、・・コロバレン・・だそうです。転倒で骨折したことがあるのだといいます。
確かに高齢者の転倒は、アッと思ったときはもう転倒しているのです。私も経験がありますが、まるで受け身が取れていませんでした。
食後、部屋に上がると、布団が敷かれていました。暖房は、懐かしいアンカです。・・自分で敷きましたのに。・・と話すと、・・今日は客が一人じゃから大丈夫よ。それに、多いときは応援を頼むしな。・・とのことでした。

  平成21年(2009)12月18日 第2日目

予報
6:00 朝食
何時でもいいでよ、というので甘えてしまいましたが、6:00に朝食は、破格のサービスです。
外はまだ真っ暗。しかも寒い。申し訳ないことでした。


水鉄砲
これが何に使用されるものか、若い方は、まずご存知ないでしょう。過渡期に使用されたもので、都会で暮らしていた方は、お年寄りでもご存じない方が多いでしょう。
この宿でも、もう使われていなかったのですが、まだ仕舞われず残っていたので、写させていただきました。


窪川駅
おかげさまで、7:04窪川発に間に合いました。
始発なので、電車はもう入線しています。寒いので早速入れてもらい、席に着きました。
ひとつ具合の悪いことに気がつきました。どうやら私の存在は、日常の乗車秩序を乱しているらしいのです。まだ空席があるにもかかわらず、数人の男子高校生が立っていました。どうやら私が座っている席は、いつもは、彼らが座る席らしいのです。空席がまだあるのに、彼らがそこに座らないのは、そこには、これから来る誰かが座ることを知っているからなのです。
困りましたが、今さら席を空けても、彼らがそこに座るとは思えないので、私は座ったままでいたのですが、悪いことをしてしまいました。



雪が降ってきました。 雪波浪注意報が出ていますが、しばらくは傘で対応します。


案内
仁井田駅から1.6Kほど歩くと高岡神社への分岐に出ました。「協力会地図」に「大鳥居」と記されている地点です。案内があり、高岡神社と岩本寺への方向と距離が示されています。
*この道標に記された7.0Kや7.2Kの距離は、(現在は訂正されていると思いますが)誤りだったと思います。此所は、岩本寺までは4.2キロ、高岡神社までは3.5キロの地点でした。


五社街道
元37番札所・高岡神社は、
 ●大日本根子彦太迩命
 (おおやまとねこひこふとに命)を祀る    「一の宮・東大宮」
 ●磯城細姫命
 (しきのくわしひめ命)を祀る        「二の宮・今大神宮」
 ●大山祇命(おおやまずみ命)
  吉備彦狭嶋命(きびのひこさしま命)を祀る  「三の宮・中ノ宮」
 ●伊予二名洲小千命
 (いよのふたなしまおち命)を祀る      「四のみ宮・今宮」
 ●伊予天狭貫命
 (いよのあまさぬき命)を祀る        「五の宮・森ノ宮」
の五社から成っていることから、「五社さま」とも呼ばれています。あるいは「五社さま」の方が、より人口に膾炙されているでしょうか。


朝の光
天恢さんに倣って、この部分をストリートビューで歩いてみました。
ところが、写真の、この景色がどこにも見えないのです。前掲・五社街道の写真を撮ってから、3分後の写真なのですが・・。
山が消えたはずはないので、たぶん樹木などで隠されてしまったと思われます。
追記:天恢さんが今号へのコメントで、『見えぬけれども あるんだよ』と教えてくださいました。鳥になって鳥瞰すれば、すなわち航空写真で見れば、一目瞭然。朝の光が刺す東の方向に、それらしき山があることがわかりました。
 


前掲写真につづいて、この景色も見つかりませんでした。朝の光の写真を撮って、4分後の撮影です。
写っている川が仁井田川なのは、まず間違いないでしょう。地図でみると、仁井田川はこの辺で大きく蛇行し、道の左側に接近しています。
追記:同様に鳥瞰すれば、この川は、まちがいなく仁井田川です。そして架かる橋は、土讃線の鉄橋でした。ありがとうございました。


計量場
思いがけなく、野中兼山の遺跡に出会うことが出来ました。「計量場」です。
四万十川に築いた取水堰が再三にわたり決壊していることを知った野中兼山は、四万十川からの取水を断念し、仁淀川に堰を築くことにしました。
しかしこの工事も難航します。固い岩盤があり、掘削が進まないのです。
そこで兼山が採った策が、今で言う「出来高払い」だったそうです。つまり人夫が掘った岩盤を計量して、その多寡でその人夫の賃金を決めることにしたのです。結果、工事は大いに進捗したと言います。
なお、この看板は健在で、ストリートビューにも写っていました。


ねねざき橋
ねねざき橋は、仁井田川にかかる橋です。「ねねざき」は、根々崎と書きます。この辺の地名です。
川は、左から右方向に流れています。ほぼ東進していると言えましょう。


仁井田川
橋から眺めた仁井田川の西方向、つまり上流方向です。


仁井田川
橋から眺めた東方向、つまり下流方向です。川は、この先500㍍ほど東に流れて、四万十川に合流します。(合流点を見たかったのですが、果たせませんでした)。


四万十川
道の右側に、四万十川が見えてきました。
源流部・高岡郡東津野村の不入山(いらず山・H1336m)から南下してきた四万十川は、この辺りから西進を始めます。固い岩盤に阻まれて、西へ方向を転じるのです。画面では、右から左方向へ流れています。なお、四万十川のこの部分には、既に仁井田川の水が混じっています。


四万十川
四万十川を西に転じる岩盤が、(前述の)兼山の工事を阻んでいた岩盤と同じであるのは、お察しの通りです。


案内
  高岡神社 500メートル
  岩本寺  2.4キロ
とあります。
右下の自然石の道標は、拡大すると、次の様になります。


昔の道標
  手差し 三十七ばん
      五社三丁
3丁は約327㍍ですから、現代道標の500㍍とは違いがありますが、その辺はまあ、計測の仕方に問題があったのか、道標が元の場所から移されているのか、・・なのでしょう。


五社大橋
四万十川にかかる五社大橋です。真っ正面の400㍍先に、五社こと高岡神社が見えています。


渡川
川の名前が四万十川ではなく、「渡川」(わたり川)となっています。四万十川が渡川と呼ばれていた頃の名残でしょう。
「渡川」が「四万十川」に、正式に名称変更されたのは、平成 6 年(1994)のことです。そのきっかけをつくったのが、昭和58年(1983)に放送された NHK 特集『土佐四万十川~清流と魚と人と~』であったことは、よく知られています。そのなかで“日本最後の清流”と紹介され、一躍、四万十川の名が知れ渡ったのです。この番組は、私も観ています。「最後の」は、ちょっと言い過ぎだと思いましたが、確かに清流だと思いました。


四国遍礼霊場記の五社図
四国遍礼霊場記(元禄2年/1689)に載っている、五社図です。
五社の前に大河が流れています。「仁井田川」と記されていますが、この川は、どう見ても現代では四万十川・渡川です。
江戸を流れる大河が、所により大川と呼ばれたり、隅田川、淺草川、戸田川、荒川などでもあったと同様に、四万十川・渡川も、ここでは仁井田川と呼ばれていたのでしょう。現代とは違って川の名は、所により、その呼び名は違っていたのです、


四万十川下流方向
「渡川」という呼び名も、かつては下流域の中村辺りで主として使われていた、ローカルな呼び名だった、私はそう考えています。
その呼び名の由来は、いろいろに説明されていますが、おそらく、・・中村への行き帰りに「(渡り舟で)渡る」ので「渡川」と呼ばれた、・・とする説が正しいでしょう。そう考えると、中村を流れる他の二本の川が、「向川」、「後川」である訳も、よく理解できるからです。これらの川は、どれもが、中村を中心とする呼び名になっているのです。


上流方向
「向川」(現・中筋川)は、・・九州に関心を向ける中村・一条氏が、九州方面に「向かう」とき使った水路なので「向川」。
「後川」は、・・九州の反対方向、つまり中村の「後ろ」を流れているから「後川」、というわけです。まことにシンプルな命名ではありますが、土地や山川の呼び名なんて、深い意味もなくつけられたものが、多いのではないでしょうか。
なお、「四万十」の由来には、四万余りの支流をもっているからとか、アイヌ語の「シ・マムタ」(はなはだ美しい)からきたなど諸説がありますが、定説はないようです。


中の宮
高岡神社の興りを、Wikipediaは、次のように記しています。
・・伝承によれば、大和時代の6世紀頃、伊予の豪族・河野氏の一派が一族の争いから当地に逃れ、この地の土豪と共に土地を開墾し安住の地と定めた。ここに祖神を祀り仁井田大明神とし、この地の総鎮守とした。


今宮
・・平安時代初期の天長3年(826年)四国を巡錫していた空海(弘法大師)が境内に福円満寺を創建したと言われる。空海は神社を5社に分社して五社大明神とし、神仏習合の神宮寺としたと伝えられている。


元の37番
福円満寺に代わって岩本寺が五社の別当となるのは、17C後半、福円満寺の勢いが、衰え始めてからのことだと言います。それまでは福円満寺から足摺岬への途次、遍路たちが泊まる宿坊であった岩本坊が、福円満寺を後継する岩本寺として興された、ということのようです。『四国遍路道指南』(貞享4年/1687)には、すでに・・別当岩本寺くぼ川に居・・と記されています。
岩本寺は、明治期の神仏分離・廃仏毀釈により、明治4年(1871)、廃寺となりましたが、明治22年(1889)になって再興されています。


祭神
今宮に御祭神の御名が記されていました。「伊豫二名洲 小千命」(いよの ふたなのしま おち命)です。
この御名を翻訳すれば、「愛媛県越智郡に鎮座まします神様」となるでしょうか。越智郡とは、今の今治辺りです。はるか土佐まで、故郷の神を護持しつつ、流れてきたと見えます。
なお、私は焼山寺道でも、河野氏の一流が造った集落の跡・「樋山地・敷地」を見ています。→(H26春5)海の民が山の民に変じ、暮らしていました。


注連縄
高岡神社を発ち、岩本寺に向かいます。
注連縄を飾っている家がありいました。これは、はずし忘れているのではありません。
聞けば、この辺では厄除けとして、大晦日まで、飾り続けるのだそうです。大晦日に取り外して祓えで燃やし、新しい注連縄を取りつけて、新年を迎えるのです。
ところで、近年、注連縄を飾らない家が増えています。この風習、どうなるのでしょうか。


37番札所岩本寺
岩本寺は、五仏をご本尊として祀っています。岩本寺が、五社大明神・福円満寺を嗣ぐ寺だからです。山号を藤井山五智院とする所以も、ここにあります。(「藤井山」は、寺名を藤井寺と称した時期があることに由来します)。


本堂
ご本尊の五仏は、五社に祭神として祀られている五神の、本地仏とされていた仏たちです。
具体的には、
  不動明王   一の宮・東大宮の大日本根子彦太迩尊
  観世音菩薩  二の宮・今大神宮の磯城細姫命
  阿弥陀如来  三の宮・中の宮の大山祇命・吉備彦狭嶋命
  薬師如来今宮 四の宮・今宮の伊予二名洲小千命
  地蔵菩薩   五の宮・森の宮の伊予天狭貫尊


天井絵
格天井の一枡一枡に、アマチュア画家たちが画法もテーマも自由に描いた絵が、はめこまれています。
中にはマリリンモンローの絵もあるとかで、今回こそ探そうと頑張ってみましたが、首が痛くなって止めました。


歓喜天堂
今日、歓喜天の法要が行われるそうです。供物の大根と酒がならんでいます。
なぜ大根か?大根の白が清浄を表すなど、いろいろ言われています。
建物は木造、円形です。円形は、歓喜天の修法と関わっているそうですが、私にはわかりません。
歓喜天像を拝みたいとも思いましたが、ゲスな期待があることに気づき、止めにしました。


道しるべ
道しるべです。側に立て札があり、
  八十八ケ所道標  明治四十五年頃、近郷の遊子が建立した道しるべである。
  その志を大切に後世に伝えたい。    合掌
  平成四年九月吉日
と記されています。
ここでは略させていただきますが、境内には他にも、多くの道標などが保存されています。


国道56号
先へ進みます。 一段と寒さがきつくなってきました。
岩本寺の標高は210㍍でした。国道56号で一番高い「峰ノ上」は、259㍍です。



雪です。着ているポンチョが、ゴワゴワに固まっています。
遍路中の雪は、二度目です。最初は、8年前の平成13年12月25日、初めての遍路の3日目、焼山寺への登りでのことでした。初遍路での雪に、北さんと二人で、やたらはしゃいでいた記憶があります。
しかし、今回は一人です。その気にもなれません。予報では、雪はやがて止み、風が強くなるとのことです。冷たい風でしょう。

さて、令和6年の第1号をご覧いただきまして、ありがとうございました。
中途半端なところで切れてしまいましたが、次号に回させてください。更新は2月14日を予定しています。
  能登半島地震で亡くなられた方々の、ご冥福をお祈りいたします。
  また、被害に遭われた方々に、一日も早く、
  かつての日常が戻ってきますように。    合掌 

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「さかもと」 慈眼寺 旧遍路道 横瀬 櫛渕八幡神社 立江 徳島

2023-12-13 | 四国遍路

 
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 8日目 平成21年(2009)4月27日

さかもと
「さかもと」の朝は、快晴です。
今日は別格3番・慈眼寺に登ります。私は二度目、北さんは初めての参拝です。
その後の行程は未定ですが、「さかもと」から横瀬(鶴林寺への登り口がある)までの旧遍路道は、ぜひとも歩いてみたい道です。また櫛渕八幡神社にも、立ち寄ってみたいと考えています。この神社の楓(ふう)の木を、北さんに見て欲しいのです。


二宮金次郎像
元坂本小学校の「校庭」を見下ろす位置に、二宮金次郎像が建っていました。
かつては校門脇に立って、登下校する子供たちの挨拶を、日々、受けていたのでしょう。


拡大
ところで(写真を見て気づいたのですが)、この金次郎像は金属製に見えます。まさか戦中の「金属類供出」を免れたとは思えませんから、おそらく戦後になって造られた、二代目金次郎なのでしょう。
戦時中の「金属類回収令」は、寺の梵鐘までもかっさらっていったといいますから、二宮金次郎像といえども例外ではなかったでしょう。因みに渋谷の忠犬ハチ公像もまた、供出の憂き目に遭っています。今あるハチ公像も、二代目です。

 
坂本八幡神社
「さかもと」の側に、坂本八幡神社があります。毎年9月23日秋分の日に「七社七鳥居参り」が催行される、珍しい神社です。
写真は、「七鳥居」が建つ石段の、三の鳥居付近です。「さかもと」より若干高い位置にあります。


坂本八幡神社
Wikipediaは「七社七鳥居参り」の項で、坂本八幡を次の様に紹介しています。
・・古くより、川を渡らず、石鳥居を七つくぐり、七つの御社を参拝すれば、中風(脳血管障害など)にならないという言い伝えがあり、坂本八幡神社は、この条件を満たした参詣のできる全国でも数少ない神社である。
写真は、六ノ鳥居、七ノ鳥居、そして本殿です。


坂本八幡神社
(帰途に撮った写真ですが)「さかもと」より下に位置する、一ノ鳥居、二ノ鳥居です。これより七基の鳥居を潜り、鳥居毎にある七社にお参りをする、・・これが「七社七鳥居参り」です。


ひな壇
旧県道16号・徳島-上那賀線を歩いていると、
・・何だこれは? ・・北さんが尋ねました。
これは「雛壇」なのです。
毎年3月、勝浦町が開催する「ビッグひなまつり」に、坂本地区も参加しています。坂本が勝浦町のドン詰まりであることを逆手に、「おひなさまの奥座敷」と銘打って、参加しているのです。写真の竹組は、そのとき用の雛壇なのです。

 
雛人形
この写真は、「ビッグひなまつり」当日のものです。写真右側に、上掲の雛壇が写っています。→(H19春1)


下の景色
この辺の標高は、130㍍ほどです。
穴禅定や慈眼寺本堂は標高650㍍ですから、これより標高差500㍍余を登ることになります。なお大師堂、納経所は本堂よりも約100㍍低く、標高550㍍に在ります。


敬老会  
散髪屋さんの窓に、・・敬老会出席のため休みます。・・の張り紙がありました。昨日、「さかもと」で敬老会が催されたのです。その張り紙が、まだ朝早いので、はがされていません。
「さかもと」は、町民にとっても、「ふれあいの里」であるようです。


山道への登り口
ここから県道を離れ、山道に入ります。
この登り口は、散髪屋さんから20㍍ほど先、右側にあります。散髪屋さんを目印にすれば、見逃すことはないと思います。なお150㍍ほど先には旧坂本トンネルがあるので、もしトンネルが目に入ったら、行きすぎた!ことになります。


山道
この山道を自転車で駆け下ってきた男子中学生がいました。彼らについては、→(H19春2)からご覧ください。坂本地区は、子供たちを「地域の子」として育てようとしています。その姿の一齣を記してみました。


下の景色
標高を上げてゆきます。


遍路道
遍路道が庭先どころか、お宅の縁側をかすめて通っています。
・・なんでこんな所に家を建てたか、不思議に思うじゃろうが、それは必要があってのことよ。
こちらのおじいさんが、こんな話をしてくれたことがありました。→(坂本慈眼寺)


下の景色
ミカン畑が広がっています。坂本は、徳島県の温州みかん発祥の地なのだそうです。
その坂本のミカン業を、昭和56年(1981)、気象災害が襲いました。ほとんどのミカンの木が枯死したといいます。→(H19春1)


道標
  左 おくのいん道
「おくのいん」は、20番鶴林寺の奥の院を言います。慈眼寺のことです。


案内 
一度町道に上がり、500㍍ほど歩きます。


おへんろさん休憩所
町道を降りると、その先に「おへんろさん休憩所」がありました。
電気も引かれていました。地元の方が管理されているそうでした。


慈眼寺の山
慈眼寺の在る山です。石灰岩の露頭が見えます。
そこに生まれた鍾乳洞。それが「穴禅定」の修行場です。


慈眼寺
別格3番慈眼寺です。
ただし、ここに在るのは、大師堂、不動堂、納経所などで、本堂、穴禅定へは、もっと登らなければなりません。


大師堂・納経所
右に見える納経所で、北さんは穴禅定の申し込みをしました。荷物をロッカーに預け、穴禅定用の「修行白衣」に着替え、ロウソクを受け取って登ります。うまい具合に、待ち時間はほとんどありませんでした。
なお私は、前に一度経験しているので→(H19春2)今回は遠慮させていただきました。


不動堂
穴禅定に向かう北さんへの庇護を、不動明王に願いました。
階段左脇に、赤いテープを巻いた二本の柱が見えますが、これは穴禅定の路幅を示す石柱です。この幅をすり抜けることが出来ない人は、穴禅定は遠慮した方がいいというわけです。北さんは、ゆうゆう合格でした。


孝行門
本堂と穴禅定への登り口です。
この門の上には、白衣観音像が建っています。


穴禅定前
押しつぶされそうな重量を感じつつ、一列をつくります。
先達さんが先頭で、一番つっかえそうな人が、その後につきます。つっかえた時、先達さんの指示が直に届くよう、用心しているです。それより後ろの人への指示は、伝言で伝えられます。
・・指示は正確に伝えるように。・・との注意があり、緊張が一行にゆきわたりました。


関門
中央の階段を上がり、左側の祓い所に入ります。入洞の前に、手や口を清めるのです。なお、この入口にも通り柱があります。下でのチェックに漏れた人用でしょうか。
話は違いますが、シトー会修道院の食堂入り口にも、このような「通り柱」が立っているそうです。ただし、こちらは飽食の戒めです。お腹がつっかえるほど食べている人は、食堂に入れてくれないのです。


入洞
先達に導かれ、入口に向かいます。
帰着はおよそ2時間後です。このグループはやや人数が多いので、時間がかかるのだといいます。


本堂
外に残った私は、ゆっくりと本堂にお参りします。
 おんまか きゃろにきゃ そわか
ここでのお参りは、ご本尊・十一面観音菩薩の御真言を唱えながら、本堂を三回、廻ります。


景色
暗闇の中、穴禅定修行中の北さんをよそに、私は、広がる空、輝く光を楽しんでいます。


境内
お先に下まで降りて、藤棚の下でオニギリを食べることにしました。


無事帰還 
北さんが降りてきました。
第一声は、・・身体が硬くなっているのが、わかったよ。・・でした。
それとわかせてくれるような、むずかしい姿勢をとらなければならなかった、ということでしょう。ご苦労様でした。


下り
下山します。
ザックの本体を「さかもと」に預けてあるので、一度立ち寄り、それから旧遍路道を下ります。


下り
軽快な下りです。道標もしっかりとついています。


つつじ 
旧県道16号近くまで降りてきました。無粋な擁壁が、花壇になっています。


下り
旧県道16号です。
すぐ先を右に下ると「さかもと」です。



帰りました。穴禅定の2時間余を含めて、5時間半の行程でした。


遊山箱
コーヒーをいただきながら、たまたま弁当箱の変遷を話題にしていたら、それを聞いていた「さかもと」の人が、・・こんなのもありますよ。・・と持ってきてくれました。
遊山箱(ゆさんばこ)です。
・・春の節句は学校が休みとなり。男の子も女の子も、連れだって遊びに出ます。レンゲ畑で寝ころんだり、追いかけっこをしたり。
・・その時持って行くのが遊山箱です。右が男の子用、左が女の子用です。


遊山箱
・・いっぱい遊び、お腹が減ると、遊山箱のご馳走を食べます。下段には巻きずし、中段には煮物、上段は寒天などの甘い物が入っているのです。
・・ぜんぶ食べてしまっても、心配はありません。どこか近くの家に行って頼めばよいのです。その家は喜んで、自慢のご馳走を詰めてくれます。
こんな慣わしが、昭和40年代まででしょうか、つづいていたそうです。


景色
ミカン畑の中を下ります。


道標
  手差し お久乃以ん (おくのいん)
慈眼寺は今日では、まずは四国別格二十霊場の第3番札所、と紹介されます。「鶴林寺の奥の院」としての紹介は、「別格」に次いでなされるのが普通です。
しかし四国別格二十霊場が定まったのは、昭和43年(1968)のことでした。「鶴林寺の奥の院」としての期間の方が、「別格3番」よりもはるかに長いのです。この辺の道標はすべて、「おくのいん」となっています。


用品
  四国88ヵ所巡拝用品あります。
巡拝用品店がありました。正直、驚きです。この道は巡拝用品店が成り立つほど、多くの遍路が歩いた道だったのです。


無賃宿
  遍路○賃宿
またまた驚きです。今度は遍路宿がありました。


拡大
○の字を推定すると、「遍路無賃宿」ではないでしょうか。


不動明王
不動明王が白布をまとっています。
あわせて、四角の白布が献じられており、その片隅には、献じた人の干支と年齢が墨書されています。


不動尊
家内安全など、願いをするとき、新たな白布に着替えてもらい、四角の布を献じるのだそうです。
白布をまとい、いかにも涼しげなお不動さんです。


掃除用具入れ
お不動さんの側に、こんな物入れがありました。
お世話をするための、用具が入っています。


休憩コーナー
  与河内(よこうち)農協前
徳島バスのバス停です。徳島駅から(坂本より一つ奧の)黄檗(きはた)までの路線ですが、坂本→黄檗まで行くのは、(リライトの令和5年現在で)平日5本です。


道標
  左 自此 灌頂滝江 (ここより 灌頂の滝へ)
この瀧に見える七色の虹を、人は「不動の来迎」と呼ぶそうです。ただ、虹を見られる時間が午前8:00-10:00頃なので、歩きでは、なかなか難しいところがあります。


星越庵
(見落としましたが)庵の前に、延享2年(1745)の標石が在り、次の様に、潅頂の瀧への案内と星越庵の由緒が、記されているそうです。
   左 自此 潅頂瀧江 六十三丁余
  此堂御本尊大師作地蔵願主大菩薩
  為四国遍路念一度供養與河内村星越庵
  南無大師遍照金剛願主法師円心造塔
  延享二乙丑年三月念一日


波切り不動明王
また不動明王です。
土地のおばあさんが、・・この辺はお不動さんへの信仰が深いところなんです。・・と話してくれました。そういえば慈眼寺にも、不動堂がありました。
なお、「お不動さん」と親しまれる不動明王は、大日如来の化身とも言われています。



横瀬(よこせ)に近づいてきました。


水遣り
坂本川と道路の間の土地を有効利用し、畑にしています。
水遣りをしていたおばあさんが、お不動さんの話などをしてくれました。


鍛冶屋さん
覗いていたら親方が出てこられて、お話がうかがえるばかりか、鍛冶場まで見せてもらうことが出来ました。
・・ウチは、まあ、いわゆる「野鍛冶」ですね。包丁なども作っているから「生活鍛冶」でもありますが。
・・私で四代目(だったと思う)になります。幸い息子が相槌を打っているので、跡を継いでくれるとは思うのですが。
・・でも、原材料が枯渇しているのは、悩みですね。継いでくれても、原材料がなくてはねえ。


鍛冶屋さん
西部劇では、鍛冶屋さんはたいてい、銃を持つ勇気がない、臆病な男として登場させられています。真っ黒になって働く格好良くない男が、鍛冶屋= blacksmith です。
しかし日本では違います。今では歌われることもない唱歌「村の鍛冶屋」の二節は、次のようです。
 ♫あるじは名高い いっこくものよ 
   早起き早寝の やまい知らず 
  鉄より堅いと 自慢の腕で 
   打ち出す刃物に 心こもる


草取り名人
親方は、・・野鍛冶の世界は厳しい。・・と言います。
・・鈍った腕では、たちまち愛想をつかされますからね。いいものを打っていれば、遠方からでも買いに来てくれますが、だめなら、隣の家の人が何里も先の鍛冶屋へ、買いに行ったりするんですから。これが野鍛冶の世界ですよ。
写真は、私が(平成26年に)購入した「草取り名人」です。先が尖っているのは、親方の工夫です。草を根こそぎ抜くことが出来ます。それに、狭い溝などに生えた草も取れるのです。だから「名人」です。


合流
左の大きな川が勝浦川。右から合流するのが坂本川です。旧遍路道は、基本的にこの坂本川に沿っています。


橋の柱
上に架かる橋は、横瀬大橋です。


鶴林寺
適当なところまでバスを利用することにし、バス待ち時間中、うまい具合に見つかった喫茶店に入りました。
ご主人に、・・ここから鶴林寺は見えますか・・と尋ねると、外に出て、教えてくれました。
ちょっと見にくいですが、一番奥の山の右寄りに、二本アンテナが立っています。そこが鶴林寺なのだそうです。


景色
ご主人に「はな・はるフェスタ」で阿波踊りを見たことを話すと、・・うーん、阿波踊りねぇ・・と、やや複雑な表情です。
・・阿波踊りはね、もともとは盆踊りなんですよ。だけど残念ながら、あの阿波踊りは、もう盆踊りじゃないですね。盆踊りで、あんなド派手な衣装を着ます?列を組んだりもしませんでしょ。阿波踊りは全国化して、盆踊りではなくなりました。


櫛渕八幡神社鳥居
バスを降り、櫛渕の八幡神社に寄りました。楓(ふう)の木を見るためです。
楓(ふう)と呼ばれる木は、公園木などとして、けっこう植わっています。私の住まい近くでは、浦和の桜草公園や北浦和公園などにも、植わっています。
しかし櫛渕八幡神社の楓(ふう)は、それらとは違う楓(ふう)なのです。


楓(ふう)
公園などで見かける楓(ふう)が北アメリカ原産で、「アメリカ楓」と呼ばれるのに対し、櫛渕八幡の楓(ふう)は、中国原産です。
どちらも楓(ふう)とは呼ばれていますが、外見的にも、はっきりと違っています。
アメリカ楓は、葉が5-7裂、ボロボロとはがれやすい樹皮をしていますが、中国原産・櫛渕八幡の楓(ふう)は、葉は3裂、ゴツゴツした樹皮をしています。


楓の実
中国原産の楓(ふう)の、日本への渡来は、江戸時代、吉宗(1716-45在職)の時、中国の清朝皇帝から贈られたのが最初、と言われています。楓(かえで)と書いて「ふう」と読むのは、中国名・楓香樹(ふうこうじゅ)に由来すると思われます。
宮廷に植えられていた貴木だとのことで、江戸城、日光東照宮、上野寛永寺(徳川家の菩提寺)などに植えられたそうです。


中国原産の楓の葉
さて問題は、そんな貴木ともいえる楓(ふう)が、なぜ此所・立江に植わっているのか、なのですが、これについては、少し調べてみた結果を、→(H19春1)に記してみましたので、よろしければご覧ください。江戸城などに植えられた楓(ふう)のその後についても、記しています。


大楠
楓(ふう)のことばかりを記しましたが、櫛渕八幡には、楓(ふう)に並ぶの名木が、もう一本あります。鳥居の左側に立つ、大楠です。樹齢700年といいます。
何年か前に大枝の一本が枯れかかったらしく、大きな「切除痕」が見えますが、にもかかわらず道にまでせり出して、今も元気に育っています。


地神様
境内に地神様が祀られていました。
五角柱の地神様は、田圃の脇や神社の境内の隅の方に、ポツンと立っているものが多いのですが、櫛渕八幡の地神様は、きちんとした「構え」の中に立っておられます。
しかも石柱には神名だけでなく、その御神徳までが添えられています。


地神様
  農業祖神 天照大神
  五穀護神 大己貴命


地神
  五穀祖神 少名彦命 
  土御祖神 埴安媛命


地神様
  (土御祖神 埴安媛命) 
  五穀祖神 倉稲魂命


鮒の里
ご主人とお会いするなり(挨拶もなく)楓(ふう)の話になりました。この間、貴重な情報をいただいていたのです。
また「あせんだ越え」の情報もいただきました。私は平成26年春、この道を歩くことになります。→(坂本慈眼寺)

 9日目 平成21年(2009)4月28日

徳島駅前
立江から徳島に移り、今日は「信仰 健康 観光」の観光です。
宿の近くからバスで、徳島駅に向かいました。朝だから混んでいるかと心配したら、女将さん曰く、・・ガラガラよ。・・確かにガラガラでした。


大雄山興源寺(こうげんじ)
大雄山興源寺(こうげんじ)は、徳島藩主蜂須賀家の墓所です。
蜂須賀家の墓所はもう一ヵ所、眉山・万年山にもあるのですが、こちらは時間の都合で行けませんでした。
万年山墓所は、明和3年(1766)十代藩主・重喜が造営したもので、以降十三代までは万年山墓所に埋葬され、興源寺には遺髪が埋葬されているといいます。万年山の墓が「埋め墓」で、興源寺の墓を「拝み墓」とした、と考えられます。
なお仏式の興源寺墓所に対し、万年山墓所は、儒式であるとのことです。十代藩主・重喜が儒学に傾倒していたことによるそうです。いつか訪ねてみたいものです。


藩祖家政墓
藩祖・蜂須賀家政の墓です。
なお、おそらく蜂須賀家では我々に最もなじみ深いであろう、家祖・蜂須賀正勝(蜂須賀小六)の墓は、なぜか万年山に在るのだそうです。少年時代の秀吉・日吉丸との矢作橋での出会いなどなど、様々に語られる人物です。


二代目藩主墓
二代目藩主・蜂須賀忠英(ただてる)の墓です。
他にも、何枚もの墓の写真がありますが、ここでは割愛します。


徳島城石垣
徳島城を訪ねました。
徳島城は、天正14年(1586)、蜂須賀家政が完成させた平山城です。秀吉によって阿波に封ぜられた家政は、最初、その居城を(13番大日寺側の)「一宮城」に定めましたが、→(H26春6)どうやらその段階で家政は、一宮城が既に古い時代の城であることを、識っていたようです。
これからの城は、戦のためだけでなく、国経営(政治)の中心としても機能しなければならないのです。それには「城下町の形成」が欠かせません。一宮城は、戦城としては難攻不落ですが、城下町の形成には不向きだったのです。


景色
家政は即、徳島城の築城にかかってします。完成は、ほぼ1年半後でした。早い完成と言えます。おそらく、次なる九州(島津氏)攻め遂行のため、四国の安定が急がれていたのでしょう。
秀吉は、最も信頼する戦国大名の一人・蜂須賀家政を阿波に置き、土佐一国に封じ込めた長宗我部への押さえとしたのです。家政は美事、その期待に応えたと言えます。


石垣
ただし蜂須賀は、やがて温故の豊臣を裏切ります。関ヶ原でも大坂の陣でも、徳川方に与するのです。
その功績で蜂須賀は、秀吉からもらった阿波国を、引きつづき家康によっても安堵され、その阿波支配は明治維新まで続くことになるのですが、・・


枯れ木 
反して長宗我部は、・・
かつての敵方・豊臣方に与したのですが、結果は悲惨でした。当主・盛親とその子は刑死し(武士としての名誉ある死は与えられなかった)、長宗我部氏の嫡流は絶えてしまいます。


本丸跡
本丸跡は広場になっていて、年配のおばさん、おじさん達が、健康ダンスをやっていました。


モラエス饅頭
モラエス(ヴェンセスラウ・デ・モラエス)は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と同時代の人で、ポルトガルの海軍軍人、外交官、そして作家でした。
ハーンほどは知られていませんが、欧米社会へ日本を紹介した功績は、ハーンと同等以上に高かったとも言われています。
外交官を引退後、大正2年(1913)から徳島に移住。昭和4年(1929)、徳島で没しました。眉山の上に、モラエス記念館があります。
追記:天恢さんからのご指摘です。・・『眉山山頂に1976年開設の顕彰施設・モラエス館があったが、老朽化で2015年に閉館』だそうですが、資料は阿波おどり会館、徳島大学、徳島駅などに分散してあるようです。


河畔
新町川沿いに歩き、船巡りの乗り場に向かいました。撫養航路(むや)が復活したと耳にし、これに乗ってみようと思ったのです。
川伝いに鳴門・撫養まで行って帰ってくるというのですから、途中、吉野川も横断することになります。これはもう乗らない手はないのです。


図書館
河畔に、こんなものがありました。「みんなの公園図書館」です。
開けると、大人向けの本、子供向けの本が並んでいました。好きな本を取り出して、側のベンチで読んでは返すのだそうです。


遊覧船
係の人に訊いてみると、撫養航路は、往復4時間なのだそうでした。
残念!これでは、あきらめるほかありません。飛行機はもう予約しています。やむなく、一周25分の「ひょうたん島コース」で妥協することにしました。徳島市の中心部が乗っかっている中洲を「ひょうたん島」と呼んでおり、これを船で一周するコースです。


さんばし
「新町川を守る会」(NPO)が運営しており、運賃は無料です。ただし保険料として100円を払います。船は、地元企業の応援も得て、購入したのだそうです。


新町川
かつて新町川の汚染は、ひどかったといいます。
・・時間をかけて、きれいにしてきたんですわ。こうして(観光客に)見られよる思たら、よう汚さんじゃろ、そないにも思てなあ、やっとるんですわ。


カキ
この辺は汽水域で、両岸にはカキが付着しています。



この辺の小型船舶用泊地を、「ケンチョピア」というのだそうです。県庁(ケンチョ)近くの桟橋(ピアー)ということのようです。
奥に眉山(びざん)が見えています。


流政之
(五剣山の号でもご紹介しましたが)流 政之(ながれ・まさゆき)さんの作品、「ICCHORA(イッチョラ)」が見えました。
瀬戸内寂聴さんの文化勲章受賞を記念して、制作したものだそうです。庵治石を鳥居型に組んでいます。


帰りのバス
さて、いよいよ帰宅です。
 ♫この旅終えて 街に帰ろう・・
何はともあれ「結願」をはたすことができました。おまけの「観光」もすることができました。
お大師さま、四国の人たち、ありがとうございました。
飛行機は最終便を予約したので、帰宅は、23:00ころでしょう。


空から
というわけで、平成21年(2009)春の結願遍路シリーズは、今号をもって終わりとなります。
長々とご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号からは、同年冬に歩いた土佐路のリライト版を、ご覧いただきます。更新予定は、年末年始を挟むので、いつもより一週遅れの1月17日とします。
すこし早いですが、皆さま、どうか良いお年をお迎えください。

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88番大窪寺から 10番切幡寺 9番法輪寺 8番熊谷寺 6番安楽寺 星の岩屋 さかもと 

2023-11-15 | 四国遍路

 
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  6日目 平成21年(2009)4月25日

大窪寺
この日は朝から雨です。
大窪寺にもう一度お参りし、歩きはじめました。当面の目標は、10番切幡寺です。四国遍路道の特徴は、それが円環を成していることです。ならば円環を閉じないでは、私たちの四国遍路は終わりません。



いつもは勝手に歩く私たちですが、今日は一緒です。函館さんとは、切幡寺まで一緒に歩こうと話し合っています。


擁壁
コンクリートを崖面に吹き付け、さらにアンカーで留めています。こんな工事は、見たことがありませんでした。


景色
ふり返ると、こんな景色が見えました。大窪寺が雲に隠れています。


県境
徳島-香川の県境です。ここから徳島県に入ります。
それにしても、堤防が県境標識の所で切れているのには、驚いたといいますか呆れたといいますか、この先には堤防は不要とでも言うのでしょうか。行政の切れ目が、堤防の切れ目なのでありました。

追記:この記事について、天恢さんからご指摘がありました。これは堤防ではなく土留めではないか、というご指摘です。その「証拠」写真も送ってくださいました。下の写真がそれです。


逆方向からの写真(天恢さん撮影)
見れば、まっこと、その通りです。
実は私も「堤防」と書きながら、頭のどこかで、・・では川はどこにある?何川の堤防なの?・・との疑問がちらついてはいたのですが、・・。
というわけで、「それにしても・・」以下は削除となりますが、愚かの証として、しばらくは残しておくことにします。


方言
四国方言では、「未然形+れん」で禁止を表現することがあります。この「泳がれん」が、その例です。「あぶない 泳いではいけない」と警告を発しています。
ことさらに方言を使っているところに、優しさが感じられます。


雨水
本降りの雨とはいえ、この雨は、明け方から降り始めた雨です。
なのに、こんなに吹き出しています。「緑のダム」の、保水力の衰えを感じます。


貯水
これは賢い。雨水を溜める工夫です。最初のタンクが満杯になると、次のタンクに流れ込みます。
このお宅の近くには、井戸を使っているお宅もありました。(水道は通っているのですが)井戸水をポンプで汲み上げて、使っているとのことでした。
釣瓶があったので、・・これは使わないのですか、・・と尋ねると、・・さすがにもうシンドイですわ。でも非常時に供えて残してあります、・・とのこと。これも賢い。


潜水橋
日開谷川(ひがいだに川)です。女体山に水源を発して讃岐山脈を南流。阿波市市場町で吉野川に注ぎます。讃岐山脈を南北に流れる川は急流となりますが、さもあらん、架かる橋は潜水橋です。
遍路道は、県道2号・津田-川島線を南下。市場町大門で東進に転じて、10番切幡寺へ向かいます。
・・蛇足です。県道2号は香川県と徳島県にまたがる道で、どちらの県でも「県道2号」です。つまりこの線は正式には、香川県道・徳島県道2号・津田-川島線と呼ばれます。因みに「県道1号」もまた両県にまたがる道で、徳島県道・香川県道1号・徳島-引田線と呼ばれています。

追記:この橋を潜水橋とすることについても、天恢さんから疑問が呈されました。
・・写真のこの橋は構造的に見て、潜水橋とか沈下橋とは違うと思うのです。潜水橋や沈下橋は土手を下って、橋桁が低いのが特徴だと思います。
私は欄干がないことだけを以て、潜水橋としたのですが、たしかに傍に民家が建っていることから考えても、この橋に「潜水」の可能性は少ないのだと思います。しかし、ならばなぜ欄干がないのか、疑問ではあるのですが。
そこでとりあえずは、・・潜水橋や沈下橋のような橋・・としておく、というのでは、いかがでしょうか。次なる機会に(あればの話ですが)、・・土手を下って、橋桁が低い・・について、実地検分してみることにしましょう。


休憩所
休憩所で休みました。やはり私たちのペースは、他の方たちと違うようです。もうだいぶ離されてしまいました。函館さんも、先を歩いています。


岩野トンネル
平成10年(1998)竣工。104㍍。この時期のトンネルになると、歩行者が意識された造りになっています。



越流堰を造っています。取水のためでしょうか、急な流れを抑制するためでしょうか。


真魚の里
「そば」の意味は、描かれている花が蕎麦の花ですから、「大師の蕎麦 真魚」なのでしょう。
大師の幼名である真魚をお借りして、蕎麦の名前としたようです。


犬墓大師堂
「犬墓」(いぬのはか)は地名です。・・弘法大師が連れていた愛犬を葬ったところから起こったと伝わる、・・と記されています。
犬のお墓もあるそうですが、それは(大師が建てたものではなく)、享保(1716-36)の頃、犬墓村の庄屋さんが建てたものとのことです。前号で記した「馬の墓」に似て、「戌墓」と刻まれ、犬の姿と水瓶が浮き彫りされているそうです。


農家
農家を見ていつも感心するのは、その整理整頓の良さです。農具などが、次に使う時に備えて、整然と置かれています。
その感想を農家の人に話すと、応えはこうでした。
・・農業は(最短でも半年先を見通しての)「だんどり仕事」ですからね、農民がまず覚えるのが、整理整頓ですよ。これが出来ない人には、農業は無理でしょうね。
なるほど、農業は作物のみならず、人をも育てるのだと識りました。


大手毬
雨はまだ降っていますが、ひどい降りではなくなりました。


葱坊主
景色を楽しみながら、ゆっくりと歩きます。


徳島自動車道
徳島自動車道が見えてきました。これを潜ると、すぐ先が大門(だいもん)です。


猿田彦大神
前号で記した猿田彦命が祀られていました。
堂の両側にベンチが設えられ、神様と一緒に休めるようになっています。


10番切幡寺登山口
近くの店で、懸案のうどんをいただきました。
店の方に訊くと、一緒に大窪寺を出た人たちは、・・1時間半前に着いた・・とのこと。そうと聞けば、あまりゆっくりもしておられず、急いで食べて出かけました。荷物は、店の前庭の棚に置かせてもらいました。
(ご主人に教わったことですが)、この先はご覧のように昔の道幅で、バスが入れません。バス遍路の人たちは、ここで会社が手配したタクシーに乗り換えるとのことです。というのも、この先には333段の、長い石段が待ち受けているからです。


道標 
山門の手前に道標がありました。9番、10番、11番、88番の方向を案内しています。
上部に、内向きの指差しがあり、
  10番切幡寺 8丁→ ←9番法輪寺 25丁
下部に、外向きの指差しがあり、
  11番藤井寺 1里← →88番大窪寺 4里
と刻まれています。つまり、歩きはじめたばかりの人と、一周して88番から来た人が、ここで交差するのです。


仁王門
門をくぐると、石段が始まります。本堂までが、333段なんだそうです。


石段
私はこの石段での出来事を、「初めての遍路」のリライト版→(H13冬3)に、次の様に書いています。
・・H21年4月、ようやく88番まで打ち終えて、切幡寺に参拝したときのことです。長い石段の中程に、息子夫婦と見られる二人に付き添われ、おばあさんが立っていました。


石段
・・「お達者ですね」と北さんが声をかけると、おばあさんは堰を切ったように、「残念です、無念です、(お大師さんに)お会いしたかったのに、ヒザが・・」、と話し始めました。
・・膝が痛くなって、登れなくなっていたのでした。付き添いの二人が、「気持ちは届いとるよ。見てくださっとるから」と懸命に慰めるのですが、おばあさんは、得心できないでいたのでした。


石段
・・おばあさんは、北さんとの会話で、少し癒やされるところがあったようでした。やがて、その場でお祈りをして、降りることになりました。
・・思うに北さんは、88ケ所巡拝を願いながら出来ないでいるご自分の母上を、おばあさんに重ね、話をしていたようです。その心が通じたのでしょうか。


本堂
本堂、大師堂では、おばあさんとの約束を果たしました。
おばあさんのがやむをえず引き返したことを、念のため、私どもからもお伝えさせていただきます、と約束していたのです。


景色
上からの景色です。ボンヤリした写真で残念なのですが、吉野川が流れています。その向こうは、遍路転がしの道がある山々です。


下り
下りは石段を避けました。
途中、話し合って、今日の宿を6番安楽寺に予約しました。
少し遠いのですが、・・時間の許す限り逆打ちで歩いてみよう。遅くなるようならタクシーを使ってもいいではないか。・・ということになったのです。
タクシー利用を安易に口にするとは、たちまちタガが緩んでしまった証拠です。


シャクナゲ
石楠花が、ひっそりと咲いていました。わずかに黄味がかった白が数輪、風情を感じさせます。


9番へ
9番法林寺に向かって、県道237号を東進します。
しかし、(写真のように)順打ちならで随所で、・・あなたが歩いている道は正しい道です・・と教え、励ましてくれる立て札も、・・



逆に歩くと、裏側から見ることになり、なかなか目に付くことがありません。
逆打ちはむずかしいと思いました。
これが交差点ともなると、より難しくなります。
まず立て札やシールを探し、その貼られている場所から、自分の進むべき道を割り出さなければなりません。右方向から来た人に見やすく貼られているから右へ進む、などの判断を瞬時にしなければならないのです。


交差
困った時、一番の助けになったのは、前方から歩いてくるお遍路さんでした。この人達の流れを遡れば、間違いはないのですから。


苗床
私達がこの道を、切幡寺に向かって歩いたのは、8年前のことでした。 
まだ不得要領の遍路で、頭陀袋より先に菅笠をかぶってしまい、頭陀袋がかけられなくなったり、お杖を置き忘れて取りに戻ったりの失敗を繰り返していました。
加えて私は足弱で、・・私は自分の足を、日に15キロしか歩けない「15キロ足」と名付けていました。・・何回も立ち止まったり、肉刺の手入れをしたり、・・それはもう大変だったのです。


かぼちゃ
しかし8年の歳月は、そうした辛さをも、どこか懐かしい思い出に変えてくれたようです。
いろいろの楽しかったことが思い出され、ふたりで話し合いました。
・・和三盆をつくっていた老夫婦の作業所は、どの辺だったろう?
・・初めてのお接待は、ここら辺じゃなかったか?
・・この鎮守さんで、年用意をする集落の人たちと話したな。(その日は12月25日でした)。
・・そうそう、注連縄の作りが地方によって違うとかの話だった、などなど。


ツツジ
8年前、切幡寺で北さんがつくった句です。
  心経の 唱和のリズム 春隣  北
5人くらいの比較的若い人たちの般若心経でしたが、どうやら自宅でも日常的に唱和しているらしく、彼ら独特の、歌うかのようなリズムをつくりだしていたのでした。その声が、あたかも春を呼んでいるように聞こえ、こんな句が出来ました。


小豆洗い大師
大師堂の右に井戸があります。「小豆洗い」という名の、興りとなった井戸です。
・・その昔、12月24日のことだったといいます。(8年前の私達と一日違いです)。法輪寺を建立した大師は、切幡寺の地へ向かっていましたが、ここまで来て、あいにく日が暮れてしまいました。
・・やむなく野宿することとなりました。ところが冬のこととて寒さは厳しく、大師は「小豆がゆ」をつくって、身体を温めようと思い立ちますが、・・しかし如何せん、水がない!
そこで大師が湧かせた「お杖水」が、この井戸だというのです。この譚に因んで、井戸の側には大師堂が建てられ、人はそれを、「小豆洗い大師」と呼び始めたのだといいます。



・・十番札所・・とあります。四国ならではの路面標識です。


9番法輪寺駐車場
法輪寺駐車場でのことです。初めての逆歩きをこなしてホッとしている私達に、話し声が聞こえてきました。
遍路バスから降りてきた人たちの中から聞こえてきた声です。
・・ 見ろ、杖があんなにすり減っている。
・・大変なんやなあ。


9番法輪寺
私たちのことでした。確かに私たちの杖は、20数センチは減っています。
しかし、穴があったら入りたいとは、こういう時のことを言うのでしょうか。
・・ちがいます、ちがいます。私達は8年もかけて、のんびりと廻ってきた遍路なんです。苦労なんかはしていません。
心中で、こんな言い訳をしながら、足早に通り抜けたのでした。


熊谷寺山門
熊谷寺山門です。途中、道を一本間違えましたが、すぐに気づいて修復。まあ順調に着いたと言えましょうか。
休んでいると、中年の男性遍路が降りてきました。新しい装束を身につけています。
挨拶をすると、・・やはり山門から入り、山門から出ませんと・・と、いかにも自分の律儀さを恥じるように言いました。聞けば、脇道から境内に入ってしまったので、きちんと山門から入ろうと、ここまで降りてきたのだそうです。なかなか出来ないことだと思いました。


熊谷寺山門
時刻は4:30となりました。7番十楽寺を飛ばすことになりますが、今日はここで終わりにします。
予定通り、タクシーを呼んで、今日の宿、安楽寺に向かいました。


安楽寺本堂
運転手さんに安楽寺に泊まると話すと、
・・大部屋に雑魚寝なんだってね。一応、区切りはつけるらしいけど。・・と返ってきました。
それを聞いて、(今の私は贅沢になっているので)とたんに気持ちが暗くなり、・・止めときゃよかった、・・ちょっと後悔していました。


食堂
お参りをして宿坊に行くと、・・雑魚寝などとは、とんでもない。
施設はホテル並み。お坊さんの宿泊者への応対も訓練されており、丁寧かつ的確です。
・・北さん、お席はこちらです。・・などと、多数の宿泊者にもかかわらず、固有名詞で呼ばれたりします。到着時に記憶することを、習慣づけているのでしょう。
運転手さんの情報は誤っていました。安楽寺は駅路寺400年の伝統と誇りを、斯く、現代風に進化発展させていたのです。


文字
ご住職が、粋なことをしてくれました。通路の壁に、空海の直筆と伝わる「飛白十如是」(ひはく・じゅうにょぜ)を大理石に彫り、貼り付けてくれたのです。(真跡は焼失している)。
見るばかりでなく、触ってもいいとのことで、私なんぞは空海気分で、指でなぞらせてもらったりしたものでした。
写真の部分を読んでみると、右から、「如是相」「如是性」「如是體」でしょうか。左端は、順当なら「如是力」らしいのですが、私にはなぜ「力」と読めるのか、わかりません。


遊び心
「性」と「体」の部分を拡大して見ました。それぞれ偏の部分に、小鳥や蝶をあしらっているのが見えます。遊び心がいっぱいです。
なお「飛白」とは、刷毛でかすれ書きした書体をいうようです。


文字
「空海」と書かれています。
「海」は、「毎」の下に「水」です。

 7日目 平成21年(2009)4月26日 


部屋の窓からの景色です。
・・一番いい部屋ですよ。・・と言われていましたが、わら屋根といい多宝塔といい、それらに当たる朝日といい、なるほど一番でした。


板野駅
高野山へ、との案もありましたが、今回は止めにしました。
星の岩屋、慈眼寺を訪ねます。私は前にも参っていますが、その私の話を聞いて北さんが行きたくなったのですから、これはもう、付き合うしかありません。それに、何回行ってもいいところですから。
バスで板野駅に出、電車で立江まで行きます。


お接待
徳島駅で下車し、帰りの飛行機を予約しました。明後日の最終便で帰ります。これについては、駅前のローソンさんで大変お世話になりました。多謝!です。
信号待ちをしていると、女性が話しかけてきました。話しながら鞄をガサゴソ。取り出したのが、写真のキシメンです。きっと自分で食べる用に買ったにちがいないのですが、彼女は、お接待を優先してくれたのです。


阿波踊り
喫茶店で電車待ちをしていると、隣席の人が、・・今、阿波踊りをやっていますよ。すぐそこですから、見ていきませんか。・・と話しかけてくれました。「はな・はるフェスタ2009」が開かれていて、阿波踊りの有名連が、全部出場するとのこと。
電車をひとつ遅らせ、見に来てしまいました。


阿波踊り
踊りは洗練されて、夏の踊りの汗臭さは消えています。
しかし笛や太鼓は、否も応もなく、見ている側をも反応させてしまいます。やっぱり、踊る側だけでなく見る側も、アホウです。


阿波踊り
踊りの発祥には諸説ありますが、蜂須賀家政公が徳島城を築城した時、落成祝賀行事で踊られたのが最初、というのが有力説です。
 〽阿波の殿さま 蜂須賀さまが 今に残せし 阿波踊り


徳島新聞
「はな・はるフェスタ」を報じた、翌朝の徳島新聞です。


立江寺
立江寺は、北さんと私にとって、思い出深い寺です。8年前、恩山寺で出会った二人の女性遍路に、立江寺で再会。彼女たちにはずいぶん助けられたものでした。
あの日、「金子や」さんが急遽、休業となったのですが、その第一報を伝えてくれたのは、彼女たちでした。その後、相前後して歩くことになり、・・ここでは弁当と水を仕入れた方がいいよ、・・などと、細かくアドバイスしてくれました。
お礼も言わず、いつのまにやら別れてしまったのでしたが、お元気でしょうか。


立江川
白鷺橋から撮った、立江川です。左下隅に白鷺橋の赤い欄干が写っています。
立江川に限らず、日本の川は一時に比べて、ずいぶんきれいになったと言われています。しかし「立江川生まれのへら鮒」さんに言わせれば、・・だけど昔とは違う。なによりの違いは、昔は、いろんな生き物が棲んどった。・・とのことです。
きれいにはなっても、それは人の目から見た「きれいさ」で、生き物に棲みやすい環境ではない、というのでしょう。だから鯉も泣いている(看板)のです。


鮒の里
なお「立江川生まれのへら鮒」の出自については、立江の遍路宿「鮒の里」のHPをご覧ください。自己紹介が載っています。
・・私は立江川で生まれたへら鮒です。県立 立江川へら鮒学校卒業。鮒の「目」で見る、へんろ道の案内人です。



立江寺から県道28号・阿南-小松島線を左折。県道22号・阿南-勝浦線に突き当たると、これを右折。沼江大師の先、ローソンの角を左折。勝浦川沿いに県道16号・徳島上那賀線を遡ると、星の岩屋への登り口になります。
この間の道中については、本号では略させていただきます。他号との重複を避けるためです。→(H14春1) →(H19春1)


勝浦川
橋を渡り、写真奧の山を登ります。
星の岩屋の標高は250㍍。橋の辺りが30㍍余ですから、標高差220㍍ほどを登ることになります。


看板
星の岩屋への道に特徴的な案内板です。
当地は、ツチノコの生息地!なのです。上には、土の児神社もあります。


蜜柑の花
♫ミカンの花が咲いて・・はいませんが、やがて咲きそうです。
写真を撮っているとミカン農家の方が出てきて、
・・どっからおいでたん?
・・埼玉です。
・・それはそれは、私の娘が埼玉に住んでます。
ということで、長い話が始まりました。お父さんは私達を、娘さんの隣人のように遇してくれました。


下の景色
登っていると、お父さんが軽トラで追いかけてきました。・・家で作っているチャンドラ・ポメロを、一個ずつお接待します。・・と言うのです。
見れば、美事な柑橘です。しかしチャンドラ・ポメロは直径15センチほどもあって、皮は厚く、とても重いのです。(写真を載せたいところですが、人が写っており、載せられません)。
・・いや、ありがたいのだが重いし、どうしようか、・・などと躊躇っていると、・・そんなら荷物はワシが預かってやる。お参りしたら、下まで送っちゃるけん。・・とのことです。



そんな次第で、私達はお父さんに荷物を預け、その先、空身で登ってまいりました。



仁王さながらに、両脇に杉が立っています。


本堂へ
星の岩屋に伝わる「流れ星伝説」などについては、→(H19春1) →(H25秋遍路6)でふれています。ご覧ください。


裏見の滝
前回は水が落ちていなかったのですが、今回はたっぷりと流れているようです。


不動尊
裏見の滝は、表から見れば不動の瀧です。


軽トラから
星の岩屋から下っていると、軽トラが上ってきました。
さっきのお父さんが、迎えに来て下さったのです。遅いので心配されたのかもしれません。
荷台にザックとチャンドラ・ポメロが積まれているので、まずポメロをザックに詰め込み、私達も荷台に載せていただきました。


勝浦川
お父さんは、県道16号まで送ってやると言いますが、勝浦川の手前で下ろしていただいて、歩くことにしました。
おかげさまで時間が出来たので、ゆっくりと歩きます。
チャンドラ・ポメロはズシリと重いけど、それは心地よい重さでした。


野原
河川敷に降りて、休むことにしました。
寝転がっていると、トンビの声が聞こえてきました。ゆっくりと雲が流れて行きます。
自転車の中学生集団がやってきました。野球をするのだといいます。もう最近の都会では見られない、「縦割り集団」でした。1年生も2年生も3年生もいます。
ただ残念なことに、小学生はいませんでした。ここが、昔の地域子供集団とは違うところです。昔は弟や妹たちが、かならず兄たちに付きまとっていたものでした。面倒だからと連れて行かないと、兄は親に叱られました。中には赤子連れの兄が居たりもしたものでした。


よってネ市
4:00過ぎ、県道16号の「JA東とくしま」から「さかもと」に電話。迎えを頼みました。


さかもと着
「ふれあいの里 さかもと」です。
「さかもと」は、単なる宿泊施設ではありません。「ふれあいの里」としての活動を、多彩に展開しています。
それらについて、次の号で若干ふれてみましたので、よろしければ、ご覧ください。→(H19春2) →(坂本慈眼寺)

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号更新は12月13日の予定です。(早くも師走なのですね)。
慈眼寺に登り、鶴林寺登り口に向け、旧遍路道を下ります。

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87番長尾寺から 前山おへんろふれあいサロン 88番大窪寺

2023-10-18 | 四国遍路

 
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  5日目 平成21年(2009)4月24日

長尾の宿
みんなで一斉に宿を出ました。何方もがゆったりと歩いている風に見えるのは、残り少なくなった先を惜しんでいるからではないしょうか。
昨晩、皆さんが異口同音に話していたのは、
・・讃岐路にはいって、行歩の一歩一歩を「大切」に思いはじめた。・・ということでした。「大切」が含意するものは人それぞれですが、何方にも共通して言えることは、もはや惰性の一歩はない、ということです。


宗林寺
浄土真宗の寺、宗林寺です。
たぶん歩きはじめて間もないからでしょう、どなたも通り過ぎてゆきますが、・・気になれば立ち止まる・・が、もはや習い性となっている私たちは、門前の「弁慶の馬の墓」が気にかかり、立ち止まりました。
すると嬉しいことに、ここは俳句の寺でもありました。参道両脇の句碑にさそわれ入って行くと、境内にも句碑がいっぱい。とりわけ山頭火さんの碑が多いと感じたのは、山頭火さん好きの、私の気のせいかもしれませんが。
静かな思索の刻を持つことができました。ありがとうございました。


弁慶の馬の墓
寿永4年(1185)、阿波小松島に上陸した義経は、手勢150を引き連れ、屋島へと急行しました。その急行軍に、弁慶の愛馬は耐えられなかったようです。
・・弁慶の馬といえば、ラオウの馬クラスの馬だったのだろうな。・・と北さんに話したら、北さんが、・・弁慶ほどの巨漢をのせたのだから、きっと南部馬だったろう。平泉で手に入れたのかもしれんな?とつづけました。おそらく北さんの指摘は、(弁慶が実在していたなら)当たっているのでしょう。私たちは今治で野間馬を見て、日本在来馬が小型だったことを知っています。→(H17春2)ただし北さん、「ラオウ」は存じておらないようでしたが。
なお、どれが「弁慶の馬の墓」なのかは、わかりませんでした。もしかすると碑の前に転がっている(半分だけ写っている)丸石が、そうなのかもしれません。
追記:どうやら弁慶と義経(牛若丸)が出会うのは、義経が平泉から帰ってきてからのこと、となっているようですね。とすると、南部馬ではなかったかもしれません。



遍路道は、長尾寺から4キロほどを南下。その先、前山で分岐します。女体山を越える女体山遍路道と、竹屋敷を経由する花折れ遍路道です。
そのいずれを行くかは、この時点では、まだ決めていませんでした。北さんは前回の遍路で、ピタリと合っていた靴を履きつぶしてしまい、今回は新しい靴で歩いています。ところが、これがどうやら、しっくりと足にきていないらしいのです。初めてのマメも体験しています。
というわけで、その先いずれを行くかは、「前山おへんろ交流サロン」で情報をいただいて、それから決めよう、ということにしたのでした。


一心庵
案内板によれば、明和元年(1764)の草創で、阿弥陀如来を祀っているそうです。庵が遍路道に沿っていることから、ここでは広範な地域からの出張接待がおこなわれ、とりわけ小豆島の肥土山接待講は、ここに常接待の場を設けていたといいます。
手水鉢に刻まれた文字が、当地と肥土山との関係の深さを示しています。
・・寛政3年(1732)御料 小豆島肥土山邑 万人講 太田氏妻
この「太田氏」は、小豆島で大庄屋を務めた太田氏であるとのことです。
また、当・塚原地区では、かつて(50年ほど前までは)農村歌舞伎が盛んだったそうです。そのことと、小豆島肥土山で(今もなお) 農村歌舞伎が盛んであることとの関わりに、案内板は注目しています。小豆島から伝わったか、小豆島へ伝えたか、その辺の研究が待たれるということでしょう。


高地蔵
案内板によれば、・・この高地蔵は、旧長尾西村、長尾名村、前山村の庄屋が発起人となり、文久元年(1861)、三か村が接するこの地に建立された、とのことです。4メートルに余る高さであることから、「高地蔵」と呼ばれている、と書かれています。
高地蔵は、阿波・吉野川下流域で多くみられる信仰で、大洪水が起きた年の建立が多いことから、洪水犠牲者を供養するものとして建てられた、と考えられています。本・長尾の高地蔵も、近くに鴨部川が流れていることから、鴨部川氾濫との関わりは、大いに考えられるところです。


「流水潅頂保存会」の案内書
なお、本・高地蔵の建立について、「流水潅頂保存会」の案内書は、次の様に記しています。
・・安芸の忠左衛門という方が136回目の遍路中、この地で亡くなり、そのことを契機に地元の弁蔵らが、行き倒れのお遍路さんを供養するため、文久元年(1861)、高地蔵を建設。この頃から、この高地蔵を本尊とする「流れ潅頂」の法要が、盛んになった。
建立年が案内板と同じなので、あるいは「地元の弁蔵ら」=「三か村の庄屋たち」とも考えられますが、案内板には、・・忠左衛門の墓碑を弁蔵・伊三良が発起人となって建立した・・とも記されていますから、とすると「弁蔵ら」と「庄屋たち」は、別人とも考えられます。


流れ潅頂(案内書より)
「流水潅頂保存会」の案内書から、写真をお借りしました。
上の写真は、毎年3月に行われるという、流水潅頂の法養で、高地蔵の前で執り行われています。高地蔵の御手が、上記の趣旨の通り、白布で遍路・忠左衛門の墓石につながれています。
下は、鴨部川の河原で行われている「流れ潅頂」です。


高地蔵側の石仏 
「流れ潅頂」は、その執り行われる趣き、方法とも、地方によって異なるようですが、goo辞書は、次の様に記しています。
・・出産で死んだ女性の霊をとむらうために、橋畔や水辺に棒を立てて赤い布を張り、通行人に水をかけてもらう習俗。 布の色があせると亡霊が成仏できるという。 地方によっては水死者のためなどにも行い、供養の仕方にも違いがある。


馬の墓
  明治24年11月1日 瓦毛馬 あわ川畑在
と読めるのでしょうか。「あわ川畑」は自信がありません。
「瓦毛」の馬が亡くなったようです。「瓦毛」は、「川原毛」とも書く薄茶色の馬の毛色です。その姿が刻まれ、愛されていたことがうかがわれますが、馬の名前は、記されていません。
塩原太助が愛馬を「アオ」と呼んだり(青毛は黒色です)、義経が「太夫黒」などと格式高く呼んでいたことが伝わっているので、名付けの習慣はあったのですが、この馬は、二人称は「お前」で、三人称は「うま」だったのでしょう。(残念ながら上掲・弁慶の馬の名は、わかりませんでした)。


馬の墓
また、馬の名前がないだけでなく、施主(飼い主)の名前もありません。・・あわ川畑在・・と、その在が記されているだけです。
なぜでしょう。畜生の墓石に自分の名を刻むことを、嫌ったのかもしれません。嫌いながらも、輪廻転生、それが来世の己かもしれないと思えば、徒やおろそかにも出来ず、墓標は建てて弔った、そんな複雑な心境だったのかもしれません。


家畜供養塔
「あわ川畑」と読めるのかどうかわかりませんが、だとするなら、そこは、今日の「阿波川端」なのかもしれません。阿波川端は、1番霊山寺がある坂東の西隣です。この辺まで荷馬としてやってきて、亡くなったとも考えられます。
物流の道だったからでしょうか、近くには別の馬の墓もありました。残念ながら写真を紛失しましたが、それは、人の墓からわずかに距離を置いた所に在りました。少し離れているとはいえ、人墓の近くであるのは注目されます。
写真は、立江で撮った「家畜供養塔」です。明日は我が身と思えば、家畜も大切にしなければなりません。


喫茶店
何度も書きましたが、北さんはコーヒー好きです。素通りは出来ません。
店の方と高地蔵の話を始めたら、上掲「流水灌頂保存会」のポスターを持ってきてくれました。ポスターを読みやすいように拡大コピーし、さらにクリヤーホールダーに挟んでくれています。説明を求められると見せられるよう、準備してあるのだそうでした。
一読して、またいろいろと話していただきました。高地蔵と忠左衛門の墓石が白布でつながれていることも、この話の中で知ったことです。


道祖神
道祖神が並んでいます。一ヵ所に集めてくれたおかげで、双体道祖神を何基も、まとめて見ることが出来ます。うれしいことです。
双体は男神と女神で成っており、男神は、猿田彦命とされています。瓊瓊杵尊をリーダーとする「天孫降臨」の一行を「天の八街」(やちまた・道がいくつもに分かれているところ)で待ち受け、葦原中国(あしはらのなかつくに)へと先導した国津神。それが猿田彦命です。その功績から、猿田彦命は「道の神」とされ、やがて道祖神と習合しました。


双体道祖神
女神は天宇受売命(あめのうずめ命)で、天岩戸の前で踊り、天照大神を岩戸から誘い出した神です。天孫降臨の一向に加わっており、のちに猿田彦命の妻となりました。
なお双体道祖神は、男女二神の双体であることから、良縁・子授け・安産の神ともされています。


未完堂
こちらには、さまざまの石仏が集められています。
写真奧の建物には、未完堂とありました。


道標
越智郡朝倉村(現今治市)の武田徳右衛門が建てた、「徳右衛門道標」です。多くの徳右衛門道標のうち、この道標は寛政6年(1794)の建立で、初期のものだとのことです。
  (大師像) 是より大窪寺迄二里半
とあります。徳右衛門道標は、四角の石柱(多くは頭がかまぼこ形)の上部に大師像が刻まれ、その下に次の札所までの距離が記されているのが特徴です。次までの距離の表示に、遍路たちはどれほど助けられたことでしょう。なお武田徳右衛門の没年は、文化11年(1814)とのことです。


ダム
旧遍路道から県道3号・志度-山川線に出ると、「梅ヶ畑」バス停がありました。この地点からは、鴨部川を渡り、女体山越えの道に進むこともできますが、私たちはこの道はとりません。私たちがまず目指すのは、「前山おへんろ交流サロン」です。
写真は、「梅ヶ畑」バス停からら約300㍍ほど歩いた地点で撮ったものです。前山ダムが見えてきました。


道標
前山ダムの堰堤手前に、三連の道標が建っていました。
 車道直進大窪寺10.6キロ
 左ダム渡る女体山越え大窪寺7.8キロ
 車道直進並足歩行 所要約2時間50分 
 女体山越えは所要約1時間余分かかる
 登坂峻険約500M絶景・官道のコース也
ここからも女体山越えの道に出られるようですが、まずは「前山おへんろ交流サロン」を目指します。


ダム湖
前山ダムの堰堤から撮りました。もうここには来ないかもしれないので、堰堤に立ってみたのです。
前山ダムは、鴨部川を堰きとめて造ったダムで、治水と上下用水の確保が目的だそうです。


前山ダム堰堤から
下流方向は鴨部川です。
私たちが最初に鴨部川に出会ったのは、長尾寺の2キロほど手前でした。へんろ橋が架かっており、側の休憩所でドイツ母娘の忘れ物を拾得したのでした。
へんろ橋を渡って鴨部川右岸に出、しばらく川とは別れていましたが、長尾寺の先、一心庵がある塚原で、塚原橋を渡って左岸へ。その後は、左岸を川沿いに遡ってきました。


前山
「前山おへんろ交流サロン」の訪問は、(前々々号で記した)加茂の休憩所で「遍路大使任命証」や「結願バッジ」のことを教わって以来、ずっと楽しみにしていました。→(H21春1)


前山おへんろ交流サロン
到着です。
「前山活性化センター」を借りて、「遍路史料展示室 おへんろ交流サロン」が設けられています。
入館すると年配の男性がやって来て、・・おつかれさま。どうぞお座りください、・・と言って、お茶を出してくださいました。
訪問者名簿に名前を書いて、問われるままにこれまでのことなどを話していると、・・


結願バッヂ
もう一人、別の方がやってきました。
「遍路大使任命証」と「結願バッジ」を持ってきてくださったのです。
私たちの前に揃えて置いて、・・お受け取りください・・と。
任命書には、私たちの名前が記されていました。そのための名簿記名だったとわかりました。
ウレシー!と、思わず声が出ていました。北さんは、・・これかぁ・・と、感慨深げです。


野根のゴロ石
・・この道には小辺路修行の岩とおもわれるものが、点々とあります。
展示場を周りながら、けっこう詳しい説明をしてくださいました。せっかくの説明にもかかわらず、理解力不足だったのは申し訳ないことだったと思っています。
メモには、・・野根ゴロゴロを昔の遍路たちがどう越えたか、館員さんが仮説を述べられ、意見を求められた、・・などとも記されています。どんな仮説だったのか、メモに残せなかったのは、今更ながら残念です。


納め札
写真撮影OKとのことでしたので、いっぱい撮らせてもらいました。
これは納め札の変遷の一部です。天井に吊した俵には、善根宿に遍路たちが残した納め札が、詰まっています。たくさん溜まると、俵に詰めて、家の一番高いところに吊したのだそうです。



写真は、つい最近届いた俵だそうです。巻き尺は北さんのもので、50センチ引き出されています。縦は、1メートル弱でした。
・・これね、届いたばかりで、俵から(納め札を)出しよるんですわ。ご覧になりますか?・・と言ってくれました。
むろん、ぜひとも見せてください、とお願いしました。


納め札の塊
これを解すのは大変な作業だと思います。
・・薄皮をはがすように取り外してゆくんですよ。・・と、おっしゃっていました。


納め札
さすがは和紙です。はがし、延ばすことが出来ました。
印判の使用が多いのは、やはり手書き作業が大変だからでしょうか。
文字の崩しが強くないのは、確固とした信心を表したいからでしょうか。


納め札
延ばした札をファイルします。そして、これらを一枚一枚、解読し、記録します。
これまではノートに書いてきましたが、これからはエクセルを学んで、データベース化しようと思っている、とのことでした。
・・先の長い話ですが、楽しいですよ、・・と話してくれました。


道の駅ながお
気がつけば、2時間近くの滞在になっていました。まだ足りない気がしていますが、そうもなりません。
道の駅で弁当を買い、出発することにします。
道は、真念さんが拓いたという「花折れ遍路道」です。女体山越えを避けたのは、私の疲労を考えてのことでした。北さんの靴の問題は、解消していたのですが。


句碑
  打ち終へて 三寸減りし 遍路杖
一寸は3センチほどだがら、三寸は9センチ余です。
歩き始めた頃は、邪魔とさえ思ったお杖です。・・なんで四角なんだろう、持ちにくくて仕方がない、・・なんて思っていたものです。
・・一突、一突が力を与えてくれます。・・などと書いているのを読んだときは、・・そんなことは自分には起きないことだ・・と思っておりました。


お杖
ところが今はどうでしょう。もはやお杖は欠かせません。U字溝の穴に突き込むなんてことは、もうなくなりました。万一突っ込んでも素早く反射し、差し障りなく引き抜くことが出来るのです。杖の四角も(お杖タコができて)今は苦になりません。杖に風圧を感じて、楽しんでいたりもします。
因みに、杖の材質にもよるのでしょうが、私たちの杖は、20センチ以上、つまり8寸近く減っていました。


結願の道
・・俺たちは結願を、明るく迎えるのだろうか、しんみりと迎えるのだろうか、・・こんな問いかけを、北さんにしてみました。
北さんは応えなかったのですが、どうやら’しんみり’については否定的のようでした。「交流サロン」での喜びようから一転、’しんみり’などは、考えられなかったのかもしれません。
また私たちは通し打ちではありません。区切り歩きを重ね、無理せず歩いてきました。トンネルを抜けるよりは、極力、峠を越えるようにはしてきましたが、それは「修行」というより、私たちの「遊び心」からでした。「内省」よりは「鵜の目鷹の目」。そんな遍路を続けてきた私たちに、「感極まる」などのことは、起こりそうもないと思われました。


五剣山
ふり返ると五剣山が見えました。
山は見る方角により、その姿をすっかり変えてしまいます。しかし五剣山は、どこから見ても五剣山です。


休憩所
前山を出て以来、誰にも会うことなくやって来ました。
私たちだけの道です。ウグイスも、私たちだけのため、鳴いてくれています。



昼食をとることにしました。道の駅で買ってきたチラシ寿司と、北さんからのお接待の巻きずし、それにアンパンをいただきました。


峠の地蔵さん
峠にはお地蔵さんがいらっしゃって、旅人はこれを優しく護り、邪悪なるものは厳しく、その立ち入りを許しません。写真は、ここ相草東峠のお地蔵さんです。「相草東」は、今日の地図では、「多和相草東」と表記されています。
このお地蔵さんは、「七十丁の地蔵」と呼ばれていたようです。相草東峠が大窪寺から70丁の地点とされ、ここを起点として、1丁(約109㍍)毎に丁数を減じながら、丁石が造立されていたからです。
その多くは現存し、実際、私たちもそのいくつかを、目にすることができました。


世話人
地蔵堂の側に、新旧2基のの石碑がたっていました。
古い円柱の碑には、・・大正十五年六月・・ 世話人 峠・・
新しい石板には、・・遍路道 相草東峠 地蔵 世話人 (八名の名前) 昭和五十二年八月
とあります。新旧の碑に、共通して峠姓が見られることから、峠一族が、代々、この地蔵さんの「世話人」役を務めてきたことがうかがわれます。
なお、古い円柱碑の「大正の大」は、欠けていて判読できませんが、真念さんがこの道を拓いた江戸時代以降で、「正」が後ろにつく「○正」の年号は、大正しかありません。また大正15年は、昭和に改元された年でもありますが、改元は12月なので、6月はまだ大正時代でした。


志度高校の遍路ウォーク
後方から軽快な足音が聞こえてきました。ふり返ると、短パン半袖の男の子が一人、駆けてきます。
北さんが、・・おーい、どこまで走るんだい、・・と問いかけると、彼は立ち止まり(でも足踏みは続けながら)・・大窪寺まで走ります。志度高校1年の「遍路ウォーク25キロ」です。・・と応えてくれました。
北さんが、・・「ウォーク」なのに走るんかい、・・と言うと、それへの返事は、
・・はい、一位を狙っています。・・でした。
それを聞いて北さんは大あわて、・・えっ、ごめん、行って、行って!



彼は走り出してくれたのですが、・・事はそれでは終わりませんでした。
申し訳ないと思った北さんが走る後ろ姿に向かって、・・ガンバレー!ごめんな!・・と叫ぶと、彼は、また立ち止まり、・・ありがとうございます・・と、一礼してくれたのです。
北さんは、・・いけねぇ、またやっちまった!・・と反省しきりです。
それにしても、なんと清々しい若者だったことでしょう。


チェックポイント
多和小学校に設けられた、志度高校のチェックポイントです。
先生に彼の話をし、邪魔をしたことを詫びると、
・・いいえ、お気になさらずに。これは「遍路ウォーク」なのです。ですから、お遍路さんに呼びかけられたら、それに応えない方がおかしいのです。それに、この行事では順位やタイムは、格別には競ってはいません。
・・あの子は、ただ速いだけの一位を狙っていたのではないと思います。狙っていたのは、いわば’名誉ある一位’ではなかったでしょうか(笑)。
先生は、こんな意味のことを話してくれました。なるほど、勉強になりました。時に見かけるスピード遍路さんにも、参考になる話だと思います。


三本松峠口三十六丁石
案内板には、次の様にあります。
・・丁石より右前方の急な坂を登り、頂上より山の背を左折して、東へ進む。前方の三本松峠の開削は、(九十年前の)大正年間である。
・・それ以前百五十年間のへんろ道は竹屋敷まで山の稜線に沿って木々の間をたどったのである。今も山中にへんろ墓や、生物が落ち葉に埋もれて、長い長い眠りを続けている。
「山の稜線に沿ったへんろ道」いつか歩いて見たいものです。


竹屋敷口三十丁石
・・大窪寺まで、あと約3.3キロメートルとなった。竹屋敷・槙川・兼割(かねわり)と、結願寺までの最後の村里へ入って行く。
・・三十町、二十九丁の丁石は、高松塩屋町の中條氏の二人の尼僧が施主となっている。
・・「法界万霊」のためとして、あらゆる霊魂の菩提を祈るもので、この地で250年の歳月を経たものである。
・・このあといよいよ結界へ近づく。


 
結界へと近づいてゆきます。


もうすぐ田植え
水が張られています。間もなく田植えでしょう。
畦沿いに足跡がついているのは、最後の畦点検に廻ったからでしょうか。


もうすぐ田植え
右は、もう水張田ですが、左は、まだです。
田起こしは終わっているので、今日明日にも、水が張られるのでしょう。



志度高校1年生全員による「遍路ウォーク」の、最後尾の子たちです。
24キロも歩いてきたドベ(最後尾)集団ともなると、先生に追い立てられながら・・モーヤダー、シンドーイ、車ノリターイ・・などとブータレているものと思っていましたが、想像は外れていました。
先生の姿は、見えません。
ブータレルどころか、足を痛めた子を励ましたり、助けたりしながらゴールを目指す姿には、感動すら覚えさせられました。


矢筈山 
写真は、矢筈山でしょうか。
この地点で左方向に見える山は、矢筈山(788㍍)なのですが、確信は持てません。というのも、矢筈山には、その名の通りピークが二つあるはずなのですが、この地点からは、一つにしか見えていないからです。お化け煙突のように、やがて見えてくるかと期待しましたが、確認できませんでした。
(ピークが二つある山に、「矢筈山」という名がついていることが多いのは、「矢筈」がMの形をしているからです。Mには、ピークが二つあります)。


ゴール
「遍路ウォーク」のゴールです。
先生方に、・・いい生徒さんですね。あんな子たち相手の毎日は、楽しくてしようがないでしょう、・・と話すと、こんな応えが返ってきました。
・・いえいえ、体力勝負ですよ。
たしかに、ある程度歳をとると、「若さ」に接するだけで疲れますものね。それも毎日毎日のことともなれば、体力勝負というのもわかります。しかも、こちらは老いてゆくばかり。敵は毎年、入れ替わって新しくなるのですから。
なお、(前述の)彼は、度重なる「妨害」にもかかわらず、美事、栄えある’一位’でゴールしたそうです。


お参り
とりあえずのゴールは山門の手前。しかし「遍路ウォーク」の最終ゴールは、大窪寺本堂・大師堂での参拝です。むろん参拝は、強制されてはいませんが、見た限り、全部の生徒が向かっているようでした。
勝利(克己)の報告でしょうか、学業成就のお願いでしょうか、痛い足を引きながら本堂へ向かう姿は、たしか、私たちにも「覚え」があるような・・。


結願へ
さて、「遍路ウォーク」に夢中になっていましたが、いよいよ私たちも、自分たちの「結願」に向かわねばなりません。
仁王門をくぐります。その大きさが印象的です。
なお、大窪寺にはもう一つの門、二天門があります。いつしか定まった、私たちのお参りの仕方からいえば、私たちは二天門から入るべきだったのですが、この時は気づきませんでした。


石段
「結願」の時がきたというのに、よく話に聞く「感動」のようなものは、私の中には生じていませんでした。
もちろん嬉しさはありました。やや神妙にもなっていました。けれども、それらは「感動」と呼べるような、非日常的な感情の動きではありませんでした。その意味では、私はいつも通りだったのです、
淡々と石段を上ってゆきました。



玉泉寺でも見ましたが、この時季、藤が満開でした。
ミツバチがいっぱい来ていました。ご利益いっぱいの蜂蜜になることでしょう。


お大師さん
撮りはぐりましたが、藤棚の側に、大師堂があります。本堂にお参りした後、またここまで引き返してきます。
大きな大師像は、弘法大師 御入定 一千百五十年記念 の像です。


小さなお大師さん
「万体お大師さん」とでも言いましょうか。前々号に寄せられた天恢さんのコメントを思い出し、掲載しました。


お杖
寶杖堂(ほうじょう堂)というのだそうです。歩き終えた人たちのお杖が、奉納されています。
これらは毎年、春と夏、「柴灯護摩供」で供養されるのだそうです。ただし私たちは、持ち帰ります。


原爆の火
寶杖堂の前に「原爆の火」がありました。
ヒロシマ・ナガサキは、残念ながら、まだ過去のこととはなっていません。
現在のことです。


青い桜
売店のおばさんが、・・青い桜が咲いてるよ、・・と教えてくれました。
私が知る「青い桜」は葉桜を意味しますが、おばさんが言うのは、葉ではなく花でした。初めて見る花でした。
・・ありがとう、・・と声をかけると、気合い声が返ってきました。
・・大きな声でお参りするんよ、お大師さんに聞こえるようにね!


本堂と胎蔵峰・女体山
本堂が見えてきました。しばらく立ち止まり、眺めました。
・・では、参りますか、・・と北さん。
・・参りましょう、・・と私。
声を交わし、本堂前へと進みました。
ローソクを灯し、線香を立てました。動作が、いつもより心なしか丁寧だったでしょうか。
読経は、いずれかが読み始めると、他方がそれに和して始まります。この時は、私が始めました。一瞬、おばさんの「気合い」が頭を過ぎりましたが、出てきた声は、いつもの声でした。


本堂
読経は、いつも通りに終わると思われました。
ところが、・・ 羯諦羯諦 波羅羯諦 ・・と読んだときのことです。私の中に変化が起こりました。
心が大きく揺れてしまい、絶句しそうになりました。北さんが動じることなく読み続けてくれたお陰で、自分を取り戻すことが出来ましたが、危ないところでした。
何が私の心を揺らしたのでしょうか。
言葉化することは難しいのですが、あえて一言でいえば、それは・・悔い・・だったのだと思われます。


二天門
その引き金は、はっきりしています。
実は・・ 羯諦羯諦 波羅羯諦 ・・の部分は、私の読経への集中が、必ずと言っていいくらい、途切れる部分なのです。
一番霊山寺で般若心経を読んだときのことです。この部分にかかったところで、私は子供の頃に近所の子たちと遊んだ、”ギャーテー遊び”を思い出してしまったのです。”ギャーテーギャーテー”と声を揃えて叫びながら、その声の可笑しさが面白く、笑い転げるという、実にたわいない遊びです。


二天門へ
ところが困ったことに、以来、どの札所でも、この部分にさしかかると懐かしい友垣が思い出されて、読経から意識が逸れるようになっていたのです。

・・ 羯諦羯諦 波羅羯諦 ・・あの時もいつも通りに、友垣たちと遊んだ記憶が、頭を過ぎったのでした。しかし何故でしょうか。あの時に限って、私に「変調」が生じました。その訳は、説明は出来ません。あえて言えば、それが「結願」という時だったからでしょうか。
私は、我が人生の愚かさを悔いて、心を揺らしていたのです。一瞬、子供の頃の私が、今在る私を照らしたのかもしれません。
とまれかくまれ、このようにして、私は「結願」しました。



さすがは結願寺の門前です。食べ物処や土産物店がずらり、並んでいます。


道標
ドイツの母娘と愛知さんは、バスで下山しました。すれ違った車内から、ちぎれるように手を振ってくれました。私たちも振り返しました。楽しい時間をありがとう。お元気で!
写真は「槙川講中」の寄進になる道標です。切幡寺と白鳥(しらとり)→(H23秋4)への方向と距離が示されています。「槙川」は私たちが通過してきたところで、大窪寺まで2キロ余ほどの地域です。今日の地図では「多和槙川」と表示されています。


宿
宿に向かう私たちは、寡黙でした。もうすこしの間、自分だけの思いのなかに浸っていたい、そんな気分だったのでしょう。


張り紙 
玄関の張り紙に、
・・お帰りなさい。お疲れ様でした。ゆっくりなさってください、・・と書いてあります。我が家のように、ゆっくり休んでください、ということでしょう。
部屋で休んでいると、・・タダイマー!・・の声が聞こえてきました。あのノリのいい声は、長尾寺で同宿だった函館さんです。


赤飯 
函館さんとは、明日、切幡寺まで一緒に歩くことになりました。・・切幡寺下に美味しいうどん屋さんがあるので、一緒に食べましょう。そこでは荷物も預かってもらえるよ、・・とのことで、ならば頑張ってついて行きます、ということになったのです。
新しい出会いは、和泉さんでした。この方、私と同年ですが、22回目を廻っているのだそうです。驚きました。予算のこともさりながら、どうやって時間が工面できたのでしょう。聞きはぐってしまいました。
部屋に帰り、改めて北さんと乾杯。前回の遍路で知り合った、気仙沼さんに電話しました。とても悦んでいただけました。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号では、私たちは四国遍路の円環を完成させるべく、切幡寺に向かいます。更新は、11月15日の予定です。

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コメント (2)
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屋島寺から 庵治 85番八栗寺 86番志度寺 87番長尾寺

2023-09-20 | 四国遍路

 
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  3日目のつづき 平成21年(2009)4月22日

五剣山遠望
85番八栗寺へ向かいます。
檀の浦の向こうに五剣山を見る、絶景のはずですが、・・
無惨!見て、先ず思い浮かんだ言葉が、これでした。山が削られています。
庵治石を採って暮らしている人たちや、庵治石を愛でている人たちには、申し訳ないことかもしれませんが、五剣山を信仰の山とみている私は、まず無惨と感じてしまいました。


五剣山
庵治近辺での採石の始まりは、平安末期頃までたどれるそうです。古文書に記載があるといいますから、まずは確かなことでしょう。
「庵治石」の名で呼ばれるようになったのは、大阪城や高松城の築城に使うため、大量の石材が庵治湊から送り出されるようになってからのことだといいます。庵治から送り出された石が、その送り出し湊の名を冠して、「庵治石」と呼ばれるようになったのです。


採石場
庵治石が、庵治石すなわち銘石と広く知られるようになるのは、昭和の、それも戦後のことではなかったでしょうか。
昭和27年(1952)、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が制定され、これを機に墓石の需要が急増しました。戦没者の遺族たちが、一斉に墓を建て始めたのです。
そこで求められたのが、上品な美しさをもち、しかも風化に強い、庵治石でした。庵治石の名は皮肉にも、高級墓石として、広く知られるようになります。


庵治石
しかしなんといっても、庵治石の名を「世界に誇る最高級石材」「天下の銘石」として高からしめたのは、流政之、イサム・ノグチという、二人の世界的彫刻家であったでしょう。
庵治石の優秀性に気づいた流政之は、庵治石を使った作品を次々と制作。昭和41年(1966)頃には、庵治半島に自宅兼アトリエを構えるに至ります。イサム・ノグチも、昭和44年(1969)、牟礼にアトリエを構え、ここを日本での制作拠点としました。かくて庵治石の素晴らしさは、彼らの作品を通して、世界に知られていったのです。


徳島市新町川河畔の流政之作 ICCHORA
なお流政之は、没翌年の令和元年(2019)、庵治に「ナガレスタジオ 流政之美術館」を開館させ、イサム・ノグチは平成11年(1999)、牟礼に「イサム・ノグチ庭園美術館」を開館させています。また彫刻家ではありませんが、牟礼には、建築家・ジョージナカシマの「ジョージ・ナカシマ記念館」があります。
写真は、徳島市新町川河畔の流政之作 ICCHORAです。瀬戸内寂聴さんの文化勲章受章を祝して建てた作品とのこと。78番郷照寺前の地蔵堂に建つ、碇石の石組みを思い出させないでもありません。


地蔵堂前の碇石 
遊び心でAIに、・・「庵治石」が銘石として認知されはじめたのはいつ頃からか?・・と尋ねてみました。
答は、・・明治時代です・・でした。浅学の身なれば、博学AIに向こうを張るつもりはありませんが、おそらくこれは正解ではないでしょう。明治以降、庵治石への需要が増え、庵治・牟礼に分業を基本とする石材産業が構築されてゆくのは、まちがいありませんが、「銘石」それも「天下の銘石」となるには、まだ時間がかかったとおもいます。


下り道
閑話休題。
さて、いよいよ檀ノ浦への下りです。写真ではそうは見えませんが、この坂は急です。澄禅さんが・・屏風ヲ立テタル様成坂・・と記しているのも、わかる気がします。
前号で記しましたが、愛知さんはこの険しさをさけ、登った道を引き返したのでした。(もう会えぬかとも思いましたが、彼女とは長尾寺で再会します)。


檀ノ浦 相引川
写真中段を流れているのが、(前号にも記した)相引川です。
澄禅さんは「四国遍路日記」に・・屋島ヲ中ニシテ 両方ヨリ潮一度ニサシ、又引時モ一度二引故ニ 相引ト云也・・と、川の名の興りを書いています。「両方」とは、屋島の東西にある、相引川の河口をいいます。両側の河口から潮が満ちて来、また引いてゆくので「相引」なのだそうです。今は潮止め水門がありますが、かつては海と共に満ち引きを繰り返したのでしょう。
なお、写真奧の海は、志度湾です。


車道
途中、急坂を屋島ドライブウエイが横切ります。やむをえないことですが、遍路道が車道によって$状に寸断されることは、よく起こります。縦棒が遍路道でSが車道です。


配水池
配水池がありました。
・・壇ノ浦高地区配水池・・と記されています。ダンノウラのダンに、土偏の「壇」が使われています。
屋島のダンノウラは木偏の「檀ノ浦」だと思っていましたが、「・・協力会地図」でも「壇の浦」となっているので、今はダンノウラは長門も屋島も、「壇」なのかもしれません。また、そもそものダンノウラは「団の浦」であったともいいますから、であるなら「檀」「壇」いずれであろうが、かまやしないとも言えます。私は、「檀」が好みですが。


休憩所
休んでいたら、ドイツの母娘がやってきました。愛知さんが引き返したことを伝えると、・・clever・・と評しましたが、彼女たち自身は、なんのこれしき、果敢に急坂に挑戦しています。
というのも、お母さんは四国遍路を題材に、なにか著作をものにしようと考えており、娘は卒論のテーマに四国遍路を選んでいるからです。そのためには、挑戦あるのみ!怯んではいられないのでしょう。


後ろから見た、佐藤継信の墓
檀ノ浦沿いの道に降りてきました。
この道は遍路道ですが、また源平屋島の合戦の道でもあります。
写真は、佐藤継信の墓です。佐藤継信は弟・忠信と共に、平泉時代から義経に従ってきた忠臣で、ここ屋島で、義経の身代わりとなって果てました。平家の武将能登守教経が射た矢が、あわや義経を貫かんとしたその瞬間、継信は文字通り矢面に立ち、義経を救ったのでした。
この墓は、継信の忠死を伝えんと、江戸期に入って高松藩主が建立したものとのことです。


佐藤継信の墓
ただし江戸期の古い墓は、新しい補碑の後ろに、隠れるように建っています。
なににつけ裏を見てしまうのは私の悪い癖ですが、神社の本殿や各種石碑などでは、極力、裏を見るようにしています。裏で、意外な発見に出会うことがあるのです。宇夫階神社本殿の裏に磐境の巨石を見たときは、快哉を叫んだものでした。


安徳天皇社
一ノ谷で敗れた平氏は、安徳天皇と三種の神器を奉じて、屋島に逃れてきました。背後に崖、前面に海は、一ノ谷でもそうでしたが、水軍を保有する平家の、得意の陣立てだったのでしょう。
この安徳天皇社は、安徳天皇の行宮跡地と推測されています。


御成の碑
鳥居の脇には、浩宮徳仁親王殿下御成所、賀陽宮殿下御成所 の碑が建っていました。


菊王丸の墓
菊王丸は、能登守教経に仕えていた少年です。教経が射た佐藤継信の首を掻き取らんと走りましたが、そうはさせじ、これを見た継信の弟・忠信の矢に射られてしまいます。
この墓は、教経が菊王丸を哀れと思い、建てたものだそうです。


相引川
相引川を渡ります。
写真奧で川が合流していますが、屋島と本土を隔てる川は、右方向からの川です。
川を渡った先では洲崎寺に参り、那須与一の駒立岩なども見たはずなのですが、なぜか写真がありません。 洲崎寺には真念さんのお墓もあるというのに。


鯉のぼり
北さんの労作です。風を待ち、鯉が泳いだところを、パチリ、切り取りました。


地蔵堂
今夜の宿、高柳旅館へ急ぎますが、なぜか道がわからなくなってしまいました。
くるくる廻っているような、そんな感じでした。愛知さんが一緒でなくてよかった、と思ったものでした。恥をかくところでした。(前号でお伝えしましたが、愛知さんは私たちの地図を読む力を信頼し、同行を申し出られた方だったのです)。


宿
やれやれ、やっと着くことができました。
入浴、洗濯、食事と、ご主人がずっと付いていて、話し相手になってくれました。


西国納経帳
旅館所蔵の、明治期の納経帳です。写真も自由に撮ってください、とのことで、いっぱい撮らせてもらいました。
そのうちの数枚をご覧いただきます。


86番志度寺 87番長尾寺
こちらは、明治43年の四国遍路納経帳です。
巡拝されたのは牟礼の女性で、八栗寺から打ち始め、屋島寺を結願寺としています。この頃、1番から始めることへのこだわりは、あったかもしれませんが、今ほど強くはなかったと思えます。


68番神恵院 69番観音寺
右頁は、「観音寺 神恵院」とあります。
左頁は、「西讃州 七宝山 観音寺」です。いずれにも「観音寺」と記されており、他に例を見ない「1寺2霊場」が見てとれます。
疑問なのは、「観音寺 神恵院」には、札所の番号・68番が記されていないことです。また朱印も、押されているようには見えません。どのような事情があったのでしょうか。


30番安楽寺 31番竹林寺
右の30番は、「安楽寺」となっています。この頃、善楽寺は廃仏毀釈策で、廃寺となっていました。再興はかなり遅く、昭和5年(1930)のことだといいます。
再興の遅れが禍したのでしょうか、善楽寺再興以降、「1寺2霊場」ならぬ「同番2ヶ寺」という、変則的状態が発生してしまいました。これが解決するのは、平成6年(1994)だったそうです。30番札所は善楽寺、安楽寺は善楽寺の奥の院、ということで、円満解決したとのことです。


埼玉の東明院跡
善楽寺は、埼玉県与野町(現さいたま市中央区)にあった、東明院を移転したものである、とのことを耳にし、私、埼玉住民であるとの少しの義務感から、東明院跡地を訪ねてみました。
ただ、収穫らしきものはなかったと、先ずお伝えしておきます。近所の何人かに尋ねてみましたが、どなたも「昔のことはどうも・・ごめんなさい」ということでした。
場所は、さいたま市中央区本町東5丁目です。今は薬師如来が祀られています。ただし地図には、この「薬師如来」は記載されておらず、側にある「稲荷社」が記載されています。

  4日目 平成21年(2009)4月23日

宿
宿のご夫婦が見送ってくださいました。
今日は14.5キロほどを歩いて、87番長尾寺前の宿に泊まります。距離を短くしたその魂胆は、結願イブを楽しもう、にあります。


毎朝のお勤め
おばあさんの朝の日課になっているそうです。


田植え
農家も早起きです。


石屋さん
採掘から加工、販売まで、庵治、牟礼には庵治石にかかわる、各種業者が集積しています。


登山口
八栗寺への登り口です。ケーブル(右の建物)は、もう動いています。
五剣山が見えます。左から一ノ剣、二ノ剣、三ノ剣、四ノ剣だそうです。かつては五ノ剣まであり、これが一番高かったそうですが、宝永4年(1707)の宝永地震で、山体崩落してしまったとのことです。
尾根筋には修験の道があるそうですが、それは馬の背越えの危険な道で、今は通行禁止になっています。


男はつらいよ
ここは、『寅次郎の縁談』(平成5年/1993・46作目)のロケ地です。家出したオイの満男(吉岡秀隆)を連れ返すべく出かけた寅さんでしたが、お定まり、マドンナ(松阪慶子)に出会ってしまうのです。
「男はつらいよ」では、寅さんが妹の’さくら’に電話する場面がよくありますが、この作品では、聞けば、この餅屋さんの前の公衆電話からかけたのだそうです。餅屋をみて、団子屋の「とらや」を思い出したのでしょうか。
・・しかし寅さん、お前さん、いいときに逝ったよ!今、公衆電話、見っけるの、大変なんだよ。かといって、寅さんにケータイは、似合わないしなぁ。・・とは、私のつぶやきです。


ケーブル
ボンネットバス型のケーブルカーです。
標高60㍍ほどの登山口駅から、標高240㍍ほどの山上駅まで登ります。八栗寺は、それよりわずかに高いくらいですから、私たちが登る標高差は、およそ180㍍ほどになります。なお五剣山の高さは、現在一番高いとされている四ノ剣が、標高375㍍です。



右は、弘法大師お加持水です。
道は、車一台分ほどの道幅で、舗装されています。ただし、このすこし先の鳥居の所で、車やバイクは乗り入れが禁じられていました。
なお後のことになりますが、私たちが歩いた7年後の平成28年(2016)、鳥居の先から左に上がってゆく、旧遍路道が復元されたそうです。ぜひ一度歩かせていただきたいと、願っております。


イノシシ
イノシシは夜行性かと思っていたら、本来は、昼行性なのだそうです。臆病なので(警戒心が強いので)昼間は隠れているのだといいます。とすると、うっかり遭遇なんてことも、ありえるのでしょう。
私はシカ、サル、ウサギ、アオダイショウ、ヤマカガシには、かなり近距離で出会ったことがあります。 ハメ(まむし)、ハクビシン、タヌキ、キツネ、イノシシはありません。一番驚いたのは、アオダイショウでした。目の前に木の上から落ちてきました。菅笠にかすったのですから、驚くまいことか。あいつ、でかいから時々、落ちるのです。


菅笠
ちょっと逸れますが、(ヘビで思い出したので)菅笠の効用について書いておきます。
何方もご承知のように(風の日はちょっと困りますが)、雨の日には、本当に助かります。顔面に雨がかかることが、ほとんどありません。メガネをかけている私などは、大いに助かっています。
日射しが強い日にも、ありがたいですね。日射を遮り、風を入れてくれます。ときどき晴れの日にもビニルカバーをつけたままの人がいますが、あれはもったいないですね。面倒でも取り外した方がいいと思います。


雨の日
しかし、私がお伝えしたい菅笠の効用は、別にあります。それは、転んだとき、菅笠が柔らかく頭部を守ってくれる、という効用です。
私は、もう歳です。加えて重い荷物を担いでいますから、気づいたときは、もう転倒しています。頭をかばう間など、ありません。
悔しいことですが、私は経験者として、これを書いております。菅笠をかぶらず、背負っている人をたまに見かけますが、ぜひ被ることをお勧めします。被っていれば、ヘビが落ちてきても、少しは安心ですし、荷物を背負っているときの受け身は、若い方でも、以外と難しいものです。


巨岩
山体崩壊した五ノ剣の一部では?と想像したくなるような巨岩です。


指差し
この指差し、初めて見ました。
袖から出た手は、妙になまめかしくリアルです。


屋島
屋島が見えました。


鳥居
扁額は「歓喜天」とあります。
歓喜天は、仏法の守護神とされています。その姿は象頭人身。仏像には単身のものもありますが、象頭の双身が抱擁しあっている像が、よく知られています。因みに八栗寺の歓喜天像は、双身とのことです。
なお、この聖天様は、50年に一度のご開帳とのこと。次回は、令和9年(2027)だそうです。


八栗寺
「五剣山」の名は、・・大師修行のおり天から降った五本の剣を山に埋めて鎮護とした・・との故事に因むそうです。
写真正面は本堂、左側が聖天堂です。


本堂
寺名は、当初は・・山上から八カ国が望めたので・・「八国寺」と呼んだそうですが、後に、・・弘法大師が入唐の成否を占って植えた八つの栗が、帰朝後、すべて成長繁茂していた・・ことから、「八栗寺」に改めたと言います。


聖天堂  
奉納幕の右には「巾着」、左には「大根」が染め出されています。歓喜天のご利益が、端的に、とても分かりやすく示されているわけです。言うまでもなく「巾着」は、金運です。「大根」は、夫婦和合、良縁、健康などを意味します。


大師堂
ちょっと離れた所にある大師堂にお参りし、引き返して納経所へ。
次なる札所、86番志度寺へ向かいます。愈々残るところ3ヶ寺です。 一歩一歩が惜しまれる、そんな感じで歩いています。


空間利用
うまく工夫した!空間利用。


志度湾
志度の海に伝わる譚があります。
ひとつは、志度寺の創まりを伝える譚です。
・・この浜に霊木が流れ着きました。
・・その霊木から、海人族の凡園子(おおしそのこ)が十一面観音のお姿を刻みだし、これを精舎に祀りました。
・・かくて、志度寺は創まりました。


志度の海
またひとつは、「海女の玉取伝説」とよばれる譚です。
海女が命を賭して、龍王に奪われた玉・面向不背(めんこうふはい)を取り戻した譚です。海女は藤原不比等を愛して契り、長じて藤原北家の祖・藤原房前となる子を産んだとされています。海女のお墓は、志度寺にあります。


塩竈神社
今回の遍路では、前々号の宇多津に次いで、二社目の塩竈神社です。塩竈塩土老翁神(しおがま・しおつちのお神)を、祭神としてお祀りしています。
さて前々号では、塩竈塩土老翁神が製塩の神様であることを記しましたので、今号では、この神がもつ他の側面について、記しておこうと思います。
まずこの神は、記紀に伝わる「海幸彦山幸彦」の物語に登場します。兄の海幸彦から借りた釣り針をなくし困惑する山幸彦に、海神の宮に行く潮の路を教えたのが、この神、塩竈塩土老翁神でした。山幸彦は神名を彦火火出見尊(日本書紀)といい、神武天皇の祖父に当たる神ですから、塩竈塩土老翁神は、神武天皇の祖父を助けた神、ということになります。
さらに塩竈塩土老翁神は、山幸彦の孫である神武に、・・東方に美しき国あり・・と教えた神とされています。つまり「神武東征」の端緒をつくったのが、塩竈塩土老翁神なのです。この貢献なくして「神武東征」はなく、初代天皇・神武もなかったのですから、塩竈塩土老翁神は、大和建国に大貢献した神であったのです。塩竈神社があちらこちらに在る背景に、塩竈塩土老翁神のこんな側面を関連づけてみるのも、楽しいかもしれません。


予讃線讃岐塩屋駅
製塩業繁栄の痕跡が、塩竈神社の他にもう一つありました。琴電志度線の「塩屋駅」です。おそらく塩窯のある小屋を「塩屋」と言ったのでしょう。その「塩屋」が、地名となり、駅名となっています。
写真は、同じ塩屋駅ですが、こちらは予讃線の「讃岐塩屋駅」です。丸亀市にも塩屋町があり、そこにある駅が「塩屋駅」です。
「塩屋町」はまた、高松の繁華街にもありました。塩は生活の必需品です。とにかく全国に「塩屋」は、あるべくしてあったのです。


休憩所
休憩所の壁に美事な墨書がありました。
・・志度線の房前駅前に、愛染寺という寺があり、それは真念法師が亡くなった寺である、・・と記されています。真念さんは愛染寺で亡くなり、(前述の)洲崎寺に葬られたようです。
なお「房前駅」は、(前述の)海女の子・藤原房前に因んだ駅名です。


五剣山
庵治の宿で同宿だった、喜寿のご夫婦から聞いた、不思議な話です。
・・不思議なことがあるものですね。女房は耳が悪く、補聴器をかけていますが、どこかで失くしてしまったのですよ。実に困っていました。
・・ところが、その夜、私は夢を見たのです。どこかの風景が、何回も何回も夢に出てくるのです。
・・私は女房には黙って、タクシーを呼びました。運転手に、こんな風景の所を知らないかと尋ねると、それに似た場所が数キロ先にあるといいます。
・・行ってもらいましたよ。するとですね、そこに補聴器があったのです。不思議でしょ。


マンホール
太鼓を叩いている人たちが乗っています。これは太鼓台、すなわち「ちょうさ」と呼ばれるものなのでしょう。
讃岐の祭は面白く、「ちょうさ」の地区と「獅子舞」の地区が入り混じっているようです。たとえば観音寺、豊浜町辺は「ちょうさ」だけれど、善通寺や丸亀辺は獅子舞。ところが宇多津や琴平にくると「ちょうさ」だが、国分寺、高松市、さぬき市、東かがわ市辺は獅子舞らしい。そして牟礼、志度は「ちょうさ」で庵治はダンジリ、という風です。


源内通り
江戸中期、志度は傑物を生みました。ゲンナイ・ダ・シド(志度村の源内)こと、平賀源内です。
本草学者、蘭学者、医者、画家、作家、発明家と、その多才さはレオナルド・ダ・ヴィンチ(ヴィンチ村のレオナルド)にも匹敵すると言われています。貧家銭内(ひんか・ぜにない)など、妙な号をいつくも持っている人で、おそらく波瀾万丈の人生を送ったのでしょう。。
晩年の暮らしぶりは不明で、獄死したとも、田沼意次の保護を受け天寿をまっとうした、などともいわれています。


用心堀灯籠
ここに高松藩の米蔵があったのだそうです。三棟あって、1万5千俵の米を収納していたと言います。
灯籠は、お蔵の用心のために、近在の大庄屋が建てたもの、とのことです。用心堀は、火の用心のため、周囲に掘りめぐらされていたもののようです。
なお、米倉のお蔵番は、平賀家が世襲していたそうで、源内は、その第4代目だったそうです。もちろん源内は学問を志し、蔵番なんぞには目もくれませんでしたから、お蔵番平賀家は、4代にして絶えます。


平賀源内先生遺品館 
有名なエレキテルの装置などを楽しんだ記憶があります。
なお遺品館は、平成21年(2009)、平賀源内記念館と変わっています。


平賀源内先生像 
遺品館の隣に在りましたが、今はどうでしょうか。 


石鎚山奉献灯籠
案内板に拠れば、弘化3年(1846)、石鎚講の人たちが建立したとのことです。・・志度の海辺から玉浦川の河口にかけて繋留する漁船のしるべ・・となっていたそうです。
この辺では、石鎚講の活動が活発だったようです。黄表紙地図82-2に記載されている山の名前が、その証の一つです。霊芝寺があるお山の名前を見てください。なんと「石鎚山」です。霊芝寺檀家の人たちは、霊芝寺の山号に因んで「日内山」と呼ぶようですが、国土地理院の地図でも石鎚山となっていますので、これはもう、「勝負あった」でしょうか。


志度寺奥の院
この寺については、 →(H21春1)→(H25初夏6)でかなり詳しく記しています。


うどん屋さん
通りかかった人に食堂を尋ねたら、ここを教えてくれました。いえ、ここまで連れてきてくれました。
うまい!ウドンでした。最近はやりの「わざとらしいコシの強さ」はなく、自然な歯ごたえです。ツユは、好みに応じて薄め、濃いめが用意されています。客層が多様なのでしょう。
食べていると、テレビが、SMPのK君逮捕のニュースを報じました。居合わせた中年女性の、・・カワイソーニ!・・に、店内は大爆笑。・・ブタ箱はかわいそうよ。・・トラ箱一泊でいいんじゃない・・などと百花斉放。店内は圧倒的にK君贔屓でした。


結願
忙しい中、店の方が見せてくれました。お姿をコピー器で拡大し、彩色してあります。
たまたま店に来た若い男性遍路が、・・結願後に作りました。差し上げます、・・と言って置いていったのだそうです。店の人は、・・預かって、皆さんに見てもらっているんですよ、・・と話しています。


ワラの文化
酒ビンとか醤油ビンを自転車で運ぶとき、これを上からかぶせるのです。昔は凸凹道が多かったから、これはなくてはならないものでした。これを被せておけば、瓶は傷つかないし、ガチャガチャ音もしないし、日射も遮ってくれます。
お気づきでしょうか。二本、ゴムが張ってありますね、これがまた工夫なんです。ビンが倒れないばかりでなく、ゴムだから衝撃を柔らかく吸収してくれます。
被せた帽子も粋です。


小祠 
私には志度出身の友人がいます。茫洋としていているが芯がある、キレてしまった人を宥めるのに、彼ほど適した人はいない、そんな友人です。
この街を歩いていて、なるほどと合点がいきました。彼は「志度人」だったのです。この風土の中で育った人なのです。


志度寺
正面が86番札所志度寺の山門です。
参道の左に見える門は、さぬき三十三観音霊場の第3番札所・園通寺の山門です。園通寺の向かいには、平賀源内の墓がある、常楽寺があります。どちらも元は、志度寺の塔頭でした。志度寺のかつての大きさが、イメージできます。


園通寺
讃岐観音霊場第3番・園通寺です。
因みに2番札所は、(屋島寺の手前にあった)真念さんの墓がある洲崎寺です。


常楽寺
園通寺に向かいあっている、常楽寺です。
常楽寺の本堂には、(当寺の本尊である不動明王を脇に置いて)弘法大師が、正面に祀られているのだといいます。本堂が、元・志度寺の御影堂(大師堂)が在った位置に所在することを恐れ多いとし、今もお大師さんが正面なのだそうです。
「源内さん」と、平賀源内を親しげに呼んでいるのは、平賀家が当寺の檀家だからだとのことです。「源内さんのお墓」は、山門を入ると、すぐ右にあります。


平賀源内墓
側面に、
  平賀源内国倫  春秋五十二歳
と刻まれています。国倫(くにとも)は、諱です。


志度寺本堂
この寺は、安心できるお寺です。
私は札所で、たまに窮屈感を覚えることがあります。境内が隅々までピタリ、様式の中におさまっているようなとき、そんな感覚にとらわれることがあるのです。借りてきた猫の気分とでもいいましょうか。どうも落ち着きません。
しかし、この志度寺では、そういうことがありません。この寺の田舎くささ(ごめんなさい)が、私を気楽にさせてくれるのだと思います。いい意味で雑然としていて、スキがあるお寺といえるでしょうか。、


大師堂
志度寺については、よろしければ→(H25秋2)もご覧ください。「海女の玉取伝説」などについても、記しています。


県道3号
県道3号(志度-山川線)を南下します。左に見えるのは、幸田池です。(次に記す)当願堂に伝わる譚に登場する池です。
当願堂の案内板・・暮当・当願大明神(ぼとう・とうがん大明神)・・は、譚のあらすじを次の様に記しています。
・・延暦(約1200年前)の昔、この長行(この辺の地名)に当願と暮当という仲のよい猟師(兄弟とも)がいた。ある日志度寺の修築法要が営まれ、暮当は狩に出たが当願は志度寺に参拝した。法席にいながら当願は「暮当は大きな獲物を捕らえただろう」と殺生心を起こした。忽ち当願は口がきけず、立つことが出来なくなった。


当願堂
・・心配して迎えに来た暮当は、当願の下半身が蛇となっているのを見て驚いた。当願を背負って帰る途中「体が熱いので池に入れてくれ」というので、仕方なく幸田の池に入れた。この時当願は片目をくり抜き「この目玉を壺の中に入れておくと汲めども尽きぬ美酒ができる」と教えた。暮当は言う通りにして売ると家は繁盛した。当願の体は次第に大きくなり幸田池から満濃池に、その後大槌、小槌の海に入って竜神になったという。里人はゆかりあるここに、二人を大明神として祀った。
・・干ばつ時に神酒を供えて雨乞いする風習がいまに残っている。


案内板
案内板にある「大槌、小槌の海」とは、白峰寺や根香寺がある、五色台沖の海域です。大槌と小槌、二つの島の間は、潮の流れが速い「槌ノ戸」と呼ばれる交通の難所で、また速い流れが故に、良好の漁場でもあるそうです。


道標
県道3号を縫うように、旧道が数カ所、残っています。
写真の道標が示す道は、長尾寺の奥の院・玉泉寺を経由して、長尾寺につづく道です。玉泉寺に参るには、(県道ではなく)この道を行かねばなりません。


ハウス三代
手前は鉄骨、次に木骨、奥がパイプ。まるで複合遺跡であるかのように、三代のハウスが残っていました。


阿讃の山々
阿讃の山々が見えてきました。あの山並みのどこかに女体山があり、88番大窪寺があり、越えた先に10番切幡寺があるのです。
私たちはこの遍路のゴールを何処にするか、話し合いました。というのも、私たちが1番で購入した納経帳には、「お礼参り 一番霊山寺」のページがあったからです。
出した結論は、四国遍路の円環が完成する10番をゴールとする、でした。「お礼参り」を求められることへの、小さな反発があったかもしれません。


八十七番奥の院玉泉寺
弘法大師が霊石に地蔵尊を刻み、お祀りしたことに始まるといいます。
地蔵尊は日切地蔵とよばれ、日限を切って誓願すれば、日限内にこれを叶えてくださるとのことです。


玉泉寺本堂
玉泉寺があるこの辺りの広い一帯は、「造田」(ぞうた)という地名で呼ばれています。古い昔、この地に盤踞した豪族達は、競うように「田を造り」ました。その開拓の記憶が、「造田」という地名に込められているのでしょう。
開拓の記憶はまた、造田地区に隣接する、鴨部地区にも残っていました。鴨部の志太張神社(したはり神社)です。黄表紙地図の106-1に記載された、長福寺の南西にある鳥居のマーク、これが志太張神社です。


志太張神社(平成25年撮影)
社名の「したはり」は、本来は「下墾(したはり)」と書き、それは「開墾すること」を意味するのだそうです。この神社が開拓の記憶を留めているのは、間違いありません。→(H25秋2)
7世紀末(持統天皇の頃)から、大和政権は、造寺活動を全国的に展開しました。思うに、この超巨大事業を実質的に下支えした(させられた)のは、こうして土地を拓き力を蓄えた、地方豪族達であったでしょう。もちろん豪族側も、ただ働きしたのではなく、建てた寺に寺田という名目で自田を預け、大いに節税するなど、まあ強かに、ウイン-ウインの取引をしたとは思われます。


藤の木
・・この藤、さあ、どなたが植えましたでしょうか。もう、分かりませんなあ。私らがここに住んで30年にもなりますが。・・とは、ご住職のお話です。
大黒様と二人して、寺を守っておられました。



ちょうど藤の花時でした。今年は例年より一週間は早い、とのことでしたが。


お参り
おばあさんは、足がすこし不自由のようでした。お嫁さんが、義母さんのお参りを手伝っています。


お接待
お茶をお接待いただきました。藤棚の下で、ぜいたくの極みです。
この石には、(読みにくいですが)「癒し石」と刻まれています。これに腰掛けて、どうぞ、お休みなさい、というのです。


マンホール
かぐや姫の故郷は奈良県の広陵町が有力です。しかしこの物語は、竹が生えていて月が見られる所なら、何処ででも成立可能ですから、実は「かぐや姫の故郷」も、(前号の)桃太郞同様、あちこちにあるわけです。ここ長尾も、その一つです。
しかし、かぐや姫の場合、醜い本家争いはないそうです。仲よく「かぐや姫サミット」を開いて、町興しを応援し合ったりもするようです。


レンゲ畑
観光用のレンゲ畑です。「レンゲ畑」の看板が必要なのは、レンゲを知らない人が、近頃は多いからでしょう。昔は、ごく当たり前のように、レンゲ畑はありました。


忘れ物
お遍路休憩所・長尾が、鴨部川に架かる「へんろ橋」の手前にあります。長尾寺へ2キロ弱の所です。
そこに忘れ物がありました。Shikoku Japan 88 Route Guide とあります。一目で、ドイツの母娘が置き忘れたものとわかりました。よほど頼りにしているのでしょう。何回も何回もページをめくった様子がうかがわれます。
母娘の行動を、北さんと予想しました。結論は、・・まちがいなく娘が、探しに引き返してくる。・・でした。
私たちは本を持って、歩き始めました。もし途中で会えなくても、宿はわかっているので、届けられます。



へんろ橋です。この橋を渡ると、長尾寺へは一直線です。
記憶では五台山を降りて禅師峰寺に向かう途中にも、へんろ橋がありました。きっと他にもある(あった)のでしょう。左の道標には、「安政」の文字が見えます。
しばらく歩くと、案の定です。娘が急ぎ足でやってきました。
・・オーイ、どうしたの?
・・アーアー、ワスレ、マシタ!
・・もしかして、これかな?
・・ワーオ ワーオ ヨカッタ!



(名は秘すが)ドイツの母娘に、板東俘虜収容所の存在を伝えようとした人がいました。映画「バルトの楽園」(2006公開)の舞台を、日独友好の証として、教えようとしたのです。
ところが、彼が思いついた「俘虜収容所」に当たる語が、とんでもない語だったのです。
・・バンドー・アウシュビッツ!わかる? アウシュビッツ!
・・?!?!?!
母娘がわかっていない様子なので、彼はさらに連呼しました。
・・バンドー・アウシュビッツ!アウシュビッツ!
幸い彼の善意は理解され、友好が壊れることはありませんでしたが、危ないところでした。


山門
『四国遍礼霊場記』は長尾寺の興りについて、次の様に記しています。
・・此寺はもと聖徳太子開建ありしを、大師霊をつつしみ紹隆し玉ふといへり。
また『四国遍礼名所図会』も、
・・当院聖徳太子開基と云。大師後に紹隆し給ひし也。・・と、聖徳太子の開基であることを記しています。


本堂
しかし、霊場会の長尾寺のページは、
・・開創は聖徳太子という説もありますが、天平十一年に行基菩薩の説が一般的。行基がこの地を歩いていると道端に楊柳の霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を彫造し本尊としました。・・と記し、続けて、
・・その後、弘法大師がこの寺を訪れ、入唐が成功するように年頭七夜に渡り護摩祈祷を修法して国家安泰と五穀豊穣を祈願されました。・・と、大師の関わりを記しています。
聖徳太子説には否定的ですが、では行基説を主張しているかといえば、そうでもなく、行基説の方が「一般的」だと言うにとどめています。つまり、わからないということなのでしょう。まあ、そうですよね。


境内
今日の歩きは14K余です。どんなにゆっくり歩きの私たちでも、16:00前には着いてしまいます。
すぐ宿に入るのも、もったいないので、境内で函館さん達とおしゃべりをしました。
・・遍路も詰めに入ったこの辺りでは、荷物に気をつけなさいよ、・・と函館さんが言います。一番からの朱印が押されている納経帳は、(ドロボウさんにも)値打物なのだというのです。たぶん明日、交流サロンでいただくであろう「結願バッジ」も、ねらわれるから気をつけろ、といいます。お大師さんの道も、「渡る世間」の内なんですね。「鬼」はいるわけです。


宿
食堂は和やかな雰囲気でした。明日の結願を前にした、いささかの高揚も感じられました。
志度で会った不思議体験のご夫婦がいました。高松で一日行動を共にした愛知さんも、渡る世間の厳しさを教えてくれた函館さんもいます。残念なのは、ドイツの母娘がいなかったことです。最後の夜だから呼ぼうかと思っていたのですが、生憎、彼女たちは隣の宿に泊まっていました。
ひとしきり話した後、たしか函館さんだったでしょうか、が、・・明日を期して、休みましょう!・・と声をかけ、みんな部屋に戻ってゆきました。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号は、いよいよ結願です。その後、四国遍路の円環を完成させるべく、10番切幡寺まで歩きます。それからのことは、この段階では未定でしたが、日程にはまだ数日の余裕があり、どこかを訪ねるつもりではいました。
次号更新は、10月18日を予定しています。

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81番白峯寺 根香寺道 82番根香寺 鬼無 83番一宮寺 84番屋島寺

2023-08-23 | 四国遍路

 
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  2日目のつづき 平成21年(2009)4月21日 

81番白峯寺
白峯寺の開基は、弘法大師と智証大師の両大師、すなわち空海、円珍のお二人とされています。
円珍は空海の甥(姪の息子とも)と言われ、私たちには76番金蔵寺で、すでにお馴染みです。金蔵寺は、智証大師御誕生之所でした。→(H19冬3)


石段
初め、空海が白峯山頂に如意宝珠を埋め、衆生済度の閼伽井を掘られたといいます。これが白峰寺の創まりです。弘仁6年(815)のことだそうです。
白峯寺公式HPは、・・かの宝珠の地滝壺となり、三方に流れて増減なしと云う。・・と記しています。


本堂
次いで貞観2年(860)、唐から帰朝した円珍が、金蔵寺に止宿しているときのことです。
白峯山頂に瑞光の輝くを見て登頂してみると、白髯の老翁が立ち現れ、円珍に語りかけました。老翁はこの山の地主神からの神託を、円珍に伝えようとしたのです。
その神託は、 白峯寺公式HPからお借りすると、次の様でした。
・・吾は此の山の地主神、和尚(円珍を指す)は正法弘通の聖者なり。この山は七佛法輪を転じ、慈尊入定の霊地なり。相共に佛堂を建て、佛法を興隆せん。かの流木は補陀洛山のさんざしなり。


神祠
「相共に」建てた仏堂。これが白峯寺の初めての堂宇です。
円珍は御神託に導かれ、補陀落山の「さんざし」から千手観音菩薩のお姿を取り出し、これを御本尊として、仏堂に祀りました。


崇徳天皇白峯陵 
円珍が千手観音菩薩を祀ってから、およそ200年後、 白峯寺に大事が起きました。
長寛2年(1164)、崇徳上皇が崩御され、白峯の稚児ヶ岳で荼毘に付されたのです。上皇の御違勅に従ってのことでした。
御陵が白峯寺に隣接して造営され、白峯寺は崇徳院の御廟所となります。


頓証殿
写真は、崇徳上皇の霊廟・頓證寺殿です。坂出市教育委員会の説明看板は、次の様に記しています。
・・保元の乱に破れ讃岐に配流された崇徳上皇が、この地で崩ぜられたのち、その頓證菩提を弔い御霊を慰めるために、鎌倉時代の初期、鼓岡の御所を移したと伝えられ、朝野の尊崇が厚かった仏殿である。
補足すれば、鼓岡の御所を移したのは、建久2年(1191)とのことです。


勅額門
ただし、頓証菩提を弔ったとはいえ、この仏殿は、当初から頓証寺殿と呼ばれていたのではありません。
「頓證寺」の名は、応永22年(1415)、後小松天皇が上皇の成仏を願い、「頓證寺」と書かれた勅額を奉納されたことに発します。以来、頓證寺殿の名が人口に膾炙するようになりました。併せて随神門も、「頓證寺」の勅額を掲げることから、勅額門と呼ばれるようになります。なお随神門には、源為義・為朝父子の武将像が置かれていたとのことです。保元の乱で上皇方についた武将です。


勅額門と勅額(復刻)
参考までに、『頓証菩提』とは、広辞苑は次の様に記しています。
・・仏語。段階的な修行を経ずに、ただちに菩提(悟り)を得ること。速やかに悟ること。追善供養の功徳によって死者が成仏することを祈ることばとして用いる。


十三重塔
写真の十三重塔は、崇徳上皇の供養塔です。手前の東塔が弘安元年(1278)、没後114年の建立。奧の西塔は元亨4年(1324)で、没後160年の建立です。
前述の頓證寺の勅額が没後250年であるなど、供養が後々の時代にまでつづいているのは、崇徳上皇怨霊譚が、広く、深く、流布されていたからと言えます。


西行法師像
おどろおどろしい怨霊譚が多いなかで、上田秋成が江戸時代中期に著した『雨月物語』は、怪異小説でありながら怪異の描写のみに終わらず、人とは何かを問いかけてくる、近代日本文学中の名作といえましょう。その冒頭の「巻の1 白峯」は、慰霊のため白峯を訪れた西行法師と崇徳院の霊が歌を詠み交わし、魂を交換する様を描いています。
そこで詠まれた歌は、次の様です。
 松山の 浪のけしきは かはらじを かたなく君は なりまさりけり  西行法師
 松山の 浪にながれて こし船の やがてむなしく なりにけるかな  崇徳院
 よしや君 昔の玉の 床とても かゝらん後は 何にかはせむ     西行法師


崇徳天皇八百年御忌
崇徳上皇の怨霊譚に、ようやく終止符を打ったのは、明治天皇だったといえましょう。明治天皇は即位→維新を迎えるにあたって、京都に白峯神宮を創建。崇徳天皇の御霊に京都への御帰還を願っています。
頓証寺殿に祀られていた、崇徳上皇僧形座像図が京都の白峰神宮に遷されるや、その翌日、明治天皇はこれに親拝。明日に迎えんとする明治改元の安泰ならんことを祈りました。まさに一新し、維新を迎えようとしたのです。怨霊、それも天皇の怨霊という問題、それほどに重い問題だったのでしょう。


崇徳天皇八百年御忌
写真は、昭和39年(1964)に昭和天皇が執り行った、崇徳天皇八百年御忌の式年祭碑です。昭和天皇から香華料の御下賜があったこと、高松宮殿下から御香料が下されたことを伝えています。


根香寺へ
81番白峯寺から82番根香寺への道は「根香寺道」と呼ばれ、その一部は、国の史跡に指定されています。(平成25年/2013)
距離は約5キロです。『四国遍路日記』にも『四国遍路道指南』にも、”五十丁”と記されていますから、今、私たちが歩いている道は、澄禅さんや真念さんが歩いた道でもあるのでしょう。


核兵器廃絶
広島で被曝された方の建立です。
温暖化で地球が危機に瀕している今、戦争なんかやっているときじゃないのですが、そんな時こそ争うのが人なのでしょうか。
核兵器使用の脅威は、いよいよ現実のものとなっています。


トンネルの道
木のトンネルを抜けてゆきます。
案内板には「ヒサカキのトンネル」とありましたが、出会った地元の方は、「涅槃のトンネル道」と言っていました。讃岐は「涅槃の道場」です。
この道のもうひとつの魅力は、今風にいうならハーフパイプの地面です。どれほど多くの人たちが歩けば、これほどまでに沈み込むのでしょうか。


陸軍用地
ここにも「陸軍用地」の境界票がありました。けれど「防衛庁」の標識は、ここにはありません。戦後、演習地は少し縮小されたようです。



郷照寺で会ったドイツから来た母娘と再開しました。彼女たちとは、宿で会うことはありません。素泊まりしており、宿に着くなり部屋に入って、出てこないからです。和食が舌に合わないこともあるのでしょうが、主たる理由は節約のためだとのことです。
何を食べているのかと尋ねると、食パン、ビスケットなど、粗食と言っていいものばかりでした。加茂町で戴いたお接待をお裾分けすると、一日分の食費が浮いたと、とっても喜んでくれました。


大師の閼伽井
弘法大師・空海が弘仁6年(815)に掘ったと伝わる、閼伽井です。今も絶えることなく、湧いているといいます。
石柱の右側面に、西行法師の歌が(私には読めませんでしたが)刻まれています。
 岩にせく 阿加井の水の わりなり気は 心住めとも やとる月哉  西行法師
どうやらこの歌、崇徳院の御製を本歌としているようです。
 瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 遭はむとぞ思ふ  崇徳院
古典落語「崇徳院」でも知られる歌ですが、人を恋う、美しい歌です。


赤峯?
五色台には、色の名がついた五峯があります。だから五色台なのだそうです。
五峯は西から、黒峯、白峯、赤峯、黄峯、青峯と並んでいます。写真の山は赤峯でしょうか、黄峯でしょうか。まだ青峯には至っていないでしょう。青峯は「青峰山根香寺」の名の通り根香寺のお山で、五峯の東端にあります。


広い道の写真
突然、ドイツの母娘の叫び声が聞こえてきました。何やら叫びながら私たちの方へかけてきます。
聞けば、蛇がいたのだそうです。こーんなに長い蛇だと、腕を広げて教えてくれました。
しばらく一緒に歩いてくれというので、北さんを先頭に、母、娘、私の順で歩くことにしました。



人が歩いた、その重みが造った道です。


十九丁石
十九丁の船形丁石です。案内板に、次の様にありました。
・・丁石は、五色台山上には分布しないカコウ岩で作られています。おそらく、庵治などの石切場からここに運んできたのでしょう。信仰心があつかった、昔の人たちの苦労がしのばれます。


十九丁
十九丁という地点は、白峯寺と根香寺をむすぶ「根香寺道」に、国分寺からの道が合流する、三差路です。案内板には、次の様にあります。
・・ここから国分寺へ通じる道は、四国遍路が始まった頃は、なかったようです。江戸時代の後半になって、第80番札所の国分寺から第81番札所の白峯寺へ進む道は、急な上りであるため、これをさけ、第81番札所白峯寺から第82番札所根香寺へまいり、再びこの道を戻って国分寺へもどる道が造られたと考えられます。


地図
上記案内板に載っている地図です。国分寺から発する左側の道は、演習地内を通っており、私たちは通ることができません。こんなにもたくさんの丁石や道標がある道を歩けないとは、実に残念です。
右側の道と、白峰寺-根香寺をむすぶ根香寺道は、健在です。国分寺から白峰寺に登るときは、右の道を県道まで登り、左折します。根香寺から国分寺へは、「現在地」と記された十九丁から、右の道を下ります。


五色台の食堂。
昼食をとりました。北さんは「チャーハン・カレー」なる珍品を食べてみるといいます。美味しかったようです。私はラーメンでした。
車遍路のお父さんと息子さんが入ってきました。お父さんは思いっきり遍路を楽しんでいる風で、すっかり私たちの「楽しみ方」を喜んでくれました。息子さんは、お父さんほどは楽しめていないようでしたが、まあ心配するほどのことではありません。


82番根香寺
根香寺に着きました。
そこには、「静謐」がありました。


参道
新緑の中、一度、石段を下ります。


参道
少し歩いて、また上ります。今度は長い石段です。
いちど降り、また上る、その行為の中で、何かが「改まった」ような気がしました。


牛鬼(平成25年撮影)
この山中に巣くっていた、人食いの「牛鬼」だそうです。弓名人の山田蔵人髙清に退治されました。切り取られた角が根香寺に奉納され、今もあるのだそうです。
なおこの牛鬼は、宇和島の牛鬼とは異なります。宇和島の牛鬼は、神に供奉する「善玉」です。


役行者 
案内板は根香寺を、次の様に紹介しています。
・・根香寺 は、急坂を登りつめた青峰山 中腹にある、弘法大師 により開基された木立の中のお寺です。なぜ、このような険しい山の中に建てられたのでしょう。
・・奈良時代 の仏教は、鎮護国家 を目標としていましたが、平安時代 になると仏教 は、祈りやまじないが実現する不思議な力を得ようと、苦しい修行を重んじるようになりました。そのため、明るく華やかな場所ではなく、人里離れた山の中にお寺を建て、山中を修業の場としたのです。(このような仏教のあり方を、山岳仏教 といい、このようなお寺を山岳寺院 といいます)。
であってみれば、ここに修験道の祖・役行者がいらっしゃることに、なんの不思議もありません。 昭和6年(1931)、ここに安置されたそうです。なお、足下に、従者・前鬼と後鬼の姿も見えます。2匹は鬼の夫婦で、「ぜんき」が夫、「ごき」が妻です。


白猴欅(はっこう・けやき)の根
食堂で出会ったお父さんが、木の側で鼻をヒクヒクさせながら、・・香水のような臭いが、アッ、ほら、匂う匂う・・と言っています。私たちもつられて嗅いでみたら、そういえば、なにか匂うような気がするような、しないような。
お父さんが言うには、・・もう枯れてしまったけれど、これは智証大師が千手観音像を刻んだ霊木の根ですよ。霊木は香木でね、だからほら、根香寺という名なんですよ。ほら、やっぱり、いい香ですよ。
(私は本気で)納経所の若いお坊さんに、・・あの木は匂うの?・・と聞いてみました。そしたら答は、・・(どうやら私たちの会話を聞いていたらしく)そんなことないです。フッフッフ。・・でした。私はお父さんに、すっかり遊ばれていたのでした。
なお白猴欅の「猴」は、猿を意味します。この樹を伝って下りてきた白い猿が、智証大師の寺院創建を手伝ったと伝わります。


本堂 
本尊の千手観音菩薩像は、33年に一度開帳の秘仏だとか。
御本尊の左脇には、これも秘仏の智証大師坐像が、右脇には毘沙門天立像が配されているとのことです。
ただ、江戸時代の根香寺には、弘法大師堂と智証大師堂の両方があったとのことです。とすれば智証大師坐像は、本堂ではなく、智証大師堂に祀られていたのでしょう。


本堂 大師堂
四国遍礼名所図会には、・・本尊千手観音立像(御長三尺八寸。大師御作)、大師堂(本堂の側にあり)、智証大師堂。・・との記述があります。つまり両大師堂がある、ということです。
そこで「根香寺図」の右上部分を拡大して見ました。大きめの建物(おそらく本堂)の左右に、宝形造の建物が描かれているのがわかります。これらが弘法大師堂と智勝大師堂なのでしょう。いずれがいずれか、書き込みはありませんが、おそらく右が智証大師堂なのでしょう。


本堂 大師堂
四国遍礼霊場記は、・・(根香寺は)台密兼備の寺なり・・と記し、図では右側の建物に、「智証堂」と書き込んでいます。


景色
絶景ともいえる景色を楽しみながら、鬼無に向けて下山します。香西寺は、今回は行きません。


ゴミ問題
「絶景」の中で、こんな問題も提起されていました。平成19年(2007)3月の新聞です。カバーをつけて、休憩所に置いてありました。
記事のリード部分を転載すると、・・
・・遍路の旅で人生を見つめ直したい・・。そんな人々が集まる四国八十八ヵ所の札所巡りに、異変が起きている。ゴミを路上にポイ捨てする遍路がいるかと思えば、山間部では不法投棄された粗大ゴミが遍路を迎える。「癒やしの道」とも言われる遍路道だが、地元では「このままでは『嘆きの道』に変わってします」と心配する声もあがり始めた。
そういえば私も、こんな話を聞かされたことがあります。・・お遍路さんのマナーがあまりにも悪いので、私はお接待を止めてしまいました。前はいっぱい、しよったんですが。


杜の季(もりのとき)
素敵な店がありました。軽食・喫茶のお店です。コーヒー好きの北さんとしては、ここは素通りは出来ません。
古民家を解体し、この地に移したのだといいます。コーヒーは、ご主人が焼いたカップで出てきます。壁の木目込み人形は奥さんのお手製。おじいさん、おばあさんは、盆栽園をやっているとのこと。


杜の季
・・冬は寒くてね、昨冬は13センチも雪が積もりましたよ。そんな時は歩き遍路さんは、それは難儀されてまして、・・と話してくれました。


杜の季
こんな景色が見られるのでは、長居も仕方ないことでした。


盆栽通り
山を下りてくると、盆栽村がありました。鬼無盆栽村といいます。杜の季のおじいさんたちの盆栽園も、ここにあるのかもしれません。
盆栽村に冠された「鬼無」は、この辺の町名です。桃太郎伝説が伝わることに由来しています。土地の人の話では、おじいさんが芝刈りに行った「芝山」もあり、おばあさんが洗濯に行った川も流れているのだそうです。鬼無町の「雉ヶ谷」は家来の雉がいた所、綾川町の「猿王」は猿がいた所、岡山県ですが「犬島」は犬がいたところだそうです。鬼無町の桃太郞神社(熊野権現)には、桃太郞が祀られ、おじいさん、おばあさんのお墓もあるそうです。


女木島
写真は、この翌々日に屋島で撮った、かつての「鬼ヶ島」です。鬼は桃太郞に退治され、今は女木島という、平和な島となっています。
なお、鬼ヶ島から辛うじて逃れた鬼達もいたそうですが、この残党達も、桃太郞が退治してしまいました。仕返しに「鬼無」まで攻め込んできたのを、ふたたび桃太郞が退治したのです。
すっかり鬼がいなくなったので「鬼無」。鬼無町の地名由来譚です。


景色
今では桃太郞といえば岡山ですが、かつて桃太郞話が伝わる土地は、いくつもあったそうです。その数20-30とも言われています。鬼無も、その一つだったのでしょう。
なお、岡山の桃太郎が有名になったのは、昭和37年(1962)の第17回岡山国体で桃太郞をマスコットに採用。全国に知られるようになったとのことです。


百百屋(ももや)
宿は、予讃線鬼無駅近くの百百屋さんです。「もも」は、桃太郞の「もも」でしょうか?尋ね忘れましたが、きっとそうなのでしょう。
白峯寺で出会った、愛知さんが同宿でした。
・・自分は方向音痴なので、よかったら明日、同行を・・、と頼まれました。もちろん旅は道連れですから、承諾しました。方向音痴とはいえ、ここまで一人で歩いてきている人です。たぶん賑やかに歩いてみたい気分だったのでしょう。

 3日目 平成21年(2009)4月22日

出発
愛知さんと、三人で歩き始めました。
彼女とは、屋島寺まで一緒に歩きます。というのは、私たちは檀ノ浦へ下りますが、彼女は登った道を折り返すからです。檀ノ浦への下りは急なので止めなさいと、どなたかから助言されたのだそうです。
前方の駅は、JR予讃線の鬼無駅です。


地神尊
「地神尊」と刻まれています。「じしん様」「じじんさん」「じがみさま」など、いろいろに呼ばれる神様ですが、ちょっと改まって「社日さま」などと呼ばれることもあるようです。春、社日の日(春分に近い戊の日)に里に下りてきて、五穀豊穣を見極めて、秋の社日の日に山へ(あるいは出雲へ)帰ると信じられている神様です。


五大神
ここでは「五大神」と刻まれていますが、その内実は「地神尊」に同じです。
「地神尊」は、農耕神である五柱の神々の総称なので、「五大神」でもあるのです。


地神さま
この五角形石柱には、五大神の御名が刻まれています。
神々の御名は、正面が天照大神、そして時計回りに、大己貴命、少彦名命、埴安媛命(はにやすひめ命)、倉稲魂命(うかのみたま命)となっています。



地神様を見ていると、初老の男性遍路が話しかけてくれました。和泉さんです。
聞けば、和泉さんの遍路は大忙しです。(案外、私たちと似ているところもあります)。交通標語、なにかのキャッチフレーズなどを見かけると、かならず書き写します。トンネルの長さ、歩道の有無、途中に県境があるかなどもチェックし、メモしています。橋、郵便ポスト、二宮金次郎像、古いブリキの看板などなど、これらもメモしたり写真に撮ったりします。



真似できないのが、アキカン拾いです。大きなビニル袋に、落ちているアキカンを拾っては入れています。サンタクロースのように、袋を担いで歩くのです。前掲の新聞に触発されたのだそうです。
大げさなことをしているつもりはない、と言います。捨てる人がいるなら、拾う人がいてもいい、そんな、ごく普通のノリなのだそうです。一日、それも早朝だけでも、アキカンが落ちていない道が実現できれば、それで満足だ、といいます。
いつか通し打ちをしたい、と言いいながら、このような歩き方では難しい、とも自覚しているようでした。


香東川河川敷
香東川(こうとう川)と読むそうです。この川を渡ると、まもなく83番一宮寺です。
途中、一度道を間違えましたが、愛知さんは非難めいたことは、おっしゃいませんでした。そればかりか、私たちがあれこれと示す関心に、根気強く付き合ってくれました。



写真は小麦でしょうか。香川県では、稲作と麦との二毛作が盛んだったそうです。
育てた小麦でうどんを打ち、家族で食べる、・・美味しいんでしょうね。各家がつくる味の総体が、讃岐うどん文化を支えているのでしょう。


83番一宮寺
一宮寺は大宝年間(701 – 704)に創建され、その頃は大宝院(だいほう院)と呼んでいたそうです。和銅年間(708-715)に讃岐一宮・田村神社が創建され、その別当寺となったことから、一宮寺(いちのみや寺)と改めたといいます。以来、一宮寺は、その国第一位の神社を意味する社格「一宮」を、寺名に冠し続けています。


本堂
神仏分離後の今も、なお「一宮」寺であるのは、田村神社と一宮寺の神仏分離が、明治期の神仏分離政策によるものではなく、それより200年も前、延宝7年(1679)になされたことと、関わりがあるのかもしれません。


大師堂
延宝7年(1679)、田村神社はそれまでの(本地垂迹説を基本とする)両部神道から(本地垂迹説を排する)唯一神道(吉田神道)に改められています。その時、田村神社にあった仏教の要素は全てそぎ落とされ、神社に属する宮寺も、一宮寺を除いて全て廃寺となっています。思うに、この一寺のみが残された事情が、今なお「一宮寺」である理由に通じているのかもしれません。


田村神社
なお江戸期の遍路本は、83番札所を次の様に記しています。
  四国遍路日記   承応2年(1653) 一之宮
             延宝7年(1679) 唯一神道に改まる
  四国遍路道指南  貞享4年(1687) 八十三番一之宮
  四国遍礼霊場記  元禄2年(1689) 蓮華山一宮寺大宝院
  四国遍礼名所図会 寛政12年(1800) 八十三番一之宮蓮華山大宝院 


桃太郎の一行
「倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ・ももそひめ命)と吉備津彦命(きびつひこ命)」と記されています。
前述の鬼無町の桃太郞は、稚武彦命(わかたけひこ命)がモデルとされていますが、田村神社では、稚武彦命の兄神・吉備津彦命がモデルになっています。倭迹迹日百襲姫命は、吉備津彦命の姉神とされる女神です。
その像がここにあるのは、この二神が、田村神社の祭神だからです。田村神社の祭神は、田村大神と総称される五柱からなっており、倭迹迹日百襲姫命と吉備津彦命は、そのうちの二柱なのです。なお、他三柱は、猿田彦大神、天隠山命 (高倉下命)、天五田根命 (天村雲命)となっています。


天の磐船・うつぼ船(平成25年撮影)
倭迹迹日百襲姫命が、東かがわ市引田の安堵ノ浦(あどノ浦)に上陸。周辺を開拓して水主神社(東かがわ市)に祀られ、さらに西に遷って船山神社(高松市仏生山)に祀られる辺りのことは、→(H23秋4) →(H23秋1)をご覧ください。
写真は、水主神社に在る倭迹迹日百襲姫命の御座船・天の磐船・うつぼ船です。水陸両用といわれ、百襲姫命はこれに乗って、奈良の桜井から引田にやって来たと伝わります。


一宮一覧
ドイツの母娘、愛知さん、函館さんと、記念写真を撮り合いました。
一宮を名乗る神社はいくつもあります。例えば、当ブログでも度々ふれてきましたが、13番大日寺に隣接する阿波一宮がそうです。しかし、正真正銘の一宮は、ここに社名が刻まれた「全国一の宮会」に加盟する神社であるぞよ、というわけでしょうか。


出発
「一宮」を発ち、84番屋島寺へ向かいます。


マンホール
早速、那須与一が現れました。屋島、檀の浦近しを感じます。


パン屋さん
製造直売のパン屋さんがあったので、行動食のつもりで買いました。
ところが、これがとっても美味しそう。結局、前の椅子を借りて、皆で食べてしまいました。


高松自動車道
上は高松自動車道。鳴門市から香川県を経て愛媛県の四国中央市に至ります。
下は国道11号です。徳島市から高松市を経由し、松山市に至ります。太平洋側の55号、56号に相当する道でしょうか。ただし、これは国道11号バイパスと言った方が正しいのでしょう。従来の11号には、この先で出遭います。
遍路道は、11号を突っ切り、北上します。


線路
車道の交通量が多く、とても危険な区間がありました。御坊川沿いの道に出て、ようやくホッとしました。
写真は、琴平電鉄長尾線の花園駅でしょうか?確認できません。


笑門
これは松飾りとは違って、伊勢飾りと呼ばれるものだそうです。年中、飾っておきます。「笑門」の札は文字通り、「笑う門には福来たる」を意味します。
招福の札ですが、一説には、元は「将門」と書いていたと言います。
素戔嗚尊が蘇民将来に与えて去った、「蘇民将来子孫家門」という禍除けの札の文字を略し、「将門」と書いていたが、平将門に通じることをきらって、「笑門」と書きかえたのだそうです。


御坊川
街中を流れる川としては、きれいです。


交通標識
右方向は八栗・屋島方向。左方向は坂出・国分寺方向。この左右の道は、昭和初期に開通した旧国道11号で、「観光道路」の愛称で呼ばれる道です。
遍路道は、現在の国道11号方向へ直進します。


千代橋 
御坊川に架かる千代橋です。案内板によると、この道は「浜街道」「東下道」と呼ばれた道で、かつては往還道でした。案内看板には、・・観光道路(旧国道11号)ができるまでは、高松から屋島を経て、志度・徳島方面へ行く出口であり、また高松への入口にあたる主要街路であった。・・と記しています。


昼食
国道11号沿いのうどん屋さんで、昼食をとりました。
私に言わせれば、近頃の讃岐うどんは妙にコシが強くて、美味くないどころか、食べ難くさえあります。歯が悪い年寄りでも、一噛み二噛みすればスルッとのみ込める、そんなうどんが食べたいものです。


屋島
屋島がスッポリと写真枠に入ってくれました。
屋島は、かつては本土とはなれた、純然たる「島」でしたが、今は埋め立てのため、ほとんど陸続きになっています。
「ほとんど」というのは、相引川という川が、島と陸の間を流れているからです。この川を「水路」あるいは「海峡」とみなせば、今もまだ「島」であるということになりますが、はたしてどうなのでしょう。


相引川
この川が相引川です。一見して、これを「水路」あるいは「海峡」とみなすことには無理がある、そうお考えかもしれません。たしかに、それはわかります。
しかし相引川は、海の干満に応じて水位が変わる川なのです。次号でもご覧いただきますが、この川は屋島の南側を流れ、屋島の東側と西側の両端に二つの河口をもっているからです。ですからこの「川」も、海の満ち引きと共に満ち引きしているのです。(「相引」の名はここから来ています)。とすると、この「川」を「格別に狭い海峡」と見做すことも、出来なくはないのです。


潟元駅
相引川と渡ると、 琴平電鉄・志度線の潟元駅です。
江戸時代、この辺りは埋め立て地で、それ以前は海だったのでしょう。


溜め池
登り口の手前に、道池という名の溜め池がありました。江戸期に出来た古い溜め池です。
ひと休みしていると、ドイツの母娘がやって来ました。
ウサギとカメみたいだね、と話すと、・・あなたたち(北さんと私)はウサギ、私たち(母娘)はカメですね・・と言います。この話はイソップ寓話なので、彼女たちも知っているのです。
・・歩くのはあなたたちの方が速い。だが、着くのは、私たちの方が早い、と言われましたが、でも、いい勝負ではあったのです。なんとなれば、このウサギとカメは、88番まで、相前後して歩くことになるのですから。


登り口
「同行(みちづれ)の杖」をお借りすることができるようです。私たちには不要ですが。


加持水
弘法大師の加持水と伝わります。いかなる日照りにも涸れることがないとのことです。
写真右寄りに写っている石柱の文字「加持水」は、弘法大師直筆とだとか。


不喰梨
24番最御崎寺で聞いた「喰わず芋」に似た、「喰わず梨」の譚が、屋島寺に伝わっているそうです。
・・弘法大師がおいしそうな梨を所望したところ、持ち主は、・・これは食べられない梨なんです・・と嘘をついて断ったのだそうです。そしたら、なんと翌年から、その木には梨が、本当に実らなくなってしまったのだそうです。



地元の四人連れの人たちが話してくれました。
・・昨日は風が強く、落ち葉がいっぱい落ちて、歩きづらいほどじゃった。
・・落ち葉は滑って危ないけんの。それに雨で濡れてしもうたらやっかいじゃけん。
というわけで、この人達が、すっかりきれいに掃きとってくださったとのことでした。



気さくな初老の男性たちで、一つ質問すると、それぞれが、それぞれの回答をしてくれます。代表答弁ではないのです。答が少しずつ違っていたりするのですが、そこがまた楽しいのでした。
この人達は、屋島登山のグループでもあるそうでした。


屋島登山番付表
屋島登山グループの番付表です。
1000回以上が横綱、2000回以上が大横綱です。初めは横綱が最高位だっただが、横綱の勢いが止まらず、大横綱をつくらざるをえなくなった、ということのようです。なお、この時の最高回数は、8055回でした。大大大横綱です。
四人は、今日、2回目の登山だそうです。
この後、彼らは私たちを追い抜き、降りてきました。
・・早いね!と声をかけると、
・・おい、もう一本、やろう!
・・おー、やろやろ!
まことに意気軒昂なジーサンたちです。大横綱をねらっているのでしょうか。


84番屋島寺山門
澄禅さんの『四国遍路日記』(承応2年/1653)に、次の様な記述があります。 
・・先ズ当寺ノ開基鑑真和尚也。和尚来朝ノ時此沖ヲ通リ玉フガ、此南ニ異気在トテ此島ニ船ヲ着ケ見玉テ、何様寺院ヲ可建立霊地トテ当島北ノ峯ニ寺ヲ立テ、則南面山ト号シ玉フ。是本朝律寺ノ最初也


本堂
鑑真和尚(わじょう)は、暴風雨、難破、失明に阻まれ、六度目の試みにしてようやく渡来を果たしました。
朝廷に招かれて奈良に向かう途次でのことでした。屋島沖を通過中、和尚は南方に「異気」を感得されて島に上陸。(霊場会HPによると)屋島北峯に・・普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建された。のち和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え、「屋島寺」と称し初代住職になった。・・とのことです。北嶺に建てたのは、南嶺にはまだ(後述する)屋島の城(き)が在ったからででしょう。


本堂
なお五来重さんは、『四国遍路日記』の・・北ノ峯ニ寺ヲ立テ、則南面山ト号シ玉フ・・について、次の様に記しています。
・・もとは遍路の寺は海を向いていたので、瀬戸内海の寺は北を向いているのはあたりまえです。南面山と書いていますが、ここでは北面山です。
また・・是本朝律寺ノ最初也・・について、・・まだ唐招提寺を造っていないときですから、戒律を学ぶ寺としては最初の寺だといっています。・・と記しています。
   

大師堂
屋島寺を屋島南嶺の現在地・・かつて屋嶋城が在った辺り・・に遷し中興したのは、弘法大師空海だと伝わっています。
霊場会HPは、・・弘仁6年(815)、弘法大師は嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、また十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置した。以後、大師は屋島寺の中興開山の祖として仰がれている。・・と記しています。
なお現在、北嶺には千間堂なる遺蹟が在り、これも鑑真所縁の遺蹟とされていますが、HPにある普賢堂との関わりは、(私には)わかりません。


景色
お参りの後、愛知さんと別れました。私たちは五剣山を見ながら檀ノ浦に降りてゆきますが、彼女は、来た道を引き返すからです。出会った先達さんに、檀ノ浦への下り坂は厳しいから止めなさい、と助言されたのだそうです。
写真左側は高松市の港湾部です。夜景も見てみたいものです。


女木島
鬼無の所で紹介した、鬼ヶ島・女木島です。


城(き)
屋島でぜひ見たいものがありました。屋嶋の城(き)です。
白村江の戦いで倭(日本)・百済遺臣連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗しました。唐・新羅連合軍の侵攻を恐れた、中大兄皇子を中心とする時の倭の政権は、九州から瀬戸内海沿岸にかけて大規模な城(き)を築き、これに備えました。屋嶋の城も、そのひとつです。写真の石は、7世紀の石塁でしょう。斜面を降りて見つけました。
なお屋嶋の城は、平成19年(2007)より、大規模な発掘調査がはじまっており、(私はまだ見ていませんが)令和の現在では、多くの城壁が復元されているそうです。伊予永納山に築かれた城については、→(H30春7)をご覧ください。


五剣山遠望
もっと長居したかったけれど、そうもなりません。85番五剣山八栗寺へ向けて、まずは屋島を下ります。
下りの途中、ドイツの母娘が追いついてきました。愛知さんはどうした、と尋ねるので、危険だから引き返したと答えると、・・それはcleverだ・・とのことでした。とはいえ彼女たちには、さして恐れる風もなく、私たちを抜いていったのですが。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
できれば宿に着いたところで終わりにしたかったのですが、字数の制限もあり、ここで切らせていただきます。
次号は9月20日更新の予定です。厳しい残暑がつづいています。みなさま、ご自愛下さい。

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コメント (7)
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宇夫階神社 78番郷照寺 八十場 白峰宮 79番高照院 80番国分寺 81番白峯寺

2023-07-19 | 四国遍路

 
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  1日目 平成21年(2009)4月20日

羽田空港
・・結願はしておいたほうがいいですよ。だって、まさかの時、間に合わないかもしれないじゃないですか。
結願を先延ばしにして拾い歩きを続けている私たちへの、先輩遍路からの忠言です。
なるほど、・・まさかの時・・これはあり得る。
というわけで、いよいよ the final leg of our Shikoku Henro の始まりです。


南アルプス
平成21年(2009)4月20日。私たちは、羽田発8:05 高松行きに搭乗。宇多津に向かいます。
写真は、いまだ冠雪の南アルプスです。


高松駅
宇多津駅で打ち止めたのは、平成19年(2007)1月のことでした。前年の一年間を椎間板ヘルニア手術のリハビリに過ごした私は、北さんにエスコートされて三角寺から宇多津間の「試し歩き遍路」に挑戦。あと一回の区切り歩きで結願、というところまできていたのでした。
帰りの宇多津駅で着替えながら、・・ここから先は、もっと体調を整え、一番いい季節を選んで歩こう、・・と話し合いました。


宇多津駅
思えば、これがよくなかったのです。
美味しいものを最初に食べるか後に残すか、私たちはどうやら後に残す方だったようです。一度先延ばしにした結願はどんどん先になり、私たちはその後、平成19年春、平成20年春、平成20年夏、平成20年秋と、4回にわたって「拾い歩き」を続けることになりました。
・・結願は、しておいたほうがいいですよ・・は、そんなときに戴いた忠言であったのです。


新宇多津都市
11:00、歩きはじめました。
宇多津は古い街ですが、宇多津駅周辺には「新宇多津都市」が誕生しています。瀬戸大橋の開通を機に、塩田跡地に造られた新都市空間です。→(R1初冬14)


玉垣
駅前を走る県道33号(高松-善通寺線)を東進すると、すぐ宇多津の古街に入ってきます。というのもこの道は、旧丸亀街道を前身としているからです。
宇夫階(うぶしな)神社の玉垣に、「盬飽」(塩飽)の文字を見つけました。「塩飽」(しわく)は、「塩焼く」から来ているとも「潮湧く」からとも言います。
おそらく「盬塩屋松蔵」さんは、西備讃瀬戸に浮かぶ塩飽諸島の出なのでしょう。ご先祖は、塩飽水軍であったかもしれません。塩飽水軍は、戦国時代に備-讃瀬戸を扼した「海賊」で、同じく芸-予を扼した村上水軍とともに、名を轟かせました。


宇夫階神社鳥居
・・昔、讃岐国阿野郡(あや郡)の国司の封じられた武殻皇子(たけかいこ皇子)が、宇多津沖を巡視していたときのことです。突如、嵐に襲われて、皇子の一行は遭難しそうになりました。
・・しかし皇子が宇夫志奈大神(うぶしな大神)に救助を祈念すると、どこからともなく小烏(こがらす)が飛び来たり、皇子一行を、安全な泊島(塩飽本島)に導いたのだといいます。
・・宇夫志奈大神が小烏を遣いとして寄越し、皇子一行を救ってくださったのです。
以来、宇夫志奈大神は「小烏大神」とも呼ばれるようになり、小烏大神を祀る宇夫階神社は、「小烏さん」の愛称で呼ばれるようになったのだといいます。


宇夫階大明神の扁額
なお、この譚に登場する武殻皇子は、景行天皇の皇子である日本武尊の御子で、讃岐綾氏の祖とされています。
また、悪魚伝説(八十場の霊水伝説)に登場する讃留霊王(さるれ王)と同一視されることもあるようです。悪魚伝説や讃留霊王については、後述します。


磐境
本殿後方に重さ300トンとも言われる巨石があります。宇夫志奈神の「磐境(いわさか)」だとされています。古代の祭祀場です。むろん社殿は、まだありませんでした。社殿が建つのは、仏教伝来後、仏堂に倣ってのことでした。
注目するのは、この場の地形です。磐境の北側がストンと落ちて、崖になっています。今でこそ崖下には民家が建っていますが、昔は海だったと思われる地形です。(同様の地形が、この後、郷照寺でも見られます)。


磐境
磐境の丘は、「小烏の丘」と親しみ呼ばれているそうです。(前述の)小烏が武殻皇子一行を導いた譚に由来する呼称です。


御膳岩
この巨石は御膳石とよばれ、ここに神饌(しんせん・神への供物)が置かれたと考えられています。


宇夫階神社と塩竈神社(令和1年撮影)
宇夫階神社境内には金毘羅神社、石鎚神社など多くの境内社がありますが、なかでも重視されているのが、塩竈神社です。塩竈神社本殿は、宇夫階神社本殿と並んで、「小烏の丘」に鎮座しています。
というのも、祭神の塩土老翁神(しおつちのおじ神)は、製塩の神だからです。製塩の街・宇多津の守護神とあれば、重視されるのも当然と言えましょう。


塩竈神社扁額
この塩竈神社は、宇多津に元々あった二つの塩竈神社を、昭和9年(1934)、小烏の丘に遷座し、合祀したものです。
一社は、享保20年(1735)に勧請された東塩竈神社で、宇多津での製塩が江戸中期には、すでに始まっていたこと示す神社です。もう一社は、明治6年(1873)勧請の西塩竈神社で、宇多津製塩が明治時代、最盛期を迎えたことを示しています。製塩の歴史と隆盛を伝える神社が、昭和に入り、ここ小烏の丘に合祀されたのです。→(R1初冬16)


うどん屋さん
・・宇夫階神社に「神社うどん うぶしな」があるよ。美味しいから食べてみな。・・と教えられて、やって来ました。
とっても美味なうどんでした。私はブッカケをいただきました。


78番郷照寺へ
県道33号から逸れて、古くからの道を歩きます。古街のメインストリートです。                                                                       


高橋地蔵餅本舗
明治41年(1908)創業。私の気に入りの餅屋さんです。木製の番重に餅が並んでいます。売り切れると、店は閉まります。
「地蔵餅」の名は、店の向かい側にある地蔵堂に由来します。


地蔵堂
これがその地蔵堂。
半跏踏み下げ座像の地蔵菩薩は、延命地蔵でしょう。


碇石
地蔵堂の前に石組みがあります。支柱上に横たえられた石は、かつては船の碇代わりに使われていた石なのだそうです。宇多津の船が遠州駿河沖で嵐に遭遇。その時、この碇石を「垂らし」て、嵐を乗り切ったと伝わっています。おかげさまで命長らえた船乗り達が、延命地蔵尊に奉納したのでしょう。
「垂らし」とは、重しを船尾から流して船首を風上に向かせるす方法で、今風のいい方では、「シーアンカー」というのだそうです。船首を風上に向けると、横浪を食らいにくくなります。


閻魔堂
28番郷照寺の門前に閻魔堂があります。「四国一のえんま大王像」だそうです。
閻魔さまの前を通り、阿弥陀さまの待つ郷照寺へ向かうことになるのですが、ただし、この閻魔堂は郷照寺のものではなく、近くの、浄泉寺のものとのことです。


78番郷照寺 
郷照寺は88箇所で唯一、時宗の法灯を伝える札所です。
時宗の「時」は、死に臨むその「時」を意味するとか。平生の時をも臨終の時と心得て念仏せよ、と教えます。
郷照寺はまた「厄除うたづ大師」とも呼ばれ、真言宗の法灯もまた伝えています。郷照寺HPは、・・ 大同2年(807)、弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得。大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。・・と記しています。


郷照寺からの景色
瀬戸大橋が見えます。宇夫階神社の記事でも記したように、かつては、あの海がここまで迫っていました。
山号の「仏光山」は、ここで燃やす火が沖行く船を導いたことに由来するといいます。


格天井
ドイツから来た母娘遍路に出会いました。この二人とは88番まで、相前後しながら歩くことになります。
娘さんのたどたどしい日本語と、私たちのおぼつかない英語で、何とか意志を通じさせました。


道標
  東 高松、西 丸亀道 
  すぐ こんぴら道
「すぐ」は、「まっすぐ」を意味します。方角でいえば、ここでは南西方向になりましょう。なお北方向に行けば、海(瀬戸内海)です。
金毘羅道については、→(R1初冬12)(R1初冬13)にかなり詳述してあります。


大束川
大束川(だいそく川)の上流方向です。左から流れてくる大きな流れが、今の本流です。潮止め水門は、おそらく大束川の旧水路に取りつけたものでしょう。
右の白壁は西光寺。浄土真宗の寺です。白壁には銃眼が穿たれているかに見えます。(R1初冬15)。後方の山は飯野山・讃岐富士です。


シール 
ガイジンサン、とりわけ欧米からの歩き遍路が増えています。「お大師さんの道」が世界(外国)とつながってきたのです。実際、私たちもオランダから来た人たちとの出会いを楽しんだり(前々号)、ドイツから来た母娘との触れあいを楽しんだりしています。(今号)
この前年(平成20年/2008)、四国遍路世界遺産登録推進協議会が発足したことも、こうした流れを加速させていると思われます。


焼山寺道にて
しかし、そのことを喜びつつも恐れるのは、「排除」「差別」という、やっかいきわまりない問題の発生です。私は一度、その場に立ち会ったことがあります。
・・ある宿での、夕食の時のことです。囲炉裏を囲む一方に、韓国の若い女性が二人、座っていました。それに向かい合う位置は日本の若い男女で、その間が私でした。私の向かいは、ときどき女将さんが来て座りました。



日本の若い男女は、韓国の女性達をはっきりと、ヘイトしていました。後で理由を尋ねると、韓国女性達の座り方が気に入らないとのことでした。一人は立て膝で、もう一人は胡座だったのです。韓国ではごく普通のことなんですよ、と話してみましたが、郷に入っては郷に従うべきですとの応えでした。また、出されたおかずに何かを振りかけていたのも、お気に召さなかったようです。失礼だというのです。彼女たちの舌にはちょっと甘すぎたのでは、と話してみましたが、聞く耳は持たないようでした。


坂出へ
前方の瀬戸中央自動車道をくぐれば、坂出市です。


みかえり不動尊  
大日みかえり不動尊とのことです。
この「みかえり」は、むろん「みかえり美人」などと言うときの、「ふり返る」という意味ではありません。信じて願えば「応えてくださる」というような、「信仰へのみかえり」を意味するのでしょう。今日日、「みかえり」を求めて何かをなすことは、欲深な行為と考えられがちですが、ご利益をいただきたくて行う信心の行為に、恥じることのあろうはずはありません。
「みかえり○○」には、他にも、みかえり地蔵、みかえり阿弥陀、みかえり弘法大師などがあります。


遍路道
・・次は高昭院 公園内中央の道を東に 元気で・・と表示されています。
めずらしく、公園を抜けて行く道が案内されています。公園は、田尾坂公園です。


八幡神社
ある調査によると、・・全国の神社に祭られている神様(祭神)で一番多いのは八幡(7817社)で、次いで伊勢(4425社)、天神(3953社)、稲荷(2970社)・・なのだそうです。八幡神を祀る神社は、2位伊勢の倍近くを数え、ダントツ1位になっています。
八幡神の全国化は、おそらく11C、武家の棟梁・清和源氏が、氏神として八幡神への尊信を深めたことに始まるのでしょう。源義家が石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と通称された譚は、その尊信ぶりを示す好例です。さらに12C、源頼朝が鎌倉幕府を開いたことから、八幡信仰は、一挙に全国に広がります。


商店街
坂出市本町(ほんまち)商店街です。今は多くがシャッターを閉めていますが、残っている看板などを見れば、かつては日用品店から高級品店まで、多様な店が並ぶ繁華街であったとわかります。
残念です。この界隈で賑わっていたのは、唯一、少し先にある大型店舗のみでした。


商店街 
もう何回、このブログに書いたでしょうか。
・・道ができて人がおらんようになった・・。
坂出の人たちにとって瀬戸大橋の架橋は、起死回生の事業であるはずでした。
なのに、・・まさかこんなことになろうとは・・。
それは、しまなみ海道に期待した今治の人たちからも、異口同音に発せられた言葉でした。


東亜温泉
洋風の建物は、旧「東亜温泉」(大衆浴場)です。今は倉庫(物置)になっています。
大正の末、関西を中心に洋風銭湯が流行りはじめたそうです。東亜温泉もその一つでしょう。洋風で東亜(東アジア)は少し変ですが、それは気にしますまい。
坂出市は本格的な空襲は受けていないといいますから、この建物は戦前のものなのかもしれません。


27番神峯寺の大唐破風
なお同時期、東京では、唐破風屋根の宮造り銭湯が流行ってきたといいます。
なぜ唐破風屋根なのか。一説には唐破風屋根の先には、「ごくらく」が待っているからなのだそうです。
なるほど、いい湯につかれば思わず、ゴクラク ゴクラクが口をついて出ますから、銭湯が「ごくらく」であるのはいいとして、ではなぜ唐破風屋根が「ごくらく」への入口なのでしょうか。
何方かに拠れば、・・それが証拠に、寺にも霊柩車にも遊郭にも、唐破風屋根が付いているではないか。・・とのことですが、皆さま、おわかりでしょうか。


まんが
・・お疲れさま もうすぐ第七十九番天皇寺です・・とあります。
ここで言う「天皇」は、崇徳天皇を言います。保元の乱(1156)に破れ、配流先の讃岐で崩御された天皇です。なぜ札所が「天皇」寺なのかについては、後述します。


アンパンマン列車南風号
マンガは、やなせたかしさん創作のキャラクターで、お存知、アンパンマンやバイキンマン達です。やなせさんは、生まれは東京ですが、育ちは高知県の後免です。高知のみならず四国の活性化に尽力されましたが、残念ながらこれより4年後の平成25年(2013)、お亡くなりになりました。


八十場 
「八十場」という地名は、讃留霊王(さるれ王)の悪魚退治伝説に由来しています。伝説では、悪魚の毒に当たった兵達(八十八名)が、この地の霊水を飲んで蘇るのです。つまり、八十八名が蘇ったので、「八十場」というわけです。
表記は、「八十場」がいちばん一般的ですが、他にも、「八十八」「八十蘇」「八蘇場」「弥蘇場」などもあります。


八十場
讃岐には「八十場」の他にも、悪魚退治伝説に登場する場所があります。
坂出市の「江尻」は、退治された「悪魚」の尻尾が流れ着いた所なのだそうです。悪魚は「江の魚」と呼ばれていたそうで、その尻尾が流れ着いたので「江尻」というわけです。同じく坂出の「福江」は、「江の魚」の腹部が流れ着いた所(腹江→福江)といわれています。
また坂出高校の校庭には、魚堂遺址碑が建っています。かつて、ここに魚堂があって、その霊を慰めていたのでしょう。


魚霊堂(平成25年撮影) 
さぬき市志度には「江の口」という所があります。ここは、讃留霊皇子たちを船もろとも呑み込んだ、「江の魚」の大きな口が流れ着いた所なのだと言われます。
その江の口にある志度寺奥の院の地蔵寺には、魚霊堂(うおのみどう)があり、「江の魚」の霊を慰めています。遍路道沿いなので、ぜひ立ち寄ってみてください。 →(H25初夏6)


魚霊堂の木鐸(平成25年撮影)
地蔵寺の木鐸は、エイを形取っています。「江の魚」がエイだった(クジラ説もある)とされているからでしょう。記されている文字は、「奉慰魚霊心」です。→(H25秋2)


御殯殟御遺蹟の碑
八十場に建っている崇徳天皇御遺蹟の碑です。
  野澤井 崇徳天皇御殯殟御遺蹟
碑銘にある「御殯殟」の「殯」は、・・死者を埋葬するまでの間、遺体を棺に納めて安置し手厚く弔う・・ことを意味するそうです。本葬に至るまでの間、蘇生を願いつつも、少しずつ死を受け入れてゆく、その過程が「殯」(もがり)なのだと思います。
「殟」は、・・悩み・悲しみ・憤り・不満・不安などが心に満ちる・・ことを意味するそうです。


御殯殟御遺蹟の碑
碑は、崩御された崇徳天皇の御遺骸が、本葬までの間、「野澤井」の冷水に浸されていたことを記しています。損壊を避けるためでしょう。御遺骸の取り扱いについて都の意向が届くまで、おそらく長い時間がかかったと思われます。
すでにお気づきのように、「野澤(やさわ)井」は、「八十場」の古い呼称です。おそらく「やさわ」という音に悪魚伝説の「八十」や「蘇」の文字を当てた結果、音が「やそば」に転じたのでしょう。


天皇寺と白峰宮
白峰宮は、崇徳天皇鎮魂のために造営された「崇徳天皇社」の後継社です。明治に入り天皇の御霊が京都に遷されたのを転機に、崇徳天皇社は白峰宮と変りました。
79番天皇寺は、正式には「金華山天皇寺高照院」といいます。その前身である「金華山妙成就寺摩尼珠院」が崇徳天皇社の別当寺であった縁で、天皇の御霊が京都にお帰りになった今も、寺名は「天皇寺」です。


白峰宮の鳥居
「金華山妙成就寺摩尼珠院」が「金華山天皇寺高照院」に代わる契機は、明治初期の神仏分離・廃仏毀釈でした。「摩尼珠院」が廃寺となったのです。後年、明治20年(1887)、「摩尼珠院」の法灯を「高照院」が継ぎ、現在に至っています。
「金華山妙成就寺摩尼珠院」の創建は、弘仁年間(9C前半)とのことです。天平年間(8C前半)に行基が金山(後掲)の中腹に建立した「金山摩尼珠院」を、空海が現在地に降ろし、「金華山妙成就寺摩尼珠院」として中興したと伝わります。
なお摩尼珠院が崇徳天皇社の別当寺になるのは、長寛2年(1364)、二条天皇の御宇、摩尼珠院境内に崇徳天皇社が造営されて以降のことです。


白峰宮と金山
白峰宮の背後の山は、(前述の)行基が「金山摩尼珠院」を創建したという、金山(かなやま)です。
またこの山中には、澄禅が「四国遍路日記」に、・・大師御定ノ札所ハ 彼金山ノ薬師也・・と記す、金山神社、金山瑠璃光寺(金山薬師)もあります。→(H25初夏6)

(荒い写真でごめんなさい。お気づきかと思いますが、このシリーズでは、北さん撮影の写真を使用しています。私が撮った写真は、どうやら誤ってフォルダーを削除してしまったらしく、旧アルバムからコピーした、こんなものしか残っていないのです)。


お接待
歩いていると、車から中年の女性が降りてきて、・・集まりがあってな、その時の余りものなんよ。よかったら食べて。・・と言って、イッパイお菓子をいただきました。クッキー、せんべい、飴玉、冷たいお茶までいただきました。
とてもじゃないが私たち二人では食べきれないので、どなたかにお接待をバトンしようと話し合い、相手を、先程来、相前後して歩いている、ドイツから来た母娘と決めました。


綾川
天皇寺を出て、しばらく予讃線沿いを歩くと、加茂川駅にでます。その手前で踏切を渡ると、今度は道が、綾川沿いの道に変わります。
綾川なのに加茂川駅とは、これ如何に?


休憩所
綾川沿いに、自宅を開放した休憩所がありました。「歩きへんろ 加茂駅」と表示されています。「駅」とは停まるところですから、・・歩き遍路さん、ここで停まって休みなさい、というのでしょう。
それにしても、ここでも「加茂」です。これはもう、綾川を京の都の鴨川に見立てたという、讃岐院のお心を偲んでいるとしか考えられません。


休憩所
・・あちらには飲み物もありますから、ごゆっくり・・窓からご主人が声をかけてくれました。
ご主人は「前山おへんろ交流サロン」の事業で、「四国八十八カ所おもてなし大使」に任命されているとのことでした。
・・大窪寺近くの「前山おへんろ交流サロン」へは、ぜひ立ち寄ってくださいね。もしかしたら「同行二人バッヂ」が戴けるかも。
なにやら結願が、グンと近づいてきました。


仏願道
この辺は地名を「仏願」というそうです。坂出市加茂町仏願です。近くにある真宗の寺・佛願寺に由来しています。
石柱にある「仏願道」は、お寺への参道でしょうか。


案内
この時は知らなかったのですが、写真に写っているピンクに白抜きの模様が、実は先ほど耳にしたばかりの、「同行二人バッヂ」だったのです。
少々先走りますが、私たちはこの4日後、「前山おへんろ交流サロン」で、この模様のバッヂと 「遍路大使任命証」を戴くことになります。


へんろ墓
  四国遍路常次郎墓 安政五年三月十七日
立派な墓を建ててもらえた常次郎さんですが、生国は刻まれていません。
・・四国遍路の常次郎・・それで充分だと、この墓の建立者も、また常次郎さん本人も、思っていたのでしょう。そんな気がします。


讃岐の山
国分寺に近づくと、3つの山が見えてきました。いかにも讃岐の山らしい山です。
畑仕事のおばあさんが教えてくれました。手前から、鷲ノ山、堂山、六つ目山、なのだそうです。六ツ目山は讃岐七富士のひとつに数えられるのだとか。
・・でもな、あれ、一直線に並んどるように見えて、実際は違うんよ。
なるほど、帰宅後に地図で調べてみたら、おっしゃる通りでした。


溜め池
おばあさんが、また話してくれました。
・・この池から水をもらっているけど、むちろんタダではないよ。使用量は払うし、もし水路が壊れたら、自分が使っていない水路であっても、修理代は共同で負担する。ただ働きもせにゃならん。
・・隣の畑は、もうやれんようになって、作っとらんのよ。仕方ないけどな。草が入り込んできて、困るんよ。


国分寺国分
写真の時刻でお分かりのように、ゆっくりしすぎました。もう16:47です。
急ぎます。


讃岐国分寺山門
順は逆だが仕方がない。まずは納経所に向かいました。
まだお参りは済ませていないのだけれど、・・と事情を話し、とりあえず御朱印をもらいました。


閉鎖
これで安心と本堂に行って読経。次いで大師堂を探すと、これが見つからない。
なんとこの寺の大師堂は、納経所と共にあるのでした。すなわち、納経所が閉まってしまうと、大師堂も閉まってしまうのです。そして納経所は、すでに17:00を過ぎており、ピタリと閉まっておりました。
幸い居合わせたお坊さんのお情けで、ようやくお参りできたのでしたが、さっき正直に事情を話しておいてよかったと思ったものでした。


金堂の礎石
写っている礎石の上に、かつては金堂(本堂)が建っていました。奥に見える現在の本堂の位置には、かつては講堂が建っており、その後ろには僧坊があったとのことです。南門-中門-金堂-講堂-僧坊を南北の一直線上に配置した、「国分寺式伽藍配置」なのでしょう。なお金堂の南東方向(山門を入って右手)には、七重塔の礎石が残っています(後述)。


復元想像図


本堂
鎌倉中期の建造とのことです。国の重文に指定されています。


七重塔礎石
日本の七重塔の建設は、国分寺の造営とともに進みました。しかし、残念ながら大型木造の七重塔は、現存しないそうです。
やや左寄りの、石造の塔が立っている礎石が心礎。心柱が建っていた礎石です。


梵鐘
この梵鐘にまつわる譚が伝わっています。
・・高松藩2代藩主は生駒一正公。この方、国分寺の鐘が気に入ったとて、乱暴にも城に持ち帰ってしまったそうな。
・・ところが、それからというもの、なぜか城内外に怪異、悪疫が流行。一正公も病床に伏してしまったといいます。
・・そんなある夜のこと、一正公の夢枕に鐘が立ち、・・もとの国分へいぬいぬ(帰る帰る)・・と泣いたのだそうです。
・・一正公はタタリを恐れ、鐘を国分寺に返したのですが、・・。
それが鐘のタタリであったかどうかは、定かではありませんが、4代藩主高俊公になって、生駒家は「生駒騒動」を起こし、出羽へ流されることになります。
なお、この梵鐘、天平年間(奈良時代前期)の鋳造で、香川県最古とのことです。国の重文指定。


御衣木(みそぎ)
弘法大師が本尊を修理したときの、残木だそうです。「枯れ木さん」とか「福龍」とも呼ばれています。


宿
今夜の宿、国民旅館「せと」です。昭和20年代、「健全な大衆旅行普及のため」旧厚生省が指導してつくった、全国旅館チェーンのひとつです。
夕食時、88才の車遍路さんと話しました。終戦時24才だった方です。いつしか話は「戦時」のことへ。
少年時、戦艦「陸奥」を目撃したとき興奮。その日時まで覚えてる。戦車肉迫攻撃訓練。疑問はあったが真面目にやった。新兵と古兵の関係話。シャバでの関係は軍隊内にも生きていた。「真空地帯」(野間宏著)がすべてではない。戦後の鉄道コンダクター(進駐軍に分かるよう英語だった)としての生活話。伊予鉄と国鉄の関係話。産業加配米の話。そして締めくくりは、♫あなた水雷 わしゃ機雷 ワイヤワイヤ(wire)で苦労する・・。とても勉強になりました。

  2日目 平成21年(2009)4月21日

国分台
天気予報では午前中は雨なのですが、降りそうもありません。
朝、ふたたび国分寺にお参りし、国分台(407㍍)に登り始めます。
 

国分寺資料館
お参りの後、資料館を見学したかったのですが、やはりこの時刻では開館しておらず、断念しました。


国分寺模型
しかし、資料館の側に広がる跡地や国分寺の石造模型は、なかなかに見応えがあります。
七重塔の右に写っている、寄せ棟の建物が金堂。少しはなれて右にある、切り妻の建物が講堂。その右の横長の建物が僧坊でしょう。これらが南北一直線上に並んでいます。


築地塀
境内を囲む築地塀が、ほんの一部ですが、復元されています。


版築
なんと、この築地塀、ちゃんと版築工法で作られています。土を固めながら一層ずつ重ねてゆく、中国・竜山文化伝来の工法です。


漢代・万里の長城
写真は、前漢が匈奴に備えて築いた長城です。層が重なっていることから、版築工法で築かれているのが分かります。
建造から2000年以上が経っていることを考えると、版築が如何に優れた工法であったかがわかります。


登り口
国府台への登り口です。ここから徐々に急坂になってゆきます。
81番白峯寺を先に打ち80番国分寺へ降りてくる、部分逆打ちルートは、この急坂を避けようとして工夫されたものでしょう。急坂を登らず、下ろうという算段です。


埋め墓
三列の石積みは、両墓制でいう「埋め墓」のようです。すでに被葬者の数、名前、没年などは、分からなくなっています。
墓参で通りかかったおばあさんが、話してくれました。
・・これは古い墓で、土葬した墓なんよ。前はもっとヨーケ(たくさん)あったが、だいぶ始末して、少ななってきました。拝む墓は、(指さして)あっちにあるんよ。→(H25初夏9)



大山祇神が祀られていました。


ヤマガラ
急坂にも楽しいことがあります。休憩中、掌を差しだしていると、ヤマガラが飛んできて、乗ってくれました。
乗った瞬間、意外と重い、そう感じました。


景色
年甲斐もなく・・ウソー!CGみたい!・・と叫びたくなるような、すばらしい景色でした。
一番奥は、阿波と讃岐の境をなす山々、阿讃山脈です。手前の家並みは、国分寺町。



国分台に上がってきました。見えている車道は、 県道180号(鴨川停車場-五色台線)です。左に自衛隊の演習所を見ながら、この道を1.5キロほど歩き、その後、旧遍路道に入って行きます。


陸軍用地
自衛隊演習地の側を歩いていると、乾いたパンパンという音が聞こえてきました。幸い本物の銃声を耳することなく、これまで過ごしてきた私たちですが、どうやらあれは本物だ、そう思いました。そういえば前回は大砲の音を聞いたのでした。私たちは花火と勘違いし、運動会でもあるのだろうか、などと話していたのでしたが。
この演習地、戦前は、帝国陸軍の演習地であったそうです。ちょっと小ぶりな「防衛庁」の境界標に並んで、「陸軍用地」の境界標が、貫禄たっぷりに建っていました。この演習場は、乃木希典率いる善通寺連隊も使用したといいますから、筋金入りの演習地なのです。


立ち入り禁止
・・演習地になる前には、遍路道はこの中を通っていたのですよ。・・と、出会った土地の人が話してくれました。
彼は演習がない日に、中を歩くことがあるそうで、・・いくつも丁石が見つかるよ。・・とのことでした。



旧道へ入って行きます。


お地蔵さん?
なるほど鉄条網の内側に、お地蔵さんでしょうか、が祀られています。


摩尼輪塔と下乗石
右が鎌倉時代末建造の、摩尼輪塔です。塔の円板部分を摩尼輪ということから、そう呼ばれるそうです。摩尼輪の下には(薄くなっていますが)「下乗」の文字が刻まれています。(次写真)
左の、太く「下乗」と刻まれた石柱は、「下乗石」と呼ばれており、損耗が激しい摩尼輪塔に代わるものとして、天保7年(1836)、建てられたとのことです。その時、摩尼輪塔には覆い屋がかけられました。


摩尼輪
「摩尼」とは、広辞苑によれば、・・球・宝・如意を意味する梵語で、宝石、宝玉、濁水を清らかにする不思議な働きがあるとされる・・とのことです。
つまり、ここに摩尼輪塔が立っているということは、これより先が聖域であることを示すわけです。だから、いかなる者も、「下乗」しなければならないわけです。
摩尼輪には梵字が、その下の石柱には下乗の文字が、薄くなっていますが、見えています。


第81番札所白峯寺
ようやく白峯寺です。

さて、皆さま、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号は白峯寺から、できれば屋島寺辺りまで進めたいと思っています。更新は、8月23日を予定しています。
厳しい夏が予想されています。皆さま、ご自愛ください。

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コメント (6)
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浅川 海部 古目大師堂 甲浦 東洋大師 法海上人堂 仏海庵

2023-06-21 | 四国遍路

 
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  第8日目 平成20年(2008)10月28日


浅川湾の朝です。
食事前、少し散歩しました。昨晩は暗くて見えませんでしたが、すばらしい景色の中に民宿吉田はあります。


ルアー
・・高知へ釣りに来たけど、釣果があがらんのよ、今日は最終日じゃけん、挽回期してます。・・という釣りの男性がいました。浅川湾のイカと勝負するのだといいます。
・・地磯で疑似餌をスイスイと泳がせていると、(身振りをいれて)スイと引いたタイミングで、イカが絡みついてくるんですよ。うまくゆけば、ですがね。
グッドラックでお別れしました。



今日は国道55号を南下し、阿波-土佐の国境を超えます。宿は東洋町の生見の辺りになるでしょうか。


ヘンロ小屋一号の案内
ヘンロ小屋第1号が建ったのは、平成13年(2001)のことだそうです。
因みに、四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクトのHPで、令和5年5月までに完成させたヘンロ小屋の一覧を調べてみると、最新の小屋は、令和4年(2022)11月完成の、第58号「月夜」(阿南市)でした。地道な活動で小屋数を増やしています。


ひおうぎ貝
このきれいな貝、ひおうぎ貝です。BBQをする人たち向けに売っていました。 刺身、バター焼、みそ汁などで、美味しく食べられるのです。
ひおうぎ貝の養殖は、土佐清水、愛媛県愛南町の由良半島・・柏峠から見える・・などが知られていますが、この辺でも穫れるようです。


ランプシェード
この5月(令和5年5月)、天恢さんと3年ぶりに、一献傾けることが出来ました。天恢さんが指定した店は土佐の酒や料理を供するお店で、なんと出てきた料理の一品に、ひおうぎ貝のバター焼がありました。店のお兄さんは長太郎貝と言っていましたが、ひおうぎ貝とも言います。
写真は、天井に下がっていた、ひおうぎ貝のランプシェードです。なお背景にすこし見えているポスターは、唐人駄馬(足摺岬)のポスターでした。→(H27秋4)


モチノキ
モチノキは縁起のよい木だそうで、庭木としてよく使われています。金持ち、物持ちに通じるからでしょうか。


浅川小学校
Wikipediaによると、私が歩いた2年後の平成22年(2010)、海陽町立浅川小学校は生徒数が32名に減少。その翌年、平成23年(2011)には海南小学校、川上小学校と統廃合されています。
もしかするとこの子達は、浅川小学校最後の卒業生だったかもしれません。


コーヒー
浅川駅を過ぎ、しばらく歩くと、右側にコーヒー「ふくなが」がありました。
コーヒー大好きの北さんが今朝はまだ一杯も飲んでいないとあって、入ることにしました。
その時は、ここで1時間も過ごすことになるとは、思ってもいなかったのですが。


趣味悠々
このお店、NHKの趣味悠々に紹介されたお店でした。写真はその1ページです。書き出し部分を転載しますと、
・・「小さい頃、お遍路さんがおいでると、親がおらんでも米櫃の蓋開けてね。手が小さいから両手で米をすくって、袋に入れてあげました。親のすることを見てましたからね。今でもお遍路さんの白装束を見ると『今日はいいことありそう』って思うんです」。お接待したくて店を始めたと、福長マスミさんは言います。大病を得て病院勤めを退職。幸い経過もよい。「これからは、生きさせてもらうという気持ちです。お遍路さんにお接待さしてもらうことで、お大師さんにさしてもらっているのです」・・


寒天
コーヒーの他に、寒天もいただきました。適度な甘さで、とても美味しくいただきました。
(福長さんが病院勤めであったことを知らず)・・海部病院が診療科をいくつか閉鎖するそうですね、・・と話すと、福長さんが反応されました。話ははずみ、いつしか当時進行中であった「医療改革」にまで及んだのでした。「かかりつけ医(主治医)」と「地域中核病院」の関係の在り方などを、けっこう熱く話した記憶があります。


テングサ
寒天の作り方を尋ねると、テングサを見せてくれました。採ったばかりでは赤いが、乾かすと黄色になるのだといいます。


蜂蜜
あの頃、福長さんは、・・蜂蜜を歩き遍路に供することはできないか、・・を考えておられました。店でいただくのではなく、疲れたときなどにチョイと取り出して糖分を補給できる、そんな軽くて持ち歩ける容器が工夫できればといいのだけれど、・・というのです。
ちょっと難しいですよね、と話し合ったのでしたが、さて、あれから15年。どうなっていますでしょうか。


四阿
ついつい長居をしてしまいました。せっせと歩かねばなりません。立派な四阿も素通りです。


休憩所の案内
・・体調がすぐれず困っている方は遠慮なくお申し出ください。・・とあります。 ありがたいことです。


標識
海陽町にある諸施設が表示されています。他にも、ここには表示されていませんが、南阿波ピクニック公園もあります。
阿波海南文化村は、阿佐海岸鉄道のバス路線、DMV停留所があるところです。


二宮神社 
今日日、二宮神社は嵐神社として、二宮和也さんファンに愛される人気神社なのですが、この二宮神社はひっそりと鎮まっていました。
調べてみると海陽町には一宮神社が在るので、それとの関連で二宮神社なのかもしれませんが、わかりません。


御花御礼
「御花御礼 大里ダンジリ打子一同」
「御花御礼 四方原打子一同」
こんな札が通り沿いに立っています。
おばあさんに尋ねると、八幡神社の祭で「花」(祝儀)をもらったダンジリの打子(子供たち)からの、御礼なのだそうです。


お祭八幡神社
宍喰の土産物屋で、たまたま見つけた八幡神社の祭の写真です。大人たちがダンジリを先引きし、これに子供たちが乗って、太鼓を叩くのです。
祭については、→(H26秋4)をご覧ください。後年、たまたま祭日と重なったので、見に行ったのです。


駅前通
写真奧が阿波海南駅です。広い商店街の中央部分は、駐車場になっています。
海南駅は前号で記したように、(阿波海南-海部間が阿佐海岸鉄道に編入されたため)今はJR牟岐線の終着駅となり、また阿佐海岸鉄道への接続駅ともなっています。


海部川橋
海南駅前で、国道55号から県道299号に移りました。
写真は、海部川に架かる海部川橋です。


海部川
海部川橋から見た、海部川の上流方向です。見える橋は海部川大橋で、国道55号の橋です。


海部川 
海部川はダムがない川として知られています。
支流の母川は、母子が弘法大師を水でもてなした伝説や、母ウナギ・子ウナギの伝説を伝える清流です。大ウナギの生息地としても知られています。→(H26秋4)


海部川
きれいに澄んでいます。


ぼらの子
海部川河口の鞆浦漁港の奧に、ネコの尻尾のような形で深く入り込んだ、入り江があります。一見、川とも見えるその部分は、おそらく元は、海部川の河口の一部を成していたのでしょう。
そこに10㌢余の魚が泳いでいました。聞けば、ボラの子供で、(一般的にはスバシリといいますが)高知ではコボラと呼ぶのだそうです。
ボラは出世魚で、コボラが成長するとイナ(15㌢-30㌢)になります。「いなせ」(=粋な)の語源とも言われるイナです。イナの次が→成魚のボラ→老成すると(一般的にはトドですが)高知ではオオボラとなります、


お散歩
ボラに喩えると、コボラになる前のイキナゴでしょうか。かわいい保育園児達のお散歩です。
保母さんに倣って、みんなが口々にコンニチハ!元気に挨拶してくれました。


那佐湾
那佐湾は、一見、水道と見まごうような3キロほどの、細長い穏やかな海です。写真の左が那佐半島。写真奧の小さな島は、二子島です。
この辺の住所表示は、海部郡海陽町宍喰浦那佐、となっています。海陽町は別として、海部、宍喰、那佐は、いずれもがこの地の歴史や地理を思わせる、古くからの地名です。


那佐湾
「海部」は、この地に漁業に従事する人たちが居住したことを伝える地名でしょうか。「宍喰」は、「葦を作って主食とした住民」を意味する「脚咋(あしくい)」が転訛したとも言われています。葦が宍に変わるのは鎌倉時代だとか。狩猟が始まったことを示すのかもしれません。
「那佐」は、止むことなく繰り返す波の音を意味するとも言います。海部(あま)は、波を「な」と言ったそうです。


小那佐
「南部バス」とありますが、これは通称で、正式には「徳島バス南部株式会社」なのだそうです。徳島バスの子会社です。


線路
平成4年(1992)に開通した、阿佐東線(海部-甲浦)の車両です。
(前述のように)令和3年(2021)12月からは、まだ便数は少ないですが、DMV車両がここを走っています。ボンネットバス型のDMV車両が高架の上を走っているなんて、これ「映え」ますよね。


標識
  室戸50Km 甲浦7Km
もうすぐ高知県です。


旧土佐街道
土佐街道(土佐に通じる道)には、土佐北街道(川之江-高知)、土佐中街道(徳島-四つ足峠-高知)、土佐東街道(徳島-海沿い道-高知)、松山街道(高知-松山)などがありますが、この「旧土佐街道」は、土佐東街道を指しています。海沿いであることから土佐浜街道とも呼ばれますが、野根-奈半利間は、(室戸岬廻りではなく)山道の野根山街道を通りました。



浜に降りてくるのが正しい道だったのか、ちょっと迷いましたが、引き返すつもりはありませんでした。



一つの岩礁に、トンビと海鵜とカラスがとまっていました。カラスは落ち着きがなく、すぐどこかへ飛んでゆきましたが、トンビと海鵜は、微動だにしません。
北さんが、・・あいつらが動くのを見とどけてから、歩きはじめよう、・・と言い、私も賛成。座り込みました。なぜその気になったのかは、わかりません。北さんも、わからないでしょう。


岩礁のトンビと海鵜
数分後、トンビが先に飛びました。別のトンビが飛んできたのを見て、飛び立ったのでした。トモダチなんでしょう。二羽で舞い始めました。海鵜は、しばらく動かずにいましたが、支配空間の広がりが確認できたのでしょうか、トンビがいた、岩礁のより高い場所へ移動しました。
それを見て、私たちも歩きはじめました。


足跡
北さんの靴が不調になりました。底がパックリとれてしまったのです。
まず結束バンドで固定し、その上をテープでグルグル巻きにしました。たぶん帰宅までは大丈夫でしょう。北さんお気に入りの靴だったのですが、もう買い換え時ですね。


道標
古目峠の案内です。阿波と土佐の国境で、番所がありました。
・・阿波さかひ目ばん所、古目といふ所有、これにて往来の切手あらたむ。(四国遍路道指南)・・
ぜひ、この道を歩きたかったのですが、なにせ靴の具合がよくありません。断念し、水床トンネルを抜けることにしました。古目峠については、→(H26秋4)をご覧ください。 


年輪
宍喰のホテル前で浜松さんに会いました。痛む足首にもかかわらず、私たちより先行していたのです。今日はここで泊まり、足首を癒すのだといいます。修行の道場・土佐入国を前にして、大賛成です。
私たちは明日、帰郷するので、もう会えません。ホテルのロビーを借りて、別れを惜しみました。浜松さん、楽しい思い出をありがとう。
写真の木材。年輪を数えてみました。北さんとすこし違いが出ましたが、樹齢100年前後ということで一致しました。


距離
薬王寺から48キロ。最御崎寺まで42キロ。ほぼ中間点です。



宍喰の街は、宍喰川が造り出した平地にあります。
宍喰町は90%が山地と言いますから、貴重な平地ということになります。


宍喰川
宍喰橋から見た河口方向です。国道55号の宍喰大橋が見えています。


宍喰川の橋
私たちが渡ってきた、宍喰橋です。カモメがデザインされていました。


宍喰漁港
海部川の旧水路を利用して構築した鞆浦漁港(前述)と同様に、宍喰漁港もまた、宍喰川の旧水路を使っていると思われます。


古目大師堂
漁港の近くに、古目大師堂があります。
 発心道場徳島最南所
 自浄の信心を発して 無上の菩提を求む
 願わくば自他もろともに仏の道を悟りて
 生死の海を渡り すみやかに解脱の彼岸に到らん


水床(みとこ)トンネル
昭和47年(1972)竣工。長さ638㍍。
これを抜けると高知県です。土佐・修行の道場となります。できれば峠を越えたかったのですが。


内部
歩道が仕切られています。助かります。


土佐入国
高知県東洋町に入りました。私たち遍路にとっては、修行の道場・土佐です。


海陽町
ふり返ると「徳島県 海陽町」とあります。
海陽町の「K」が躍動しています。海の青、山の緑、太陽の赤でしょうか。


甲浦漁港
昭和34年(1959)、甲浦町は野根町と合併。東洋町となりましたが、この合併、けっこう難航したようです。Wikipediaはその様子を、次の様に記しています。
・・合併時に町役場の位置で紛糾し、2年交代で野根と甲浦に設置し、4年後に決定することとした。しかしながら町役場問題は1963年にも解決せず、その後も分町問題が度々持ち上がり、1985年に現在の役場が(甲浦と野根の中間の生見に)できるまで、町役場が甲浦と野根を数年交代で相互に移動していた。
あちらを立てればこちらが立たぬ、「対等合併」の難しさなのでしょう。


甲浦の通り
新しい町の町名も、・・なかなか決まらず、高知県が間に入って東洋町と命名された。・・とのことです。
なお「東洋」は、東洋-西洋の東洋ではなく、「に太平を望む町」の意だそうです。


甲浦小学校
さて学校ですが、これも難題です。
学校は現在(令和5年)も、甲浦と野根に小中学校がそれぞれ一校ずつ設置されています。しかし、その児童生徒数は少なく、(数だけでいえば)東洋町に小中学校が各一校あれば十分なほどに減少しています。
当然、財政上の理由からも、統廃合論が出ていると思われますが、解決の道筋は、はたして見えてくるのでしょうか。子供にかかわる問題ですから、役場問題よりも難しいのかもしれません。しかし、両方立ててれば身が立たない現実もあります。核廃問題の根も、こんなところにあったのかもしれません。→(H27春4)


靖国英霊の家
見たことがないプレートが貼られたお宅がありました。
靖国鳥居(招魂鳥居などともいう)に「円」があしらわれています。もしかすると前号で紹介した「殉国の家」などと同類のもので、「靖国英霊の家」を表すのでしょうか。円は、「忠魂」などを表象しているのかもしれません。


太刀干物干物
太刀魚の干物だそうです。珍しい、というより、干物にはもったいない、そんな気がしました。
北さんは、土産に買って帰りました。


河内川
河内川橋の欄干にあるのはポンカンでしょうか小夏でしょうか。
サーフィンは、「生美サーフィン・ビーチ」でしょう。生見は、世界大会が開かれたこともあるという、その筋にはけっこう知られたサーフ・スポットだと言います。


甲浦坂トンネル
昭和43年(1968)竣工。長さ150メートル。
前出の水床トンネルは宍喰と甲浦の間。この甲浦坂トンネルは、甲浦と生見の間にあります。坂-浜-坂-浜が、トンネル-浜-トンネル-浜に変わったわけです。この辺のトンネルは、多くが、昭和40年代のものです。


宿
飛び込みで泊めてもらいました。サーファーの泊まり客が多い宿だそうですが、この日はたまたま予約がなく、私たちを受けてくれました。
夕食は宿のご夫婦と4人で、(寒かったので)コタツを囲んで食べました。4人は偶然、年齢がひとつずつ違いで、一番年上と年下がたった4年の違いでした。
時間がゆっくりと過ぎていた時代に育った者同士、育った場所は違っても、話は合おうというものです。どんな遊びをしたか、どんな歌を歌ったか、どんなラジオを聞いたか、美空ひばりのこと、力道山のこと、・・話の種は尽きることがありませんでした。

  第9日目 平成20年(2008)10月29日  


遍路最終日は、よい天気のようです。
歩けるところまで歩いて徳島へ引き返し、18:45 徳島空港発に乗ります。


高知新聞
東洋町は高知の外れですが、朝食後、はやくも高知新聞が届いていました。聞けば、高知東部交通のバスで運んでいるそうでした。


日焼け止め
なるほどサーフィンの街です。「くらげ除け+日焼け止」とあります。


相間トンネル
平成5年(1993)竣工。長さ288メートル。
相間(あいま)トンネルは、生見-野根間のトンネルです。どうしてもっと早く、通さなかったのでしょうか。合併後39年も経っての開通です。


送り返し
野根に宅急便屋さんがあったので、ザックを送り返すことにしました。北さんはお土産が増えており、私は(建治寺の鎖場で打った)脇腹の打ち身が、痛くなっていたのです。
なお打ち身は、帰宅して整形外科に行ったところ、骨折していると言われました。ヒビですよね、と尋ねたら、ヒビも立派な骨折です、と叱られました。


東洋大師
東洋大師は野根の地に深く根づいた霊場で、元は、野根大師と呼ばれていました。
その野根大師が旧名の「野根」を敢えて捨て、新町名・「東洋」を冠したのは、何故だったのでしょうか。少しでも東洋町としての一体感形成に役立てば、との思いがあったのかもしれません。


東洋大師
東洋大師は、弘法大師のお杖水に因む霊場です。
野根の人たちが水不足に困っていることを耳にされた大師は涸れ谷に分け入り、錫杖を地に突き立てて祈祷。涸れ谷を清流溢れる谷に変えて下さったと言います。
東洋大師(明徳寺/みょうとく寺)は、そのことに感謝した人たちにより、開創されました。むろん御本尊は弘法大師です。


弘法の瀧
大師のお杖水は、今も涸れることなく流れています。


野根ゴロゴロ(平成27年撮影)
かつて、大正時代末ころまで、この辺には海沿いの道がまだ通っていなかったそうです。やむなく、遍路たちは潮が引くのを待って「ごろごろ浜」を行くか、野根山を越えたのだそうです。「ごろごろ浜」とは、写真でご覧のように「とび石 はね石 ごろごろ石」が敷き詰められた浜です。


通夜堂
今に伝わる「野根の昼寝」という言葉は、引き潮を待つ間、遍路たちが野根大師で身体休めたことを言うそうです。(あるいは野で寝たので「野寝」→「野根」だとも)。おそらくこの通夜堂は、「野根の昼寝」を語り継ぐものとして、ここに在るのでしょう。


境内(平成27年撮影)
ご住職は気さくな方で、・・坊主と言ったって、いろいろあるからねー・・などと言いながら、話題は多岐にわたりました。話しが土葬の風習に及ぶと、居合わせた女性遍路が、そうそう、私の所もそうだった、と話に入ってきました。果ては人魂を見たとか、あれは燐がもえているのだとか、真っ暗な部屋でマッチを擦り、すぐ口にくわえて出すと燐が見えるとか、みなさん自分の体験を口々に話し、大いに盛り上がりました。


通夜堂
・・昨晩はどなたか、お泊まりでしたか?・・と尋ねると、・・若い人だった、早く出て行ったよ・・との応え。もしかして、と中野君の風貌を話すと、・・そうそう、野球をやっていたとか言ってたな・・とのこと。
間違いない。建治寺下で別れた中野君が泊まっていたのです。おどろきました。もうこんな所まで来ていたのです。中野君には申し訳ないが、しばらく会っていない我が子の消息を聞いたようで、嬉しくなりました。


標識
右端の標識は、・・国道493号 奈半利・・を表示しています。
国道493号は古くからの道です。その前身をたどれば、(前述の)野根山街道→さらには律令期の官道・南海道にまでさかのぼります。→(H27春7)
左寄りに小さく見える川は、野根川です。→(H27春4)


漁網の補修
伏越の鼻にある野根漁港です。定置網の補修がされています。
  網しぼる 鰤3000本の 潮けむり 英子
室戸荘の女将さんの句が思い出されます。大きい句です。
なお、伏越の鼻の「伏越」ですが、おそらく、・・立って歩いては越せず、はって越すようなけわしい所・・であることから付いた地名でしょう。



少し奥まった所にベンチがあったので休んでいると、重そうな荷物を担いだ方がやって来ました。辺りを確認することもなく、真っ直ぐこちらにやって来る様子から、道をよく知っている方だと思われました。
着くなり隣に座り、・・もう4年間、家に帰っとらん。年、8回廻るかな、・・と言います。・・休む所も決まっとるでな。ここで休んで、次はゴロゴロ休憩所。その次は・・・と話しだしました。


ゴロゴロ休憩所
・・一風変わった人だな・・と思いながらも、教わるところも多い方だろうと、話を聞いていたのですが、やがて失望どころか、嫌悪さえ感じ始めました。
彼は、・・廻るたびに知り合いが増えてな、一周、これですむよ。ハッハッハ!・・と、大声で笑いながら指を五本立てました。意味が分からず尋ねると、・・五万だよ、たった五万円で一周は安かろう。



お接待への感謝の欠片もない。品性下劣。そう思いました。どうやら北さんも不快を感じたらしく、・・行くか・・と、声をかけてくれました。
・・行こう・・と私が応え、二人は歩きはじめました。挨拶はしませんでした。


法海上人堂
かつてのこの辺の難所ぶりが『四国遍礼名所図会』に記されています。
・・是より先ヶ浜(佐喜浜)まで四里の間、飛石・はね石と云四国第一難所也。右手ハ大山にして樹木茂り、左手ハ漫々たる南海際(かぎり)なし。道磯辺の大岩をつたひ、難所いはんかたなし。浜半に出茶店有、此所ニて支度を致ス。少し行壱丁程上手、廻国修行者入定の所有、標木有。
文中・・廻国修行者入定の所・・と記されているのが、法海上人堂です。法海上人は盗みの疑いをかけられ、これを晴らすために、即身成仏されたと伝わります。写真のお堂は、その暗室を護っているわけです。



国道は「酷道だ」などと言われ、私なんぞも大いにそれを実感したものでしたが、・・道磯辺の大岩をつたひ・・などの話を伝え聞けば、今日、私たちが如何に楽々と歩けているかがわかります。


室戸市
東洋町から、いよいよ室戸市に入ります。


たんぼ
おじいさんが言いました。
・・こんな狭いところに米を植えて、貧乏たらしいと思いよろうが、それは大きな間違いよ。
・・美味しいんよ。海の側で育ったものは、米に限らず、トマトでも葉物でも、なんでだか、なんでも美味しいけんな、それで植えとるんよ。
・・潮をかぶって、枯れてしまいませんか、と尋ねると、
・・山のものを海に持ってきたら、そりゃ、死んでしもうて育たんからな、種から、海の側で育てるんよ。そしたら育つ。美味しゅうに育つ。
なるほど、そうなのかもしれないと思いました。


ラーメン屋さん
ラーメン屋さんが見つかりました。四国に来るとなぜかラーメンが食べたくなるのは、私がもはや関東人であるからでしょうか。(私は高校までは愛媛で暮らしています)。
すこし早いが、ここで昼をいただくことにしました。そろそろ区切り遍路を切り上げて、徳島に向かわなければならないからです。



ザックを担いでいないのは、送り返したからです。



この道は、前回→(H14春2) 「飛ぶように」歩いた道です。マメが酷くなって、仕方なく「飛ぶように」歩いたのでした。


仏海庵
仏海庵について、『四国遍礼名所図会』に次の様な記述があります。
・・入木村仏海庵(右手に有、常接待、本尊大師) 仏海上人石塔(庵の西ニ有)、 松原行八幡神社(右手有大社也)、 先ヶ浜村(野根より是迄飛石はね石)・・
仏海さんは宝暦10年(1760)、当地に庵を起こし、明和6年(1769)、宝形印塔を建て、塔下の暗室で即身成仏されたと言います。「常接待」は、飛石はね石に難儀する遍路たちを助けんとの、仏海さんの志が受け継がれたものでしょう。なお「本尊大師」とありますが、現在の本尊は地蔵菩薩です。


佐喜浜小学校入木分校
入木分校前のバス停で甲浦行きに乗ることにしました。12:28発です。
なお、バス停の名は「入木分校前」ですが、実はこの分校は、同年3月で閉校となっていました。そういえば、もう校庭に雑草が生え始めています。


歩き
バス待ちしていると、焼山寺柳水庵辺りで一緒だった、川崎さんがやってきました。片手にペットボトルをぶら下げ、リラックスした感じで歩いてきます。
あれ以降の行程を、互いに交換し合いました。
別れ際、無事結願を、と言うと、・・まあ、行けるとこまで行きます、・・との応えです。人それぞれ、自分のペースで頑張ったり頑張らなかったり、・・それでいいんでしょうね。


甲浦駅
甲浦からは電車です。バス便と接続しているらしく、待つ間もなく発車しました。
何人か、歩き遍路が乗っていました。今日、区切り遍路を打ち止める人たちのようです。語り合いたい気もしましたが、自分だけの余韻のなかにいる方を選びました。
中野君はもう室戸岬が目前なんだろうな。浜松さんはもう1日停滞してもいいかもしれない。鷲宮君はどこにいるのだろうか。気仙沼さんは、・・・。出会った人たちのことが、次々と思い浮かんできました。


阿南銀座
阿南駅での電車の停車時間は、1時間を越えるとのこと。車掌さんに断って、街を散歩しました。


政権交代
草鞋大師でお会いした女性を思い出します(前号)。ご自身は椎間板凶作で苦しみながら、認知症の母親を面倒見ている方でした。別れ際の言葉、・・ 政治は冷たいよ、政権交代!・・が忘れられません。
なお政権交代!は、この翌年の平成21年(2009)に実現。圧倒的支持の下、民主党政権が発足しました。


立江駅のコスモス
立江駅のコスモスがきれいでした。前回は春で、桜がきれいだったのを覚えています。
次はいつ来られるでしょう。少しさみしい気分です。


夕空
今回の遍路でなによりも嬉しかったのは、マメができなかったことです。初めてのことでした。履き慣らす間もなく新品の靴で来たのでしたが、この靴、私にピッタリだったのです。
ただし、北さんのことを考えると、すこし複雑です。彼はこれから、合う靴を探さねばなりません。どうか次の靴が、ピッタリと合う靴でありますように。


夕食
徳島駅前で早めの夕食をとりました。セルフ式のうどん屋さんです。おでん、おにぎり、ネギ(ワケギ)たっぷりの素うどんを食べました。食欲旺盛なのは嬉しいことです。
とはいえ、隣席の学校帰りの高校生たちには完敗でした。彼らはここで”小腹をなだめ”、家に帰ってから、また食べるのだそうです。”小腹をなだめ”だなんて、生意気口をきかれてしまいました。


徳島空港
18:45発 羽田行きに搭乗。
帰宅します。
 
長々とご覧いただき、有り難うございました。
次号から、お待たせしましたが、「初の結願シリーズ」となります。宇多津から歩きはじめて1番まで歩き、余韻をかみしめながら、星の岩屋 慈恩寺を訪ねます。更新予定は、7月19日です。

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由岐から山座峠 薬王寺 牟岐 大坂越 浅川

2023-05-24 | 四国遍路

 
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 6日目 平成20年(2008)10月26日のつづき

神輿
美波町由岐の「伊勢エビ祭」を楽しんで、23番薬王寺へ向かいます。
時刻は13:10。薬王寺まで約11キロあります。


八幡神社
「八幡」は、たくさんの旗がなびく様を表す、といいます 。
とすると、当・八幡神社は漁港近くに鎮座するので、旗はきっと、大漁旗であるにちがいありません。
多くの漁船が大漁旗をなびかせて寄港する様、それを現実のものとすることが、当・八幡神社に期待されているのでしょう。それにしても八幡神社は、どこも大きいですね。


アコウ
説明板によると、徳島では一番大きいアコウだそうです。しかし自生ではなく、昭和の初め頃、漁師が他県から持ち帰り植栽したものだといいます。なお、アコウの自生北限は紀伊半島で、徳島では小松島市金磯に自生地があるとのことです。→(H16春1


龍王さん
「龍王さん」と、親しみを込めて呼んでいるようです。
龍神には、雷神としての側面と、海神としての側面があります。農業に携わる人たちは(雨を降らせる)雷神としての龍神を敬い、漁業や海上交通に携わる人たちは、海神としての龍神を敬いました。むろんこの地の龍王は、海神としての「龍神さん」でしょう。


津波
龍王さんの側に、南海地震津波最高潮位を示す石柱がありました。龍王さんに、ついでに津波のこともお願いしているのでしょうか。
ここにいう「南海地震」は、昭和21年(1946)12月21日未明4時19分に起きた、「昭和南海地震」を指しています。震源は潮岬南方沖78キロのところで、M8.0だったとのこと。私はこの地震を覚えています。5才でした。寝ている私の側のタンスを、母が必死で抑えていました。


由岐漁港
後のことになりますが、平成26年(2014)の遍路アルバムで、私は由宇(東由岐)にある北九州型板碑や、阿部(阿部お水大師がある)の近江式宝篋印塔についてふれ、由岐地方が古来、遠隔地との交流を持つ、海に向けて開かれた土地であったことを書きました。→(H26秋2)


感謝の石碑(H26撮影)
そして、「海に向けて開かれた土地」はまた「陸路が塞がれた土地」でもあった、とも書きました。
写真は、阿部の住民が建てた石碑です。・・知事さん ありがとう 阿部地区民一同・・と刻まれています。阿部と由岐の間に(山道ではない)「道路」が通ったことを喜び、住民が建てたものですが、その建立年は、なんと昭和32年(1957)となっています。それほど長く、陸路は閉ざされていたということです。
後背地が山で閉ざされた状況は、阿部、由岐のみならず、近辺の伊座利、志和岐、木岐などでも、昭和30年代までつづいていました。


案内
観光客、海水浴客、遍路などへの案内です。


トイレ
これが案内にある、トイレ・シャワーです。立派です。


田井の浜
ここでガイジンさんと出会いました。オランダから来た男女の二人で、四国遍路のドキュメント番組を作っているのだそうでした。
・・ヨーロッパにも、例えばサンチャゴ・デ・コンポステーラへの道のように、「巡礼道」はあるけれど、四国遍路道のように宿がconnectされていません、そしてなにより、道がcircle なのは魅力です、・・とのことでした。そう言われれば四国では、宿はほどよい間隔をおいて在り、サービスもほぼ平準化されています。ただ宿代が expensive というのは、円高ドル安の時代でもありましたが、どのガイジンさんもが口にすることでした。


釣り人
・・ところで、貴方たちを撮らせてくれないか。・・との申し出があり、戸惑っていると、
・・簡単だよ。ただ歩く姿を後ろから撮るだけだ。ほら、これが出演料だ。・・と言って、ミカンを一個ずつくれました。
・・リラックス!・・の声を背後に聞きながら、私たちは歩きました。この釣り人の写真は、その時撮ったものです。
・・See you later at twenty-three.・・撮影を終えた彼らは、車で私たちをぬいてゆきました。彼らもtwenty-three で泊まるそうです。


ハマボウ
「ハマボウ」は暖地の海浜に群生する落葉低木で、「浜朴」「浜槿」などと記すようです。砂浜を風から守ってくれると聞きました。
私がハマボウを初めて知ったのは、前回の遍路(平成20年春)、土佐路でのことでした。→(H20春)拾い遍路①


田井ノ浜休憩所
前号で紹介した辺川休憩所と同じ、・・宝くじの普及宣伝事業として整備された・・休憩所です。
写真では見えませんが、ここにも、辺川休憩所にあったのと同じ地図が掲示されています。表示範囲、方位、縮尺が同じ地図は、とても見やすく、便利でした。


木岐トンネル
竣工 昭和61年(1986)。長さ 182メートル。


想定津波
リアス海岸で小湾入に富むこの辺りでは、津波が一層高くなる怖れがあります。津波被害への不断の警戒が求められるわけです。
その警戒レベルは、この3年後に起こる東日本大震災で一段と高められ、今は、数年内には必至ともいわれる、「令和東南海地震」の発生に備えています。


白浜休憩所
宝くじの、一連の休憩所です。ここにも地図があります。


安政地震津波石灯籠
安政南海地震(前述)を伝える石灯籠です。
この地震はM8.4と推測されています。津波は房総から九州にかけての沿岸を襲ったとのこと。ここ木岐では、203戸中190戸が流失。11人が死亡したと伝わるそうです。
灯籠の裏には、・・大地震の後には津波に油断なきよう、・・と刻まれているとのことです。この先祖の訓は今日にまで受け継がれ、各所の「南海地震津波到達地点」を表す石柱には、・・地震のあとに津波・・と刻まれています(後掲)。



これより一時、県道25号からはなれ、山座峠(さんざ峠)越えの道に入ります。
峠を降りたところは恵比寿浜で、ここで再び25号に合流します。



峠越えの道は、「俳句の道」としても知られています。→(h26秋1)


山座峠
このようなt沈降海岸沿いの道では、いくつもの峠越え(岬越え)を覚悟しなければなりません。とはいえ、現代ではトンネルがたくさん抜けていますから、その分だけ峠越えを免れているわけで、ずいぶんと楽になってはいます。
トンネルなどはなく、せいぜい切り通しがあるかないかの時代、旅人達の苦労は、いかばかりであったでしょう。しかも川には、多くの場合、橋は架かっていませんから、峠から谷底まで下りて徒渡りし、また次なる峠へと登る、・・これを繰り返したのです。



もしトンネルも橋もない時代の遍路道で、累積標高差を測ることができたとすれば、それは現代の何倍になるでしょうか。おそらく数十倍ではきかないでしょう。数百倍?見当もつきません。


恵比寿浜
海辺に降りてきました。恵比寿浜です。
ここは日和佐湾の一部ですが、湾の中にできた湾のようになっている所です。そのため波は穏やかで、格好の船泊になっています。奥に見える建物は造船所です。


ナナフシ
堤防の上にナナフシがいました。こんな所に、どうして出てきたのでしょう。せっかくの擬態が、まるで役に立っていません。


古い道しるべ
古い道しるべです。潮風にさらされたからでしょうか、表面が剥離しています。


釣果
釣り人がいました。大漁だったらしくご機嫌なので、魚籠を覗かせてもらいました。
なるほど、これではご機嫌のはずです。
・・今晩は釣り仲間を呼んで、宴会ですよ。・・とのこと。
・・見せつけるのですね。・・と挑発すると、・・見せつけられる方が多いけどね。でも今晩は、これなら大丈夫。バッチリですよ。・・とのことでした。得意がり、悔しがりの応酬を、仲間内で楽しんでいるとみえます。


薬王寺
日和佐湾越しに、23番薬王寺の喩祇塔(ゆぎ塔)が見えます。



ふたたび道は、高度を上げてきました。



湾内とはいえ、ここには太平洋の波が直接、寄せてくるようです。


波切り不動明王
展望台に波切り不動明王が鎮座されていました。その名の通り、荒波を切り鎮めるお不動さんです。唐からの帰途、嵐に遭った弘法大師空海を母国へ安全に導いたのが、波切り不動明王だったと伝わります。



日和佐は、日和佐川の河口部にできた街です。大雑把には、左岸側に阿波藩陣屋(現代では町役場)を中心とする区域があり、右岸側に、薬王寺を中心とする区域があります。前述のように、この二つの区域をつなぐのが県道25号で、日和佐川にはその名も「厄除けの寺・薬王寺」に因む、「厄除橋」が架かっています。
県道25号は、厄除橋を渡るとすぐ西進に転じ、23番札所薬王寺の下で、星越峠を越えてきた国道55号に合流します。二本の遍路道・・海道と山道・・の合流です。
写真の大樹は、八幡神社の大楠をふり返って撮ったものです。左端に、県道25号の標識も見えています。


うみがめのマンホール
ビッグニュースが、私たちの耳にも入ってきました。
・・美波町がね、NHKの朝ドラに出るんよ。・・ロケハンゆうんかね、撮影する場所を探しよらい。
そうなんです、それはこの翌年、平成21年(2009)秋から平成22年(2010)春にかけて放送された、NHKの朝ドラ「ウエルかめ」のニュースでした。
「ウエルかめ」は「うみがめの来る町 ひわさ」を舞台とするドラマで、私も視聴しました。なにしろ「大浜海岸」(前掲写真)も「うみがめが来る海岸」として登場するし、なんとなんと、主人公の実家の家業が遍路宿とあっては、土地の人たちに・・見てよ!・・と乞われなくとも、見てしまいますよね。


宿
今夜の宿・弘陽館です。県道25号に面し、すぐ近くに陣屋跡・役場があります。日和佐川左岸の中心です。
相客はバイクで廻っている若い男性、お一人。疲れているので、早々に休みたいとのことでした。私たちも、そうしました。

  7日目 平成20年(2008)10月27日

日和佐御陣屋跡
朝食前、散歩がてらに、徳島藩・御陣屋跡を見学しました。
説明板によると、日和佐御陣屋は那賀郡(現在の阿南市が中心)、海部郡(現在の美波町、牟岐町、海陽町)の郡代所で、文化4年(1807)に(海部から移転され)設置されたとのことです。その後、「明治御一新」までの約60年間、短いけれど波乱に満ちた時代、この地域の中心として機能しました。
現在、日和佐御陣屋跡には、美波町役場、日和佐小学校が建っています。


薬王寺遠景
厄除橋から見た、西方の景色です。薬王寺が見えます。もう少し凪いでいれば、逆さ薬王寺が見えるところだったのですが、残念です。


日和佐城
転じて南東方向を見れば、こちらは日和佐城です。
ただし、この城に関しては史料がほとんど残っていないそうです。よって写っている天守も、資料に基づかない「模擬天守」ということになります。私見では、そもそも天守は存在していなかったと思われます。
とはいえ、この城(砦)が要害の地に在ることは、間違いありません。築城は16世紀後半で、日和佐氏が長宗我部氏との闘いに備え築いたとのことです。ただし日和佐氏は戦わずして和睦したので、戦はありませんでした。→(H27春2)


23番札所・薬王寺
私が初めて薬王寺にお参りしたのは、平成14年(2002)の3月のことでした。あと1ヶ月で、本厄の61才になろうというときです。→(H14春1)ただし、それは後から気づいたことで、その時の私は、厄年はおろか、自分の誕生日が迫っていることにさえ、気づいていなかったのでした。つまり私は、せっかくの厄除けの寺・薬王寺に、その自覚なく、お参りしたのです。
にもかかわらず、リライト版を書いている令和5年の今日も、歳なりには元気でいることができているのは、仏様の広いお心の故でしょうか。その自覚の有無にかかわらず、救いの手を差し伸べてくださるのです。


仮大師堂
地蔵堂が仮の大師堂となっていました。どのような事情があったのでしょうか。なぜかメモに残っていません。
仮大師堂の期間は、平成19年(2007)10月から20年11月の間、となっています。


モーニングコーヒー
コーヒーを飲んでいると、昨日のガイジンさんがやって来ました。・・昨日はどうもありがとうございました。・・と、昨日の番組出演への再度のお礼が述べられました。ガイジンさんは普通、お礼は一度しかしないものですが、この方たちは、日本人の習慣を、かなりご存知のようです。
記念写真を撮り合ったりしてしばらくを過ごし、彼らは発ってゆきました。徳島の方へ戻るとのことで、・・もう会えないが・・と言って、なんと、名刺を渡してくれました。名詞も、ガイジンさんは普通、持ちません。・・12月末には完成するからネットで見てください。・・ とのことだったのですが、残念、私のパソコン不習熟で、見ることができませんでした。


奧潟トンネル
昭和45年(1970)竣工。長さ100メートル。
薬王寺を出て、国道55号を進みました。薬王寺の奥の院・泰仙寺は残念ながらパスです。→(H26秋3)


県南から代議士を
県南部を代表する議員が不在、ということでしょうか。
1970年代、徳島では「阿波戦争」とか「徳島戦争」と呼ばれる、激しい選挙戦が戦われていました。県南部はそのあおりを受け、草刈り場となってしまったのでしょうか。因みに徳島県の南部とは、 阿南市、須賀町、美波町、牟岐町、海陽町をいうようです。


雨水  
大雨が降ると、雨水がここから、勢いよく噴き出してきます。
一度経験しましたが、私たちが出した結論は、・・こんなときに歩く方がわるい。・・でした。


日和佐トンネル
昭和45年(1970)竣工。長さ690メートル。
少し長めなので、片側に柵で仕切られた歩道がついています。


標識
牟岐線山河内駅の表示があります。すでにご承知のように、薬王寺より以南の国道55号は、ほぼ牟岐線と並行して走っています。標識通り左に入ると山河内駅前に出ますが、そのまま進めば、ふたたび(次掲の山河内トンネルを抜けてきた)国道55号に合流します。
陸橋は、打越寺と、打越寺が神宮寺だった神社とをつないでいます。→(H26秋3)13番大日寺でも見たように(前号)、神仏を道路が分離している図、と言えましょうか。


山河内トンネル
昭和44年(1969)竣工。長さ124メートル。
前掲陸橋のすぐ先にあり、このトンネルの上部も、神社との連絡路になっています。


道標
判読はできませんが、はるばる24番最御崎寺を案内する道標でしょうか。


動物注意
シカの図柄の動物注意です。他には、タヌキ、サル、イノシシなどが多く、クマなどもあるようです。
前号に掲載したカニの横断注意標識は、きっと珍しいと思います。


山河内川
日和佐川の支流、山河内川です。
進行方向から手前に向けて流れてきますが、やがて越える寒葉坂が分水嶺となっています。


寒葉坂
寒葉坂です。この坂を上り詰めたところが、美波町と牟岐町の境となります。
前方を歩いているのは、平等寺の宿で一緒だった浜松さんです。聞けば、足首を痛めているとのことで、名西旅館・花の女将さんからいただいた「秘薬」を差し上げました。


境界
牟岐町と美波町の境です。
気温は15度。標高は130Mほどですが、寒く感じました。


橘川
牟岐川の支流・橘川です。
分水嶺を越えたので、川は、(前述の)山河内川とは逆の、進行方向と同方向に流れています。


防風林
この辺は「まぜ」(大南風)が吹くのだといいます。おそらく、このお宅は、風の通り道になっているのでしょう。西側に出入り口を作り、ほかは常緑樹で囲んでいます。
なお「まぜ」は真風、魔風などとも書くそうです。


殉國の家
菊紋様に桜があしらわれ、「殉國の家」の文字が浮かんでいます。
(どの戦争からかはわからないが)戦争中、家の誰かが出征すると、その家は「出征兵士の家」と称えられ、不運にして戦死されると、その家は「殉国の家」と悼まれ、また賞されもしました。「家」を単位とした、国民皆兵化への仕組みの一端で、全国津々浦々で行われたことのようです。表札の文字は土地により、「靖国英霊之家」「譽の家」「勲の家」などといろいろで、デザインも名札型のものなど、いろいろでした。
なお、現在見られるこれら「殉國の家」の表札は、ほとんどが戦前に配布されたものですが、戦後、遺族会が作って会員宅に配布した例も、あるとのことです。


防火水
因みに、徳島県宍喰町の吉田テフ子(ちょう子)さんが作詞した、戦時中の唱歌「お山の杉の子」に、「誉れの家」が使われた次の様な一節があり、
  ♫・・昔々の 禿山は 禿山は 今では立派な 杉山だ
     誉れの家の子のように 強く 大きく 逞しく・・
「誉れの家」が、少国民の「お手本」になっています。


小松大師堂
牟岐線の辺川駅をすぎると、すぐ小松大師堂です。
・・大坂難波の石工が石仏を刻み、注文主への引渡しを待っていたある夜のことだそうです。弘法大師が夢枕に立ち、・・この石仏を阿州小松の里に送るべし・・とお告げになったのだそうです。
このお堂には、夢告に従って石工が運んできた(と伝わる)石仏と、弘法大師の像が祀られています。


土管
藤子不二雄さんのマンガには、かならず子供の遊び場である野原(空き地)が登場し、その野原にはお決まりのように、積み上げられた土管が描かれています。昔の 子供達、とりわけ男の子達が、「秘密の隠れ家」として遊んだ土管です。
・・野原と土管・・、それは一定の年齢以上の人たちが共有する、遊び場の原風景ではないでしょうか。私は藤子さん達より一回り若いのですが、やはり野原と土管に、つい懐かしさを感じてしまいます。


お接待
牟岐のお接待所は、歩き遍路によく知られています。牟岐警察の側に天幕を張って、歩く人を呼び寄せ、お接待してくださるのです。前回、私たちもお世話になったものでした。
写真の、自転車で行く方は、そのボランティアメンバーだそうです。80人ほどで、交代でやっているのだといいます。・・ぜひ、寄ってください・・と言ってくれましたが、その後、・・あっ、今日は月曜日だ。ごめんなさい。休みでした。・・とのこと。残念でした。
写真奥は、海部病院です。経営上の都合でしょうか、いくつかの診療科の閉鎖が発表されて、地域の話題となっていました。(後述)


MUGI
太陽、緑、風!
英語で書いてあるのは、サーファーなど若い人たちへのアピールでしょうか。


マンホール
・・夢と緑と黒潮のまち牟岐・・
こちらは日本語で書いています。


マンホール
牟岐の「売り」が見えるようです。


牟岐駅
牟岐線とは言うものの、牟岐駅は牟岐線の始発駅でも終着駅でもなく、ただの途中の駅です。
牟岐線という呼称は、昭和17年(1942)、日和佐駅-牟岐駅間が開業したことにより、誕生しました。その時は、牟岐線の終点は牟岐駅で、名実ともに牟岐線だったのですが、その後、昭和48年(1973)、(牟岐線の名は残したまま)牟岐- 海部間が開業。牟岐線の終点は海部駅となりました。
なお牟岐線の現在の終点は、阿波海南駅です。令和2年(2020)、海部-阿波海南間が阿佐海岸鉄道阿佐東線に編入されたからです。阿佐東線への編入→DMV運行については、→(H19春拾い遍路②)をどうぞ。


商家
古い商家が残っています。
お定まりの「ばったり床几」があります。使うとき、バッタリと降ろすことからついた名前でしょうか。
ばったり床几を雨から守る庇は、「通り庇」と呼ぶようです。通りに長くせり出しているからでしょうか。この家には見られませんが、その他、「虫かご窓」とか「一文字瓦」などというのもあります。訳の分からない新語が飛び交うなか、分かりやすく、親しめる名前です。


休憩
昼食をとっていると、ヒョッコリ入ってきたお遍路さんがいました。なんと浜松さんです。彼女とは寒葉坂から小松大師まで一緒に歩いて別れたのでしたが、また会ってしましました。
会えるのは嬉しいのですが、私たちは足首を痛めた人と同じ速度で歩いているわけで、やや反省すべき点もあります。


地震 津波
昭和南海地震の津波が、ここまで到達したというのです。・・地震のあとに津波・・と注意喚起がされています。安政の先祖達の訓です。
なお石柱上部の T.P.5.03Mは、標高5.03㍍の意味です。T.P.は Tokyo Peilの略 で、地表面の標高を意味するそうです。


道標
これより国道55号をはなれ、旧遍路道、大坂峠越えに入ります。


大坂峠
手作り感が伝わってきます。
・・旧へんろ道 八坂八浜の大坂峠 草鞋大師へ・・とあります。
八坂八浜とは、(すこし間違いはあるかもしれませんが)・・大坂-内妻浜-松坂-古江浜-福良坂-福良浜-鯖瀬坂-鯖瀬浜-萩坂-大綱(砂)の浜-鍛冶屋坂-鍛冶屋浜-粟浦の坂-粟の浜-三浦の浜-借戸坂・・などです。要するに登り降りの繰り返し。沈降海岸に特有の道です。ただし(前述したとおり)、これらの坂には、今はトンネルが穿たれているのが大方です。→(H26秋4)


地図
黒い線は、おそらく旧国道55号だと思います。



登り始めはちょっと厳しいですが、長くはつづきません。


ちょっと一服
厳しい登りを過ぎると、・・ちょっと一服 海が見えるよ・・の表示がありました。



なるほど、一服の清涼剤です。


木漏れ日
木漏れ日の中を歩きます。
休憩中、宿の予約をしました。海部まで歩くつもりでいましたが、その手前、浅川の吉田旅館さんにお願いしました。実はここには、浜松さんも泊まっているはずなのです。



内妻の海が見えてきました。きれいです。


内妻の浜
内妻の浜です。長く延びているのは国道55号です。


草鞋大師
椎間板狭窄で苦しむ70代の女性がやって来ました。・・痛いので自転車を押して、ようやく歩いています・・とのこと。自転車には乗れないけれど、上体をあずけることができるので、すこし楽なのだそうでした。・・93才の母の世話をしているが、認知症が進みましてね・・と言います。
お別れの言葉は、・・今の政治は冷たいよ、政権交代!・・でした。因みに民主党政権の発足は、この約1年後の、平成21年(2009)8月のこととなります。


浜辺
浜におりて、堤防で昼寝しました。穏やかでリズミカルな波の音、ボラがはねる音、トンビの鳴き声。
通りかかった女性は、この方も牟岐お接待所のボランティアさんだそうで、・・そうかぁー、今日は月曜かー・・と、一緒に残念がってくれました。


内妻トンネル
昭和57年(1982)竣工。長さ253㍍。
前述・八坂のうち、松坂を抜いたトンネルです。


調査
「牟岐お接待の会」が、歩き遍路の数を調査していました。カウンターが下がっていて、・・一人一回、クリックしてください・・、とあります。今日は、私たちが押して144となりました。


古江トンネル
昭和55年(1980)竣工。長さ144㍍。
これも松坂のトンネルのようです。


道標  
昼寝や立ち話で時間が押してきたなか、私たちは急いでいました。17:00前に鯖大師に着かなければならない、事情があったのです。
納経のこともありますが、できれば鯖大師さんに、お願いしたいことがありました。
それは、観音寺で別れた気仙沼さんのことでした。彼女は鯖大師さんに泊まると言っていたので、ここに手紙を残しておこうと考えたのでした。私たちが電車を利用した分、彼女は遅れているわけで、たぶん明日、鯖大師に泊まると思われました。


福良トンネル
昭和62年(1987)竣工。長さ265㍍。
福良坂のトンネルです。


鯖大師
納経のあと、気仙沼さんのことを尋ねてみると、幸い、その方は彼女をよくご存知で、快く手紙を引き受けてくださいました。
ただ、お坊さんにはご迷惑をおかけしたようです。後日、気仙沼さんは、・・手紙は確かに受け取りました。でも、実はあの日、私は鯖大師さんには泊まらなかったんです。・・と話してくれました。つまりお坊さんは、他の宿に泊まった彼女に、私たちの手紙を届ける労を、とってくださったのです。


鯖瀬トンネル
平成4年(1992)竣工。長さ98㍍。
鯖瀬坂のトンネルです。


大砂トンネル
平成6年(1994)竣工。長さ1998㍍。
萩坂のトンネルでしょうか。大砂は「おおずな」と読み、大綱(おおづな)とも書くようです。


宿
広い和室を二部屋、提供してくださいました。北さんと相部屋のつもりでいたので恐縮していると、・・海に向いた部屋は先着の方にまわしたので、海は見えないのだけれど、・・とおっしゃいます。心地よい応対がとても印象的でした。

その先着のお客様は、旧知の浜松さんと、初対面の歩きの男性・横浜さんでした。
四人で食べ、かつ飲みながら、楽しい時を過ごしました。浜松さんが平等寺で会った岡山さんの原爆体験にふれ、横浜さんは日和佐で受けたお接待への、感謝の気持ちを話されました。私たちは、野中兼山のことを話しました。
横浜さんは小さなマメができて、明日には痛み始めるだろうとのことでした。しかしイソジンなどの準備がないというので、私が「お世話」をさせていただきました。明朝には、まったく問題はないはずです。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
1月から始まった今シリーズも、次号で6回を数え、最終回となります。更新予定は、6月21日です。

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コメント (2)
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