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このアルバムは、平成21年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
その点、ご注意ください。
平成21年(2009)12月18日 第2日目のつづき
雪
雪が降り始めました、着ているポンチョがゴワゴワに固まっています。
予報では雪はやがて止み、風が強くなるとのことです。
国道56号
岩本寺から国道56号を5キロほど歩くと、「峰の上」(標高260㍍)です。ここから古い遍路道、・・片坂遍路道→市野瀬遍路道・・に入ります。
今日では、大きくヘアピンカーブする国道56号の、ショートカット道と勘違いされかねない道ですが、もちろん昔は、こちらの方が幹線で、岩本寺から足摺・金剛福寺に向かう遍路たちも、この道を歩いたのでした。『四国遍礼名所図会』には、・・(この道に)高岡郡・幡多郡の境標木(しるしぎ)有り・・と、標木の存在が記されています。幹線であればこそ、標木があったのです。
ヘアピン
写真は、平成15年(2003)、北さんと私が(旧遍路道ではなく)国道のヘアピン道を歩いたとき撮ったものです。雨が激しく、山道は危険だと考え、そうしたのですが、その長さにはうんざりさせられたものでした。苦い思い出です。後に、相前後して歩いていた女性から、・・山道を歩きましたけど、別になんてこともありませんでしたよ、・・と聞かされ、徒労感がいや増したのを覚えています。(岩本寺の手前では道に迷ったので)この日二度目の遠回りでした。(実は私達はこの後、この日3度目の遠回りをすることになりますが、そのことは、神ならぬ身の、知るよしもありません)。→(H15秋2)
なお、国道を歩けば4キロのところを、山道なら、1.7㌔に短縮することができます。
ヨンデン資材置き場
山道への登り口は、ヨンデン資材置き場の奧です。
出会った人が、・・ヒヤイねえ・・と声をかけてくれました。寒い中の温かい言葉です。予報通りに雪は止みましたが風が強くなっており、ずいぶん体温を奪われていたのです。
焼却場
ヨンデンとは、四国電力のこと。土地の人は四国電力を、そう呼んでいます。
山道
山道に入ると、木が風を遮ってくれるので、助かります。
上りは、けっこう厳しい径ですが、さほど長くはつづきませんでした。最高点(四万十町と黒潮町の境の地点)の標高はH280㍍なので、峰の上の260㍍から、20㍍高度を上げるだけです。
片坂遍路道
片坂遍路道は、基本、窪川台地からの下り道です。そのことを『四国遍礼名所図会』(元禄10年/1697刊)は、次の様に書いています。
・・上り壱丁斗りにして下り十丁余、是ハ昨日とふりし添身見ず坂半里上りしに下り五丁斗りゆへ爰ニてもどし・・。
片坂は、上りが一丁なのに下りは十丁と長い。これは、昨日歩いた添え蚯蚓坂の、上りが半里と長かったのに下りが五丁と短かったこととの相殺なのだ、というのです。
片坂遍路道
また、澄禅さんは『四国遍礼日記』(承応2年/1653)に、
・・窪川ヲ立テ片坂ト云山ヲ越テ行。是ハ東ヨリ西エイツ上ルトモ不覚シテ峠ニ至ル。下ル事ハツルベクダシ也。中々急坂也。・・と記しています。
上ったとの覚えがないうちに峠に着いて、そこから釣瓶落としのような、下りがはじまったとのことです。「片坂」という呼び名は、(上りが少なく)ほとんどが下り坂であることから、来ているのかもしれません。
片坂第二トンネル
片坂第二トンネルが下に見えました。道は国道56号です。6年前、北さんと私が歩いた道です。
見えているのは第二トンネルですが、この前後に、第一トンネル、第三トンネルがあります。いずれも、昭和46年(1971)竣工のトンネルです。
なお、今は町境の「標木」がなく、気づかなかったのですが、私はいつの間にか、四万十町から黒潮町へ、町境を越えていたようです。トンネルが見えるこの地点は、すでに黒潮町です。
市野瀬道へ
一度国道56号まで降りて、ふたたび市野瀬道に入ります。
市野瀬道
「釣瓶落とし」の片鱗がうかがわれます。しかし現代の「釣瓶落とし」は、手すり付きです。おかげさまで、安全に通過することができます。
下り
降りてゆきます。
国道へ
下に市野瀬が見えてきました。市野瀬の標高はH100㍍なので、前述の最高点280㍍から、約180㍍降りてきたことになります。
休憩所があるはずなので、一休みさせていただくつもりです。その後は、国道56号を写真奧の方向に、高度を徐々に下げながら、歩きます。
次の目標地は、市野瀬から9.1キロ先の、伊尾木です。
遍路墓
行き倒れたお遍路さんの墓でしょう。国道沿いに俗名 長吉さんの墓がありました。
かつては旧遍路道の脇に建っていたものを、国道工事の時、移動させ祀り直したものと思われます。
おそらく国道のこの部分には、下に古い遍路道が埋まっているのでしょう。
強風
ババババッ! ババババッ!
強風です。旗が音を立ててふるえています。
休憩
風は強いし地面は濡れているしで、休憩する場所がなかなか見つかりません。
幸い小屋型のバス停があったので、休ませてもらいました。ときどきドドーンと、小屋が風で鳴ります。
荷稲(かいな)駅入口
ここで、土佐くろしお鉄道と合流しました。
これで一安心です。いよいよとなったら、電車に乗るという手があります。ただし運転休止の恐れが、なきにしもあらずですが。
スクールバス乗り場
スクールバスが必要になったのは、小中学校の統廃合が進んだからです。
ある調査によると、平成9年(1997)から平成29年(2017)の20年間で、統廃合された全国の公立小学校は5823校、公立中学校は1739校だそうです。これ以前のデータが見つからなかったのですが、本ブログで取りあげた廃校は、前号に記した仁井田中学の昭和45年(1970)のように、いずれも昭和期でしたから、統廃合はもっと早くから始まっていたのです。
高度成長期に都会が繁栄した、その分だけ田舎は衰退し、多くの小中学校が統廃合の憂き目に遭ったのです。
下宇和中学跡の碑
(H28春4)に記した下宇和中学は、昭和40(1965)の廃校でした。
昭和22年(1947)、・・村人すべて精魂を こめてぞ築き育てたる(同中学校歌)・・学校が、わずか18年で、その歴史を閉じたのでした。
なお令和6年(2024)の現在、黒潮町佐賀地区の公立小学校は、拳ノ川小学校、佐賀小学校の2校、中学校は、佐賀中学の一校のみです。「協会地図」には伊与喜小学校が記されていますが、同小は、令和4年度末で休校となっています。事実上の廃校でしょう。明治6年開校の小学校でしたが、残念なことです。
身代地蔵
代われるものなら代わってやりたいと、心底、思うことがあります。そんな叶わぬ願いを、大慈悲の心もて、代行してくださるのが身代わり地蔵さんです。
代受苦(だいじゅく)・・仏や菩薩が、慈悲の心から、衆生の苦しみを代わりに受けることをいう、・・の德相を顕す地蔵菩薩。それが身代わり地蔵です。苦しむ人に代って、その仕事や苦難を引き受けてくださいます。病む人に代わって汗を流して働き、苦痛を訴える人に代わって、痛みに耐えてくださいます。
道
開けた場所に出て、風が一層強まりました。
奧の交通情報板には、・・夜間 早朝 凍結の恐れ スリップ注意・・とあります。
予報では、今夜からまた雪とのことです。
U字溝
たいていU字溝の上は水平になっていて歩きやすいのですが、ここでは斜めに施工されています。初めて見ました。
黒潮町
黒潮町不破原(ふばはら)とあります。伊与喜まで、あと1キロもありません。
城跡
おや?と思い撮ってみました。
町名は伊与喜、駅名も伊与喜駅、学校も伊与喜小学校なので、「いよき」は「伊与喜」と思っていたのですが、ここには伊与「木」城跡、とあります。
変だなと思い地図を調べると、伊尾「木」川もありました。(その支流に伊与「喜」川があるのは面倒ですが)。
伊与喜の表示
どうやら、古くは伊与木が使われていたのだが、比較的最近、伊与木は伊与喜に改められたと思われます。しかし長く親しまれた川の名や城の名は、そのままに「伊与木」を残しているのでしょう。
そう考えれば、伊与「木」川に架かる橋が伊与「喜」橋であるのも、理解できます。この橋は、昭和45年頃に架けられたようです。
なお、より拘れば、伊「与」木も、かつては、伊「與」木だったでしょう。
案内
・・遍路道 左折・・とあります。ここから山道に入ります。熊井隧道がある道です。国道のルートが逸れたおかげ?で、取り残されるようにして残ってくれました。
思い出しても悔しいのは、6年前、北さんと私はこの案内を見落として、その日3度目となる、遠回りをしてしまったことです。見落としたのは、もう暗くなっていた(16:50)からですが、今にして思えば、見落としに気づいて引き返すチャンスは、何回もあったのです。
熊井坂
熊井隧道がある道です。この道は、明治38年(1905)に開通し、昭和14年(1939)まで、県道として使われていたといいます。
熊井隧道
レンガは佐賀港から、小学生なども加わって、一個1銭で運んだそうです。小学生の稼ぎが自分のものとはならず、生活費として消えたことは、想像に難くありません。
熊井隧道
レンガは、イギリス積という積み方で積まれています。
扁額は右書きで、「人代天工」のようです。・・人、 天に代わりて工む(たくむ)・・とでも読めましょうか。「和魂」が「洋才」を取り込んだ姿、と言えましょうか。
出口
坑口はレンガ積みですが、内部壁は石積みのようです。
側の説明板に、・・トンネルというものは入口は大きいが、出口は小さいものじゃのう・・と言った人がいた、とありました。この人がもし北斎の「尾州不二見原」を見たら、・・富士山が入るとは、大きな樽じゃのう・・と言ったかもしれませんね。
線路
土佐くろしお鉄道の線路です。このすこし先に、土佐佐賀駅があります。
電車
うまい具合に電車がやって来ました。
入るトンネルは、熊井トンネルです。
海
海抜280㍍から、ゼロ㍍まで降りてきました。伊尾木川の河口部から鹿島が浦を眺めます。中央の小山は鹿島です。
前回の宿
民宿さかうえさんです。6年前、たいへんお世話になった宿です。
残念ながら今は閉店されています。
鹿島が浦
左手に海を見ながら歩きます。ここから今日の宿・民宿白浜さんまで、3キロ弱です。
海岸線
海の景色を堪能しながら、緩やかに上ります。鹿島が浦が、その全貌を見せてきました。
時刻は16:00。ゆっくり歩いても大丈夫です。
海
宿の前には国道56号、後ろには土佐くろしお鉄道が走っています。しかし騒音などは、まったくにになりません。
明日の朝は、この窓から朝日が見られることでしょう。楽しみです。
平成21年(2009)12月19日 第三日目
雪の朝
朝、起きると雪でした。すぐテレビで予報を見ると、・・雪は早い時期に止むが、気温は上がらない、・・とのことでした。予定では、24キロほどを歩いて中村を見学。中村に泊まることになっていますが、はたしてどうでしょうか。
この天候では、中村見学の時間が、とれなくなってしまうかも知れません。様子を見て、どこぞから電車利用を考えた方がいいかもしれません。
光芒
太陽光がきれいです。
薄明光線、レンブラント光線、ヤコブの梯子、天使の梯子など、いろいろに呼ばれますが、ここでは「光芒」としておきます。
太陽
6:30 一階の食堂で朝食ですが、なかなか落ち着きません。というのも、この宿は東向きで、しかも海に面していますから、太陽が雲間から出る度に光が射し込み、その時は室内が光にあふれ、まぶしいばかりになるのです。
そうなると私は我慢できず、食事中にもかかわらず外に出て、景色を楽しんでしまいます。この写真は、食事中、船がいい位置に来るまで待って撮った一枚です。女将さん、すみませんでした。
歩きはじめ
7:00 歩き始めました。誰の足跡もない道を行きます。
日付
日付を入れておきました。
この手の落書きなら自然消滅するので許される、と思って書いたのですが、帰宅して写真を見て驚きました。その日付が間違っているではありませんか。
・・’09.10.19・・と記しています。正しくは、10ではなく、12です。後から来た人はこれを見て、どう思ったことでしょう。まさに旅の恥を「書き」捨ててしまいました。
気嵐
上手く撮れなかったのが残念ですが、気嵐(けあらし)が海から立ち上り、海を這っているのです。
気嵐とは、・・夜間に陸地で冷やされた空気が、(相対的に)暖かな海面に流れ込み、水蒸気を冷やすことで霧を生み出す現象・・だそうです。初めて見る景色でした。
花に雪
右はマンリョウでしょうか。左は山茶花のようです。雪を被って、柄にもなく風情を感じています。
峠越え
井の岬の峠越えです。岬廻りの様子については、→(H22秋1)をご覧ください。
凍結
木の下を通ると、(陽で氷結が緩んだのでしょう)樹上から氷が落ちてきました。
井の岬トンネル
竣工は昭和44年(1969)。長さ315㍍です。
トンネルを抜けない、昔の遍路道ははっきりしませんが、→(H27秋3)で、すこしふれてみました。
伊田トンネル
竣工は昭和43年(1968)。長さ172㍍です。
今回初めてのお遍路さんに出会いました。逆打ちの人で、車道の反対側を歩いており、互いに黙礼してすれ違いました。
伊田観音寺
伊田トンネルを過ぎると、お寺が在りました。伊田観音寺。真言宗のお寺です。
調べてみると、黒潮町の広報誌「アーカイブ伊田 NO4」に、次のような記事が載っていました。
・・観音寺には、元の松山寺にあった本尊・地蔵菩薩と薬師如来が安置されており、松山寺の後身の寺院となった。以前は毎月地域の有志20人ほどが集まり、御詠歌を詠ったり、無縁仏のお地蔵さんの前掛けを丁寧に洗ったりしていた。(後略)
松山寺跡
・・黒潮消防署の横を海側に向かうと、その左側に松山寺跡の石碑がある。松山寺は、明治初年ごろ、廃仏毀釈の政策により廃寺となった。その後大正の時代に、四国37番札所である岩本寺の弟子僧が何度か再興に努めてくれたりもしたが、かなわなかった。→(h22秋1)
氷
寒さで、境内の手水の水が凍っていました。
伊田小学校
観音寺の向かい側に、伊田小学校があります。明治6年(1873)開校の学校です。
私がここを通過した平成21年(2009)の児童数は、22名でした。校舎規模から考えて、最も多い時期には、2-300名は在籍していたと思われます。
なお同校は、平成26年(2014)、休校となって140年の歴史に幕を閉じています。その時の在籍数は、9名でした。
朝鮮国女の墓
有田焼、 唐津焼、高取焼、萩焼・・これらを伝えたのが、(秀吉の「朝鮮征伐」で)朝鮮国から連れて来られた陶工たちであることは、よく知られています。
看板にある「朝鮮国女」も、陶工たちと同様に、朝鮮国から連れ来られた人で、幡多地方に、新しい機織り技術を伝えたと言われています。
朝鮮国女の墓
朝鮮国女は、大方町上川口から出兵した小谷与十小郎が連行、連れ帰ったとされています。没後、小谷家が代々、供養してきたとのことです。
墓の場所は、元々の所からは移されているそうですが、今も小谷家の墓地内にあります。
朝鮮国女墓
遍路道に戻ろうと歩いていたら、おばあさんがやって来ました。話がある風なので立ち止まると、・・どこへ行くん?・・とおっしゃいます。道に迷ったのではないかと思い、追いかけて来てくださったのでした。
朝鮮国女のお墓にお参りしてきたと話すと、・・ありがとうございました。私、小谷です。・・とおっしゃいます。
線路下のベンチ
下川口駅下の陽の当たる「ベンチ」で、当地へ嫁入りして来た頃の話などなど、しばらくお話をきかせてもらいました。ただ小谷家が供養するに至る経緯は、残念ながら、あまり伝わっていないとのことでした。前述の小谷与十小郎云々についても、よくはわからないといいます。
なお、私はこの翌年、おばあさんのお孫さんと、偶然出会うことになります。そして、おばあさん思いのお孫さんは、私とおばあさんの再会を、取り持ってくださったのです。それについては、→(H22秋1)をご覧ください。供養に至る経緯についても、書き加えています。
新しい看板
写真は、天恢さんがグーグルのストリートビューで発見したという(コメント参照)、「朝鮮国女の墓」の新しい案内立て看板です。たしかに「むくげの花の少女」の文字とハングル文字が加わっています。
『むくげの花の少女: 朝鮮国女の墓』は、黒潮町の植野雅枝さんが平成9年(1997)に出した絵本で、英語版、韓国語版も発刊されているそうです。日本では平成23年(2011)、学校推薦図書に指定されたとのこと。寡聞にも私は、それを知りませんでした。天恢さん、ありがとうございました。
また『咲くや むくげの花―朝鮮少女の想い継いで』は、元毎日新聞記者の大澤重人さんの著作で、日本と朝鮮、日本人と朝鮮人の関わり合いの歴史を、自らの差別意識を踏まえながらたどった労作です。私はまだ読んでいません。なお「むくげ」は、韓国の国花です。
足摺岬
足摺岬が見えてきました。写真の左の部分です。
先端の金剛福寺まで、まだ50Kほどありますが、室戸岬を歩きはじめた頃は、もう永遠に見えないのではないかと思っていたのです。それを思えば、♫思えば遠くへ 来たもんだ・・と、ルンルンです。
海の王迎駅
「海の王迎」(うみのおうむかえ)の「王」とは、後醍醐天皇の皇子である尊良親王(たかよし親王・たかなが親王)を言います。元弘の変で(流刑の中でももっとも重い)遠流に処され、この地に流されてきたのです。この地から言えば「迎えた」ことになるので、「王迎」なのでしょう。「海の」は、船で来たことを意味するのでしょうか。
なお親王は、建武新政府の成立によって帰京。東国管領として、新田義貞とともに足利尊氏と戦います。が、闘い利あらず。やがて自刃に追い込まれます。
憲法九条
憲法九条は、戦後78年間、私達をからくも戦争から遠ざけてくれました。
しかし、今や満身創痍です。
これからも私たちの国が戦争をしない国であるために、憲法九条は守りたい。私はそう思います。
戦争に正義の戦争はありません。戦争は正義たり得ないのです。いかに理屈をあげつらおうと、戦争は悪です。
浮津海岸
浮津海岸です。遠浅の海岸で、夏には、海水浴場として賑わうと言います。
「浮津」の名は、かつて存在した浮津村・・吹上川(ふきあげ川)左岸の、東西に延びる海岸段丘上にあった漁村(日本歴史地名大系)・・の村名を継承した地名です。今は、浮津村の西隣にあった鞭村と併せて、「浮鞭」(うきぶち)という大字になっています。
なお「浮津」は、広辞苑によると・・「浮」は天上にあるの意で、天の川にあるという船つき場・・を意味すると言います。
天の川 浮津の波音 騒くなり 我が待つ君し 舟出すらしも 山上憶良
タカクラ・テルの碑
へんろ小屋22号大方の側に、作家にして政治家、タカクラ・テルさんの碑がありました。生家が、この奧にあります。
「タカクラ・テル」は、自称です。本名は高倉輝豊、のち改名して高倉 輝。国語国字改革を推進する立場からの、自称と思われます。
厄神社
鳥居の先、少し上がったところに祠があります。
この神社は、中村街道沿いに建てられている、と考えるべきなのでしょうか、それとも海沿いに建てられたとするべきなのでしょうか。どのような厄祓いを願って建てられたものか、どなたかに尋ねてみたかったのですが、かないませんでした。
なお、所在地は前述の「浮鞭」ですが、あえて言えば、浮鞭の中の浮津寄りといえましょうか。
井の岬
ふり返ると井ノ岬が見えました。
この岬は、足摺岬に入ってからも長くみえつづけて、歩いた距離を自覚させてくれました。
月見ケ浜橋
吹上川に架かる橋は、月見ケ浜橋です。この辺の浜を月見ケ浜と呼ぶことから、付いた名のようです。
なお、この橋は帰途、電車の車窓からも見ることが出来ました。数秒で過ぎてしまいましたが。
吹上川の河口
橋の上から撮った写真です。
入野松原
若い松が多いのは、 おそらく松食い虫で一度、滅んだからでしょう。
昭和30年代の燃料革命がもたらした里山の荒廃は、松食い虫被害の爆発的拡大を、許してしまいました。それまでも被害がないではなかったのですが、喰われた松はすぐ伐採され、燃料として燃やされていたのです。だから被害はほとんど拡大しませんでした。便利は不便の始まりとは言いますが、まことにその通りではありました。
入野松原
前回ここを歩いたときは、大雨でした。
その雨で納経帳を濡らしてしまったという、苦い思い出が蘇りました。
海岸
手前に、板を渡しただけのベンチがあって、それに腰掛けて休みました。地面はまだ濡れているのですが、板は、もう乾いているのです。
沖でサーファーが二人、波に乗ろうと苦労していました。声が聞こえないので、パントマイムを見ているかのようでした。しばらく見ていました。
加茂八幡宮
土佐の歴史や地理、故実を記録した『南路志』に、要旨、次の様な記事があるそうです。
・・宝永4年(1707)、大地震で津波が押し寄せた。しかし加茂八幡宮の社殿は、流されはしたものの波の上に浮き、津波が引いたときには、元の場所に戻って建っていた、というのです。
主祭神・別雷命をはじめとする、加茂八幡宮が祀る神々の、神威を誇る譚です。
安政津波の碑
その譚に因んででしょうか、境内には安政津波の碑が残されています。上の写真では、社殿の向かって右に見えています。
碑文は、風化が進み、ほとんど読みとれなくなっていますが、側の説明板で、その全文を知ることができます。
安政津波の碑拡大
碑文は、前述の神威譚とは異なり、惨憺たる被害の記録です。その一部を記すと、次の様です。
・・忽大震動 瓦屋茅屋共崩家と成 満眼に全家なし 気埃濛々として 暗西東人倶に 後先を争ふて山頂に登 山上より両川を窺見るに 西蛎瀬川東吹上川漲り 潮正溢る 是即海嘯也 最初潮頭緩々として進 第二第三相追至 第四潮勢最猛大にして 実に胆を冷す 家の漂流する事 数を覚ず 通計に海嘯七度進退す・・
大方あかつき館
幡多郡出身の作家、上林暁(かんばやし あかつき)さんを記念する文学館です。
6年前に訪れたときは、砂浜美術館の「潮風のキルト展」が、雨のため会場を「あかつき館」に移して、開催されていました。入れてもらって、ずいぶん楽しませてもらったものでした。
あかつき館での結婚式
ですが今回は、生憎といっては申し訳ないのですが、結婚式が行われており、私は入館できませんでした。
なお、私は平成27年(2015)秋にも、あかつき館を訪れますが、この時も入館できておりません。
・・明日、マタヨシさんの講演があるので、その準備中なんです。すみませんが、入館をお断りしています。・・とのことでした。
入野松原の道
マタヨシさんとは、芥川賞受賞の又吉直樹さんです。(高知新聞によると)又吉さんが上林暁ファンだと知った学芸員さんが、2年間、交渉をつづけ、ようやく交渉成立にこぎつけたのだそうです。ところがその直後(7月)に受賞が決まり、あかつき館は、受賞ホヤホヤの又吉直樹講演会を催行できるという、幸運に恵まれました。であってみれば、準備に力も入ろうというもので、入館お断りも仕方のないことだったというわけです。
なお「大方あかつき館」の「大方」(おおがた)は、昭和18年(1943)、入野村など三か村が合併して発足した、「大方村」(おおがた村)に由来しています。本来は、この辺の遠浅海岸に発生した広大な潟、すなわち「大潟」(おおがた)と記したのではないでしょうか。
徳右衛門道標
(大師像)こ連より 足摺山江 十一里
足摺山には、「あしずり」と、ふりがながふられています。
願人
右面には、
願人 豫州 朝倉上村 徳右衛門
とあります。
ただしこの道標は、再建されたもののようです。撮影時は気づきませんでしたが、どうやら下に置かれたいくつかの石が、折損した元の道標と思われます。この写真右下の石は、徳右衛門道標の特徴である、かまぼこ形の頭頂部を見せています。
防風林としての入野松原
入野松原が、防風林となって住宅地を守っています。
ブログ『松原盛衰』によると、・・入野松原は元来大潟の海中に出来た砂洲の上に,自然生の松が萌えそれが成長して松原になったものである。・・とのことです。遠浅の海に砂州が生まれ、砂州の内側の潟が埋め立てられると、砂州は砂丘となった。その砂丘に松が自生し、松原となった、・・ということでしょうか。
防風林としての入野松原
入野松原の始まりについては、異説もあります。
・・この松原は、長宗我部元親の家臣谷忠兵衛が罪人に防風林として植林させたのが起こりである、・・というものです。
しかし、『土佐物語』なる書物には、・・一条兼定との「渡川の戦い」(天正3年/1575)に勝利した元親は、その凱旋の帰途、入野の浜で休息。入野松原の景観を、「無双の景地」と称讃した、・・との記述があるそうです。
とすると、谷忠兵衛が植林したとの説は、怪しくなってしまいます。今では、谷忠兵衛は「植林」したのではなく、「補植」したのだろう、との説が有力のようです。
入野駅
さて、時刻は12:30です。
これから歩くと中村に着くのは15:30から16:00頃となり、宿には早く入れるものの、中村見学の時間はほとんど取れません。
そこで入野駅から、拾い歩きの気楽さで、電車を使うことにしました。電車なら13:30頃には中村に着き、ある程度の見学をすることができます。
というわけで、今日の午後から明日の午前にかけて、私は中村見学をするのですが、これを今号に含めると、字数制限に引っかかってしまいます。
中途半端ですが、中村見学は次号のお楽しみとさせていただきます。更新予定は3月13日です。
早くも1月は往んでしまい、2月は逃げようとしています。本当に早いですね。3月が去らぬうちに四国へと願っていますが、どうなりますでしょうか。
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