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5日目(平成20年10月25日)
阿波一宮神社と大日寺
朝食前に、阿波国一宮神社にお詣りしました。13番大日寺にもお参りしましたが、こちらはまだ納経所が開いていないので、出発の支度を調えた後、ふたたびお参りすることになります。
写真は、県道21号を挟んで隣り合う一宮神社(右)と大日寺(左)です。神仏習合の時代には、境内を同じゅうしていたのでしょう。
阿波一宮
「阿波国一宮」・・延喜式内社・天石門別八倉比売神社の系譜を継ぐ神社・・の論社は、四社を数えます。いずれもが決め手を欠いているようで、論定には至っていません。
一宮神社(当社)
上一宮大粟神社(神山町神領にある神社) →(H26春 その5)
八倉比売神社(国府町矢野にある神社) →(H26春 その6)
大麻比古神社(一番札所の隣にある神社)→(H20秋)拾い歩き 1)
一宮神社本殿
阿波国一宮論争は、古くから行われていたようです。
寂本さんは『四国遍礼霊場記』に、・・一の宮に異説ありて、争論に及ぶ事、むかしよりありときこゆ。時代に随ひてかはれるのよるならし。・・と記しています。ここでいう「むかし」は、『霊場記』が刊行された元禄2(1689)から見た「むかし」ですから、ずいぶん古くから・・争論に及んでいた・・わけです。
思うに、・・時代に随ひてかはれる・・これが、本当のところなのでしょう。
一宮城登り口
境内に一宮城への登り口がありました。もし事前に知っていたなら登ったのにと、残念です。→(H26春 その6)
この城は南北朝時代の築城で、戦国時代は三好氏と長宗我部氏の攻防の舞台となり、さらには秀吉の「四国征伐」を迎え撃つ、長宗我部氏の備え城となるなど、乱世をくぐった城でした。
江戸期に入り、阿波蜂須賀藩の藩祖・蜂須賀家政が阿波に入封。一宮城は家政の居城となりますが、やがて家政は平山城の徳島城を築き、藩の中心を眉山の東に移しました。もはや山城が時代のニーズに合わないことを、家政は賢くも知っていたのでしょう。徳島藩の一支城となった一宮城は、寛永15年(1638)、一国一城令により、廃城となりました。
13番大日寺
大日寺は、神仏習合の時代、「一宮寺」と通称されていたそうです。一宮神社の別当寺だったからです。
「一宮寺」は識っていても「大日寺」は識らない、そんな人もけっこう多かったようで、それかあらぬか、真念さんの『四国遍路道指南』では、十三番札所は「十三番一宮寺」とのみ紹介され、「大日寺」の文字は見当たりません。
むろん、かといって「大日寺」という寺名がなくなったわけではありません。ほぼ同時期に刊行された、(真念さんが資料を提供して書かれたという)寂本さんの『四国遍礼霊場記』には、・・大栗山華蔵院大日寺 一之宮ニある故一宮寺ト云。・・と、「大日寺」もちゃんと記されています。
本堂
大日寺の本尊はて大日如来だ・・、と思っていたら、違っていました。十一面観音でした。この辺の事情について、『四国遍礼霊場記』の説明は、次の様です。
・・此寺大師以前の開基か、大師あそび玉ひて大日如来の像を作り置玉ふ故に大日寺と云。今の本尊十一面観音は一の宮の御本地となん。
大師御作の大日如来像を本尊として祀り、大日寺と称していたが、神仏習合愈々進み、一宮神社の本地仏・十一面観音を本尊として祀るようになった、ということのようです。なるほど、であってみれば「一宮寺」が人口に膾炙するのも、宜なるかなです。
大師堂
ただし大日寺の公式HPは、本尊が十一面観音となったのは神仏分離以降のことであるとして、次の様に記しています。
・・明治初期の神仏分離によって、当神社(一宮神社)の本地仏であった行基作といわれる十一面観音を当寺(大日寺)の本堂に本尊として移され、それまでの本尊大日如来は向かって右の厨子に秘仏の脇仏とされ、・・。
花
さて、13番大日寺の納経を終え、14番常楽寺へ向かいます。気仙沼さんとは、互いを気にすることなく自分のペースで歩きましょうと、話し合いました。
今日の私たちの行程は、とりあえず17番井戸寺まで歩き、途中、16番観音寺近くの国分尼寺跡を見学することまでが決まっています。15番国分寺近くにある阿波国一宮の論社・天岩戸別八倉比売神社は、残念ながら断念です。→(H26春 その6)
鮎喰川河川敷の地蔵尊
井戸寺から先が決まっていないのは、実はまだ宿が決まっていないからでした。何軒か電話をしましたが、駄目でした。今日・10月25日は土曜日で、あちこちで秋祭りが催行されているのです。そのため、受け入れられないとか、食事が出せないなどの理由で、断られていたのでした。
逆に井戸寺まで決まっているのは、井戸寺近くをJR徳島線が走っているからです。必要なら電車での移動も考慮に入れています。
14番常楽寺石段
常楽寺は巨大な岩盤の上に建つ寺です。石段も一部は岩盤を刻んで造られています。
その石は「流水石」と呼ばれるそうです。なるほど流水の文様が入っています。
14番常楽寺
女子中学生が二人、境内の掃除をしていました。・・お寺の子?・・と尋ねると、ボランティアだといいます。
・・これからは落ち葉の季節。たいへんだね。・・と言うと、・・ハイ・・と応えてニッコリ笑ってくれました。つい先ほど、やや「慎み」を忘れたかにみえるオバタリアン集団と入れ違ったばかりなので、ますます可愛らしく思えました。帰宅後、(もちろん許可を得て)撮った写真を、お寺気付で送ってあげました。
生木地蔵尊
地蔵尊が彫られた桧は、昭和29年(1954)、台風で倒れたそうです。
生木地蔵尊
しかし生木地蔵尊には、傷の一つも付くことがなく、今はお堂に祀られています。
常楽寺には、やはり樹にかかわる信仰で、アララギ大師がありますが、こちらは気づけませんでした。アララギの木の枝別れしたところに、ひっそりと、小さなお大師さんが隠れているそうです。なお、こちらの樹も、平成30年(2018)、台風の被害を受け、倒れこそしなかったものの、支柱で支えられている状態だと言います。
岩船地蔵尊・八祖大師
15番国分寺への途中で見かけました。八祖大師、岩船地蔵尊と記されています。
「八祖大師」は、真言第八祖としての弘法大師をお祀りしているということでしょうか。「岩船」はわかりません。
胸飾り
可愛い棟飾りが印象的でした。
たばこ自販機
タバコ自販機の深夜稼働が停止されたのは、平成8年(1996)4月のことでした。うっかり買い忘れた人が、・・もう、やめてくれよー・・などと言いながら、深夜の町を彷徨いていたりしたものでした。むろんお店も、たいていは閉まっていますから、もらいタバコするかシケモクを吸うか朝まで我慢するほかないのでした。
平成20年(2008)4月、タスポによる成人認証の運用が始まり、したがって深夜停止は解除されましたが、しばらくの間は、まだタスポを持っていない人がいたり、操作に慣れていない人がいたりで、こんな張り紙があちらこちらで見られたものでした。お願いすると、店の人が自分のタスポで購入してくれたのでした。
六地蔵板碑
板石卒塔婆(板碑)がありました。阿波青石に、六地蔵が二段に分けて線刻されています。
板碑は鎌倉時代に始まり、戦国時代末期、なぜか急激に衰退したという、供養塔の一種です。この板碑は天正12年(1584)の建立ですから、その衰退期に建てられたものといえます。その意味では、珍しいといえましょう。
拡大
地蔵像を拡大したものです。目の線が優しげです。
15番国分寺
国分寺の建立は、「余裕」があってのことではありませんでした。切羽詰まってのことでした。
その事情を、「えひめの記憶」は次の様に記しています。
・・天平13年(741)、聖武天皇は国分寺建立の詔を発し、国ごとに僧寺・尼寺を建立させた。国分寺建立の背景には、当時天然痘などの疾病の流行と飢饉による社会不安や、天平12年(740)に大宰府においておこった藤原広嗣の乱、および対新羅関係の悪化などによる内外の危機感があった。こうした情勢が五穀豊饒・国家安寧を祈る国分寺造営の動機となった。
天然痘による死者は、一説には、日本の総人口の25-35%に及んだとも言われています。まさに国家の存続にもかかわる危機であったわけです。
五七の桐
山門の向かって右に十六八重菊・菊の御紋章が、左に五七桐紋がついています。
いずれも天皇家の家紋ですが、五七の桐は下賜紋としても使われました。足利義輝が賜った五七の桐紋を織田信長に下賜、さらに豊臣秀吉に下賜した例が知られています。
私たちは、首相が記者会見する時の演台やパスポートなどで、目にします。
本堂
15番国分寺もまた、ご多分にもれず、長宗我部元親による「天正の兵乱」で全焼失。以後長らく、廃寺の状態がつづいたようです。『四国遍礼霊場記』(元禄2年/1689)は次の様に記しています。
・・いはんや千年に及ぶの今の世、廃替する事むべなり。今此地すたれて名のみに至れり。小堂一宇、薬師の像を屋寸に安じ、・・
国分寺図
国分寺図にも、まさに「小堂一宇」が描かれています。中央の建物、右には「薬師」、左には「春日」の書き込みがあります。
ようやく再建復興されるのは、寛保元年(1741)のことだと言います。阿波蜂須賀家の力を得てのことでした。今日の伽藍が形成されるのは、そののち、文政年間(1818-1830)の増築を経てのことだといいます。上掲写真の本堂も、文政年間の増築によるものだったようです。
なおこの本堂は、その後、平成27年(2015)から何年かかけ、屋根の修理と耐震補強工事が加えられています。
旧大師堂の基礎
写真は、平成8年(1996)に焼失した、大師堂の基礎部分です。私たちが訪ねた平成20年(2008)、大師堂はまだ再建されていませんでした。たしか烏瑟沙摩(うすさま)明王堂が大師堂代わりになっていたと記憶します。
大師堂が再建されるのは、平成26年(2014)のことでした。
七重の唐の心礎
側の説明板に、次の様に記されています。
・・天平12年(740)国分寺造営詔勅の前年、諸国に七重塔造営が詔されているので、天平年間(729-748)には造営されていたと思われる。本心礎は環溝型という珍しい形式である。もとの位置は「塔の本」の地か、興禅寺前の田圃かといわれ、確認されていない。(国府地区文化おこし委員会)
「塔の本」がどこであるかは(私には)わかっていませんが、「興禅寺」は、現・国分寺南方100余㍍に在る、「興禅寺」を指すと思われます。前掲・六地蔵板碑の近くです。
灌漑用水
16番観音寺へ向かいます。
写真は途中で見かけた灌漑用水路です。この辺では、このところ気がかりであったジャンボタニシが見られないばかりか、小魚が泳いでいるのに気づき、写真に収めました。
小魚
フナでしょうか。群れなしています。久しぶりに灌漑用水路で見た、生き物の姿でした。
標識
16番観音寺に荷物を置いて、国分尼寺の跡を見に行きました。
写真の標識のおかげで容易に見つけることができましたが、分校は、この時点ですでに休校となっていました。令和の現在、もはや写真の標識は存在しないと思います。
石井小学校尼寺分校
石井小学校尼寺分校の校舎です。無人かと思っていたら、人の気配がしました。女性が二人いて、なにかを蒸しているので尋ねてみれば、(分校校舎は今は、幼稚園の園舎として使われていて)、今日は幼稚園のイモ掘り会なのだそうでした。
そろそろ園児たちが帰ってくる頃なので、・・帰ってきたら、すぐ食べられるよう、オイモサンを蒸してるんです。掘ってきたオイモサンとは違うんですけどね、そこはまあ、ネッ。・・とのこと。
お接待
会話を楽しんでいると、1人の方が柿をむき始め、もう1人の方がお茶をいれ始めました。お皿を出してバナナも出して、阿吽の呼吸というのでしょうか、何の打ち合わせもなく、私たちへの「お接待」の準備が進んでいました。
お接待
蒸していたホッカホッカの鳴門金時も出てきました。
その節は、本当にありがとうございました。みんなで撮った記念写真、届いていますでしょうか。
国分尼跡跡
発掘中でした。ここは金堂跡のようです。
国分尼寺図
綿の花,
分校の近くに綿の木がありました。家の人は、・・生け花用に育てています・・と話してくれました。
咲き始めは白く、やがてピンクを帯びてくるのだそうです。
綿を吹き出したコットン・ボールをいただき、帰宅後、種を植木鉢に植えてみましたが、残念、育ちませんでした。
総社
阿波総社と国府八幡宮を合祀した神社で、今は観音寺境内にあります。
総社は、阿波国式内社50座を勧請したものといい、元は観音寺の南方500㍍の所に、面積三千坪に及ぶ社地を有して在ったとのことです。その地には「総社が原」の呼称が今に伝わっている、とのことですが、地図上では確認できませんでした。
国府町
国府八幡宮(こくぶ八幡宮)は、国府の近く(府中)に創建された八幡神社をいい、「府中八幡宮」とか「国分八幡宮」また「一国一社八幡宮」とも呼ばれます。→(H30春4)
国府の近くにあることから、総社の機能を持つようになったとも言われるので、そこらあたりに、両社が合祀された理由もあるのでしょう。
ひこばえ
観音寺に帰ると、気仙沼さんがいました。私たちを待っていてくれたのです。私たちが尼寺跡を見物していた時間は相当長かったはずなのに、申し訳ないことをしてしまいました。
・・また会えるでしょうが、会えなかったときのために、お世話になりましたと言っておきたくて。
そう言って、気仙沼さんは歩きはじめました。
大御和神社
大御和神社ですが、地元での呼び名は「府中宮(こうのみや)」のようです。神社前にバス停があり、その名は「府中宮前」となっています。
元は国府の印鑰神社(いんやく神社)だったといいます。国司の官印と諸司の鍵を管理する神社です。
ジャンボタニシ
やっぱりいました!ジャンボタニシ。
熱帯原産なので、寒さには弱いようです。しかし自然に滅びることはないでしょう。
とはいえ、薬による駆除はできません。根気強く人力でやるほかないでしょう。
お接待
両手に一個ずつミカンを持っ方が、走ってこられました。家の中で私たちを見つけ、急いで出てきたのだそうです。
・・取るものも取りあえず、出てきたんです。こんなものですみません。でも、間に合ってよかった。・・とのこと。
有り難いことです。
17番井戸寺山門
この寺の寺名は、「道指南」では・・十七番井土寺 明照寺ともいふ・・となっていますが、「井土寺」は、どうやら通称だったようです。というのも、「霊場記」や「名所図会」では、・・瑠璃山 真福院 明照寺・・となっていて、「いど寺」の記載はないからです。弘法大師が一夜にして掘ったという故事が広く流布されており、それとともに「いど寺」の愛称も広まったのでしょう。
「井戸寺」が正式名となったのは、大正5年(1916)とのことだといいます。この時、瑠璃山 真福院 井戸寺となりました。
面影の井戸
寺名の由来となる「面影の井戸」です。
覗き込んで自分の姿が映れば無病息災だが、映らない時は、3年以内に不幸に見舞われるとのことです。
試してみて、私は映りました。北さんは、何も言いませんでしたが、映ったのでしょう。令和の今も息災ですから。
井戸寺
井戸寺から先、18番恩山寺へのコースは、前号でも記しましたが、大きくは二本あります。
一本は、徳島の市街地を通るコース。もう一本は、眉山を越える「地蔵越え」の道です。地蔵院があることから、こう呼ばれています。
「地蔵越え」の先もまた、二本に分かれています。一本は、園瀬川沿いを下り三軒屋→地蔵橋へ出る道で、もう一本は、「あずり越え」を越える道です。ただし「あずり越え」が復元されるのは平成21年(2009)3月のことで、平成20年のこの当時は、まだ通れませんでした。→(H26春その7)
徳島本線
さて、これより先、私たちがどう進むかですが、あちこち電話して、ようやく22番平等寺側の、民宿山茶花さんで受け入れてもらえました。
蔵本駅
18番から21番までをスキップすることになりますが、このへんが「拾い歩き」の気軽さです。
これよりJR徳島線・蔵本駅から徳島駅へ。徳島駅からJR牟岐線で新野駅まで、大移動することになりました。
ねこたち
蔵本駅での景色です。
10匹ほどのネコを引き連れた男性がやってきました。ネコちゃん達、知らない私たちがいるので少し警戒気味ですが、ご主人との散歩がうれしくてしようがないようです。
お気づきでしょうか、中央のネコは尻尾がピンと上がっています。他の子たちも、警戒心が解けてきたようで、上がり気味です。
新野駅
各駅停車で17:27、新野駅に着きました。
もう暗くなっています。これから30分ほどは歩くので、蛍光ベルトをつけ、懐中電灯を出しました。
新野駅
車中で会話を交わした京都大志望の高校生が、礼儀正しく挨拶をした後、自転車で消えてゆきました。うるさかった男子中学生たちも、いなくなりました。
私たちも歩きはじめました。田舎の道は、ひとつ間違えば、とんでもないところへ行ってしまうことがあります。慎重に歩きました。
民宿山茶花(翌朝撮影)
夕食後、車遍路の岡山さんが話してくれました。
・・私は原爆投下直後の広島に入りました。軍属(陸軍)として広島にいた父を捜しにいったのです。父の出身地の岡山を和歌山と間違えられ、発見までに日数がかかりました。(それでも軍属なので一般の方より早かったのは、申し訳ないことでした)。
・・なんとか父親を看取って帰宅しましたが、その後、「二次被爆」の症状に苦しむことになりました。でも被爆者手帳は持っていません。差別がこわくて、被爆者である事実を隠したのです。
花
・・四国、板東、秩父、西国と、車で廻っています。それは主として、お詫びの旅です。あの時、元気な私は、多くの人から助けを求められました。でも助けませんでした。まず、そのことへのお詫びです。次に、被爆者であることを隠したことへの、お詫びです。私は差別されることが恐くて、同じ被爆者を差別していたのです。・・私は貴方たちほど酷くはない・・と人を貶め、自分を慰めていたのです。本当に恥ずかしい。申し訳ないことでした。
聞くものは皆、いつしか姿勢を正していました。涙を流している人もいました。
6日目(平成20年10月26日)
桑野川
今日は雨です。ほぼ一日、雨具をつけて歩くことになるでしょう。
行程は、月夜御水庵→弥谷観音→県道25号・由岐経由→23番薬王寺までの、22.4キロ予定です。
写真は、平等寺橋の親柱。桑野川にかかっています。
22番平等寺
今でこそ「平等」を標榜することに障りは、まずありませんが、近世以前、(身分制に基づく)「差別」が社会原理となっていた時代では、大いに支障があったにちがいありません。
「平等」を寺名に冠するこのお寺は、この困難の時代をどう潜り抜けてきたのでしょうか。どのように隘路を見つけたり、自己主張したのでしょうか。いつか、どなたかから教わりたいものです。
石段
Wikipediaの「平等寺」に、次の様な記述があります。・・当寺の境内地はすべて撮影可能、「目に映るものは何でも撮ってください、撮影程度で汚されるような柔なつくりではないです」とのこと。・・
「撮影程度で汚されるような柔なつくりではない」とは、何方の言かはわかりませんが、なんとも頼もしいですね。
この自信あるが故に、誰に対しても等しく、自らを開くことができるのでしょう。
HP「とくしま御朱印ナビ」は平等寺の「開放性」について、次の様に記しています。・・(本尊は)2014年(平成26年)までは秘仏でしたが、現在は常時拝顔できます。本堂内陣がこれほどまでにフルオープンなのは、四国霊場では確実にここだけ。・・本堂だけではなく、もちろん大師堂もフルオープン。
護符
桑野川を渡り、街中で昼食を調達。平等寺の奥の院・月夜御水庵へ向かいました。
途中、珍しい姓の表札があったので見ていると、側に蘇民将来の護符があるのに気づきました。「蘇民将来子孫急々如律令」とあります。「ソミンショウライ・シソン・キュウキュウニョリツリョウ」などと読むようです。「我が家は蘇民将来の子孫である。魔物よ、退散せよ」というような意味で、「急々如律令」は、魔物を退散させる呪文なのだそうです。なお護符の文句には、「大福長者蘇民将来子孫人也」などというのもあります。
交通標識
いま歩いている県道284号は、月夜御水庵を過ぎると、国道55号に合流します。この55号は、星越峠を越えて美波町に入る道で、6年前に私たちが歩いた道です。
今回の私たちは、(前回寄らなかった)弥谷観音(いやだに観音)に参ったのち、県道25号を南下。由岐を経由して薬王寺に参ります。
月夜御水庵
平等寺の奥の院とされる月夜御水庵です。弘法大師の御加持水をいただくことができます。(今は飲用不可のようです)
「月夜」は、・・当地で野宿された弘法大師が暗闇の中で読経すると、沈んでいた月が昇り来て、ふたたび月明かりに照らされる夜となった・・伝承に拠るとのこと。→(H26秋1)
月夜御水庵
杉は、「逆杉(さかさすぎ)」と呼ばれるそうです。枝が一度下方向にのびて、それから上向いています。大師が薬師如来像を彫られたとき、使った杉材の枝を地に指したところ、その枝が根づき、今ではこんな大樹となっていると言います。
写真奧の小祠は、御水大師堂です。
溜め池
本降りの雨です。
ゴミ
この時代、日本はすっかり消費社会化し、”もったいない”はどこへやら、使い捨てが「美徳」とさえ言われるようになっていました。。
しかし、それによって大量に排出されるゴミ処理対策は遅れに遅れ、捨て所のないゴミの、不法投棄が横行していたのです。本ブログで不法投棄が何度も記事にされていることにお気づきの方もいらっしゃると思います。
道が膨らんで向こう側が谷になっている此所は、車でゴミを捨てに来た人には、格好の場所のようです。捨てやすく回収されにくいからです。ネットを張るなどの防止策が講じられていますが、捨てる人は絶えませんでした。
タケノコ畑
美しい竹林は、タケノコ畑です。さすがに、ここにゴミを捨てる人はいないようです。
竹の子の季節になると、ここには犬が、一晩中つながれます。タケノコを食べに来るイノシシ対策です。
不法投棄
ここにも車が捨ててありました。残念なことです。
しかし、もっと残念なのは、このゴミに遍路道標が吹き付けられていることです。
55号へ
手前を流れるのは福井川です。向こう岸の下の道は福井ダムに出る道で、上の道が国道55号です。
福井川
平成7年(1995)、利水、治水を目的として完成したとのことです。
この地域は多雨で、とりわけ昭和20年代には、大雨による被害がたびたび発生していたと言います。
室戸へ
国道55号に出てきました。
「室戸96㎞」にたじろいだ歩き遍路は、私たちだけではないでしょう。
鉦打トンネル
昭和63年(1988)竣工。長さ301メートル。
「鉦打トンネル」の「鉦打」については、→(H26秋1)をご覧ください。
トンネル内部
歩道の幅が広くなり、仕切りの柵があります。助かります。
標識
ダムには向かわず、平等寺のもう一つの奥の院・弥谷観音へ向かいます。
明月橋
福井川(ダム湖)に架かる「めいげつきょう」は、「明月橋」と記します。その名は「弥谷七不思議」のひとつ、日天さん月天さん(後掲)に由来するようです。
傍に立つ「明月橋という名について」という案内板の一部を、(ややわかりにくいですが)ご覧ください。・・(日天月天さんは)永遠にダムの湖底に沈むことになりました。その日天月天の淡い月影が湖面に映えて明るく、まさに「明」の文字どおり仲良く並んで、渡れるようにとの意味ですが、はるかなる幻想と歴史的イメージから「明月橋」と美称したものでありました。
道
明月橋を渡り、弥谷観音への参道に入りました。
途中に、「弥谷七不思議」が紹介されています。
笠地蔵
七不思議の一つ、笠地蔵だそうです。どのような不思議があるのか、すこし調べましたが、わかりませんでした。
日天さん月天さん
どうやら「弥谷観音」の名に残る「弥谷」という谷は、今日の姿からは想像もできませんが、妖怪狐狸の棲む幽谷であったようです。鉦打大師堂由来によれば、・・七分蛇、怪猫が棲んでいた・・とのことです。「七分蛇」の名は、こいつに噛まれたら1日に七分ずつ傷口が腐ってゆき、ゆっくりと死に至ることに由来する、というから恐ろしい。
察するに「七不思議」とは、そんな幽谷・弥谷で起きた、弘法大師の霊力にかかわる「七不思議」なのかもしれません。
弥谷観音
弥谷観音は、平成6年(1994)、福井ダム建設にともなう関連工事の一つとして、かつて在った祖谷山明宝院を、弥谷観音として再建したものと言います。→(H26秋1)
道
同じ道を歩いて、ふたたび国道55号に戻りました。
しばらく55号を歩きます。
福井トンネル
昭和47年(1972)竣工。長さ175メートル。
歩道は狭く、車道との仕切り柵はありません。
安全策
そのため、安全策が講じられています。ボタンを押すと、歩行者、自転車に注意するよう、ドライバーへの注意喚起がなされる仕組みです。
辺川休憩所
県道25号に入ってきました。
辺川休憩所です。この沿線上には数カ所、よく似た造りの休憩所が建っています。・・宝くじの普及宣伝事業として整備された・・ものだそうです。
一連の休憩所で嬉しかったのは、どの休憩所にも大きな周辺地図が掲示されており、その表示範囲、方位、縮尺が同じだったことです。そのためとても見やすく、容易に現在位置を把握することができました。
美波町へ
前方が由岐坂峠で、これより阿南市から美波町の由岐地区に入ります。美波町は、平成18年(2006)、日和佐町と由岐町が合併してできた町です。因みに国道55号を進むと、美波町の日和佐地区に入ります。
郡界
すぐ先に、郡界の標識が立っていました。
郡界 北 那賀郡(現在の阿南市、小松島市の一部、那賀町の一部)
南 海部郡(現在の美波町、牟岐町、海陽町)
ここ由岐坂峠は、かつても今も境界の地です。
由岐坂トンネル
平成8年(1996)竣工。長さ104メートル。
横断注意
アカテガニの横断に注意!
夏の月夜、アカテガニが海におりて産卵するのだそうです。その時この辺をカニが横断するので、死亡事故が起きないよう、注意してほしいというのです。
休憩所
この休憩所にも、同じ地図が表示されています。
道
由岐の海沿いの道に降りてゆきます。
線路
JR牟岐線を渡ります。
写真左奥に、由岐駅が見えています。
お祭
由岐は「由岐伊勢エビ祭」の最中でした。
私たちは「長寿汁」のお接待を受けました。・・もう具はないのだけど、汁だけでも美味しいよ・・とのこと。たしかに、伊勢エビの出汁が抜群に効いていました。ずっと冷たいものばかりだったので、とてもありがたかったのを覚えています。
神輿
伊勢エビの神輿ですが、担ぐことはないのでしょう。
幟には「美波町」。天幕には「由岐町」。まだ新旧の町名が混在しています。
ご覧いただきまして、ありがとうございました。できれば薬王寺までを書きたかったのですが、字数制限にかかり、できませんでした。区切りが悪いですが、由岐で切らせてもらいます。次回更新予定は、5月24日です。
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