楽しく遍路

四国遍路のアルバム

13番大日寺 14番常楽寺 15番国分寺 17番井戸寺 月夜御水庵 弥谷観音 由岐

2023-04-26 | 四国遍路

 
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  5日目(平成20年10月25日)

阿波一宮神社と大日寺
朝食前に、阿波国一宮神社にお詣りしました。13番大日寺にもお参りしましたが、こちらはまだ納経所が開いていないので、出発の支度を調えた後、ふたたびお参りすることになります。
写真は、県道21号を挟んで隣り合う一宮神社(右)と大日寺(左)です。神仏習合の時代には、境内を同じゅうしていたのでしょう。


阿波一宮
「阿波国一宮」・・延喜式内社・天石門別八倉比売神社の系譜を継ぐ神社・・の論社は、四社を数えます。いずれもが決め手を欠いているようで、論定には至っていません。
  一宮神社(当社)
  上一宮大粟神社(神山町神領にある神社) →(H26春 その5)
  八倉比売神社(国府町矢野にある神社) →(H26春 その6)
  大麻比古神社(一番札所の隣にある神社)→(H20秋)拾い歩き 1)


一宮神社本殿
阿波国一宮論争は、古くから行われていたようです。
寂本さんは『四国遍礼霊場記』に、・・一の宮に異説ありて、争論に及ぶ事、むかしよりありときこゆ。時代に随ひてかはれるのよるならし。・・と記しています。ここでいう「むかし」は、『霊場記』が刊行された元禄2(1689)から見た「むかし」ですから、ずいぶん古くから・・争論に及んでいた・・わけです。
思うに、・・時代に随ひてかはれる・・これが、本当のところなのでしょう。


一宮城登り口
境内に一宮城への登り口がありました。もし事前に知っていたなら登ったのにと、残念です。→(H26春 その6)
この城は南北朝時代の築城で、戦国時代は三好氏と長宗我部氏の攻防の舞台となり、さらには秀吉の「四国征伐」を迎え撃つ、長宗我部氏の備え城となるなど、乱世をくぐった城でした。
江戸期に入り、阿波蜂須賀藩の藩祖・蜂須賀家政が阿波に入封。一宮城は家政の居城となりますが、やがて家政は平山城の徳島城を築き、藩の中心を眉山の東に移しました。もはや山城が時代のニーズに合わないことを、家政は賢くも知っていたのでしょう。徳島藩の一支城となった一宮城は、寛永15年(1638)、一国一城令により、廃城となりました。


13番大日寺
大日寺は、神仏習合の時代、「一宮寺」と通称されていたそうです。一宮神社の別当寺だったからです。
「一宮寺」は識っていても「大日寺」は識らない、そんな人もけっこう多かったようで、それかあらぬか、真念さんの『四国遍路道指南』では、十三番札所は「十三番一宮寺」とのみ紹介され、「大日寺」の文字は見当たりません。
むろん、かといって「大日寺」という寺名がなくなったわけではありません。ほぼ同時期に刊行された、(真念さんが資料を提供して書かれたという)寂本さんの『四国遍礼霊場記』には、・・大栗山華蔵院大日寺 一之宮ニある故一宮寺ト云。・・と、「大日寺」もちゃんと記されています。


本堂
大日寺の本尊はて大日如来だ・・、と思っていたら、違っていました。十一面観音でした。この辺の事情について、『四国遍礼霊場記』の説明は、次の様です。
・・此寺大師以前の開基か、大師あそび玉ひて大日如来の像を作り置玉ふ故に大日寺と云。今の本尊十一面観音は一の宮の御本地となん。
大師御作の大日如来像を本尊として祀り、大日寺と称していたが、神仏習合愈々進み、一宮神社の本地仏・十一面観音を本尊として祀るようになった、ということのようです。なるほど、であってみれば「一宮寺」が人口に膾炙するのも、宜なるかなです。


大師堂
ただし大日寺の公式HPは、本尊が十一面観音となったのは神仏分離以降のことであるとして、次の様に記しています。
・・明治初期の神仏分離によって、当神社(一宮神社)の本地仏であった行基作といわれる十一面観音を当寺(大日寺)の本堂に本尊として移され、それまでの本尊大日如来は向かって右の厨子に秘仏の脇仏とされ、・・。



さて、13番大日寺の納経を終え、14番常楽寺へ向かいます。気仙沼さんとは、互いを気にすることなく自分のペースで歩きましょうと、話し合いました。
今日の私たちの行程は、とりあえず17番井戸寺まで歩き、途中、16番観音寺近くの国分尼寺跡を見学することまでが決まっています。15番国分寺近くにある阿波国一宮の論社・天岩戸別八倉比売神社は、残念ながら断念です。→(H26春 その6)


鮎喰川河川敷の地蔵尊
井戸寺から先が決まっていないのは、実はまだ宿が決まっていないからでした。何軒か電話をしましたが、駄目でした。今日・10月25日は土曜日で、あちこちで秋祭りが催行されているのです。そのため、受け入れられないとか、食事が出せないなどの理由で、断られていたのでした。
逆に井戸寺まで決まっているのは、井戸寺近くをJR徳島線が走っているからです。必要なら電車での移動も考慮に入れています。


14番常楽寺石段
常楽寺は巨大な岩盤の上に建つ寺です。石段も一部は岩盤を刻んで造られています。
その石は「流水石」と呼ばれるそうです。なるほど流水の文様が入っています。


14番常楽寺
女子中学生が二人、境内の掃除をしていました。・・お寺の子?・・と尋ねると、ボランティアだといいます。
・・これからは落ち葉の季節。たいへんだね。・・と言うと、・・ハイ・・と応えてニッコリ笑ってくれました。つい先ほど、やや「慎み」を忘れたかにみえるオバタリアン集団と入れ違ったばかりなので、ますます可愛らしく思えました。帰宅後、(もちろん許可を得て)撮った写真を、お寺気付で送ってあげました。


生木地蔵尊
地蔵尊が彫られた桧は、昭和29年(1954)、台風で倒れたそうです。 


生木地蔵尊
しかし生木地蔵尊には、傷の一つも付くことがなく、今はお堂に祀られています。
常楽寺には、やはり樹にかかわる信仰で、アララギ大師がありますが、こちらは気づけませんでした。アララギの木の枝別れしたところに、ひっそりと、小さなお大師さんが隠れているそうです。なお、こちらの樹も、平成30年(2018)、台風の被害を受け、倒れこそしなかったものの、支柱で支えられている状態だと言います。


岩船地蔵尊・八祖大師
15番国分寺への途中で見かけました。八祖大師、岩船地蔵尊と記されています。
「八祖大師」は、真言第八祖としての弘法大師をお祀りしているということでしょうか。「岩船」はわかりません。


胸飾り
可愛い棟飾りが印象的でした。


たばこ自販機
タバコ自販機の深夜稼働が停止されたのは、平成8年(1996)4月のことでした。うっかり買い忘れた人が、・・もう、やめてくれよー・・などと言いながら、深夜の町を彷徨いていたりしたものでした。むろんお店も、たいていは閉まっていますから、もらいタバコするかシケモクを吸うか朝まで我慢するほかないのでした。
平成20年(2008)4月、タスポによる成人認証の運用が始まり、したがって深夜停止は解除されましたが、しばらくの間は、まだタスポを持っていない人がいたり、操作に慣れていない人がいたりで、こんな張り紙があちらこちらで見られたものでした。お願いすると、店の人が自分のタスポで購入してくれたのでした。


六地蔵板碑
板石卒塔婆(板碑)がありました。阿波青石に、六地蔵が二段に分けて線刻されています。
板碑は鎌倉時代に始まり、戦国時代末期、なぜか急激に衰退したという、供養塔の一種です。この板碑は天正12年(1584)の建立ですから、その衰退期に建てられたものといえます。その意味では、珍しいといえましょう。


拡大
地蔵像を拡大したものです。目の線が優しげです。


15番国分寺
国分寺の建立は、「余裕」があってのことではありませんでした。切羽詰まってのことでした。
その事情を、「えひめの記憶」は次の様に記しています。
・・天平13年(741)、聖武天皇は国分寺建立の詔を発し、国ごとに僧寺・尼寺を建立させた。国分寺建立の背景には、当時天然痘などの疾病の流行と飢饉による社会不安や、天平12年(740)に大宰府においておこった藤原広嗣の乱、および対新羅関係の悪化などによる内外の危機感があった。こうした情勢が五穀豊饒・国家安寧を祈る国分寺造営の動機となった。
天然痘による死者は、一説には、日本の総人口の25-35%に及んだとも言われています。まさに国家の存続にもかかわる危機であったわけです。


五七の桐
山門の向かって右に十六八重菊・菊の御紋章が、左に五七桐紋がついています。
いずれも天皇家の家紋ですが、五七の桐は下賜紋としても使われました。足利義輝が賜った五七の桐紋を織田信長に下賜、さらに豊臣秀吉に下賜した例が知られています。
私たちは、首相が記者会見する時の演台やパスポートなどで、目にします。


本堂
15番国分寺もまた、ご多分にもれず、長宗我部元親による「天正の兵乱」で全焼失。以後長らく、廃寺の状態がつづいたようです。『四国遍礼霊場記』(元禄2年/1689)は次の様に記しています。
・・いはんや千年に及ぶの今の世、廃替する事むべなり。今此地すたれて名のみに至れり。小堂一宇、薬師の像を屋寸に安じ、・・


国分寺図
国分寺図にも、まさに「小堂一宇」が描かれています。中央の建物、右には「薬師」、左には「春日」の書き込みがあります。
ようやく再建復興されるのは、寛保元年(1741)のことだと言います。阿波蜂須賀家の力を得てのことでした。今日の伽藍が形成されるのは、そののち、文政年間(1818-1830)の増築を経てのことだといいます。上掲写真の本堂も、文政年間の増築によるものだったようです。
なおこの本堂は、その後、平成27年(2015)から何年かかけ、屋根の修理と耐震補強工事が加えられています。


旧大師堂の基礎
写真は、平成8年(1996)に焼失した、大師堂の基礎部分です。私たちが訪ねた平成20年(2008)、大師堂はまだ再建されていませんでした。たしか烏瑟沙摩(うすさま)明王堂が大師堂代わりになっていたと記憶します。
大師堂が再建されるのは、平成26年(2014)のことでした。


七重の唐の心礎
側の説明板に、次の様に記されています。
・・天平12年(740)国分寺造営詔勅の前年、諸国に七重塔造営が詔されているので、天平年間(729-748)には造営されていたと思われる。本心礎は環溝型という珍しい形式である。もとの位置は「塔の本」の地か、興禅寺前の田圃かといわれ、確認されていない。(国府地区文化おこし委員会)
「塔の本」がどこであるかは(私には)わかっていませんが、「興禅寺」は、現・国分寺南方100余㍍に在る、「興禅寺」を指すと思われます。前掲・六地蔵板碑の近くです。


灌漑用水
16番観音寺へ向かいます。
写真は途中で見かけた灌漑用水路です。この辺では、このところ気がかりであったジャンボタニシが見られないばかりか、小魚が泳いでいるのに気づき、写真に収めました。


小魚
フナでしょうか。群れなしています。久しぶりに灌漑用水路で見た、生き物の姿でした。


標識
16番観音寺に荷物を置いて、国分尼寺の跡を見に行きました。
写真の標識のおかげで容易に見つけることができましたが、分校は、この時点ですでに休校となっていました。令和の現在、もはや写真の標識は存在しないと思います。


石井小学校尼寺分校
石井小学校尼寺分校の校舎です。無人かと思っていたら、人の気配がしました。女性が二人いて、なにかを蒸しているので尋ねてみれば、(分校校舎は今は、幼稚園の園舎として使われていて)、今日は幼稚園のイモ掘り会なのだそうでした。
そろそろ園児たちが帰ってくる頃なので、・・帰ってきたら、すぐ食べられるよう、オイモサンを蒸してるんです。掘ってきたオイモサンとは違うんですけどね、そこはまあ、ネッ。・・とのこと。


お接待
会話を楽しんでいると、1人の方が柿をむき始め、もう1人の方がお茶をいれ始めました。お皿を出してバナナも出して、阿吽の呼吸というのでしょうか、何の打ち合わせもなく、私たちへの「お接待」の準備が進んでいました。


お接待
蒸していたホッカホッカの鳴門金時も出てきました。
その節は、本当にありがとうございました。みんなで撮った記念写真、届いていますでしょうか。


国分尼跡跡
発掘中でした。ここは金堂跡のようです。


国分尼寺図


綿の花,
分校の近くに綿の木がありました。家の人は、・・生け花用に育てています・・と話してくれました。
咲き始めは白く、やがてピンクを帯びてくるのだそうです。
綿を吹き出したコットン・ボールをいただき、帰宅後、種を植木鉢に植えてみましたが、残念、育ちませんでした。


総社
阿波総社と国府八幡宮を合祀した神社で、今は観音寺境内にあります。
総社は、阿波国式内社50座を勧請したものといい、元は観音寺の南方500㍍の所に、面積三千坪に及ぶ社地を有して在ったとのことです。その地には「総社が原」の呼称が今に伝わっている、とのことですが、地図上では確認できませんでした。


国府町
国府八幡宮(こくぶ八幡宮)は、国府の近く(府中)に創建された八幡神社をいい、「府中八幡宮」とか「国分八幡宮」また「一国一社八幡宮」とも呼ばれます。→(H30春4)
国府の近くにあることから、総社の機能を持つようになったとも言われるので、そこらあたりに、両社が合祀された理由もあるのでしょう。


ひこばえ
観音寺に帰ると、気仙沼さんがいました。私たちを待っていてくれたのです。私たちが尼寺跡を見物していた時間は相当長かったはずなのに、申し訳ないことをしてしまいました。
・・また会えるでしょうが、会えなかったときのために、お世話になりましたと言っておきたくて。
そう言って、気仙沼さんは歩きはじめました。


大御和神社
大御和神社ですが、地元での呼び名は「府中宮(こうのみや)」のようです。神社前にバス停があり、その名は「府中宮前」となっています。
元は国府の印鑰神社(いんやく神社)だったといいます。国司の官印と諸司の鍵を管理する神社です。


ジャンボタニシ
やっぱりいました!ジャンボタニシ。
熱帯原産なので、寒さには弱いようです。しかし自然に滅びることはないでしょう。
とはいえ、薬による駆除はできません。根気強く人力でやるほかないでしょう。


お接待
両手に一個ずつミカンを持っ方が、走ってこられました。家の中で私たちを見つけ、急いで出てきたのだそうです。
・・取るものも取りあえず、出てきたんです。こんなものですみません。でも、間に合ってよかった。・・とのこと。
有り難いことです。


17番井戸寺山門
この寺の寺名は、「道指南」では・・十七番井土寺 明照寺ともいふ・・となっていますが、「井土寺」は、どうやら通称だったようです。というのも、「霊場記」や「名所図会」では、・・瑠璃山 真福院 明照寺・・となっていて、「いど寺」の記載はないからです。弘法大師が一夜にして掘ったという故事が広く流布されており、それとともに「いど寺」の愛称も広まったのでしょう。
「井戸寺」が正式名となったのは、大正5年(1916)とのことだといいます。この時、瑠璃山 真福院 井戸寺となりました。


面影の井戸
寺名の由来となる「面影の井戸」です。
覗き込んで自分の姿が映れば無病息災だが、映らない時は、3年以内に不幸に見舞われるとのことです。
試してみて、私は映りました。北さんは、何も言いませんでしたが、映ったのでしょう。令和の今も息災ですから。


井戸寺
井戸寺から先、18番恩山寺へのコースは、前号でも記しましたが、大きくは二本あります。
一本は、徳島の市街地を通るコース。もう一本は、眉山を越える「地蔵越え」の道です。地蔵院があることから、こう呼ばれています。
「地蔵越え」の先もまた、二本に分かれています。一本は、園瀬川沿いを下り三軒屋→地蔵橋へ出る道で、もう一本は、「あずり越え」を越える道です。ただし「あずり越え」が復元されるのは平成21年(2009)3月のことで、平成20年のこの当時は、まだ通れませんでした。→(H26春その7)


徳島本線
さて、これより先、私たちがどう進むかですが、あちこち電話して、ようやく22番平等寺側の、民宿山茶花さんで受け入れてもらえました。


蔵本駅
18番から21番までをスキップすることになりますが、このへんが「拾い歩き」の気軽さです。
これよりJR徳島線・蔵本駅から徳島駅へ。徳島駅からJR牟岐線で新野駅まで、大移動することになりました。


ねこたち
蔵本駅での景色です。
10匹ほどのネコを引き連れた男性がやってきました。ネコちゃん達、知らない私たちがいるので少し警戒気味ですが、ご主人との散歩がうれしくてしようがないようです。
お気づきでしょうか、中央のネコは尻尾がピンと上がっています。他の子たちも、警戒心が解けてきたようで、上がり気味です。


新野駅
各駅停車で17:27、新野駅に着きました。
もう暗くなっています。これから30分ほどは歩くので、蛍光ベルトをつけ、懐中電灯を出しました。


新野駅
車中で会話を交わした京都大志望の高校生が、礼儀正しく挨拶をした後、自転車で消えてゆきました。うるさかった男子中学生たちも、いなくなりました。
私たちも歩きはじめました。田舎の道は、ひとつ間違えば、とんでもないところへ行ってしまうことがあります。慎重に歩きました。


民宿山茶花(翌朝撮影)
夕食後、車遍路の岡山さんが話してくれました。
・・私は原爆投下直後の広島に入りました。軍属(陸軍)として広島にいた父を捜しにいったのです。父の出身地の岡山を和歌山と間違えられ、発見までに日数がかかりました。(それでも軍属なので一般の方より早かったのは、申し訳ないことでした)。
・・なんとか父親を看取って帰宅しましたが、その後、「二次被爆」の症状に苦しむことになりました。でも被爆者手帳は持っていません。差別がこわくて、被爆者である事実を隠したのです。



・・四国、板東、秩父、西国と、車で廻っています。それは主として、お詫びの旅です。あの時、元気な私は、多くの人から助けを求められました。でも助けませんでした。まず、そのことへのお詫びです。次に、被爆者であることを隠したことへの、お詫びです。私は差別されることが恐くて、同じ被爆者を差別していたのです。・・私は貴方たちほど酷くはない・・と人を貶め、自分を慰めていたのです。本当に恥ずかしい。申し訳ないことでした。
聞くものは皆、いつしか姿勢を正していました。涙を流している人もいました。

  6日目(平成20年10月26日)

桑野川
今日は雨です。ほぼ一日、雨具をつけて歩くことになるでしょう。
行程は、月夜御水庵→弥谷観音→県道25号・由岐経由→23番薬王寺までの、22.4キロ予定です。
写真は、平等寺橋の親柱。桑野川にかかっています。


22番平等寺
今でこそ「平等」を標榜することに障りは、まずありませんが、近世以前、(身分制に基づく)「差別」が社会原理となっていた時代では、大いに支障があったにちがいありません。
「平等」を寺名に冠するこのお寺は、この困難の時代をどう潜り抜けてきたのでしょうか。どのように隘路を見つけたり、自己主張したのでしょうか。いつか、どなたかから教わりたいものです。


石段
Wikipediaの「平等寺」に、次の様な記述があります。・・当寺の境内地はすべて撮影可能、「目に映るものは何でも撮ってください、撮影程度で汚されるような柔なつくりではないです」とのこと。・・
「撮影程度で汚されるような柔なつくりではない」とは、何方の言かはわかりませんが、なんとも頼もしいですね。
この自信あるが故に、誰に対しても等しく、自らを開くことができるのでしょう。
HP「とくしま御朱印ナビ」は平等寺の「開放性」について、次の様に記しています。・・(本尊は)2014年(平成26年)までは秘仏でしたが、現在は常時拝顔できます。本堂内陣がこれほどまでにフルオープンなのは、四国霊場では確実にここだけ。・・本堂だけではなく、もちろん大師堂もフルオープン。


護符
桑野川を渡り、街中で昼食を調達。平等寺の奥の院・月夜御水庵へ向かいました。
途中、珍しい姓の表札があったので見ていると、側に蘇民将来の護符があるのに気づきました。「蘇民将来子孫急々如律令」とあります。「ソミンショウライ・シソン・キュウキュウニョリツリョウ」などと読むようです。「我が家は蘇民将来の子孫である。魔物よ、退散せよ」というような意味で、「急々如律令」は、魔物を退散させる呪文なのだそうです。なお護符の文句には、「大福長者蘇民将来子孫人也」などというのもあります。


交通標識
いま歩いている県道284号は、月夜御水庵を過ぎると、国道55号に合流します。この55号は、星越峠を越えて美波町に入る道で、6年前に私たちが歩いた道です。
今回の私たちは、(前回寄らなかった)弥谷観音(いやだに観音)に参ったのち、県道25号を南下。由岐を経由して薬王寺に参ります。


月夜御水庵
平等寺の奥の院とされる月夜御水庵です。弘法大師の御加持水をいただくことができます。(今は飲用不可のようです)
「月夜」は、・・当地で野宿された弘法大師が暗闇の中で読経すると、沈んでいた月が昇り来て、ふたたび月明かりに照らされる夜となった・・伝承に拠るとのこと。→(H26秋1)


月夜御水庵
杉は、「逆杉(さかさすぎ)」と呼ばれるそうです。枝が一度下方向にのびて、それから上向いています。大師が薬師如来像を彫られたとき、使った杉材の枝を地に指したところ、その枝が根づき、今ではこんな大樹となっていると言います。
写真奧の小祠は、御水大師堂です。


溜め池
本降りの雨です。


ゴミ
この時代、日本はすっかり消費社会化し、”もったいない”はどこへやら、使い捨てが「美徳」とさえ言われるようになっていました。。
しかし、それによって大量に排出されるゴミ処理対策は遅れに遅れ、捨て所のないゴミの、不法投棄が横行していたのです。本ブログで不法投棄が何度も記事にされていることにお気づきの方もいらっしゃると思います。
道が膨らんで向こう側が谷になっている此所は、車でゴミを捨てに来た人には、格好の場所のようです。捨てやすく回収されにくいからです。ネットを張るなどの防止策が講じられていますが、捨てる人は絶えませんでした。


タケノコ畑
美しい竹林は、タケノコ畑です。さすがに、ここにゴミを捨てる人はいないようです。
竹の子の季節になると、ここには犬が、一晩中つながれます。タケノコを食べに来るイノシシ対策です。


不法投棄
ここにも車が捨ててありました。残念なことです。
しかし、もっと残念なのは、このゴミに遍路道標が吹き付けられていることです。


55号へ
手前を流れるのは福井川です。向こう岸の下の道は福井ダムに出る道で、上の道が国道55号です。


福井川
平成7年(1995)、利水、治水を目的として完成したとのことです。
この地域は多雨で、とりわけ昭和20年代には、大雨による被害がたびたび発生していたと言います。


室戸へ
国道55号に出てきました。
「室戸96㎞」にたじろいだ歩き遍路は、私たちだけではないでしょう。


鉦打トンネル
昭和63年(1988)竣工。長さ301メートル。
「鉦打トンネル」の「鉦打」については、→(H26秋1)をご覧ください。


トンネル内部
歩道の幅が広くなり、仕切りの柵があります。助かります。


標識
ダムには向かわず、平等寺のもう一つの奥の院・弥谷観音へ向かいます。


明月橋
福井川(ダム湖)に架かる「めいげつきょう」は、「明月橋」と記します。その名は「弥谷七不思議」のひとつ、日天さん月天さん(後掲)に由来するようです。
傍に立つ「明月橋という名について」という案内板の一部を、(ややわかりにくいですが)ご覧ください。・・(日天月天さんは)永遠にダムの湖底に沈むことになりました。その日天月天の淡い月影が湖面に映えて明るく、まさに「明」の文字どおり仲良く並んで、渡れるようにとの意味ですが、はるかなる幻想と歴史的イメージから「明月橋」と美称したものでありました。



明月橋を渡り、弥谷観音への参道に入りました。
途中に、「弥谷七不思議」が紹介されています。


笠地蔵
七不思議の一つ、笠地蔵だそうです。どのような不思議があるのか、すこし調べましたが、わかりませんでした。


日天さん月天さん
どうやら「弥谷観音」の名に残る「弥谷」という谷は、今日の姿からは想像もできませんが、妖怪狐狸の棲む幽谷であったようです。鉦打大師堂由来によれば、・・七分蛇、怪猫が棲んでいた・・とのことです。「七分蛇」の名は、こいつに噛まれたら1日に七分ずつ傷口が腐ってゆき、ゆっくりと死に至ることに由来する、というから恐ろしい。
察するに「七不思議」とは、そんな幽谷・弥谷で起きた、弘法大師の霊力にかかわる「七不思議」なのかもしれません。


弥谷観音
弥谷観音は、平成6年(1994)、福井ダム建設にともなう関連工事の一つとして、かつて在った祖谷山明宝院を、弥谷観音として再建したものと言います。→(H26秋1)


  
同じ道を歩いて、ふたたび国道55号に戻りました。
しばらく55号を歩きます。


福井トンネル
昭和47年(1972)竣工。長さ175メートル。
歩道は狭く、車道との仕切り柵はありません。


安全策
そのため、安全策が講じられています。ボタンを押すと、歩行者、自転車に注意するよう、ドライバーへの注意喚起がなされる仕組みです。


辺川休憩所
県道25号に入ってきました。
辺川休憩所です。この沿線上には数カ所、よく似た造りの休憩所が建っています。・・宝くじの普及宣伝事業として整備された・・ものだそうです。
一連の休憩所で嬉しかったのは、どの休憩所にも大きな周辺地図が掲示されており、その表示範囲、方位、縮尺が同じだったことです。そのためとても見やすく、容易に現在位置を把握することができました。


美波町へ
前方が由岐坂峠で、これより阿南市から美波町の由岐地区に入ります。美波町は、平成18年(2006)、日和佐町と由岐町が合併してできた町です。因みに国道55号を進むと、美波町の日和佐地区に入ります。


郡界
すぐ先に、郡界の標識が立っていました。
  郡界 北 那賀郡(現在の阿南市、小松島市の一部、那賀町の一部)
     南 海部郡(現在の美波町、牟岐町、海陽町)
ここ由岐坂峠は、かつても今も境界の地です。


由岐坂トンネル
平成8年(1996)竣工。長さ104メートル。


横断注意
アカテガニの横断に注意!
夏の月夜、アカテガニが海におりて産卵するのだそうです。その時この辺をカニが横断するので、死亡事故が起きないよう、注意してほしいというのです。


休憩所
この休憩所にも、同じ地図が表示されています。



由岐の海沿いの道に降りてゆきます。


線路
JR牟岐線を渡ります。
写真左奥に、由岐駅が見えています。


お祭
由岐は「由岐伊勢エビ祭」の最中でした。
私たちは「長寿汁」のお接待を受けました。・・もう具はないのだけど、汁だけでも美味しいよ・・とのこと。たしかに、伊勢エビの出汁が抜群に効いていました。ずっと冷たいものばかりだったので、とてもありがたかったのを覚えています。


神輿
伊勢エビの神輿ですが、担ぐことはないのでしょう。
幟には「美波町」。天幕には「由岐町」。まだ新旧の町名が混在しています。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。できれば薬王寺までを書きたかったのですが、字数制限にかかり、できませんでした。区切りが悪いですが、由岐で切らせてもらいます。次回更新予定は、5月24日です。

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コメント (2)
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11番藤井寺 遍路転がし 12番焼山寺 建治寺 童学寺 13番大日寺

2023-03-22 | 四国遍路

 
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 3日目(平成20年10月23日)

天気予報
前回(平成13年/2001)の遍路転がしは雪でした。今回は雨です。因みに次回・平成26年(2014)では、最後の急登で大雨となり、道はさながら沢と化していました。焼山寺道は、なかなか楽には通させてくれません。なるほど「遍路転がし」です。


藤井寺へ
その「遍路転がし」を含む道を、今日は23キロ歩かねばなりません。当初は、焼山寺の先の宿に泊まり、17キロほどだったのでしたが、昨日、その宿に不幸事が起きたとのことで、泊まれなくなったのでした。
やむなく、・・遅くなれば車で迎えに出ますよ・・とのお言葉を頼りに、植村旅館まで歩くことしたのでした。突然の宿の休業は、私たちには二度目の経験でした。→(H14春)二回目の遍路①


藤井寺
そんな事情もあって、早く歩きはじめたいと気は急くのですが、実は私たちは藤井寺の納経をすませておらず、納経開始の7時までは、動きがとれません。
やむなく納経所の前で待っていると、女性遍路がやってきました。鴨島駅前の宿に泊まったなど、ご自分のことを話された後、・・今夜の宿はどうされますか。実は私、まだ宿がとれてないのです。・・とのこと。


「遍路転がし」への入り口
聞けば、彼女も私たちと同じ宿からキャンセルを受けていたのでした。
私たちが植村旅館の話をすると、・・私もそうさせてもらおう・・と早速電話。受け入れてもらえたようでした。「(他の客に)詰めてもらうから」と言って受けてくれたとのことで、皆さんに窮屈な思いをさせてごめんなさいと、しきりに謝っておられました。むろん相身互いですから、なんの問題もありません。
思い出深い人となるこの人は、気仙沼さんです。


道標
歩きはじめました。気仙沼さんも一緒です。・・歩くの遅いから、・・などと言いながら、私たちの後ろについて、歩いていたものでした。(この方、今では時速5キロも苦にしない健脚です)。
鴨島駅周辺に泊った人達が、私たちを抜いてゆきます。私たちの巡航速度は遅いのです。頑張ってこれを速めても、長い山道では必ず破綻するので、無理はできません。健脚5時間、標準6時間、足弱8時間とのことですが、私たちは足弱に属するでしょう。宿に迷惑をかけるのは必至とわかりつつ、巡航速度を守りました。


景色
抜いて行く人の中に、中野君→(H20秋1)がいました。チワッスと一言、階段を一段飛ばしするような勢いで抜いてゆきました。後で聞くと、4時間半で登り切ったといいます。
写真は、端山休憩所辺りからのものでしょうか。なんとも拙い写真ですが、吉野川が写っているので載せました。白い建物は、西麻植小学校でしょう。


登り
雨は、予想されたほど強くはなく、木がないところで傘をさす程度です。
ただ雨の日は、座り込んで休むことができないので、困ってしまいます。いつだかに会った先達さんは、・・立って休むのが正しい休み方・・と教えてくれましたが、その心境には、なかなかなれません。


長戸庵
藤井寺と焼山寺の中間点に柳水庵がありますが、長戸庵は、藤井寺と柳水庵の中間に在ります。「ちょうど塩梅良き」ところに在るわけです。
般若心経を唱えていると、前回、雪の中で鼻水たらしながら「はんにゃしんにょう」を唱えた時の記憶が、よみがえってきました。



雨が止んでいます。
気仙沼さんが言いました。・・私たちが登り着くまでは雨を降らせないでくださいと、お大師様にお願いしたのです。お聞き届けてくださっているのかしら、うれしい。
聞く耳に優しい話でした。



樋山地には、大きな集落跡があります。河野一族の内紛で伊予から逃れてきた人たちがつくった集落です。彼らはここに、石鎚神社も建てています。→(H26春 その5)


登り
霧が出てきました。先を行く北さんが、霧に消えて行きます。



たしかに天気が変わりつつあるようです。雨雲が霧に変わってきました。腕時計の気圧計も、上昇の気配を見せています。


道標
前のグループから遅れて私たちに合流した若い鷲宮さんは、私と同郷です。とは言っても同じ埼玉という程度で、埼玉にいれば赤の他人なのですが、こんな所で出会うと、とても親しみを感じます。旅先ならではの隣人ということでしょうか。



彼はマメに苦しんでいました。そのせいで遅れたのです。
尋ねてみると、これまでマメをつくった経験はなく、(人のマメを)見たこともないそうで、対処の仕方も分からない、といいます。当然、縫い針、消毒液、テープなどの用意もないとのことです。


柳水庵奥の院
出来る援助はしなければ、と思いました。
奥の院の屋根をお借りして靴を開けると、・・これは大変です。大きなマメが両足にでき、どちらも裂けています。他にも、まだ水を貯めているマメがいくつかあります。よくここまで来たものだと感心するくらいでした。
かなりの時間をかけて、消毒、水抜き、テーピングを行いました。


柳水庵
手前の宝形造りの堂が、柳水庵です。その奧は、かつては遍路宿であったようですが、いまは無住のようでした。


休憩所
柳水庵の先に、休憩所がありました。宿泊もできるようです。土地の人たちの協力で、建築維持されているとのこと。私は平成26年(2014)の時、雨を凌ぐため、ここで昼食をとらせてもらいました。



それとなく鷲宮さんを列の先頭に出したのは、この辺だったと思います。最初に、一本杉大師を見せてあげたかったからでした。私たちは前回の、突然一本杉大師を目前にしたときに覚えた「オドロキとカンドー」を忘れていませんでした。


左右内の一本杉大師
鷲宮さんの「オドロキとカンドー」は、どうやら私たちほどではなかったようです。マメに苦しんでいたからでもあるでしょう。
それでも、・・いきなりですもの、驚きますよね。・・と、私たちの気持に応えてはくれました。


浄蓮庵
浄蓮庵は一宿山と号し、本尊として阿弥陀如来を祀っています。
山号の「一宿」は、お大師さんが焼山寺に向かう途中、此所で木の根を枕に仮眠されたとの伝承に由来します。本尊は、その夢の中に阿弥陀如来が顕れたことに由来するそうです。大師は阿弥陀如来尊像を刻み、ここに安置したと伝わります。また大樹一本杉は、その時、大師がお手植えになったものとのことです。


晴れた!
気仙沼さんの願いは、確実に届いたようです。晴れ間が見えてきました。
遍路転がし最後の難所を前に、うれしいことです。


焼山寺の山
焼山寺があるお山です。これより左右内谷(そうち谷)を左右内谷川まで下り、ふたたび向こうの、焼山寺山への急登を登ります。遍路転がし「最後の難所」です。
なお浄蓮庵の標高は745㍍。焼山寺道では、もったも高い地点だそうです。左右内谷川は400㍍。焼山寺は700㍍です。


休憩
お大師さんの顰みに倣ったわけでもありませんが、私たちも休憩しました。「私たち」とは言っても、なんとなく形成された、緩いグループです。
おそらくこれが、今日の登山者の最後尾でしょう。メンバーは、気仙沼さん、鷲宮さん、川崎さん、友人の結婚式に岡山に来て、それからなんとなく遍路を始めた嘉手納さん、地蔵寺の宿で一緒だった、中央アジアを歩いた男性、そして北さんと私の七人でした。


左右内谷へ
いざ下らん、左右内谷へ。鷲宮さんはだいぶ楽になったとのことで、休憩中、靴紐と気力をを締めなおしたようでした。
なお「左右内」は江戸時代の左右内村に発し、後述の左右内川、左右内小学校などにも冠されています。左右内村は明治22年(1889)、町村制の施行により下分上山村(しもぶんかみやま村)の大字となり、現在は名西郡神山町の一部となっています。因みに私たちが明日泊まる宿の名には、「名西」が冠せられています。


左右内谷川
川筋まで降りてきました。左右内谷川です。
かつて参拝者は此所で身を清め、最後の登りにかかったといいます。つまり左右内谷川は、祓川であったわけです。


一番坂
・・これからが一番苦しい 頑張ろう・・とあります。この苦しさを修行とせよ、ということでしょうか。



なんとか急坂を登りきりました。出た道は、車による参拝道です。


参道
北さんが、湧き水を手で確かめています。どんなに疲れていてもこういうことを欠かさないのが、北さんのいいところです。


紅葉
焼山寺では少し紅葉が始まっていました。


山門
寺の人に宿坊のことを尋ねてみると、・・今日は開いてはいますが、不定期なので申し訳ありません。・・との答でした。
今日は開いている!それならここに泊めてもらったのに、と思いましたが後の祭です。なぜこんな重要な情報が、私たちには届いていなかったのでしょうか。


本堂
私が残念に思った理由は、もう一つあります。もし焼山寺の宿坊に泊まることが出来たなら、焼山寺奥の院に登りたいという、かねてからの念願が叶ったからです。泊まってその翌日、登ればよいのです。それなら足弱の私でも登れます。
本当に惜しいことをしました。奥の院へは、令和の今も登ることができていません。


杖杉庵
衛門三郎伝説は、四国遍路道の各所で可視化されています。
杖杉庵は、衛門三郎終焉の地です。この地で今生を終え、弘法大師に後生を約されます。


杖杉庵
その他、衛門三郎が豪勢に暮らしたという邸宅跡、親の因果が子に報い、命を失うことになった子供達の墓、再来した衛門三郎など、衛門三郎関連の霊跡については、→(H28秋6をご覧ください。


スリップ
急いでいたら、すべってしまいました。
途中、何人もの人から「泊まりはどこかね?」と、声がかかってきました。近くの宿が泊まれなくなったことをご存知なので、私たちに注意を促してくれているのです。



左右内谷川とは反対側の沢だと思います。ただし、いずれもが、鮎喰川に注ぎます。鮎喰川が、大きくカーブして流れているからです。


日没
とうとう日が暮れてしまいました。たいへん申し訳ないことですが、植村旅館に電話。迎えを頼むことにしました。これより先の山道は、危険だと考えたのです。
運んでもらうのは、気仙沼さんと私たちの3人です。グループの他の人たちは、神山に下りました。


左右内小学校の体育館
白い建物は旧左右内小学校の体育館です。同小学校は明治15年(1882)創立。昭和62年(1987)、休校となり、その後、廃校となっています。いきなりの廃校は、やはり堪えがたいものがあったのでしょう。


植村旅館
遠くまでの迎え、本当にありがとうございました。
夕食では、私たちが時間を遅らせたかもしれないのですが、にもかかわらず、楽しい時間を過ごすことが出来ました。同宿の神奈川さんは、年代は違いますが、子供時代を私と同じ町で過ごした方でした。徳島の山の宿で小中学校の後輩に会えるとは、これもお大師さんのお引き合わせでしょうか。

 4日目(平成20年10月24日)

鮎喰川の朝
おかげさまで元気に目覚めることができました。
今日の行程ですが、気仙沼さんは鍋岩まで戻り、そこから歩き直します。私たちは(拾い歩きなので)ここから県道20号を下り、前回見逃した建治寺→童学寺を経て、大日寺へと参ります。またどこかで会えるといいですね、と言って別れました。他の方々は、まっすぐ大日寺を目指すそうでした。


案山子
「28歩の会」という集まりがあって、このような案山子の作品を、道沿いに展示しています。かつて此所に在った暮らしの一齣を再現、展示していると思われます。
しかし、どうやら会の願いは、それだけには留まらないようです。看板に「阿川 ゆめの里」とありますが、「ゆめ」とは、ここでは・・近い将来実現したい願い・・を意味しているのでしょう。
将来、こんな暮らしを取り戻したい、そんな「願い」に向けて、「28歩の会」は歩もうとしているのかもしれません。


県道20号
県道20号を緩やかに下ります。
県道20号・石井-神山線は鮎喰川左岸の道ですが、13番奥の院・建治寺に至る行者野橋を過ぎた辺りから北上。童学寺を経て、国道192号につながります。国道192号は旧伊予街道をベースにした道で、徳島-伊予西条を結んでいます。童学寺は、今日の私たちの目的地の一つです。


鮎喰川
川の名がなにに由来するのかは、はっきりしないようです。
きっと昔から、この川では鮎が多く獲れ、地域の人たちが美味しく食べて(喰って)いたのでしょう。


天然水
「天然水」とあります。鮎喰川扇状地の伏流水が湧きだしているのでしょう。
このような水は、北さんが見逃しません。まさに甘露とのことで、私もいただきました。


潜水橋
潜水橋の駒坂橋です。
植村旅館からは、この橋を渡るショートカット道がありますが、私たちは県道のヘアピン道を歩き、この橋は渡っていません。


台風被害
急な流れには強いはずの潜水橋ですが、平成23年(2011)には、流されてしまいました。写真は平成19年(2007)、弥谷寺で知り合った同郷の和光さん→(H19冬2)からいただいたものです。
なお天恢さんのやり方に倣ってストリートビューで見てみると、平成26年(2014)の画像では、すでに架け直された姿を見ることが出来ました。


鮎喰川
あるお年寄りが言いました。・・ワシは鮎獲りの名人ジャッタ。手獲りヨ。ひと潜り四匹ジャ。手に-匹ずつ、口に二匹をくわえてナ、上がってくるんヨ。鮎は頭から咥えてナ。でないと逃げられる。鳥が魚食べるときも、頭からじゃろ。頭からなら、逃げられん。
・・鮎喰川の名は、おじいさんから発してるんですか。・・と尋ねると、・・ハッハ、そうかもな。・・とのことでした。


道標
元は、シールが貼ってあったのでしょう。ていねいに塗り直しています。


標識
県道21号・神山-鮎喰線は、焼山寺から神山に下った人たちが、鮎喰川沿いの道に復するときに歩く遍路道です。鮎喰川に合流してからは、鮎喰川右岸を歩き、13番大日寺に至ります。さらに進めば、徳島市です。なお途中、13番奥の院・建治寺の山裾を通りますが、これについては後述します。


ゴミ拾い
皆さんで挨拶してくれました。聞けば、河原の塵拾いを終え、分別しているところだとのことでした。
鮎喰川の美しい景観は、このようにして保たれているのでした。


広野
広野地区です。県道20号(鮎喰川左岸)を歩いてきた私たちは、ここで鮎喰川を渡り、県道21号(鮎喰川右岸)に移ります。
電器屋さんの看板が、真新しい「パナソニック」に変わっています。松下電器・ナショナルがパナソニックに変わったのは、この年、平成20年(2008)の10月1日でした。私たちがここを歩いたのは、同年10月24日。まだ1ヶ月も経っていません。


イチジク
広野でいただいたイチジクです。
・・あのな、これ隣のイチジクじゃが、誰もおらんけん、黙ってもいできた。洗っとるけん、お食べ。隣には後で言うとくけん、大丈夫、大丈夫・・とのこと。どうしたものかと迷いながらも、いただいてしまいました。
・・お隣の方、お礼が遅くなりました。申し訳ありません。ありがたくいただきました。甘くて美味しかったです。


道案内
建治寺への案内がありました。
・・右の道は神山自然公園への車道を経由し、左側に建治寺への案内がありますので、そのまま登ってください。不安な方は21号線を進み、田村酒店の所で右折し、建治寺車道からご参拝ください。
ていねいな案内です。
私たちは右に入ります。


アケビとクリ
アケビと栗が落ちていました。いずれも秋の味覚です。豊かなお山のようです。


景色
鮎喰川です。右岸の山裾を縫うように走る車道が、県道21号です。建治寺に寄らなければ、この道を歩き大日寺に向かいます。


景色
写真奥に写っている白い塔は、徳島刑務所でしょう。



左の石柱も、道標です。


なに?
農家の入り口にこんなものがありました。
どのような役に立っているものなのでしょう。



こんな道があることも想定して、「不安な方は・・車道を行くように」との案内があるのでしょう。



立派な山道です。


景色
だいぶ上がってきました。奥に見える山は、眉山(290㍍)を主峰とする山塊です。この山塊の向こう側(東側)に、徳島市の中心街があります。
前回、17番井戸寺から18番恩山寺に向かうとき、私たちは徳島市中心街を抜けましたが、他に、地蔵道と呼ばれる、眉山越えの道もあります。私は平成26年(2014)、この道を歩きました。→(H26春その7)


大瀧山建治寺
建治寺は役行者の開基。金剛蔵王大権現をご本尊としています。
建治寺の説明文によると、・・役行者がかかる末世の衆生を済度すべく、濁世降魔の尊をと祈念すれば、一天にわかにかき曇り大地鳴動して出現されたのが金剛蔵王大権現である。・・とのことです。


神仏習合
つまり建治寺は、神仏習合の寺です。
この信仰には、山神信仰、神社信仰、神仙思想、陰陽道、道教など、諸々の信仰が織り込まれているといいます。ほんの少し分け入ろうとしただけで、私などはたちまち理解が届かなくなります。


ごんげん道の道標
金剛蔵王大権現を祀る寺なので、建治寺への参道は「ごんげんみち」と呼ばれています。
建治寺については、→(H26春その5)もご覧ください。



帰途につきました。


案内
左の迂回路を行けば展望台があり、そこから鮎喰川が見え、その先には吉野川も見えるらしいのですが、年寄りの冷や水というやつでしょうか、私たちは「すべり注意」とある、鎖坂道を行くことにしました。


鎖場・上から
すると突然、こんにちはー! 明るい声が聞こえました。もう本ブログには何回も登場した、中野君でした。お母さんから持たされたという、食料を詰めた袋はもう持っておらず、むしろ逞しささえ感じさせる雰囲気です。ほんの数日ではあっても、歩いてきた自信がそう感じさせているのでしょう。
・・鎖を降りるなんて、さすがですねー・・などと、私たちを煽てたりします。


鎖場・下から
鎖場は昨日の雨で濡れており、すべりやすいのですが、もはや引きもならず、降りてきました。私は恥ずかしながら、肋骨をすこし痛めたようでした。すべったのです。


行場
3人での下山となりました。中野君はしばらく私たちに付き合うつもりらしく、私たちの速さに合わせて歩いています。そればかりか道々、如来と菩薩の違いは?など、年寄りどもを喜ばせる問いを発してくれました。年寄りどもは彼の聞き上手にも乗せられて、蘊蓄を傾けたものでした。


瀧行場
下山した3人は、ちょうど昼時だったので、寿司屋さんに入りました。
ご主人は東京で修行したとのことで、寿司は(ちらしではなく)「にぎり」でした。ただ、この辺では寿司一本ではやってゆけず、ウドンなども出しているとのこと。私たちが頼んだのは「すし・うどん定食」でした。


景色
中野君は早々と平らげ、・・いっぱい食べたので飛ばします。・・と言って出てゆきました。たぶん私たちとの付き合いで、予定よりだいぶ遅れているのでしょう。これが中野君との最後の出会いでした。
中野君が出て数分後、外から鈴の音が聞こえてきました。もしや!と思い出てみると、やはり気仙沼さんでした。
 *この辺り、写真と記事内容が合っていません。適当な写真がないのです。たぶん中野君や気仙沼さんとの応対が楽しく、撮るのを忘れていたのでしょう。


童学寺 
オーイ、呼びかけると店に入ってきました。ついさっきまで中野君と一緒だったことなどを話し、これから童学寺へ向かうと告げると、即、・・私も行く・・。
再び三人の道行きとはなり、斯く、別格2番東明山童学寺へとやって参った次第です。行きは奮発してタクシーです。帰りは歩きます。


童学寺
「弘法大師御学問所」とあります。大師が真魚(まお)と呼ばれていた幼少の頃、当寺にて学ばれたとのことです。
その頃、「いろは歌」を創られたとも伝わりますが、否定的見解が多いようです。


稚児大師
童学寺の大師堂は、稚児大師です。


稚児大師
空海の生涯が、絵で展示されていました。これは当寺で学問をしている場面です。


キリシタン灯籠
どのような関連か分かりませんが、「キリシタン灯籠」がありました。
竿(柱)部分のクビレが十字架を表現しているのだそうです。


登り窯IMG_0816.JPG
童学寺前に「窯」がありました。立派な登り窯です。あいにくと留守で、作品は見られませんでした。


石井町
帰途は歩きです。
北側に、石井町を見下ろすことが出来ます。


童学寺トンネル
入り口のボタンを押すと、このような表示が出て、運転手に注意をうながしてくれます。
現代の難所「トンネル」が、ずいぶん歩きやすくなっています。開通は平成12年(2000)。長さは641㍍だそうです。


童学寺トンネル
新童学寺トンネルは、気延山(212㍍)に連なる尾根筋を貫いています。この尾根筋は神山町と石井町の町境になっているので、つまり私たちはトンネルの真ん中辺りで、町境を越えるわけです。
気延山は、私たちが16番国分寺から16番観音寺に向かうとき、左側に見る山で、周辺は阿波史跡公園になっています。国分寺があることからも分かるように(観音寺の近くには国分尼寺もあります)、古くから発展していた土地なのです。阿波国一宮の論社・天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけ・やくらひめ神社)も在ります。→(H26春その6)


鮎喰川
鮎喰川左岸に戻ってきました。右方向に建治寺のお山を見ながら歩きます。


ボケの花
ボケの花が咲いていました。満開です。オオボケです。


鮎喰川
日が暮れてきました。急がなければなりません。


休憩所
写真だけ撮って通過します。3人とも手に懐中電灯を持っての急ぎ足です。


宿
今日の宿、名西旅館花につきました。13番大日寺の参拝は明日です。


届け物
宿に入るなり、テーブルの帽子を見た気仙沼さんが、・・あっ、これ私の・・! と声を上げました。昼、食堂に置き忘れてきた帽子が、届けられていたのです。
お大師さんのおかげかしら、・・と、気仙沼さんは言います。だって、どうして私が此所に泊まると分かったの?私は急に誘われて童学寺に参ったから、此所に泊まるのですよ。でも食堂の方は、そんなことは知らないのだから、届ける先は、もっと先の宿だったはずでしょう。なのに此所に届けてくださった。


阿波一宮
夕食時、女将さんに質問。・・ずばり、阿波一宮はどこ?
女将さんは一言主命も斯くやとばかり言下に、・・そりゃ、あそこよ。・・と言って一宮神社の方を指さしました。もちろん阿波一宮の論社が複数あることは、ご存知なのです。それを踏まえて、・・神山の方の鎮守様がの、ここに降りてこられて、・・と、阿波一宮が他のどこでもない、「あそこ」である訳を話してくれました。→(H26春 その5)
旅館の名前「名西(みょうざい)」の謂われは?と尋ねると、・・それはの、昔、ここらは名方(なかた)郡いうとったがな、名西郡、名東郡に分かれ・・と、よくご存知です。


枇杷葉のエキス
写真は、女将さんからいただいた秘薬・枇杷葉のエキスです。筋肉痛、打ち身などにも効果抜群だといいます。
教わった製法は、1.ビワの葉を集める。若い葉は駄目だそうだ。やはり年寄りの方が味があります。2.洗わず、おおざっぱに汚れを取る。3.35度の焼酎に漬けて密封する。20日ほどで写真のような飴色になる。30日おいて、真っ黒になるまで待つ方が、効き目がある。4.葉を取り出す。
みなさま、つくってみて下さい。


北さん作・枇杷葉エキス
後日譚です。翌年の平成21年(2009)1月10日、四人の歩き遍路が埼玉のそば屋に集合。歓談しました。平成19年(2007)1月26日、弥谷寺で偶然出会った同県人の四人が集まったのです。むろん私たちは、(それは偶然ではなく)お大師さんの「お引き合わせ」と考えているのですが。→(H19冬2)
そこでは北さんから、北さん作の枇杷葉エキス(写真)が配られました。女将さんのレシピ通りに作り、20日間、寝かしたものでした。会の終わりの言葉は、・・秘薬を持って遍路に出よう、でした。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
今回はなんとか、更新予定日に間に合わせることが出来ました。次号更新は、4月26日を予定しています。なお内容が、先号での予告と違ってしまいました。申し訳ありません。そのうち、帳尻は合わせるつもりです。

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35番清滝寺から36番青龍寺 横浪スカイライン 須崎 土佐久礼 

2023-03-01 | 四国遍路

 
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  4日目のつづき(平成20年5月17日)

道標
35番清瀧寺を打ち、高岡の街に降りてきました。これより南下。塚地峠を越えて36番青龍寺に向かいます。


旧ふれあい
昼食を「ふれあい」でとりました。前回(平成14年)にも(この時は北さんと一緒に)、入ったところです。安くて美味しいカフェ&ランチを提供するお店でした。因みに日替わり定食は、6年前から値上げなしで、500円でした。
ただ残念なのは、このアルバムをリライトしている令和5年(2023)時点で、このお店はすでに閉鎖されているようなのです。


旧ふれあいの店内
店内は明るく、快適でした。もし足の痛みでトイレが辛い人がいれば、その方には絶対お薦めの、らくらくトイレも備えていたのですが。
なおこの店は、障害者自立支援活動の一環として営業されていたもので、清滝寺さんからも(具体的内容は尋ねませんでしたが)何らかの応援を受けているとのことでした。
むろん店は閉じても、支援活動が終わってしまったわけではないので、できればまた訪ねてみたいと思っています。


波介川
高岡の街中はけっこう道が複雑ですが、南に向かってさえいれば、よほど酷い迷い方をしない限り、高岡を東西に流れる波介川(はげ川)に遮られて止まります。そこから土手を辿れば、塚地峠に向かう県道39号(土佐-伊野線)を探すのは容易です。
そんな安心感もあって、散歩気分で自由気ままに歩いてみました。この写真は、県道39号に架かる弥九郎橋より、二つほど上流の橋から撮ったものです。


波介川(平成27年撮影)
出会った人に、・・きれいな川ですね。・・と川を褒めると、・・うん、だけどもう汚れたよ。・・との応えでした。・・きれいじゃないですか。・・と返すと、・・昔のことを話すと年寄りじみていやだけど、昔はもっときれいじゃったんよ。魚もいっぱいいてね。・・とのことでした。この方は、景色もさりながら、水質がよかったと言いたかったようでした。


波介川と仁淀川
波介川は、仁淀川の右岸に注ぐ「右支川」ですが、今は仁淀川との間に逆流防止の水門が設けられ、仁淀川とは別の水路も確保されています。というのも、かつては仁淀川が増水すると、仁淀川の水位の方が波介川よりも高いため波介川に逆流し、波介川が氾濫していたからです。しかも逆流域は、波介川上流部の地盤が低いため広域にわたり、土佐市中心部は多大な水害を被ってきたといいます。
そのため昭和55年(1980)、逆流防止水門が設けられました。水門が閉じられると波介川の流水は、瀬替えされた別の水路を経て、海に排出されるのだそうです。



波介川を渡ってからも、田圃の中の道を気ままに歩き、楽しみました。


道標
塚地峠(つかぢ峠)への登り口です。
草刈りの跡が見えました。もしかしたら、前回(平成15年/2003)お会いした方たちが、刈って下さったのでしょうか。 →(H15秋1)


坂道
前回は、丁石が土に埋まっていたり、猪が道を掘り起こしていたりしていたものでしたが、今回は、その様子がほとんど見られませんでした。


宇佐大橋
峠を少し下ると宇佐大橋が見えてきます。
なお、もう少し良き景観を得たい場合は、峠からのハイキングコースを歩いてみることをお勧めします。後のことになりますが、私は平成27年(2015)、たまたま峠で出会ったハイキンググループに飛び入り参加させてもらい、茶臼山、大峠展望台などを巡りました。より高い位置からの宇佐湾、高岡の街、さらには石鎚社、戦争遺跡・旧日本軍の監視哨跡などを見ることが出来ます。→(H27春12)


磨崖仏
線刻磨崖仏は、中世期のものと考えられているそうです。
とするなら、この峠道も中世期には存在していたことになります。


拡大
土佐市のHPに、次の様な記述があります。
・・峠を宇佐側に下る途中の大岩に彫られた磨崖仏の形態から、道の歴史は少なくとも中世にさかのぼると考えられており、明治ごろまでは宇佐の港から高岡などへ新鮮なカツオを届ける行商ルートとしてもにぎわっていた。


開通記念碑(平成15年撮影)
峠登り口に建っている「開通記念碑」は、塚地峠の大正-昭和期の様子を知るうえで参考になります。平成15年(2003)に撮った写真ですが、傍に建つ説明碑の全文を記しておきますので、ご覧ください。
・・この碑は私道開通を記念したものである。横瀬山には上に遍路道、下に谷川沿いの藪道の公道しかなく、林業開発の隘路であった。碑文にある三名が私財をなげうって、大正七年、私道をつけて林業の発展に寄与された。トンネル開通によりこの地に記念碑を移して顕彰する。
碑には、私財をなげうった三名の名前と、そのことを証する四名の名前が刻まれています。なお塚地トンネルが開通したのは、平成11年(1999)のことでした。



峠道には何基もの墓が残っています。行き倒れた旅人の墓でしょう。中央の墓には播州、右は備前、左は大坂の文字が見えます。
むろん残っているのは石墓ばかりで、土饅頭などは、もはや痕跡もありません。一体どれくらいの人が、ここに葬られたのでしょうか。


安政津波‥地震の碑
説明板によると、・・安永地震(安永4/1707)と安政地震および津波(安政元/1854)の犠牲者を追善し、被害の教訓を後世に伝えるため、安政5年(1858)、津波の潮先に近いこの地に建立された。・・とのことです。


潮先からの景色
津波の潮先から撮った景色です。海はだいぶ先にあります。
この碑が伝える教訓は活かされ、昭和の南海地震(昭和21年/1946)では、津波による死者は一名にとどめることができたと言います。


宇佐の町
宇佐に入りました。ここでも道に迷うことはありません。分からなくなれば海に出ればいいのです。かならず宇佐大橋が見えるので、進むべき道は分かります。
そんなわけでのんびり歩いていると、おばあさんが、・・家に寄りなさい・・と声をかけてくれました。・・どこの馬の骨ともしれない私ですが・・と遠慮すると、・・お遍路さんに身分も格式もありません。お遍路さんはお遍路さん。さっ、行きましょ・・と言って歩きはじめました。
路地をどんどん奥に入って行くので、・・私は善人とはかぎりませんから・・と話しかけると、・・かまん、かまん・・
とうとう靴を脱いで、上がり込むことになってしまいました。出して下さったお茶は、冷たい水ばかり飲んできたので、何よりのご馳走でした。思い出に残るおばあさんです。
なお、この方、平成27年(2015)に歩いた時、さがしてみましたが、見つかりませんでした。


宇佐大橋
(前述しましたが)釣り人の世界に土足で踏み入るようなことは、私は、いたしません。釣り人の皆が自分の世界に閉じこもっているというのでは、むろん、ありませんが。


宇佐大橋
江戸時代、ここは船で渡ったようです。
「四国遍路道指南」には、次の様な記述があります。
・・○ふくしま浦、此間に入海、渡し有り、舟賃四銭。○いのしり村、此所に荷物を置札所へ行。此間、りう坂。
「四国遍礼名所図会」には、・・宇佐坂(甚だけわしく峠にて休足)、宇佐村(此所ニて支度)。是より浜辺出、猪の尻川(入海也、舟賃四もん宛)、猪之尻村(此所に荷物預ケ行)、竜坂(峠より海辺津呂御崎見ゆる)。・・とあります。
なお「道指南」が記す「舟賃四銭」は「四文銭」を意味し、すなわち「名所図会」が記す舟賃「四文」に同じと思われます。因みに真田家の旗印「六文銭」(寛永通宝の六枚並び)は、三途の川の渡し賃(六文)を表しています。


大橋の歩道
浦戸湾とは違ってここにはフェリーはありませんから、いやでも大橋は渡らなければなりません。
歩いて渡る人や自転車で渡る人のため、歩道の幅は広くとっています。また車道との間には、仕切りもあります。うれしいことです。ただ難点は、(高いところが恐い人なら分かっていただけるのですが)海側の手すりがやや低めで、しかも外に向かって開いている点です。


竜ヶ浜
竜ケ浜です。(前述の)竜坂に由来する名前なのでしょう。
車遍路の若いカップルが波と戯れていました。


蟹ヶ池
蟹ヶ池は、(私は見たことがありませんが)ベッコウトンボの生息地として知られているそうです。ただ残念なことに、現在、その生息は確認できないとのこと。
またこの池は、高知大学の研究チームが津波による堆積層を調査したことでも知られています。私はこのことを平成23年(2011)になって知りました。
  蟹ヶ池にハスが生えると、もうすぐ南海地震がやってくる。
これは、チームのリーダー・岡村眞さんが発した警句です。過去の津波の堆積層には、いずれにも大量のハスが含まれているのだそうです。つまり過去において、津波はハスとともにやって来た、ということになります。ここを歩かれる方、ハスに注目してみてください。



直線の道には無駄がありません。しかし無駄がない道には、魅力もありません。
私はこんな、緩やかな曲線の道が好きです。


3年後の同地点
この写真は、上掲写真撮影の3年後、平成23年(2011)の同地点を、天恢さんが撮ったものです。コメントとは別に、メールに添付して送ってくれました。コメントにあるとおり、「少し小ぎれいに」整備が進んでいる様子がうかがわれます。
メールには実はもう一枚、「すっかり様変わりした」現在の道の様子を写したものが添付されているのですが、それはGoogleのスクリーンショットなので、残念ながらここには掲載できません。これを見て天恢さんは、「トラクターが入れるように畦道が改良されていて、昔日の田園の佇まいは無残に消えていました」と記しておられます。「整備」が「昔日の佇まい」を壊してしまったようです。


36番青龍寺
68代横綱は、四股名を「あさしょうりゅう・あきのり」といいます。「あさ」は師匠・高砂親方の現役時代の四股名・第4代朝潮太郎(安芸郡出身)からいただいた「朝」でしょう。高砂部屋の力士に多く使われている字です。「しょうりゅう」は、言うまでもなく青龍寺からいただいた「青龍」です。朝青龍は高校時代、青龍寺のこの階段で足腰を鍛えたと言われます。そして「あきのり」は、出身高校である明徳高校からいただいた「明徳」を、「あきのり」と読ませています。
朝青龍は、その「ふてぶてしさ」からバッシングを受けることの多かった力士ですが、実はとても義理堅く、恩を忘れない人なのかも知れません。


三重塔
平成4年(1992)の建立だそうです。朱色が鮮やかでした。


不動明王
ご本尊は、空海御作と伝わる波切不動明王です。
空海は師・恵果からいただいた霊木・赤栴檀から不動明王を彫り出し、唐からの帰途の船首に立てたといいます。「波切」の名は、不動明王が行く手の波を切り鎮め、日本への海路を拓いたことに由来するとのことです。うれしく頼もしい御名です。


山門
扁額にある山号「独鈷山」は、空海が唐から投げ、当地に落ちたという独鈷杵からくる山号とのことです。
寺号の青龍寺は、 大師が真言の秘法を授かった長安の青龍寺に因んでつけられたといいます。


西安青龍寺の空海記念碑
平成18年(2006)、中国を旅行したときに撮ったものです。
四国の4県が共同で寄贈したものだと言います。


ドミトリー
16:30 納経をすませ、山上の国民宿舎土佐にやってきました。個室を希望したのですが満室で、取れたのは、二段ベッドで8人部屋のドミトリー室でした。ただし、この夜は3人で寝ます。
夕食は、種崎フェリーで知り合った歩きの人、高知屋で知り合った歩きの人、今夜同室の車の人、そして私の四人で食べました。あまりのビールのうまさに、つい、この一口のために歩いているようなものだ、と言ってしまった後、不謹慎かな、と付け加えたら、どなたかが、・・それは間違いなく、一つの真実ですよ。・・すべてではないけれどね。・・とまとめて下さり、全員がそれに賛同。私は事なきを得て、楽しい食事がつづきました。


小夏
これは高知では「小夏」と呼ばれる柑橘です。その名の通り、初夏、出回って、夏の訪れを告げます。
大きさは温州蜜柑よりやや大さいくらいでしょうか。リンゴのように包丁で皮をむいて食べます。房をつつむ皮は薄くて、呑み込んでもいいのだそうです。私が常時携帯の十徳ナイフで皮をむき、同室の人たちと食べました。
今日の歩きは30K余り。消灯22:00

  5日目(平成20年5月18日)


朝食を終え、奥の院へ参りました。国民宿舎からすこし登った、海を望む崖上にあります。
参拝後は横浪スカイラインを歩くつもりなので、荷物は持って出ました。


奥の院へ
参道です。


素足で
鳥居より先は素足で進むよう書かれています。
靴下も脱いで、先に進みました。


奥の院
不動堂です。青龍寺とその奥の院については、→(H27春12) →(H15秋1)をご覧ください。


横浪スカイライン
横浪スカイラインです。浦ノ内湾沿いのコースと合流するまで、およそ14Kの道のりです。
ご覧のように車の人向けの道ですが、左の太平洋、右の浦ノ内湾を眺めたく、歩いてみることにしました。


太平洋側
左側に見える外海の景色です。


浦ノ内湾側
右側に見える浦ノ内湾の景色です。なお青龍寺から須崎へのルートには、横浪スカイラインと、(前に北さんと歩いた)浦ノ内湾沿いの道を歩いて仏坂を行くルートの他、浦ノ内湾を巡航船でゆくルートがあります。船のルートは、お大師さんも船で往かれたと伝わり、「正式の」遍路道と見做されています。


明徳義塾高校本校
歩いていると、何台ものスクールバスに出会いました。生徒達を宇佐の「竜国際キャンパス」に送るバスです。


よさこい鳴子踊り
文字は「よさこい鳴子踊り」の一節です。
 ♫ ヨッチョレヨ ヨッチョレヨ(繰り返し)
 ♫ 高知の城下へ来てみいや(ソレ)じんまも ばんばも よう踊る 
   鳴子両手に よう踊る よう踊る
 ♫ 土佐のー(ヨイヤサノ サノ サノ)高知の はりまや橋で(ヨイヤサノ サノ サノ)ぼんさん・・
明徳義塾中等学校美術部制作協力、とあります。スポーツで知られる学校ですが、文化活動も活発です。


太平洋側
池の浦という集落です。ここには、みっちゃん 旭旅館という宿があります。
この集落に車道が通ったのはいつ頃でしょうか。それまでは船で行く他はなかったと思います。


武市半平太増
この像は、ドライブインの駐車場奥に建っています。ただしドライブインの営業は停止されていました。


土佐勤王党
土佐勤王党結盟者と同志人名(署名盟約順)・・で始まり、土佐勤王党の同志として天誅組、野根山義挙等に身命を賭して活躍した人々のかずは数百名に上る・・と締めくくられています。


浦ノ内湾側
浦ノ内須ノ浦の辺りかと思われます。とすると、対岸は遍路道が仏坂に入る、横浪の辺りでしょうか。



横浪スカイラインは、国民宿舎を出てしばらくは緩い坂のアップダウンでしたが、やがて緩やかな長い下りに転じます。写真はふり返って撮ったものですが、奧に向かってわずかに上っているのがお分かりかと思います。
歩いているお二人は、逆打ちで回っておられます。この年は閏年で、逆打ちの方がいつもより多く見られました。


白線  
当時のメモです。
・・舗装が荒れてきている。(だから道路特定財源が必要とは言わないが)長く歩くと足裏が痛んでくる。・・この年(平成20年)、道路特定財源制度が問題になっていたのです。(よく21年廃止されました)。
メモはつづいて、・・宇和島と津島町間の旧国道で出会った犬に倣うことにする。あの犬はラインの上を歩いていた。塗料の分、足裏が痛まないのだ。 →(H16春3)


ワンチャン
これがそのワンチャンです。ラインの上を歩いています。肉球が痛まないのです。この辺に居着いたノラの智恵です。


コーヒータイム
国民宿舎の方が、・・コーヒーの店が11:00頃でしょう・・と話されたとおり、ピタリ、11:04着でした。
車道で景色の他に見るべきところがなかったからでしょうが、右往左往しなければ、けっこう私も標準的な歩きをしているようです。


標識
鳴無神社(おとなし神社)の標識です。
土佐に流された一言主命は、まず鳴無神社の地に鎮座されました。その後、大岩を蹴っ飛ばして落ちた先、土佐神社の地に遷られたとされています。なにかを蹴っ飛ばしたり投げたりして次なる地を決める譚は、たくさん伝わっています。空海が独鈷杵を投げた譚も、その一つです。


鳴無神社の赤鳥居
鳴無神社の赤鳥居です。「土佐の宮島」と呼ばれているのは、この景色の故でしょうか。
かつては年に一度、鳴無神社の秋の例大祭には、一言主命が土佐神社から里帰りしていたのだそうです。大漁旗をはためかせた渡御の船列が、浦ノ内湾を巡りました。この景色、どれほど土地の人たちの心を、ときめかせたでしょうか。


アサリ採り
アサリを採っている人たちです。採れますかと尋ねると、「おらん」と応えてくれました。


最湾奥から
浦ノ内湾奧にお住まいの女性からお接待をいただきました。お宅の縁側に坐らせてもらい、文旦やら飴湯やらをいただいたのでした。去り際には、余った文旦にポカリを加え、持たせてくれました。
ふと気づいて、・・もしかして辰濃和男さんの・・と尋ねると、・・はい、私のことを「四国遍路」に書いておられます、・・と恥ずかしそうに、しかしやや誇らしげに、話してくださいました。(後述)


藁にお
地方によって呼び名や積み上げ方が異なるようですが、「藁にお」です。近頃ではほとんど見られなくなりました。
稲を刈って脱穀した後の藁は、かつては蓑、草履、箒など生活用品の材料として、また家畜の飼料や畑の「敷きワラ」、燃料などとしても使われていました。
今では刈り入れ時にコンバインで粉砕されてしまうので、家庭菜園をやっている人などは、敷きワラをホームセンターなどで買っているようです。カツオのタタキを段ボールで燻している話も、聞いたことがあります。


鯉のぼり
この遍路では、各地で鯉のぼりを目にしました。もう都会では見られない、♫ 屋根より高い鯉のぼり・・を見ることが出来ました。


交通標識
県道23号(須崎仁ノ線)を左折し、須崎に向かいます。右折し宇佐に向かう道は、浦ノ内湾沿いを走るワインディング‥ロードです。宇佐よりも先(東)は、黒潮ラインとも呼ばれています。


鳥坂トンネル
昭和43年(1968)竣工のトンネルです。歩道は、ほとんどありません。


塵捨な紙神
「ごみ捨てなし神」と読むのでしょうか。車で来て大量の塵を捨ててゆく不埒者がいて、手を焼いていたのでしょう。
神域に塵を捨ててゆくバチ当たりは、まさかいるはずがない、・・そう信頼したかったにちがいありません。


富山さん
前を行くのは富山さんです。国民宿舎土佐から相前後しながら歩いてきた方で、浦ノ内湾奧の女性から一緒にお接待を受けた方でもあります。左手のビニール袋は、お接待の文旦やポカリが入った袋です。私も同じものを下げていました。


案内
まだ40キロほども先のことで実感が湧かないのですが、「岩本寺」の表示があります。
・・安全を二人で運ぶへんろ道・・と書かれているタンクのようなものは、なにに使っていたものでしょう。水槽?海に浮かべるブイ?なにかを廃物利用したものだと思いますが、わかりません。


雨を呼ぶ景色
雨が似合う景色だなあ、そんなことを思いながら写真を撮って、ふと降りてきた峠の方を見ると、いかにも凶悪そうな黒雲がみえました。
天気予報では降らないはずだったのですが、これは確実に降られると判断。この先にあるはずの、第17号須崎へんろ小屋へ急ぐことにしました。


須崎へんろ小屋
ここで雨具を着用。ふたたび歩きはじめました。
後で聞いたところでは、富山さんは、ここで雨宿りしたのだそうでした。小降りになってから傘を差して歩いたので、雨具を濡らさないですみました、とのこと。なるほど、その方が賢明でした。


激しい雨
短時間でしたが、激しい雨でした。序がなく、いきなり破-急といった降り方だったので、ポンチョを着ておいたのは正解でした。もっとも、冨山さんは、その上をゆく大正解でしたが。


住友大阪セメント
14:00頃、住友大阪セメントのプラントが見えてきました。須崎港に面した大臨海工場です。


徐行のよびかけ
前掲の岩本寺の案内といい、この道は「お遍路さん」への心遣いが感じられる道です。



写真の奧に密蜂の巣箱が並んでいます。


押岡橋
押岡橋です。鳥坂トンネルを出た辺りから左側に見えてきた、押岡川に架かっています。
カラフルな案内に従ってこの橋を渡り、今度は押岡川左岸を歩きます。


合流点
二本の川が須崎港に流れ着きました。右が、前述の押岡川で、左は、岩不動のある山から流れ下ってきた、桜川です。岩不動に参拝した遍路はこの川沿いに下ってくるので、つまりここは、二本の遍路道の合流点でもあるわけです。


大峰橋
押岡川と桜川の合流部に架かる、大峰橋です。
渡って左折します。


工場
大間水門の辺りから、住友セメント方向をふり返った写真です。


土讃線
すぐ土讃線を渡ります。 写真奧が窪川方向です。


大善寺へ
県道388号から左方向へ入ります。


スタンド
このガソリンスタンが目印でした。


歩行者専用トンネル
昭和62年(1987)開通とのことです。うれしい限りです。


内部
明るくきれいです。


お大師通り
別格5番大善寺の下の通りは「お大師通り」といいます。
お年寄りに、・・昔からの呼び名なんですか・・と尋ねると、「子供の頃から、こう呼んでいる。私は80ナン才だから、80ナン年は、こう呼んでいる」との答でした。


本堂
別格霊場5番大善寺は、弘法大師をご本尊としています。須崎高野山、二つ石大師の別称をもつお寺です。→(H15秋1)


大善寺前
大善寺の前に古い瓦屋根の家がありました。写真は、昔からの遍路宿、柳屋さんの屋根です。(後述)


住宅
ところが上にあがって眺めると、この界隈、新しい家が立ち並んでいます。


海方向
大善寺から見た海方向の景色です。


新荘川橋
新荘川に架かる新荘川橋です。この川は、ニホンカワウソが最後に確認された川として知られているのだそうです。
今日は、この川の向こう岸の「民宿ひかり」に泊まります。前回もお世話になった宿です。


民宿ひかり
17:00前、宿着。国民宿舎で会った二人が先着していました。
夕食は、・・まずはビールですよね・・で始まりました。すっかり気心が知れてしまいました。なにを話したかは、もう忘れてしまいましたが、この人達とこの先も歩けば、きっと楽しかったにちがいありません。
ただ、私は、明日には帰らなければなりません。(出来れば峠道を行きたかったのですが)焼坂トンネルを抜けて土佐久礼まで歩き、土讃線土佐久礼駅から帰途につきます。土佐久礼まで行くのは、大正市場を訪ねたいからです。

  6日目(平成20年5月19日)

空模様
天気予報は、曇のち雨風が強くなることを告げています。台風4号の影響が出てくるのです。これからも歩きつづける方々には申し訳ない言い様ですが、私はいいタイミングで帰宅することになります。


角谷トンネル
昭和42年(1967)開通。やはり歩道はありません。この先トンネルがつづきますが、いずれも同時期の歩道がないトンネルです。


久保宇津トンネル
角谷トンネルと同じ、昭和42年(1967)の開通です。


枇杷
枇杷の袋掛けです。見る者にはきれいですが、大変な仕事だと思います。



前途多難を思わせる景色です。このような地形が、連続する峠越え、ひいてはトンネルを生み出すのでしょう。


線路
土讃線を下に見て、峠を越えます。


通学
元気です。この程度では立ちこぎもしません。息も切れていないのでしょう、挨拶してくれました。


安和トンネル
昭和42年(1967)竣工。一連のトンネルの一つです。


安和駅
柳家旅館の看板がみえます。
柳家旅館は、令和2年(2020)に改築。「一棟貸しの宿と民芸品店 柳屋」として再出発しています。


焼坂トンネルへ
1キロ近いトンネルに入ってゆきます。右は野宿の方、左は冨山さん。黙々と進んでいます。


焼坂トンネル
焼坂トンネルは昭和44年(1969)の竣工です。1K近くあり、一連のトンネル中で一番の長さです。竣工も他より2年遅れています。
中で、左足の小指が痛くなりました。恐いので歩き方が不自然だったのかもしれません。もちろん、こんなところで手当は出来ませんから、歩きつづけました。


焼坂休憩所
休憩所で靴を開いてみたら、小指の爪のそばが、酷く擦れていました。
トンネルを出てすぐに手当てしておけばよかったと、後悔しました。我慢して歩くほかありません。


中土佐町
久礼を中心とする中土佐町の看板です。青柳裕介さんのマンガ「土佐の一本釣り」に登場する純平と八千代が描かれています。
なおこの時点で、青柳さんはすでに亡くなって(平成13年/2001没)いますが、作品は生き続けています。


青柳裕介像(平成27年撮影)
久礼八幡さんの海岸に、没後2年の平成15年(2003)、青柳裕介像が建立されました。久礼の人たちが青柳さんへの感謝の気持ちを表したものです。なお青柳さんは野市の産で、久礼ではありません。


そえみみず遍路道 工事計画
この計画については、→(H20春 拾い遍路①)ですこしふれました。


飛び出し注意
文字で書くより注意を引くかもしれません。


土佐久礼のへんろ小屋
案の定、雨がパラついてきました。小屋に立ち寄ると、四元奈生美さんの写真が貼ってありました。
この年、四元さんの遍路旅がテレビ放送されて人気を呼び、それは後に「四国遍路に 行ってきマッシュ」という本にもなりました。
あとで調べると、彼女は私が立ち寄る1日前に、ここを通過したようでした。


通行止めの告知
そえみみず遍路道は、この頃、通行止めでした。


分岐
右が「そえみみず道」。直進が、土佐久礼の街を経て、「大坂越え」の道です。
私は直進し、土佐久礼の街に立ち寄ります。


かつお
中土佐は、マンホールもカツオです。


かつお
鰹の国、とあります。


土佐の一本釣り
こちらも土佐の一本釣りの純平くんです。



土佐久礼の街を抜けて、大正市場に向かいました。


看板
大正市場周辺の景色です。


大正市場
やって来ました。


IMG_7285_14_1.JPG
新装なった市場です。前回来たときは、ちょうど改築中だったのでしたが。
着いたのが9:30頃。店はまだ、ほとんどが準備中でした。市場とはいえ、ここでセリが行われるわけではありません。



それでも新鮮な魚が並んでいました。


土佐久礼駅
昼前の電車で高知駅に向かいました。


新・高知駅
この年(平成20年/2008)2月に営業を開始した、新・高知駅です。愛称は「くじらドーム」。
往路、私は空港から後免駅へタクシー利用したので、新駅舎を見るのは、これが初めてでした。


新・高知駅
新・高知駅の概観です。
駅前の工事はまだ終わっていません。この辺に三志士像(武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎)が建つのは、これより3年後の、平成23年(2011)7月のことです。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
さて、今号をもって、・・
 「平成20年春 拾い遍路」のシリーズが終わりとなります。
  室戸岬の唐浜から土佐久礼までのアルバムでした、
次なるシリーズは、・・
 「平成20年初夏 拾い遍路」です。
  室戸岬の佐喜浜から土佐久礼の手前、須崎までのアルバムとなります。
高知から帰った1ヶ月ちょっと後に、また高知を、それも大半が重複した区間を歩いた、その事情は、こうです。
今回の遍路の報告を北さんにしました。すると北さんが・・その道、俺も歩く・・と言い出したのです。それも来月にも行く、とのことです。そうなれば、私も行きたいではありませんか。北さんとの遍路はしばらく途絶えていたことだし。
というわけで次号からは、「平成20年初夏 拾い遍路」をご覧いただこうと思います。更新は3月29日予定です。

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コメント (2)
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30番善楽寺から 31番竹林寺 32番禅師峰寺 33番雪蹊寺 34番種間寺 35番清滝寺

2023-01-25 | 四国遍路
  
 
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 3日目のつづき(平成20年5月16日)

地図
高知平野(狭義)の航空写真です。国土地理院のHPからいただきました。
「高知」は元は「河内」と書いたといいますが、文字通り、川が何本も流れています。かつて、ここが低湿の土地であったことが、よくわかります。
写真上部から順に説明してゆきます。
 は、おおまかに善楽寺・土佐神社が在る所です。
 は、土佐神社の御旅所が在る所。「協力会地図」では、33ページの「黒住教」と記載がある辺りになります。高知市教育委員会編のHP「竹林寺道・禅師峰寺道(五台山)」によると、江戸時代、ここからの「絶海(たるみ)の渡」まで南下する、船便があったといいます。絶海の渡からの竹林寺へ登る道は、二本あったようです。四国遍礼霊場記の五台山図にある「城下吸江(きゅうこう)道」がこれら2本のいずれかを指すのか、あるいは両方を含めた呼び名なのかは、わかりません。吸江は、吸江寺が在ることから来た地名です。→(H27春10)


地図
 は、山田番所が在った所です。真念さんは四国遍路道指南に、次の様に記しています。・・○かうち城下町入口に橋あり、山田橋といふ。次番所有、往来手形改。・・町はづれをミつがしら(三ツ頭)といふ。これよりつヽミ、ひだりは田也。右は入うミ、行てたるミの渡。次に吸古寺、禅宗風景、ぼんのくもをはらふ。かたはら町、これより五台へ八丁、さか。・・
 は、三ツ頭番所。四国遍礼名所図会には、・・町はなれて番町有(まへにて小腰かがめ笠をとる)・・と記されています。怪しいものじゃございませんと、顔を見せて通過するさまが、目に浮かびます。なお城下に入る山田番所では、改めはもうすこし厳しく、・・橋渡り、町入口番所(是迄の日すを改ル)・・とあります。土佐入国以来の日数が不相応に多いと、「隠密働き」などを疑われたのです。遍路に許された通行は、基本的に遍路道のみでした。
 は、(前述しましたが)絶海ノ渡です。城下との間に青柳橋が架かったのは明治に入ってからでした。
 の竹林寺がある五台山は、かつては浦戸湾に浮かぶ「島」だったのだそうです。「大島」と称したといいます。絶海池に架かる橋を今も「大島橋」と呼んでいるのは、島の時代の名残でしょう。五台山の北に絶海池、南に下田川、東に介良川が流れているのも、かつては五台山が島であったことの痕跡と考えられます。下田川の河口は、今は五台山の西寄りにありますが、かつては大島の東方にあったでしょう。その頃、介良川はまだ存在していませんでした。川の堆積運動や近世以降の急速な埋め立てによって、やがて介良川が姿を現し、下田川は河口を西へと移してきました。


かつての大島・五台山
すでにお気づきのように善楽寺から竹林寺へのルートは、「四国遍路道指南」も「四国遍礼名所図会」も、善楽寺から最短距離を南下する道ではなく、西を大きく迂回して城下を抜ける道を紹介しています。なぜでしょうか。城下を見物したい遍路達の気持ちを忖度したからでしょうか。
それもあると思いますが、やはり南下する道の歩きづらさが、より大きな理由だったと思われます。
国分川流域に湿地帯があり、それを元親が岡豊城の護りに利用したことは、前号で記しました。五台山周辺にも、(もう島ではなくなったとはいえ)まだ多くの湿地が残っていたことは、想像に難くありません。加えて、国分川や舟入川に架橋はありませんでした。船で渡らねばならなかったのです。それに反して城下を経る道は、久万川にも江ノ口川にも橋が架かり、湿地もほとんど姿を消していたにちがいありません。距離は短いが難儀な道よりも、長くても歩きやすい道を勧めたのだと思います。


竹林寺から禅師峰寺道
以上、本来なら前号に記すべき内容ですが、善楽寺から竹林寺までの道についての補足でした。前述の「竹林寺道・禅師峰寺道(五台山)」を拝読したことで思い立ち、補足することにしました。
さて、いよいよ竹林寺を下山します。写真は、竹林寺からの降り口、禅師峰寺道の始まり部分です。この道と竹林寺への西からの登り道は、令和3年、国の史跡に指定されています。


五重塔
急ぐ遍路は損をする。山下りはついつい急いでしまいがちですが、時にはふり返りみる余裕も持ちたいものです。五重塔がきれいに見えています。


下田川
竹林寺を発った後の行程を、「四国遍路道指南」は次の様に記しています。
・・これよりぜんじぶじへ一里半。ぐだいより八丁下江川有、舟わたし、つヽミ(堤)を行。○下田村、此間さか有。・・
五台山を下ると「江川」がある、と記しています。現在、五台山小学校がある坂本の辺りでは、下田川はまだ「川」の体をなしておらず、「江川」(川が入り江と連なっている所)だったのでしょう。此所から渡し船に乗って江川を渡り、対岸の堤を下田川上流方向へ進んだようです。坂本に船着き場があったことは、前述の「竹林寺道・禅師峰寺道(五台山)」にも記されています。


地図(国土地理院)
今度は「四国遍路道指南」よりも110余年後に出版された、「四国遍礼名所図会」(寛政12年/1800)から引いてみます。「道指南」とは異なるところが、一点あります。
・・江川、茶屋支度。川ばた(川端)行、江川(船渡し二文宛)又川ばた行、此辺ニはぜノ木多し。右へ下る、下田村、下田坂・・とあります。
こちらでは、江川まで降りてきて、の辺りに在った茶屋で支度し、(次が異なるのですが)江川の川端(左岸)を上流方向へ歩いた、と書いています。その後、おそらく現在「へんろ橋」が架かっている手前、の辺りで舟に乗り、江川を渡ったのでしょう。「船」を「へんろ橋」に置き換えれば、現代とほとんど同じルートです。
おそらくこの違いは、五台山南麓における干拓の進捗が、100年前と後では、大きく異なっていたことから生じたと思われます。


下田川とへんろ橋 
の「へんろ橋」の辺(和泉地区)に渡し船が在ったらしいことは、同地区の民家の前に横倒しになっているという道標(元禄7年/1694)側面の記述・・右へん路ミち/舩わたし/是よりせんしふしへ一リ・・からも推定できることです。(HP「四国遍路道の道標・丁石」に拠る。なお正面の記述については、後述します)。
写真は、坂本へ下山の途中に撮った下田川です。見えている橋がへんろ橋で、この手前辺りに、かつて渡船場が在ったようです。


五台山小学校(平成27年撮影)
五台山小学校がある坂本地区です。青い橋は、「もものき橋」(百々軒橋)と呼ぶようです。「もものき橋」の初代は幕末頃に架橋され、これを渡って禅師峰寺へ向かう遍路も多かったといいます。
その名称は、かつて坂本に在った「もものき茶屋」(桃木茶屋)から来ていると思われます。楊梅(やまもも)が咲く茶屋で、藩主も参詣の折には、休息したとのことです。この辺には他にも茶屋が数軒あったとのことで、「名所図会」(前述)に出てくる・・茶屋支度・・の茶屋も、このうちの一軒かもしれません。
なお、山上に小さく、竹林寺の五重塔が見えています。


鉢伏山から撮った下田川(平成27年撮影)
さて、前述した道標(元禄7年)の、正面の文字についてです。HP「四国遍路道の道標・丁石」によると、正面には、
  好月妙善信女為菩提/元禄七甲戊天 此はし施主 村上一雲/
と刻まれているそうです。
問題は、・・此はし 施主 村上一雲・・の部分です。おそらく誰もが最初に思いつく解釈は、・・この橋 施主 村上一雲・・でしょう。しかし、思いつくと同時に、ここに橋が架かっているのは不自然だ、とも考えはじめます。橋を架けたことを告知する、その同じ道標に、「渡し船」の案内が刻まれているというのは、やはり不自然なのです。それに前述しましたが、110年後の「名所図会」でも、ここでの渡河は橋ではなく、渡し船だと書いているのです。


下田川の廃船
では「此はし」は何でしょうか。私はとりあえずは、「この階(はし)」と考えてみることにしています。
・・堤防と船着き場の間を上り下りする階段は、好月妙善信女の菩提を弔うため、村上一雲が施主となって造ったものである、・・と解してみるのです。「階(はし)」をそのように解してよいものかどうか、自信はありませんが、諸賢のご意見をいただきたく、あえて記してみました。
追記:枯雑草さんがご自分のブログ「四国遍路の旅記録」平成24年秋 その4に、令和5年2月付の「追記」を入れてくださいました。たぶん、この記事をご覧になったうえでの挿入と思われます。
・・(前略)この標石の表の刻文「・・此はし施主」の「はし」を「橋」と読めば、別面の「・・舩わたし・・」と矛盾するように思えます。でも、標石の再発見者である小松勝記氏は、「元禄7年に橋が架かった」と読んでいるのです。そして別資料を引いて、この辺りより禅師峯寺の上り口芦ケ谷までの廿丁を舩に乗った人がいたことも紹介しています。(後略)・・
とすると、「此はし」の「はし」は、断然「橋」である可能性が高くなります。枯雑草さん、ありがとうございました。


鉢伏山(平成27年撮影)
写真は、鉢伏山(213㍍・南国市介良)です。禅師峰寺の奥の院・薬師寺→(H27春10)があるお山ですが、江戸時代から昭和20年(1945)の敗戦直後まで、その南麓で石灰が採掘されていたことでも知られています。採掘場所を南嶺とした理由は、上掲写真でもおわかりのように、南嶺を下田川が流れていたからです。
下田川には、重量運搬船の通行を可能とする充分な流量が流れていました。下田川は野中兼山の工事になる灌漑水路の排水路ともなっており、これらから大量の水が流れ込んでいたのです。


粗大ゴミ
この頃の遍路では、粗大ゴミの放棄がよく見られたものでした。


武市半平太生家
上掲地図のように県道247号を南下すると、途中、武市半平太の生家があります。その一隅には、簡単な史料展示がありました。(今は立派な史料館ができています)。建物の右隣は代々の墓地です。 →(H19春3)


水分  
「水分」の読み方には、すいぶん、みずわけ、みくまり、みなわけ、・・いろいろありますが、このバス停は「みずわけ」なのだそうです。後年、平成27年になって、天恢さんから教わりました。わざわざ「とさ電交通」のHPを調べて、教えてくれたのでした。→(H27春11)


石土トンネル
上掲交通標識にしたがい左方向に進むと、石土(いわつち)トンネルという、短いトンネルがあります。真念さんは「道指南」に、・・○下田村、此間さか有。○十市村、是よりすこし坂。・・と書いていますが、この「すこし坂」を貫いたのが、石土トンネルかもしれません。
このトンネルは、現在、高知市と南国市の市境になっています。つい勘違いしてしまいますが、十市は南国市の地名で、禅師峰寺も、南国市に在るお寺です。
なお「石土」の名は、竜穴伝説をもつ近くの石土神社→(H27春11)から来ています。トンネルを抜けた先にある「石土池」も同様です。ただし、石土池を「いしづち池」と言ったり「十市の池」と呼んだりする土地の方もいらっしゃいましたので、定まった呼び名はないのかもしれません。


石土池あるいは十市の池
休憩していると野宿遍路に出会いました。朝、竹林寺を出たといいます。20キロはありそうな荷物を背負っているので進みは遅いのでしょうが、それにしても遅いと思われたので訊くと、足を痛めているのだそうでした。膝の痛みはとれたが、今度はくるぶしが痛み始めたとのこと。
特に歩き始めが痛いんですよね、との話には、思わず、分かる分かる、よく分かる、と反応していました。おもいきって大休止をとるのも必要だよ、と話したのでしたが。


禅師峰寺の山
32番禅師峰寺のご本尊は十一面観世音菩薩で、「船魂(ふなだま)観音」とも呼ばれているそうです。「船魂さま」は船を守る神様で、たいていはどの船にも新造された段階で祀られます。禅師峰寺の十一面観音さまは、それら各船の船魂さまを象徴する、大いなる船魂さまとして、船人達から信仰されているのでしょう。
禅師峰寺のお山は、地乗りで航行する船人達の、「目当て山」でした。現在位置を教えてくれる山であり、帰り着くべき方途を教えてくれる山でした。そんな有り難いお山の観音さまを、船人達は篤く信仰したのでしょう。


大島石
平成17年(2005)のことです。旧伊予三島市寒川でお世話になった石屋さんが、・・庵治石はもう駄目だな、行けばわかる。もうノーなっとるんよ。・・と話すので、・・じゃあ、よい石はもう日本にはないですか。・・と尋ねると、・・これからは大島石じゃ、これは、ええ。・・と話していました。確かにいい石のようです。
しかし、それにしてもなぜ高知で、なのでしょう。大島は、愛媛県今治市の島で、しまなみ海道を今治から発てば、最初の島が大島です。村上三島水軍の一、能島水軍の根拠地でもありました。 


32番札所禅師峰寺山門
石土池を前にした食堂で昼食をとりました。暑さのため水分をとりすぎたからでしょうか、食欲はなかったのですが、ともかく食べました。・・栄養は摂れるときに摂りませんと・・と言って、お接待のミカンをいくつも食べた野宿遍路のことが思い出されました。平成14年(2002)、北さんと歩いた時、山上で出会った若者の台詞です。
登り口では、今回もヒョウタンを買いたかったのですが、もう店がありませんでした。山道ではヤブ蚊に悩まされました。刺されないよう、顔や手をこすりながら歩かねばなりませんでした。息継ぎにちょっと立ち止まろうものなら、たちまちブンブン舞い始めます。不殺生のお山のヤブ蚊どもは、怖れを知りません。
とまれ、山門に着きました。


景色
ところが、申し訳ございません。山門に着いてからの1時間ほどについては、この一枚の写真と一行のメモ書きの他は、記憶も含めて何も残っておらず、アルバム化する術がありません。
メモ書きとは、・・1時間ほど、写真もメモもとらず歩いてみる。・・というものです。おそらくそのココロは、・・景色は目に焼き付けておけばいい。思考は脳裏に刻めばいい。大半は忘れるだろうが、かまわない。大切なものは残る。・・と、まあ、こんなところでした。

結果は、すでにお察しのように、大失敗でした。着眼は悪くなかったし、今も悪くはないと思っていますが、我が身の丈には合わない試みだったのでしょう。「大切なもの」が一つも視えないままに終わってしまいました。
たった一枚撮っているこの写真さえ、何を撮ろうとしたのか、今ではまったくわからなくなっています。ズームを目一杯効かせているので、何か「大切なもの」を撮りたかったのでしょうけれど、・・。
そんなわけで、禅師峰寺については→(H14冬2)をご覧いただきたいと思います。


くじら? 
この写真は、1時間の試し歩きの後、最初に撮ったものです。メモには、クジラの模型で、何かの宣伝に使っていたらしい、と記しています。
「大切なもの探し」を試みた直後だというのに、なんという「どうでもいいこと」への関心の向きようでしょうか。お恥ずかしい次第ですが、よろしければ御寛恕あって、これが「楽しく遍路」の「楽しく」たる由縁とお考えくだされば幸いです。


桂浜方向
今歩いているこの道は、北さんと歩いた前回の道とは別の、県道14号・春野-赤岡線です。海寄りの道で、浦戸大橋→桂浜花街道を経て、仁淀川河口に至ります。
むろん浦戸大橋を渡るつもりは、まったくありません。桂浜に立ち寄りたい気持ちは大いにありますが、恐いものを見た後は、早々に種崎渡船場へ向かうつもりです。


釣り
投げ釣りです。狙いはカレイでしょうか、キスでしょうか。尋ねてみたかったけれど、やめました。
いつでしたか釣り好きの友人に「退屈しないのか?」と尋ねたら、「するはずがない!」と叱られました。釣り糸を垂れている間、俺はズーット、海の底を視ているんだよ。心眼だよ、心の眼で視てるんだ!退屈する暇なんてあるか!なのだそうでした。
以来、私は釣り人には、うっかり話しかけないよう用心しています。


ビニルハウス
県道14号沿線では、野菜の「施設園芸」が盛んです。
ビニールハウスが建ち並んでいます。中には、骨組みが木材のハウスもあります。ハウス初期のものでしょうか。



前号で記したフラフは、もうこの辺では見られません。


標識  
高知新港は、平成14年(2002)、一部供用が開始され、平成26年(2014)、コンテナ船、バルク船(ばら積み船)、クルーズ客船の寄港を期待し、本格供用開始されました。私が歩いた平成20年(2008)は、まだ一部供用の時期でした。
今はコロナ禍でもあり、苦戦がつづいているようです。そんな中、「工事が目的の事業」ではなかったか、との批判も出始めているとのこと。頑張ってほしいものです。


浦戸大橋
恐いもの見たさで危うきに近づいてしまったのは、やはり君子ではないからでしょう。見た後は、早々に渡船場に向かいました。


種崎の渡船場
「四国遍礼名所図会」に次の様な記述があります。
・・是(禅師峰寺)より山を下る。此所より種崎迄一里の間海辺砂道也。種崎町、是より御船家多し。札の辻より右へ行古座町、是より渡場へ出る。浦戸(此所城下迄三里の入海也。船渡し三もん宛、景色よし)・・
「名所図会」(寛政12年/1800刊)の頃、渡し賃は三文だったようです。これは高いのでしょうか、安いのでしょうか。三文判、三文文士、三文(虎の巻、あんちょこ)などの使い方から察するに、きっと安いのでしょう。


フェリー
長浜-種崎間県営渡船は、平成14年(2002)、浦戸大橋が無料化されたことにより、人、自転車、バイクのみを運ぶようになりました。


浦戸大橋
この橋を歩いて渡る人もいるのだそうです。渡ることを思ってみるだけで恐くなる私には、信じられないことです。


長浜へ
乗客はまばらです。15:00過ぎの早い便だからでしょう。ところがこれが17:00頃の便となると、車両甲板はバイクや自転車で埋まるそうです。平成14年(2002)に乗ったときもそうでした。


雪蹊寺
33番札所の寺名について、「四国遍礼霊場記」(元禄2年/1689刊)に、次の様な記述があります。
・・保寿山高福寺(長岡郡長浜村) 此寺本尊薬師両脇士ともに大師の作也。近き比(ころ)長宗我部元親これを菩提所とせしより禅宗となり、関山派の僧侶居住し雪蹊寺と改むとなり。
元親の菩提所となったのを契機に、元親の法名「雪蹊」をとって、雪蹊寺と改めたようです。


大師堂
しかし雪蹊寺は、雪蹊寺と改められながらも、長く、高福寺でもありました。
「霊場記」より約100年後の「四国遍礼名所図会」(寛政12年/1800刊)には、寺名は次の様に記されています。
・・三拾三番 高福寺 保寿山 雪蹊寺
33番札所は雪蹊寺であるとしながらも、「高福寺」の名は、まだ残しています。さらに時代が下り、明治時代、雪蹊寺が廃寺となっていた間の納経は31番竹林寺が代行していましたが、その納経帳に記された寺名は、「33番高福寺」だったといいます。


鐘楼
雪蹊寺に隣接して鎮座する秦(はだ)神社は、祭神を「長宗我部元親公之霊」としています。神仏分離で雪蹊寺が廃寺となった(明治3-12)ため、代わって創建されたものです。
「秦」の社名は、長宗我部氏が始皇帝の子孫・秦河勝を祖と仰いでいることに由来しています。→(H27春11)


高知屋
改装なったばかりの高知屋さんです。そう言えば、前に泊まったとき、建て替えの話を耳にしていました。
同宿は私より年上の方ばかり。夕食時は賑やかでした。曰く、・・戦中は軍隊にとられ、戦後は馬車馬のように働き、親に孝行しろと教わったから孝行したが、自分が年取ったら「後期高齢者」とか言われて姥捨て山だ。自民党が悪い、そうだろ!そうだ!・・などと、皆さん意気軒昂で、私などは若造扱いでした。


テレビ
テレビのニュースで、岡豊城が国の史跡に指定されたことが報じられていました。



城跡から出土した瓦に、「天正三」の文字が刻まれていると報じています。西暦でいえば1575年です。城の建物に瓦を使った例としては、早い時期といえます。因みに、城に瓦を使い始めたのは信長とされていますが、彼が安土城を築き始めるのは天正4年(1576)でした。


散歩
夕食後、宿のサンダルで散歩しました。人気の絶えた札所もいいものです。通夜堂を覗いてみましたが、泊まっている人はいませんでした。
今日の歩きは20Kほど。
21:20 消灯

   4日目(平成20年5月17日)

朝日
宿の窓から、朝日が見えました。今日も晴のようです。
36番札所青龍寺まで、30Kほどを歩ければと考えています。


高知新聞
朝食後、高知新聞を見ると、岡豊城のことが、トップニュースで載っていました。
記事にある「近世城郭」とは、大雑把にいえば、堀や石垣に天守(御殿)が守られている城で、(前述の)信長の安土城が、その始まりとされています。


出発
直進すると春野町・種間寺です。
右方向の高知競馬場には、113戦113敗の「健闘」で知られた、ハルウララが所属していました。
左の塀は、新川川(新川という名の川)の護岸壁で、高潮に備えています。


新川川(平成27年撮影)
新川川は、野中兼山が仁淀川に八田堰を築いて分水し、浦戸湾に疎通させた川です。この内陸水路の開通により、仁淀川流域の物産は、波荒き太平洋を経ることなく、浦戸湾の長浜湊へ運ばれるようになりました。浦戸湾は、ご承知のように、波穏やかな海です。それら物資を高知城下に運び込む作業は、さほど難しいことではありません。斯くて高知城を中心とする物流は、安全性を高めつつ、その範囲を拡大しました。
なお、この物流ルートは長く、(陸上交通が発達する)大正中期まで活用されたといいます。それは、兼山の着眼が優れていたことの、証でもありましょう。


唐音の切抜の碑
「唐音」は、「からと」あるいは「かろと」と読むようです。「唐音の切抜」は、新川川を浦戸湾に導くため、春野と長浜を隔てていた山に通した切り通しです。兼山苦心の工事の一つです。


唐音の切抜
新川川を遡りつつ、遍路道も唐音の切抜を抜けて行きます。



春野へ入って行きます。遍路道は、これより兼山の業績を眺めつつ、仁淀川に向かいます。


道標
  種間寺 4.7㎞   雪蹊寺 1.6㎞


用水路
新川川は、単に物流の水路であるだけでなく、灌漑用水路でもありました。新川川という幹線水路から延びた枝水路、そのまた枝水路は、春野や長浜の田畑を潤しています。
また時季ともなれば、「あじさいの道」ともなり、人々の目を和ませているようです。


景色
次は、出会ったお年寄りとの会話です。
・・この水は仁淀川からですか?
・・はい、ありがたい水です。
・・野中兼山でしょうか?
・・よくご存じで。はい、ありがたいことです。


春野神社(平成27年撮影)
後述する「新川落とし」の側に、春野の人たちは野中神社を建てています。祭神は、むろん野中兼山公です。やがて社名は、お上をはばかってか、春野神社と変わることとなりましたが、祭神はあくまで譲らず、野中兼山を守り抜いたといいます。


甲殿川?新川川?
この川は、「協力会地図」では新川川ですが、Googleマップなどでは甲殿川となっています。
おそらく新川川の開鑿にあたって、甲殿川の河道が一部、利用されているのだと思います。だからこの川は新川川であって、また甲殿川でもあるのでしょう。因みに、この写真を撮った橋は、新川川橋です。



ツガイの、かなり大きな鳥が木にとまっていました。
散歩の人にピンボケの写真を見せて、・・あの森に棲みついている鳥、知りませんか、・・と尋ねてみましたが、わからないようでした。


春野町のマンホール蓋
面白い謎解きマンホールです。
ウグイスは「春の鳥(とり)」→「春の鳥」(とり)は「春の鳥」(ちょう)→「はるのちょう」は「春野町」、というわけです。


34番札所種間寺
種間寺が近づいてきました。
高知屋さんで同宿だった車遍路達がやってきて、「早いねー」などと、しきりと感心してくれました。格別早くもないので、ずいぶんのんびりじゃないですかと、切り返しておきました。
昨晩の団らんは、この程度の応答がゆるされる、そんな雰囲気だったのです。


34番札所種間寺
(最近ではあまり見かけませんが)かつてタモリさんの芸に、安産!スッポン!という「安産祈願」がありました。
私は、・・これって、すこし分かりやすすぎはしないか・・と、やや眉をひそめていたのでしたが、当寺に奉納された多数の「底抜け柄杓」を見て、考えを改めました。底抜け柄杓。なんという直截さでしょう。信仰は、斯くも素直で簡潔だったのです。私のスッポン軽視は、難解をありがたがる、愚人の智慧であったようです。



種間寺を発ち、35番清瀧寺に向かいます。
途中、大河・仁淀川を渡ります。


矢印
薄れてしまった矢印を、鉛筆で補修してくれました。おかげさまで迷わないですみます。
これより数年経った頃でしょうか、薄れた矢印を赤のサインペンで塗り直しながら歩いている方が複数人いらっしゃることに、私は気づきました。以来、私も赤サインペンを持ち歩いています。



新川町で休憩しました。陰がほしくて、つい民家の庭先に坐っていると、その家の女性が飴を手に山盛りにして現れ、・・歩きながら食べて・・と言って渡してくれました。
赤の他人が庭先に座り込むことを許す、これがもうすでにお接待であるのに、その上、飴までいただいてしまったのです。これはもう、一粒300メートルどころではありません。私は元気いっぱい、歩きはじめていました。


涼月橋
兼山の遺跡「新川川落とし」に架かる「涼月橋」です。ただし石造となったのは明治期だと(老人クラブの)説明板に書いてあります。それまでは木造だったとのこと。
「新川落とし」は、仁淀川の八田堰(はた堰)から流れてくる弘岡井筋(ひろおかゆすじ)と新川川とを結ぶ仕組みです。約3メートルの落差がある二つの水路を、約22メートルの、川底に石畳を敷いた緩やかな傾斜の流れでつないでいます。


新川落とし(平成27年撮影)
しかし緩やかとはいえ「新川落とし」は、上り荷にとっても下り荷にとっても、ネックでした。やはり荷を積み替えなければ、「新川落とし」は通過できませんでした。
例えば奧仁淀から運ばれてきた薪炭は、いったん陸揚げされ、下流で待つ新川の船に積み替えられました。筏を組んで運ばれてきた木材は、筏をバラし、「新川落とし」を文字通りに、滑り落としたのだそうです。因みにその勇壮な風景は評判を呼び、藩主さままでが見物なさったと伝わります。


新川落とし
「不便益」(benefit of inconvenience)という言葉があるそうです。不便だからこそ得られる「良いこと」、とでも解せましょうか。
思うに、「新川落とし」が生んだ当地の繁栄も、「不便益」の一例かもしれません。物資がスムースに流れていたら、ここには何事も起きなかったのです。(兼山がどの程度見透していたかはわかりませんが)物流が止まるという不便があったればこそ、当地には運搬業が根づき、諸物産の商が起こり、旅館や米屋や料亭までもが立ち並ぶことになったのでした。



  舗装され 若者たちは 出ていった  毎日川柳
舗装されて「便利」になったと思ったら、若者達がいなくなり、村はすっかり寂しくなってしまった。こんなことなら不便でも、賑やかに助け合いながら暮らした、あの頃のほうがよかった、・・そんな忸怩たる思いを語っているのだと思います。
便利すぎて失っているものの大きさに、実は私たちは気づいているのです。しかし気づいていながら、不便よりは便利を選んでしまいます。不便益。今日一考の価値のあるワードだと思います。敢えて不便を選んで歩いている遍路であってみれば、なおさらです。


仁淀川
仁淀川です。石鎚山に源流を持ちます。四万十川にも負けない、あるいはそれ以上の清流です。
前述の八田堰は、ここから約4キロほど上流にあります。→(H27春12)



道沿いの水路で(「協力会地図」の36-1に「道路沿いに水路有り」との記載あり)、めずらしい舟を見つけました。残念ながら、どのように使われていたのかは、わかりません。知りたくて人を探しましたが、見つかりませんでした。
平成27年(2015)に同じ道を歩いたので、舟を探してみましたが、見つかりませんでした。もう撤去したのかもしれません。


軍人墓地
兵隊さんは、亡くなっても軍人でありつづけるよう、求められます。


登り口
清滝寺への登り口です。
とても疲れており、「苦」よりも「楽」を選びたくなりました。その誘惑を振り切れず、荷物を道から少し入った草むらに隠し、空身で登ることにしました。


山門
明治33年(1900)建立の山門。天井に龍の絵が描かれています。→(H14冬2)


石段
山門を潜ると長い石段です。
荷物の重さがなくなったら、今度は身体が重くなっていました。


35番札所清滝寺
大きな薬師如来像が、印象的です。
清滝寺については、奥の院も含めて、→(H27春12)をご覧ください。


展望
高岡の街です。(見えにくいのですが)仁淀川が、左右から延びる山の連なりと連なりの間を抜けています。

更新予定が守れませんでした。更新を一週間延長したにもかかわらず、号末の清滝寺の記事などは、端折った記事になってしまいました。申し訳ありません。
弁解すれば、家人にけが人が出ました。そのため私の家事負担が急増したのです。この怪我は治癒までまだしばらくかかるので、更新遅れは、これ以降も頻発する怖れはあります。その場合は、事情をお酌み取りの上、御容赦ください。
そんな前置きをしておいて、さて次号更新予定ですが、3月1日といたします。

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コメント (2)
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28番大日寺 入井川 松本大師堂 29番国分寺 国分川 30番善楽寺 31番竹林寺

2022-12-28 | 四国遍路

 
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  1日目のつづき(平成20年5月14日)

道標
ちょっと切りが悪くなりましたが、今号は、28番大日寺を下山し物部川に向かうところから始まります。行政区分でいえば、香南市野市町から→境界となる物部川を渡り、→香美市土佐山田町へ向かうことになります。なお29番国分寺は、土佐山田の先で、南国市にあります。市境は、松本大師堂の先です。
写真奧の白い欄干の橋は、烏川に架かる橋です。この橋を渡ると、道は野市の佐古地区に入って行きます。そこは、今でこそ広大な田畑の中に家が散在する所ですが、かつては暴れ川・物部川の氾濫原だったと思われる所です。


烏川
烏川は、延長8キロほどの短い川です。水源は、物部川に架かる町田橋(私たちが渡る戸板島橋の一つ上流の橋)近くの物部川左岸、烏ヶ森山(192㍍)にあり、そこから南流します。ほどなく大日寺がある三宝山(265㍍)の西裾を巻くように流れ、海近くの吉川町古川で東進。赤岡で海に注ぎます。
なお「烏川」の名は、その水源「烏ヶ森」からきているのでしょうが、旧名は「古川」だったそうです。そこから察するに、この川、かつては吉川町古川で(東進することなく)海に注いでいたと思われます。


フラフ
フラフについては前号で書きましたが、野市に入ったころから、いっそう大がかりなものが見られるようになりました。
フラフは、大きいもので縦4メートル横7メートルの大漁旗型で、男児が生まれると親戚などから、男児の名前と家紋を入れて、贈られるそうです。絵柄は、最近では桃太郎や金太郎などが多いようですが、昔は、那須与一、源義経、加藤清正、楠木正成などが多かったそうです。写真右のフラフは、那須与一を描いています。



ところが国分寺あたりまで歩くとフラフはぱったりと姿を消し、代わって昔ながらの、縦長の幟旗が目につくようになりました。写真は、禅師峰寺を過ぎた辺りで撮ったものです。
(前号でも書きましたが)フラフは現在の南国市より東の沿岸部で始まり、次第に北の農村部にも広がっていったのですが、なぜか、一定以上の広がりはみせていないのです。どのような「支障」があって広がりが止まっているのか、調べてみたい気もしますが、さて、わかるでしょうか。


佐古郵便局
佐古は思い出深い所です。6年前、北さんと歩いた時のことを、私は次の様に記しています。→(H14冬2)
・・やがておばあさんが、大きなビニール袋にいっぱいの蜜柑を入れて出てこられ、食べながら歩いてください、と言って差しだしてくれました。正直、これは重いぞ、が最初の感想だったくらい、いっぱいの蜜柑でした。よほど物欲しげな顔だったと思われます。
・・ちょっと先の佐古郵便局で、現金を下ろしたことに便乗して場所を借り、出来るだけ多くをザックに入れ、入りきれぬ分を、二人で手に提げることにしました。
なお当時、佐古郵便局にはATMがなく、本人確認はカートリーダーと暗証番号入力。金は局員からの手渡しでした。金には(お接待の)飴とチョコとティッシュが添えられていました。


県道234号と上井川  
郵便局から5-6分も歩くと、上井川(うわゆ川)にぶつかりました。並行して走っているのは県道234号(土佐山田野市線)です。遍路道は上井川を渡り234号線を北上。戸板島橋で物部川を渡ります。
さて、上井川ですが、この川、実は自然の川ではなく、野中兼山の工事になる、灌漑用水路なのです。物部川の(やはり兼山が築いた)山田堰から取水した水が、豊かに流れています。


上井川(平成27年撮影)
少し下流には、またまた兼山の工事になる、「三叉」と呼ばれる分岐があり、ここから水路は枝を伸ばし、野市の大地を潤しているのです。前号で・・つくづく感心するのは、(兼山の)工事のほとんどが、今もなお現役で機能していることです・・と書きましたが、ホント、つくづく感心です。この水路は、完工以来380年を経た今も、その有用性をこれっぽっちも失っていないのです。
野市の「野」は「荒野」の「野」と言われるくらい、野市は開墾困難の地でした。阿波の人たちが開拓放棄していた阿波海南町の四方原を、野市の開拓を断念して阿波に移った人たちが開拓した、との説がありますが、→(H26秋4)事ほど左様に、大変な土地だったのです。


三叉(平成27年撮影)
そんな荒野の開拓を、兼山は山田堰を築き、治水を行い、用水路を通し、主導したのです。
山田堰から取水する上井川(うわゆ川)、父養寺井川(ぶようじゆ川),舟入川(ふないれ川)、中井川(なかゆ川)などの幹線水路を軸に、香長平野(物部川下流の沖積平野で香美郡、長岡郡にまたがる)の水田化を実現しました。それは26年をかけての大難工事でしたが、結果、そこに創出されたのは、「堰下三万石」とも称される、大穀倉地帯だったのです。
なお山田堰は昭和48年(1973)、その上流に築かれた新堰に役目をゆずって引退。今は、近くの山田堰記念公園にその姿を残しています。→(H27春 8)


あじさい街道
上井川堤防の道はあじさい街道になっています。34番種間寺辺の、春野あじさい街道と共に、時季には七変化の花を咲かせ、私たちの疲れを癒やしてくれます。


桜並木(平成27年撮影)
また上井川堤防は、桜の名所にもなっています。平成27年(2015)に歩いた時は、見事に開花していました。


たんぼ
山田堰が作りだした「堰下三万石」の田圃は、現在、5,000ヘクタール(東京ドーム約1064個分)に及ぶといい、県内最大の穀倉地帯となっています。
写真奧の堤防は、上井川の堤防です。よく見れば、桜の木が並んでいるのが見えます。


物部川に架かる戸板島橋
県道234号を北上し、戸板島橋へ向かいます。


日陰
この日はともかく暑くなりましたが、休憩したくても影がありません。やむなく安芸の防波堤の道でやったように、この小さな影に身を縮めて入り、休憩しました。
音をあげる私に土地の人が、「まだまだ・・・」と言います。土佐の暑さは「こんなもんじゃない」というのです。その時、ふと、真夏の土佐路、歩いてみようかしらん、などと不埒な思いが頭を過ぎりましたが、まだ実行はしていません。


物部川
物部川は「もののべ川」かと思っていたら、「ものべ川」と読むのだそうです。しかし、では(蘇我氏と争って敗れた)あの物部(もののべ)氏とは無縁かというと、そうでもないのです。というのも、川を渡った向こうの香美市には、天忍穂別神社(あめのおしほわけ神社)があり、この神社が物部所縁の神社とされているからです。
天忍穂別神社の祭神は、天照大神の子神である天忍穂耳命(あめのおしほみみ命)ですが、相殿には天忍穂耳命の子神にして物部氏の祖とされる、饒速日命(にぎはやひ命)が祀られています。


物部川対岸
饒速日命は天磐舟(あめのいわふね)に乗って天下り、初め河内国に降り立ちますが、その後、父神を慕い探して、当地にやって来たとされています。おそらく物部氏は飛鳥の時代、この地にやって来たのでしょう。その遠い記憶を、この伝承は伝えているのかもしれません。
あたかもそれを証拠立てるかのように、天忍穂別神社の境内には、饒速日命愛用の宇宙船・天磐舟が祀られているそうです。土地の人たちが「岩舟さま」と、この神社を親しんで呼ぶのは、その故です。また、私たちが渡る戸板島橋の、一つ下流の物部川橋近くには、「物部」(ものべ)という地名が残っています。あるいはこれも、往古の物部氏の来住を物語っているのかもしれません。


物部川(平成27年撮影)
「四国遍路道指南」(真念)には、・・○ぶやうじ村(父養寺村)、此間に物部川、大水の時ハ大日寺よりの市町(野市町)へもどり舟わたし有り、つねハかちわたり。・・とあります。
渡渉点がどこだったのか、私にはわかりかねていますが、ともかく、「常は歩行渡り」であったということです。


道標  
戸板島橋を渡ったところに、新しい道案内が建っていました。橋を渡った後、左に入る道を見落として、直進してしまう人が多いのかもしれません。それを見かねて、地元の方が建ててくださったような気がします。
現在地の辺りに「戸板島部落」と書きこまれているので、もしかしたら、こちらにお住まいの方なのかもしれませんね。とまれ、有り難いことです。



道案内といえば、素晴らしい言葉でお声がけしていただいたことがあります。
・・もしもし、こっち、行ったらエエヨ・・
そっちは違うとも言わず、あっちへ行けとも言わず、・・もしもし、こっち、行ったらエエヨ・・。心をどのように置いていたら、こんな言葉が自然と出てくるのでしょうか。間違っても私の口からは、出てきそうもない言葉でした。


農家の工夫 
初めてこれを見たときは、なにに使う物かわかりませんでした。
やがて用途は、これを使っている場面がテレビに映っていて知りましたが、いつ頃、誰が工夫したものなのか、なんと呼ぶものなのかは、まだ分かっていません。農機具メーカーのHPを訪ねると、「畝またぎ運搬機」などという、言い得てはいるが妙ではない呼称が見つかりましたが、こういうのは私が求めている呼称ではないのです。例えば床屋さんの店頭にかならずある、クルクル回っている棒は、かつては有平棒(あるへいぼう)と呼んだそうです。有平糖に似ているからだそうですが、言い得て妙ではありませんか。私が行きつけの床屋さんは、今日日、有平棒では誰にも分かってもらえないので、「クルクル棒」と呼んでいると話してくれましたが、これもまた言い得て妙ではありませんか。
私は、こんな「畝またぎ運搬機」のシャレタ呼び名をご存知の方に、どこかで巡り会えぬかと心待ちにしています。


飛行機
高知龍馬空港が物部川近くにあり、その河口付近が離着陸地点になっている関係で、低空で飛ぶ飛行機に(便数が少ないので)時折り出会います。


松本大師堂
四国遍路が庶民化し始めた江戸時代初期・・宝永2年(1705)・・松本大師堂は建ちました。その後、安政3年(1856)に改修されたのを最後に改修の手がはいらず、平成に入ってからは、つっかい棒に支えられ、ようやく建っている状態だったと言います。実はこの6年前(平成14年)、北さんと私はここを歩いているのですが、なぜか、・・あまりのボロさに大師堂と気づかなかったのでしょうか?・・見逃しています。
その松本大師堂が、平成19年(2007)、構想も新たに再建されました。「ヘンロ小屋だより」HPは、松本大師堂がヘンロ小屋(第28号)をかねて再建されたことを報じています。


扁額
設計は歌洋一さんだそうですが、一見して茶堂を思い起こすのは、私だけでしょうか。
遍路道沿いの大師堂・へんろ小屋では、毎月21日、大師講が開かれ、道行く遍路への接待が行われているそうです。


道標
  左 国分寺 三十五町   
  左 遍路・・
江戸時代、松本大師堂の辺には遍路宿があったそうです。28番大日寺と29番国分寺の中間くらいの所なので、宿が必要だったのでしょう、
その名残の井戸があるとのことですが、これは二度目の今回も、見落としてしまいました。


休憩所
松本大師堂から10分弱のところに休憩所がありました。
この10分間で私は、知らず市境をこえたようです。松本大師堂は香南市でしたが、休憩所がある此所は、もう南国市です。


JR土讃線の踏切
左方向が下り方向で、次の駅は後免です。ごめん・なはり線と接続しています。
右の、上り方向は、土佐長岡駅が最寄り駅です。長岡の「長」が香長平野の「長」であることは、前述しました。因みに「香」は、香美郡から来ています。
さらに言えば、土佐統一を果たした長宗我部氏の「長」も、長岡の「長」です。長宗我部氏は、元は宗我部氏を名乗っていましたが、隣の香美郡にも、同じ宗我部氏を名乗る一族がいたので、区別するため、長岡郡の宗我部氏→長宗我部氏と名乗ったのだそうです。従って香美郡の宗我部氏は→香宗我部氏を名乗ることになります。


旧道
へんろ石饅頭→(H14冬2)の角を左に少し入ると、街中では珍しく、旧遍路道が残っています。短くて、すぐ車道に合流してしまいますが、味わい深い道です。


国分川
国分川は、土佐国の歴史を視てきた川といえましょう。ご存知のように律令時代、国分川流域には、かの紀貫之さんが国司として勤めた土佐国府があり、聖武天皇が、・・最も良い土地を選んで建てよ・・との勅を下され、僧行基が建てたという国分寺僧寺と、所在未確定ではありますが、国分尼寺もあったにちがいありません。→(H27春9)戦国末期には、長宗我部元親の本城・岡豊城も在りました。元親はこれを拠点に、四国平定の挙に出ています。
江戸時代には、山内氏の高知城築城にともない、土佐の中心は国分川流域から浦戸湾対岸の西へと移りましたが、とはいえ国分川が注ぐ浦戸湾の西であってみれば、すっかり国分川と離れたということではありません。むしろこの移動は、国分川がもつ有用性を、よく認識するが故であったのです。


国分川(平成27年撮影)
香美市の西部に発した国分川は、香長平野を南西に進み、浦戸湾奥に注ぎます。つまり国分川は土佐の中央部に位置する平野を流れ、荒々しい外海とは隔てられた、波閑かな湾奥に注ぐわけです。灌漑用水を供給するのみならず、河川交通の利便性が、この上もなく良い川であると言えます。
それかあらぬか、二代目藩主に仕えた野中兼山は、万治3年(1660)、舟入川(ふないれ川)を、あたかも国分川に沿うように、疎通させました。


舟入川(平成27年撮影)
舟入川の流路は、国分川の南1-2キロのところを流れ、浦戸湾奥近くで、南下してくる国分川に注いでいます。舟入川は、もう一本の国分川として、国分川が果たす役割、・・灌漑と舟運・・を補完し補強しました。
写真は、今は三面張りに姿を変えた 舟入川です。豊かな水、立ち並ぶハウスをご覧ください。 


地蔵の渡し
国分川の堤防にある「地蔵の渡し跡」です。地蔵さんには、文化7年(1810)の刻があるとのことです。
ただし、「渡し」と呼ばれていますが、説明看板によると、明治30(1897)、国分川橋が架かるまでは、歩行渡りだったと記されています。川幅は今よりもうんと狭かったとも聞きますので、歩行渡りも可能だったのでしょう。大水のときは、物部川のように渡し舟で渡ったのかもしれません。


マンホール
前号で、・・茨城は「いばらき」、伊尾木は「いおき」、須崎は「すさき」、山ちゃんは「やまさき」・・と書きましたが、大切なのを一つ、忘れていました。南国市の南国は、「なんこく」なのでした。
図柄は、オナガドリ(尾長鳥)、タチバナの花、ヤマモモの木です。


29番国分寺山門
・・国分寺は、全国どこの国分寺も並べて、その「総国分寺」である奈良東大寺の本尊・盧舎那仏を本尊として祀っているのだろう、・・高校生の私は、疑う余地もないこととして、そう思い込んでいました。それが事実ではないことに気づくのは、お粗末なことですが、ようやく四国遍路を始めてからのことでした。
調べてみると国分寺の多くが、薬師如来を本尊としていることがわかりました。四国では、当・土佐と讃岐の国分寺は千手観音菩薩ですが、阿波と伊予は薬師如来です。


国分寺
薬師如来を本尊として祀った背景には、天然痘の大流行という、想像を絶する悲惨な事実があったようです。おそらく抗体を持つ者がほとんどいなかったのでしょう、一説には、日本の総人口の25-35%が亡くなったともいわれますから、その惨状は、今日のコロナパンデミックの比ではありません。
医学未発達の頃、全国国分寺の多くが薬師如来を祀り、仏のお力にすがろうとしたのも、無理からぬ事です。


本堂
土佐国国分寺のご本尊、千手観音菩薩は、頭上に11の化仏を戴き、千の手を持っておられます。千の手のそれぞれには目がついていることから、正しくは、千手千眼観自在菩薩と称されます。たくさんの目で、誰1人の苦しみも悲しみも見逃さず、たくさんの手で受けとめてくださる仏様で、薬師如来と共に、この世でのご利益を授けてくださる仏様です。
土佐の国分寺は(そして讃岐国分寺も)、こんな仏様をご本尊として戴きました。その気持ちは、薬師如来をいただいた人たちと同じだったといえます。


出発
山門の向こうに田圃が見えています。私はこんな景色が好きです。



田圃の中の路をゆきます。直線の道路に慣れた目には、この曲線がなんとも軟らかです。写真中央の奧に見える山は、岡豊山(おこう山・97㍍)です。
岡豊山には、これまで何度も本ブログに登場してきた、岡豊城址があります。城の南を流れる国分川は、城を守る外堀として働いていたことでしょう。加えて、ご覧の田圃の多くは当時は湿地でしたから、なるほど岡豊城は堅固な戦城でした。元親が四国平定中の居城としたわけです。


川沿いの道
だんだんと岡豊城の登り口に近づいてきました。
散歩中なのでしょうか、お年寄りが話しかけてきました。自分は、長曽我部氏の代々の家老職筋なのだといいます。(山裾の方を指をさして)・・あの辺の家は皆、元親よりも前からここに住んでいる人らの子孫よ。お遍路さんは、一領具足って知っとるか・・と話し始めました。
長話となり、やや閉口でしたが、面白い話ではありました。なお一領具足は、兵農未分化の頃の、長宗我部氏支配下の地侍をいいます。四国平定を望む元親は、戦闘力の主力として、一領具足に頼りました。


国分川
(前述のように)国分川の川幅は、昔はもっと狭く、堤防も低かったと言います。階段部分の高さ分、その後高くなったと考えられます。
石積みは舟運の施設のようですが、どのように使われたのでしょうか。


岡豊城址への石段
ここから岡豊城址へ登ることができます。上には県立歴史民俗資料館もあります。
また岡豊城址や資料館へは、岡豊山の北側(県道384号)からも登ることができます。こちらの方が車でも上がれるので、楽かもしれません。→(H27春10)



山裾に沿って歩きます。



高知大医学部を過ぎた辺りで、進む方向が間違っていることに気づきました。男子中学生が二人やって来たので尋ねたのですが、・・
・・この先に郵便局があると思うんだけど、あるかなあ?(蒲原郵便局があるかどうかを尋ねています)
・・(一人が)知-らない。(もう一人が)ねぇよなー。(何がおかしいのか二人で)ガハハハッ!
ふざけているとしか思えない口調の応えが返ってき、私は訊くんじゃなかったと後悔。来た道をそのまま歩きつづけたのでした。実は中学生達は正しい情報をくれており、「無礼」なのは彼らの個性なのですが、彼らを信じることが出来ない私は、道の誤りを正すことなく歩きつづけ、傷を深めていゆました。その後、私はすっかり現在位置がわからなくなり、再び人に頼ろうとします。今度は大人の女性を呼び止め、尋ねました。


地図
教わった道を鬱々と歩いていると、前に車が止まりました。先ほどの女性が車で追いかけてきたのです。
・・地図を書いてみました。これをどうぞ。(写真が、いただいた地図です)
こんな私に、土地の人はあくまで親切なのでした。自分の短気で陥った窮地でしたが、そこから抜け出す力は、自力ではなく他力でした。
・・車に乗れとは、あえて勧めませんが、大丈夫でしょうか?
気遣ってくれる彼女に大丈夫だと答えると、彼女は走り去りました。私は再び歩きはじめました。今度の歩みは、軽快でした。


宿
納経は明日にして、しばらく散歩のあばあさんと一緒に歩きました。・・ここ(善楽寺)の住職はナア・・などと、ここには記さない方がいいような、裏話を楽しみながらの歩きでした。
17:40 善楽寺側の宿「レインボー北星」着。
宿では、同郷・埼玉の若者と、ビールを飲みながら楽しい時間を過ごしました。ただし彼は、遍路中は酒断ちとのこと。飲んだのは私だけでした。
消灯22:00 今日の歩きは、30K+迷った分、でした。

  3日目(平成20年5月16日)

高知新聞
高知新聞朝刊に、岡豊城のことが載っていました。岡豊城が国の史跡に指定されたと報じられています。記事にある「近世城郭」とは、大雑把にいえば、堀や石垣に天守(御殿)が守られている城で、信長の安土城がその始まりとされています。元親は土佐に在りながら信長と同盟を結んだりしていましたから、岡豊城に「近世城郭への移行」のが形跡が見られるのも、十分納得できることです。
さて、今日は朝一番で納経し、33番雪渓寺まで20キロほどを歩くつもりです。もし桂浜まで行き、坂本竜馬さんにお会いすれば、30キロ弱になるでしょうか。


交通標識
30番善楽寺は、土佐国一之宮・土佐神社のすぐ隣にあります。神仏習合の時代には、善楽寺は土佐神社(その頃は、高賀茂神社・高賀茂大明神と呼ばれていた)の別当寺で、二つの寺社は一体だったからです。
しかし明治政府の神仏分離・廃仏毀釈政策で善楽寺が廃寺となったことから、混乱が生じます。
善楽寺の復興後、30番を引き継いでいた安楽寺との間で「30番札所争い」が起こり、平成6年(1994)までの長きにわたり、二つ30番の「遍路迷わせの札所」状態がつづくことになったのです。


30番札所善楽寺
現在、安楽寺は、30番善楽寺の奥の院として落ち着いています。→(H27春9)そのことを善楽寺のHPは、次の様に記しています。
・・明治の廃仏毀釈で当山善楽寺は廃寺となり、明治9年にいち早く復興を遂げた安楽寺が、30番の万灯を絶やしてはならぬと公許を経て30番霊場の業務を代わりに行っておりました。善楽寺は昭和5年に心ある一宮村民の尽力により無事再興され、平成6年に四国第30番は善楽寺、安楽寺は30番の奥の院と相成り今日に至っております。
終わってみれば、なべて世は事もなし。万々歳です。


土佐一之宮、土佐神社
土佐神社の祭神は、一言主命(ひとことぬし命)と味鋤高彦根命(あじすきたかひこね命)です。これら二柱の神は、神社の旧名が高賀茂大明神であることからも分かるように、いずれも賀茂氏が氏神として奉じていた神々です。
土佐神社のHPは、次の様に記しています。・・この二柱の祭神は、古来より賀茂氏により大和葛城の里にて厚く仰ぎ祀られる神であり、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。
なお一言主命が土佐国で祀られていることについては、・・雄略天皇の怒りに触れ、土佐国に流されてきた、・・との異説(続日本紀)もありますが、ここでは触れません。とまれ、一言主命は土佐の地に鎮まったのです。また、二柱の神を同体視する考え方もありますが、これにも、ここでは触れません。


本殿(工事中)
土佐神社の境内に「礫石(つぶて石)」なる大石があり、その説明板『礫石の謂われ』は、土佐に移られて後の一言主命について、次の様に書いています。
・・古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先ず高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如く往時御神幸の行はれた所以である。
この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており学界では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。
  昭和49年8月  宮司 


土佐神社の礫石(平成27年撮影)
・・御船を先ず高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て・・この「宮」が、現在、浦ノ内湾の湾奥にある鳴無神社です。
・・此の石の落止る所に宮を建てよ・・こうして建った「宮」が、現・土佐神社です。
・・十四里を距てたる・・試しに鳴無神社と土佐神社の直線距離を測ってみたら、7里ほどでした。どこか変なのですが、蛇紋岩地質の地に珪石の大石があるはずもありませんから、やっぱり飛んで来たのではないでしょうか。→(H27春10)


千木(ちぎ)と鰹魚木(かつおぎ)
通りがかりの神社で、つい変なことに気づいてしまいました。
千木(ちぎ・交差している部分)の先端が「内削ぎ」(水平に削る)になっているので、この神社のご本尊は女神だろうと思っていたら、
鰹魚木(かつおぎ・棟上の横棒)は奇数(5本)になっているのです。
鰹魚木が奇数の時は、たいてい祭神は男神なので、千木と鰹魚木が矛盾することになるのです。
なお、千木の先端が外削ぎ(地面に対して垂直に削る)の時は、だいたいが男神で、鰹魚木が偶数の時は女神だと言われています。


黒住教の教会所
前に回ってみると、黒住教の社殿(黒住教では「教会所」と呼んでいる)とわかりました。
黒住教では、ご祭神を天照大神と黒住宗忠教主としているので、よって千木が女神を顕し鰹魚木が男神を顕しているのか、なんて考えてもみましたが、もちろんこれは、歩きながらの頭の体操にすぎません。外から口を挟むことでもありません。これでいいのです。


国分川から
国分川橋から右に見える高知市の中心街を撮った写真です。当時のメモによると、どうやら私は元の30番札安楽寺(現在の善楽寺奥の院)が在る方向を撮ったつもりでいたようです。
しかし、それにしても、川を渡りながら川筋を写していないとは、どういうことでしょう。ちょっと酷すぎます。というのも、この撮影ポイントは、国分川が左方向へ直角に向きを変え(その国分川に舟入川が注ぎ)、右方向からは久万川(愛媛県の久万川とは異なる)が合流する、大切なポイントなのです。


国分川から 
上の写真と同じポイントから、上流方向を撮った写真です。この写真には、川筋が写っています。メモによれば、この上流に岡豊城、国分寺、国府跡などが在ることを意識し、撮った写真と思われます。
写っている橋は錦功橋というそうです。次号でふれる予定ですが、国分川の渡船場は、この橋の少し上流辺りに在ったようです。


田圃
入船川手前の広々とした田圃の中の路を歩きながら、進行方向左側を撮った写真です。
田圃が意識にあったのは間違いありませんが、この田圃が入船川から水をもらっていることには、意識は及んでいませんでした。だから、この後、私は舟入川の写真も撮っていません。ここを入船川が流れていることの意味を知るのは、もっと後のことなのです。


お山
同地点から前方を撮った写真です。牧野植物園や31番竹林寺があるお山です。


文珠通停留所
とさでん交通電車軌道の文殊通駅です。この道を渡り、さらに直進します。


絶海池
大島橋から河口方向を撮った写真です。手前の橋は大谷橋です。令和の現在では、大谷橋の向こうに、平成25年(2013)に全線開通した高知南インター線(県道376号)が見えているはずですが、平成20年撮影の、この写真には写っていません。
写真は一見、川を撮っているかに見えますが、これは川ではなく、浦戸湾から仕切られた、絶海池(たるみ池)という池なのだそうです。なぜこのようなところに池があるのか、大島橋の「大島」は何に由来するのかなどについては、次号でふれることになると思います。。


生活道路
民家の前を通らせてもらい、竹林寺への登り道にでます。


山道
五台山の標高は120㍍で、高くはありませんが、登りは、けっこうキツイものがありました。


遍路のみ
この道は、遍路だけに通行が許可されている道です。牧野植物園が、特別に通して下さっています。


下の景色
この景色は歩いてきた方向の景色ではなく、五台山の南側、つまり参拝の後に降りてゆく側の景色です。
横に流れるのは下田川。写真奧の、工事中の道路は、高知南国道路です。平成13年(2001)に着工し、平成27年(2015)に開通しました。この写真を撮ったのは平成20年です。


牧野植物園
植物園の中を通らせてもらいます。
NHK来年度(令和5年度)前期の連続テレビ小説「らんまん」は、牧野富太郎さんがモデルです。この植物園も、きっと賑わうことでしょう。


高野槙
育てば樹高40メートルにも及ぶ樹で その樹形の美しさで知られています。


31番竹林寺山門
播磨屋橋でカンザシを買ったのは純信さんだとか慶禅さんだとか、話は色々ですが、竹林寺のお坊さんであるのは間違いないようです。
ところで私は子供の頃、この歌を、・・髪がないのにカンザシを買ったバカな坊さんの歌・・だと思っていました。男がカンザシを買う不自然さには、気づかなかったようです。まさか好いた人にあげるなんてことがあるとは、考えもしなかった、幼かった頃の話です。
なお、平成24年秋、私は純信供養堂を訪ねています。→(H24秋) また平成16年春には、柏島の慶禅墓を訪ねています。→(H16春2)


竹林寺の石段
石段は、竹林寺の魅力です。昔の東映の時代劇にでてきたような、そんな気がする景色です。


茅葺きの本堂
この日は、皇族のどなたかが見えるとのことで、厳しい警備でした。


五重塔
竹林寺の塔は、元は三重塔だったそうです。それが明治32年(1899)の台風で倒壊。昭和55年(1980)、五重塔として再建されたのだそうです。鎌倉初期の様式を摸したもので、高さ31.20mだといいます。


下山
茶屋で200円のアイスクリンを食べて、これより32番禅師峰寺に向かいます。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
年内にご覧いただいた方へは、よい年をお迎えください、と申し上げます。
年明けて、令和5年の方へは、明けましておめでとうございます。今年がよい年でありますように。
さて、次号更新予定ですが、1月28日を予定しています。できれば塚地峠辺りまで進めればと思っています。令和5年も、よろしくお付き合いください。

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コメント (2)
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唐浜 防波堤の道 伊尾木 安芸 自転車道 夜須 赤岡 28番大日寺

2022-11-30 | 四国遍路

 
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  1日目(平成20年5月14日)

室戸岬
季節外れの台風二号は東北地方へと過ぎたものの、関東地方は台風一過とはゆかず、まだ雨が降っています。きわどいタイミングの出発ですが、目指す高知はすでに晴れているのです。出かけない理由はありません。週間予報では、この後は晴れがつづくとのこと。帰る予定の20日頃、崩れはするものの、たいしたことはないようです。
(前回につづき)今回も北さんが家庭待機なのは残念ですが、ごめんなさい、私は、大いに楽しむつもりです。写真はご存じ室戸岬。電子機器使用禁止の放送直前に撮ったものです。


野市駅
空港からタクシーで、ごめん・なはり線の野市駅に向かいました。リムジンバスで高知駅に出るより400円ほど余分に出費しますが、最低1時間、場合によっては2時間ほど、早く歩き始めることができます。Time is money. 時間を金で買うことにしました。
運転手さんを急かし、懸命に階段を駆け上がり、なんとか下り電車に間に合いました。2時間400円でした。大急ぎで撮った駅名表示の下は、野市駅のキャラクター人形「のいちんどんまん君」です。野市の名物イベント「ちんどんコンクール」に由来します。


キャラクター人形
車体のキャラクター名は、左から、
 安田アユ君(安田川の鮎は美味で有名)
 唐浜 へんろ君(唐浜は神峯寺へのアクセス駅)
 下山ちどりちゃん(下山は「浜千鳥」を作曲した弘田龍太郎さんの出身地)
 伊尾木トラオ君(伊尾木には「フーテンの寅さん地蔵」が立っている)
他にも、ごめん・なはり線全20駅には、高知出身の漫画家・やなせ たかしさんの作のキャラクターがいます。


唐浜駅
10:50 唐浜駅(とうのはま駅)着。唐浜へんろ君が迎えてくれました。
一緒に下車したおばあさんが、・・歩くんかね、エライねぇ・・と話しかけてくれました。エライは、偉いとか立派の意味でも使われますが、この場合は、大変だねぇ、疲れるねぇの意味でしょう。
さて、エライねぇの言葉にほぐされ元気づけられて、歩きはじめます。今日の歩きは手結岬までの予定です。


たんぼ
  ♫土佐はよい国 南をうけて 
    年にお米が二度とれる ヨサコイ ヨサコイ
二期作は南国土佐の誇りでもありましたが、今はもう、やっている農家はありません。ある農家の方が話してくれました。
・・この田圃も「売る米」は作っていません。休耕田なんてものにだけはしたくないので、「自分たちが食べる米」をつくってるのです。自分はもう「生産者」ではないのですよ。
寂しげでした。・・休耕田にだけはしたくないので、・・。元生産者の、意地の一言でしょうか。


注連縄
前号で、・・「ならし橋」に「平等津橋」の字を当てるのは、なんらかの謂われがあってのことにちがいない。それは「しめ飾り」の「しめ」に「注連」を当てるのと同じだ・・と記しました。
その後、Wikipediaで次の様な記事を見つけました「しめ」を「注連」と書く謂われについて記しているので、コピペさせていただきます。
・・「注連縄」と書いた時の注連(ちゅうれん)とは、中国において死者が出た家の門に張る縄のことで、故人の霊が再び帰ってこないようにした風習である。これが門に縄を渡すさまや、霊的な結界であることが日本のしめ縄と似ているので字を当てたのである。
なお高知では多くのお宅が、年中、注連飾りを飾ったままにしています。おそらく注連飾りの習慣に、蘇民将来伝説が結びついてのことでしょう、幸いをよびこみ、災いを払うことを願って、注連飾りを付けたままにしておくのです。(注連飾りを付けたままにしておく習慣は、高知の他、各地で見られ、例えば天草では、潜伏キリシタン隠しに飾っていたなどの伝承があります)。


東部交通
この辺りは「東部交通」のサービスエリア。県の中央部は「県交通」。足摺など西部は「西南交通」です。もとは「高知県交通」として一社だったが、(この遍路の)10年近く前、分社されました。これら3社の他に須崎市辺をエリアとする「高知高陵交通」などもありますが、いずれも3社のいずれかにつながっているようです。
・・企業体は分割されたが、組合は今も統一を守っている。・・と話してくれた西南交通の運転手さん、今はどんな状況ですか。厳しいんでしょうね。
写真奧の小山は、大山岬の先端部分です。切り通しになっているので、それとは見えないのですが・・。



→(H27春5)の「乱礁遊歩道」でも紹介していますが、右端の岩の下部にできた凹みを、「ノッチ」(波食窪)というのだそうです。打ち寄せる波に削られて出来た、窪みです。
ノッチを私は、御厨人洞を調べる中で知りました。復習すると、まず海岸段丘の基部にノッチができて→支えがなくなった上部が崩れ落ちます→崩落してできた海食崖の弱い部分(亀裂など)を波が削って広げてゆき、→海食洞が誕生しました。
なお青年空海が室戸岬を訪れた頃、海食洞は徐々に波打ち際から隆起し、(ある計算によれば)標高8㍍ほどの所にあったと考えられています。現在は10㍍とのことですから、1200年で2メートル隆起したということでしょうか。


伊尾木漁港
伊尾木漁港です。前号でふれたような、内港を持つ大きな港ではありません。大嵐ともなれば、ちょっと心配です。安芸漁港あたりに避難するのでしょうか。


防波堤の道
「防波堤の道」への入り口です。伊尾木まで、およそ3K続く道です。
海の景色を楽しみながら歩くことが出来ますが、天候によっては過酷な道に変わります。強い海風で波しぶきをかぶるなんてことも、あるようです。そんな日は、この道は歩くべきではありません。国道55号を歩くか、宿に停滞するべきでしょう。暑い日には休める影がなく、炙られます。熱中症には要注意です。私が歩いたこの日は、予報では20℃でしたが、とても暑かったのを覚えています。堤防の狭い影にへばりついて休んだのでした。


前方
防波堤の道が続いています。伊尾木の街でしょう。
伊尾木は「いおき」です。茨城が「イバラキーのキー」であるように(この頃、こんなCMがあったのです)、濁りません。ついでながら中土佐の須崎も、スザキではなく「すさき」。そして釣りバカの山ちゃんは「やまさき」です。


防波堤の道の終点
「防波堤の道」は、ここが終点です。この先に伊尾木川の河口があり、そこで堤防はいったん、途絶えるからです。
写真の案内板は、貯木場の突き当たりを右折し、ごめん-なはり線の踏切を越え、国道55号に戻るよう指示しています。


貯木場
ところで、「楽しく遍路」の名にかけても見過ごしてはならないのが、この貯木場です。安芸市立歴史民俗資料館のHPに、次の様な一文があります。
・・江戸時代、安芸地方の山間部からは木材・薪・炭が豊富に産出されました。これらは、安芸川・伊尾木川を利用して筏で河口まで運ばれ、船に積み替え、大坂市場へ送られました。
この貯木場、案外、江戸時代からのものかもしれないのです。今でこそやや精彩を欠く感なきにしも非ずですが、かつては、魚梁瀬杉や山本旅館の女将さんがいう「鉢巻き落としの檜」などの銘木が、ずらり、積み上げられていたのかもしれません。


踏切
ごめん-なはり線の踏切です。ごめん-なはり線は大半が高架ですが、安芸以東、伊尾木駅の辺りでは、地上を走ります。ここは珍しい地上の踏切です。
右方向が下り方向で、すぐ先に伊尾木駅があります。むろん、伊尾木駅も地上駅です。


国道55号
国道55号に戻り、伊尾木川と安芸川を渡ると、安芸市街に入ります。


伊尾木川
(安芸市立歴史民俗資料館のHPにあった)伊尾木川の木材輸送は、明治43年(1910)、「筏ながし」から軌道輸送に代わります。森林鉄道伊尾木川線が開通したのです。
この路線、最長期には伊尾木から徳島県境近くの別役まで、本線支線を合わせ8本もあったといいますから、おどろきです。高知林業の盛況振りを示してあまりあります。あるHPが、・・森林県・高知には、無数の森林鉄道が走っていた。・・と記していますが、(前号で記した)奈半利川線といい安田川線といい、「無数の」は、決して誇張ではないのでしょう。


板を乾燥させる
その高知(ひいては全国)の林業が衰退に向かうのは、昭和30年代末のことでした。お年寄りの話では、森林鉄道はもちろんのこと、この辺一帯に広がっていた貯木場、製材所、原木市場、そしてそれらに従事していた人たちが、みるみる姿を消していったとのことでした。写真の貯木場や製材所は、その数少ない生き残りだといいます。
衰退に至る経緯は略しますが、昭和39年(1964)の「木材輸入の自由化」がトドメでした。比較的安価な輸入材が、国産材に取って代わったのです。
 

安芸川
安芸川と伊尾木川は、兄弟川なのだそうです。夫婦川という人もいるようです。
その背景には、両河川の作用により安芸平野が形成されたことや、(安芸市立歴史民俗資料館のHPにもあるように)両河川の河口が一体化して木材の集散地を形成していたことなどがあるようです。因みに、両河口間の距離は、およそ500㍍ほどです。2級河川の河口がこれほど近いのは、珍しいかもしれません。


野良時計
安芸市のマンホールは「野良時計」です。私は二度、ここを訪ねています。→(H14冬1)→(H27春8)
安芸駅の「ぢばさん市場」で自転車を借りて行くのが、便利です(無料)。土居廓中、安芸城跡、岩崎弥太郎生家などを併せて廻ると、およそ2時間半くらいでしょうか。ぜひ四国の風を受けながら、たんぼ道を走ってみてください。自転車は歩きの筋肉とは反対の筋肉を使いますから、文字通り心身共にリフレッシュ確実です。


野良時計(前回撮影) 
日本の時制制度が定時法一本にしぼられ、西洋式の時分秒表示に代わるのは、明治5年(1872)のことでした。「野良時計」が安芸の野良に登場するのは、それから15年後の明治20年(1887)のことです。腕時計はもちろんのこと、時計がない家さえ珍しくはない、そんな時代でした。時計がある家では、その部屋を「時計の間」と呼んだ、などの話も伝わっています。仏間に次ぐ重みを持つ部屋だったかもしれません。
「定時法ネイティブ」が徐々に増えてくる一方、できるものならもっとゆったりとした、お日様の傾きを見ながらの暮らしに戻りたいと思う人たちも、まだ多くいたことでしょう。スマホを使いこなす人もいれば持て余す人もいる、そんな今日に、どこか似ていなくもありません。


大相撲熱
夏場所中とあって、安芸市役所前には力士幟が立ち並んでいました。土佐ノ海(平成22年引退)、栃煌山(平成32年引退)の幟が見えるのは、両力士が安芸市出身だからでした。
この頃、高知の相撲熱は高かったと思います。土佐ノ海、栃煌山の他に、高知には宿毛出身の豊ノ島(平成32年引退)もおり、また高知の産ではないものの、高知明徳義塾出身の、朝青龍、朝赤龍、琴奨菊らもいたからです。朝青龍達は「高知県関係力士」と呼ばれ、「出身力士」と共に応援され、その勝敗はローカルニュースでも報じられていました。


童謡の里
「ようこそ童謡の里 安芸へ」とあります。「靴が鳴る」(おててつないで・・)「雨」(雨が降ります雨が降る・・)「春よ来い」(春よ来い早く来い)「叱られて」(叱られて あの子は街までお使いに)「雀の学校」(チーチパッパチーパッパ)「お山のお猿」(お山のお猿は鞠がすき)「鯉のぼり」(屋根より高い鯉幟)「浜千鳥」(青い月夜の浜辺には)などを作曲した、弘田龍太郎さんが安芸の出身だからです。


ぢばさん市場
安芸駅に隣接してあります。前回北さんと来たとき、ここで自転車を借り、安芸市の北部、野良時計、土居廓中、安芸城跡、岩崎弥太郎生家などを廻りました。


防波堤
「日本一高い防波堤 海面より16.0メートル 安芸漁港」とあります。
日本一を競って16.0メートルの防波堤を築いたのでしょうか?ちがいます。この規模の津波が予測されていたから、予測に従って、(おそらく相当な反対を押し切って)こんな堤防を築いたのです。
この写真を撮った3年後に大事故を起こす福島第一原発でも、社内試算では15.7メートルの津波予測があったと聞きますが、堤防は築かれませんでした。


世界文化遺産に
遍路道を歩く外国の人に(おぼつかない英語で)四国遍路の魅力を尋ねたことが、何回かあります。
大方の人が挙げたのは「お接待」でした。ちょっと予想外でしたが納得できる気がしたのは、遍路道が円になっていることでした。終わりがない魅力なんでしょう。問題点は、口を揃えていったのは、高い、でした。この頃は円高ドル安だったせいもあるでしょう。

 
そえみみず道変貌
中土佐に進んだときのことです。そえみみず遍路道工事の看板を見ている、若いアメリカ人男性がいました。流ちょうな日本語を話す人でした。
工事計画を「どう思う」と尋ねたら、「立派、とても立派」と言った後、(言いにくいことだったのでしょう)顔を真っ赤に染めて、「だけど立派すぎるかも」と話してくれました。「立派すぎて本物じゃなくなった」と言いたかったようでした。
私は、・・「四国のへんろ道を世界文化遺産に」を考える上でも、傾聴すべきご意見だと思う、・・と答えました。なお、この工事は令和の今日、すでに完成しており、私も歩かせてもらいましたが、残念ながら、もう一度歩きたいと思う道ではありませんでした。


来し方 
写っている堤防は、安芸漁港のものでしょうか。


サイクルロード
  安芸市穴内(あなない)
  高知安芸自転車道 赤野休憩所 2.8キロ
  海水健康プール芸西 6.3キロ
大正13年(1924)から昭和49年(1974)まで、土佐電気鉄道安芸線が走っていたことをご存知でしょうか。この廃線跡を一部使って、安芸自転車道は建設されました。また土佐くろしお鉄道のごめん・なはり線でも、安芸線廃線跡は使われています。


鯉幟
  ♫屋根より高い鯉のぼり・・高く泳ぐや 鯉のぼり
この高さ、この大きさ、歌われるとおりの鯉のぼりです。
我が子育て時代、団地のベランダに立てた超小型の鯉のぼりを思い出し、ちょっとばかり卑屈になっていました。


交差
上が、ごめん・なはり線の高架。下が旧安芸線跡を利用した安芸自転車道です。
元鉄道の自転車道と現鉄道が、ここで交差しています。


恵比寿神社
恵比寿神は、言代主神(大国主命の弟神で釣り好きの神)、少彦名命(海の彼方、常世の国からやって来た小人神で大国主命の相棒)、蛭子神(伊弉冉・伊弉諾命の第一子で、脚萎えのため海に流されるが西宮に漂着。西宮神社祭神となる。なお蛭子は’ひるこ’とも’えびす’とも読める)、彦火火出見尊(瓊瓊杵尊と木花開耶姫の第二子で海幸彦の弟・山幸彦。海神の娘と結婚する)、・・これら海にかかわる諸神と習合し同一視される神様です。
最近では商売繁盛の神としての認知度が高まっている恵比寿神ですが、本来は海神に発す、豊漁、海上安全の霊験あらたかな神なのです。この恵比寿神社も海に向かって建っていますから、豊漁・海上安全を祈願して祀られているものと考えられます。


恵比寿社
鯨が回遊する地方の漁民達は、鯨を「えびすさま」と呼んでいたようです。鯨は(おそらく鯨に追われてでしょうが)烏賊や鰯などの魚群を連れてきて、豊漁をもたらすことが多かったからです。浜の漁師達が鯨を、豊漁の神・恵比寿神の化身と見立て、「えびすさま」と呼び始めました。
鯨に乗った恵比寿神の像や、(鯛ではなく)鯨を抱いた恵比寿神の像が残っているのは、その名残と考えられます。



ところで、土佐は・・潮吹く魚が泳ぎよる・・国なのですが、鯨を「えびすさま」と呼んだという話を、私は高知県では、聞いたことがないのです。また、鯨に乗ったり抱いたりした恵比寿像も、見たことがありません。どなたかご存知の方、いらっしゃらないでしょうか。


道標
  琴ヶ浜へ 4.2キロ   安芸へ 4.4キロ
ここで大変なドジをしていることに気づきました。琴ヶ浜より更に4キロほど先の、手結岬に宿をとるつもりでいたのですが、この道には公衆電話がないのです。私は携帯を携帯していないので、電話をかけることができません。手結岬まで歩くことも考えましたが、もし空いていなければ窮してしまいます。
仕方ありません。もう少し歩いて、和食駅から安芸に引き返すことにしました。安芸なら、どこかあるはずです。


自転車道 
道が切り通しになっています。これは明らかに、旧安芸線の痕跡です。


赤野自転車道休憩所
少し上ったところに休憩所が整備されていました。展望台にもなっているので、遍路の私も使わせてもらいました。


赤野川
赤野川の河口付近です。


赤野川
赤野は、安芸市の西端です。赤野より西は、安芸郡芸西村となります。


防潮の鉄扉
高潮や津波の時、この部分は閉じられることになっています。
ただ現実的には、どうなんでしょうか。東日本大震災では、閉じに行った消防団員が逃げ遅れ、犠牲になった例が報告されています。遠隔操作の扉なども検討されているようですが、実現にはまだ時間がかかりそうです。


映子さんの休憩所
赤野に楽しい休憩所が出来ていました。
・・いらっしゃいませ 粗末な小屋ですが休んでいってください 映子・・と、逆打ちの人にも分かるよう表示されています。映子さんのお心遣いが見えるようです。私はコーヒーをご馳走になりました。


櫓船
88才の元漁師が話してくれました。漁師は30年近く前に止めたのだといいます。
・・3:00に起きて、ズーット沖に出なければ、なーんも漁れんようになった。近頃はその上、燃料代が高い。沖に出るには金がかかる。なのに大して穫れん。だから仕方なく、ハウスで茄子を作っている。
・・漁りすぎたよ。調子に乗って漁り尽くした自分が悪いんじゃが。(朽ちかけた自分の櫓船を指さして)薪にもならん。


集会所
何年か前に歩いたときは手作りの木小屋でしたが、テントに変わっていました。年寄り達の集会所です。あの時は、10人近くのお年寄りが集まっていました。
互いに向かいあうことなく、みんな海に向かって並んで坐り、話し合っている風もなく、何しているんですか?と尋ねても「へへへ」と笑うばかり。ようやく引き出した答が「海を見よる」でした。


和食(わじき)駅
前述のように、列車で安芸に引き返し、安芸の宿に泊まります。


安芸駅
17:10 安芸着。駅前の喫茶店でコーヒーを飲みました。テレビに大相撲がかかっていて、朝赤龍の勝負が制限時間いっぱいでした。テレビ桟敷から「イケッ」の気合いがかかり、勝つと「ヨシッ」と褒められました。朝赤龍は高知県出身ではありませんが、前述のように「高知県関係力士」なのです。
18:00前 清月旅館にチェックイン。今日の歩きは19Kほど。
21:15 消灯

  2日目(平成20年5月15日)

トラ電車
今日も晴です。30番善楽寺まで、30K程を歩くつもりです。
6:53 安芸発
車両の虎模様は、阪神タイガースが安芸でキャンプを張ることに因んでいます。列車待ちしていた人の話では、・・キャンプ中は宿はどこもいっぱいで、お遍路さんでもウカウカしていると泊まれんぞ。・・とのことでした。やや自慢気な話しっぷりなのは、この人、大の阪神ファンだからです。お遍路さんは歓迎じゃが、阪神は、もっと歓迎なんじゃ、というわけです。



車窓からの景色です。漁を終え、安芸漁港に帰るところでしょうか。


琴ヶ浜集会所
和食の辺りの砂浜を「琴ヶ浜」というそうです。砂丘の起伏が琴の胴のふくらみにも似て、寄せては返す波の音が、琴の音にも似ているからなのだとか。
私などは「琴ヶ浜」と聞くと、元大関で内掛けの名人・琴ヶ浜を思い出しますが、この方は(高知ではなく)香川県三豊郡(現観音寺市)の出身です。別格18番海岸寺の山門は、仁王さんに代わって、この方(の像)が護っています。


安芸自転車道
サイクリングロードを兼ねた遍路道が松原を抜けています。
この松原は野中兼山の頃から、潮害防備保安林として守られてきたものですが、1960年代に大流行した松食い虫被害で、多くが枯死しました。写真は、数少ない生き残りの松です。
松食い虫被害の大拡大は、(前述した)林業の衰退と共に始まっています。発見が遅くなり、放置される時間が長くなったのです。加えて「エネルギー源の転換」が重なりました。
薪を使っていた頃は、発見された感染樹はすぐ伐採され、薪にして燃やしていたのです。こうして被害の大拡大は、未然に防ぐことができていたのですが、・・。


潮害防備保安林
松食い虫で滅びかかった松原が、蘇ろうとしています。これらの松は、1970年代に植えたものだそうです。


ハマボウ
「ハマボウ」と言ったのだろうか「ハマホウ」だったろうか。何回も問い直したのですが、聞き取れませんでした。(後日、ハマボウとわかった)。
砂浜に生えて、砂浜を守っているのだといいます。


海水健康プール
平成3年(1991)のオープンで、私が歩いた頃は営業していましたが、平成28年(2016)、終了したようです。


堤防なし
堤防のすぐ内側に住んでいる人に、台風が来ると避難するのですかと尋ねると、「ここはしないが、あそこはする」などの答が返ってきました。その根拠は聞けませんでしたが、どうやら経験知だけではなく、専門家による計算もあるような話しぶりでした。
ちなみに写真のこの場所では、避難は必要ないのだと言います。緩やかな砂浜の傾斜が波の力を削いでくれるし、松林が風の力を削いでくれるのだそうでした。そう言われてみれば、ここには波消しブロックもありません。 安芸漁港に16メートル堤防を築いた危機感は、ここでは見られないのでした。


堤防
すこし先に進むと、堤防が見えてきました。しかし低く、しかも場所によって高さが違っています。
この違いも、専門家の計算がはじき出したものなのでしょうか。信頼できるのでしょうか。施策の遅れ、施策の不統一ではないかと、気になって仕方がありません。
とは言え、その対策がいかに困難であるかは、海岸線の長さを身を以て知るだけに、よくわかってはいるつもりです。


旧安芸線
和食川橋の脇に、旧土佐電鉄安芸線の写真が展示されていました。昭和42年(1967)の撮影だそうです。


休憩所
自転車道の脇を走る「ごめん・なはり線」の高架下に、こんな休憩所がありました。ブルーシートで覆われた部分では、宿泊も可能のようでした。縁台のゴザが心地よかったのを覚えています。


プール
太平洋側では、堤防の向こうに海はあっても、海は荒海。泳ぐことは出来ないのです。それでプールなのです。瀬戸内海側では、まず見られることのない景色です。


海亀保護
・・砂浜は海亀の産卵地帯です。車の乗り入れにはご配慮ください。芸西村・・とあります。
卵が潰されたり、せっかく生まれても車輪がつけた溝を越えられず、死んでしまったりしたようです。


国道55号
自転車道は芸西村西分で、これまで並行していた「ごめん・なはり線」や国道55号線(新)と別れます。いずれもが、手結山を貫く長いトンネルを抜けるからです。
旧安芸線が開通した大正の頃には、こんな長いトンネルを掘る技術はありませんでしたから、旧安芸線すなわち現安芸自転車道と国道55号(旧)はもっと海岸寄りを走り、仕方ないところにだけ、短いトンネルを掘っていました。後掲のトンネルは、その内の一本でしょう。
というわけで、旧安芸線である自転車道は、今度は、旧国道55号と並行しています。


芸西村西分
西分漁港の標識がありました。海近くを走っていることが分かります。
写真奧に見える交通標識は、香南市の境界標識です。


香南市
香南市夜須町に入ります。


夜須(やす)
「こころのYASUらぎのまち」とあります。ここは香南市夜須町です。「おいでYASU」とか「おこしYASU」は、高知には馴染まないのでしょうね。


トンネル
自転車道にトンネルがあるなんて!廃線跡利用の自転車道ならではの楽しさです。
前掲の切り通しといいトンネルといい、旧安芸線の跡を探しながらこの道を歩くのも、面白いかもしれません。


仏塔
北さんと歩いた時は気づきませんでした。夜須町手結山にある高野寺分院の仏塔です。
訪ねてみたかったのですが勝手が分からず、通過しました。(実は令和4年の今もまだ訪ねておらず、行きたい所リストに入ったままです)。


なんだ?
夜須を歩いた遍路なら、どなたもが目にして、なんだあれは?と思ったはずです。
その時の様々な事情で、なんだあれは?と思いながらも通り過ぎた人、あとで調べようと、写真を撮って通り過ぎた人、たまたま土地の人に出会って、あれは何?と尋ねた人、行ってみるしかないと、行ってみた人、いろいろでしょう。


正体
私は行ってみた人、でした。
これが正体です。手結港の入り口に架かる可動橋でした。昼間は1時間毎に開閉しています。
橋を渡ると、手結岬を回る海沿いの道に通じています。この道に、後掲の夫婦岩はあります。


兼山碑
手結港の野中兼山顕彰碑です。兼山による日本最初の堀込み式港湾だとか。
「高知に、兼山の理想の鍬が入っていない土地はない」のだそうです。実際、歩いてみて、その通りだと実感します。しかも、つくづく感心するのは、それらの工事のほとんどが、今もなお現役で機能していることです。造ってはみたけれど宝の持ち腐れ、ではないのです。野中兼山は、・・今日の高知の基を造った人、・・といえましょう。


I夫婦岩
夜須町のマンホール蓋です。近頃マンホールの蓋マニアが増えているそうで、安芸の野良時計に続いて、こちらも色付きです。
前述の通り夫婦岩へは、手結港の可動橋を渡って行きます。


絵金蔵
赤岡には「絵金蔵」(えきん・ぐら)があります。商家に散在していた絵金の屏風絵を集め、保存・公開しています。
絵金は江戸末期の画家で、本名を広瀬金蔵といったそうです。狩野派の歴とした絵師で、藩に抱えられていましたが、探幽の贋作を描いたかどで失脚。流れ流れて、赤岡に住みついたのだと言います。
酒を喰らいながら描いた屏風絵は極彩色で、チケットの写真でも垣間見られるように、「恐ろしくも美しい」絵です。入館すればこのような絵を、提灯の灯りで見ることができます。


絵金
入場券は(平成20年のこの頃)500円でしたが、赤岡商店街の店で買うと安くなり、480円でした。私はこの店で買って、絵金を楽しみました。


弁天座
絵金蔵の前には弁天座があります。常打ちではありませんが、時季を見て「田舎歌舞伎」がかけられるとのこと。土佐団十郎とか赤岡勘三郎とか土地の名優が、日夜、稽古に励んでいるのだそうでした。


一本松
昔、遠くからでも見える一本松が立っていました。赤松宿の目印の松だったと言います。
しかし枯れてしまったので、その跡に松を植え、一人前の「一本松」に育つのを待っているのだそうです。
この写真を撮ってから14年を経た今日、この松、どれくらい大きくなっているでしょうか。いつか会いに行きたいものです。
なお、ここ赤岡は高知から20K程の古い宿場町で、旅に出る人は最初の夜を、帰ってきた人は最後の夜を、この宿場で過ごしたといいます。


道標
野市に入りました。車用ですが大日寺への案内が、大きく立っていました。
右には龍馬歴史館の看板があります。龍馬人気を担うNHK大河ドラマの、この年の放送は「篤姫」で、玉木宏が龍馬役で登場していました。そして、この2年後の平成22年(2010)には、福山雅治演じる「龍馬伝」が、数ある龍馬物の中でも最大のヒット。龍馬ブームを巻き起こします。因みに、高知駅前の三志士像(坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太)が建つのは、「龍馬伝」の翌年、平成23年(2011)のことでした。


アンパンマン
アンパンマンの作者やなせ・たかしさんは、冒頭でも紹介しましたが、香美の出身です。
高知県出身のマンガ家は多く、はらたいらさんは、やなせさんと同じ香美で、タレント、随筆家、クイズの名回答者としても活躍しました。他にも、大御所・横山隆一さん、泰三さんの兄弟は高知市の出、黒鉄ヒロシさんは佐川(私が愛飲する司牡丹酒造は黒金さんの実家)、「土佐の一本釣り」を描いた青柳祐介さんは野市、などがいます。


フラフ
端午の節句に男の子が元気に育つことを願って揚げられるフラフは、オランダ語VLAGから来たものといわれ、その始まりは明治の頃であるようです。南国市より東の沿岸部で始まり、次第に農村部にも広がっていったと言います。なぜ土佐のこの地にオランダ語が伝わったかは不明ですが、ある人は、(オランダ語ではなく)ジョン萬次郎が伝えた、英語のFLAGから来ているのだと言っていました。
絵柄は、最近は桃太郎や金太郎などが多いそうですが、昔は、那須与一、源義経、加藤清正、楠木正成など、「悲劇のヒーロー」を描くことが多かったといいます。この人達が、男の子に降りかかる悲劇の肩代わりをしてくれている、との考えからだそうです。


道標
読みにくいですが、上の矢印は大日寺を、下は青少年センターを案内しています。


大日寺へI
28番札所大日寺への登りです。とはいっても、それほど長い登りではありません。
登り口に喫茶店があり、ここで早めの昼をすませました。前回北さんと入った所なので懐かしく、思わず入ってしまったのでした。


本堂
車の多い道からほんのちょっと入っただけなのに、この落ち着きはどうか。静寂すら感じてしまいます。私は大日寺の、この雰囲気がすきです。
ひとつ気づいたのは、境内に「飾り」がないことです。赤い幟も、山門より内側には立っていません。お金を使って作った有り難い何とやらもありません。(どの札所にもいる小坊主さんもいないのか?)こういうことが、私の気持ちを落ち着かせてくれるのだと思います。→(H14冬2)


奥の院
大日寺奥の院・爪彫り薬師は、山門から200㍍ほどの所に在ります。小祠が建つここには、かつては楠の大木が立っており、(大師が爪で彫ったと伝わる)爪彫り薬師が、そのお姿を浮かべていたといいます。
首から上・・目、耳、鼻、頭、顔など・・の病に霊験あらたかな薬師様ですが、残念ながらその楠は、明治初頭、台風で倒れ、今は楠を霊木として、ここに祀っているのだそうです。床下に積まれているのは、ご利益をいただいた人たちが納めた、穴の開いた石です。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。この日は善楽寺まで歩くつもりなので、まだまだ道半ばなのですが、ブログの容量がそろそろ尽きかけてきました。中途半端ですが、ここでいったん切らせていただいて、以下は次号といたします。更新は、12月28日の予定です。

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室戸岬で日の出 津照寺 金剛頂寺 奈半利で日の入り 神峯寺 

2022-10-26 | 四国遍路

 
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  四日目(平成19年4月5日)

室戸岬の月
室戸岬の先端で、日の出を見ることにしました。今日の高知市の日の出は、5:49だそうですから、室戸では、それよりもやや早いのでしょうか。
5:00過ぎ、寒さ対策をし、懐中電灯を持って、海岸に出ました。満月が西に沈もうとしています。


3分前
日の出の約3分前です。雲が気にかかるけど、・・。
今でも悔しく思うことがあります。満月に見とれていたからでしょうか、日の出に気を取られていたからでしょうか、私は室戸灯台の灯を、見忘れてしまったのです。これは悔しい。
最御崎寺が「火つ岬」から来ていることは、前号で記しました。ならば現代の「火つ岬」を見忘れてはならんだろう!ある意味、遍路にとって灯台の火は、日の出よりも大切なものだったのです。これも、灯台下暗しが故でしょうか。


日の出
頭がのぞきました。日の出時刻は、太陽の上辺が水平線(地平線)に一致する時刻をいうそうですから、今が室戸岬の、日の出でしょう。
高知市との時間差を確かめようと腕時計を見ましたが、これは失敗でした。自分で時刻を合わせる安腕時計では、この場合、役に立ちません。


日の出
半分くらい。


日の出
もう少しです。


日の出
水平線上に浮かびました。


日の出
浮き上がりました。


日の出
6:00まで見て、宿に入りました。
6:30 朝食。
7:00過 出発。車で廻っているご夫婦と、別れを惜しみました。
今日はリハビリ遍路の最終日なので、思い切って距離を延ばし、奈半利まで30キロ近くを歩くつもりです。リハビリ遍路では、上限を20キロと決めていましたが、いつまでも、それでいいわけはありません。いつかは、この壁は破らなければなりません。それが今日、というわけです。



ある事を思いつきました。実に単純なガンバルための仕掛けです。
・・室戸岬で日の出を拝み、奈半利で日の入りに感謝する、・・これって、いいじゃないか!よし、30キロ頑張って、奈半利で夕陽を見るぞ!・・という仕掛けです。こんなことでガンバル私を、バカな奴とお笑いください。
とまれ、目指せ、奈半利!私はガンバッテいます。天気予報では、やや寒いとのことでしたが、歩いていれば、むしろ暑いくらい。セーターは早々に脱ぎ、やがて手袋もとりました。


行当岬
行当岬。この読みは、ぎょうとうみさき ぎょうとざき ぎょうどうざき ぎょどざき・・など、いろいろです。正しい読みがどれなのか、私にはわかりません。
ただ思うに、・・「行当」は(前号でもふれた)「行道」に由来する・・とのことですから、「とう」や「と」の読みは、その名の由来からはすこし離れた読みということになり、「正しい」読みからは除外されることになります。「とう」や「と」は、「当」の字が使われ始めて以降の読みと考えられるからです。


行当岬から撮った室戸岬
私見では、「道」から来る「どう」または「ど」の読みが、「正しい」読みなのですが、由来など関心ないという方々には、むしろ「当」を「どう」「ど」と読む方が変であって、「正しくない」のかもしれません。
なお「行当」は、大師が修行された「行堂」に由来する、との説もあるようですが、ここでは触れません。


海嘯襲来地點の碑
昭和9年(1934)9月21日、室戸台風が奈半利町と羽根村の境付近に上陸しました。瞬間風速65mを記録する猛烈な台風でした。
この時、高さ10数㍍にも及ぶ海嘯が、3回来襲したといいます。海嘯とは広辞苑によれば、・・満潮が河川を遡る際に、前面が垂直の壁になって、激しく波立ちながら進行する現象・・です。強風による吹き寄せと気圧低下による海面上昇が満潮と重なり、10数㍍もの高さになったのです。(地震に起因するものは海嘯とは言わず、津波といいます)。


水高之跡
室戸中学の校門側には「水高之跡」の石碑があります。室戸台風の海嘯の高さを示しています。この碑の最上部が、潮の高さだったとのことです。


室戸岬港
室戸岬から行当岬の間には、野中兼山の築港になる港が二つあります。
一つは「室戸岬港」(写真)で、室戸岬先端から3キロほどのところにあります。築港当初は「室戸港」でしたが、「室津港」との混同を避けて「津呂港」と名を変え、さらに近年では「室戸岬港」と呼ばれています。
写真は後年、最御崎寺から下山の途中で撮ったもので、室戸岬港のほぼ全景が見えています。奧の岬は、もちろん行当岬です。


室戸岬港
写真は、室戸岬港の、兼山の工事になる部分です。今は室戸岬港の内港になっています。
左の石碑には、・・野中兼山先生開墾之室戸港・・とあります。昭和3(1928)、室戸岬青年団による建立です。
右は、・・紀貫之朝臣泊舟之處・・です。ただし紀貫之が生きた時代は10世紀ですから、この湊は、未だ存在していません。土佐日記には、奈半利を出た貫之の座船が「室津」に10日間、泊舟したことが記されているので、「室津」が在ったことは確かですが、その「室津」が現在の何処であるかは、当時と今の地形や海岸線の違いもあり、論定できていません。


室津港
もう一つの港は、室津港です。津照寺のすぐ下にあります。この港には兼山の他に、最蔵坊(小笠原一学)や一木権兵衛がかかわっていますが、これについては、→(H27春6)→(H14春2)をご覧ください。
どうやら兼山は、二つの港(室戸湊と室津湊)を、互いに補完し合う一つの湊として構想していたようです。二つの港の港口が互いに逆向きであるのが、その証です。波風がいずれの方向から襲い来ても、どちらかの湊に安全に避難できるように、港口の向きを違えているのです。
写真は、室津港の東内港で、兼山たちが築港した部分は、今は東内港の更に奧の内港となっています。なお室津港の俯瞰は、後掲写真「下の景色」をご覧ください。


兼山の内港
写真は、今は室津港の内港になっている、兼山達の工事になる部分です。
ところで、住宅の建つ位置が海面に比して、とても高いことにお気づきでしょうか。港を囲む道路と住宅の間に、石段が必要なほどの高度差があります。


室津港内港
これは、度重なる地震によって、地面が隆起したことによるのだそうです。
地面が隆起すると内港の水深は浅くなりますから、港として使用し続けるためには、その都度、海底を掘り下げねばなりません。かき出した海底の土砂を隆起した地面に積みあげてゆけば、高度差はつこうというものです。かくて周りの宅地面は、こんなに高くなってしまいました。
写真の「線路」は、船を陸揚げして船底を修理する・・フジツボを取って塗料を塗る・・などのためのものでしょう。


ボート
室津新港に、ちょっと変わったボートが陸揚げされていました。長さ6メートルほどのものが、他にも3艘、置いてありました。
聞けば10月、子供たちのボート漕ぎ競争が、室津港で催されるのだそうでした。(令和4年の現在にも催されているかどうかは、確認できていません)。
船体はペーロンにも似て縦長ですが、よく見ると櫓杭用の横木が6ヵ所ほど付いているようです。もしかすると6丁櫓の船なのかも知れません。とするとペーロンは櫂で漕ぎますから、ペーロンではないことになります。


25番津照寺
津照寺は東寺-西寺の間にある寺ですが、その興りは、東寺-西寺とは異なっています。そのことを『四国遍路の寺』(五来重)がとても分かりやすく説明しているので、引用させてもらいます。
・・東寺と西寺の間に津照寺(津寺)があります。津照寺は『今昔物語集』に出てくる寺ですから、かなり古い寺です。ところが、それを飛び越えて西寺と東寺が結んでいました。もちろん、このころは24番、26番などという番号はありません。津照寺は古いお寺ですが、25番として仲間入りしてくるのはおそらく室町時代です。ここはむしろ海上安全ということで、漁民の祈願寺であったに違いありません。


津照寺
・・津照寺の位置は行ってみたらすぐわかります。室戸の市中、港のすぐ上の小丘上にあります。・・海岸にあるこういうものは港にとっては必須です。遠くに出ていて自分の港に帰るときに目印がなければなりません。それから、漁をする場合に、漁場を決める目当山が必要です。・・目当の山の中でも、とくに自分の帰るべき港の山は曇っていても見えなければなりませんから、なるべく高い方がいいのです。そういうところに海の神をまつります。


魚屋さん
室津川手前に魚屋さんがあります。4年前、北さんと二人で買った鰹のタタキの美味かったこと。
そこで再び立ち寄り、思い出話をしながらタタキを求めたところ、奥さんがこうおっしゃいました。・・お遍路さん、それならその時の味を大切にしていただいて、今回はお求めにならない方がいいと思います。
なぜかと言えば、・・あの頃は藁で焼いてましたけど、今は藁が手に入らなくなったんです。刈り入れの時、藁はコンバインで粉砕しますからね。だから仕方なく、段ボールで燻すんです。
そういえば近頃は、ビニール製の注連縄をかけた神社をよく見かけます。コンバインは、藁のみならず「藁の文化」をも、粉砕しようとしています。


干物
魚屋さんの干物です。天日が旨味を引き出してくれるのでしょう。
写っている川が室津川です。下流の橋を渡ったところに砂浜があり、4年前にはそこで鰹のタタキを食べたのでした。


頭上の敵
ただしそんな時、時々は空を見上げることが必要です。写真は4年前のものです。ふと気づくと、トンビたちが頭上に集結して舞っていました。タタキを狙っているのです。
近頃のトンビは人が手にしているものさえ、奪うようになっています。この時も、1羽が急降下してきたのでした。そこはすかさず金剛杖を差し上げれば、トンビはお大師さんの威を畏れてか、急旋回して退散しました。


室戸は沸いた
宿の女将さんが言うように、たしかに「室戸は沸いた」のでしょう。室戸高校の出場を祝うポスターが、まだ残っていました。
ところで、なんとも「なつかしい」というか、珍しいですね。タバコの銘柄宣伝ポスターが写っています。因みにタバコ自販機の深夜稼働が禁止されたのが平成8年(1996)。たばこ銘柄広告などへの規制が強化されたのが平成16年(2004)。成人識別のためのICカードが導入されたのが、この遍路の翌年・平成20年(2008)でした。


平等津橋
ローマ字表記によれば、「平等津」で「ならし」と読むようです。
私はこのような読み方を知らないので、「平等津」の文字は音を表しているのではなく、なんらかの謂われに基づいて、「ならし」と読ませているのだろうと思います。「注連縄」を「しめ縄」と読ませるなどが、その例です。「奥様」を「まじょ」と読ませるは、違うか・・。


奈良師海岸
試しに国土地理院地図を見ていると、この辺には「奈良師」(ならし)という地名があり、(平等津橋が架かる)「奈良師川」が流れています。高知東部交通のバス停の名も「奈良師」が使われており、この辺の海岸も「奈良師海岸」です。
古く、土佐日記をひもとけば、・・(紀貫之の座舟が)奈良志津(ならしづ)より室津に来ぬ。・・等と記されており、「し」の字こそ違え、「奈良・・」と記され、「平等津」ではありません。
この件、どなたかご教示願えないでしょうか。なぜ「平等津」が「ならし」でしょうか。


道標
西寺、即ち金剛頂寺への道が案内されています。
 嵯峨天皇 淳和天皇 勅願所 
 第二十六番霊場 西寺
前回は西寺から不動岩に降りましたが、今回は登った道を降りて、海沿いを歩いてみるつもりです。そこで近くの民宿に荷物を預かってもらえないかと尋ねたところ、快く受け入れてくださいました。


川村与惣太の墓
説明看板に次の様にありました。
・・川村与惣太は「土佐一覧記」の筆者で貞佳または与三太と号し、享保5年(1720)元浦の郷士の生まれで、儒学者の戸浦良照に学び、西寺別当職を52才で辞した。明和9年(1772)から土佐一国、東は甲浦から西は宿毛松尾坂まで巡遊し、地名・故事を詠んだ三年間の行脚の記録として、「土佐一覧記」を完成する。天明7年(1787)正月13日、六十七才で没する。 室戸市教育委員会
前述の「ならし」のこと、「土佐一覧記」に載っていはせぬかと調べてみましたが、残念、見つかりませんでした。



二十六番金剛頂寺へ、少しずつ高度を上げてゆきます。
お年寄り夫婦に追いつくと、・・わしらにゃ、ムリじゃ、・・と言いながら、それでも五月などを愛でながら、ゆっくりと歩きつづけていました。・・駄目なら引き返して、タクシーで上げてもらいます。・・と話しておられましたが、どうだったでしょう。


下の景色
行当岬からの景色です。奥に室戸岬が、中程に室津港が見えています。津寺が在る所です。
海に沿って走る橋脚の道は、国道55号です。早苗の田圃、海、岬、本当にきれいな景色です。あのお二人が、せめてここまで来られれますように。
ずっと眺めていたかったのですが、残念なことに、さきほどから大きな蜂が、羽音を立てて威嚇飛行をしています。どうやら奴の防空識別圏内に入っているらしいのです。やむを得ず、早々に撮影して歩き始めました。あのお二人、やっぱり来ない方がいいかな。


金剛頂寺山門
正直、この札所では「不快」な思いをしてしまいました。そもそもは私の未熟の故なので恥ずかしいのですが、あえて記しておくことにしました。
納経所に向かっていると、バスツアーのアルバイトさんが大量の納経帳を抱え、私を追い抜いてゆきました。私はその日の遍路メモに、・・あの時、私は不快を感じた。納経所に行くと、案の定だった。・・と記しています。納経所では一人の僧が、山積みの納経帳を前にしていました。
結局、終わるまで待たされました。(待たされた、これが私の気分でした)。待っている間に納経帳を出して台に置いたら、・・終わってからにしなさい・・と叱られました。「待たされている」と感じている私の気持ちが、伝わっていたのかもしれません。彼の気持ちも急いていたのでしょう。


本堂
一度その場を離れよう、とは思ったのですが、その時はもう私の後ろに何人かが並んでおり、せっかく取った順番を捨てるのも、惜しいと思われたのでした。結局、そこで待ち続け、不毛なイライラを(互いに?)募らせることになったのでした。
ようやく団体分が終わり、私の番となりました。アルバイトさんが私に挨拶をし、走り去りました。そこで納経帳を開いて出すと、その何が気に入らなかったかはわかませんが、なにごとかを尖った口調で言っていました。内容は聞き取れませんでした。
一番いやだったのは、納経帳を投げ返してきたことでした。反射的に300円を投げ返したくなりましたが、そこは我慢。コインを三本指で押さえ、ズイと前に押し出していました。すごく惨めな気持ちになっていました。
つまらぬことを書いてしまいました。金剛頂寺(西寺)については、こちらをご覧ください。→(H27春6) →(H19春)拾い遍路②


お接待所
土地の人たちが高校の文化祭のように、張り切って呼び込みをしていました。お接待所です。
・・うちの「よさこい金時」(ふかし芋)は、(東寺の不喰芋とちがって)食べられるよ、美味しいよ、・・とのことです。
楽しかるべきお接待でしたが、心はざらついていました。


シール
荷物を預かってもらった民宿でコーヒーを飲んでいると、善通寺の方が入ってきました。道標シールを自費でつくって、張りながら歩いているそうです。確かにこのシール、見た覚えがあります。
おかげさまで迷わず歩けますと礼を言っていると、宿のおばあさんも出てきて、一緒に、他のタイプのシールや「同行二人」と書いたサラシの布などを見せてもらいました。


交通標識   
11:40 民宿発。岬の先端周りの道を歩きました。
この辺り、もう少し丹念に歩いておけばよかったと後悔しています。



また前方に、何本もの岬が見えてきました。修行の道場たる、土佐路の厳しさを思わせる景色ではあります。
一番手前の岬は、羽根岬でしょうか。



12:25 キラメッセ室戸着。昼食。大きな鯨の模型があります。
  ♫言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ
    潮吹く魚が 泳ぎよる よさこい よさこい
「南国土佐を後にして」は、昭和34年(1959)、ペギー葉山さんのシングルがリリースされ、全国的に知られるようになりました。しかしその元歌は古く、中国大陸に出兵した陸軍朝倉歩兵236連隊(高知県出身者で構成され、「鯨部隊」と呼ばれていた)で、自然発生的に歌い始められたものだと言われています。南国土佐を後にした兵士達が、故郷を偲びつつ戦地で歌った歌だったわけです。
12:55 出発。ここから奈半利まで、16Kはあります。今のペースでは18:00を過ぎてしまい、夕陽に間に合いません。


鯉幟
速度を上げて歩いていると、案の定、左足小指のマメが潰れました。裂けたときの鋭い痛みは、鈍い痛みとは違って、なかなか麻痺しません。すぐ道端で処理しました。
歩き始めはゆっくり。少しずつ速度を早めます。・・大丈夫。歩けました。いえ、むしろマメが出来てからの私の歩きは、(前号でも記しましたが)けっこう速いのです。


枇杷
ビワに袋掛けがされています。遠くから見ると、白い花が咲いているようです。
左には藤が咲いています。


国道55号
13:41 吉良川東の川通過。海沿いを走るのは国道55号です。
東ノ川を渡ると吉良川の街です。吉良川の街を出るときは、西ノ川を渡ります。


吉良川の街
時間を掛けて散策したい街です。
ですが、急がなければなりません。街については、よろしければ、こちらをご覧ください。→(H27春7)
13:52 吉良川西の川通過
14:09 吉良川の出口着。公衆トイレが在る所。ここにて休憩。こまめに休みをとり、その度に靴を脱いで足を解放します。
14:20 同発


鯨のマンホール
この町の消火栓はクジラのマークです。
なんだかんだと言われますが、この国の人は、鯨が好きです。


石ぐろ
よくぞここまでカドが取れたものです。
どこかでも記しましたが、「ぐろ」は、何かを積んだものを意味するようです。ですから、石を積んだものは「石ぐろ」です。「石ぐろ漁」というと、川に石を積んで、そこに潜り込んだウナギを獲る漁です。


室戸高校
また室戸高校の看板です。久々の公立高校の出場が、室戸のみならず高知を、そして全国に散った高知出身者達を、沸かせたようです。
加えて、弱小と思われていた公立室戸高校が、なんとまあ強豪・報徳学園を破り宇部商業を破り、八強に残ったとあっては、これは沸騰ずにはいられなかったでしょう。


牧場
15:30 中山峠入り口の牧場休憩
お年寄りに、羽根岬の中山峠に入る道を尋ねると、細かく教えてくれました。・・(今は、車で海沿いの国道を行くが)昔はワシらも、奈半利に出るには、越えたものじゃ。・・と言います。


来し方
奥が室戸岬。手前が行頭岬です。ずいぶん歩きました。
うれしいのは、10キロ膝がいまだ頑張ってくれていることです。


中山峠
中山峠は開墾されています。
虎杖(いたどり)採集のおじさんと出会いました。のんびりと歩いて来ます。収穫ですね、と話しかけると、ウンウン。
奈半利まで行くと話すと、・・峠を下りたら、あとは4Kだから、6時には着けるだろう・・と教えてくれました。
そのとたん、私は思いました。6時では夕日に間にあわない。(実は日の入りは6:30だったのですが、私は間に合わないと思っていました)。


「不両舌」
急ごうと思い歩き始めようとしたとき、おじさんから声がかかりました。・・これからずっと88番まで、通して歩くのか。・・
今でも思い出すのですが、その時、私は自分のことだけを考えていたのでした。・・ここで自分の歩き方を話し始めると長くなる、・・私は思わず、ハイと答えて歩きはじめておりました。(むろん私は通し歩きではありません)。
写真の掛け札を見たのは、その直後でした。ガーン、殴られた思いがしました。「不両舌」(二枚舌はいけない)と書いてあります。お大師さんはお見通しなのでした。なお、この写真は後年、撮ったものです。探しながら歩いたらまだ残っていたので、戒めとして撮影しました。


加郷領
峠を下りた所は、加郷領といいます。地名由来などについては→(H14冬1)→(H27春7)をご覧ください。
16:10 峠下りる
16:19 弘法大師霊場跡
16:30 同発
17:00 休憩
17:05 同発



陽が傾いてきました。
めいっぱいの早さで30分歩き5分休む、を続けました。5分の間に靴を脱いで、わずかに足を休めます。膝は、今は問題ないので、あえて触りません。


製材
この辺りは林業の盛んなところです。
昔、「鉢巻落とし」というヒノキの銘木があったそうです。あまりの美事さに見上げて、頭の鉢巻が落ちるほどだ、ということから来た名前だそうです。ただし、これは今夜の宿、山本旅館の女将さんから聞く話で、写真撮影時点では、まだ知らないことでした。


宿
17:35 ようやく山本旅館に着きました。
夕日を見たいと言うと、ご主人が日没時間を新聞で調べてくれました。「高知市で18:30だが、奈半利はそれより早いのか遅いのか、ワシャ知らん」といいます。たぶん5分くらい早いのでしょう。
ともかく行ってみます、と出かけました。こんなことなら、なぜ中山峠のおじさんにもっときちんと対応しなかったのか、後悔の念にかられました。


夕陽
海岸に出ました。宿から20分ほどでした。
「だるま夕日は土地のワシらでも、なかなか、よう見られんのよ」と散歩の人が言います。


夕陽
ダルマではないけれど、きれいな夕日です。中山峠での「両舌」を謝り、にもかかわらず無事歩き通せたことに感謝しました。


夕陽
18:20 もうすぐ日没です。水平線上に雲がありますから、雲に隠れるを以て、日没とします。


夕陽
沈みます。


夕陽
沈みました。
急いで旅館に帰りました。いろいろと手順を狂わせてしまい、申し訳ないことでした。
すぐ入浴。夕食。


宿にて
・・ビールはアサヒしかないんよ。昔はキリンでなきゃ、ビールじゃないみたいだったが、おかしなもんよ。・・と女将さん。
こんな話から始まり22:00近くまで、(具体的には記しませんが)人生の重たい一齣一齣を聞かせてもらいました。戦中から戦後にかけての話は、帰宅後ワープロに納めたところ、A43枚に及びました。
写真は女将さんが描いた油絵です。あんな波瀾万丈の人生のどこで、こんな絵を描くことができたのでしょう。


宿にて
ずっと気づかずにいましたが、この絵とほぼ同じ構図の写真を、私は撮っていました。
後にご覧いただく「しんまち橋からの景色」がそれです。どうか見比べてみてください。

  五日目(平成19年4月6日

出発
朝食、7:00。
7:40発。
女将さんが角まで送ってくれました。しばらく歩いて振り返ると、また手を振ってくれました。
なお山本旅館はこの数年後、営業を終えました。おつかれさまでした。ありがとうございました。


高札場
「高札場」と題して、次の様な説明があります。
・・高札場 野根山街道はここの高札場を起点として、野根山連山を尾根伝いに、東洋町野根を結ぶ延々50キロ余で、養老2年(718)にはすでに利用されていた、歴史と伝説に富んだ自然遊歩道である。
高札場というより、野根山街道の説明になっています。読みようによっては、高札場を起点にして街道が築かれたとも、とれないではありませんが、もちろん事実は逆です。街道は(説明にもあるように)養老の古くから在りました。その人通りを利して、高札場が置かれたのです。


奈半利川
かつて奈半利川沿いに、森林鉄道(魚梁瀬森林鉄道奈半利川線)が走っていたのをご存知でしょうか。流域に産する魚梁瀬杉(やなせ杉)や、宿の女将さんが言う「鉢巻き落とし(檜)」などの銘木を、土佐湾まで運び降ろすための鉄道でした。
その鉄道が廃線となったのは、昭和39年(1964)のことのようです。輸入材(外材)に押されて林業そのものが衰退したためでもありますが、おそらく根本の原因は、伐採のしすぎではなかったでしょうか。現在、魚梁瀬杉の天然林は、魚梁瀬地区の千本山に残るのみだといいます。林業における資源の枯渇は、野中兼山が輪伐制を採用するなど、土佐にあっても、古くから懸念されていたことなのですが。
なお魚梁瀬森林鉄道には、奈半利川線の他に、これから渡る安田川沿いを走った、安田川線がありました。


国道と後免-奈半利線の交差
上を走るのが奈半利線、下が国道55号線です。
すぐ側に「二十三士の墓」があります。


二十三士墓
元治元年(1864)7月、清岡道之助をはじめとする二十三士が北川村野根山に集結。獄中の土佐勤王党・武市瑞山以下、その同志達の釈放を求める嘆願書を、土佐藩庁に提出しました。しかし藩はこれを「徒党強訴」とみなして二十三士を捕縛。奈半利川河原で斬首したといいます。
これらの墓は大正2年(1913)、道之助の妻・静が私財を投じて建立したものだそうです。静は、明治24年(1891)、清岡道之助以下が新政府により贈位、顕彰されたのを機に、墓標を整備しますが、大正2年、改めて建立し直したようです。



 至誠はならず 野根山に
 秋風むせぶ 奈半利川
 死して護国の神たらむ
 嗚呼 忠魂は二十三
とあります。この碑は、明治24年(1891)、清岡道之助以下二十三士が新政府により贈位された(名誉回復された)ことを受け、明治30年(1897)、建立されたとのことです。「至誠」「護国の神」「忠魂」などの語句は二十三士を、あたかも日清戦争の戦士であるかに思わせます。これより日露戦争に向かわんとする、当時の日本の世相をよく表しています。


岡御殿
土佐の殿様が野根山峠越えで参勤交代されるとき、ここが宿舎になったそうです。


しんまち橋からの景色  
遠景の山といい、中景の橋といい、前掲の油絵に描かれた景色とそっくりだと思うのですが、どうでしょうか。あの油絵、きっと女将さんは、ここから描いたのです。比較しやすいよう、下に再掲しておきます。


女将さんの風景画
こうして比べてみると、女将さんは遠近法をきちんと学んでおられるようです。そういえば画面にひび割れもまったく見られません。ペインティングオイルの使用量が、適量だからです。


製材所
兼山の輪伐法では、杉檜等を樹齢50年~60年で伐採したようです。現代の基準で言えば、1ヘクタールあたりに3000本ほどの苗木を植林し、3~4回の間伐を経て、50年~60年で伐採したのだといいます。おかげで丸坊主の山は、土佐では見られなかったとか。
なお兼山は、薪炭林にも輪伐制を適用していたそうです。


安田川
‘安田川’をネットで検索すると、鮎の記事がズラリ、並んで出てきます。
この川にはダムがなく、水質はよく、急流が多く、良質の苔もあり、アユやアマゴの生育にとって、絶好の環境が整っているのだそうです。そんなわけで、この川のアユは美味で、「清流めぐり利き鮎会」では2回のグランプリを取っています。
なお、安田川のアユを書いた以上、野根川のアユが美味いことも書いておかねば不公平です。なんとなれば、私が会った野根の人は、・・安田川のアユは美味いけど、野根川のアユも、負けずに美味い・・と、ちゃんと安田川を褒めることを忘れていなかったからです。


門付け
門付けをするお遍路さんがいました。
この方は昨晩、奈半利駅で泊まったそうです。初めは宿に泊まっていたが、いつしか野宿となりました、と言います。「いつしか」というのが、スゴイと思いました。
なかなか(経を)読ませてくれず、「お通り」などと言われてしまいます、と言いますが、非難している風はありません。わずかばかりを、喜捨させていただきました。


土佐鶴酒造
土佐鶴酒造です。この隣に工場があります。見た限りでは、醸造所というよりは「工場」といった感じでした。安田川流域が造る良水を利用しているのでしょう。
山本旅館の女将さんは、こちらが贔屓です。安芸には菊水、佐川には司牡丹があるが、やっぱり土地じゃけんね、と言います。
なお私に関しては、太平洋側を歩いているときは佐川の司牡丹、瀬戸内海側の時は川之江の梅錦、北条の雪雀がお好みです。


水切りと鏝絵
水切り瓦は、雨から漆喰の白壁を保護するためのものです。その在ると無いとでは、白壁の寿命が10年以上も異なると言います。
また水切りは、(卯建にも見られることですが)その家の冨を象徴するものでもあり、勢いその本数や装飾性が競われることになります。このお宅では、本数が多いだけでなく、戸袋に鏝絵までが施されています。鏝絵の下部は、なまこ塀風の仕立てです。


登り口
神峯寺への登り口です。
お参りの後、近くの唐浜駅から帰途につくので、また同じ道を下りてくることになります。
そこで、どこか荷物を預かってくださる家を探したのですが見つからず(事前情報では預かってくれる店があるとのことだった)、とうとうここまで来てしまいました。
・・出がけでなきゃ、ワシが預かってやるけどなあ、・・と言ってくれるバイクのおじさんはいたのですが、結局、少し道から逸れたところに荷物を隠し、登ることにしました。


羽根岬
写真奥に羽根岬が見えます。昨日越えた中山峠がある岬です。
土佐日記で筆者は、
  まことにて 名に聞くところ羽ならば 飛ぶがごとくに 都へもがな
と帰心を詠っています。手前の街は、安田です。



桜が、イマイチです。しかし、この暖かさで、一挙に咲くのでしょう。
手前のオブジェは、高知大学教授・舩木直人さんの作(平成11年)です。神峯寺への遍路道を特徴づけています。


ふり返ると
だいぶ登ってきました。
もうすぐです。


神社と寺
五来重さんは・・札所を識るには奥の院へ行け・・と繰り返し話されます。しかし、訪ねたくて訪ねられないでいる方も、多いのではないでしょうか。多くの場合、奥の院は遠い山の中にあるからです。
そんな方に、此所はお勧めです。奥の院がすぐ上の近場に在って、しかも札所の原初の姿が、けっこううかがい知れるからです。
左が神峯寺の山門で、右が神峯寺の奥の院・神峯神社の鳥居です。私は神社に、先にお詣りしました。→(H27春7)


本堂
この写真からは分かりづらいですが、本堂は正面に唐破風、その後ろに千鳥破風を構えた、神社風の造りになっています。奥の院・神峯神社の本殿と造りが似ているのですが(おそらく似せて造ったのでしょう)、このときは気づきませんでした。神仏分離・廃仏毀釈により、神峯寺は明治初期、廃寺となり、27番札所はご本尊と共に金剛頂寺に移されていましたが、明治20年(1887)、再興されました。


菅直人筆
境内のうどん屋さんに入ると、「体感 菅直人」が目に入りました。菅さんが求められて書いたとのこと。
隣には「み仏に 我が道問えば 蝉しぐれ 命限りに 鳴いてはかなし  第64代防衛庁長官・中谷元」もありました。この方は、高知の出身です。


うどん屋さん
食べていると、顔が真っ赤に日焼けした、青年遍路がやってきました。春とはいえ、高知の日差しは強いのです。朝早出して金剛頂寺から来たとのことです。今日中に安芸まで行きたいとのことですから、すごい脚力です。
しかし、・・もう、たまらん、・・と言います。頭にタオルを巻いて、ここまで来たが、この暑さには降参、とのことでした。この食堂では遍路用品も売っていて、彼は菅笠を求めにきたのでした。手早く買って、うん、これはいい、と言って元気に出てゆきました。


下山
菅さんは、あの大騒ぎされた夏遍路の後は、まったく一人で歩いているのだそうです。このうどん屋さんへも、一人で来たと言います。ある宿では、・・自分で電話かけてきて、独りでやって来ましたよ、偉ぶることもなく(むしろ控え目で)、いい方でした、と話してくれました。
遍路道では誰もが同じ。社会的地位など関係ない。ここでは裸の菅直人。そう決めているのでしょう。だから、うどん屋の壁にも、第○代内閣総理大臣、などとは書かないのです。
下に写っているビニールハウスは、ナスでした。


鳥居
降りてきました。やや不安に駆られながら荷物の隠し場所に行ったら、よかったー、ありました。もうこんなことは、しない方がいいと思いました。歩いていても、気が気ではありません。
これから帰宅です。ここから500Mほどの唐浜駅へ向かいます。


唐浜(とうのはま)駅
ホームに上がると、電車待ちしている人がいました。聞けば、札幌から来た人でした。
・・先祖が徳島の出なので、今年、決意してやってきました。本当は歩きたいのですが、今のペースでは予定日までに結願できそうもなくて、・・かといって札幌からそう度々は来られませんしね。仕方なく電車に乗ることにしました。
あるいは彼のご先祖は、明治初期、北海道の分領支配にかかわって、徳島から移住した人だったのかもしれません。


電車来る
車中でも話は続きました。
・・よく「遠くから来たね」と言われますが、もっと遠い、旭川の人に会いましたよ。
ピンと来た私がいろいろ尋ねてみると、その方はどうやら、(前号でも記しましたが)室戸の休憩所に、次の様な伝言を残した方でした。・・4/4 7:20 ロッジ尾崎発。9:40着 空と海の路を歩く・・この後も空と海の道を歩くのだ。北海道旭川から来ました。(氏名) 59才
・・その方、私も会いましたよ。世の中、広いようで狭いですね。今度会ったら、無事結願を祈っていると伝えてください。私はこの後帰宅するので、もうお会いできませんが。
さて、この伝言、旭川の方に伝わりましたでしょうか。私はなんとなく、伝わっているような気がしています。


へんろ石饅頭
札幌の方は野市駅で下車し、大日寺に向かいました。
私は御免駅で下車し、「へんろ石饅頭」(明治25年創業)を買いに行きました。
アンコたっぷりですが、ほどよく甘みが抑えられています。何の飾りっ気もない饅頭ですが、土産にも喜ばれました。


帰り
とうとう終わりましたが、終わりを惜しむ気になれたことを、今は喜んでいます。
多くの人との出会いがありました。「楽しい遍路」でした。リハビリ目的も達成されたと思います。(たった1日だけにせよ)膝が30キロの歩きに耐えてくれたのは、うれしい収穫です。
機中で、私は早くも次回遍路の計画を、あれこれと練り始めていました。それはもちろん、宇多津から歩き継ぐ、結願への区切り歩きです。

というわけで、次回からは結願シリーズをご覧いただくはずだったのですが、そうは問屋が・・、が世の常です。
今度は北さんに、家を空けられない事情が発生。結願は先送りとなりました。ずっと一緒に歩いてきたのです。結願は、やはり一緒にしたいと思いました。北さんもそのつもりで、私を待っていてくれたのでした。
しかし、とは言え、その間を温和しく待っていられるほど、私は殊勝ではありません。待ちきれない私は、また単独で、あちこちを拾い歩きすることとなります。

そんなわけで、次号からは平成20年(2008)5月に歩いた、神峯寺-土佐久礼シリーズをご覧いただくことになります。更新は11月23日の予定です。 
長々とご覧いただきまして、ありがとうございました。                           

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拾い遍路②:慈眼寺 穴禅定 DMV 室戸岬 御厨人洞 最御崎寺

2022-09-28 | 四国遍路

 
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  二日目(平成19年4月3日)

慈眼寺へ
7:00過ぎ、「さかもと」に荷物を預け、地図をいただき、別格3番月頂山慈眼寺に向かいました。
天候は晴ですが、黄砂は相変わらずで、空は曇っています。


集落
坂本が紅葉の植樹をしていると、前号で記しましたが、桜もきれいです。


登り口
左側に理髪店を見て、前方50メートルほど先に、山道への登り口があります。
ブリキ看板にある「清酒 津乃峰」は、阿波橘にある津峰神社(つのみね神社)のお神酒です。なお津峰山は、(如意輪寺がある)中津峰山→(H26秋 1) 、日峰山 →(H26春 7)とともに「阿波三峰」と呼ばれ、航海安全の神として信仰されました。山上には今も、地乗り航法時代の名残として、灯の鉄塔が建っています。



電柱に外灯がついているのにお気づきでしょうか。この道は山道ですが、より上の集落の人たちが使う、生活の道でもあるようです。
後のことになりますが、平成21年4月、北さんとこの道を登っていると、自転車に乗った男子中学生が二人、すごい勢いで降りてきました。久国の勝浦中学校に通う子たちでしたが、この子達の帰宅時のことを考えれば、ここに外灯は、絶対必要でしょうね。片道6-7キロはありそうで、しかも帰りは、すべてが上り坂です。私などはついつい、車での送迎を考えてしまうのですが。


ミカン農家
この集落には車道が通じているようです。今はどこにも通じているのでしょう。しかし家族が自家用車で送迎するとか、スクールバスが廻ってくるなどの話は、(この時点では)ないと思われました。それよりも大人達は、自転車通学する子たちの「たくましさ」を、楽しんでいる風でさえありました。「さかもと」の人たちに中学生の話をすると、いかにも楽しげに、「あの子たち(もう、どこの子か分かっているらしい)、帰りは横瀬から山の上まで、立ちこぎですよ」「足腰が強くなるわー」などと話をはずませたのでした。私が、「昔、西鉄ライオンズというチームに、神様、仏様、稲尾様と頼りにされるピッチャーがいましてね、彼は子供のころ、船を漕いでいたので足腰が強かったんですよ」と昔話を紹介すると、「山には船は登らないけどねー」とまぜかえします。



もう一つ、この件で感心したことがありました。
私たちが中学生二人とすれ違った話をしたときのことです。「二人は挨拶しましたか」と私たちに尋ねた人がました。私たちには唐突とも思える問いなのに、居合わせた人たちは、当たり前のようにそれを聞いています。むしろ答を聞きたがっている風でした。
それでわかりました。どうやら、それが地域の大人達の、地域の子供達への接し方なのです。あの子たちは「他所の子」ではなく、「地域の子」なのでしょう。だから挨拶をしたかどうかが、気にかかるのです。


景色
山道から一度車道に降りてきた、標高300メートル辺りからの景色です。すぐ先に「おへんろさん休憩所」(黄表紙地図では「小屋」と記されている)があり、そこからまた山道に入ります。なお、慈眼寺の大師堂や寺務所がある地点の標高は550メートル、本堂、穴禅定がある地点は650メートルです。


おへんろさん休憩所
山中にこんな立派な休憩所があるとは、予想もしないことでした。「さかもと」の人から後で聞きましたが、近くの集落の方が始めたのだそうでした。「電気も引いてあったでしょ」と言われたので写真で確認すると、なるほど電灯が下がっています。
それほど疲れはありませんでしたが、せっかくなので、しばらく休ませてもらいました。ここから再び山道になることですし。



慈眼寺は、寂本さんが・・此寺札所の数に非といへども、霊境にて載ざる事を得ず・・と記す名刹です。「穴禅定の寺」とも呼ばれますが、その由来を、慈眼寺HPは次の様に記しています。
・・延暦年間(西暦782年~805年)、桓武天皇の御代。弘法大師が19才のとき、末代衆生(あらゆる人々)の生活苦、病苦など一切の苦厄(四苦八苦)を除くため当地をご巡錫しておられました。



・・大師様は、深山霊谷のそのまた奥に霊気漂う不思議な鍾乳洞を発見し、邪気祓いのため洞窟の入り口で護摩祈祷の修行をなさいました。その結願も近いある日、洞窟内に巣くっていた悪い龍が忽然として現れ出て、お大師様めがけて猛然と襲いかかりました。お大師様は、慌てずひるまず秘密真言を唱えうち、その法力をもって悪龍を洞窟の奥に封じ込め、21日間の加持をして、さらに霊木に一刀三礼して十一面観音様を刻み、霊験あらたかな行場としてその秘法を末代の修行者のために残されたのです。


慈眼寺
慈眼寺です。「さかもと」から、1時間半ほどかけてやってきました。3.5キロほどの登りでした。
ただし(前述のように)ここは大師堂、寺務所を中心に構成された区域で、本堂、穴禅定は、写真奧に見える、峭壁の下にあります。


大師堂
大師堂右の納経所で穴禅定の申し込みをすると、さっき出ていった人達と一緒なら1500円だが、次回は1時間先で、もし希望者が一人しかいなかったら、3000円になります、とのこと。すぐ1500円で申し込みをし、追いかけることにしました。


登る
着替えの白衣とローソクを受け取って、急ぎました。
けっこう急坂で、息が切れました。何とか追いついた一行は、女性の先達に率いられた、三河から来たという、5人の女性たちでした。何はともあれ、「運命」を共にさせてください、とご挨拶。列のしんがりにつきました。
なお、前を行く人たちの白衣に南無大師遍照金剛の背文字がないのは、下ですでに、穴禅定用の白衣に着替えているからです。


本堂
本堂にお参りした後、ローソク以外の一切の物・・ポケットの中の物、メガネなども、本堂前の小屋に置き、一列に並びました。
列は先達さんが先頭で、その後ろにグループで一番大柄の人がつきます。狭い岩窟の中で先達さんの助言を一番必要とするのは、大柄の人だからです。(あまりにも大柄の人は、詰まってしまうので入れません)。私はスリムなので(つまり痩せているので)、しんがりにつきました。
先達さんの指示は伝言ゲーム式に必ず後ろに伝えること、もし前の人がつかえたら、出来るだけ楽な姿勢で待つこと、の2点が指示され、いよいよ入洞です。


岩屋
洞内の様子を寂本さんは、次の様に記しています。・・松(たいまつ)ともし入に、いとくらく、いとせばし。先達の人に随ひ身を左みぎになし、はい入事十間斗(ばかり)・・
私は、もう少し生々しく、次の様なメモを残しています。・・左肩から入る。身体を沈めて頭を通し、上体を後方に倒して右手で支え、ズルようにして足から抜ける。が、立ち上がる時、頭に気を付ける。といった具合に、ふだんめったにとることのない姿勢で抜けてゆく。岩の表面は意外と滑らかで、ローソクが垂れてそうなったのか、どなたかが塗ってくれているのか、わからないが、滑りが良くなっていた。


景色
最奥部に弘法大師を祀った、やや広い空間があり、ここでも般若心経などを全員で読経。その後、それぞれの「祈願」を先達さんに伝え、先達さんを介してお大師さんにお願いしてもらいました。「祈願」の最後は、先達さんのサービス祈願で、「全員、この洞窟から早く出られますように」でした。大方は笑っていましたが、中には”恐い冗談は止めてくれ”と思った人もいたようでした。
とまれ祈願のおかげもあってか、全員無事帰還。空が(黄砂で曇っているにもかかわらず)広々と見えました。その後、本堂の周りを三回、真言を唱えながら行道。無事帰還のお礼をしました。


道標
先達さんとの会話です。
・・一日、何回くらい案内されるのですか。
・・多い日には六回ですね。
・・中で身動きならなくなったりすることは・・
・・私はないですけど、たまにあるようですね。そういうときは、大変です。閉所に長くいると、誰だって恐いですよね。
・・ではサービスの祈願は、案外、先達さんの本心なのでしょうか。
・・もちろん、そうです。


景色
穴禅定は予想していたよりも長く、2時間余かかりました。5人だと、これくらいはかかるようです。
この後、坂本からバスでの移動を考えていますから、下山を急がねばなりません。


帰着
12:40「さかもと」に帰り着きました。急いで(予約してあった)昼食をとります。山菜はどれも、「そこらで採れたもの」とかで、美味でしたが、特に私好みだったのは、虎杖の漬け物でした。


郵便局
バスの発車は13:18。坂本郵便局の前がバス停になっています。間に合いそうもないので、車で送ってくださいました。
行き先はJR南小松島駅。牟岐線で海部まで移動し、(予約はまだですが)海部の宿に泊まる予定です。


南小松駅
南小松島駅。
駅前公衆電話で海部の宿に電話を入れますが、通じません。「その電話は使われていません」との応答。まさか廃業?しかし104で尋ねると、「登録されています。別の公衆電話でかけてください」とのこと。しかしその別の電話が、最近はなかなかみつからないのです。
困り果てていると、売店のおばさんが助けてくれました。ご自分の携帯でかけてくれたのでした。携帯の取得。もう観念しなければなりませんかね。


ディーゼル車
15:05 南小松島発。特急「むろと」です。
車窓風景を楽しみたいと思っていたのですが、うつらうつらが始まってしまいました。北さんが同行していれば、彼はこのようなときは絶対に寝ませんから、こんなことは起きなかったのですが、・・。私は車中の大半を寝てしまい、ようやく撮れた写真が、下の2枚です。


田植え
関東では田植えは五月連休の頃ですが、こちらでは、もう始まろうとしていました。ある田圃は、まだ田起こしをして乾かし中。ある所は、もう水を張ってある。早くも早苗が風を受けている田圃もある、など、いろいろです。写真は、田植え直前の代掻きをしているところでしょうか。


日和佐城
日和佐城です。天然の要害と言えましょうか。16世紀の後半、土地の豪族・日和佐氏が、長宗我部元親の阿波侵攻に備えて築いたのが最初、と考えられています。ただし日和佐氏は、戦わずして降伏してしまいます。その理由などについては、→(H27春 2)をご覧ください。
なお、立派に「復元」されていますが、この城について知られていることは、少ないと言います。「復元」は(立派ではありますが)、原型を正しく踏まえているとは、言いがたいようです。


海部駅2番線
海部駅は、昭和48年(1973)、牟岐線が延伸(牟岐-海部)されたことにより、牟岐線の終点の駅として誕生しました。当時、高架駅は珍しく、四国では初めてだったとのことです。
その後、平成4年(1992)、阿佐海岸鉄道の阿佐東線(海部-甲浦)が開業し、海部駅は、阿佐東線への接続駅としても働くようになりました。従来の牟岐線ホームに加えて、阿佐東線のホームを増設。一つ駅舎に、鉄道2社が同居する形が生まれたのでした。


延ばそう!阿佐東線 
上掲写真は、海部駅の2番線ホームですが、隣駅に阿佐東線の「宍喰」(ししくい)が表示されています。宍喰の次は(阿波-土佐の国境を挟んで)終点・甲浦(かんのうら)となります。短いながらも阿波の鉄道が、また少し室戸に近づいたのです。
なお、後の話ですが、阿佐海岸鉄は令和3年(2021)12月、DMV運行・・デュアル・モバイル・ビークル=鉄道と道路の両用車両の運行・・という形で、室戸までの延伸を実現します。運転日が限定されているなど、まだ不十分なところは多いですが、とにもかくにも、戦前からの念願の夢が実現したのは、間違いありません。


今夜の宿
今日の宿です。部屋に入って小休止。その後、徳島駅でお接待にいただいた案内書に目を通しました。とても量があるので、持ち歩けません。明朝、宿の人に事情を話し、処分してもらうことにします。
同宿は、歩き遍路が3人でした。宮城から来た青年遍路は礼儀正しい人で、家業を継ぐ前に、その決意を作ろうと遍路に来たのだそうです。70代白髪の男性は、スマートな立ち居振る舞いをされる方です。公平、誠実、冷静が感じられ、好感が持てました。もうお一方は60代の男性で、磊落というのでしょうか、明るく、ざっくばらんな方でした。話すうち、彼が丸亀の自宅に遍路休憩所を設けている人で、3ヶ月前、北さんと私がそこで休ませてもらっていたことがわかりました。私はもちろん、彼もその奇遇を喜んでくれました。利用者からの感想がきける機会は、あまりないのだそうでした。


夕食
丸亀の方は話題豊富な方で、いろいろの話で座持ちを務めてくれました。白髪の人と私は、所々で質問などを発する役回り。青年はその聞き役。飽きもせず、よく聞いてくれました。終わりに、退屈しなかった?と尋ねたら、・・勉強になりました。お椀の開け方も。・・とのこと。堅く閉まった蓋の開け方を、私が教えてあげたのです。
和やかにして楽しいひとときでしたが、みんなが真剣になった話もありました。当時、ある遍路宿の「悪評」が、歩き遍路の間に広まっていました。・・雨の日、宿に着いた歩き遍路が、まだチェックイン時刻の前だという理由で、軒先で待たされた・・というような「悪評」です。丸亀の人がこれを取りあげ、皆さんはどう思いますか、と尋ねたのです。(詳細は略しますが)話をまとめたのは、白髪の方でした。・・あの宿について、私は他にも同様の話を耳にしていますが、それらの出所は一つと考えています。雨のなかで待たせたことは、あったとしても一度だけのことでしょう。なぜなら・・。その説得力のある説明に、みんな聞き入ったものでした。彼の話は、こう締めくくられました。・・遍路もまた、日常を引きずって歩いている、並みの人間ということでしょう。迷故三界城。

  三日目(平成19年4月4日)

ボラの子
川で泳ぐ小魚(出世魚・ボラの幼魚で、オボコとかスバシリと呼ばれる段階らしい)を見ていると、東南アジア系の青年が通りかかりました。私が遍路とわかっているらしく、ご苦労様です、と声をかけてくれました。マグロ船に乗り組んでいるが、これから母国・インドネシアに一時帰国する、といいます。
3年前、平成16年(2004)12月26日に起きたインドネシア・スマトラ島沖大地震・インド洋津波の時のことを尋ねると、あのときはインドネシアにいたが、住まいがボルネオ近くなので大丈夫だった。しかし地震の揺れは尋常ではなく、大事が起きたことはすぐ理解した、と話してくれました。
後のことになりますが、それより7年後の平成23年(2011)3月11日、私は揺れ止まぬ地震の中で、彼の話を思い出していました。そして気づきました。・・あの時、私は他人事ではないと思って彼の話を聞いていたが、我が事としては聞いていなかった。・・’他人事ではない’と’我が事である’は、同意ではないのです。


阿佐東線
海部から阿佐東線で甲浦に移動します。甲浦からはバスに乗り換え、佐喜浜辺りで下車。室戸岬まで歩くつもりです。宿は、前にも泊まった、室戸岬先端の宿です。公衆電話探しに懲りて、朝早々、宿の電話をお借りして、予約しました。
さて、天恢さん。もし秋遍路が実現すれば、ここはDMVで行くところですよね。甲浦の乗り換えはなく、当然、バス待ちもなく、ずいぶん快適な移動となります。おまけに、鉄路モードから道路モードへの切り替えという、世界でもここでしか見られない場面に立ち会うこともできるのです。天恢さん、秋遍路で乗れるといいですね。


阿佐東線の終点・甲浦
バス待ちの間、話しかけてくれる人がいました。中年の女性で、その頃東洋町で問題になり全国ニュースにもなっていた、「高レベル核廃棄物(核のゴミ)最終処理場」の話をしてくれました。東洋町の町長さんが核廃処理場の立地調査に(住民はおろか、議会の同意も得られないまま)応募してしまったそうなのです。



まあ、立地調査が実施されたたけで、年間10億円の交付金が出るとか聞かされれば、財政難に日夜苦しむ町長さんの食指が、ついつい動いてしまったのも、仕方ないのかも知れません。
しかし、とはいえ「ついつい」では事は片付きません。当然のように反対運動が起こり、町長リコールの署名運動が始まりました。私が東洋町に入った4月4日は、その運動が最高潮に達しようとしていた頃で、女性が私に声をかけたのも、そんな雰囲気の中でのことであったと思われます。どこの誰とも知れぬ遍路の私にさえ声をかけたのは、・・この問題はひとり東洋町だけの問題ではなく、国の問題なのだ・・との認識が、彼女にあったからでしょう。
なお私は、この翌日、4月5日、奈半利の宿のテレビで、町長さんが辞意を表明したニュースを耳にします。反対運動の局面は、リコールから町長選挙戦に転じたのです。



選挙(4月22日)の結果は、自宅で聞きました。処理場に反対する候補が当選。東洋町が応募を撤回して、個別東洋町の問題は終わります。むろん彼女が案じていたように、処理場の問題は未解決のまま、国の課題として残りました。
そして、・・それから13年後、令和2年(2020)10月3日、私は次の様な報道に接し、暗澹たる思いにかられます。
・・「核のごみ(原発から出る高レベル放射性廃棄物)」の最終処分場をめぐり、北海道の神恵内(かもえない)村と寿都(すっつ)町が、国の選定プロセスに応募する方針を固めた。応募すれば2007年の高知県東洋町(その後撤回)以来13年ぶりで、・・「文献調査」に応募すれば、2年で最大20億円の交付金が得られる。2町村はいずれも人口減で先行きが厳しいとして、選定に向けた調査で得られる交付金に期待する。・・
地方の貧困につけ込むような国のやり口も、毒と知りつつ敢えて飲もうとする自治体の「安易さ」も、この13年間,変わっていないようです。いえ、むしろ深刻化しているのだと思います。


室戸岬へ
室戸岬まで19K余の所でバスを降りました。
5年前、この辺を飛ぶように歩いたのを、思い出します。なぜ「飛ぶよう」だったかと云えば、両足のマメの痛みを一歩一歩、ゆっくりと味わうことには、もう耐えられなくなっていたからです。痛みを感じる間もおかず次の足を出せば、二度の痛みが一度になります。忍者が水面を走る「原理」と似ていますね。片足が沈む前に次の足を出す、というやつです。
しかし今回は、10キロ膝の不安はあるものの、今のところ痛みはありません。ゆったりとした気分で、左は海、右は山、前方に岬が次々と現れてくる、・・国道55号線の景色を楽しみながら歩くつもりです。
なお5年前のアルバム・→(H14春)二回目の遍路②で、試しに「マメ」を検索してみたら、11件が検出されました。・・マメにも負けず、風にも負けず・・などと記しています。よほどまいっていたのです。


佐喜浜八幡宮
5年前、ゆっくり見たいと思いながらも、見られなかった佐喜浜八幡宮です。
境内の説明板によれば、・・鎌倉時代の天福元年(1232)、京都男山石清水八幡宮より勧請して創められ、佐喜浜全住民の氏神となっている、・・とのことです。
例大祭で奉納される、俄(にわか)、獅子舞(狂い獅子・荒獅子)は、「佐喜浜八幡宮古式行事」として、県の無形民俗文化財に指定されています。常夜灯は、西洋レンガが使われた珍しいものです。明治16年(1883)の年号が入っています。


佐喜浜漁港灯台
八幡さまのご利益は多岐にわたりますが、佐喜浜では就中、海上安全、豊漁が期待されています。この神社が海に向いているのは、それ故です。写真がないのが残念ですが、佐喜浜八幡宮一の鳥居(常夜灯の鳥居は二ノ鳥居)からふり返ると、豊穣なれども荒れれば恐い、無辺の海が見えます。漁師達はこの海へ、八幡神のご加護を信じて出漁し、加護を得て帰ってくるのです。


佐喜浜漁港
威勢のよい声で、水揚げの最中でした。たぶん、今が旬の鰤でしょう。(この後、椎名の記事でもご紹介しますが)この頃は定置網の盛漁期で、脂ののった鰤が大量に獲れていました。


  
後ろは桜の山でした。


源内槍掛けの松跡の碑
石碑に、「明治31年生 73歳の同士 槍掛けの松跡に碑を建つ (連名) 」と刻まれています。
源内とは、崎浜(佐喜浜)城主・大野家源内左衛門貞義のこと。長宗我部元親の侵攻を阻まんと勇猛果敢に戦い、その神出鬼没ぶりは「ここにても源内、かしこにても源内」と云われるほどだったと伝わります。
しかしその源内も、敵将・沢田太郎左衛門に討ち取られてしまいます。佐喜浜勢はこれを機に総崩れとなり、元親は阿波への道を開きました。その時、多数の住民が元親の命により、「なで切り」にされたそうで、近ごろ人気回復気味の元親も、ここでは(天恢さんが言うとおり)「ワル」です。
その源内がよく槍を立てかけたという松が、昭和6年(1931)、倒れてしまいました。写真の碑は、これを惜しむ明治31年生まれの人たちが、昭和46年(1971)、「同士」と語らい、建立したのだそうです。これが如何なる「同士」であったかは、わかりません。


火除け・魔除け
火除けや魔除けとして、吊しているのでしょう。貝が持つトゲが邪悪なるものを払う、と信じられているのかも知れません。ただ、このお宅以外には貝を吊している家は見つからなかったので、この界隈に広がる信仰ではないかもしれません。沖縄などでは、水字貝(すいじがい)を吊すなど、魔除けとして貝を吊すことは、よく行われていますが。

 
石垣
国道55号の前身は、昭和28年(1953)に徳島-高知間に建設された、2級国道194号でした。昇格して一級国道55号となったのは、昭和38年(1963)だったとのことです。その際、堤防を強化するなど、国道を護る工事が行われましたが、それらが引いては、居住地を護っていることは、いうまでもありません。
海沿いを走る国道55号は、(まだ充分とは言えませんが)海に対して陸地を守る(即ち住民を守る)、長い防御ラインとしても在るのです。東日本大震災で仙台東部道路が津波を止めたことは、よく知られています。


自力防衛
おそらくこれらの家々は、かつてはもっともっと直に、海の脅威にさらされていたにちがいないのです。


国道
1日20キロを超えないことは、リハビリ遍路の原則でした。今日も、この原則は守られています。
しかし、そろそろ30キロレベルにアップしなければ、とは考えています。今日の具合を見て、できれば最終日の明日は、ちょっと頑張ってみるか?



55号線を歩いていると、前方に次々と岬が見えてきます。今度こそ室戸岬だ、と思うのですが、それは「偽」室戸岬。
この繰り返しで、もうあきらめかけた頃、「真」室戸岬が現れます。


夫婦岩
雨風に、また激しい波にも打たれながら、夫婦岩は、しっかりと立ち続けています。まさに夫婦は、斯くあらねばなりません。
しかし、当然ながら、夫婦岩にも侵食は進んでいるようです。近年は落石の危険があり、立ち入りが出来ません。



浜を歩くと、さまざまの漂着物に出会います。テキサスから手紙入りの瓶が流れ着いていたり、名も知らぬ遠き島から椰子の実が流れ着いていたりもします。ブライアン少年の手紙が海を渡り高知に届いた話は、中学の英語の教科書に載りました。流れ着いた椰子の実から、柳田国男さんは海にも「道」があることを感知。日本人のルーツに思索を巡らせました。島崎藤村はそれを歌に書き、「椰子の実」は今も歌われ続けています。漂着物にはロマンがありました。→(H27秋4)→(H15秋2)
しかし近ごろ、浜に流れ着くのは、かならずしも嬉しいものばかりではありません。流れ着いた鯨の胃には、プラスティックゴミや漁網などが、いっぱい詰まっていたそうです。大気も海も、汚れました。グレタさんが・・なんてこと、してくれたんだ・・と怒るのももっともです。


南無大師遍照金剛
丁寧な字で書かれています。字から不快は感じません。心から道中恙ないことを祈ってくれているのも、わかります。
しかし、私たち遍路が歩いている道が他人様の生活空間であることを、忘れてはいないでしょうか。我が思いを、思うように書き残して、いいわけがありません。


側溝
側溝の蓋の上に、何人もの足跡がついています。この上は水平なので歩きやすく、ここを歩く人は多いようです。私もよく歩きます。
初めのうちは、穴にお杖を差し込んでしまい、引っ張られてしまうことがよくありましたが、いつしか慣れて、サッと引き抜く術もおぼえました。ただし、とりわけ暗くなってからは、十分な注意が必要です。突然蓋がなくなることがあるからです。足摺岬で北さんがそれに気づかず、空踏みして転倒したときは、→(H15秋4) 一瞬、大怪我を覚悟したものでした。


水切り
「水切り」は、雨から漆喰を守るための工夫です。高知ではよく見かけます。


海洋深層水
「海洋深層水」の看板が多く見えます。平成16年(2004)8月にこの辺を歩いた菅直人さんはご自分のHPに、「宣伝を頼まれたので」と断ったうえで、深層水を宣伝していました。「頼まれたので」は、政治家の用心なのでしょうが、あるいは深層水の採取が引き起こす自然破壊を、危惧されてのことであったかもしれません。なにせこの辺には、深層水利用の風呂、深層水でたてたコーヒー、芋けんぴなどなど、海洋深層水商品が大流行なのです。「母なる海」の深部は、あまりかき回したくないと、私は思うのですが。


  
かつての海底が姿を見せているのでしょうか。ここは、海と陸地がせめぎ合う所です。



椎名漁港で定置網の補修をしていました。威勢のよい若い衆とお年寄りが、私に話しかけてくれました。
 年寄り 昨日はブリが3500本あがった。
 私    スゴイ!
 若い衆  一昨日は5000本だった。(若い衆の小鼻がふくらむ)
 若い衆  その前は17万トンだ。
 私    エッ、スゴイ。でも、トンって?
 若い衆 ブリ以外のアジやイカなどは、まとめてトンで数えるんさ。まあ、雑魚ちゅうわけ。(また小鼻がふくらむ)
 年寄 り 隣は40万だ。(隣とは、隣の三津漁港のこと)
 若い衆  40万は獲りすぎよ。魚が傷むろーが。(定置網を引き上げるとき、重みで魚体が傷ついてしまう)


網修理
何とも楽しい会話ですが、その間も手は動きつづけます。


いしぐろ塀
きれいに角が取れた石です。「いしぐろ」については、→(H27春 7)をご覧ください。少しまとめてあります。


鯨山見
「鯨山見」跡への登り口です。50Mほどの高さで、上には焚き火の跡が残るといいます。狼煙の跡?
この辺りの古式鯨漁は、寛永の頃に始まり、明治末期まで続いたとのこと。登ってみるべきでした。→(H27春5)


遭難碑
滋賀丸遭難者慰霊碑案内板に、次の様にあります。
・・昭和19年(1944)5月30日、この沖合約1500米を高知より大阪に向けて航行中の貨客船・滋賀丸役900トンアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け瞬時にして沈没した。当時は報道を禁止され、詳細は不明のまま30年が過ぎた。室戸ライオンズクラブはこの痛ましい霊を慰めるべく極力調査の結果、幼児を含む37名の遭難者を確認、その御霊を祭って昭和49年5月30日眼下の波打ちぎわに慰霊の碑を建立した。以来毎年この命日には遺族と共に慰霊祭を行っている。  平成14年5月30日 室戸ライオンズクラブ


アザミ採り
堤防の切れ目から下をのぞくと、なにかを採っている人がいました。
降りてみると、アザミの根を採っているのでした。石の間のわずかな砂地に生えているので、釘抜きのような金具を使っていました。
・・石の間の砂に生えた根を掘るので、金具(釘抜き)がいるんです。育ちきらないうちに、白い根を取ってテンプラにすると美味いんですよ。掘ってみて、まだ早いと思うと、砂をかけ、石をかぶせます。もっと育ってから採るんです。


アザミ
これがアザミの根。テンプラにして食べるそうです。育ちすぎると味が落ちるので、今が旬と言います。
私がこの食べ方を知らないと話すと、・・この辺でしか食べんのかなあ。でも美味いですよ・・とのこと。帰宅後、調べてみると、けっこう知られた食べ方でした。


休憩所
ここで昼食をとらせてもらいました。宿でお接待のおにぎりです。
伝言板には色々の書き込みがあります。「4/4 7:20 ロッジ尾崎発。9:40着」と書き込んだのは、昨日立ち話をした、旭川の人です。ついさっき、ここを通過したようです。
この旭川の人のことを、私は同じ北海道の札幌の人から聞くことになりますが、その話は次号で。


野根まんぢう
野根まんぢうの名が広く知られるようになったのは、昭和25年(1950)、天皇陛下の四国ご巡幸の時、献上菓子に選ばれて以来のことだといいます。陛下がお代わりを所望されたなどの噂と共に、その名が広まりました。
しかし、 野根まんぢうの誕生そのものは古く、土佐藩主山内容堂公が参勤交代の際、かならずお買い上げになったとか、坂本竜馬や中岡慎太郎が上洛の際、茶屋で密かに食べたなどとも伝わっています。延々9里にも及ぶ野根山街道・・奈半利から野根山連山の尾根をたどり、野根に至る道・・を歩いた身体が、ぜひにも野根まんぢうの甘味を、欲したのでしょう。


空海道
前述の旭川の人が伝言板に記した全文は、
・・4/4 7:20 ロッジ尾崎発。9:40着 空と海の路を歩く・・この後も空と海の道を歩くのだ。北海道旭川から来ました。(氏名) 59才・・でした。
・・この後も空と海の道を歩くのだ・・と、空海道を歩き抜く決意を残してゆかれました。


たんぼ
海と山の間の狭い土地に田圃があります。荒れた日には汐をかぶるのではないかと、心配していたものでしたが、令和2年(2020)6月、次の様な朗報が、報道がされました。
・・世界初、根の改良により塩害に強いイネを開発  産総研・・
根本から変るとは、このことでしょうか。


農業
女性がワラを運んでいました。聞けば、スイカを寝かせるのに使うのだそうです。
スイカは出荷するのではなく、家で食べる用なのだそうでした。


荒磯
御崎に近づくにつれて風が強くなりました。
歩行補助用の乳母車を押して、おばあさんがやって来ました。服が風でブルブルとふるえています。乳母車にはちゃっかりと、4-5才の女の子が乗っており、私に話しかけてきました。
・・おばあちゃんが二人おるガー。今日は泊まりに来チュー、・・と言います。お婆さんの助けも借りて翻訳すると、・・自分は、普段は別のおばあちゃんと室津に住んでいる。だけど今日は、室戸のおばあちゃんの所に泊まりに来チュー・・というわけです。私は方言を話す子供が、大好きです。


青年大師像
遠くに「青年大師像」が見えてきました。奥の白い像がそうです。


明星来影寺
明星来影寺の寺名は、(前号でも記した)空海著「三教指帰」の序文にある・・阿国大滝獄に躋り攀ぢ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星来影す・・から来ています。「来影」の「影」は、ここでは「光」です。日、月、燈火等の光を「影」といいます。
明星は金星。古代中国名では太白星(たいはくせい)です。虚空蔵菩薩の化身、あるいはお使いと考えられています。寂本さんは四国遍礼霊場記に、・・大師みづからかゝせ給ふに、土佐室生門の崎(室戸崎)にをいて寝然として心に観ぜしかば、明星口に入、虚空蔵の光明照らし来て、菩薩の威を顕はし、仏法の無二を現ずと。・・と記しています。この「光明照らし来て」が「来影」です。


虚子句碑
  龍巻に添うて虹たつ室戸岬  虚子
室戸岬で吟行を催したとき、たまたま竜巻に遭遇。この句を作ったそうです。
なお、龍巻が去ると、
  龍巻も消ゆれば虹も消えにけり
と詠んだそうです。同行者達は、思いもよらず、「写生」のお手本を見せてもらうことができました。


烏帽子岩
この岩は「烏帽子岩」と名付けられているに違いない、そう思って近づくと、やはり「烏帽子岩」でした。


みくろど
一般的に「みくろど」と呼ばれている所の全景です。海食洞が二つ写っています。右が神明窟とよばれる窟で、左が御厨人窟です。


御厨人窟内から
「みくろど」については、→(H26秋 5)をご覧ください。(実は字数制限の上限が近づいており、書き切れなくなったのです)。



国道55号に戻り、24番札所・最御崎寺への登り口に向かいます。


登り口
「ほつみさき」は「火つ御岬」であろう、と五来重さんは言います。
・・火を焚くところです。(しかし)この字は平安時代に忘れられてしまって、岬の最も先端にある寺という意味で最御崎という字が書かれるようになりました。・・とのことです。
「火を焚く」については、「四国辺路の寺」でも多くの説明がされていますが、一ヵ所だけ引用すれば、・・辺路信仰の本質は、海のかなたの常世にとどまっている祖先の霊に、聖なる火を捧げるということです。それが辺路修行の一つの目的でした。それを海岸の岬で焚くと、あそこに岬がある、この辺を通ったら安全だということになって、航海する船が二次的に利用するわけす。・・とあります。


山門
最御崎寺は、また東寺(ひがしでら)とも呼ばれています。この呼称が西寺(にしでら)と呼ばれる金剛頂寺と、対になっているのは言うまでもありません。これについての五来さんのお考えは、たとえば次の様です。
・・室戸では、室戸岬と行当岬(ぎょうどう岬)に東寺と西寺があって、だいたい10キロ隔たっています。室戸岬と行当岬を、行道の東と西と考えたのが東寺・西寺と名付けられた理由だと思います。
「行当岬」は、「行道」の西だから、(ぎょうとう岬ではなく)ぎょうどう岬と読むのでしょう。なお、東寺と西寺の中間に在る津照寺(津寺)については、次号・津照寺のところで記すつもりです。


本堂
風が強く、なかなか線香に火がつきません。やはり苦労されていた、年配の女性との協力で、なんとか付けることが出来ました。この女性と旦那さんとは、宿で再会。面白い話を聞かせてもらうことになります。


室戸岬灯台
高い所にあるので、灯台自体の背は、高くありません。どれくらい高いところにあるかは、下掲の写真をご覧ください。


岩見重太郎塚
岩見重太郎の名は、私たちの年代の男子では、知らぬ者はいませんでした。実在の人物だったそうですが、もちろん私たちが識っているのは、狒々退治など、彼の伝説部分のみです。
側の説明板は、次の様に記しています。
・・没年 慶長20年(1615)5月6日 (出生年月日は不詳)。豊臣秀吉に馬廻衆として仕えたと伝わる。秀頼には三千石で仕えていた。剣の道を極める為、諸国を武者修行の旅に出たが、天橋立での仇討の助っ人をした話や、信州松本の吉田村で狒々(ひひ)退治をした話などが有名。大阪冬の陣といわれる慶長19年(1614)11月には、大いに戦って有名をとどろかし、さらに翌年5月の大阪夏の陣では、ついに惜しくも戦死したと伝えられる。


灯台
下山し、海岸編をブラブラと歩きました。
下から見上げた灯台です。


柱状節理
マグマが冷却固結するときに生じる柱状の割れ目を、柱状節理と云うそうです。この方面をまったく勉強しなかったのが、悔やまれます。


荒磯
喫茶店でコーヒーを飲みながら、今日の整理をし、明日の予定をたてました。
明日は早起きして室戸岬の日の出を見ます。宿は、29キロほどを歩いて、奈半利に泊まります。奈半利では海岸に出て、夕日を見るつもりです。
膝は大丈夫のようなので、明日は、少ししっかりと歩くつもりです。


中岡慎太郎像
新潟の山の中で幼少期を過ごした友人が、・・子供の頃、俺は山の向こうにある世界を夢見ていたのだが、出来れば海の向こうの世界を夢見たかった、・・と話したことがあります。この像を見ていると、なるほど山よりも海だ、そんな気がしないでもありません。


今夜の宿
室戸岬の最先端にある宿が、今夜の宿です。庭には句碑(右端)があり、投句ポストもあります。


句碑
句碑の末尾に,こんな句があります。宿の女将さんの句でしょう。
  遍路待つ お杖洗いの 水置きて  
そして夕食時に聞いた句には、こんなのもありました。
  網しぼる 鰤3000本の 潮けむり
佐喜浜の若い衆から・・3500本ぜよ。もっと多いが-、・・などと言われかねませんが、句の中の数字は、かならずしも正確である必要はありません。響きよく、大きさが表現できればいいのです。


テレビ
テレビの下は、「高知県立室戸高校」のペナント。今春、甲子園初出場ながらも、強豪・報徳学園、宇部商業を破り、八強に残りました。宿の奥さん曰く、「室戸は沸いた」のだそうです。さもあろう。


人生即遍路
夕食時、最御崎寺で会った夫婦が隣に座りました。
奥さんが開口一番、いいました。・・私はこの人(ご主人)が心配で、付いてきているのです。・・数年前、この人、恩山寺で倒れましてね。脳梗塞でした。幸い(きっとお大師さんのおかげです)早く人に見つけてもらえて、徳島日赤に運んいただけ、おかげで一命は取り留めたのですが。
・・だけど、この人ったら、入院中も本当にワガママだったんですよ。今も、まだ偏食がなおらず、糖尿病なんです。足も悪くなっていて、だから(お礼参りなのに)車で廻ってるんです。それも私の運転で。
旦那さんは閉口の体で聞いていましたが、一言、・・こんな私の女房でいてくれるのは、こいつだけですから、有り難いと思っています。・・とのことでした。これもまた夫婦。


荒天の室戸岬
夫婦遍路といえば、同じ室戸で、前にも夫婦連れと出会ったことがありました。そのことは(H14春)二回目の遍路 ② に記してあるのですが、この二組、どこか似ているので、コピペして少し補足。併載してみます。
御厨人洞で会った奥さんの弁です。・・この雨風は(その日、室戸岬は荒れていました)、主人の人生そのものでしてねえ。もう、安心して見ていられないんです。大手術がうまくいって、そのお礼にと出かけて来たんですが、もう心配で。(お二人は歩きでした)。実は私は、いざというときの、救急車の電話係なんですよ。いつでも呼べるように。そのつもりでついてきたのです。まあ、もう長い間、こんな夫婦なんで、これでいいんですけど・・・。
この後のことです。ご主人が虚子の句碑前で、動かなくなりました。強い雨風の中、かまわずに何やら考えこんでいるようでした。そんな彼を、奥さんが側でじっと待っています。私たちはこんな夫婦なんです、と言っているようでした。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
出来るなら、二組の夫婦が結願した後、何を話し合うか、(かなわぬことではありますが)知りたいところです。それはきっと、今とは違う話であるにはちがいありません。嫌も応もなく何かを考えさせるのが、遍路道だからです。
明日は、(前述のように)室戸岬で日の出を迎え、奈半利で夕日を惜しみます。今回の遍路で初めての、30キロへの挑戦です。はたして10キロ膝は、保ってくれるでしょうか。更新は、10月26日の予定です。

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拾い遍路①:立江寺 楓(ふう)の木 星の岩屋 ふれあいの里さかもと

2022-08-31 | 四国遍路

 
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 初日(平成19年4月2日)

羽田空港
募る思いは押さえもならず、三ヶ月を経て、ふたたび四国へやってまいりました。ただし、北さんは家事都合で今回はお休み。私単独の遍路行となります。
心配されていた「10キロ膝」は奇跡的に回復しつつあり、私はそれを試してみたくて、しようがないのです。もちろん日程は用心深く4泊と短くし、乗り物の使用も「可」ということにしています。結願を前にした、4日間の拾い歩き。あちらこちらを飛び歩くつもりです。


阿波おどり空港
知らなかったのですが、「徳島空港」は通称で、正式には「徳島飛行場」というのだそうです。民間と海上自衛隊徳島航空隊が共用しているからだそうです。最近では「徳島阿波おどり空港」とも呼ばれていますが、これは愛称です。平成22年(2010)以降、こう呼ばれるようになりました。
ところで、徳島にもう一つ飛行場があったことは、ご存知でしょうか。旧海軍の市場飛行場です。私たちは10番切幡寺から南下し、市場町を経て吉野川を渡りますが、その市場町の、現・市場中学校の辺りが、かつては市場飛行場だったとのことです。ただし、この戦争の痕跡は埋め立てられ、今は姿を消しています。 


掩体壕
空港近辺の戦争遺跡といえば、高知空港の周辺には、巨大な戦争遺跡が残っています。高知空港もまた、旧海軍の航空基地であったからです。
写真は、艦砲射撃や空襲から飛行機を守るための掩体壕です。ここに飛行機を格納したわけです。高知空港周辺には、このような掩体が7基、残っています。→(H26秋5)
「不戦」を誓うべき夏です。ちょっと脱線してみました。


徳島駅
さて、徳島駅です。
立江まで電車で行くため電車待ちをしていると、おばあさんから、一風変わったお接待をいただきました。観光案内所等で集めてきたらしい、徳島案内のパンフレットです。たくさんあって、ズシリと重そうです。正直、ちょっと困りました。
とは言え、・・これ見ると、徳島のことがぜんぶ分かるけんの。荷物になるけど、持って行き。・・と言って差し出されれば、いらない、とも言いがたく、そのお心に感謝して、ありがたくいただきました。
ところで、側に、その様子を複雑な表情でみている、野宿遍路がいました。さっきまで私と話していた人ですが、彼は、私が受け取ったことが不満のようでした。(後述)


地蔵橋
阿南行きに乗り、地蔵橋で途中下車しました。4年前ここでお世話になった方へ、一緒に写した写真を届けたかったからでした。しかし残念。その方は転居して、ここにはもう住んでおられないとのことでした。
やむなく次の電車を待っていると、近所のおじいさんが話しかけてくれました。・・地域格差っていうんですか、ありますねえ。残っとる若い人がかわいそうです。仕事がないんだから、残れとは言えませんよ。・・と話します。この方、Uターンされた方とのことで、地方経済の在り方について、一家言持ってらっしゃるふうでした。


黄砂 
ところが、これも残念。もっと話をうかがいたかったのですが、電車が来てしまいました。今度は牟岐行きです。
乗ると、さきほど徳島駅で会った野宿遍路がいました。
知らぬ仲じゃなし、隣に座ると、彼宣うて曰く、・・はっきり言って、あんなもの、よく受け取りましたね。荷物になるだけじゃないですか。どうせ捨てるんでしょう。私は、はっきり断りましたよ。・・彼は、「あんなもの」を自分に差し出してきたお婆さんと、自分の代わりにそれを受け取った私に、いらだちを感じているようでした。
やや気障ですが、私の応えは、・・私はあの方の気持ちを受け取ったのです。私は、あのパンフ、読みますよ。


19番立江寺
立江寺で思い出すのは、二人連れの女性遍路です。恩山寺で知り合い、立江寺で再会したのでした。共に遍路「初心者」でしたが、何事につけ、私たちより早手回しで、あれこれと教えられたのでした。とりわけ「金子や」さんが休業との情報をいち早くキャッチし、すばやく対応したのは、彼女たちでした。
・・金子やさんは今日は休みだそうですよ。私たちは立江に予約がとれたけど、その宿は私たちで満室だそうです。お二人さん、どうします?・・この知らせを聞いた私たちの慌てぶりは、→(H14春1)をご覧ください。


句碑
境内には、二人と再会したベンチが、あの時のままに在りました。四人で「合評」した句碑も、そのままでした。
  お遍路の 一歩 鈴より はじまりし  君子
この句から思い浮かぶ景色を、それぞれ出し合ったのでした。あの二人、今、どこで何をしているのでしょう。
前回、荷物を預かってもらった立江餅のお店で、一番小さな詰め合わせを買いました。歩きながら食べます。


立江寺
懐かしい思い出のあんなこんなに浸りながら、タクシーを呼びました。今回の目玉の一つ、楓(ふう)の木がある、櫛渕八幡神社に向かうためです。ここで時間をとりたいと思い、タクシーの利用を決めたのでした。


大楠
櫛渕八幡神社でまず目につくのが、樹齢700年ともいわれる大楠です。鳥居に向かって右側に立っています。
お目当ての楓(ふう)の木は、鳥居を挟んで左側に立っています。日本では「楓」は(かえで)と読みますが、楓(ふう)は、楓(かえで)とは異なる木です。中国・台湾原産のマンサク科の落葉高木で、中国名を「楓香樹」(ふうこうじゅ)というそうです。因みに楓(かえで)は、ムクロジ科(旧カエデ科)に属するとのこと。


櫛渕八幡の楓(ふう)の木
楓(ふう)の日本への渡来は、江戸時代、吉宗(1716-45在職)の時、中国の清朝皇帝から贈られ、江戸城、日光東照宮、上野寛永寺(徳川家の菩提寺)に植えられたのが最初、と言われています。
江戸城のものは、今も皇居に、巨木となって残っています。そのことは、NHKが平成19年3月に放送した「ハイビジョン特集 皇居・吹上御苑の四季」で、私も確認しています。日光のものは、幕末までには枯死していたとみられていますが、昭和57年(1982)、昭和天皇が皇居(江戸城)の楓(ふう)の種子を贈って植え直し、今は大きく育っているそうです。


楓の葉
私は栃木県の宇都宮城趾公園で、楓(ふう)の木の幼木を見ましたが(残念!写真が見つからない)、その種子は、日光の再生・楓(ふう)の木から採れたものだ、とのことでした。皇居の楓(ふう)の孫になります。
上野寛永寺の楓(ふう)がどうなったかは、(私には)分っていませんが、おそらく戊辰戦争を生き抜くことは出来なかったでしょう。その後、再生されたという話も聞いていません。


清泉女子大の楓(ふう)の木
また楓(ふう)は、清泉女子大学(品川区東五反田)でも見ることが出来ます。
品川経済新聞のHPに、・・同大学の「フウの木」は1716年~1735年ごろ、日本に初めて渡来した台湾フウで、(中略)推定の樹齢は約250年近くだという。この種の木は都内でも珍しく、品川区の天然記念物に指定されている。・・とあることから察するに、この木も、吉宗に届いたうちの一本であった可能性があります。因みに清泉女子大学は、旧仙台藩伊達家の下屋敷跡にあります。ただし吉宗と伊達家の間に、楓(ふう)を贈り贈られる深い関係があったとは、私は知りません。


櫛渕八幡の楓(ふう)
さて、そんな貴木とも珍木ともされる木が、どのような経緯で此所、櫛渕八幡に植えられたのでしょうか。
次のメール文は、小松島市役所文化課からいただいたものです。なんとか手がかりを得たくて出した、私の問い合わせへの返信です。
・・フウの木は中国・台湾に自生する落葉高木で、櫛渕八幡神社のフウは大正の初め頃に地区の住民で組織する「敬義の会」の井上安衛、坂東茂らが植えたものです。現存する我が国のフウとしては有数の大木です。(昭和29年、県の天然記念物に指定と記されています)。


農場記念
楓(ふう)の木の側に、「大正5年1月 農場新設記念」と刻まれた石柱があります。おそらく楓(ふう)は大正5年1月に、農場新設記念として植樹されたものなのでしょう。そして、上のメールの「大正の初め頃」に当る年号が、「大正5年」なのでしょう。


楓の読み
文化課からのメールにある「敬義の会」については、近隣のお年寄りから、次の様な話を聞くことが出来ました。
・・よう分からんけど「敬義の会」は、まだ続いとるみたいですよ。「敬義」は、この辺りの人の、昔からの生き方を言う言葉じゃとか、聞いたことがあります。
しかし残念。意気込んで「敬貴の会」会員をさがしてみたのですが、お目にかかることはできませんでした。


立江小学校の楓(ふう)
さらに聴き取りをしていると、次の様な情報にも接することが出来ました。
・・19番立江寺の近くのお年寄りが子供の頃に聞いた話ですが、櫛渕の遍路道沿いにお住まいの○○さんのご先祖が台湾に行っていた頃、立江町に楓(ふう)を持ち帰り、立江尋常小学校と櫛渕八幡神社に植えたということでした。
そこで早速、立江尋常小学校(現・立江小学校)を訪ねてみると、ありました!上掲写真が、立江小学校の楓(ふう)です。
この情報には信憑性がありそうです。私は、○○さんのご先祖が「敬義の会」にかかわっていた可能性を考えてみました。お会いできれば、楓(ふう)のみならず、「敬義の会」についても、もっと分かるかもしれません。


櫛渕の集落
しかし残念。時間切れです。これ以上の「調査」(というほどのものではありませんが)は、機会を改めるほかありません。次なる目的地、星の岩屋(星谷寺)へ向かうことにします。
櫛渕集落の皆さま、「調査」のためとはいえ、見知らぬ男が集落の中をうろつき、ピンポンまで押して、申し訳ないことでした。遍路姿であったことで、かろうじて許していただけたのだと思います。お大師さんに感謝です。


ミャオ族の盧笙柱(長江文明の探求より)
帰宅後、たまたま読んでいた「長江文明の探求」(梅原猛・安田喜憲共著)に、楓(ふう)がなぜ貴木とされるのか、にふれた記述がありました。
・・中国、城頭山遺跡から多数のフウの木が出土している。しかし城頭山近辺にはフウの木はあまり無かったことが、花粉分析で分かっている。なのになぜ、城頭山の人たちはフウの木にこだわったのだろうか。フウは乾燥すると堅いが、生木では柔らかく細工しやすいのだという。それは日本の縄文時代、栗の木が多用された状況に似ている。
・・しかし、細工しやすい、だけがこだわりの理由ではないだろう。フウの木に執着する何かがあったと思われる。


盧笙柱(長江文明の探求より)
・・その執着を示す例が、広西壮族自治区苗族(ミャオ族)に見られる。彼らはフウの木への崇拝を持っている。村の広場に、フウの木で作られた盧笙柱(ろしょうばしら)が立ち、正月、春分、秋分の祭には男女が着飾って、柱を囲んで踊るのだという。柱の下には水牛の角、あるいは角を模した木彫りが置かれ、柱の上には東(太陽)を向いた鳥の飾りが付いている。


楓(ふう)の幹
東(太陽)を向いた鳥といえば、これはもう八咫烏を想起しないではいられません。苗族(ミャオ族)の盧笙柱の風習が、日本にやって来たのでしょうか。来たとすれば、それはどのようにして?朝鮮半島では、「ソッテ」なるものが見られるそうです。それは村の人口や境、村の中などに立てられた、長い棒(あるいは石柱)で、その頂上には、鳥の形をしたものが置かれているといいます。あるいはこれが、日本に渡ってくる直前の、八咫烏の姿なのでしょうか。
とまれ、櫛渕八幡の楓(ふう)から辿り始めて、苗族の「生命の樹」=楓(ふう)にまで行きつくなんて、これは、ちょっとしたロマンではないですか。楓(ふう)の木は、やっぱり「気になる木」です。


萱原バス停
さて、楓(ふう)のこと、長々と書いてしまいました。実はまだ書きたいことはあるのですが、遍路に戻ることにします。
萱原バス停の広場にはロープが張られて、入れないようになっていました。4年前には、ここはオープンスペースで、ゴミと一緒に、数匹の子犬が捨てられていたりしたのでした。犬たちは幼くして、早くも人への警戒心をもち始めており、エサを見せても、なかなか近づいてきませんでした。投げ与えたら食べましたが、「悲しい警戒心」ではありました。


子犬たち
むろん、もういませんでした。誰かに拾われていれば、今は立派な成犬でしょう。


萱原の丁字路
県道22号(阿南勝浦線)に突き当たりました。左折 太龍寺、右折 鶴林寺、が表示されています。しかし此所には、
   左折 取星寺(しゅしょう寺)  右折 星の岩屋(星谷寺) 
こんな表示もあってよいと、私は思います。というのも、この道は「星」にかかわる二つの霊場・・取星寺と星の岩屋・・を結ぶ道でもあるからです。この道を寂本さんは四国遍礼霊場記に、次の様に記しています。
・・立江より三十町ばかりわきに、いはわき村(岩脇村)いふに取星寺(しゅせう寺)あり、・・此所(取星寺)より二十町ほど隔て、星谷といふに星の岩屋あり。
星の岩屋と取星寺の関わりについては、後述します。


景色
寂本さんが記す、立江寺から取星寺へ出る道は、近年、地元の方たちによって「あせんだ越」の道として修復されています。よい道なので、ぜひ歩いて見てください。
取星寺から那珂川沿いの276号に降り、上流方向に歩くと、上掲写真の萱原交差点に出ます。→(坂本・・立江)


景色
徳島の桜は、満開に近い状態でした。
ガードレールに、スプレー道標があります。私の感性には合わない道標ですが、そのことを自転車で廻っている人に話すと、・・でも、あれは見つけやすくて、いいですよ。私らには、小さなシールはなかなか見えませんから。・・とのことでした。
なるほどと合点はいったのですが、それでもスプレーは止めた方がいい・・と思う私なのでした。


花壇
沼江婦人会、とあります。沼江(ぬえ)に入りました。


お接待
沼江大師の所で、「お接待させてください」と言いながら近づいてくる女性がいました。気の利いた袋に入ったティシューを、どうぞと差し出してくれました。


お接待のティッシュー
!!! 戴いて、すぐ思い出しました。私はこの方から4年前にも、ティシューを戴いたのでした。
そのことを話して、再会を喜び合いました。この方、平成9年(1997)からティシューのお接待を始めて、約10年で8000袋以上を配った、とのことでした。
その節は、ありがとうございました。お元気でしょうか。


ローソン
遍路道は勝浦川沿いの県道16号にぶつかりました。ローソンの角を左折し、勝浦川の上流方向へ歩きます。
4年前は、朝方、歩き遍路の一群に入って歩いていましたから、この店は、昼食や行動食やを求める遍路で、いっぱいでした。今回は、時間がずれているからでしょう、遍路は私一人です。


勝浦川
奥に見える潜水橋=星谷橋で勝浦川を渡り、そこから3K程登ると「星の岩屋」(星谷寺)です。
黄砂が、ますます酷くなってきました。景色がかすんでいます。


親子へんろ
前を行く男の子(小五くらい)と、そのお父さん遍路は、地蔵橋駅で会った人たちでした。
男の子に、「ボク、マメは大丈夫?」と尋ねると、お父さんが、「私が両足にできているんですよ」と話していたものでした。さて今は、どんな調子でしょうか。
「頑張ってますね」と声をかけると、お父さんは初対面と思ったらしく、地蔵橋で聞いた話も繰り返しながら、・・乗り物も利用しながら一番から歩いてきました。両足にマメができましてねえ、いえ、息子は大丈夫なんですが、私がね。でも「金子や」に宿をとったので、もうすぐです。がんばります。なっ!・・とのことでした。おしまいの「なっ!」は、息子さんに向けた風でありながら、実は自分向けだったかもしれません。


岩屋まんじゅう
「岩屋まんじゅう」という菓子舗があったので、立ち寄りました。
「一個だけですが、ください」というと、お接待します、とのことでした。「いえ、これは商品ですから」と辞退したのですが、結局、お接待を受けることとなりました。一個だけ買う人なんかいないから、値段の付けようもなかったのでしょう。申し訳ないことをしてしまいました。


仕出川
勝浦川支流の仕出川(しで川)です。が、すぐ先に合流点はあり、もうほとんど勝浦川のようなものです。
欄干に、洒落た「星の岩屋」の案内がかかっています。


道標
勝浦川を渡ります。古い道標には、
  四国霊場 岩屋奥の院
  弘法大師行場 不動の瀧  と刻まれています。
その上の木製の矢印は、星の岩屋 2900m と表示しています。


道標
このベンチで休ませてもらい、お接待の岩屋まんじゅうをいただきました。栗が入った、ほどよい甘さのお饅頭でした。
休憩の度に靴を脱ぐようになったのは、この頃からでした。マメが酷かった頃は、脱ぎたくても脱げなかったものでしたが、私の足も椎間板ヘルニアとの闘いを経て、ワンランクUpしたのでしょうか。


星谷
この写真を撮ったときのことは、よく覚えています。荷物を担ぎ上げるか、下のどこかに預かってもらい空身で登るか、迷っていたときでした。この高さを見て、すこしビビっていたのです。
結局は担ぎ上げたのですが、集落を抜け、民家がなくなるまで、ずっと迷っていたのでした。私はやはり、苦より楽をとりたい人間のようです。


つちのこ生息地
平野という里に「つちのこ」が生息している、と書いてあります。
地元の人に、「いるんですか?」と、やや真面目な感じで尋ねると、「うー、そういう話もあるなあ」とのことでした。
「話が、あるんですね」と笑いながら返すと、「でもね、土の児神社があるんですよ。神社まであるんだからねえ、いるんでしょう」と返ってきました。地元民としては、まんざら作り話でもないんですぞ、と反論しておく必要があったのでしょう。そのウソ、ホントで押し通せばいいのに。



札所への車の道と歩き道は、たいていは別々に通っています。接するとしても、所々で$状に交差するのみです。
しかし星の岩屋への道は、歩きの道と車の道がだいたい一致しています。道はご覧のように、軽トラ一台の幅で、簡易舗装されいます。むろん車の通行は少ないですから、危険を感じることはありません。


道標
星の岩屋について「勝浦郡村誌」に、次の様な一文があるそうです。
・・弘法大師、悪星を祈って落とせしかば、本村の山中、岩穴にこもる。よって星谷と称す。
昔、悪星があって、人々に災禍をなしていたので、弘法大師が法力でこの悪星を地上にひきおろし、岩穴に封じ込めた。以来、岩穴がある谷は、星谷(ほしたに)と呼ばれるようになった、というような意味でしょうか。
ところで、写真の道標にある「流れ星伝説」ですが、これはどのような伝説なのでしょうか。「勝浦郡村誌」が伝える、「悪星」を封じ込めた伝説をいうのでしょうか。私は違うような気がしています。法力で引き下ろされた「悪星」は、ふつう「流れ星」とはいわないと思います。
  

落ち椿
「流れ星伝説」は、おそらく寂本さんが『四国遍礼霊場記』に書き残した、「大師鈎召(こうちょう)の星」の伝説を指しているのでしょう。
寂本さんは、次の様に記しています。
・・此寺(取星寺)に大師鈎召(こうちょう)の星といふ物あり。厨子にいれ、蓮華座に安ず、
・・此所(取星寺)より二十町ほど隔て、星谷といふに星の岩屋あり。・・此岩上に取星寺の星降れりといひ伝えたり。・・星隕て(おちて)石となる事、もろこしにもむかしよりいひ、


生名の辺り
「大師鈎召の星」とは、どのような星なのでしょうか。
まず、「鈎召」は、「本尊」を召請するための「法」を修すること、を云うそうですから、「大師鈎召」は、・・大師が「本尊」をどなたか召請するため、何かの「法」を修する、・・という意味になります。
次に、五来重さんが「四国遍路の寺」で言う、・・求聞持法が成就したとき、虚空蔵菩薩のお使いとして、明星天子が飛来する・・を援用させていただいて「大師鈎召の星」を解すると、・・大師が虚空蔵菩薩を召請するために求聞持法を修し、これが成就したとき、虚空蔵菩薩のお使いとして、明星天子が飛来してきた。その明星天子が「大師鈎召の星」である、・・ということになります。
以上、・・道標にある「流れ星伝説」は、寂本さんが云う「大師鈎召の星」の伝説を指す、・・と私が考える由縁でした。


大滝嶽の大師像
弘法大師ご自身(空海)は、明星が飛来してきたときのことを、次の様に記しています。『三教指帰』(空海)の序文の一節です。
・・阿国 大滝嶽に躋り (のぼり)攀ぢ(よじ) 土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず。明星来影す。


ミカン畑  
ミカン農家の人が話してくれました。
・・ここは星の谷というけどな、わしらミカン農家には、黄金の谷じゃったんよ。ミカンが黄金色に輝く谷じゃった。南向きの斜面は、日当たりが良く水はけもええ、ミカンには絶好の土地じゃけんな。
・・しかし、ええことは、続かん。穫れすぎてもいかんのじゃわい。値が下がってしもてな、正直、もうやっていくのがキツイわい。
後述しますが、私は「ふれあいの里さかもと」でも、同様の事情を耳にすることになります。


星の岩屋
阿波勝浦八景 星の岩屋 とあります。


洗心の瀧 
駐車場近くに、洗心の瀧があります。ただし残念ですが、この時、水は流れていませんでした。濡れて黒く見えるところが、瀧です。
とまれ、星の岩屋の最奥部に入るにあたり、今一度、心を洗えよ、というのでしょう。


巨木
杉の巨木が、山門に立つ仁王様のようです。


星の岩屋
この岩屋が星の岩屋と呼ばれるのは、ここが求聞持法の行場だからです。前述のように、求聞持法が成就すると「星降り」があるので、星の岩屋と呼ばれます。
寂本さんは、この岩上に降った星が(唐土にも伝わっているように)石(隕石?)となったので、取星寺に移して祀っている、と記しています。


岩屋内部
・・三間四方もありなん。岩窟の口半斗(なかばばかり)に数𠀋の滝あり。・・「四国遍礼霊場記」の一文です。
「数丈の滝」とは、不動の瀧と呼ばれている滝のことでしょう。この滝は、岩屋の中からこれを見るとき、瀧の裏から見ることになるので、その場合は、「裏見の瀧」と呼ばれています。


裏見の滝
この写真は、後年、水が流れているときに撮った、裏見の滝です。


星の岩屋
外から見た星の岩屋です。本来ならここに、次の写真のように、不動の瀧が落ちているのですが、・・。


不動の瀧
後年、水が流れているとき撮った、不動の瀧です。瀧の落ちるところに、行場が造られているのがわかります。


不動明王像
星の岩屋の部分を拡大してみると、不動の滝の右に、不動明王が刻まれているのが見えます。



下山していると、ワンちゃんがオズオズと、しかし我慢しきれず、近寄ってきました。交流を求めているのです。
お近づきの印に「お手」と「お座り」を命じてあげると、それが嬉しいらしく、いそいそと従ってくれました。
このワンチャン、下の里まで随行してくれ、どうやらそこが彼のテリトリー限界らしく、お別れしました。このワンチャンの話は、夕食のテーブルを賑わすことになります。


ふれあいの里 さかもと
下山し、「さかもと」からの迎えを頼もうと(まだ携帯を持っていなかったので)公衆電話を探しましたが、これがなかなか見つからない。ようやく勝浦町役場で見つけ、頼むことができました。
横瀬橋で拾ってもらい、坂本まで運んでもらたわけですが、この間には、穴禅定でしられる別格3番慈眼寺への旧道が残っています。出来れば歩いてみたい道でしたが、歩けば宿着が遅くなってしまうので、今回はあきらめました。→(H26坂本・・立江)このアルバムには、後年歩いた横瀬-坂本間の記録が含まれています。


二宮金次郎像 
「ふれあいの里 さかもと」は、写真でもお分かりのように、元坂本小学校(平成11年廃校)を改装。平成14年(2002)3月3日、お雛様の日にオープンしました。「 阿波勝浦 元祖ビッグひな祭」に合わせて、坂本地区を「お雛様の奥座敷」として登場させるのが、「ふれあいの里さかもと」の顔見せ企画だったようです。この企画は3年後に「坂本おひな街道」へと昇格。今日にまで続いています。


お雛様の奥座敷
平成21年(2009)3月に撮った写真です。坂本の元みかん長者さんが、坂本おひな街道の終点で、豪華なお雛様を公開していました。文字通り「おひな様の奥座敷」です。
そこに至る家々でも、おひな様が飾られているので、地域ぐるみの参加といえましょう。「さかもと」の、単なる宿泊施設ではない姿が、見えるようです。


内部 
ロビーにアルバムが数冊、置いてありました。開いてみると、卒業生の集合写真が、昭和12年から卒業年度順に整理されて、貼ってありました。ずっと撮影を担当してきた写真屋さんからの、寄贈だそうでした。昭和20年の写真が欠けていたのは、敗戦の混乱によるものでしょうか。
アルバムをめくりながら、「××ちゃんだ」などと懐かしんでいた方々に、「さかもと」は皆さんにとって、どんな場所ですかと尋ねると、・・心の古里がこうして残ってくれるのは嬉しい・・との応えがかえってきました。「さかもと」は、まずは地元の人たちのための、「ふれあいの里」たらんとしているようでした。


ロビーの展示
「四国遍礼霊場記」(寂本)に、次の様な一文があります。・・星谷より行て坂本と云村あり、此一村は霜ふらずといふ。むかし大師此所に宿し玉ふ夜、霜いたくふり、此里人常に寒苦に堪えがたしと愁えるを、大師聞しめし加持し玉ひしより、此里霜を見ずとなん。
そんな土地柄の坂本は、温州蜜柑の産地として栄えていましたが、(星谷でも聞いたように)蜜柑の市場価格が低迷するなか、専業農家が(専業ではやりくりできなくなって)兼業へと転じてゆき、ついには高齢化も手伝って、廃業する農家も出るなど、地域は活力を失い始めました。


椎茸作り
なかでも昭和56年(1981)の寒波は、大打撃だったといいます。暖かくなり、蜜柑の木が水を吸い上げ始めた頃、異例の寒波に襲われたのでした。吸い上げた水が木の中で凍り、木の多くが枯死したのだそうです。
坂本は、それでも立ち直ろうとしたのだといいます。しかし衰勢の挽回は、難しかったようです。それから18年後の平成11年(1999)には、地域がその未来を託す、坂本小学校が閉鎖されるに至ります。廃校の現実を前に、地域の人たちに見えるのは、先細るだけの先行きでした。
「ふれあいの里さかもと」のオープンは、そんな沈滞の中でのことでした。閉校後3年を経ていましたが、(見方にも拠るでしょうが)私は素早い立ち上がりだったと思っています。・・みんな、 ほんのちょっとずつだけ 元気をわけてくれ・・元気玉は、打てるまでには、時間がかかるものなのです。


新聞記事
新聞の切り抜きが置いてありました。オープンから2年後の、平成16年(2004)11月の記事で、「さかもと」の活動が大きく取り上げられています。
・・かつてのミカンの里を紅葉の里に-。勝浦町は勝浦温州ミカン発祥の地・坂本地区で、耕作放棄などのために荒れている元ミカン園にモミジを植樹し紅葉の里として売り出す。28日に、オイスカ徳島県支局(事務局・四国電力徳島支局内)と共催で同地区の2000平方㍍にモミジ300本を植える。徐々に植樹場所を増やしていき、坂本の農村体験型滞在施設「ふれあいの里さかもと」を中心に、名所として整備する。


新聞記事
さらに上掲より2年後の、平成18年(2006)10月14日の記事です。紅葉山づくりが着々と進んでいる様子が、報じられています。
・・同町(勝浦町)は徳島市中心部から約30分。若年層の流出が激しく、3人に1人が65才以上の町だ。50年前は約1万人だった人口も現在約6400人。同会(坂本やすらぎの森を育てる会)は紅葉の名所づくりを機に若者を呼び寄せようと、町外からも広くボランティア参加を呼びかけ、山の手入れや遊歩道の整備を進める方針だ。廃校小学校校舎を改装した宿泊施設として人気を集めている「ふれあいの里さかもと」ともタイアップしていくという。



次は、帰宅後に私が書いた遍路メモです。
・・ミカン畑の木を、一本一万円で販売しているそうだ。手入れなどに年一度は来られる人を対象としているが、必ずしも来られなくてもいいらしい。年30K(35K?)の収穫を保証するという。この事業は、儲けというよりは、畑を荒らさないことが当面のねらいだとのこと。
荒れたミカン園を紅葉山に変える活動に並行して、残るミカン園をミカン園として維持する活動も行われていたのです。


バーベキューハウス
このリライト版を書くために「さかもと」のHPを見ていると、こんな記事を見つけました。嬉しい記事でした。
・・ Be a fruits-owner.「ふれあいの里さかもと」では、果樹(温州みかん等)の年間オーナーを募集しています 。
果樹のオーナー制、まだしっかりと続いていました。


夕食
夕食時、猛烈な犬好きの人がいました。ついつい私が萱原や星の岩屋にいた犬の話をしたら、もう話が止まらなくなってしました。彼は三巡目の人で、(恥ずかしながら)廻りながら犬の写真を撮りためている、のだそうでした。いけないとは思いながら、お近づきの印としてソーセージを持ち歩き、犬がいたら片っ端から(ソーセージで釣って)仲良くなるのだといいます。
私の友人にも、そんな人がいて、通勤帰りに仲良くなったワンチャンを、ついには散歩に連れ出すまでになってしまった話をすると、彼の喜ぶまいことか。そうですか、分かります、その気持ち!私、明日会うワンがいるんです。あの子は、きっと私を覚えていますよ!その嬉しそうな笑顔は、根っからの犬好きであることを語る笑顔でした。


仙遊寺の犬
その彼が目の色を変えたのは、私が58番仙遊寺で犬に会った話をしたときでした。エッ、その子、犬塚伝説の子孫ですかね。あゝ、いたのですか。知らなかった!その子、栄福寺の鐘が鳴ったら、そっちに行くのでしょうか。もう可愛そうな目には遭わせたくないですね。
夕食時には、できれば明日お参りする、慈眼寺の情報を集めたかったのですが、私もけっこう犬好きなもので、こんな話を楽しんでしまいました。お接待でいただいたパンフは、気になりつつも、読めませんでした。また一日持ち歩き、明晩こそは読むことにします。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
楓(ふう)のこと、星の岩屋のこと、「ふれあいの里さかもと」のことなど、ちょっと入れ込みすぎて、更新が間に合わなくなってしまいました。
次号では、別格3番慈眼寺での穴禅定、室戸岬の朝日と夕日などを取り上げるつもりです。更新は9月28日の予定です。

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弥谷寺から 曼陀羅寺 出釈迦寺 甲山寺 善通寺 金倉寺 道隆寺 丸亀 宇多津

2022-07-27 | 四国遍路

 
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 四日目(平成19年1月26日)   

弥谷寺から
弥谷寺門前、俳句茶屋での長話を終え、和光さんは弥谷寺のお参りへ、毛呂山さんは72番曼陀羅寺へ先発しました。
私たちは、もうしばらく茶屋に滞在。茶屋の裏を三途の川が流れている話や、門前に店を構えるに至った経緯などをうかがいました。出発時、長っ尻をわびると、・・遍路はそれでなきゃー。歩くばかりが遍路じゃない。・・と言って、私たちをかばってくれました。後述する「四国霊場巡拝についての心得」が・・心を忙しくして駆け回る飛脚のような旅・・をいさめていることに、通じるものがあるようです。


遍路道
茶屋を出発。山道を抜けると、ため池がありました。畔に座り込んで、納め札の記入をしました。この先は札所が連続するので、一定枚数を書きためておくことにしたのです。
時間が緩やかに流れる中での、心地よい作業でした。


ため池
ただ、残念なことがありました。
帰宅後、2ヶ月ほど経った時のことです。70番代の、ある札所名が入ったダイレクトメールが、自宅に届いたのです。数珠などの宣伝をするもので、同じ内容のものが同時期に、北さんの所にも届いたそうですから、そのDMが、納め札から住所・氏名をとって送られたものであることは、まず間違いないことでした。
こんな納め札の使われ方に、私たちは釈然としないものを感じ、以後、丁目番地は記さなくなり、今も記していません。


納め札
そんな15年も前の出来事を、懐かしくも思い出させる記事が、令和4年6月28日、毎日新聞夕刊の一面トップに載っていました。
  大正から昭和にかけてのお遍路マニュアル
   「四国霊場巡拝についての心得」が、香川県三豊市の民家で見つかった
その「心得」の一つが、なんと、・・(傘や納め札に)住所、氏名は詳しく書かない、自分の家族のことも他人に言わぬこと・・であったのです。なるほど、いつの時代でも個人情報ってやつは、たれ流してはいけないのです。



「心得」の筆者は1番霊山寺の住職さんで、住所氏名の記入を求める側の人です。それだけでなく、遍路達の心情・・ご利益をいただきたいと心底願うが故に、自分がどこの誰であるかを、はっきりとご本尊様、お大師さまに伝えておこうとする・・を、充分に理解しているはずの人でした。
そんな立場にある人が、「詳しく書くな・話すな」と用心を促すのは、お大師さんの道とはいえ、そこも「渡る世間」ということでしょうか。(DMどころではない)深刻な被害の発生は排除しきれないのでしょう。この「心得」、全文を読んでみたいものです。


前方
坂を下りると、向こうが善通寺市になります。池は奧が「大池」で、畔に七福寺があります。
左の山は「筆ノ山」。右の山裾が「我拝師山」です。75番善通寺は山号を「五岳山」と号しますが、筆ノ山と我拝師山は、いずれも、その「五岳」にふくまれる山です。


五岳
「五岳」の全体像を把握いただくため、この写真をご覧ください。後年、天霧山から撮った写真です。
右から左へ、火上山(かじょう山・ひあげ山・408.9㍍)、中山(なか山・439㍍)、我拝師山(がはいし山・481.2㍍・一番高い)、筆ノ山(ふでの山・295.7㍍)と並んでいます。
これら四つの山に、(筆ノ山に隠れてこの写真には写っていない)香色山(こうしき山・157㍍・一番低い)を加えた山の連なりが、「五岳」です。空海生誕の地とされる「屏風ヶ浦」は、これら五岳が並び立つ様を屏風に喩えて呼ぶ、この地の雅称だといわれています。


我拝師山・中山
左が我拝師山です。山腹には根本御堂があり、ここから出釈迦寺の奥の院である、捨身ヶ岳禅定へと入って行きます。(後述)
右は中山です。中山の名は、この山が我拝師山と、火上山の「中」に在ることから、そう呼ばれるとのことです。
火上山の名は、天霧城の狼煙台があったことに由来するとも言われますが、五来重さんは、山上から海に向かって聖火を上げたことに由来する、と考えておられます。五来さんの「海洋宗教」の考え方については、著書「四国遍路の寺 上・下」などをご覧ください。


筆ノ山
筆ノ山の名は、山容が筆の穂先のように尖って見えることに由来する、とされています。この写真では尖っていませんが、例えば上掲「五岳」の写真では、尖って写っています。
筆ノ山はきっと、三筆の一人である弘法大師・空海を表象するお山なのでしょう。
やや説得力に欠けるきらいもありますが、次の写真をご覧ください。善通寺の東院(伽藍)から西院(誕生院)方向を撮った写真です。


香色山と筆ノ山
御影堂(大師堂)の背後に見えるお山(左側)は香色山で、お大師さんを生んだ佐伯氏の霊山です。その山頂には、佐伯氏代々を祀る霊廟が建ち、「佐伯直遠祖坐神」と刻まれた石標があるのだそうです。
とすれば、香色山の右奥にある筆ノ山が、弘法大師・空海を表象しているとの解釈も、あながち間違いとは言えないでしょう。佐伯氏を祀るのが香色山。その佐伯氏が生んだ巨人・弘法大師・空海を表象するのが筆ノ山、というわけです。


香色山・筆ノ山・我拝師山
さらに、この写真をご覧ください。善通寺赤門の外から写したものです。香色山、筆ノ山の後ろに、(上掲写真には曇天のため写らなかった)もう一つの山が写っています。我拝師山です。まだ真魚と名乗っていた七才の弘法大師・空海が、身を捨てて衆生済度を誓ったとされる山で、捨身ヶ岳とも呼ばれています。
一幅の仏画とも見える、この景色を絵解きをすれば、・・かつて、この地に在った佐伯氏に、男児が生まれた(誕生院・香色山)。男児は7才にして救世の大請願をたて(我拝師山)、長じて弘法大師・空海となった(御影堂・筆ノ山)。・・とでもなりましょうか。


72番曼陀羅寺
72番札所曼荼羅寺に着くとすぐ、和光さんを探しました。というのも、私たちが昼食をとっている時、食堂の前を過ぎて行く彼女を見ていたからです。
いました!まるで何日ぶりかの再会であるように喜び合って、その勢いで、ここから善通寺までを、一緒に歩くことを決めました。善通寺までと区切ったのは、彼女は金刀比羅宮、満濃池に廻ることを思案しており、私たちは今日は善通寺に泊まり、明日、(金刀比羅宮はとばして)満濃池へ行くつもりでいたからです。


不老松の大師像
納経所の前に座って、じっと私たちを見ている人がいました。岡田屋旅館で一緒だった大阪のバイク遍路でした。お接待のオニギリをいただいたとき、「エッ、私にまで!」と言って、喜ばれた方です。その意味は、「歩いていない私にまで」であったようです。
それにしても、どんな廻り方をすると、バイクと歩きの遍路が3日後、此所で再会することになるのでしょう。しかも次の行き先は、雲辺寺だというのです。きっと私の知らない「遍路の楽しみ方」をしているのでしょう。


73番出釈迦寺
73番札所出釈迦寺に着きました。
札所の間が短いせいでしょう、71番弥谷寺で会ったバスの方たちと72番でも会い、73番でもまた会いました。「また会いましたね」「早いですね」などと挨拶を交わし、それはそれで楽しかったのですが、困ったのは納経所での待ち時間でした。順が団体の後になると(たいてい後になる)、ずいぶん長く待たねばならないのです。(この問題への札所からの解答を、私は平成20年、金泉寺で見ることが出来ました)→(H20秋1)個人と団体で、納経所を分けてくれたのです)。


遙拝所から
出釈迦寺の遙拝所から我拝師山を見ると、中腹に根本御堂の建物が見えます。ここが捨身ヶ岳禅定への入口です。鎖場を登ると、幼い弘法大師が身を投げて衆生済度を誓ったと伝えられる、捨身ヶ岳の山頂です。
北さんは登りたかったようですが、私の膝を慮り、それを口にすることはありませんでした。また(天気予報では雨は降らないはずですが)私たちの観天望気では、雨が近いのでした。和光さんも満濃池、金毘羅詣りを予定しているというし、ここは断念して、先に進みました。→(H25初夏5


甲山寺
74番札所甲山寺です。
和光さんと三人で、ゆるゆるとやってきました。初対面の人なのに、一緒に歩いても話題が絶えることがない、こんな状況は、遍路経験のない人には、合点がゆかないかもしれません。一番で会った初対面の二人が、気づいたら88番まで一緒に歩いていたなどの例は、さほど珍しいものではありません。もっとも前出の「心得」は、・・道連れは良いことも悪いこともあるので、考えて人を選ぶ・・と注意を喚起していますが。


75番善通寺
境内は広く、「伽藍」と称される東院と、「誕生院」と称される西院に別れています。通常のルートで甲山寺から歩いてくると、東院と西院を隔てる道に出るので、中門をくぐって左の寺域に入ると、そこが東院です。
東院は創建当時からの寺域で、「伽藍」の名の通り、金堂(本堂)や五重塔などが建ち並んでいます。元は佐伯氏の菩提寺だったともいわれています。西院は、弘法大師・空海が誕生された佐伯家の邸宅跡地とされ、お誕生所である故を以て、「誕生院」と称されます。御影堂(大師堂)を中心とする寺域で、前述のように御影堂の背後は、五岳が列ぶ屏風ヶ浦です。


五重塔
どのようにして「得た」のかわかりませんが、「霊感」を得たので分かち歩いている、という人に出会いました。出来るだけ多くの人に分け与えたいので、逆歩きしているのだそうでした。私たちがほとんど関心を示さないので去ってしまいましたが、もう少し話を聞いてみてもよかったと思いました。
前述の「心得」は、・・経験者を装い、宿の世話、加持祈祷、おまじないを伝授して金銭を要求する常習者がいる・・と注意を促していますが、彼が「常習者」であったかどうかは、わかりません。


大楠と佐伯祖廟
樹齢千数百年とかの大楠です。三教指帰に「繁茂している」記されている大楠がこれだ、とも言われています。たしかに圧倒される大樹です。
玉垣に囲まれた小祠は、「佐伯祖廟」です。側に次の様な説明文がありました。・・佐伯祖廟  弘法大師は宝亀5年(774)、讃岐国多度郡屏風浦(善通寺)にお生まれになりました。この地方の豪族、佐伯直田公・善通卿と玉寄御前の三男です。この佐伯祖廟堂には父君善通卿と母君玉寄御前の御尊像を奉安してあり、「佐伯明神」「玉寄明神」と称しております。なお五色山(香色山)の頂上には、佐伯家代々の祖廟がございます。


突然の雨
突然、雨が降ってきました。強い西風が吹き付けてきます。私たちの観天望気が当たりました。
結局、この雨は、明け方近くまで降り続けました。屋根を叩く音が聞こえるような、強い雨でした。和光さんはどこで、この音を聞いたのでしょうか。それにしても、これは気象庁の大ポカでした。


今夜の宿
善通寺赤門前の「魚勘」旅館が、今日の宿です。すでに路面が濡れています。
「魚勘」は屋号で、代々の当主は「魚屋勘右衛門」さんであったとのことです。残念ながら当代の勘右衞門さんは、この数年前に亡くなっており、旅館は、奥さんが一人で続けておられました。一時は、お嫁さんと一緒に頑張っておられるなどと、伝え聞いて喜んでいたのですが、ネット情報に拠れば、平成29年(2017)、閉店されたとのことです。お疲れ様でした。奥さんが話してくださった、乃木大将や白襷隊の話、面白かったです。

  五日目(平成19年1月27日)

朝の善通寺
明け方、雨は上がりましたが、強い西風が吹いています。
朝食前、もう一度、善通寺にお参りしました。オープン前の札所は、昼間とは一味違った景色を楽しむことが出来ます。写真は、小さな白衣姿のお遍路さんです。


堅パン
魚勘さんの勧めで「堅パン」を買いにゆきました。昨年11月(この2ヶ月前)NHKが放送した「ウォーカーズ 迷子の大人達」で取り上げられたとかで、大人気なのだそうでした。朝早くゆかないと売り切れてしまうと聞いたので早く行ったら、未だ開いていませんでした。
この数年後のことです。突然、和光さんから堅パンが送られてきました。・・二巡目で善光寺に来ています。あの時の出会いが懐かしく、送らせてもらいました。・・とのことでした。北さんと分けて、いただきました。


左折 
善通寺赤門の通りを北東に進み、「大西寝具店」の角を左に入り、古い住宅地を抜けると、予讃線です。


予讃線
予讃線を潜ります。


新興住宅地
予讃線を潜ると、新しい住宅地になります。
建築中の分譲住宅や入居間もない家が、あちこちに見られ始めました。コーヒー店の女店主によると、・・住宅が建ち始めたのは、ここ数年のことだが、自分はあまり喜んでいない。地場産業が興らないことにはね。・・とのことでした。


新築
ほとんどが木造壁式住宅の中、ただ一軒、竹小舞を組んだ土壁の家が建築中でした。
大工さんに聞くと、・・それでも小舞は外壁だけで、なかの仕切はボードを使うんですよ。本当は内部も土壁でゆきたいのですけどね、耐震、防火の関係で仕方ないのです。・・とのことでした。


76番金倉寺
「えひめの記憶」に次の様な記述があります。・・四国霊場は、多様な信仰が複合した様々な聖地から成っており、その形成過程においては、様々な信仰が重層的に発展して形成されていったものと考えられる。そしてこのことは、八十八ヶ所の各霊場が、必ずしも真言宗派だけではないことからも説明できる。
それかあらぬか、金倉寺は天台宗(天台寺門宗)の札所です。智証大師は、天台僧・円珍の諡号。金倉郷の生まれとされ、空海の甥とも姪の息子とも言われています。


金倉寺
さらに「えひめの記憶」から引用すると、・・ 前田卓氏は、「四国八十八ヶ所の霊場のうち、現在でも天台宗が4ヵ寺、臨済宗が2ヵ寺、曹洞宗が1ヵ寺、時宗が1ヵ寺もある。更に昔時にあっては、他の宗派はもっと多かったと思われる。たとえば、四十番観自在寺がかつては天台宗であり、四十九番の浄土寺はその名の示すが如く浄土宗であり、五十一番の石手寺はもとは法相宗であったし、四つの国に1ヵ寺ずつある国分寺は、華厳宗であったのである。」と述べ、八十八ヶ所の中には真言宗以外の宗派が多く混じっていることを指摘している。


正面が道隆寺  
多度津と丸亀は、昭和の大合併でも、平成の大合併でも、合併話が起きていたといいます。両者は藩政時代には、丸亀本藩(本家)-多度津支藩(分家)の関係にありましたから、合併話は、当然のように起きていたといいます。しかし昭和でも平成でも「破談」。
噂では、多度津側がウンと言わなかったとか。


讃岐鉄道の駅碑
どうやら多度津には、丸亀に頼らずともやってゆけるという自信があったようなのです。多度津藩は立藩するや築港工事に着手。多度津湊は北前船の寄港地として栄え、また金毘羅船の上陸地として、丸亀に次いでにぎわっていました。本藩・丸亀藩に丸ごと依存する必要は、なかったのです。明治以降も、讃岐鉄道の開設、銀行設立など、多度津は、先進的取り組みを起してきました。
写真は多度津駅近くに建っているもので、右は「指差し きしゃば」と、左は「右 はしくら道」とあります。


77番道隆寺
寺名に、その寺に所縁の深い方の名をいただいた例は、よく見られます。善通寺の「善通」は、大師の父・佐伯田公( たぎみ)の諱・善通(よしみち)をいただいたものだといわれています。
ここ、道隆寺の「道隆」もまた、所縁の方の名に由来しています。「道隆」は、当地の領主にして当寺の開基とも伝えられる、和気道隆の道隆をいただいたのだといいます。
ところで、いつでしたかテレビを観ていたら、俳優の筒井道隆さんが出演しておられ、・・私の「道隆」(みちたか)は、77番札所の道隆寺さんからいただいたものなんです・・と話されていました。


少林寺
より正確には、筒井さんのお父さん(キックボクサーの風間健さん)が少林寺拳法の少林寺に入僧。宗祖から、すぐ近所の道隆寺に因んで、道隆(どうりゅう)の僧名を授与されたのだそうです。筒井さんは、そのお父さんの道隆(どうりゅう)を、通隆(みちたか)として継いだのだといいます。


丸亀市へ
愛媛県新居浜市の人が、「なんで新居浜には札所がないんじゃろ」と残念がっていましたが、実は丸亀市にも札所がありません。丸亀の西隣、多度津には77番道隆寺があり、東隣の宇多津には78番郷照寺があるというのに。
しかし丸亀が、四国遍路と無関係だったわけではありません。丸亀湊には、金毘羅船に乗った多くの遍路が、上陸していました。それが証拠に真念さんは、全国に五ヵ所だけ設けた「此道指南並霊場記うけらるべき所」の一ヵ所を、讃州丸亀塩飽町の鍋屋伊兵衛方としています。丸亀に上陸→「指南」「霊場記」を入手→78番から始め、77番で結願→金毘羅さんで精進落とし→丸亀湊から帰郷。こんな人もいたのでは?


丸亀
道隆寺「指定」のうどん屋さんに入りました。
ウドンは、ややコシがありすぎるのが気になりましたが、つゆには満足しました。タマネギ丸ごとオデンというのを、珍しくて注文してみましたが、私には合いませんでした。写真奧のクレーン群は、もう丸亀だったと思います。


金倉川
丸亀城の西を固める、金倉川(かなくら川)です。水源はまんのう町塩入にあり、川は一度、満濃池の山側に流れ込み、谷側から流れ出てきます。つまり満濃池は、金倉川を堰きとめて造った溜め池であるということです。最初の築堤は、8Cとのことです。
満濃池を流れ出た金倉川は、金毘羅さんの前を流れて「禊川」となり、丸亀に流れ下ります。満濃池の築造や改修、金倉川については、→(H21秋3)をご覧ください。


西汐入川
一説には、金倉川の下流部は生駒藩時代に流路変更されているとのことで、現在の西汐入川は、旧金倉川の水路だったといいます。
ところで、西汐入川があれば東汐入川もあるはずと、探してみましたが、どうやらもう埋め立てられているようです。東汐入川けんこう公園というのが、元東汐入川の痕跡です。


へんろ小屋・丸亀城乾
四国88ヵ所ヘンロ小屋をつくる会が創った「ヘンロ小屋 城乾(じょうけん)」です。竣工は平成18年(2006)11月22日、私たちが歩いた、1ヶ月ほど前のことでした。
「丸亀うちわ」の骨をかたどって、洒落た小屋になっています。丸亀の団扇は、慶長の頃(1500年頃)から作られていましたが、これが一躍全国に知られるようになったのは、寛永10年(1633)頃、丸金印の渋うちわが考案されてからのことでした。(後掲のマンホールの蓋を参照)。丸金印の渋うちわは、金毘羅参拝の土産品として大ヒット。金毘羅参拝者と共に、全国に散っていったのでした。


丸亀城
丸亀城に危機が訪れました。
丸亀城は、高松藩(生駒氏)の支城でしたが、一国一城令で廃城の憂き目に遭いました。加えて、高松藩では生駒騒動が勃発。生駒高松藩は改易となり、その藩領は、隣藩諸藩により分割統治されることとなりましたから、もはや丸亀城には、浮かぶ瀬ないと思われました。


マンホールの蓋の丸亀城と丸金うちわ
ところが、丸亀城に幸運が舞い込みました。讃岐が東讃と西讃に分割され、東讃に高松藩(水戸徳川氏)、西讃に丸亀藩が立藩されたのでした。廃城となっていた丸亀城は、新・丸亀藩の城といて、再利用されることになったのです。
丸亀藩に入ったのは、島原の乱を鎮圧したばかりの築城名人・山崎家治でした。旧丸亀城は家治によって、美事、戦仕立ての城に改築されるのです。とりわけ堅固かつ美しい石垣は、圧巻です。(ただし山崎氏は三代で絶家となり、その後は、京極氏の城となります)。


讃岐富士・土器川
丸亀城は、東に土器川を、西に金倉川(前掲)を配し、護りを固めています。
ところで、この二つの川が上流でつながり、そこに我らが満濃池が介在していることは、案外知られていません。前述のように、満濃池は金倉川を堰きとめて造られ、その満濃池は、人工水路によって土器川から分水を受けているのです。→(H21秋3)
なお、土器川の上流に見える山は、讃岐富士こと飯野山(422㍍)です。


魚島
丸亀の市街地を抜けようとする頃でした。「魚島」の絵を見つけました。絵に題名などはついていませんでしたが、「魚島」の絵に間違いありません。
かつて瀬戸内海では各所で、「魚島」現象が見られたといいます。鯛が、繁殖期になると集まって、海面からせり上がり、あたかも島のように見える現象です。俳句では、春の季語になっています。ただ残念なことに、次回歩いた時、この絵は見つかりませんでした。


宇多津駅
宇多津駅が今回の打ち止めです。
5日間歩きましたが、そのうちの4日間は、1日13-14キロで、1日だけが18.5キロでした。計72.5キロほどです。
この頃、私は自分の左膝を「10キロ膝」と呼んでいました。10キロほど歩くと痛み出すからです。しかし宇多津から88番を経て1番まで、残りは、まだ130キロもあります。はたしてどうなることか、悩ましいことではありました。


宇多津駅前
この後の展開を、すこし書いておきます。
今号につづく結願の遍路は、結局、2年後の平成21年(2009)春になりました。
ただし「10キロ膝」のせいではありません。膝はこの後、奇跡的?によくなるのです。


高松へ
一番大きな理由は、「遍路をまだ終わりにしたくない」からでした。当時、私たちの頭には、二巡目を歩くという考えはありませんでしたから、結願する前に、あちこちの「見残した」所を、歩いておきたかったのです。そして、ある程度の満足がいった時、88番までを歩き、私たちの遍路を終りにしよう・・と考えたのでした。実にうかつですが、「ある程度」であれ、満足なんてあり得ないことには、気づいていませんでした。

さて、以上をもちまして、平成19年冬のシリーズを終了します。ご覧いただきまして、ありがとうございました。次号の更新予定は8月24日です。
ただし、その内容は、今はまだ決めかねています。時系列に従って、結願を前にした「拾い歩き」をご覧いただくか、内容のつながりを重んじて、平成21年の「宇多津→結願」の遍路にジャンプしてご覧いただくか、どちらがいいのでしょうか。もし時系列に従った場合は、あの苦しんだ国道55号をもう一度歩きたいとて選んだ、平成19年春の「立江寺→神峯寺」となります。

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コメント (2)
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