楽しく遍路

四国遍路のアルバム

宿毛から 松尾番所 松尾峠 小山番所 城辺 40番観自在寺 柏坂 岩松

2021-10-06 | 四国遍路

 
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宿毛発
一日を柏島に遊び、いよいよ今日は、宿毛を発ち、伊予路に入ります。
あいにく雨の松尾峠越えとなりそうです。


案内
電柱に「貝塚1」とあり、傍の案内板には、
 ← 宿毛貝塚 100㍍
 ← 遍路道入り口 150㍍
とあります。ここから遍路道に乗ります。


宿毛貝塚
「史跡 宿毛貝塚」です。
貝殻の散在面積は、東と西、二つの貝塚を合わせて300坪ほどと広く、貝層は50㌢-100㌢ほどもあったと言います。時代は、縄文中期から後期。4000-3000年前と考えられています。
仮に当時の海岸線が、この下、2-3㍍のところに在ったとすると、今現在の標高は8.2㍍ほどですから、海は縄文の頃より、大雑把に言って5-6㍍ほど、海面を下げていることになります。海が後退したのです。


宿毛の街
海は後退しても、現・宿毛市街地の大半は、まだ松田川がつくる沖積低地・湿原の中にあり、人が住める状態ではありませんでした。満潮時には海水が押し寄せ、海に浸かる処だったのです。「すくも」という地名は、そこが「すくも」(枯れた葦)の生い茂る土地だったことから来ている、とも言われますが、うなずけます。
宿毛の干拓が進む経緯については、→(H28春1)をご覧ください。宿毛が、野中兼山が開拓した土地であり、また皮肉にも、兼山失脚後、野中一族が押し込めに遭った土地でもあったことなどを、記しています。


遍路道
住宅地を抜け、遍路道らしい遍路道となりました。


深浦
この辺には、小深浦(こぶかうら)という地名があります。その先には大深浦(おおぶかうら)があり、そこは松尾峠への登り口です。
「浦」は、海が湾曲して陸地に入り込んだ所を言いますから、大深浦は、海がうんと深くまで入り込んでいた所なのでしょう。大深浦ほどではないが入り込んでいたのが、小深浦でしょうか。ただし宿毛では明治以降、干拓が急速に進みましたので、今では、それほど「深浦」ではなくなっています。



道は踏み固められ、しっかりついています。
が、その右側は、雨水でくずれています。元は畑だったように見えますが、耕作はされていません。


石造物 
祀り手を失った石仏などです。紛失を避けるためでしょう、一ヶ所に集められています。



大深浦の先に宇須々木(うすすき)という所があり、そこに宇須々木遺跡があります。ただし出土しているのは、スクレイパー(ナイフ)と、大分県の姫島産黒曜石の破片だけです。もし本格的発掘が行われれば、宿毛貝塚よりも早い縄文早期の土器などが出土するとも期待されています。
とまれ、いま私たちが歩いているこの土地が、古くから人が住んできた土地であるのは、たしかでしょう。


枯れ葎
いまは見る影もなく枯れ果てて、哀れをさそわぬでもない「枯れ葎」ですが、どっこい、夏ともなれば再び、それはもう憎たらしいほどに繁茂するにちがいないのです。


倒木
跨ぐにも潜るにも、いずれにも難しい、意地悪な倒木です。


溜め池
やや唐突な感じで、溜め池がありました。よく管理されています。
左奥は、小深浦の集落です。


稲田  
溜め池の水を使っているのでしょう。


松尾峠番所
大深浦の松尾峠番所跡です。ここを通過すると、松尾峠への登りとなります。
「えひめの記憶」に、次の様な記述があります。
・・江戸時代、国境松尾峠を越える遍路は、大深浦にあった土佐藩の松尾坂番所で通行手形である切手を役人に渡した。これは土佐の東の入り口、甲浦番所で与えられたもので、土佐藩内での滞在期間や通過地を改められた後に国境の松尾峠を越えた。遍路の土佐への出入りは、この松尾坂と甲浦以外からは許されなかった。


道標
松尾峠1.7キロ とあります。峠の標高は、約300㍍です。
赤い看板に、・・この先200メートル 地蔵堂 これより登りですので、お堂で休みなさい。 村人 ・・とあります。


地蔵堂
さっそく地蔵堂に立ち寄らせてもらいました。最近、復元がなったようです。
由来書が掲示されていました。・・此地に安養寺なる寺院有り。されど明治元年の廃仏毀釈により廃院となるが、その後、地蔵堂として今日に至る。
 御本尊 木彫座像地蔵菩薩 一体
 御利益 子孫繁栄 安産健勝 学業有徳


石仏など
・・当山裏山に安養寺住職(代位不明)の墓有りて、宝永六年(1709)五月七日 長田與市(当地本番所頭首建立)との記有り。此里では「ホッコーさん」の名にて丁重に祭られている。(宝永六年は野中兼山没後45年に当たる)
なお、個人情報に触れるので写真は載せませんが、長田與市さんの子孫の長田さんは、今も大深浦に住んでおられます。


晴へ
晴れてきました。これで松尾峠の景色が、これで楽しめそうです。


景色
高度が上がってきた分、宿毛湾が、姿を見せてきました。


松並木跡
この峠道には昔、松並木があったのだそうです。しかし戦時中、松根油をとるため、すべて伐採されてしまいました。
地面のえぐれているように見える所は、松の根っこを掘り起こした痕と思われます。「根こそぎ」とは、このことでしょうか。


領界石
峠には領界石が建っています。これは伊予側の領界石です。
  従是西 伊豫國 宇和島藩支配地  とあります。
宇和島「藩」の文字がありますから、建立は、廃藩置県(明治4年)より前のことでしょう。しかし、宇和島「藩領」ではなく、「支配地」と記されていることから察するに、版籍奉還(明治2年)よりも後、すなわち明治2年(1869)から明治4年(1871)の間の建立と考えられます
いろいろ調べていると、この碑の建立年を貞享4年(1687)とする記事が多く見られますが、それはおそらく、「従是西伊豫国宇和島領」と記された、別の領界石の建立年でしょう。現在、松尾峠には見つかりませんが、この後に訪ねる小山御番所跡近くに、それと考えられる標石が建っています。(後述)


領界石
こちらは、土佐側の領界石です。
  従是東 土佐國  とあります。「土佐国」の下には、文字スペースはありますが、文字はありません。元々ないのか、削られたのか、剥落したのか?
私見では、文字は元々なかった、のではないでしょうか。文字があったとすれば、「支配地」だったでしょうが、土佐藩は、やがて廃藩置県が近いことを充分に承知していましたから、仰々しく「支配地」などと記すことに、もはや意味は感じていなかったと思います。そこで、ただ「従是東 土佐國」とだけ記したのではないでしょうか。
これら領界石は、そんなきわどい時期に建立されたものと考えられます。


景色
標高300メートルの峠には茶屋が二軒あり、駄菓子、だんご、草鞋などが売られていたそうです。旅人たちは茶屋から宿毛湾を眺め下ろし、こんな景色に癒やされながら、一息ついていたことでしょう。
通行人は、日に200人、多い日では300人もいたといいますが、昭和4年(1929)、宿毛トンネルが通って以降は減少に転じ、ついには茶屋もなくなってしまいました。なお、松尾峠越えについては、→(H24秋遍路3)にも記載があります。篠山や沖の島での、予-土間の領土争いについては、→(H24秋遍路4)
をご覧ください。


松尾大師堂
旧大師堂の跡に新築され、平成13年(2001)12月、落慶法要が執り行われたそうです。私たちがここを歩く、3年前のことです。
(撮影時は気づいていませんでしたが)この堂は、柱として、自然木の桜を取り込んでいるとのことでした。そこで写真を調べてみると、なるほど桜の木が屋根から出ているように見えます。しかし木は、とりわけ桜はどんどん大きくなります。大丈夫なんでしょうか。


純友城址
峠から200㍍ほど先に、純友城址があります。10世紀中期、承平・天慶の乱を起こしたことで知られる、藤原純友が築いた城です。
次の様な説明看板が立っていました。・・伊予掾(掾は助けるの意。伊予守を助ける)という役人であった藤原純友は、任期が満ちても帰ろうとせず、海賊共を手下とし、豊後水道の日振島に拠って朝廷に反抗した。
・・天慶4年(841)、追討使長官に任命された小野好古は、兵船200余を以てこれを攻めた。内応する武将があったために敗れた純友は九州へ逃れたが、その時、妻とその父栗山入道将監定阿をこの純友城に隠した。
・・やがて純友と一子重太丸が討たれたことを聞いた妻は、悲しみのあまりついに物狂わしくなり、その年の8月16日にこの地で亡くなった。


宿毛湾  
絵看板に、純友城から見た宿毛湾が描かれていました。方角は、上部に描かれた沖の島が、およそ南西方向になります。
なお本拠の日振島は、宿毛から北西方向へ約45キロに在ります。この図には描かれていません。
佐伯是基を自軍の副将に当てていることからもわかるように、純友は、九州を強く意識していました。その九州の拠点、豊後の佐伯は、西方向に75キロほどです。天気がよいときは見えるといいますが、どうでしょうか。


宿毛湾  
写真手前、やや右寄りの港が、藻津(むくづ)港です。上図と照らし合わせてみてください。その沖のやや大きい島は大籐(おおとう)島、小さい方が桐島です。
写真奧の中央に沖の島が薄く写り、その左に蒲葵(びろう)島が小さく浮かんでいます。蒲葵島の左に伸びている半島は大月半島。その先端には(前号で記した)柏島が見える・・と思ったら、どうやら半島に隠れているようで、見えません。


宿毛湾 
写真左端に片島が(半分くらいですが)写っています。かつては島でしたが、今は干拓で、陸つながりになっています。片島港については、前々号でも触れていますので、よろしければご覧ください。→(H15秋4)
写真中央に横長く写っている島が、大島です。大島漁港があります。
大島の上に、岬に隠れていますが、小筑紫があります。宿毛では小筑紫港と片島港を合わせて、宿毛湾港と呼んでいるようです。小筑紫については→(H27秋 5)をご覧ください。


伊予路
伊予側に下ってゆきます。しかし、まだ伊予国に入ったとは言えません。土佐側の大深浦に松尾番所があったように、伊予側にも番所があるからです。ここで「改め」を受けて初めて、伊予路に入ったと言えるわけです。



珍しい札に出会いました。「イエスを求めよ」とあります。
この後、宇和島の町を歩いていっときのことです。ローブをまとったキリスト者と見える、外国の方二人に出会いました。すれ違いざま「ご苦労様です」と、声をかけてくれたので、私たちも会釈を返したのでしたが、やがて思い出したのは、この札のことでした。もしかすると掛けたのは、この人たちではなかったか、と考えたのです。もう少し早く気づけば、面白い話が聞けたのかもしれません。



山道を下りてきました。これからは林道です。車も通れます。
とはいえ、この辺りでも標高は、まだ100㍍ほどはあります。


道標
そこに道標が建っていました。松尾峠から1.6キロ。観自在寺へは14.8キロ、とあります。


道標
道路道沿いに3基の領界石・道標が建っていました。これらについて、「えひめの記憶」に次の様な記事があります。
・・ 一本松町教育委員会の説明によると、この2本の領界石(左の2本)は、平成3年、橋の工事の際橋げたとして使用されているのが発見された。いずれも二つに折れていたものを修復し、番所跡近くのこの場所に移築したという。


中央の領界石
・・前述した貞享4年に建立したという史料に合致する領界石は、長さ2.4m(8尺)の、遍路道標に併用されている中央の標石であると思われる。この標石の正面に刻まれている遍路道の案内は、明治13年(1880年)とあり、領界石を後世に遍路道標として再利用したものである。
再利用した明治13年時点では、すでに伊豫国も宇和島藩も存在しないにもかかわらず、その文字を削り取ることなく、そのまま遍路道標として使ったのでした。面倒だったからかもしれませんが、おかげで、史料的価値の高い標石が残されることとなりました。


徳右衛門道標
右端は、武田徳右衛門道標です。「これより くわんじざいじへ 三り」と刻まれています。元は、松尾峠への登山口に建っていたそうです。


小山御番所跡
領界石の少し先に、小山御番所跡がありました。ただし、残っているのは、番所で使われていた井戸のみです。その井戸も民家の庭にある状態で、このお宅のご厚意で、かろうじて残っていると思われます。
説明看板に、天明4年(1784)、海堂という旅の僧が残した歌が記されていました。
  関の戸を 越えゆく末は 伊予なれば いよいよ故郷 遠ざかるらむ 
どうやら「伊予」と「いよいよ」を掛けて、遊んでいるようです。


城辺へ
県道299号(一本松-城辺線)を進みます。
今夜の宿は城辺の宿です。本当は別の宿に泊まりたかったのですが、休業、満員などの理由で、泊まれませんでした。なお国道56号を行くこともできますが、車が多い上にトンネルもあり、敬遠しました。


城辺へ
たぶん札掛の辺りからと思うのですが、私たちは道に迷っていたようです。どこをどう歩いたのか、今もってわからない区間があります。この日の日記には、次の様にあります。
・・遍路道としては不安定な感じの道になった。犬連れの女性に尋ねると、直進だという。しかし、ますます不安定になる。人家なく、車道。だが車は来ない。道の下方に工場の屋根がポツンと見えたりする。
・・道路工事で道が寸断されている。方向が読めない。ずっと先に道標らしいものが立っている。足摺で迷ったときに得た教訓を思いだし、止まって考えた。北さんが先まで歩いてみるという。斥候だ。お前はここにいろ、と言う。


城辺へ
・・困り果てていると、突然、天の助けか、御大師さんの助けか、降ってわいたように一台の赤い車が来た(というより私たちには「出現した」と見えた)。女性が運転している。手を挙げると、停まってくれた。尋ねた。どうやら私たちは正しい道を、そうとは自覚できず、歩いていたらしい。進むと、やがて道標が出てきた。急ごしらえの道標だった。やはり遍路道は、一時的に変更されていたようだ。だから「迷った」と感じていたのだ。「新しい道」や「工事中の道」には注意!


僧都川
観自在寺から津島までのルートは、三本あります。篠山道、中道、灘道です。
篠山道は、札掛で中道から分岐します。篠山詣りをする遍路は、札掛に荷物を置いて篠山神社に詣り、荷物をとって40番に向かうことが多かったようです。篠山詣りしない人は、札掛にある、篠山神社の一の鳥居の小祠に札を納め、遙かに(目には見えないけれど)お山を遙拝しました。
灘道は、上大道(うわおおどう)の満倉小学校を少し過ぎたところで、中道から分岐します。その後、城辺町太場(だいば)から豊田を経て、観自在寺へ。さらに柏坂を越え、津島に至ります。


豊田窯
上大道を過ぎた中道は、樫床から僧都川を渡り、大岩道-小岩道越えの険路へと向かいます。
「えひめの記憶」によると、もっとも通行量が多かったのは灘道、ついで篠山道、最も少なかったのが中道でした。宇和島藩の官道であったにもかかわらず、中道が敬遠されたのは、ひとえに、その険しさの故でしょう。かといって、他の2本が楽だったわけではありませんが。
中道については、→(H28春 7)→ (H28春 8)をご覧ください。


夕日
城辺町でのことでした。デート中の高校生カップルに出会ってしまいました。
私たちに気づいた二人は、きっと、まぎれ込む人混みがほしかったにちがいありません。せめて麦畑でもあればよかったのでしょうが、そこは無情の一本道。そんなものはなく、近づいてきます。
私たちに出来る唯一の親切は、関心を示さないこと、すなわち無視すること、でした。通り過ぎた後、私たちが発した言葉は、”いいなあ”でした。♫二人のため 世界はあるの・・ほのぼのとした気持ちに満たされていました。


雨の出発
城辺の夜。雨と風の音を聞きました。
起きてみたら、風はおさまってきていましたが、雨はまだ、時に激しく、降っています。天気予報によれば回復に向かうとのことですが。
それよりも困ったことは、この宿は朝食が出ないことでした。宿の一階に店がありますが、まだ朝も早く、品揃えは出来ていません。仕方なく、手持ちの行動食を食べて出かけましたが、腹は満たされないままです。


山門
40番観自在寺にやってきました。愛媛県の最初の札所を楽しみだったのですが、あいにく、ひときわ大粒の雨が降り始め、しばらく山門下で、雨宿りを余儀なくされました。


方角盤
山門の天井に、直径1mほどもある、方角盤が取りつけられていました。同様のものを清滝寺でも、見た覚えがあります。
周囲に絵で干支が示され、中央の亀が酉の方角、すなわち西に向いているのは、巡拝者に、西を向いて歩けと教えているのでしょう。西とは海がある方向ですから、この亀は、灘道への方向を教えていることになります。


本堂
ひとしきり降って、気が済んだのでしょうか、雨は急速に止んできました。
山門で一緒だった犬連れの土地の方は、犬を階段右につないで、本堂に向かいました。傘を残したのは面倒だからではなく、また降り出したときの犬用です。
私たちも本堂に向かいます。彼から、ジョイフルがこの先にあると聞いたので、元気いっぱいです。
なお階段左には、海の満ち引きと共に水位が上下するという、不思議の井戸が写っています。篠山山頂の池とも通底しているのだそうです。→(H24 秋遍路 ④)


出発
お参りを終えて、亀に従って西進します。貝塚(昔、貝塚があったことから来る地名)を過ぎると、長崎(長い岬から来るのだろう)があります。
この辺は、いまでこそ国道56号が走り、苦もなく歩けますが、56号開通前は遠浅の沼沢地で、歩くことは困難を極めたといいます。そのため「えひめの記憶」によれば、・・長崎から平山まで渡し舟があり、約500mの海上を1日何回か旅人を運んでいた。・・とのことです。
写真の前を行く方は、今の私くらいのお年寄りで、「草刈り奉仕団」に参加されているとのことでした。この方とは、あと2回、お会いすることになります。


貝殻の山
すわ、貝塚!
そんなわけはありません。この貝殻は養殖真珠のアコヤ貝の貝殻で、洗って潮を落として細かく砕き、肥料として売るためのものです。土壌の酸性度に応じて、貝殻のカルシウムが徐々に溶け出すのだといいます。そのため肥効が長持ちするという、優れものの肥料なのだそうです。
貝殻山を見ていると、フォークリフトに蜜柑を積んだ数人がやってきました。佐田岬の三崎に出荷するのだそうです。まだ取り立てでスイ(酸っぱい)けれど、と言いながら、2個ずつ、お接待してくれました。


松山へ
国道56号の菊川橋です。標識には、松山へ130キロ。宇和島へは、37キロ とあります。
橋の少し手前に八百坂バス停があり、そこで観自在寺で会った方が、バス待ちをしていました。この辺から坂が厳しくなってくることを、よくご存知なのでしょう。お話では、八百坂と柏坂はバスでやり過ごし、柏坂を下りた大門から、津島町の岩松まで歩くのだそうでした。もう足が弱いからね、行き当たりばったりですよ、と話されましたが、あやかりたいものだと思ったものでした。


道標
道標が三基、建っていました。石柱の形は同じですが、字体はそれぞれに異なります。どれも別の場所から移設されたものでしょう。
  平城へ 一里二十三町
  きくかははし(菊川橋)
  柏? 一里十五丁半
現在の菊川橋は、上の写真に写っています。


良心市
美生柑(みしょうかん)は、河内晩柑(かわちばんかん)のローカル名で、御荘(みしょう)から来ています。つまり御荘産の河内晩柑ということです。
その「御荘」は荘園の尊称。つまり観自在寺御荘、に由来しています。


室手海岸
室手(むろで)海岸は夕陽の名所で、冬至の頃にはダルマ夕日も期待できるとのことです。


三ツ畑田島
景観を楽しみながら歩きます。
手前の海に落ちている尾根は、御荘湾を構成する愛南町の半島で、三つの島は、三ツ畑田島(みつはただ島)というそうです。島を波よけにして、ここでも真珠の養殖を行っています。


内海村
内海(うちうみ)村という、柏を中心地とする村がありました。この村、私たちが歩いた8ヶ月後の平成16年(2004)10月、消滅する運命の村でした。 一本松町(松尾峠から降りてきた町)・城辺町(私たちが泊まった町)・御荘町(観自在寺がある町)と、西海(にしうみ)町(外泊がある町H28春 7)との合併で、愛南町となります。


松山へ
11:45 柏の手前の食堂で昼食をとりました。柏まで歩いて、とも考えましたが、食べられるときに食べておく、が原則です。二人とも注文は、焼きうどん。


ポスター
店の側に「第6回トレッキング・ザ・空海」のポスターが貼ってありました。
花へんろ講演会では、早坂暁さんが講演。月岡祐紀子さんが演奏されるようでした。へんろ道俳句大会では、内海村出身の夏井いつきさんが、選句者として参画しています。


柏坂へ
柏は予想より大きい町でした。食堂もありました。
行動食が、朝食べてしまってないので、JAストアでかいました。私はパンを購入。北さんはジャコ天、ちくわです。
カメラのカードを入れ替えていると女性が来て、山を越えるのですか?と尋ねました。話しの様子では、越えるにはやや遅い時間だと、心配してくれたようでした。ありがたいことでした。


柏川沿いの道
柏川沿いの道を遡ります。


常夜灯
どちらも「奉燈」とあります。右では、篆書が使われています。
いずれも「奉燈」したのは、次代を担う若者中です。若者中は、村内の警備、消防、祭礼などを担う、村の実働部隊です。


道標
  坂上り 21丁、 よこ 8丁、 下り 36丁
「よこ」とは、上り下りがほとんどない道をいうのでしょう。


柏坂図
柏坂への登り口が、標高およそ70㍍で、峠が460㍍ですから、実質400㍍ほど登ります。


石畳 
さっそく石畳の道が現れました。


雨情の歌
雨情の歌を取りつけたり、ベンチを置いたりしてくれたのは、津島の青年たちだと聞いています。若者中でしょうか。


柳水(やなぎみず)大師
旅人の喉の渇きを癒やすため、弘法大師が柳の木の杖を地面に突き立てました。すると、そこから甘露の水が湧いてきたといいます。お杖の柳はそこに根づき、大樹に育ったといいますが、残念ながら見つけることが出来ませんでした。


清水大師堂(H24秋撮影)
柏坂には、もう一つ、水に関わる大師堂があります。清水大師堂です。(なぜか写真が見つからないので、平成24年に撮影したものを使いました)。こんな譚が伝わっているそうです。
・・昔、一人の娘巡礼が、この地で意識を失い、倒れてしまいました。娘は長く水を飲んでおらず、弱っていたのです。その上、労咳の持病もありました。
・・大師をこれを憐れまれ、娘に夢告していいました。・・傍らにあるシキミの木の根元を掘りなさい・・と。
・・言われたとおりに、娘がシキミの根元を掘り起こすと、そこから清水が湧いてきました。娘はその水を飲み元気を取り戻したのですが、なんとそればかりか、労咳までもが、すっかり治っていたのでした。


石垣
外泊や内海でみられる石垣積みと比べれば、この程度のものは、技術的には、何ら難しくはないでしょう。「岩松村 土居儀平 築営」の石柱が組み込まれていますが、この人は石工ではないでしょう。名を残すほどの仕事ではありません。おそらく施主なのでしょう。
明治期、近くで牛の放牧が行われていたとのことですので、牛止めの石垣なのかもしれません。あるいは、この先に「ぬたば」が在ったりもしますので、猪除けの猪垣(ししがき)なのかもしれません。


ねぜり松
「ねぜり」は、’根がねじれた’というような意味のようです。次の様な譚が伝わるそうです。
・・昔、足が不自由な人が箱車で遍路をしていたそうです。何人もの人達に引っ張られて、この大松に差しかかった時のこと。一陣の風が吹いたかと思うと、曲がった大松が、箱車を押しつぶさんばかりに倒れかかってきたといいます。
・・そこで奇跡が起きました。箱車の遍路は、自分の足で逃げることが出来たのだそうです。逃げて、奇跡が起きたことに気づきました。足が治った!
こんな奇跡話が伝わる’ねぜり松’は、お接待の場所ともなり、「接待松」とも呼ばれるようになったそうです。残念ですが、昭和30年頃、(おそらく松食い虫被害で)伐採されたそうです。


由良半島
こんな景色を見ることが出来るとは、知りませんでした。


由良半島
半島の右半分が津島町(現在は宇和島市)、左半分が内海村(現在の愛南町)です。
昔、藤原純友が密かに、どこやらの半島に運河を掘り、これを使って、半島を大回りする朝廷軍を翻弄した、・・そんな小説を読んだことがあります。
その時は、’まさか’と思っていたのですが、事実は小説より奇なり。実際に運河が掘られていたとは、驚きました。ただし昭和に入ってからの運河で、純友が掘った運河ではありませんが。
昭和41年(1966)、船越運河が由良半島で竣工しています。それまでは、小さな船なら岬を廻らず陸に揚げ、岬の反対側まで運んでいたのだそうです。


ぬたば
イノシシのお風呂です。浴槽は、電柱が建っていた跡なんだそうです。



快適な道を下ります。


道標
この写真を撮ったときは気づきませんでしたが、
  四十番 かんじざい寺
  四十番 いなり寺
とあります。正しくは「四十一番いなり寺」でなければなりません。石工のうっかりミスです。しかし、なぜ直さなかったのでしょうか。


茶堂
茶堂は、集落の集会所でした。祭祀の段取りを決めるのに集まったり、格別の用はなくても、集まったりしました。また旅人には休憩所となり、時には、お接待に与ったりしました。
建物の一般的な形状は、四本柱の上に屋根をかぶせ、壁の一面に縁起棚。他の壁は吹き抜けになっています。床面に段差はなく、皆、同じ平面に座ったようです。より詳しくは、(H28春 4)をご覧ください。なお、この茶堂近くには茶堂大師が在るようでしたが、見つかりませんでした。


道標
橋は、小祝川に架かる小祝中橋です。傍に道標が建っており、
 茶堂休憩所 2.2K
 国道56号  1.7K  とあります。
時刻は、15:37。急がねばなりません。柏坂の女性の心配が、本当になりそうです。


小祝川
小祝の集落を抜けてゆきます。小祝川には鯉が放たれていて、のどかです。



今は改善されているのでしょうが、しばらく携帯が通じず、宿の予約が出来ませんでした。やっと通じるようになったのでかけてみると、一軒目は満室でした。
二軒目。受けてもらえました。ただし、宿に着いてから聞いたことですが、「歩き遍路は断らない」という、ご主人の方針があってのことだったようです。電話が遅くなり、ご迷惑をおかけしたようです。


川沿い道
今度は芳原川沿いに、津島町岩松に向かいます。先ほどの小祝川は、芳原川の支流でした。そして芳原川は、岩松川の支流です。河口付近で合流します。
下校中の学生とすれ違いました。中学生は「こんにちはー!」。高校生になると「ちわース!」。向こうから声をかけてくれるので、嬉しくなります。



宿から撮ってみました。
灯りは、岩松川の対岸の灯りです。岩松は、岩松川の河口に在って、江戸期から昭和初期まで、栄えました。「えひめの記憶」に次の様な記述があります。
・・この町は交通不便な時代には津島郷(現在の津島町の領域)の物資の集散地であり、ここから海路大阪方面に物資の積み出される港町として栄えた。岩松の港町は、岩松川の河口を利用したものであり、その河岸が船付場として利用された。・・


宿
朝、出発の時に撮りました。
この宿は、獅子文六さんが「てんやわんや」を執筆した宿として知られています。
獅子さんは昭和20年(1945)、敗戦から4ヶ月後の12月、妻の実家がある岩松に移り住みました。2年間、ここに住んだといいます。


獅子文六句碑
  思ひきや 伊予の涯にて 初蜆
句から察するに、獅子文六さん、必ずしも喜んで岩松に来たのではないようです。とはいえ、住んでみれば蜆も美味いし、伊予の涯もまんざら捨てたものでもない、とも思いはじめたようです。
句碑は、岩松川河口に建っています。


岩松川
ご覧いただきまして、ありがとうございました。今号は、岩松を出発するところで、終わらせていただきます。
岩松から、今回の区切り歩きの終点である宇和島までについては、「9年前の松尾坂越え」と題して(H24 秋遍路 ⑧)で報告しています、この道は(今は遍路道扱いされていない)旧国道56号を行く、山越え道です。


旧国道56号
補足です。
当時の「黄表紙の地図」には、次の様に記されていました。
・・現国道56号線松尾トンネル内は( 中略 )排気ガス充満の状態になる。山上線(旧国道)は、1.7km余分に歩くが、清閑で自然豊かである。日中はこの道を進行するとよい。・・
つまり、この頃の岩松から宇和島に出る道は、国道56号と旧国道56号の二本だった、ということです。二本あるが、国道56号は長いトンネルがあって勧められない、空気もきれいな旧国道を行きなさい、と助言しています。旧56号を縫うように通っていた、松尾峠の旧道が復元されたのは平成18年(2006)(H24 秋遍路 ⑧)。野井坂越えの道が復元されたのは H24 秋遍路 ⑤ 、 →(H28春 2)のことでした。これにより岩松-宇和島間の遍路道は、劇的に改善されたと言えます。

さて、次回更新は、11月3日の予定です。
宇和島から松山辺りまでの、リライト版をご覧いただくことになると思います。早く新しい記事を書きたいものですが。

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四国西南端 柏島の風景 

2021-09-08 | 四国遍路

 
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ふれあいパーク・大月
今日一日は、柏島観光の日です。
ふれあいパーク・大月から、高知西南交通バスの柏島行きに乗りました。
初めは三分の一ほどの座席が、お年寄りで埋まっていましたが、聞けば、みなさん大月病院の患者さんで、病院を過ぎると、乗客は私たちだけになりました。
いつもこんなですか?と運転手さんに尋ねると、・・だいたいこんなもんです。今朝、有料でこのバスに乗ったのは、お二人と、この新聞だけです、お年寄りたちは無料ですから、・・とのことでした。「新聞」とは、運転席脇に置いてある新聞の束で、バスが朝刊を柏島に輸送しているのです。


高知西南バス
途中、いろいろの話を聞かせてくれました。
大月町の中学が大月中学一つに統合された話、西南バスが町から委託を受けて、スクールバスを運行させている話、これに西南バスは助けられている話、68才までの延長雇用が可能となったが、善し悪しだなあ、という話。途中通過の古満目漁港は、どの風にも強い港という話。柏島はどうですか?との問いには、あそこは波風強くて、満足に船も停められんかったそうじゃが、野中兼山様様(江戸時代初期の土佐藩執政)じゃねえ、ええ港になったんよ、兼山の工事が柏島を変えた、いうことじゃね(後述)、との応え。ともかく話題豊富な方です。


柏島
何より有り難かったのは、柏島が近づいてくると、展望のよい停留所で長めの停車をし、その間、柏島にかかわる様々の話を聞かせてくれたことでした。以下、いちいち断りませんが、島に関する記述には、運転手さんからいただいた話が、多く含まれています。
写真は、展望所から見た柏島です。(背景は沖の島)。島のこちら側(北東部)が平坦になっているのが、おわかりと思います。島民の生活は、ここに集中しています。山地には、後でご覧いただきますが、畑はほとんどありませんでした。食害が酷いようです。


観音岩
こちらは観音岩です。高さ、およそ30㍍。観音岩駐車場から徒歩5分ほどの所に展望所があります。
「ふれあいの里 大月」で、柏島の出だというおばさんが話してくれましたが、島は今、観光にも力を入れており、観音岩はその目玉のひとつなのだそうでした。
拝見するに、なるほど観音様の立ち姿とみえます。伝承では、この観音さま、沖を航行する船に光を発して道を教え、安全に導いてくださるのだとか。



おばさんが言う、もう一つの目玉は、・・おばさん曰く、目玉は二つあるのだそうです・・海の美しさです。
とりわけ潜って見る海中の美しさは、格別だと言います。その豊富な魚種、珊瑚の美しさ、透明度の高さで、「カシワジマ」はダイバー間でも知られた、ダイビングスポットなのだそうです。島で会ったダイバーたちは口々に、その素晴らしさを語ってくれました。



グラスボード屋のおじさんに、代表して語ってもらいましょう。おじさんは、わざわざ沖縄にまで出かけて、グラスボードに乗ってみたのだそうです。
勉強させてもらおうと思って行ったのだと、はじめは謙虚に語り始めたのでしたが、いったん話し始めれば、・・いやー、ウチの方がよっぽどいいね。少々、ガッカリしたよ。グラスも船も、ウチより小さいし、肝心のサンゴが死にかかっていた。(この時期、沖縄や奄美の珊瑚には、温暖化がもたらす白化現象がおきはじめていました)。魚も、まちがいなく、ウチの方が種類が多いね。柏島には1000種類は、いるというからね。



確かに、美しく豊かな海です。
柏島では、珊瑚も海藻も魚も、元気でした。珊瑚の白化現象は、まだ起きておらず、海藻も繁茂していました。
海岸線沿いに茶色の帯が見えますが、これは海藻の帯です。魚たちの産卵場所となり、また住処ともなる処です。
もちろん沖縄や奄美の問題が、近々、柏島でも生じるであろうことは想定されており、対策は講じられていましたが、それについては後述します。


朴二東慰霊之碑
県道43号沿いの新柏島大橋の手前100mのところに「朴二東慰霊之碑」が建っていました。以下は、その主要部分の抜粋です。
・・柏島線の道路は、1944年12月、防衛道路として着工。翌年3月に完成した。この工事には、約40人の朝鮮人が強制連行され、断崖絶壁の最も危険な柏島-一切間の工区に従事した。1945年2月5日夕刻、作業中突如発破が爆発し、朴氏の左眼を鉄棒が貫通、即死した。
・・朴氏は1920年、全羅南道莞郡安面珍山里に生まれ、1939年結婚、3ヶ月後に強制連行されたのであった。新妻を残したまま、再び故国の土を踏むことなく、望郷の念を胸に、異境の地に27才の生涯を閉じたのである。
・・この道路は朴氏をはじめ多くの朝鮮人の血と汗と涙の尊い犠牲により建設されたことを、永遠に忘れてはならない。
建立は、平成7年(1995)2月5日でした。
この碑については、後掲する「特攻震洋基地跡碑」のところで、また触れようと思います。まったく別々に建てられた二つの碑に、実は繋がりがあったとは、なかなか気づかないことでした。


柏島
さて、柏島を変えたと運転手さんが言う、野中兼山の工事ですが、二つの難工事が、長い月日をかけて行われました。工期については諸説ありますが、私はとりあえず、7年説を採っておきます。これは諸説の中でも短い工期です。
兼山の工事のひとつは、太平洋の激しい浪や風から、住民を護るための工事でした。兼山は、長さ約640㍍、高さ3㍍、幅2㍍、満潮時の水面からの高さ1.45㍍の堤を築き、これを以て、住民の居住区を取り囲みました。島を、大きく口を開いた動物の横顔に喩えると、上顎の部分を取り囲んだということでしょうか。


現在の堤防
兼山の堤は、その後、補修、改修が繰り返されたようです。
そして今は、コンクリートの防波堤に姿を変えています。兼山堤は、その大半が、この下に埋もれていると思われます。


兼山堤
もう一つの兼山の工事は、島の東側に、穏やかで、しかも豊かな漁場を創出するという、兼山ならではの独創的な工事でした。
柏島から大月半島に向けて突きだしている岬(動物の下顎部分)は、もともとは、こんなに長くはありませんでした。つまり柏島と大月半島との間の水道は、(今は狭くなり橋が架かっていますが)元はもっと広かったのです。そこには豊後水道の潮流や黒潮が、ドードーと流れていたといいます。
その激流を、キハダマグロの大群が行き来していることを兼山は知り、これを獲るための工事を、工夫し、敢行したのでした。 


兼山堤
兼山は、一石二鳥どころか三鳥、四鳥の、妙手を思いつきました。
つまり、「岬」をもっと伸長すれば、①伸長した「岬」と大月半島との間に、湾にも似た海域が誕生する ②「岬」によって勢いを弱めた潮流の主流が、ゆるやかに「湾」に回頭してくる ③当然、魚も流れに乗って、「湾」に入ってくる ④「湾」は、豊後水道が運ぶ栄養が豊富だから、魚に限らず、様々の海洋生物が定着する場所となる。⑤つまり「湾」は、マグロも獲れるという、希有の漁場となる。


兼山堤
兼山は、石を詰めた蛇篭や大石を投じて堤を築き、小石を詰めて補強。さらに白砂を敷いて浅瀬を造りました。これが「兼山堤」です。長さ310メートル、高さ1.8メートル、幅3.6メートルだったと言われています。
兼山堤の完工を得て、「湾」内を魚群が遊弋し始めました。島人たちは「湾」奥に漁港を造り、定置網漁を始めました。主な水揚げはキハダマグロだったといいます。多いときは、一日2400本も獲れたといいますから、豪勢です。


養殖イカダ
しかし今日、柏島の漁業にも変化が生じています。
かつては定置網が仕掛けられていたであろう処に、今は代わって、養魚場の筏が浮いています。漁業資源減少への対応でしょう。大月町では柏島を皮切りに、昭和50年代から、養殖漁業が始まっているそうです。四角い生け簀は主として真鯛、丸い生け簀は黒マグロ(本マグロ)を養殖しています。その技術は、全国的にも、高い評価を受けているとのことです。
(確認し忘れたのですが)、完全養殖と思われるので、とすれば資源枯渇の心配は、基本的にはありません。


養殖イカダ
追伸:つい先日(R3年9月)、うれしい新聞報道に接しました。
黒マグロは絶滅危惧種に指定されていましたが、その危機ランクが、準絶滅危惧種に引き下げられたとのことです。きっと柏島の養殖も、この引き下げに貢献していることでしょう。


集落
柏島では、家々は散在していません。土地が狭いためでもあり、また寄り合って強風をしのぐためでもあるでしょう。
ほとんどが平屋なのも、強風を避けてのことでしょう。
なお、写真は堤防の上から撮っています。上から見下ろしているのは、そのためです。


屋根
風が強いのです。瓦をセメントで固めています。他に、漁網で覆った屋根、タイヤで抑えたトタン屋根などもありました。


椅子
椅子は、集落に欠かせない、お年寄りの社交場です。
もちろん風が強い日ばかりではありません。好日には、日がな一日、おしゃべりを楽しんでいるのでしょう。


経石
集落の海近くに、経石が建っていました。南無妙法蓮華経と刻まれています。
太平洋に突きだした形の柏島は、海からの風や波に、モロさらされている島です。右面と左面では、浸食の具合が異なっていることのお気づきでしょうか。左面が、海からの風雨を激しく受ける面です。


経石
島のお年寄りが、その恐さを、こんなふうに話してくれました。
・・台風の時?そりゃ、あんた、どうにもならん。特に大将波は、コワイけんね。砕けて、それが風に乗って集落全部に降りかかる。
大将波とは、いくつかの波の波長が重なって出来た、巨大な波をいうようです。
・・しかし大将波は、ええ事もするなあ。あれは、堤防に棲んどるネズミを、皆、攫ってゆくんよ。きれいさっぱり退治してくれる。
考えてみれば恐ろしいことですが、大将は波をなくすことが出来ない以上、こんな考え方も必要なのかもしれません。何事も、悪いことばかりじゃないんだ、と。


アコウ大樹
港近くの稲荷神社に、アコウの大樹がありました。野中兼山が八丈島から移植したとも言われています。
(前号で記した)松尾地区のアコウ大樹は、上に高く伸び、樹高は20㍍ほどもありましたが、柏島のアコウは、同じ大樹でも高さは10㍍もなく、横に枝を伸ばしています。これもおそらく、島の強風を示しているのでしょう。


元柏中
柏島中学の校舎です。
しかし柏島中学は、私たちが訪ねる3年前、平成13年(2001)に廃校となっていました。町内の 他中学と統合され、新設・大月中学校として再発足したのです。
大月中学は遍路道近くに在るので、ご覧になった方も、多いと思います。


大月小中学校
柏島小学校は、私たちが歩いた5年後、平成21年(2009)に、やはり大月小学校として統合され、中学校に隣接して建設されました。
写真は平成22年(2010)に撮ったものです。既に小学校も統合されたので、「中学校」の文字が、「小中学校」に書き換えられています。


宿毛高校大月分校
また、やはり遍路道沿いに在った宿毛高校大月分校も、平成27年(2015)、廃校になっています。
高知西南バスの運転手さんが話していた「スクールバス」の背景には、こうした学校統廃合の事情があったのです。もはやスクールバスなしには、通学できなくなっているのです。せめて小学生くらいは、自分の足で、地元の学校に通わせてやりたいものですが。
 

黒潮実感センター
NPO法人黒潮実感センターが柏島で活動しています。
(今は移転していますが)、この頃は柏島中学の校舎跡を借りて、活動していました。その設立趣旨は、HPによると、次の様です。
・・海洋生物の宝庫である高知県柏島。この島の素晴らしさをより多くの人に知っていただき、共に育んでいただくための活動をしているのが「黒潮実感センター」です。


わたしの海
その活動内容を理解するためのキーワードは、「里海」でしょう。
HPに、「里海」とはと題して、次のような文が載っています。
・・人が海からの豊かな恵みを享受するだけでなく、人も海を耕し守る。人と海が共存できる場所、それが私たちの目指す「里海」です。
・・私たちは地元住民の方と会員の皆さまと共に、全国に先駆けた里海のモデルを柏島に作るよう努力しています。


美術室
とりわけユニークな活動に、間伐材を利用した「魚礁作り」があります。その様子は最近、NHKBSP ワイルドライフ「高知県 柏島 海の交差点に奇妙な魚が躍る」でも紹介されました。ご覧になった方も多いと思います。
間伐林には、大月小学校お得意の「はげまし札」も付いていましたよ。ここではお遍路さんではなく、お魚さんたちを励ましています。なお「海の交差点」は、「黒潮と豊後水道の交差点」を意味します。兼山も着目した交差点です。


思い出
最後の在校生たちが書き残していました。
  楽しいことや 悲しいこと  無くしたくない思い出
  みんなが通った 私の柏中  忘れない ありがとう
  また会うときは みんなが育った この場所で
里海だけでなく、「この場所」も、なんらかの形で残してあげたいものです。「この場所」は、この子たちの「古里」です。


特攻震洋基地跡碑
特攻震洋基地跡碑がありました。本文を転載します。
太平洋戦争の末期、昭和20年6月、本土決戦に備え特攻震洋隊員48名がここに配置され、この丘の麓の6本の横穴に震洋艇24隻を格納し迎撃の機会を待った。危急存亡の時に当たって決死殉国の盟を結ぶ若い隊員の真心と、これを優しく見守って呉れた島の人びとの温情は筆舌に能く表す事が出来ない。以来43年、戦後の悲惨な荒廃から立ち上がった日本の今日の繁栄は、当時生き残った青少年の力に因ることが大きい。各地の特攻に散華した多くの英霊に無限の感謝を込めて、冥福を祈ると共に、永遠の世界平和を願う一つの灯火として、茲にこの碑を建てる
  昭和63年10月吉日  元第134震洋隊搭乗員有志
朴二東さん(前述)が爆死した、防衛道路の完工が昭和20年3月。特攻震洋隊員48名の配置が同年6月です。どうやら「防衛道路」の建設は、特攻震洋隊員たちを、柏島へ迎え入れるためのものだったのです。別々であるかに見えても、朴二東さんの死と震洋隊員の死は、つながっていました。であれば、一方の死を悼むことは、他方の死を悼むことでもなければなりません。


僧慶禅の墓
はりまや橋でカンザシを買い求めたボンサンは、純真。贈った相手は鋳掛屋の娘で美人のお馬。これが定説ですが、実は贈り主は純信の弟子・慶禅だった、という譚があります。
師と弟子が二人そろって、お馬を好きになったのだけど、これを両天秤にかけるほど、お馬はスレてはいません。お馬の心は、徐々に純信に傾いていったそうです。そこで慶禅は焦り、ついにはりまや橋でカンザシを買ってしまった、というわけです。
慶禅は柏島の出なので、ここに眠っています。なお純信の供養堂について、→(H24秋遍路)に記しています。よろしければご覧ください。



集落を抜けて少し高いところに上がると、畑がありました。
家で食べる分だけ、作っているようです。



囲みは、鳥獣を避けるためのものですが、何が棲んでいるのでしょうか。島とはいえ、ほとんど陸繋島です。「本土」の鳥獣は、自由に島に移ってきます。


マスト棒
小学校の校庭で、姉弟らしい二人が遊んでいました。マスト棒を登っています。
元気な二人でしたが、島で私たちが出会った子供が、この二人だけだったのは、さみしいことでした。
前述のように、この頃、中学はもう閉じられていましたが、小学校はまだ、開かれてはいました。すでに閉鎖の計画は、あったのかもしれませんが。


石畳の道
小学校脇の道を上がると、石畳の道がありました。
この先になにかが在るのだと考え、登ってみると、お墓がありました。


山内隼人の墓
山内隼人と采女の墓です。隼人は、山内一豊の甥・可氏(よしうじ)の次男です。慶長19年(1615)、柏島守護に任ぜられ、17年間、柏島で暮らしたと言います。
実は、この道をさらに上ると、山頂に、灯台、昔の狼煙場の跡、砲台跡などがあったようなのです。
が、ここが終点と勘違いした私たちは、引き返してしまいました。


柏島漁港
さて。そろそろ柏島観光は終わりです。


バス
帰りのバスが、やって来ました。手を挙げると停まってくれます。
往路とは別の運転手さんでした。この運転手さんからは、「高知県交通」について教わりました。
高知県交通が、今は東部交通、西南交通、県交通に分社されているという話。しかし組合は今も一緒であること。待遇の違いに少しずつ矛盾が出そうだということ。県交通には、まだ本家意識があるという話。その具体例。バスという交通機関の便利さや便利な乗り方が、まだ周知されていないこと、などなど。
「ふれあい大月」で下車前、何気なしに宿毛行きに乗り換えると話したら、乗り継ぎ券を渡してくれて曰く、・・ねっ、こういうことを知らんでしょう、これで100円助かるんですよ。こういうことを、もっともっと広報しなきゃあいかんですよね。でなきゃあ、バスは生き残れない。。
西南交通ガンバレ!


宿毛の夜
観光の日の仕上げに、外へ食べに出ました。
写真は、私お気に入りの一品です。酒は、酔鯨としました。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
野中兼山については、本ブログのあちこちの号に書き散らしてきました。兼山関連の記述が、ある程度まとまって記されている号は、以下の通りです。
 (H27春)の6から12まで  (H27秋 2)  (H28春 1)
次号では、ようやく伊予路に入り、宇和島を目指すことになります。更新は、10月6日の予定です。皆さま、コロナ、お気をつけください。

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足摺岬 白山洞門 松尾 竜串 叶崎灯台 大浦 月山神社

2021-08-25 | 四国遍路

 
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足摺岬灯台
平成16年(2004)2月25日、3ヶ月ぶりに、足摺岬にやって来ました。
今回は西海岸を歩き、月山神社→宿毛→宇和島、と歩く予定です。



前回「迷走」した区間を歩き直しておくべく、大岐海岸から歩いてきました。


足摺岬灯台
もう納経所が締まる時刻、17:00が近づいています。のんびりしては、いられません。


金剛福寺
お参りし終えたときには、もう17:00を幾分、過ぎていました。
ですが、納経所の方は待ってくれており、お願いできますか、と尋ねると、どうぞ、との応え。おずおぞと前回ぬらしてシミが出来てしまった納経帳を差し出すと、ゆっくりとめくりながら、ご苦労でしたね、と言ってくれました。


補陀落東門
扁額に、補陀落東門とあります。
足摺岬では、中世、補陀落渡海が試みられたと言います。小舟で、南海上に在るとされる補陀洛山=観音浄土、に渡ろうとする試みです。


夕日
宿は、白皇神社近くです。
夕食時、宿のご主人はカツオ船に乗っていたとかで、その体験談を話してくれました。陸(おか)からカツオのナブラが見えた頃の、豪勢な話でした。
女将さんは歴史に興味をお持ちで、一条家宝物の話、唐船島の話、加久見左衛門の話など、ローカルな話をしてくれました。


白皇神社
翌朝、38番金剛福寺の奥の院である白皇神社(しらおう・はくおう神社)にお詣りしました。白皇神社は、平安時代初期、弘仁13年(822)創建の、白皇山真言修験寺に発する神社です。現在地の北方4キロほどの、白皇山(433㍍)に在りましたが、明治の神仏分離で廃寺となり、その神道部分のみが白皇神社として、現在地に遷ってきました。
白皇山真言修験寺が在った場所は、黄表紙地図42-2に、奥之院(跡)と記されて載っています。前号に記した県道348号でアクセスできます。→(H27秋 4)


白山洞門へ下る
海岸段丘の上から長い階段を、海まで降りてゆきます。白山神社本宮にお詣りするためです。
白山神社は大正5年(1916)、白皇神社に合祀されていますが、その本宮は、今も白山洞門の上に祀られています。合祀はされましたが、神様が融合して一つになったわけではありません。なお上掲・白皇神社の写真で扁額の社名が白山神社になっている理由は、このような経緯を踏まえれば、理解できます。


白山洞門
白山神社本宮は、洞門のブリッジの上に在ります。


白山洞門
洞門は、高さ16㍍、幅17㍍。花崗岩の海食洞門です。


白山神社遙拝所
平成22年(2010)に撮った、白山神社の遙拝所です。危険であるので、ここで遙拝するよう、注意書きがあります。


礫浜
白山洞門につながる浜に出てみました。



砂浜ではなく、礫浜です。どれもが、長い間波に洗われ、ぶつかり合い、丸みを帯びています。


漂流物
入野松原の砂浜美術館を思い出し、漂流物を集めてみました。新しい発見はありませんでしたが、興味深い試みでした。
しかし、いざ帰る段となると、これらは他の人の目には、ゴミでしかないと気づきました。仕方ありません。ビニル袋に入れ、宿まで持ち帰えることにしました。


測候所
また崖上に上がってきました。
右奥の建物は、清水ウインドプロファイラ観測局です。風のプロファイル(輪郭)を観測する、ということでしょうか。



運んできたゴミを渡し、荷物を受け取り、歩きはじめました。宿の人には、迷惑この上ない行為であったでしょう。すみませんでした。
今日は竜串泊まりです。距離的にはゆっくりですが、立ち寄りたいところは、たくさんあります。


カツオ節工場 
ここは松尾地区です。歩いていると、カツオ節工場で作業している人たちから、声をかけられました。
作業工程など、丁寧に教えてくれました。欠片を、味見までさせてくれました。


カツオ節工場
残念ながら今は数が減りましたが、かつて松尾では、カツオ節製造が盛んでした。他にもたくさんの工場が在ったと言います。


アコウ大樹
おばさんたちの、・・こんなもん(カツオ節なんか)どうでもええけど、アコウの木と天満宮の廻り舞台は、ちゃんと見ときよ、・・の声に押されて、やってきました。
アコウの大樹です。樹齢300年以上と推定されており、この樹を中心とする松尾一帯は、「あこう自生地」として、国の天然記念物に指定されています。


アコウ大樹
一本の大きな幹に見えますが、実は幹ではありません。宿主の木に絡みついた気根の集合体です。ただし宿主の木は、(中に空洞が出来ていることからみて)もはや枯れて、姿を消してしまったと思われます。アコウが「絞め殺しの木」と呼ばれる所以です。


空洞
人が入れるくらいの空洞が出来ています。絞め殺された宿主の木は、大木だったと思われます。


松尾天満宮へ
松尾天満宮へ向かいます。
写真奥の積み上げられた槙は、カツオ節工場で使う槙です。


松尾天満宮拝殿・舞殿 
松尾の近くに臼碆(うすばえ)という所があります(黄表紙地図42-2)。日本列島で黒潮が最初に接岸する場所で、臼碆沖は、最良の漁場だったといいます。(前述の)宿のご主人が言った、”陸からナブラが見えた所”とは、臼碆のことだったかもしれません。
そんな関係で、松尾地区は経済的に豊かでした。他ではめったに見られない廻り舞台が造られた背景には、この豊かさがあったのでしょう。


廻り舞台
私は平成22年(2010)秋、松尾を再訪しています。その時、奈落まで降りて、舞台廻しの装置など、全部を見せていただくことが出来ました。この写真は、その時に撮ったものです。直径5㍍の廻り舞台です。
(本来なら、リンクを通して、他の写真もご覧いただくところですが、この回の遍路は、まだリライトが終わっていません)。


アコウの気根
拝殿の後ろにアコウの木があり、気根が垂れているのが見えます。
気根は、先端が地に着くと、そこで枝分かれしながら、地に根づきます。


吉富家
吉富家二代目当主は、漁業、カツオ節製造、金融など、手広く事業を展開し、初代の数倍の財産を築いたと言います。
この住宅は明治34年(1901)、二代目当主によって建てられました。内部が公開されていますが、この時は朝早すぎたのでしょうか、入ることが出来ませんでした。


大月方面
西臼碆辺りから撮った写真です。奥に見えているのは、叶崎辺りでしょうか。とすれば、今日の泊地、竜串の先です。



ずいぶん下で波が砕けています。海沿いを歩く室戸岬では、ほとんど見ることがなかった景色です。


注連縄
無精をして外さないのではありません。この辺では、次の正月準備のときまで、ずっと取りつけたまま、外さないのです。
注連縄が邪気の侵入を阻んでくれることを願い、取りつけています。


ジョン萬記念碑
中の浜にやって来ました。中濱萬次郎の生誕地です。萬次郎は、宇佐浦の漁船に炊として乗り組み、遭難しました。14才でした。
萬次郎が再び中の濱の地を踏むのは、それより11年後のことだったと言います。


廻り道
中の浜で山越え道への入口を見逃し、延々、県道27号を歩く羽目となりました。対岸は近くに見えているのですが、湾は奥まで入り込んでおり、遠回りを強いられます。途中、「渡」という地名がありましたので、昔はきっと、渡し場があったのでしょう。
行動食を携帯していなかったことが、悔やまれます。


清水
前号の冒頭で記した、西海岸の交通の要衝にやってきました。
橋を渡った先に、特徴ある建物が建つ、交差点があります。唐船島は、橋の左側です。


唐船島
唐船島(とうせん島)の名は、この島が戦国時代、遣明船の太平洋航路の寄港地であったことに、由来すると言われています。
遣明貿易には、衰退する室町幕府に代わって、大内氏や細川氏などの守護大名、有力寺社、有力商人などが、競って参画しましたが、土佐一条氏もまた、貿易からあがる莫大な利益を、見逃すことはしませんでした。唐船島の湊は、土佐一条氏の遣明貿易・前進基地として、まず拓かれたとのことです。


唐船島
唐船島の隆起海岸は、国の天然記念物に指定されています。
昭和21年(1946)の南海大地震により、島全体が約80㌢隆起したと言います。よく見ると、現在の海面より80㌢ほど高いところに、元の汀線の痕跡(貝類の附着など)が残っています。


竜串へ
東海岸の以布利から発し、足摺岬の外周を巡ってきた県道27号は、やがて西海岸の、土佐清水の市街部で終点となり、国道321号・通称サニーロードに接続します。


漂流物
白山洞門の礫浜で拾った、「宋」の字が入ったものは、漁船の浮標であったようです。同様のものが漁船の船尾に並べてありました。


強風
向かい風を菅笠の尖りで受けるべく、頭を下げて進みます。


昼食
ようやく昼食にありつけました。私は「いよのめし」を頼みました。「伊予の飯」かと思ったからですが、さにあらず。「いよ」は、「うお(魚)」が訛ったものだとのことでした。つまり「魚の飯」でした。むろん美味しくいただきましたが。


国道321号との接続点
ここで県道27号は国道321号・通称サニーロードに接続します。
サニーロードは、中村から発し、以布利から足摺岬を横断。土佐清水の市街部を経由して宿毛に至ります。


市街部
国道321号・通称サニーロードに入りました。土佐清水の市街部を歩いています。


サニーロードの標識
市街部を抜けてきました。


加久見
加久見(かぐみ)という地名には覚えがあります。ここは、足摺岬の宿で女将さんが話してくれた、加久見左衛門の支配地だったところでしょう。
加久見一族は古くからの土佐国人で、一条氏の下向に際しては、率先してこれを受け入れ、家臣として臣従したと伝わります。


清水市街部遠望
清水の市街部が遠望できました。


あしずり港
あしずり港は、大型フェリーが着岸できる港です。察するに、足摺観光の玄関口として築港されたのでしょう。
車で訪れた観光客が足摺中を走り回れるように、県道27号、サニーロード、足摺スカイライン、ふるさと林道などなど、道路網も、併せて整備されています。道を通すためのトンネルも、(後述するように)何本も穿たれました。
しかし何事も思惑通りにはまいりません。事業はバブル崩壊という打撃を受けます。あしずり港には初め、関西方面と結ぶ大型フェリーが就航していましたが、残念ながら平成16年(2004)には、休航に追い込まれました。港は今、新しい観光拠点としての在り方を、模索しています。


落窪海岸
化石漣痕とは、・・海底などに形成された漣(さざなみ)の痕跡がそのまま固結し化石のように残されたもの・・だそうです。
落窪海岸や、その西に隣接する爪白海岸では、昭和21年(1946)の南海地震で海底から隆起してきた化石漣痕が、私たちの眼前に姿を現しています。


道標
右折すると、ふるさと林道です。この道は足摺岬を横断し、東海岸の大岐が浜で、以布利を経由してきた県道321号・サニーロードに接続します。
私たちは直進し、竜串の今日の宿に向かいます。


良心市
良心市がずらり、並んでいます。


津波
近い将来、高い確率で起きるとされている南海トラフ地震は、東日本大震災のマグニチュード9.0を上回る規模と予想されています。


宿
竜串の宿に着きました。 


竜串の朝
今日の天気は、曇、14度と予報されています。歩くには丁度いい天気です。


足摺海底館
天然水族館です。水深7㍍の世界を楽しむことが出来ます。


下川口トンネル
ここから小才角(こさいつの)までの9キロほどに、次の様にトンネルが穿たれています。( )内は、竣工の西暦年です。いずれも高度成長期からバブル経済期の建設です。
下川口トンネル(1982)、片粕トンネル(1984)、歯朶の浦トンネル(1983)、貝の川トンネル(1986)、叶崎トンネル、西叶崎トンネル(1987)、脇の川トンネル(1987)


片粕トンネルへ
このトンネルの多さは、トンネルがない時代の、陸路の厳しさを暗示しています。大浦で聞いた話ですが、トンネルがない頃、月山神社の例大祭に来る人たちは、ほとんどが(陸路を避けて)船で来たとのことでした。祭当日、大浦の湊は、足摺各地から来た参拝船で、いっぱいだったと言います。


歯朶(しだ)の浦トンネル
平成30年(2018)の高知新聞の記事が、ネット上に載っています。
見出し: 待望の公衆電話 携帯持たない高齢者半数 土佐清水市歯朶ノ浦
公衆電話を付けてくれんろうか―。高知県土佐清水市貝ノ川にある歯朶(しだ)ノ浦集落のそんな要望を受け、NTT西日本高知支店はこのほど、集落で初めての公衆電話を1台設置した。同支店の公衆電話担当課でも「要望による新規開設は20年以上聞いたことがない」。浜渦大広(ともひろ)区長(69)は「災害時の連絡手段としても大事。要望を聞き入れてくれてありがたい」と話している。
強引にデジタル化を進める国も多い中、日本はまだ「やさしい」国なのかもしれません。デジタル化の後進国、これもまた良し。


ダイバー
竜串に海底館があったことでもわかりますが、この辺の海はきれいなのです。小才角には、珊瑚を胸に抱いた少女の像があります。
像の台座に刻まれた童歌は、月光が降る海の、きれいな桃色珊瑚を歌っています。ただし、この歌は、ちょっと恐い。
  お月さん ももいろ だれんいうた あまんいうた あまのくち ひきさけ
月灘に桃色珊瑚があることは秘密なのに、海女がもらしてしまったようだ。海女の口を引き裂いてしまえ。・・というようなことでしょうか。「あまのくち ひきさけ」は、藩政時代、珊瑚の存在は厳しく秘匿されたことが背景と思われます。とまれ、月灘の桃色珊瑚とは、なんと美しい。


網洗い
大津集落の人たちが、盛大に放水していました。消防車も来ています。
何をしているのかと尋ねたら、定置網を洗っているとのことでした。


大津大橋
大津大橋です。橋は、叶崎トンネルに接続しています。


大津の船溜まり
大津大橋を歩いていると、下に、大津の漁港というか船溜まりというか、が見えました。男性が一人、網を繕っていました。


叶崎トンネル
これを抜けると、灯台はすぐ近くです。


灯台
灯台が建つ位置の標高は、約42㍍。灯台の設置は、足摺岬灯台よりやや早い、明治44年(1911)だといいます。


叶崎灯台
恋が叶うとて、訪れる若きカップルも多いとか。また近頃は「灯台女子」なる人たちもいるのだとか。


観音堂
灯台の、県道321号を挟んだ山側に長い石段があって、上に無住の観音堂がありました。(今はなくなっている?)


お供え
ちょうど九州から一時帰郷したという方が上がってきて、お供えを置いて帰りました。
・・我が家では、ずっと、こうしてきたのです。だから、たまに帰ってきたときくらいは、罪滅ぼしじゃないですけれど、しませんと。・・故郷を捨てたことが気にかかっている、そんな中年の男性でした。神饌にも似たお供えの品について尋ねると、これは代々、我が家に伝わるやり方、だそうでした。



はるか海のかなたに在ると信じられている、観音浄土への篤い思いが、ここに観音堂を建てさせたのかもしれません。


沖の島
写真奥に見えるのは、沖の島のようです。室町時代以降、その所属が伊予-土佐の間で争われた島で、江戸時代には島内に、(幕府が調停して引かれた)予-土の国境があったとのことです。
とまれ修行の道場も、終盤にさしかかっているわけです。


脇ノ川トンネル
脇の川トンネルです。手前のトンネルは西叶崎トンネル。


大月町へ
幡多郡大月町に入ってきました。
幡多郡の郡域は、かつては広く、現在の四万十市、土佐清水市、宿毛市、大月町、黒潮町、三原村の全域と、高岡郡四万十町の一部にわたっていました。しかし今は、大月町、黒潮町、三原村の2町1村のみに減っています。しかも、これらは境を接していません。


するめ
小才角の、するめの一夜干し。印象に残る景色です。
するめを売っているおばさんたちが、・・ホレ、食べえ・・と勧めてくれました。腹が減っていたので、いっぱいいただきました。そのお礼というわけでもないのですが、いくらかを埼玉の友人に送ったら、とても喜んでくれました。



小才角老人クラブのお年寄りたちがつくった花壇です。


磯釣り
見えにくいですが、中央の磯に、釣り人が二人います。大津や小才角には渡船屋さんがあって、釣り人を磯まで送り迎えするそうです。


あこう
「ド根性あこう」の木がありました。下に長く気根が伸びています。


気根
気根は上から垂れてきて、側溝にたまったわずかな土や隙間に根を下ろそうとしています。


国道321号との分岐
  左方向 大浦 0.7キロ 
      月山神社 4キロ
ここでいったん県道321号から別れ、大浦集落→月山神社 と進みます。県道321号とは、ここで一度別れます。


堤防
昭和21年の昭和南海地震を覚えている方と出会いました。
・・あの地震は朝方で(12月21日午前4時19分)、津波は来るのが見えたけん、なんとか逃げられた。逃げ場所は決めとっても、そこへ逃げられるか、じゃなあ。
高齢化が進むなか、だんだん避難が難しくなってくる現状を、心配されていました。


大浦集落
大浦集落に入ってきました。写真右の建物は、老人憩いの家です。後述しますが、玄関の戸に、興味深いポスターが貼ってありました。
左は消防署です。傍の椅子をお借りして、休憩させてもらいました。(この建物は、今は取り壊されているようです)。
おにぎりを食べていると、(私たちと同年配の)おじさんがやって来て、話しかけてくれました。元は船員で、2000トンタンカーで東南アジアを廻っていた、とのことです。


大浦集落
おじさんは、やがて「大月へんろみち」の話を始めました。どうやら船の話は前置きで、こちらが本題だったようです。
私たちは知らなかったのですが、大浦から月山神社→赤泊に至る、古くからのへんろ道「大月へんろみち」が、近く復旧されるというのです。おじさんは、ボランティアとして、その活動に参加しているといいます。


ポスター
老人憩いの家のポスターは、月岡祐紀子さんの「花へんろコンサート」のポスターでした。大月へんろみち保存会の設立記念として、同会が主催しています。


復旧
おじさんが、・・畑の肥料にする草刈りにゆくついでに、道案内しましょうか・・と申し出てくれました。
願ってもないことです。
集落を抜けて、「大月へんろみち」への入り口に向かいます。上掲写真では墓地の下辺り、この写真では、赤い屋根の建物の辺りが入口になります。


旧道
おじさんは、道々、数日手伝っていった若い遍路の話、復旧作業の日には放送を流せと区長をせっついている話、お四国さんをやってないと娘が嫁にゆけん話、なのに、わしゃ、まだようやらん話、あんたらは幸せじゃ、という話、あの道より向こう側が津波で埋まったという話、車など粗大ゴミを捨ててゆくヤツがいる話などなど、いっぱい話してくれました。


丁石
十六丁石が転がっていました。他にも幾つもある、とのことです。建てるのは、復旧最後の仕上げのときなのでしょう。


復旧中の道
直進しているのが、復旧中の「大月へんろみち」です。
横切っているのが当時のへんろ道で、月山神社は左方向です。


復旧中の道
この辺は、ほぼ整備が終わっています。上にあがってゆくのが、大月へんろ道です。


休憩所
おじさんと別れて、月山神社に向かいます。
海を眺める休憩所がありました。この休憩所は、黄表紙地図にも記載されています。



月灘という美称をもつ、美しい海です。


月山神社
月山神社に着きました。手前が月山神社の鳥居。奥が大師堂の鳥居です。


月山神社
月山神社は、月夜見尊(つくよみ尊)、倉稲魂尊(うかのみたま尊)を祭神とし、表筒男(うわつつお)、中筒男(なかつつお)、底筒男(そこつつお)の三神と、事代主尊を合祀しているとのことです。→(H27秋 5)


大師堂
開祖・役小角がこの山で発見したという月影の霊石を前に、大師は、廿三夜月待の密供(みっく・諸尊を供養する修法)を行ったとのことです。
これにより当社の例大祭は、陰暦1月23日に行われています。


休憩
ちょっと行儀が悪いですが、通る人も車もありません。これからは少し急がねばなりませんので、出発前に、休ませていただきました。


国道321号へ
姫の井へ4キロと表示されています。下り切ると国道321号です。


合流
国道321号に合流しました。ここから宿まで、約8キロです。途中、道の駅に立ち寄ります。


ふれあいパーク・大月
道の駅「ふれあいパーク・大月」です。
明日は一日かけて、柏島観光と決めています。そのためのバス時刻などを調べました。
今夜の宿は、まだ2キロほど先です。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。次号更新は、一週間くらい後の、9月1日ころです。四国最西南端の島・柏島の風景をご覧いただくつもりです。ステイホームして頑張ってみますが、もし間に合わなかったら、ごめんなさい。

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コメント (2)
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足摺西海岸 38番金剛福寺 迷走 大岐 真念庵 三原村 39番延光寺

2021-07-28 | 四国遍路

 
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清水港 
西海岸の朝が明けました。
一昨日は雨、昨日は曇、そして今日は、・・
今は曇り空ですが、昼頃からは本降りの雨、と予報されています。


道路標識
(写っていませんが)唐船島を右手に見る道路標識です。三本の県道が表示され、この他に県道321号も走っています。この地点は足摺岬の、交通の要衝です。
県道27号は、足摺岬の海沿いの道です。西海岸の中の浜→松尾を経て岬の先端、38番金剛福寺に至り、今度は東海岸沿いを走って、以布利に至ります。
今思えば、東ー西両海岸を楽しめるこの道は、この時の私たちに、うってつけの道だったはずです。なのに、どうしたことでしょう。この道を私たちは、選んでいません。
私たちが選んだ道は、左側の標識にある県道347号です。「東まわり岬めぐり」とあるように、東海岸の新改→窪津→津呂を経て、38番金剛福寺に至る道です。38番を打った後、私たちは東海岸を打戻り、大岐海岸の宿に泊まります。


大岐海岸
県道374号を歩いて、東海岸に出てきました。
写真の白い建物は、(今日の宿がある)大岐海岸の建物です。写真撮影地点からおよそ5キロの所にあります。撮影地点から38番までは約11キロですから、11*2+5=27キロ が、今日、これから私たちが歩くべき、距離となります。
なお、上掲写真の県道348号は、足摺岬の山間部を走って岬先端に至る車用の道です。途中に金剛福寺奥の院跡や石鎚神社があって、魅力的な道なのですが、私たちはまだ、金剛福寺の本寺にもお参りできていません。私がこの道を歩くのは、これより12年後のこととなります。金剛福寺奥の院跡や唐人駄馬を訪ねていますので、よろしければご覧ください。→(H27秋 4)


窪津港
窪津港は、38番金剛福寺から9キロほどの地点です。
写真奥の工事は、崖上に通じる県道27号の建設工事です。それにともなう擁壁工事も、行われています。
足摺岬の道は、基本的に海岸段丘上を通っているようです。それに対して室戸岬は、海岸段丘の下を通る、海沿いの道が基本でした。


強風
上手く撮れませんでしたが、幟が東風に激しくはためいています。
県道374号では、この風を正面から受けることになり、大いに難儀させられました。374号が風の道となっていたのです。


足摺岬方向 
崖上から撮った、足摺岬の方向です。しかしまだ岬の先端は見えていません。見えているのは津呂の辺りでしょうか。
見えているといえば、トンビが、たまたま写り込んでいました。写真中央から右上方向の所に、浮かんでいます。たいていトンビは下から眺めあげるものなのですが、同じくらいの高さに浮かぶトンビを、私は初めて見ました。


足摺岬へ
とうとう来ました! マメです。右足の小指。放置できません。
北さんに止まってもらい、手当てしました。やがて雨が降り始めます。雨のなかでは手当が困難です。時間をとって、丁寧な手当てを心がけました。
これはホント、丁寧にやっておいてよかったです。


窪津小学校
この記事を書くため窪津小学校のHPを開いたら、次の様に記されていました。
・・窪津小学校143年の歴史に幕を下ろしました。
  休校式典にはたくさんの卒業生、地域、関係者の皆さまに ご出席いただき
  ありがとうございました。
  *窪津小学校のホームページは平成28年3月末で閉鎖します。
私たちが歩いた13年後の平成28年、窪津小学校は閉校していました。


善根宿
近くにお住まいの方の善意で維持されています。畳が三畳、飲み屋の小上がりのように、縦に敷かれています。横に並べるより、格段に使い勝手がいいでしょう。起きて半畳寝て一畳。遍路には一畳もあれば十分です。その他、いろり、流し、トイレなど、必要な一式があり、一夜の宿としては十分以上と思われました。「野宿、自炊 けっこうです」と記されています。


足摺岬へ
ヘアピンカーブを曲がると、前方に大きな荷物の若い二人が、立ち話をしていました。いずれも野宿遍路らしく、見れば内一人は、添え蚯蚓で出会った彼でした。
近寄って行くと再会を喜んでくれ、・・たった今、お二人のことを話していたんですよ、・・と言って話に迎え入れてくれました。二人はもうここで、1時間も立ち話しているのだとのことでした。何をそんなに話していたのでしょう?


 
話題のひとつに、「お接待の車に乗ってもいいのか」があったようです。
(添え蚯蚓の彼ではなく)ここで初めて会った彼は、ある時、体調が悪くて、お接待の車に乗せてもらったのだそうです。そしたら、その後、歯止めがきかなくなって、機会があれば乗せてもらうようになってしまった、と言います。
この人、実はドライバーとの交流を、楽しむことができる人なのです。例えばこんなことを話してくれました。・・土地の人と知り合って、中古車購入の手伝いをし、そのため高知まで引き返し、2泊させてもらい、また足摺に戻ってきたんです。「困ったらいつでも電話しろ。近くの仲間が車で迎えに行くから」と言ってくれました。
いつでも電話しろ、近くの仲間が迎えに行く、・・ある意味、痛快ともいえる交流を楽しみながら旅しているのですが、他方には、乗り物を利用することを「よし」としない自分もいて、困っているわけです。乗り物なしで歩き通している同年配の遍路から、「卑怯者」呼ばわりされたことも、彼を傷つけたようです。



こんな負の意識を引きずっていたからでしょう、(後に聞いた話ですが)彼は88番に着いても、「達成感」を感じることはなかったといいます。相前後して88番に着いた19才の青年が、やはり無感動に発した一言・・こんなものか・・に同調したり、結願した夫婦がみせる感動の様子に、違和感を感じたりもしました。
彼が負の意識から解放されるのは、奇しくも結願後、「車のお接待」をいただいた、車中でのことでした。
彼は言います。・・お世話になった方(風邪で発熱したとき数日滞在させたもらった)がいる5番まで、軽トラのおじさんに拾ってもらい移動中、おじさんは、仏教とは?お遍路とは?人とは?生きるということとは?など、さまざまの話を聞かせてくれました。


照葉樹林
どんな話だったか、細かく知りたいものですが、それはかないません。
とまれ、彼の「腑」に落ちる話であったのは、まちがいありません。彼は、・・話を聞きながら、涙が自然と流れ、止まらなかった・・と言います。おそらくそれは、最後の最後に来て流す、喜びの涙であったのでしょう。
車には乗ったけれど、自分の旅も間違いなく、遍路の旅であった。「おじさん」の話を通してそう得心できた彼は、88番では感じることのなかった達成感を、車中で口にします。・・やれたんだ・・と。
彼は・・心地いい脱力感・・を感じるなか、・・そうだな、おじさんの言うとおり、家に帰ろう・・と、次なる行き先を決めました。
最後に立ち寄った一番札所では、「喜び」は「寂しさ」に転じていたと言います。多くの結願を果たしたお遍路さんが感じる、あの「寂しさ」です。


天狗岬
さて、長々と書いてしまいました。
彼のこの問題が、まさか彼以上に、私(たち)の問題であったとは、この時点では、気づいていませんでした。
この日、私たちは足摺岬で大迷走し(後述)、この問題を突きつけられることになります。


天狗岬から
足摺岬灯台は、ちょうど外装工事中で、足場が組まれていました。


金剛福寺
納経所で濡れた納経帳を出すと、「これはひどい」と叱られました。一昨日の雨で、ザックに水を入れてしまったのです。納経帳をビニル袋で包み忘れており、すっかり濡れてしまいました。
「にじんでしまって、これでは書けませんね」と言うところを、なんとか頼み込んで書いてもらいました。(よい墨のおかげで、実際には、ほとんどにじまなかったのは、幸いでした)。


金剛福寺本堂
どうにか御朱印をいただき、北さんと記念写真を撮りました。私たちは10年前、他の友人二人と足摺岬を旅行していました。その時に撮ったのと同じ所で、撮ったのでした。
寺男さんがシャッターを押してくれるというので、古い写真を見せて、これと同じ構図になるよう頼みました。低かった松が大きく育っていたり、敷石がなくなっていたり、10年間の変化にやや戸惑いましたが、それらはすべて、寺男が解決してくださいました。私たちの「老い」については、どうしようもありませんでしたが。


昼食
昼時とあって、どの食堂にも「呼び込み」がそれぞれ立っています。「お二階、景色がいいですよ」。その店を通り過ぎると、次の店が呼びかけてきます。他店の前の客には呼びかけないという、決め事があるようでした。
たまたま傍にいた添え蚯蚓の彼をさそい、3軒目に入りました。彼は西海岸へ、私たちは打ち戻りますから、もう会うことはありません。北さんの発案による、お別れのお接待です。
彼はライスと焼き肉とウドンを注文。食べながら、・・身体が熱い、力がみなぎってくるようだ・・とのこと。なんと効率のいいこと。お接待の「しがい」がありました。


打ち戻り
これより大岐海岸の宿まで、打ち戻ります。
歩きはじめるとすぐ、雨が降り始めました。


善根宿で再会
善根宿で雨宿り休憩をしていると、四万十川河口で同宿した「黄色信号」さんが、やって来ました。さすがパワーウォークの「黄色信号」さんです。というのも、彼は四万十河口で連泊したのです。濡れた衣類を乾かすためでしたが、2日目は中村観光を楽しんだと言います。その彼が、丸1日の遅れを取り返し、ここまで追いついてきたのですから、驚きです。
しかし「黄色信号」さんは自嘲的ともとれる口調で言います、・・私は今年退職の60歳。企業人の癖がまだ抜けず、何でも計画通りにやってしまいます。・・どうしても「遅れ」を取り返さないではいられない自分を、彼は今、見つめているようでした。



大きなミスをしてしまいました。いえ、小さなミスの傷口を広げ、大きくしてしまいました。
「以布利分岐」と黄表紙地図(42-2)にある所で、いつの間にか県道347号へ入り込んでいたのです。ようやく間違っていることに気づいたのは、お恥ずかしい話ですが、西海岸まで、もう半分も来た所でした。(347号は東海岸と西海岸を結ぶ道です)。
もちろん問題は、まちがえたことではありません。間違えても引き返せば、問題はなかったはずなのです。ところが私たちの判断は、ちがいました。「前に進もう」としたのです。
県道347号と並行するように、(昨日歩いた)県道321号が走っているはずだから、それに出ればよい。それが私たちの判断でした。心のどこかで、間違いを認めたくなかったのかもしれません。失敗の後には、人はたいてい意気消沈し、それが冷静さの回復につながるのですが、時として、逆に勇み立ってしまうこともあります。この時の私たちが、そうでした。



間もなく日が暮れました。強い雨は止む気配を見せません。
どこをどう歩いたか、私たちはいつしか、新開地を歩いていました。たぶん、それはグリーンハイツという所だったのでしょう。当時はまだ分譲地が並んでいたり、まだ造成中であったりしたのでした。道を尋ねようにも、人はまだ住んでおらず、工事の人はすでに帰宅しており、もう誰もいません。
ようやく明かりをひとつ見つけたのは、何時頃のことだったでしょうか。小さな商店があり、声をかけると、幸い奥から人が出てきてくれました。道を尋ねると、①ここから大岐海岸までは遠い。歩けば、うんと時間がかかる。②それでも行くなら、当面、体育館を目標にしなさい。体育館は321号沿いにあります。③体育館へは、???のように進みなさい。(???の部分は、言われたときは覚えていましたが、すこし歩くと、もう忘れていました)。


GSでようやく休憩
歩いていると、前方に車が停っているのに気づきました。雨のなか停車ライトをつけ、道の片側に寄せてあります。さっきの店の方の車でした。見かねて出してくださったのでした。通りかかると窓が開いて、「送りましょう」と言ってくださいました。
しかし私たちの答は、(今でも恥ずかしく、また申し訳なく思っているのですが)次の様でした。・・すみません。乗せていただきたいのは山々なのですが、私たちは「車は使わない」と決めてしまったのです。ですから歩かねばなりません。
確かに私たちは「車は使わない」と決めていました。しかしそれは、足弱ゆえの決意であって、このような事態を想定してのことではなかったはずなのです。なのに、・・。
この後、U字溝の蓋の上を歩いていた私たちが、蓋がなくなっていることに気づかず空足を踏み、転倒してしまうのは、お大師さんのお叱りであったのかもしれません。それでも大きな怪我はしないですんだのは、お慈悲だったでしょうか。


翌朝の大岐海岸
どれくらい歩いたでしょうか、私たちは、なんとか車道を見つけました。その道が321号であるなら、右に曲がれば体育館があり、トンネルを抜けると以布利なのです。
しかし、なぜなんでしょう。私たちはまたも間違えてしまいます。山の遭難で、なぜこんな所でと不思議に思われる遭難があるそうですが、私たちの「遭難」もまた、(私たちにさえ)理解不能です。
私たちは、「道なりに」、左方向へ下り始めました。右方向が軽い上りであったので、無意識のうちに、「苦」よりも「楽」をとっていたのかもしれません。
これまでの遅れを取り返すかのように、私たちはガンガンと、間違った方向に歩き進んでいました。ようやく間違いに気づいたのは、今度は西海岸近くまで来たときでした。
ここでも気持ちの切り替えが早かったのは、過剰分泌されたアドレナリンのせいだったでしょうか。すぐさま下ってきた道を黙々と上り返しました。


翌朝の大岐海岸
見覚えのあるトンネル(以布利第一第二トンネル)に着いたときは、思わずトンネル内に座り込んでいました。
さすがにこれ以降は、迷うことなく歩けましたが、宿に着いたのは、それは遅い時刻でした。
宿の方は心配されて、玄関で待っていてくれました。二回、車で探してくれたそうでした。にもかかわらず、いやな顔ひとつ見せず、よかった、よかったと言って、風呂や食事の準備をして下さいました。あの時は本当にありがとうございました。そして、申し訳ありませんでした。私たちはあれ以降、宿への遅着を強く戒めています。
車を出してくださったお店のご主人にも、謝らなければなりません。遍路は、人様のご厚意をいただいてこそ、歩けるものです。人様のご厚意を無にして憚らない遍路は、遍路ではありません。こんな当たり前のことが、私(たち)にはわかっていませんでした。
足摺岬で会った野宿の遍路さん。お元気ですか。あなたの問題をもっと親身になって考えていれば、U字溝に落ちることはなかったし、西海岸まで二度も、歩くことはなかったでしょう。せっかく貴方が、チャンスをくださっていたのに・・。


翌朝の大岐海岸
以上、長くなりましたが、「夜間 雨中の大迷走」の顛末でした。参考にしていただけるところも多少はあるかと思い、恥ずかしながら記してみました。


翌朝
今日も雨です。真念庵に参り、市野瀬川沿いの道(県道346号→46号)を歩いて、三原村に宿をとります。NPO法人「いきいきみはら会」が運営する宿です。


道標
距離は短めですが、昨夜の疲れが、残念ながらまだとれていません。床についたのは12:00を過ぎていました。


五味橋の分岐
左方向は、下ノ加江川沿いの道(県道21号)です。グネグネと蛇行しながら、三原村に入ります。
この道は、いつか通りたい道ですが、令和3年の現在、まだ通れていません。


真念庵へ
左に、市野瀬川沿いの道(県道21号)が見えています。


コスモスの道
コスモスがきれいでした。


五味天満宮
「五味」(ごみ)は、大きな川に小さな川が流れ込む、合流部を指す地名、なんだそうです。「流れ込み」の「こみ」が転じて、「ごみ」になったと考えられています。
五味天満宮の少し上流で、下ノ加江川に市野瀬川が流れ「込み」、さらにその上流で市野瀬川に市野々川が流れ「込み」ます。短い流れの中で3本が合流する五味は洪水の危険地帯で、過去、何回も洪水被害に遭っています。


洪水記念碑
下ノ加江川に市野々川が合流する辺りに、洪水記念碑が建っています。
大正9年(1920)8月15日・・雷電激烈天地震動 同夜洪水俄ニ至リ・・甚大な被害をもたらしました。このことを後世に伝えんと、昭和3年に建立したものです。碑の建立まで要した長い年月が、被害の大きさを物語ってもいます。
この洪水については、上掲・五味天満宮の社頭にも、記念碑が建っています。こちらはについては、→(H24秋遍路①)をご覧ください。


野宿テント
雨の日は、こうして休むのもいいですね。


ドライブイン
伊豆田トンネルを抜けた先にあるドライブインです。ウリンボがいた所です。


真念庵
澄禅さんが「四国遍路日記」に、・・然レバ荷俵ヲ一ノ瀬(市野瀬)ニ置テ足摺山ヘ往也・・と書き残しています。
荷物を市野瀬に置いて38番金剛福寺を打ち、打ち戻ってきて荷物を受け取り、38番延光寺へ向かったのでしょう。
真念さんは、遍路のこのようなやり方を重々心得ているので、ここ市野瀬に真念庵を建てたのです。


真念庵
真念さんは「四国遍路道指南」に、次の様に記しています。
・・市野瀬村、さが浦より是まで八里。此村に真念庵といふ大師堂、遍路に宿やどかす。これよりあしずりへ七里。但さゝやまへかけるときハ、此庵に荷物をおき、あしずりよりもどる。月さんへかけるときハ、荷物もち行。初遍路はさゝやまへかけるといひつたふ。


真念庵
初遍路では「さゝやま」へ掛けると伝わるそうです。2巡目では「月さん」ということでしょう。言うまでもなく「さゝやま」は篠山神社、「月さん」は月山神社です。
私はいずれも、(順は違っていますが)二度ずつ参拝していますので、その様子を下記よりご覧ください。
  篠山神社 →(H24秋遍路③) →(H24秋遍路④)
  月山神社 →(H27秋5)  →(H24秋遍路)


道案内
道案内に従って、県道46号を進みます。


お接待
休憩を取りたいと思いながら歩いていると、民家がありました。屋根つきの駐車場で、おばあさんがなにか作業をされていたのでお願いし、少し雨宿りさせていただきました。
オバアさんが家に引っ込むと、代わりに小さな男の子が出てきました。・・お兄ちゃんは学校に行ったけど、ボクは(雨のため保育園に行けなくて)お留守番しているの。お兄ちゃんが捕ってくれた沢ガニと遊んでいるんだ。お兄ちゃんは捕るの上手なんだ。・・おじさんたち、もうすぐ、いいものが出てくるよ・・
何が出てくるの?と尋ねると、カキ!カキ!とのことです。そこへお婆さんが、お接待の柿をお盆に載せて、「もう、おしゃべりで・・」と、でも如何にも可愛いといった様子で、出てこられました。


遊び相手の沢ガニ
それから9年後の平成24年(2012)のことです。
私は再び、この道を通りました。ちょうどこのお宅の前をが通りかかったとき、おばあさんが家から出てこられたのには、驚きました。一瞬、お大師さんが会わせてくださった、との思いが過ぎったものでした。
9年前のことをお話しすると、・・あの子はもう中学一年です。相変わらずのおしゃべりで・・。近頃は休みの度に、友達と足摺へ釣りに行ってます。きょうも、それでいないのです。・・とのことでした。どんな大人になっているのでしょうか。


右方向へ
道路標識に「成山」とあります。ここからが三原村です。


狼内(おおかみうち)
狼内の地名由来は、・・古くは「おおかめうち」とも呼ばれ、「山間の沢になって入り込んだ地形を意味する大川目」に由来すると言われる。・・とのことです。なるほど狼内を中心に、北に二本、南に二本、西に一本の道がついています。「入り組んだ地形」であるわけです。「沢」は、長谷川の沢でしょうか。


クロネコ
道を尋ねたくても、なかなか人が見つかりません。見つかっても、正直、道を教えるのは下手です。土地の人は、「行き方」など考えることなく、行くことができるのです。急に「行き方」を尋ねられても、なかなか即答できるものではありません。それに近頃は、田舎の人は歩きません。たいてい車で行ってしまいます。
このドライバーさんは、これまで何人かに尋ねても分からなかった「行き方」を、実に丁寧に、わかりやすく教えてくれました。さすが、プロです。


真念法師道標
・・右遍路みち 左大ミつ(大水)のときハ このみちよし・・
右へとると、地蔵峠を経て中筋川沿いの道に出ます。この道を川沿いに下れば宿毛の平田で、延光寺はもうすぐです。「四国遍路道指南」には、「つねには」この道を行く、と記されています。ただし中筋川が大水の時は、左に進み、三原村を経て平田に出る方がよい、というのです。
私たちは今回、大水ではありませんが、左に進みます。


天満宮
真念石の傍に天満宮があります。
明治の神仏分離・廃仏毀釈策は、神道にも大なたを振るい、この村(をがた村)でも、村内の神社が整理統合されました。この天満宮には、かつて村内にあった、八幡宮の他七社が合祭されたと伝わっています。鳥居の前に二組の狛犬が立っていますが、内一組の狛犬は、おそらく統合された他の神社の社前を護っていたものでしょう。前々号では新・浦ノ内小学校の「二人二宮金次郎」をご紹介しましたが、これに似た経緯があったのかもしれません。


遠かった道標
この道路標識は「歩きの距離感」を以てしては、理解できません。完全に車用の標識だからです。車の人でも、土地を知らない人は、難しいかもしれません。
右方向は、三原村の中心部を抜けた後、隣接する宿毛市の、平田に至る道を教えています。しかし三原村の部分については、記されていません。私たちが平田方向に右折し、無事宿にたどり着けたのは、ひとえにクロネコのドライバーさんのおかげでした。
直進方向の表示は、さらに難解です。そもそも下ノ加江からやって来た私たちが、なぜ再び下ノ加江に至るのでしょう。こちらも中間の説明がスッポリ抜けています。おそらく46号で宿毛の小筑紫に出、321号に乗り換えると、ふたたび出発点の下ノ加江に至ることができる、ということでしょう。


宮の川トンネル
平成10年(1998)竣工。長さ270メートル。
竣工するまでは山越えするか、3キロほど迂回せねばなりませんでした。


三原村唯一の信号
たまたま居合わせた土地の人が、・・これ、いらないんだけどね、三原の子は信号も知らんのか、なんて言われちゃあ可愛そうだから・・と、なぜここに信号があるかを、説明してくれました。


いきいきみはら会
他には客がいないということで、部屋を二部屋とも使わせてもらいました。一部屋に濡れた衣類などを吊せるだけ吊し、もう一部屋を寝室としました。
夕食後、責任者の方にお願いして、NPOや「いきいきみはら会」の運営について、レクチャーを受けました。1時間以上にわたっての熱心なお話は、実践的かつ深い内容で、いい勉強になりました。
当時の「いきいきみはら会」の活動内容は、だいたい次の様でした。・・高齢者の通院の介添え 医師の健康相談 国体支援ボランティア(花壇へのラベル貼り) 農業の高齢者支援 高齢者の家屋等の改修工事支援 資源の有効活用(間伐材、竹材の利用) お遍路さんとの交流 陶芸教室(多年層対象) 婦人部の手芸教室 高校生の音楽部の演奏(日色ともえさんが出演したことがあるという) などなど多岐にわたっています。


無料休憩所
次号の内容とも重なりますが、柏島の黒潮実感センターで、三原村の話が出てきました。
柏島では、間伐材で魚礁を作っているというので、同様に間伐材の有効利用を考えている、三原村の人たちのことを話したら、なんと・・ハイ、その間伐材、三原村からもらいました・・と返ってきました。
さらに話を続けてゆくと、大月へんろみち保存会主催の月岡祐紀子さんの演奏会に、黒潮実感センターのスタッフがかかわっていることがわかったり、・・私たちは、この人たちの「元気のつながり」に、大いに刺激を受けたのでした。


船ヶ峠
ようやっと晴れました。
今日は県道21号を歩いて、まず中筋川ダムへ。さらに宿毛市平田の中心部へ下ってゆきます。
下れば、39番延光寺はすぐです。延光寺を打った後は、宿毛駅近くの宿に泊まり、明日帰宅します。


新しい住宅地く  
新しい住宅地が拓かれているかと思えば、・・


牧場
すこし先には牧場があります。
ところで、私たちが泊めてもらった「いきいきみはら会」の宿ですが、今は閉じられていることを、ご存知でしょうか。それに代わって新しく開設されたのが「清水川荘」で、この牧場近くに在ります。


宿毛へ
三原村から宿毛市平田に入ります。


梅ノ木トンネル 
昭和61年(1986)竣工。中筋川ダム建設にともない、中筋川沿いの古くからの道(遍路道でもあった)はつけ替えられ、新しく車用の道として再生されました。新道は「技術」に物言わせて、山なにするものぞ、これをぶち抜いて通っています。梅ノ木トンネルの先には、もう一本、黒川トンネルもあります。


梅ノ木トンネル 
これにより、三原村-宿毛市間の往来は格段と便利になりました。三原村は120㍍ほどの高地にあって、これを囲む土佐清水市、宿毛市、四万十市(旧中村市)との間に、それぞれ往来の道を持っていますが、中でもこの三原-宿毛区間が、最も(車用として)よく整備されているでしょう。
三原村は平成の大合併でも踏みとどまり、今も「村」として残っていますが、合併相手として最も考えられたのは宿毛市、次に(境は接していませんが)大月町だったといいます。昭和の大合併なら、間違いなく中村市だったでしょうから、それはひとえに、この道路整備のおかげだったと言えるでしょう。ただし、平成の大合併後に各地で聞いた「止めときゃよかった」を思うとき、合併に踏み切らない三原村は、賢明なのかもしれません。


中筋川ダム  
ダム湖は蛍湖と命名されています。かつてこの辺は蛍の名所だったと言います。ダム建設後も蛍が見られますようにと、願いを込めての命名です。
間伐材を有効利用する考え方は、洪水期、ダム湖に流れ込んだ流木にも及びます。流れ込んだ流木や葦は堆肥化され、有機肥料として再利用されるそうです。


平田
中筋川ダムから下ると平田の中心地です。
中筋川沿いの快適な遍路道を歩きます。


平田
可愛い子たちが散歩していました。


平田駅
土佐くろしお鉄道宿毛線の駅です。平成9年(1997)の開設。特急が止まります。


右折
まもなく39番延光寺です。


延光寺
赤亀山 寺山院 延光寺に着きました。土佐最後の札所です。


延光寺本堂
延光寺の本尊は、薬師如来。 "目治し薬師" と呼ばれ、信仰をあつめています。


赤亀
山号・赤亀山(しゃっき山)の興りを伝える像です。
・・ある日のこと、寺の池に居た赤亀が、姿を消したそうです。やがて帰ってきましたが、亀は甲羅に銅鐘を背負っておりました。有り難い鐘にちがいない。人たちはこの鐘を寺に据え、それまでの山号・亀鶴山を「赤亀山」に改めたと言います。
龍宮譚です。延命寺は海とつながるお寺です。


逆の人
延命寺を発ち、宿毛に向かいます。


夕日
宿毛に着きました。通りの向こうに陽が沈もうとしています。
即決断。北さんが、携帯でタクシーを呼びました。土佐清水のリターンマッチです。夕日が見える港、片島港へ行ってもらいました。


片島港
江戸の敵を長崎で、ではありませんが、清水で見ることができなかった夕日を、宿毛で見ることが出来ました。ダルマ夕日は見られませんでしたが。


片島港の月
反対の空には、月も出ています。十三夜の月です。
思えば、今回の遍路で初めて月を見たのは、宇佐でした。あれから六反地や土佐清水でも月を眺め、そしてこれが今回の最後の月です。明日、帰ります。


片島港子供たち
暗くなってもまだ遊んでいる子供たちを見て、ちょっと嬉しくなりました。
でも、ちょっと寂しいのは、彼らが方言を話さないことです。
・・おじさんたち、どこから来たの?
・・埼玉だよ。
・・あっ、僕、知ってるよ。
私らの子供時代は、方言しか知らなかったものですが、近頃の田舎の子は、「標準語」を話します。方言、聞きたいんだけどな。
なお、この日は金曜日でした。前にも記したことがありますが、この前年、平成14年(2002)4月、日本の公立学校(小中高とも)は、完全週休二日制に移行していました。だから、明日は「休み」だったのです。


片島港帆船
きれいな帆船が停泊していました。聞けば「観光用の帆船」なのだそうでした。日が暮れると、電飾がつきました。
横浜の氷川丸のようなものなのかな?結局、わからず終いです。


最終点
宿毛駅近くの、ガソリンスタンドがある交差点を、今回の最終地点としました。
この先、松尾峠を越えれば、伊予路です。峠には「従是西伊豫國宇和島藩支配地」「従是東土佐國」の標識が建っているとのこと。楽しみです。


宿毛駅
駅前の椅子で休憩していると、土地の人がやって来て、話が始まりました。
話は「お接待」のことに及び、・・わしも昔はお接待させてもらいよったが、近頃は、お遍路さんも変わってきたんじゃろか。気持ちようお接待できんようになってな、止めてしもたんよ・・と、残念そうに話しました。思い当たることがないではない私たちは、黙って聞いておりました。
  ○○県はお接待が少ない。 ××県はよかったぜ。 △△を差し出すなんて、ちょっと失礼だよ。乞食じゃないんだ。
こんな遍路同士の会話を耳にしたことがある方、いらっしゃいませんか。


車窓から赤鉄橋
10:44発 南風16号に乗車。
宿毛から高知まで、9日間かけて歩いたところを、たった1時間半で走り抜けます。ちょっと悔しいので、次回の行き帰りは「路線バスの旅」にしようか、などと話しましたが、これはちょっと無理のようです。


安楽寺へ
高知駅に着き、昼食にうどんを食べ、(若干早いのですが)遍路の衣装を解き、ロッカーに荷物を預けました。
足摺岬の「彼」ではありませんが、心地よい脱力感の中、ブラブラと安楽寺に向かいました。


30番奥の院安楽寺
安楽寺は、現30番札所の善楽寺が廃寺となっていた一時期、30番札所でした。また次の一時期には、善楽寺と30番札所を争い、巡拝する遍路を、いずれで御朱印をいただくべきか、悩ませてもいました。
今は、30番札所善楽寺の奥の院と位置づけられ、ひっそりとしています。


奥の院
寺名・安楽寺は、筑紫にある菅原道真の菩提寺・安楽寺に因んだものだそうです。
土佐・潮江に配流された道真の長子・高視が、太宰府の父の死を悼んで、現在、潮江天満宮が在る地に、潮江天満宮と共に建てたのが始まりと言います。


納経帳
明治43年「三十番安楽寺」の納経帳です。
 右のページ  四国第三十番  奉納経 無量寿佛 安楽寺
 左のページ  四国第三十一番 奉納  文殊菩薩 五台山 
  

空港改名
高松駅から空港に向かいます。
バスには「高知龍馬空港」の名が書かれていますが、正式には、これより一週間後の11月15日(平成15年)に改名されました。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
私たちは帰宅後すぐ、次回遍路の予定を2/25-3/2(平成16年)と決めました。行程は、足摺岬から月山神社を経て、今回の終点である宿毛に出、それから伊予路に入ります。当初は宿毛から、すぐ伊予路に進むつもりでしたが、白山洞門は見落としたし、竜串の「見残し海岸」も見残しているし、月山神社はなんとも魅力的だし、やっぱり西海岸をもう一度トライしようよ、ということになったのでした。
そういうわけで次号は、ふたたび足摺岬から始まります。更新予定は8月25日です。

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四万十川渡し船 伊豆田トンネル 下ノ加江 以布利 西海岸

2021-07-21 | 四国遍路

 
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下田の渡しへ
何もかもが半乾きのままの出発です。宿から乗船場まで30分ほど。船の始発は8:00とのこと。
同宿の「黄色信号さん」の姿が見えないと思ったら、後で聞いたところでは、連泊して濡れたものを乾かしたのだそうです。部屋で寝ているのもつまらないので、バスで中村観光に行ったとのこと。なるほど、こういうやり方もあったのかと、大いに感心させられたものでした。


四万十川  
四万十川の河口部分が遠望できました。手前の海岸は下田港海岸です。


下田の渡し 
渡し場の前に見える水路は、(四万十川ではなく)船島川です。四万十川は、堤防の向こう側を流れています。
つまり渡し場は(そして下田港も)、船島川岸に在り、船島川と四万十川を隔てる堤防によって護られているわけです。


拡大
堤防沿いに小さく写っているのは、アオサ海苔の養殖場です。堤防がつくる穏やかな水面を利用し、行われています。


待合所
待合所に選挙ポスターが貼ってありました。この時期は、ちょうど総選挙の最中だったのです。
選挙後に、小泉第二次内閣が組閣されましたが、自民党は議席を減らし、民主党が議席を伸ばした選挙でした。この後、平成17年(2005)の「郵政選挙」による自民党大勝を経て、平成21年(2009)、民主党鳩山内閣が誕生します。


対岸初瀬方向
「下田の渡し」の利用者は、昭和52年(1977)には、年間5000人を数えていたと言います。通勤、通学者など地元の人たちが、生活の足として利用していたのです。遍路もこの渡しで、対岸に渡りました。


四万十大橋を示す道標
ところが、平成8年(1996)、すこし上流に四万十大橋が開通。「下田の渡し」に危機が訪れました。渡しの利用者が激減したのです。遍路も、(下田の渡しではなく)四万十大橋を渡る人が増えてきました。道標にも、・・四万十川大橋経由 近道(38番)・・と記されています。近道となれば、やはり多くの人が四万十川大橋経由の道を選ぶでしょう。
私たちが乗船した平成15年(2003)には、利用者は年間、たったの800人だったそうです。しかしこれでも、地元の方々の努力で、だいぶ盛り返してきた数字だといいます。


四万十川河口方向
そんな事情で「下田の渡し」は、平成17年(2005)10月、いったん廃止されることになりました。管理者である四万十市(同年4月、合併により誕生)が、廃止を決めたのでした。
復活したのは、その4年後の平成21年(2009)のことでした。しかし復活を決めたのは市ではなく、地元の方々などでつくる「下田の渡し保存会」でした。


四万十川上流方向
ただし四万十大橋の少し上流には、赤鉄橋と通称される四万十川橋(大正15年開通)が架かっています。さらにその上流には、国道56号をつなぐ、後川大橋(昭和40年開通)があります。もはや渡し船の出番は、実生活の上には、ないのです。
まちがいなく、復活「下田の渡し」が見込む最大顧客は、遍路でしょう。
さて私たちは、この期待にどう応えることが出来るでしょうか。


渡し賃
この頃の渡し賃は、大人100円、小人50円、自転車150円、バイク250円でした。
しかし今は、こんなぐあいにはゆかないでしょう。


初崎港
8:00の出港時刻になっても、船長さんは船を出そうとしません。毎朝、通勤で使っている人が、まだ来ないのだそうです。
ややあって、中年の女性がやって来ました。すみません、と遅れたことを謝すうちに、船は出航。乗客は3人です。
彼女は対岸のアロエ工場に勤めているのだそうでした。通勤にこの船を使っているのは、私だけとのこと。
ビニールを敷いて、どうぞ、と座るように勧めてくれました。歩き遍路だと話すと合掌をして、「ご苦労さまです」と労ってくれました。昨日に続いての場面でしたので、今回は慌てず対応することが出来ました。


みなと丸
対岸の初瀬港に着きました。みなと丸といい、4.5トンの船でした。
今就航している船は、これより一回り小さな船のようですが、私はまだ乗ったことがありません。実は、平成22(2010)10月、乗る予定でしたが、先の台風で川底の砂が移動。航路を塞いでいるとのことで、運行が休止されていました。この航路、たかだか1.2キロほどにすぎませんが、水流や川底の様子は常に変化し、操船は難しいのだそうです。


初瀬の渡し
大きな木の下にテーブルと椅子が置いてありました。座らせてもらって、靴紐の締め直し。自販機で水も買って、出発です。
まずは前方に見える、巨大な水門を目指して歩きます。


水門
潮止め水門でしょう。水門の内側には、所々に船だまりがあり、数隻の小舟が係留されています。


津蔵渕へ
気持ちのいい遍路道です。写真には写っていませんが、前方に大文字が見えてきたはずです。土佐一条氏の2代目、房家が始めたと伝わります。


川沿い
この道は、やがて国道321号に合流します。


津蔵淵へ
国道321号は、四万十市(中村)から土佐清水市、大月町、宿毛と、足摺半島の海沿いを走る道です。
321から、サニーロードと通称されています。


伊豆田トンネル
伊豆田トンネルは、(確かめていはいませんが)四国の遍路道で一番長い(1600㍍)トンネルなんだそうです。北さんはそうでもないらしいけれど、私はトンネルが大嫌いです。できれば抜けたくないのですが、他に道がないのでは、仕方ありません。勇を鼓して、入ってゆきました。


復旧された出豆田坂登り口
今は伊豆田峠を越える旧道が復旧されており、→(H22秋 2)トンネルを避けて通ることができます。しかし、私たちが歩いた平成15年(2003)時点には、まだ旧道は藪の山中に眠っておりました。復旧までには、あと7年待たねばなりません。
なお、旧道の下には伊豆田隧道(360㍍)が抜けていましたが、この隧道は、伊豆田トンネルが開通した翌年、ローリング族が走行したり、心霊スポットと騒がれるなどがあり、埋め戻されてしまい、今は通れません。


埋め戻された伊豆田隧道
古く        清水往還道(足摺エリアに出入りする道)が拓かれた
明治43年(1910) 伊豆田峠越えのバス道開通
昭和32年(1957) バス転落事故 死者5名→田宮虎彦作「赤い椿の花」(映画化名 雲がちぎれる時)
昭和34年(1959) バス事故の反省からか、伊豆田隧道(360㍍)が伊豆田坂の下に開通
平成 6年(1994) 伊豆田トンネル(1600㍍)が、伊豆田隧道の下に開通
平成 7年(1995) 伊豆田隧道、埋め戻さる
平成22年(2010) 伊豆田峠越えの旧道復活


ウリンボ
トンネルを抜けた先のドライブインに、ウリンボがいました。今は可愛いのですが、大きくなると・・
ある宿のご主人が言っていました。・・大きくなったら食べよと思って飼っていたら、情が移ってしまってなあ。ぐずぐずしてる間に、こんなにでかくなってしまって、どうしたもんだか、困ったもんだよ。


下ノ加江川
下ノ加江川は私の好きな川です。


下ノ加江川
前述「赤い椿の花」に登場する、バスの車掌の名前は「加江子」。おそらく下ノ加江からとった名でしょう。運転手の名は「三崎」。こちらは、足摺岬の「みさき」でしょう。


下ノ加江
下ノ加江の街です。郵便局で金を下ろしました。
因みにこの郵便局は、まだ民営化されていません。


布浦方向
赤灯台は、下ノ加江港外港第4防波堤灯台。岬は布岬。布岬灯台があります。岬先端の山は森山。標高96.1㍍です。
特徴的な岬なので、目印として覚えておくといいと思います。


足摺方面
室戸岬から延々と歩き、足摺岬の姿を初めてうっすらと見たのが、井の岬の辺り。
ここに来て、よりはっきりと見えてきました。


黄色札
このエリアに特徴的な、黄色の札です。


大岐海岸
大岐の遍路道は、街中を通る陸道と砂浜を歩く海道にわかれています。
海道の方が近道なので、こちらを選ぶ人が多いようですが、なぜか私たちは陸道を歩きました。思い当たる理由はないので、単に道標を見落としただけのことかもしれません。


大岐海岸碑
同年配の女性が、向こうから歩いてきました。ビニール袋を手に下げて、いかにも草臥れた様子です。ここ5日間、30Kを歩いているといいます。
それでもお口は達者でした。定年退職組だというので、「ならば、時間はいくらでもありますからね・・」と話すと、「いえ、お金もあります」と、のたまわれました。まあ、その後すぐ「小金ですけどね」と微修正したので、よしとしましたが。


堤防
台風時の厳しさを思わせます。


以布利
私が厄介なことを言い出しました。・・西海岸で夕陽を見たい。
この頃、私たちの頭に「2巡目」はありませんでいた。考えていたのは、どうやったら1巡目を無事終わらせることが出来るかで、まさか自分が2巡目3巡目を歩くなんて、思いもよらないことだったのです。
そんなわけで、お大師さんも「見残し」たことを残念がったという、西海岸の景色と夕陽をぜひ見たいと、北さんに願ったのでした。


近道
北さんの賛同を得て、以布利から、県道321号を経て、西海岸に出ることにしました。
土地のおばさんが、・・西海岸に出るには、前に見えるグルグルまいよる道(県道321号)を行くのだけれど、あこに上がる近道があるんで、そこを行きなさい、・・と言って案内してくれました。
民家の間の細い道を歩いて、傾斜30度もありそうな簡易階段を一気に、螺旋状の車道まで登りました。


以布利トンネル
宿を清水港近くにとりました。
時刻はもう4:00近くになるので、現在位置を知らせ、(夕陽が見たいので)少し遅くなることを伝えました。
宿の人は、・・夕陽は、今日はどうですかねえ、・・と否定的でしたが、一応、行ってみます、と押し切りました。


以布利第二トンネル
清水港への道は、長い緩やかな下りです。


十字路
快調に飛ばしてきました。


清水漁港
宿に荷物を置いて、タクシーで「きれいな夕陽が見える海岸」に行ってもらいました。
夕陽、見えますかね?の問いにドライバーは、五分五分でしょうという答。まあ、この場合、見えませんとは言えないでしょうけれど。


夕陽待ち
ドライバー推薦の海岸で、夕陽を待ちました。
見えたのは一瞬でした。真っ赤な夕日が見えて、すぐまた雲に隠れました。


代償
その代わりでもないでしょうが、反対側の空には、きれいな月がかかっていました。

さて、一気に宿毛まで書き進めたかったのですが、間に合いませんでした。
一週間後、間に合わなければ二週間後、宿毛までをご覧いただこうと思います。そこで更新予定は、とりあえず7月28日です。
なお天恢さんにお願いです。今号は次号と合わせて一本ですから、コメントは次号でいただければ、と思います。
コロナ猖獗を極めるとき、いよいよ本日よりオリンピックですね。

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添え蚯蚓遍路道 六反地 岩本寺 土佐佐賀 砂原美術館 四万十川河口

2021-06-23 | 四国遍路

 
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登り口
そえみみず遍路道の登り口です。ここから急登し、尾根筋に上がります。
ベンチがあったので休んでいると、若い僧がやって来ました。大川橋で会った方です。「またお会いしましたね」と、丁寧な挨拶の後、「さっそうと歩いてらしたのが印象に残っています」とも。なにやら嬉し恥ずかしい気分ではありました。


大正町市場
しかし、大川橋で会った人と私たちが、またここで会うとは、どういうことでしょう。私たちは大正町市場で遊んできたのです。その間、彼は何をしていたのでしょう。
尋ねてみると、「私は気に入った景色を墨絵に描きとりながら、ゆっくりと歩いています」とのことでした。つまり私たちが遊んでいる間、彼は絵を描いていたのです。こんな歩き方もあるのですね。


照葉樹林の道
私たちが登り始めた時刻は2:20。添え蚯蚓遍路道の標準タイムは約2時間ですから、これはもうヤバイ状態です。というのも、私たちが予約している宿は、窪川の宿だったからです。このままでは、とんでもなく遅くなってしまいます。
とはいえ、私たちは慌ててはいませんでした。室戸へ向かう国道55号で覚えた一手を使おうと決めていたからです。

照葉樹林の道
つまり影野駅(または六反地駅から)窪川まで電車を使い、明朝、電車で引き返して歩き継ぐ、という一手です。
初めてこういうやり方があるのを知ったときは、やや「姑息な」やり方と感じたものでしたが、この手を排除できない現実はある、とも感じていました。それをいよいよ、使おうというのです。


照葉樹林の道(フラッシュ使用)
というわけで、特に急ぐこともせず休憩していると、追いついてきた人がいました。(追いつかれてばかりです)。
若い野宿遍路です。大きなザツクを担ぎ、両手にビニール袋を下げています。袋には、登り口のコンビニで詰めたらしい、水満タンの2㍑のペットボトルが入っています。
彼は「私も休もうと思っていたのです」と言って立ち止まり、問はず語りに自分の状況を話し始めました。



・・会社を退社し、室戸岬に友人と遊びに来ました。すると何故か、・・まだ整理できていませんが・・歩きたくなり、友人と別れて歩き始めたのです。
・・釣り人から釣り用の菅笠をいただくなど、多くのお接待をいただいて、歩きはじめました。


右側の景色
そこで私もふと思いついて、大正町市場で買ったちらし寿司を、夕食にどうですか、とお接待しました。
すると彼は、・・ここ何日か、米を食べていません・・と言って、すぐ食べ始めました。けれど半分は残し、明日食べるのだと言います。
私は汐浜荘の女将さんのお言葉・・空きッ腹で歩けるモンかね(前号)・・を思いだし、エイ、思い切って久礼天もおまけしました。


右側の景色
やがて添え蚯蚓遍路道も終わりという所で、先行していた彼が座り込んでいました。
聞けば、・・マメには慣れたんですが、昨日から足首が痛み出し、それが今は膝まで上がって来て、・・とのことでした。
はてさて、頑張れと言うべきか、無理するなと言うべきか、とまれ日暮れも近いとあって、ここに留まるわけにはまいりません。(彼はテントを持っていませんでした)。
私がバンテリンとテープを取り出し、北さんが膝サポーターを出して、エイ、これもお接待してしまいました。私たちにも必要なものですが、今は、必要としているのは彼です。


道標
やがて歩きはじめました。
彼は言います。・・マメなら、歩き始めは辛くても、我慢して歩いていると、だんだん麻痺してきて、なんとか歩けるようになります。でも膝は違います。一歩一歩がつらく、慣れることがありません。
しかし、それでも添え蚯蚓を歩こうというのですから、たいしたものです。これに感じて私たちは、彼が今夜の宿=影野駅の駅舎に着くのを、(遠くから)見とどけることにしました。


出荷
道標の先の道路端で、ショウガの出荷作業が行われていました。
私は自営農家の人たちが協力しあって出荷しているのだと思っていましたが、聞けば、違っていたようです。この人たちの多くは、自分の畑地を手放した元農家の人たちで、今は、その畑地を買い取った会社に、パートとして雇われているのだそうでした。
農業再編の一齣というべきか、農村崩壊の一齣と言うべきか。


国道56号
時刻は、この時点ですでに4:50です。宿には遅くなる旨、すでに連絡しています。電車で行くと言い添えていますので、心配をかけることはなかったと思いますが、あまり遅くなると夕食は出せません、と言われました。もちろん、それは仕方ありません。



私たちが彼のその後を知ったのは、4日後(11/5)のことでした。足摺岬で元気に歩く彼に会うことが出来ました。同年配の野宿遍路と話し合っている所に、私たちが行きあわせたのでした。
・・丁度お二人のことを話していたところなんです。おかげで、ずいぶん楽になりました。・・とのことでした。


コンビニ
彼の影野駅着を見とどけた後、私たちは六反地駅まで歩き、電車に乗ることにしました。
電車時刻を調べると、だいぶ時間があります。近くにコンピにがあったので、(ザックは駅に置いたまま)念のため夕食を買っておくことにしました。私はついでにビールも。北さんはコーヒーとプリンを買いました。



上弦の月が、とってもきれいでした。青龍寺以来の月です。


六反地駅
やがて電車が来ました。文化祭帰りの高校生が乗っています。風船などを持っていて賑やかでした。でも印象は悪くありません。
停車駅は、仁井田→窪川です。


窪川駅
窪川駅に着きました。時刻は7:10過ぎです。
タクシーの運転手さんが旅館への道を教えてくれました。タクシーに乗るつもりはないので、話しかけないでいたのですが、運転手さんの方から声をかけてくれたのでした。
旅館では、電車の着時間にあわせて、風呂と夕食の手はずが整えられていました。ありがたいことでした。ご迷惑をおかけしました。


窪川の朝
朝です。おかげさまで元気を回復することが出来ました。これより六反地まで引き返し、歩きはじめます。
写真の万国旗は、今週末に予定されている「台地まつり」の飾りです。「台地まつり」は神社の祭ではなく、窪川地区一円を会場とする地域の祭です。台地まつり実行委員会が主催しています。


六反地着
「六反」という土地面積を表す地名は、長宗我部氏の頃、すでにあったそうで、長宗我部土地検地帳にも記載されているといいます。六反だけ拓いて打ち捨てられた土地であったことから、「六反地」と呼ばれるなど、地名由来はいくつかあるようです。
六反地村は明治の大合併で仁井田村の大字となり、昭和の大合併で窪川村の大字に、平成の大合併では高岡郡四万十町の大字となりました。なお、この四万十町は、 四万十市中村の四万十町とは異なりますので、念のため。


景色
国道56号を南下します。昨晩、電車からは見ることができなかった景色が、きれいです。
川は四万十川支流の仁井田川です。
仁井田川はやがて、国道56号、土讃線と交差し、四万十川にそそぎます。


景色
煙は、籾殻燻炭(もみがらくんたん)というやつでしょうか。
籾殻を積んで内側から焼き、出来た灰を次の肥料などとします。


五社街道へ
ミスをしました。前を歩く北さんが靴紐を締め直すため立ち止まったとき、私がたまたま、右方向への矢印を見つけてしまったのです。
それが五社街道(元の37番・高岡神社への道)を示したものとは知らず、私は北さんに報告。北さんも五社街道のことは頭にありませんでしたから、「よく見つけたなあ。見落としていたら迷うところだった」などと反応。二人は勇んで、間違った道(県道324号)に入っていったのでした。


大鳥居
しばらくすると鳥居がありました。地図をよく見ていたら、「大鳥居」の記載があるので気づけたはずですが、この頃は道標や矢印に頼ることがおおくなっており、あまり地図を見ていなかったのでした。


鳥居
扁額には、ちゃんと「高岡神社」と刻まれています。なのに・・。


景色
豊かな水が流れています。おそらく仁井田川の富岡堰からとった水でしょう。野中兼山が築いた堰です。
兼山は、それまで何回も失敗していた四万十川からの導水を断念。より御しやすいと思われた、仁井田川に堰を築きました。こちらも、けっこう難工事だったそうですが、兼山は、ある工夫を凝らしてやり抜いたと言います。それらについては、 →(H27秋2) をご覧ください。


仁井田川
兼山が仁井田川に築いた堰や、その水を使って産出する仁井田米などについても、 →(H27秋2) に記しています。


景色
道を間違えたのは困ったことだけれど、おかげでこんな景色を見ることが出来ました。


県道19号
ちょっとうんざりするような道ですが、


呼坂トンネル
トンネルを抜けると、・・


再会
うれしい再会が待っていました。Life is not all bad. 大川橋で会い、添え蚯蚓遍路道でも会った、若いお坊さんです。高岡神社にお詣りされたそうでした。
岩本寺まで、お坊さんと三人の道中が始まりました。
話は勢い野宿の苦労話になります。
・・私の荷物は20Kを超えていませんが、修行僧の場合、40キロを超えることもあります。


岩本寺
・・バス停、駅舎、善根宿、通夜堂などをお借りすることが多く、自分はテントは持ち歩きません。しかし山中で寝ることもあり、その時のため、雨具はポンチョにしています。三角テントを作るのです。シャワーは、「道の家」でお借りすることが多いです。
こんな話を、楽しく聞きながら歩き、岩本寺に着きました。
お坊さんは寺に入りましたが、私たちは預けていた荷物を取りに宿へ向かいました、


境内
荷物を受けとった私たちが寺に戻ると、お坊さんの読経の声が聞こえてきました。きれいに響く声です。その姿勢は不動で、美しいものでした。


本堂
お坊さんの読経は、私たちが納経を終えても、まだ続いていました。
雨が近いとみて雨具を出し、下だけを履きました。
出発です。まだ続く読経の声を後ろに、歩きはじめました。またどこかで・・、とも期待しましたが、もうお会いすることはありませんでした。一期一会。


台地まつり
「台地まつり駐車場」とあります。
ここでいう「台地」は、窪川台地(高南台地とも)をいいます。窪川ヲ中心とする、標高200㍍ほどの台地で、高知県中央部と南西部を隔てています。
私たちは久礼の添え蚯蚓遍路道または大坂遍路道から窪川台地に上がり、岩本寺を経て片坂を下り、佐賀に降りてきました。


片坂第一トンネル
雨が厳しくなったので北さんと相談。片坂峠越えのショートカット道(市野瀬遍路道)を避け、国道56号のヘアピン道を歩くことにしました。距離はやたら長くなりますが、その分、傾斜は緩いし、歩きやすいと考えたのです。


片坂大カーブ
写真奥に道が写っています。この道を私たちは、「片坂大カーブ」を曲がった後、歩くことになります。大ヘアピンカーブであることが、実感できます。
五社街道に次ぐ、今日二回目の大回りです。やはり峠越えの道を行くべきだったか、大いに後悔したものでした。実際、市野瀬の辺りで会った一人歩きの女性は、「峠越えをしてきましたけど、なんということもありませんでしたよ」と、ケロリと言ってのけました。


景色
私たちが歩いている自動車道の「片坂」は、緩やかに下っていますが、かつての「片坂」は、写真に見える高度差を一気に下る、急峻な難所の道だったといいます。


景色
雨の景色も、なかなかいいものです。回り道をしたからこそ、こんな景色が得られました。Life is not all bad.そう考えることにしました。


拳ノ川
佐賀町拳ノ川(こぶしの川)です。
この時点では、拳ノ町は「佐賀町」に属していましたが、その後、平成18年(2006)、佐賀町は大方町と合併。黒潮町になっています。


コスモス
コスモス畑を眺めていると、畑の主がやって来て、いろいろ話してくれました。
・・コスモスは夏にも咲くし冬にも咲きます。だけど私は、秋にしか咲かせません。だってコスモスは「秋桜」ですからね。日本には四季があって、日本人は季節感というのを育んできましたよ。これは大切にしませんとね。近頃、野菜にしても果物にしても、また魚までも、旬というものがなくなってきていますよね。私はそれが気に入らないのです。


景色
すると傍にいた隣人が言いました。・・この人はナ、博士なんよ。
これは決して揶揄した表現ではなく、尊敬していっているのでした。よく勉強し、考えもしっかりしていると言うのです。


スクールバス待合所
15:40 スクールバスの停留所をお借りし、宿の予約をしました。佐賀町の民宿です。


佐賀町不破原
時刻は 16:50です。
熊井隧道という、明治の頃に掘られたトンネルがある道を行きたかったのですが、もう暗くて、入口を見つけることが出来ませんでした。
やむおえず、国道56号を行きます。今日三回目の大回りとなりましたが、これも仕方ありません。
・・寄り道 脇道 回り道 しかしそれらもすべて道。まよい道さえ道のうち・・です。


土佐くろしお鉄道
土佐くろしお鉄道の下を潜ります。


伊与木川
伊与木川沿いに国道56号を歩きます。
空腹ですが食べ物を持っていません。お接待でいただいた明治キャラメル(前号)をなめました。グリコではありませんが、「一粒100米」の効き目がありました。


民宿坂上
民宿坂上(さかうえ)です。
遅く着いたにもかかわらず、入浴している間に洗濯をしてくださいました。脱水までをしてくださって、後は、足が悪いので、申し訳ないが干すのは自分でやってくれ、とのことでした。申し訳ないのは、私たちの方でした。教わったとおりに、空いている部屋にロープをかけて干し、扇風機を回しました。(翌朝には、きれいに乾いていました)。
夕食は、お婆さんと若奥さんとが話し相手になってくれて、楽しい時間となりました。
しかし残念です。いい宿がまた一軒、なくなりました。民宿坂上は令和3年、営業を停止しております。女将さんの話・・この辺は泊まり客が多かったが、国道が整構されて車遍路が増え、ここは通過点になってしまいました。道ができたら、人がおらんようになってしもた・・が思い出されます。


鹿島
この海を鹿島ヶ浦といいます。東に向いていて、きれいに朝日が昇るのだといいます。
しかし残念。今朝は雨です。朝日は望めません。
左の島が鹿島で、鹿島神社があります。常陸の鹿島神社から勧請した神社です。よろしければ、 →(H27秋 5)をご覧ください。土佐清水や伊予北条の鹿島についてもふれています。


散歩の人
初老の男性が、犬を連れて散歩していました。「私も3回、廻りました。車ですけどね」と言い、「車で行くのは、怠け心もないとは言わんが、歩いて廻るだけの時間がとれんのよ。それと金もないし」と加えました。
これを私流に訳すと、・・あんたらは時間もあり、金も少々は持っているらしい。今は健康にも恵まれている。幸せじゃねえ。歩き遍路は幸せよ。ぜいたくよ。しっかり歩かにゃバチがあたるよ。・・となりましょうか。


鹿島ケ浦 土佐佐賀の街
佐賀の町から国道56号に復し、崖上の公園を目指しています。この公園は、佐賀から四万十川までの海岸沿いを大規模公園として整備した、西南大規模公園の一部です。
徐々に高度を上げ、鹿島ケ浦と土佐佐賀の街が、見下ろせるようになりました。



公園の展望台で、景色を楽しみました。


再会
国道56号に戻ると、昨日、片坂で会った女性が歩いていました。佐賀温泉を早立ちし、早くも私たちに追いついてきたのです。彼女は言います。・・仕事がありますからね、のどが渇くと休むほかは、歩き続けます。・・
遍路は一様ではありません。仕事をやりくりして四国に来る彼女は、時間を無駄に出来ない遍路です。昨日は、焼坂も添え蚯蚓も歩かず、国道56号を歩いてきたそうです。むろん、山道がいやだからではありません。国道の方が早いからです。早いとみれば、山道も厭いません。実際、片坂では、私たちが避けた雨の山道を、彼女は難なく越えています。今日は、私たちが歩かなかった熊井隧道の道を歩いて、追いついてきました。彼女は今日、帰宅しなければなりません。中村まで歩いて帰宅する、とのことでした。


行く先
大きく写っているのが、伊の岬です。
かつて伊の岬には、(松山寺という大寺が在ったことから名付けられたと思われる)松山坂が通っており、これが遍路道にもなっていました。しかし残念ながら、今は山中に韜晦。松山坂を歩くことは困難です。
現代の道は三本あります、①井の岬トンネルを抜ける国道56号。②海沿いの道をまわる、岬廻りの道。③土佐くろしお鉄道、です。
→(H27秋 3)には、松山道を探して右往左往した様子を記してみました。よろしければご覧ください。 


大方町
大方町と表示されています。ただし前述のように、今は黒潮町大方です。



オニギリの下に、灘という地名が表示されています。
灘は、国道56号と岬廻りの道の分岐点です。90度右折して国道56号を行くと、井の岬トンネルに出ます。直進して集落に入ると、岬巡りの道です。この道については、→(H22秋 1)をご覧ください。


井の岬トンネル
昭和39年(1964)、私の職場(70人規模)でマイカーのオーナーは、たったの三人でした。私などは、乗ったことがある車は乗合バスだけという、マイカーとは縁遠い状態にありました。ものの本には、昭和30年代の中頃よりマイカーブームが始まったとありますが、国民の多くにとっては、まだまだマイカーは、夢のまた夢でした。
私の初めてのマイカー乗車は、昭和40年のことでした。友人の車に乗せてもらったのでした。職場から自宅まで運んでもらったのですが、このとき私が感じた「テレポーション感覚」は、今の若い人には理解してもらえないでしょう。一歩も歩かないのに、家に着いちゃった!不思議な感覚でした。


伊田トンネル
ところが、これ以降のマイカーの普及は爆発的に急でした。昭和45年(1970)には、日本の4世帯のうち一世帯がマイカーを保有するようになり、翌年、昭和46年には、なんと私までもが、マイカーのオーナー様になっていたのですから。
・・アメリカでは一家に一台じゃなく、一人一台だそうだぜ、・・友人とのこんな会話を思い出します。やがて日本でも一人一台が実現することを予感しつつ、交わした会話でした。
伊の岬トンネル、伊田トンネルは、こうした時代背景の中で開通したトンネルです。井の岬トンネルの開通が昭和44年(1969)。伊田トンネルが昭和43年(1968)の開通です。


ひつじ田
井の岬トンネルを抜けて、小屋型バス停で休んでいると、道の向こう側を一人の遍路が歩いてきました。影野で別れた、脚を痛めていた彼です。
私達に気づいて、来てくれました。脚はすっかり回復している様子です。あの翌日、残りのお寿司を食べたことや、相変わらずの耐乏生活で、今日の朝食はキャラメルだったことなどを話してくれました。
何より嬉しかったのは、初めは足摺岬まで歩くつもりだったが、一巡することにした、と聞いたことでした。


ナナフシ
雨が降っているからでしょう。水が好きな沢ガニ、カエル、ミミズ、ヤモリなどが車道に出てきては、相次いで交通事故死しています。
そんな様子を目にしながら歩いていると、ナナフシに出会いました。余計なお節介かもしれませんが、車にひかれない場所へ移しました。



伊田、上川口、浮津と歩いてきた私たちは、入野松原に入り→田野浦→四万十川下田の渡しへ進みます。今日の宿は四万十川河口の、ちょっとお高めの宿です。
なお、→(H27秋 4)は、12年後、ほぼ同じ行程を歩いた時の記録です。よろしければご覧ください。


浮鞭海岸
浮鞭海岸は、(前述した)西南大規模公園の一部で、サーフスポットとなっています。


吹上川
加持川(吹上川)の河口です。この河口が浮鞭海岸と入野海岸の境と考えていいでしょう。


かきせ橋へ
前方の橋で加持川を渡ると、入野松原で知られる入野海岸です。むろん西南大規模公園の一部となっています。
自転車の青年が声をかけてくれました。オランダで建築の勉強をしているが一時帰国し、今は砂浜美術館でボランティアをやっているとのこと。雨の中パンフレットを出して、砂浜美術館の説明をしてくれました。
まず、砂浜美術館は「建物」ではないのだといいます。4キロほどの入野の砂浜を中心とした、辺り一帯を、私たちは砂浜美術館と認識しています、とのことでした。


入野松原
それでは私たちは、入館料も払わずに砂浜美術館に入り込んでいたわけですね、と尋ねると、
・・はい、そうです。でも気になさらないでください。実はお二人は、砂浜美術館のお客さんですが、同時にまた、砂浜美術館に出品された「展示品」でもあるからです。・・との応えでした。
・・砂浜美術館には、この広い太平洋が展示されています。沖を泳ぐ鯨も、砂浜美術館の展示作品です。名も知らぬ遠き島より流れ着いた椰子の実も、テキサスから流れてきたブライアンの手紙も、砂浜のラッキョウ畑も、そこに咲く可憐な花の絨毯も、砂浜で遊ぶ子供たちも、子供たちが作った砂のお城も、みんな、砂浜美術館の展示品です。月の光は砂浜美術館の照明、波の音は砂浜美術館のBGM。


入野松原
また青年は、一昨年(平成13年)に発足したばかりの「漂着物学会」についても教えてくれました。・・漂着物は、民俗学や歴史学、地理学、生物地理学、生態学、海洋学、環境科学、環境教育など、さまざまな学問分野に関係しており、それらを横断的にあるいは学際的に研究するのが漂着物学です。・・とのことです。より詳しくは、→漂着物学会をご覧ください。


上林暁記念館
大方が生んだ作家、上林暁の記念館です。青年の紹介でやって来ました。いつもは砂浜でやっている砂美の「潮風のキルト展」が、雨天のため上林暁記念館に移して行われているので、ぜひ見てくださいとのことでした。おかげさまで、埼玉から高知に「漂着」した方との交流など、楽しい時間を過ごすことが出来ました。
なお調べてみると「潮風のキルト展」は、今年(令和3年)が第27回でした。もう一つの企画・Tシャツアート展は、33回を数えています。


大方漁港  
大方漁港です。漁船が大漁旗で飾られています。
どうやら「大方の秋まつり」があるようでした。入野の西南大規模公園を会場にして行われる祭で、今年(令和3年)で第59回になります。


拡大
できれば見にゆきたかったのですが、さすがに雨のなかでは躊躇されました。拡大写真をご覧ください。


ラッキョウ畑
ちょうどラッキョウの花が咲く頃でした。出荷は五月の連休の頃になります。
砂の粒子が細かいので、畝立てのときだけ、(畝が崩れないように)少量の水を撒きます。しかし、その後の水やりは不要、とのことです。


体育館
前方の建物は体育館です。


かきぜ橋
蛎瀬川にかかる「かきぜ橋」です。これを越えると、黒潮町田野浦になります。


かきぜ橋から
写真奥が河口方向です。


道標
ぜひ渡し船に乗りたいので、左方向へ進みます。


田野浦漁港
田野浦を通過中、軒下に雨を避けて子守をしている女性が、合掌をして私たちを見送ってくださいました。
合掌が私たち個人ではなく、、私たちに同行してくださったいる(と考えられている)、お大師さんに向けられたものであることは分かっているものの、やはりアタフタしないではいられませんでした。それでもなんとか私たちも合掌をして応えることが出来たのは、前にも一度、経験があったからです。その時はアタフタ、ドギマギ。立ち止まりもせず、逃げるように立ち去ってしまったのでした。その失礼な振る舞いをへの反省が、すこし生きたようでした。


お接待
田野浦でのお接待です。次に登場する「黄色信号さん」にもお裾分けしました。


田野浦
黄色の雨具を着た人が話しかけてきました。この辺で宿を知らないか、というので、私たちが泊まる予定の宿を紹介しました。
北さんの雨具が赤、私が青ですから、これでは「歩く交通信号」ですね、と笑い合ったのでしたが、この方、かなりの「高速遍路」でした。私たちも早く宿の着きたかったので、つられてガンガン加速することになり、ついには「無敵の交通信号グループ」の快進撃とはなったのでした。


サーファー
この速さは時速5キロほどでしょうか、と私が問うと、黄色信号さんが、いや、5.5キロでしょう、と訂正します。彼はパワーウォークというのを訓練しているそうで、歩き方には一家言あるのです。時速7キロまでは出せるとのことで、下田の渡しの始発が8:00であることを伝えると、それでは足摺まで行けないなあと、まさにパワーウォーカーならではの応えが返ってきました。私たちでは二日かける行程です。


乾かす
宿に着きました。すっかり濡れています。
私の場合、ザックに水を入れてしまい、大騒ぎでした。とりわけ納経帳をぬらしてしまったのは痛恨事でした。これ以降、ある納経所ではきつく叱られ、ある所では、苦労されましたねと労られたりすることになります。

さて、ご覧いただきまして、ありがとう御ございました。
次号では四万十川を渡り、38番金剛福寺→三原村を経由して、宿毛までを記そうと思います。更新予定は7月22日ですが、もし早く仕上げることが出来れば、予定を繰り上げて更新してみたいと思います。ワクチン接種が進んで遍路が可能となるとすれば、それ以前に、できればリライトを終えておきたいと思うのです。リライトは平成20年分までありますが、まだ平成15年分も終わっていません。

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塚地峠 青龍寺 仏坂岩不動 大善寺 焼坂峠 大正町市場 添え蚯蚓遍路道

2021-05-26 | 四国遍路

 
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市役所前バス停 
前回打ち止めた、土佐市役所前のバス停です。
あれからおよそ10ヶ月後の平成15年(2003)10月30日、11時45分、私たちはようよう、ここに帰ってきました。本当はもっと早く、春頃には来たかったのですが、実は北さんが目出度くも定年退職。いろいろと浮き世の義理もあったようで、春にはちょっと難しかったのです。


土佐市役所 
しかし私はといえば、北さんより2年早く退職していましたので果たすべき義理は少なく、遍路に出たくて、ジリジリしていました。
次の記録をご覧ください。いま思うに、これらは遍路に出られないことへの「代償」として行われたようです。ひんぱんに出かけています。


松山・鑑真和上展ポスター
2/1 ザック購入、2/13-16 松山・鑑真和上展(4人)、2/23 越生、3/28 細谷、4/6 秩父、4/19 川角、4/26 古河・渡良瀬遊水池、5/1 寄居、5/9 川原湯温泉(2人)、5/21 大高取山、5/30 嵐山(3人)、6/7-8 姥湯温泉(4人)、6/16 栃木市(2人)、6/23 大平山、 7/4-5 青根温泉(4人)、8/26-9/2 韓国、9/15 靴購入、10/5 利根大堰→行田古墳群→見沼用水(2人)、10/16 見沼用水再訪
写真は前号にも記した鑑真和上展のポスターです。松山で見ました。


塚地峠へ
満を持して、とでもいいましょうか、私たちは歩きはじめました。県道39号を宇佐に向かって南下します。最初の目標地は塚地峠です。
なお今回の区切り歩きの最終目的地は、三原村経由でゆく宿毛(39番延光寺)です。月山神社経由の道は、次回、歩くことにしました。38番金剛福寺から歩きはじめて、月山神社経由で宿毛へ→今回の打ち上げ地点から歩き継ぎ、松山を目指すという計画です。


中務茂兵衛道標
すこし歩いてみて、自分たちが新米遍路であることを自覚しました。
菅笠をかぶるには、その前に頭陀袋をかけておかなければなりませんが、それが自然の動作として出来ません。片手には必ずお杖を持っていなければならないのですが、これを忘れて手ぶらで歩いており、あわてて引き返したりします。橋の上ではお杖を突かないのが決まりですが、これも忘れて、平気でトントン突いています。


U字溝
U字溝の網目の穴にお杖を突っ込んでしまったときの、「反射」も失われていました。反射的に引き抜くことができないまま、ガクン、歩きが止まってしまいます。
青龍寺では、手水場での作法に戸惑い、ローソク、線香を出し→灯す、その手順でまごついてしまいました。
通し打ちの人なら、この辺まで来ればもう慣れたものなのでしょうが、区切り打ちの私たちには、まだまだぎこちなさが残ります。


開通記念碑
塚地峠登り口に「開通記念碑」が建っていました。これは塚地峠の「開通記念碑」ではありません。
左に建つ説明文によると、かつて高岡と宇佐を結ぶ道は、横瀬山の上の遍路道(塚地峠道)と、谷川沿いの藪道の公道しかなく、林業開発の隘路となっていた、とのことです。
「開通記念碑」は、3人の林業家が私財を投げ打ち、大正7年(1918)、公道をしのぐ私道を、宇佐との間に開通させたことを記念し、建てられました。碑には、私財を投じた三人の名前と、この道が私道であることを証する、三人の名前が刻まれています。かつては私道の入口に建っていたそうですが、平成11年(1999)、塚地坂トンネルが開通し、塚地峠の登り口に移されてきました。


塚地峠
一人の男性と出会いました。長い柄がついた鎌を持ち、草を刈りながら登っています。「ご苦労さま」と声をかけると、彼も私たちと一緒に歩きはじめました。彼は話しながらも、要所要所で鎌をふるっています。
今年定年退職し、60歳だとのこと。体力維持も兼ねて、こんなことをやっております、と話してくれました。近くに住んでおり、登り口まで車で来て、峠上までを整備し、引き返すのだそうです。向こう側の半分は、反対側から別の人が登ってくるのだといいます。


古い道標
・・地面が掘り返されているのは、猪の採餌の跡です。ミミズを食べます。30センチほどの長さのミミズがいっぱいいますので。
・・猪肉は山鯨と言いますが、冬が、やはりしまっていて美味いです。
・・これは、行き倒れた遍路の墓です。
・・これは道標。指さす手が見えるでしょ。


ミミズ
猪の好物、ミミズです。
巻き尺、虫眼鏡、十徳ナイフは、私の日常の携行品です。


出会い
・・この山にはもう、マムシはいないと思います。私が獲り尽くしたかな。マムシ酒をつくるんです。
・・水を入れた瓶にマムシを入れて約2週間、置きます。空気穴は明けときます。するとマムシは体内のものを出しますので。そしたら今度は焼酎入りの瓶に入れ、密閉します。マムシはすぐに死んでしまいます。それで2年ほど置くと、飲み頃です。


宇佐大橋 浦ノ内湾
・・マムシはとぐろを巻いているが、こちらが攻撃しなければ向かってきませんね。その身長ほどが攻撃射程ですから、近寄らんことです。危険なのは、気づかず踏みつけたり、木から落ちてきたときです。
・・なぜかマムシは、1匹いると近くに、もう1匹いるのです。経験から言うことですが、ぜひ覚えておいてください。


浦ノ内湾 太平洋
この素晴らしい景色は、彼らが木を払ってくれたおかげで見られます。元は木が茂っていて、景色は見えなかったそうです。
その景色を眺めながら、しばらく話しました。みんなが、不二家のペコちゃんキャラメルを一粒、口に入れて。・・楽しいひとときでした。
なお塚地峠については、 (→H27春12) もご覧ください。峠からの景色、峠から登った茶臼山の景色、石鎚社、戦争遺跡の監視哨、また不思議な磨崖仏などもご覧いただけます。


大工墓
快調に下っていると、もうひとりの草刈りボランティアと出会いました。さっきまで○○さんと一緒だったんですよ、と伝えると喜んでくれ、この先の道を教えてくれました。
写真は、文化年間の「大工重吉」「大工重吉妻」の墓です。妻には名がないのですね。この夫婦に何が起きたのでしょうか。今なら没年、生国を、読みとれる限り読もうとしているでしょうが、この頃は、気が回っていませんでした。


安政地震の碑
宝永4年(1707)の宝永地震、安政元年(1854)の安政南海地震・津波で亡くなった人々の、供養塔です。通称は、安政地震の碑。
南無阿弥陀仏と大書され、その周りに、後世に伝えるべき教訓が刻まれています。教訓は細かく刻まれ、読みにくいのですが、・・取りあへす山手へ逃登る者皆恙なく(つつがなく) 衣食等調達し又ハ狼狽て船にのりなとせるハ流死の数を免れす・・などとあるそうです。


安政地震の碑
すぐ山へ逃げ登った者は助かったが、何かを取りに帰ったり、船に乗って逃げようとした者は、流死した、ということでしょうか。
また、この碑が建つ場所は津波の潮先を示しています。つまり津波がここまで来たことを、伝えています。


右折
特徴ある常夜灯です。多くの方は、ここを直進し(南進し)、浦ノ内湾に突きあたった所で右折し(西進し)→宇佐大橋に向かわれるようです。
が、私たちは、ここで右折し(西進し)、高知海洋高校で左折(南進)。汐浜荘という宿(H29より休業中)に向かいました。
この頃、私たちは初日の宿だけは、早くから予約していました。出来れば2日目以降も予約したかったのですが、自分たちがどこまで進めるか、見通しがたたず、出来ませんでした。


放し飼いの犬
20年前でも、もう犬の放し飼いは珍しかったと思いますが、この犬、よほど信頼されているのでしょう。
たいていのワンチャンは、遍路姿を見れば警戒態勢に入るものですが、この子は、私たちを見ても、カメラを向けられても、まったくの平常心でした。



路地で年寄り達が数人寄っていました。珍しくオジイさんも入れてもらっています。「珍しく」というのは、立ち話などは、ほとんどがオバアさんたちがやっていて、オジイさんは、あまり見かけないからです。男は群れるのが下手のようです。
汐浜荘の場所を尋ねると、「この路をあがって・・」などと言います。海の方に向かうのなら「さがる」ではないかと思いましたが、どうやら、この辺では「先に進む」という意味で「あがる」を使っているようでした。それにしても、まあ、賑やかな人たちでした。


宇佐大橋
宿に荷物を置かせてもらい、薬草入りのお茶を戴き、36番青龍寺へ向かいます。
人物が写り込んでいるため写真は使えませんが、近くに「龍の渡し」の跡がありました。渡ると「龍坂」があるので、「龍の渡し」なのでしょう。真念さんの四国遍路道指南によると、舟賃は四銭だったそうです。
青竜寺を打った後、陸路(浦ノ内湾沿いの花山院廟がある道)を行く人は、荷物を宇佐に預けて舟に乗り、海路(浦ノ内湾を舟で行く)を行く人は、荷物を持って舟に乗り、猪之尻に荷物を預けて青龍寺を打ちました。


宇佐大橋から
宇佐大橋は「しんどい橋」の異名をもつ現代の難所である、との話を耳にしました。ただし、以来今日まで、左様な話は聞こえてきません。
たしかに欄干が外にそり出しているのが、高所恐怖症の私には気になりますが、歩道は広く、車道との仕切りもあるので、このように写真を撮ることも出来るのです。「しんどい橋」は、昭和48年(1973)、竣工した頃だけの話かもしれません。私見では、一番の「しんどい橋」は、浦戸大橋です。これだけは、私は絶対に渡りません。


北さん
砂浜に出てしばらく座っていました。
道の反対側を若い遍路が歩いてきました。青龍寺からの帰りです。大きな荷物を背負っています。
私達と彼が、ほとんど同時に、こんにちはー!
  野宿かい? ・・・ ハァ-。
  今日で何日目だい? ・・・ わかりませ-ん。
  いくつ? ・・・ 28でーす。
  今日の泊まりは? ・・・ 汐浜荘でーす。ちょっと疲れたので、ハァー。
  それじゃあ、俺たちと同じだ、またねー。 ・・・ ハーイ。(青龍寺は)もうすぐですから。
この人とは宿で話したかったが、私達の宿に着くのが遅く、もう寝てしまったそうでした。



道の大きな蛇行。路傍の石仏。気持ちが洗われる、いい道です。


五社
  是従五社迠十三里
五社とは、高岡神社を指します。神仏分離までは、37番札所でした。神仏分離後は、五社の別当寺だった岩本寺が、37番札所になっています。
五社・高岡神社については、よろしければ  →(H27秋 2)  をどうぞ。秋の例大祭などもご覧になれます。


青龍寺
意外とひっそりとした札所、というのが第一印象でした。青龍寺は朝青龍がしこ名をいただいた寺だし、この寺の石段で足腰を鍛えて強くなったたとも聞いていたので、なんとなく賑わっていると思い込んでいました。
というのもその頃、朝青龍の人気は絶頂期にありました。私たちが青龍寺にお参りしたのが平成15年(2003)10月30日。朝青龍は、翌11月、横綱に昇進します。


山門
  本尊 波切不動明王
  第三十六番独鈷山青龍寺
大師が唐の地で投じた独鈷杵が、この地に落下したことに因んで、山号を独鈷山と号し、
大師が真言の秘法を授かった長安の青龍寺に因んで、寺名を青龍寺としたのだそうです。


石段
石段を見上げると、一組の遍路が見えました。腰の曲がったおばあさんと、その息子さんらしい男性です。一段一段、慎重に下りてきます。
中段くらいの踊り場で出会いました。見ると杖には、上り用と下り用に、上下二カ所の握りがついています。息子さんの工夫でしょうか、とてもよい工夫です。因みに山登り用のストックも、握り替えが出来るように、握り部分が長く作られています。
北さんが話しかけました。自分の母も四国を廻りたいと願っているのだが、もう足がいうことをききませんで、などと話しています。お婆さんは腰をぐいと伸ばして、北さんに応じていました。控え目に傍に立つ息子さんが、いい印象をくれました。


石段上から
石段を上がると、今度は、やや険悪な様子の夫婦遍路に出会いました。
 奥さん「何してるのよー、もう!早く来なさいよ」
 旦那さん「・・・」
ある宿の主人が(飲みながら)聞かせてくれた話を、思い出しました。長年泊まり客を観察して得た結論だそうです。
・・二人連れの歩き遍路で一番仲違いしやすいのは、夫婦連れですよ。関係が親しいから、よけいに縺れやすいのでしょうね。


本堂
・・仲のいい夫婦でも、遍路中一度は、関係が壊れますね。歩く厳しさの中で、普段見えないところまで見えてくるのでしょう。
・・実は私は、それがいいんだと思ってるんですけどね。壊れるから本物になるんです。遍路で関係を建て直した夫婦は、多いですよ。貴方たちも一度、生ぬるい友達関係を壊してみたらどうです?
ご主人のこの話は図らずも、これより3年後の平成18年(2006)、公開された映画「ウォーカーズ 迷子の大人たち」のテーマでもありました。



悪い癖で、初日から宿着が遅くなってしまいました。でも月がきれいでした。
帰宅後、調べてみると、この日の月齢は4.6でした。この遍路では何カ所かで月を眺めましたが、六反地で見た月は上弦の月、最終夜(11/7)に宿毛で眺めた月は、十三夜の月でした。


対岸の灯
遅い到着にもかかわらず、ゆっくりと入浴させていただきました。熱すぎず温すぎず、最適の湯温でした。
食事も美味しくいただきました。有り難いことに、その間に洗濯もしてくださり、本当に申し訳ないことでもありました。


渡船場
よく寝られました。6:00からの朝食も美味しくいただけました。
食事中、野宿青年の話をすると女将さんが、・・あの人は、さっき出かけました。素泊まりなのだけど、空きッ腹で歩けるモンかね。朝食をお接待しましたら、ありがとう、と言って気持ちよく食べてくれました。こっちこそ、ありがとうと言いたいですよ。・・
気持ちのよい朝でした。私たちからも、ありがとうございました。


小魚
浦ノ内湾は入口が狭く、奥行きが深い湾です。湾口近くに架かる宇佐大橋が645mであることからも、その狭さが分かると思います。それに比して奥行きは、「横浪三里」から察するに、12キロもあると考えられます。(実際は8.8キロだそうです)。
なお「横浪」とは、静かな海面を波が長い線となって伝わりゆく様子をいうそうです。



静かな海では筏釣りがおこなわれ、筏渡船が商売になっています。上掲の写真「渡船場」は、筏渡船の渡船場です。
エサはゴカイで、土地の人が海水をポンプで汲み上げて、ビニルハウスで養殖しています。釣り客に売るだけでなく、関西方面にも出荷しているそうでした。



筏の養殖は、マダイ、ブリ、牡蛎などだそうです。
なお私は今回と同じコースを、 →(H27秋 1) でも歩いています。より丁寧に歩いたので、花山院廟などもご覧になれます。また →(H27春10) では浦ノ内湾奥の鳴無(おとなし)神社がご覧いただけます。
未掲載ですが、今後リライト予定の(H20初夏)では横浪半島コースを、(H20夏)では浦ノ内湾巡航船乗船記をご覧いただく予定です。


仕事
各所で、養殖牡蛎の殻剥きがされていました。


牡蛎
汐で洗って食べさせてもらいました。忘れられない美味しさでした。


県道23号
県道23号を歩いています。
4キロ先のグリーンピア土佐横浪で、遍路道は二つに分かれます。右・山方向が仏坂岩不動の道(県道314号)。左が湾沿いの道(県道23号)です。私たちは仏坂・岩不動の道を行きます。
なおグリーンピア横浪は、年金保険料の無駄遣いなどと、批判を受けていましたが、この年(平成16年)、私たちが歩く4ヶ月前の6月、破産しています。


浦ノ内湾
写真奥が宇佐方向。右が横浪半島です。


売店
浦ノ内小学校が出していた無人スタンドです。たぶん総合学習の一環なのでしょう。
総合学習は、小・中学校ではこの1年前(H14年度)から実施されている学習活動です。文科省によれば、「変化の激しい社会に対応して、探究的な見方・考え方を働かせ、横断的・総合的な学習を行うことを通して、よりよく課題を解決し、自己の生き方を考えていくための資質・能力を育成することを目標にしている」とのことです。なお文部省が文部科学省に変わったのは、さらに一年前の平成13年(2001)1月のことでした。


あけび
校庭で採れたアケビや、手製のブローチなどを50円ほどで売っています。
私は、アケビを買って食べました。
浦ノ内小学校は、今はありません。(H27秋 1)に歩いた時は、もう廃校になっていました。その前年、平成26年4月に旧横浪小学校と合併し、元横浪小学校の地に、新・浦ノ内小学校として発足したのでした。


新・浦ノ内小学校
平成27年(2015)秋に写した新・浦ノ内小学校です。
校門の両側には仁王門さながらに、二人金次郎が立っています。旧浦ノ内小学校に立っていたものと、旧横浪小学校に立っていたものです。


土佐黒潮牧場
「競走馬のふるさと」とあるのを見て、私たちは思わず、ハルウララを探していました。平成15年(2003)夏、ハルウララ人気が大ブレークしていたからです。
ハルウララは、中央競馬には一度も出たことがない馬です。高知競馬にのみ出走し続け、連敗を続けました。ついには100連敗。106戦目には武豊さんが騎乗しましたが、それでも勝てませんでした。出ると負け、しかし出続ける。それが愛される所以でしたでしょうか。


浦ノ内トンネル
岬を越える道の、古いトンネルです。歩道がありません。


浦ノ内中学校
この中学校の近くに、横浪という巡航船の乗り場があります。
多分そこが、四国遍路道指南(真念)に、・・いのしり(猪之尻)より横なミ(横浪)船にてもよし・・と記されている横浪なのでしょう。
青竜寺を打った後、猪之尻で船に乗り、ここ横浪で下船。仏坂へ入りました。なお、この船に乗ることは、ズルではありませんでした。この航路はお大師さんも利用されたという、れっきとした遍路道でした。


鳴無神社遙拝所
対岸にある鳴無神社の遙拝所です。
→(H27秋 1) では、この遙拝所のこと、神事などを行うための頭屋(当家)制のこと、また次に記す仏坂岩不動尊のことなどが、ご覧いただけます。


食糧調達
県道23号と県道314号の分岐点に、具合よくコンビニがありました。昼食用に、ちらし寿司、おにぎり、播磨あげを買い、外の水道でペットボトルを満たさせてもらいました。水道は遍路に開放してくれています。
買い物をしている男性に道を尋ねると、教えてくれた上に、明治キャラメルを1箱ずつ接待してくれました。このキャラメルには、後日、助けられます。


ハウス
きれいです。蘭だと思います。
また、この辺では、ポンカンの栽培も盛んです。


旧横浪小学校
かつての横浪小学校です。
今は、この建物はなく、代わって(上掲の)新しい浦ノ内小学校が建っています。


旧横浪小学校
横浪小学校時代の子供たちです。


標識
県道314号を進み、多ノ郷を目指します。途中、岩不動に参ります。


道標
ここから山道です。


休憩
長休止し、白衣を乾かしました。その間、北さんは友人にメール。私は子供の頃習い覚えたハモニカ演奏。
El Condor Pasa、Amazing Graceなど吹いてみましたが、屋外で吹くと、まっことヘタだとわかります。もう少しマシに吹けるかと思っていたのですが、なかなかコンドルは飛んでくれませんでした。


岩不動堂
大師が当地を歩かれたときのことです。紫雲たなびく中、諸仏が顕れたのだそうです。「仏坂」という名は、おそらくこの譚に由来するのでしょう。
諸仏の顕現に感動した大師が目前の大岩に手を置くと、今度は、その岩から不動明王がその姿を顕したと言います。「岩不動」の出現です。
写真は、当時の不動堂です。今はこの前に、雨除け日差し除けの屋根が設えられています。


岩不動
なにかの模様が見えす。


湧水
岩不動の下には、きれいな水が湧いていました。


法話堂?
県道314号から離れ、岩不動への急坂を下りていると、下の方から読経で鍛えたにちがいない、太い男性の声が聞こえてきました。内容は聞き取れませんでしたが、ずっと長く話は続きました。
降りてみると、住職さんが話す声だとわかりました。法話をされているようでした。私たちより先着の遍路が、お話に耳を傾けていました。


光明峯寺
信徒の方だったでしょうか、お寺の方だったでしょうか、女性二人が仲良く、花の手入れをしていました。心穏やかな暮らしぶりに、感じ入ったものでした。
日陰を借りて、昼食休憩をとらせてもらいました。


新川沿いの道
須崎に出る、新川沿いの道です。桜並木になっています。
しばらく歩くとバイクの男性がわざわざ止まってくれて、左に折れるよう教えてくれました。これ以上直進すると大回りになるから、と言います。有り難い「お接待」です。


土讃線
新川を渡ると、やがて土讃線踏切に出会いました。渡って左折すると多ノ郷です。
踏切手前で休憩しました。


土讃線多ノ郷駅
多ノ郷駅前に自転車遍路の自転車が止めてありました。
菅笠、お杖がくくりつけてあります。走行中にかぶることはないのでしょう。


国道56号
多ノ郷の辺から、国道56号との長いつき合いが始まります。この先松山まで、時に別れまた出会いを繰り返します。
右折方向の「バイパス」は、須崎バイパスを指します。高知自動車道の一部として建設されたものですが、この頃は、まだ全線開通しておらず、一般道として供用されていました。


大善寺門前
別格5番大善寺門前に、いかにも古い瓦を積んだ遍路宿がありました。明治期創業の宿でした。
ここに泊まればよかったと話しあったものでしたが、数年前に知ったところでは、休業中とのことでした。
ただ、最近のことですが、営業形態を変えて再開しているとも聞きました。何はともあれ、うまくいくことを願っています。


二つ石大師堂
大善寺本堂は小高い山の上にありますが、大師堂は麓の商店街、その名も「お大師通り」に面して建っています。その縁起を、境内の説明文を元にまとめると、
・・昔、須崎の入り海はきわめて広く、今の大師堂の地点は海に突き出た岬となっていた。当時、岬の反対側に行く方法は山越えが常であったが、引き潮の時は、岬の先端にある「波の二つ石」を辿って行くことも出来た。ただし、それは「土佐の親知らず」とも呼ばれる危険な道で、波にさらわれる者も多かったという。
・・(弘法大師四国巡錫の砌)このことを耳にされた大師は二つ石に坐し、海難横死者の菩提を弔い、海上安全の祈願をされたという。二つ石大師堂は、この譚を起源として開基され、今日に至っている。なお現在、二つ石は土中に埋もれてしまい、その姿を見ることは出来ない。


大善寺
階段に座り込んで、すこし腹ごしらえをしました。仏坂への入口で買ったおにぎりと、北さんが持ってきた煎餅。
納経所では若いお坊さんが、一所懸命、丁寧に書いてくれました。

 
須崎港上から
須崎市が一望できます。南は海です。大きな船が見えます。日鉄鉱業烏山形鉱業所の桟橋に係留されている船のようです。


須崎町
東側は新しい住宅地です。
西側は畑地で、ハウスが並んでいますが、すぐ新荘川に切られています。


新荘川
今夜の宿は新荘川の畔にあるので、もうすぐです。すこし時間の余裕ができたので、近辺を歩いて見ることにしました。
歩いていると、小学生が元気に挨拶をしてくれました。この2年前、平成13年(2001)には池田小学校で無差別殺傷事件が起きるなど、「知らない人」への警戒が指導されている頃でしたが、四国の子供たちは変わることなく、元気に挨拶をしてくれました。
大人たちは挨拶代わりに、「どちらへおいでですか」と尋ねてくれました。私たちが歩き遍路の通常ルートから外れて歩いたからです。迷っているのではと、案じてくれたのです。有り難いことです。


新荘川
新荘川が夕焼けに染まるころ、宿に着きました。
庭で、宿のご主人らしい人と子供達が遊んでいます。
とたんに嬉しくなりました。子供がいる遍路宿は初めてでしたから。
夕食時には、魅力的なおばあさんにも、お会いすることが出来ました。
思わず夜更かしして、10:30 就寝。


夜明け
須崎港の夜明けです。


出発
ちょっと昨晩は楽しみすぎたかな?酒精が抜けきっていないようです。だからでしょうか、心なしか影が薄い?
この日は、二つの峠を越えます。焼坂峠(やけざか峠)と「そえみみず遍路道」です。昔は、この二つに角谷峠(かどや峠)が加わって「かどや、やけざか 、そえみみず」と怖れられる難所だったと言います。


角谷(かどや)トンネル
角谷トンネルです。昔は峠越えで苦労した道も、今はトンネルで抜けられます。
とはいえ、この辺のトンネルは比較的早期に建設されたようで、早かった分、歩行者には通りにくいトンネルになっています。


久保宇津トンネル
後になって分かることですが、足摺岬より西のトンネルは、開発の遅れ故でしょうか?総じて建設時期が遅く、その分、歩きやすいトンネルが多いようです。



遍路道が焼坂峠に向けて、徐々に高度を上げてきました。


焼坂峠へ
今日歩く焼坂峠、土佐久礼の大正町市場、そえみみず遍路道などについては、 →(H27秋2) も、併せご覧ください。こちらでは、模様替えされた新大正町市場がご覧になれます。また「そえみみみず遍路道」は、平成18年(2006)から平成20年(2008)の大工事後のものです。遍路道は一箇所、高知自動車道によって「ぶった切られ」ています。時代の要請で仕方ないとはいえ、残念ではあります。


土讃線
この先で土讃線は焼坂トンネルを抜けます。
私たちは峠越えにかかります。


峠道
山道に入ってきました。ザックの蛍光ベルトが光ってきました。木の茂みが厚くなってきたからです。
焼坂峠、そえみみず遍路道は照葉樹林が残っていることでも貴重です。シイ、クスノキ、ツバキなどの常緑広葉樹を主とする樹林で、東南アジアの亜熱帯から温帯にかけて、原生林として広く分布していました。日本では関東以西に発達したといわれています。


左峠
日本歴史大事典から引用させていただくと、
・・照葉樹林帯に居住する諸民族の文化のなかには、数多くの共通の特色がある。それによって特徴づけられる文化のまとまりを「照葉樹林文化」と呼んだのは、民族植物学者の中尾佐助であった(1966年)。


峠の切り通し
この切り通しが、行政の境界になっています。こちら側が須崎市。向こう側が中土佐町土佐久礼です。


沢ガニ
沢ガニがいました。動くのでピントがぶれています。
照葉樹の厚い葉に日射が遮られ、落ち葉が水をはなさないから、沢ガニも生きていられるのでしょう。



何枚も撮った写真の中で、比較的よく照葉樹林らしさを写した写真が、これでしょうか?


土讃線
「よんでん」(四国電力)の女性がバイクでやってきました。挨拶をすると止まってくれて、この先の踏切`まで、消費電力のチェックに行ってきたのだと、自分の行動を説明してくれました。電気を使っている所なら、どんな所でも行かねばならないんですよね、こいつ(バイク)が行けない所は、歩いてゆくんです、と言います。「ポツンと一軒家」でも(という表現は、もちろん当時はありませんでしたが)会社は電気を通しますから、ということは、私もそこまで行くわけですよ・・。
そんなこんなを話していると、今度は森林組合の車が通りかかり、話に加わってくれました。山や森を職場にしている人たちとの、楽しい交流の時でした。皆で大きく手を振って別れました。


大川橋
名前のわりには小さな大川橋です。実は、大川橋が架かっている川は大川ではなく、久礼川です。
大川橋を渡ると「そえみみず遍路道」に至りますが、私たちは直進し、土佐久礼の大正町市場を見物します。


久礼川
橋の袂で、遍路中の若い僧と出会いました。丁寧に頭をさげてくれました。行く方向が違うので(彼は添え蚯蚓遍路道の方へ向かった)、すぐ別れましたが、彼とはこの後、そえみみず遍路道の登り口と岩本寺で再会します。
そえみみずの登り口では、大川橋での私たちの歩きを、「さっそうと歩いてらした」と評してくださいました。えっ、うそ? ほんと?「さっそうと」だなんて、ちょっと嬉しかったのを覚えています。


純平
絵は、青柳祐介さんの長編漫画「土佐の一本釣り」の主人公・小松純平です。
物語は、土佐久礼を母港とするカツオ船・第一福丸のカシキとなった純平が、先輩乗組員たちに鍛えられながら、一人前の男として成長してゆく様を描きます。大人気の長編マンガでした。
その人気に乗って、「純平」という酒も造られたようです。


土佐久礼駅
正面が土讃線の土佐久礼駅です。


久礼の道
駅を背に歩くと、道が分かれます。左は久礼港、漁師町への道、右が大正町市場、久礼八幡宮への道です。(この頃は、まだありませんでしたが)今は、道路標識がたっています。
私たちは大正町市場へ行くので、右にとります。


大正町市場
市場はあいにく改装中で、各店舗は仮店舗で営業していました。
写真は、改装に入る前の市場の様子です。
大正町は、元は地蔵町通りと呼んだそうです。大正4年(1915)、その地蔵町通り一帯で大火が起きました。町民は意気消沈していましたが、大正天皇が復興費として(当時の金で)350円を下賜。感激した町民は、これまでの地蔵町通りを大正町と改めて、町の復興に励んだのだと言います。

.
魚屋さん
ある鮮魚店でカツオ(350円)を買いました。
その横で手押し車(乳母車を少し大きくしたような車)で出店しているオバサンからは、鰯を買いました。ただし注文量が少なくて値段がつけられず、これは「お接待」してくれることになりました。
少量を購おうとするとき、どうしてもこうなりがちです。これを避けるには、やはり多い目に買うべきなのでしょう。または買わないことにする。「商品」のお接待は、とても気になります。


有名人の写真など
梅宮辰夫さんや笑福亭鶴瓶さんなどの写真が飾ってありました。観光パンフレットには、上記魚屋のオバサンが、カツオを抱えた、勇ましい姿で載っています。
このオバサンは名物オバサンで、テンポのよい会話をします。一っ尋ねると、二つ三つがポンポンと返ってきます。今日は窪川まで行くと話すと、「なんなら、店の二階があいているから泊まっていかないか」と、本気で勧めてくれました。「親切が止まらないのが土佐の女」なんだと言います。「はちきん」の面目躍如です。


昼食
魚屋さんの向かいに椅子と机が置いてあったので、そこで昼食をとらせてもらいました。
幸い七輪に炭火が熾きていたのでカツオをあぶり、カツオのタタキまがいで食べました。香りもよく、最高に美味しかった!
また鰯の刺身も最高でした。弱い魚を刺身で食べる!もっと食べたいと思いましたが、それを言えば「お接待ねだり」になってしまいます。ここは、あきらめました。
「久礼天」は、一枚を軽く焼いて食べ、残りはちらし寿司と一緒にして、持って行くことにしました。


コスモス畑
そえみみず遍路道へ向けて、長沢川沿いを遡って行きます。
コスモス畑が見事です。


道標 
長沢川に架かる澤ヶ谷橋です。道標が建ち、
  右(北方向)ほんみみず 至大野見村
  左 土佐往還 そえみみず遍路道
とあります。察するに「ほんみみず」は「本みみず」、「そえみみず」は「副みみず」なのでしょう。本-副二本の道があり、いずれの道も「みみず」の様にぬたくりながら、床鍋に至ります。ただし「副みみず」が土佐往還となっていますので、副の方が主要道だったようです。


登り口
そえみみず遍路道は、およそ4.5キロほどの尾根道です。
ここから、尾根筋に上がる急登が始まります。
ベンチがあったので休んでいると、大川橋で会った若い僧がやってきました。彼は私たちを覚えていて、「大川橋でお会いしましたね」と言って、ふたたび丁寧なお辞儀をして下さいました。
聞けば、曹洞宗の寺のご長男で、墨絵を描きながらゆっくり歩いているとのこと。宿は知り合いの寺に泊めてもらっている、といいます。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。中途半端ですが、ここで今号は終わりです。
出来れば岩本寺までを書きたかったのですが、字数オーバーになってしまいました。
次号は添え蚯蚓遍路道を登るところから始まります。なお、当初は宿毛まで進む予定でいましたが、無理でした。四万十川までとさせてください。ここでお断りです。更新予定は23日でしたが、30日と勘違いして準備してきたため、間に合わなくなりました。なんとか頑張って数日内に更新いたします。

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コメント (2)
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28番大日寺から 国分寺 善楽寺 竹林寺 禅師峰寺 雪蹊寺 種間寺 清滝寺

2021-04-28 | 四国遍路

 
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28番大日寺へ
平成14年(2002)12月24日 朝 7:30 宿発
天気予報は・・曇りのち晴れ。気温16度・・。昨日と違って雨の心配はなし。
最初の目的地は28番大日寺。宿から約4キロの歩きです。


野市
国道55号を30分ほど歩くと、野市です。野市小学校があり、後免-奈半利線の「のいち」駅があり、香南市の市役所があります。
野市小学校の創設は学制施行3年後の明治8年(1875)でした。教員1名、生徒30名(男子のみ)。女子の入学は、制度上は可能だったようですが、誰も入学して(できて)いません。


兼山三叉
野市で見逃せないのが、「兼山三叉」(みつまた)をはじめとする、野中兼山が築いた灌漑用水路です。しかし残念ながら私たちは、この時はそれを知らず、何も見ないで通過しています。
写真は、平成27年(2015)春、野市をすこし丁寧に見て回ったときに撮ったものです。よろしければ (→H27春8) で、兼山が残した工事の大きさをご覧ください。


大日寺
8:40 28番大日寺着
寺伝では、天平年間(729- 749)、聖武天皇の勅願により、行基が大日如来像を刻んで堂宇を建立。開創したとのことです。その後、寺は荒廃しましたが、弘仁6年(815)、空海が楠の大木から爪で薬師如来像を刻み出して祀り、寺を中興したといいます。


本堂
次の様なメモ(遍路行記)が残っています。
・・出発前に読んだ本に、(大日寺は)すぐ近くを走る国道の喧噪からは想像できないような静けさを保っている、と書いてあった。なるほどその通り。寺は三宝山の西山裾にあり、周囲からは隔絶している。
・・住職のお考えによるのだろうが、境内は飾り立てられることなく、落ち着いた雰囲気を出している。トイレには「チリ紙 ご用の方 納経所まで」とある。これも、いい。


平成27年の大日寺
この写真は、平成27年(2015)に撮ったものです。
13年前と変わらず、境内は飾り立てられることなく、落ち着いています。


奥の院
大日寺奥の院には、空海の爪彫薬師が祀られています。空海は大日寺の中興の祖ですが、事実上の開祖とみなされているようです。
ご利益は「首から上」の病平癒にある、とのことです。


穴あきの石
穴の開いた石が奉納されています。ご利益をいただくと、自然の穴が開いた石を奉納することが習いとなっている、とのことです。穴が開いた石は、平癒祈願が通じたことの証でしょうか?


薬師神社
写真は花巻市東和町で撮った「薬師神社」の扁額です。東和の人たちは寺を「神社」と改称することで、明治の廃仏毀釈から、本尊の薬師如来を守ったのでした。
同様のことが大日寺でも、起きたようです。大日寺のHPに、次の様な記述があります。
・・明治新政府の神仏分離令によって一時は廃寺となったが、本尊は「大日堂」と改称した本堂に安置していたので救われ、明治17年に再興されて現在にいたっている。
かろうじて救われた本尊・木造大日如来座像が、今は国の重文であることを考えれば、廃仏毀釈によって被った損失の大きさが分かろうというものです。梅原猛さんは、 廃仏毀釈がなければ、国宝といわれるものは、現在の優に3倍はあっただろう、と推定されています。


大日寺石段
石段を下りると、すぐ前を通る国道55号を渡り、物部川に向かう道にはいります。
徳島の福井(22番平等寺の先)以来、長く馴染んできた国道55号ですが、ここでお別れです。もう会うことはありません。次に付き合う会うことになる国道は国道56号で、須崎の多ノ郷辺りで出会います。こちらさんとは遙々、松山までのお付き合いです。


道標
上掲写真の左下に写っている道標です。
  二十八番 右へんろ道 大日寺
おそらく昔は、写真奥の石段を上り、ここに下ってきたのでしょう。今は、上掲写真の右の方から、緩やかな坂を上って境内に入り、ここに降りてきます。おそらく国道工事との関係で、導線が変わったのでしょう。


菜の花
菜の花は「景観緑肥作物」です。見て楽しみ、また畑にすき込んで、緑肥とします。
素人考えですが、この菜の花畑は水田裏作として、植えられているのかもしれません。緑肥としての菜の花は抑草効果が高く、除草剤の軽減に役立ちます。
なお写真には撮りませんでしたが、近くには(やや盛りを過ぎた)ヒマワリ畑もありました。ヒマワリもまた、景観緑肥作物です。


物部川へ
菜の花畑の側に農家があり、おばあさんが蜜柑を収穫していました。たくさんではなく家で食べる分くらいを、自宅の庭につくっているのだと言います。蜜柑の種類などに詳しい北さんがいろいろ話していると、おばあさんが、・・ちょっとお待ちになって。お待ちになってて下さいね。・・と言って家に入ってゆきました。
私と北さんは、顔を見合わせました。「お接待」を予想したからです。物欲しげな印象を与えてしまったのではなかったか、そう懸念していたのでした。


佐古郵便局
やがておばあさんが、大きなビニール袋にいっぱいの蜜柑を入れて出てこられ、食べながら歩いてください、と言って差しだしてくれました。正直、これは重いぞ、が最初の感想だったくらい、いっぱいの蜜柑でした。よほど物欲しげな顔だったと思われます。
ちょっと先の佐古郵便局で、現金を下ろしたことに便乗して場所を借り、出来るだけ多くをザックに入れ、入りきれぬ分を、二人で手に提げることにしました。
なお当時、佐古郵便局にはATMがなく、本人確認はカートリーダーと暗証番号入力。金は局員からの手渡しでした。金には飴とチョコとティッシュが添えられていました。


大根
北さん撮影の大根の写真です。前号でも記しましたが、この時、北さんは細長い大根に、なぜか関心を抱いていたようです。北さんの好奇心は多様です。


休憩
10:10 物部川を渡って、蜜柑休憩しました。出来るだけ多く食べて軽くし、もし通りかかったお遍路さんがいれば、その人に一個といわずお接待する・・そのための休憩を、私たちは蜜柑休憩と呼んでいました。ただし「又接待」は、ほとんど失敗に終わっています。たいていの方がザックに二個ほどは、持って歩いていたからです。


無料休憩宿泊所
無料休憩宿泊所でのことが、メモ(遍路行記)に残されています。この休憩所は、この頃、「保存協力会地図」にも記載されていました。
・・ここが、かの無料接待所らしい。布団が干してある。宿泊した遍路達が干していったものか?歩き遍路には馴染みの赤い字で・・ご自由にお使いください・・と書いてある。
・・人の気配がない。S氏が「こんにちは」というと、奥で「はーい」という女性の声。しかし、それだけである。「一服させてくださーい」。「どうぞー」。なるほど、自由にどうぞ、だ。一服させていただき、去り際に「どうもー」というと、また「はーい」だった。(この頃は二人ともタバコを吸っていました。今は、私は吸っていません)。


土讃線
田畑が広がる物部川の扇状地を歩いてきました。この風景を写した写真がないのは、残念です。
土讃線を越えると、今度は国分川が造る扇状地エリアに入ってゆきます。
さらに残念なのは、この手前にあったはずの松本大師堂を見逃したことです。今ある大師堂(平成20年改築)の前の、旧大師堂を見ることができたはずなのです。およそ300年前に建てられ、150年ほど前に改修されたという大師堂、見ておきたかった!


へんろ石
土讃線の踏切を渡ると、やがて「へんろ石」というバス停に出合いました。傍には「へんろ石まんじゅう」を売っている店があります。
その名前に引かれて、一番小さい箱詰めを一箱買いました。実は一個でよかったのですが、一個だけたのむと、「では、お接待しましょう」となりかねないことを、徳島での経験で知っていたからです。やはり商品をお接待として戴くことには、躊躇がありました。それは今でもあります。


へんろ石まんじゅう
こし餡がズシリと重く詰まっています。けれど、ほどよく甘みが抑えられているので、たっぷり餡子といえども、食傷するようなことはありません。何の飾りっ気もありませんが、土産にも喜ばれました。以来、ここを通るときは、必ず立ち寄って求めています。
遍路中、私が必ず立ち寄るお店は4軒で、ここ元祖へんろ石饅頭・山崎商店(明治25年創業)、78番郷照寺門前の高橋地蔵餅本舗(明治41)、75番善通寺の元祖カタパン・熊岡菓子店(明治29)、そして(忘れていたらコメントで天恢さんが追加してくれた)19番立江寺門前、「たつえ餅」の酒井軒本舗(明治?)です。

追加します。東洋町野根(東洋大師近く)の「野根まんじゅう」です。コメントで内海さんが、・・こんな田舎に(失礼)こんな上品な味のまんじゅうがあるのかと驚いた・・という饅頭です。
もうひとつ、これは私推薦で、勝浦町・滝口清水堂の「岩屋まんじゅう」です。星の岩屋に因んだ饅頭で、栗が入っていて美味しいです。


旧道
饅頭屋さんの前にいると、バスを待っていたおばあさんがやって来て、「5分ほど、お時間をいただけましょうか」と、丁寧に問いかけてこられました。むろん、5分を惜しむ私達ではありませんから「はい、はい」と応えました。
すると、「昔の路があるんです。よろしければ・・」と歩いてゆきます。「あの、バスはよろしいんでしょうか?」と尋ねると、「時間はあるんです」ということでした。


旧道
角を曲がった先に古い石の道標が立っており、細い道がありました。ただし短い道で、遍路地図にも載ってはいるが(今は載っていない)、よほど気をつけなければ見過ごしてしまいそうな道でした。
こういうお接待もあるのかと、とても嬉しかったのを覚えています。お接待とは、受け入れてくださることなんだ、そんなことを思いました。


路傍の花
さて、ここでちょっとお断りです。
へんろ石から国分川を渡ると、あと1キロほどで国分寺です。国分川の流れや「地蔵の渡し」跡、広がる田園風景などなど、いろいろの写真をご覧いただかねばならないのですが、実はこれら肝心の写真がないのです。撮影はしているのですが、この頃はブログを作るなどのことは、まるで念頭になく、ほとんどの写真に人物が、素顔をさらして写り込んでいるからです。そのためブログでは使えません。写真と記事がちぐはぐだったりしますが、我慢してご覧いただきたいと思います。


29番國分寺
国分寺へは、山門から入ることが出来ませんでした。道なりに歩いていたら、いきなり国分寺の納経所に出てしまったのでした。帰りはちゃんと出ることで勘弁していただき、まずは境内を散策しました。
のんびりとした境内の景色が、メモ(遍路行記)に残っています。
・・落ち葉掃きのおばさん達が休憩中らしく、椅子に座って何やら楽しげに話しあっている。お遍路さんに笑われるが!などと言い合っているところを見ると、内緒の話かもしれない。・・若大黒さんが、次代住職をあやしている。次代さんから、コンニチハの挨拶を受けた。


本堂大師堂
納経所に、「空海と遍路文化」展のポスターが、貼られていました。北さんと東京で見た展示が、全国巡回して高知まで来ているのです。こちらで見ればもっとゆっくり見られたのにと、残念に思ったことでした。
この経験は翌年、活かされました。松山で鑑真和上展を見たのです。東京では大混雑だった鑑真和上展が、松山ではさほどには混んでおらず、私たちは鑑真和上像の周りを、至近距離で何回も廻るなど、心ゆくまで鑑賞することが出来ました。


礎石
若大黒さんにお願いして、中庭に入れてもらいました。昔の礎石が庭石として使われているのです。
ただし、その時の写真には次代住職が写っていますので、これは使えません。ご覧の写真は、後年、撮ったものです。
柱座から外へ、たまった水を逃がす排水用の溝が掘られています。国分寺の塔は七重塔が多いのですが、ここでは三重塔ではなかったかと推定されています。礎石としては、やや小さく目なのも、その根拠の一つです。


山門
山門前に、巡拝用品の店がありました。菅笠が600円だったとメモ(遍路行記)にあります。北さんは後年、こちらで菅笠を求めることになります。


田圃の中の遍路道
国分寺から善楽寺に向かう田んぼ道は、誰しもの記憶に残っているだろう、いい道です。見える山は、岡豊城があった城山で、今は県立歴史民俗資料館が建っています。
さて、道が山沿いの道になったときのことです。
北さんが工事の人に、「この山の所有者はどなたでしょうか?」と尋ねました。工事の人は「さあ?」と、なんでそんなことを尋ねるのだろう、といった顔つきでいます。実は私も、そう思っていました。


水田の中の遍路道(H20撮影)
しかし、更に先に行くと、「この先 侵入を許さず!」などと大書した看板や、通行禁止のロープも見えてきました。北さんは「やっぱりなあ。だから聞いてみたんだ」などと、なにやら納得した風でつぶやいています。
聞けば、私の目には単なる里山としか写っていなかった山が、北さんには城山と見えており(北さんは考古学の専門家だ)、そんな歴史的価値のある山への、(見方によれば)乱暴とも思える工事に、はたして反対は起きていないのだろうか、北さんはそんな疑問を感じていたのでした。専門家の目とは、こうなんですね。
岡豊城跡については、(→H27春10)をご覧ください。


県道384号
笠ノ川を渡ると、へんろ道は二つに分かれます。城山の北を西進する、県道384号を歩く道と、南山裾をたどる道です。
私たちの選択は、前者・県道を行く道でした。山裾の道には大いに魅力を感じていましたが、毘沙門ノ滝に立ち寄りたいかったからです。(ただし残念ながら、この願いは果たせませんでした。私の脚の具合が、かなり悪くなってきたからです。写真は、私が座り込んで脚の手入れをした場所です。長い時間、ここに座っていました)。


逢坂峠
毘沙門ノ滝を断念して、ようようたどり着いた逢坂峠は、南国市と高知市の市境です。
坂を下り、墓地公園入口の急階段を降りると、遍路道は新しい住宅地をぬけ、ふたたび県道384号に合流します。この道は、蛇行する県道384号のショートカットの道だったわけです。ここで県道を渡ると、すぐ土佐一宮と30番善楽寺です。
住宅地の遍路道について、次の様なメモ(遍路行記)が残っています。・・急階段を降りてみると、「お遍路さんの道です。きれいにしましょう」と書いた、小さな立て札があった。住民たちが生活道を、遍路道として提供してくれているのだ。ここを通らないと、車道を大回りすることになる。ありがたい。


山門から
国分寺での失敗を活かし、山門から入る道を探しました。
ただし、長い参道が延びていることからおわかりのように、それは随分な遠回りでもありました。脇から入れば、なんてことなかったのですが、やはり決めたことは守りませんと。


土佐一宮
拝殿前に着いたのは16:00でした。もう急がなければならない時刻です。
しかし見るべきところは、見ておかねばなりません。当時は二巡目、三巡目があるなどとは考えてもおらず、もう二度と来ることはないと思っていましたから、出来るだけ見残しはしたくなかったのです。
土佐一宮の祭神、縁起などについては、三巡目に書いたアルバム
(→H27春10)
をご覧ください。


禊石
時間に追われながら禊石(みそぎ石)を見にゆきました。ただし禊石は、今は移されて、境内東方の神苑で祀られています。いちばん古くは、境内西方の「しなね川」(禊をした川で、今はもう流れていない)に祀られていたそうです。土佐神社は「しなね様」の愛称で呼ばれていますが、その由来などについても、上記リンクからご覧ください。


輪くぐり
輪抜の輪は、たいていは茅草を編んで作られていますが、ここでは神木の杉を輪切りにして作っています。くぐれば、神木の霊力で、心身が清められます。
輪くぐりも、急かされながらではありましたが定め通りに、右に三回、左に三回、廻りました。


30番善楽寺
解放感のある境内です。
30番が2ヶ寺できてしまい、「遍路迷わせの札所」といわれた安楽寺との混乱も、ようよう平成6年(1994)、落ち着いたそうです。30番札所は善楽寺とし、安楽寺は30番の奥の院とすることで決着しています。


30番安楽寺時代の納経帳
明治43年(1910)の納経帳です。
  右ページ 四国第三十番 奉納経 無量寿佛 安楽寺
  左ページ 四国第三十一番 奉納 文殊菩薩 五台山 


埼玉県与野の東明院
昭和5年(1930年)、廃寺となっていた善楽寺が、東明院善楽寺として復興。これにより二つ30番が始まることになったのですが、その東明院は、(私の居住地である埼玉県の)与野(現さいたま市中央区)から遷してきたものなんだそうです。
そこで、ついでの時にさがしてみたら、今は小さくなっていましたが、「東明院」がありました。


宿へ
暗くなると道探しが難しくなります。溜め池のところで分からなくなってしまいました。
幸い、おじさん(と言っても私たちよりは若い)が教えてくれました。・・こっちへ行ってな、池の底を通るんよ・・。?池の底を通る?
ともかく進んでみると、やがて意味が分かりました。溜め池(古川排水機構)沿いの道を、溜め池の底辺りまで下ってゆくと、次に進むべき道が、はっきりと見えてきたのでした。


宿着
国分川に架かる下の瀬大橋を渡ると、そこが今夜の宿でした。17:20着。
この時季です。着いたとき、辺りはもう暗くなっていました。


出発
出発は8:05。のんびりとした出発です。それというのも北さんが寝付かれず、その分起床が遅かったからです。夜中、ロビーで新聞を読んだりして、眠気を誘おうとしたそうですが、出来なかったそうでした。私はといえば、それに気づいていませんので、けっこう寝ていたようです。


五台山
前方に五台山が見えています。
昨日立ち話したおばさんの言葉が思いだされます。・・五台山はね、テレビ塔が2本、が目印なんよ。


電車
国道195号を渡ります。電車は、土佐電の文珠通駅です。
後免-奈半利線の後免町駅前と、はりまや橋を経て、土讃線伊野駅前をつないでいます。


五台山の登り
高知市街を一望し、奥には、土佐と讃岐を画する阿讃山脈が見えています。
阿讃山脈を越えた向こう側は、四国中央市です。愛媛県の市ですが、その東は、香川県に接しています。


竹林寺
五重塔が見えてきました。それと、昨日のおばさんが言う、2本のテレビ塔。
広大な牧野記念植物園を見ながら歩いていると、おじさんがやって来て、「あの辺りが、純心さんが馬に乗って、かんざしを買いに行った道ですよ。遍路道は、あれがホントの道だが、まあ、お年寄りにはキツイ・・・」と話してくれました。いささか以上にプライドは傷ついたのですが、たしかに「お年寄り」なんですから、言われても仕方ありません。


竹林寺
竹林寺の石段は、幅が広く、傾斜がゆるく、魅力的な石段です。
竹林寺については、(→H27春10)にも記述があります。


竹林寺
山門を目指して上り、・・


竹林寺
さらに上がります。山門は、二階作りの楼門です。


本堂
竹林寺の本堂は、文殊堂と呼ばれるそうです。四国88ヶ所で唯一、文殊菩薩を本尊としています。


五重塔
竹林寺の塔は、元は三重塔だったそうですが、その塔は明治32年(1899)、台風により倒壊。現在の五重塔は、昭和55年(1980)、竣工しました。念願の竣工だったといいます。


五重塔
高さ31㍍、総檜造り、鎌倉時代初期の様式、とのことです。


下田川(H20撮影)
下山中の景色です。流れる川は下田川。
下山後は下田川左岸(手前側)を上流方向(写真奥)へ歩き、かすかに写っている橋(へんろばし)を渡ります。


峰寺(H20撮影)
山を下り、五台山小学校の脇から普通道に出ました。
車向けの標識ですが、禅師峰寺の案内がありました。上は「峰寺」と表記されています。


ふり返る
「へんろばし」の辺から振り返って眺める五重塔も、なかなかいいものでした。


へんろ橋
「へんろばし」です。橋が架かる前は、舟渡しでした。四国遍礼名所図会には、・・川ばた行、江川(舟渡し二文宛)、又川ばた行・・とあります。下田川は、かつては江川と呼んだようです。川端の道(左岸の道)を行き、渡し船で川を渡り、また川端の道(今度は右岸の道)を行く、というのです。渡し賃は二文。


武市瑞山生家
11:20 武市半平太瑞山の生家がありました。
田んぼ道を少し入って、覗いてみました。武市家の墓地があり、また資料館もありました。資料館は、子孫の方が作られたのでしょうか。いわゆる箱モノ行政の「恩恵」は受けていないようでした。


武市半平太墓
土佐勤王党の盟主、武市半平太瑞山の墓です。その最後は三文字切腹で知られています。


石土トンネル
このトンネルは高知市と南国市との境になっています。抜ければ、南国市です。
勘違いしがちですが32番禅師峰寺は、(高知市ではなく)南国市にあります。遍路道は禅師峰寺を降りると、南国市十市(とおち)から、ふたたび高知市に入り、種崎の渡りを目指します。
石土(いしづち)という名前は、もちろん愛媛県の石鎚山との関わりでつけられった名です。近くの石土神社が、その譚を伝えています。 (→H27春11)


石土池
石土(いしづち)池は、破れ蓮が風情をみせています。


禅師峰寺の山(H27撮影)
石土池越しにみた、禅師峰寺のお山です。


登り口(H27撮影)
かつては、登り口の右脇に小屋のようなものが建っていて、おじいさんが瓢箪をつくっていました。きれいに艶を出したものや、まだ素のままのものなど、天井にいっぱい吊していました。私は、小さい、素のものを2個、買ました。1個、600円。
帰途のことです。おじいさんが呼ぶので行くと、瓢箪に入れる重しをくれました。桂浜で採った砂利石で、きれいに洗ってあるので、これを入れなさいと言います。ありがたくいただきました。ただ、この瓢箪屋さん、平成20年(2008)に訪ねたときは、もうありませんでした。写真は、平成27年のものです。左が車道。右が歩き道。


本堂(H27撮影)
境内の椅子にザックが一つ、置いてありました。一目で野宿遍路のものと分かるザックです。
隣の椅子で小休止していると、若い男の遍路が階段を降りてきました。荷物の主で、(前号にも登場した)岩手君です。昨夜は一宮の駅に泊まったとのこと。行当岬のバス停で寝て、トイレで洗濯させてもらった話は、ここで聞いたのでした。昨日以来持ち歩いている蜜柑を「又お接待」すると、すぐに食べ始め、栄養は摂れるとき摂りませんと・・、と嬉しそうでした。私たちは荷物を減らしたいもくろみもあって、彼が「もういいです」と言うまで、蜜柑をあげました。


眺め 南方向
南方向は太平洋。最高の眺めでした。


東方向
東方向は南国市。自動車道は県道14号です。
禅師峰寺がある辺りは南国市の十市(とおち)と呼ばれ、土佐湾の砂浜上に発達した地域です。昭和の初期からナスの加温施設による促成栽培が発達し、今でも野菜の施設園芸が盛んです。立ち並ぶハウスが、(ちょっと小さいですが)ご覧になれるでしょうか。


西方向
西方向は高知市です。写真奥が桂浜、浦戸湾の辺り。
こちらの写真では、ハウスがはっきりと見えます。


引き返し
この写真は、道に迷ったときに撮ったものです。どこをどう通ったかは、迷っていたので分かりませんが、50分ロスした、とメモ(遍路行記)に記しています。迷ったそもそもの原因は、あえて磁石を使わず、太陽の位置から方角を判断しようとしたことにあります。大失敗でした。


種崎へ
もうすっかり忘れていますが、次の様なメモ(遍路行記)があります。
・・渡し船の乗り場も近くなり、船待ち調整も兼ねて、コーヒーを飲むことにした。ちょうど喫茶店があったので入った。「歩き遍路に敬意を表して」干し柿を馳走してくれた。(この喫茶店で)雪蹊寺前の宿に予約を入れた。乗り場まで15分の所にいるので、16:45の船に乗る、と伝えて電話を切った。
よし、これで今日の行程は終わったようなもんだ、そんな気分で私たちはコーヒーを楽しんでいました。ところが、この後、もう一波乱あったのですが。


渡船場
16:30 渡船場に着きました。ところが、時刻表が改正されていたことが判明。船は17:15まではない、とのことです。浦戸大橋がこの年(H14)の7月12日から無料開放されたため、それ以降、渡し船は車を乗せなくなり、便数も減らしたのだそうでした。


浦戸湾
ともかく、待つしかありません。その間、あちこちを見て回りました。
ふたたびメモ(遍路行記)をご覧ください。・・浦戸湾の堤防は3Mほどの高さがあり、海は船乗り場を通して見えるだけである。堤防に登ることも出来ない。どこか開いた所はないかと探したら、釣り船屋の裏の水門が開いていた。そこから浦戸湾を眺めた。左方、湾の入口に浦戸大橋がかかっている。その先が桂浜。その先端に例の龍馬の像が立っているのだろう。右方が、よさこい節にも出てくる、御畳瀬(みませ)漁港だ。


乗船
・・17:05 男子高校生が自転車でやって来た。船に乗るのだろう。自転車を乗り口の辺に立てて、待合室でタバコを吸い始めた。ウーン。そのうち、船が対岸からやって来た。100トン程の船だ。バイクの男が2~3人、乗っている。接岸し開門すると、ブルーンと種崎の街に消えていった。今度は、種崎の街からバイクの男が3人程、やって来た。船の前方にバイクを持って行き、両サイドに詰めて置いた。4人がけの椅子があり、それに座った。自転車の若者も、作法を守り、きちんと自転車を片側に寄せている。これは感心。彼も座った。遍路の私達が乗り込んでも、誰も気にしない。椅子は満席になったが、車用スペースはまだ、だいぶ、ある。


浦戸大橋
・・17:15、出航間近、アリャー、来るは来るは、舟はたちまち、バイクでいっぱいになってしまった。自転車や歩きの人は少ない。通勤帰りの人達のようだ。年配者が多いが、一様ではない。バラバラの年齢、バラバラのスタイル、しかし、みんなバイクを進行方向に向けて跨っている。キッと前を向いている人、俯いている人、眼を瞑っている人、ボーとしている人。寒いから、話している人は少ない。見ていて、なぜか面白い。対岸が近づくと、待ちかねたように、誰かがエンジンをいれた。それを合図とするかのように、ブルン・ブルン・ブルルーン。次から次へ、エンジンがかかった。船のエンジンとバイクのエンジンが忙しい。ゲートが下りかかると、全員が前方を見た。ゲート・オープン。ブン・ブン・ブン。てんでに、我が家へ走っていった。


雪蹊寺(翌朝撮影)
・・最後に下船したのは、私たちと一人のおばあさんだった。もう暗い。浦戸大橋を行く車のライトが見える。
おばあさんが歩きながら、雪渓寺と宿への道を教えてくれた。おばあさんの速度に合わせて、私達も歩いた。しばらく歩いて、別れた。また薬屋があったので入ったが、やはり置いてなかった。(何かを買おうとして、何軒もの薬局を訪ねたみたいです。何か、は忘れました)。
・・17:30過ぎ 宿に着いた。女将さんが外で待っていてくれた。杖を洗ってくれた。時刻改正のことを話すと、電話を切って、あっ、と思ったそうだ。謝ってくれたが、謝るのはこちらだ。


雪蹊寺
おかげさまで、よく眠れました。朝食もよくとれました。今日は、今回区切り遍路の最終日です。清滝寺まで歩いて、高知空港から帰宅します。
7:25 雪渓寺に行くと岩手君がいました。住職さんが「眠れたか?」と尋ねているところをみると、通夜堂に泊まったようです。私たちを認めると、朝の挨拶をしてくれました。「蜜柑食べたかい」と尋ねると「はい、全部」との答え。またお接待しました。


種間寺へ
・・春野町に入った。名前の通りの風景が広がっている。民家が点在する。畑が広がり。山が見える。海が近い感じもただよう。女性が道を掃いている。公道を、ごく自然の感じで、自分の道でもあるかのように掃いている。


種間寺へ
・・格別の意味はないのに、なぜか記憶に残っている景色がある。春野での一場面がそうだ。休憩しているとき北さんが、道端に落ちているメジャーを拾い上げた。壊れているのですぐ元に戻した。ただそれだけの場面だが、北さんの表情、周りの景色などを、私は鮮明に覚えている。むろん北さんは忘れているだろう。というより意識にものぼっていない動きであったろう。あの壊れたメジャー、今もあそこにあるだろうかなどと、帰宅後の今も気になっている。


種間寺
9:10 34番種間寺 着。春野町の景色や種間寺のこと、また種間寺の奥の院のことなどについては、
(→H27春11) をご覧ください。


願い成就
天恢さんはかつて、お孫さんの安産祈願を二度、種間寺でなさったそうです。(H27春11)のコメントに、そう記しておられます。祈願の甲斐あって、二度ともが安産であったとのこと。
コメント時点で新一年生と年長さんだったお孫さんたちは、今はもう中学生と小学生でしょうか。大変な時代を生きねばならない子たちですが、種間寺のお薬師さんのご加護を戴いて、これからも元気で育ってほしいと思います。
底の抜けた柄杓は、安産成就のお礼に、妊婦が寺に納めたものだそうです。おかげさまで、通りがよかったです、ということでしょうか。


仁淀川へ
メモ(遍路行記)です。・・是非にも清瀧寺までは行かなければならない。このことがあるから、かなり真面目に歩いた。種間寺の滞在も、これまでよりは短かった。発とうとすると、岩手君がやって来た。しかし軽く挨拶しただけで、私たちは発った。仁淀川から引いた農業用水路は、流れが豊かだ。
・・10:33 仁淀川堤防にぶつかった。しばらく堤防沿いに歩き、仁淀川大橋を渡る。前方を、黒い菅笠をつけた遍路が歩いている。岩手君と雪蹊寺で同宿した人だ。


仁淀川大橋
・・橋を渡り、堤防を歩く。高岡町に降りてゆく手前で休憩した。


仁淀川
・・川を眺め、これから向かう清瀧寺の山を眺めていた。雲の影が山に映り、ゆっくりと移動してゆく。確かに、四万十川をしのぐ清流とも言える。なにかの本に、そう書いてあった。
・・発とうとすると、また岩手君が追いついてきた。「速いですねえ」と彼。「やるときはやるんだよ」と私たち。


仁淀川
・・「私も休もう・・」と言う岩手君に北さんが、「昼飯をお接待するよ。行こう」と声をかけた。押しつけがましくなく、いいタイミングだった。
岩手君は気軽に応じてくれました。北さんは、お別れに若い遍路を励ましたかったようです。


清滝寺の山
・・食堂を見つけて入った。私はピラフ、北さんはカレー、岩手君はカツカレー。コーヒーを飲んだ後、岩手君は「これからもマイペースで歩いてください。出来れば僕も、お二人のように歩いてみたいけれど・・」と話し、発っていった。
・・彼は青春18切符で盛岡からやって来て、野宿で歩き、30日までには(この日は12/26)盛岡に帰らねばならない大学3年生。化学専攻だという。帰りも18切符だから、2日がかり。のんびりとは歩いていられないわけだ。


清滝寺へ
清滝寺への登りですが、荷物がないことにお気づきでしょうか。たまたま出会った女性が私たちの行程を知って、「どうせ戻ってくるんじゃ、荷物、私のところに預かりましょうか」と言ってくれたのです。
荷物を担ぎ上げるのも、また修行、とは思いましたが、誘惑に負け、易きについたという次第です。


野球少年
地元・高岡中学の野球部と出会いました。監督さんが大声で「こんにちわー」と挨拶。続いて少年達が元気に、「こんにちわー」と挨拶してくれました。
登っていると、少年達が走り登ってきました。北さんが残酷にも「何回だい?」と声をかけると、苦しげに、「3回デッス」との応え。坂を3回、登り下りするのだそうです。すごい。


山門
明治33年(1900)建立とのこと。ここから斜度の厳しい石段が長くつづきます。


天井
清「滝」とくれば、やはり龍。地元の画家が描いたという「蛟竜図」です。
種間寺から清滝寺→青龍寺については、 (→H27春12) に、もう少し詳しく記しています。よろしければご覧ください。


到着
長い石段でした。今回の最終目的地、清滝寺に着きました。


清滝寺
まず自分たちのお詣りをし、次いで、夜須で頼まれた「代参」を勤めました。前号に記しましたが、夜須で出会ったおじいさんに、お賽銭を託されていたのです。


高知市方向
すばらしい180度の展望です。
しかし、何やら寂しい気持ちでもあります。これより下山。荷物を受けとって帰宅しなければなりません。
メモ(遍路行記)に、次の様にあります。・・八丁坂の下り、脚に不安なし。まだ歩ける。ここで帰るのは惜しい。もうひとイジメしたいところだ。
これは強がりではありませんでした。ここまで来て、ようやく脚が遍路の脚になってきた、そんな気がしており、だから本当に、惜しいと思っていたのです。


終点
今回、行当岬へのアクセスに苦労した反省から、ここを次回の歩き始めと決めました。時刻表を見るとバスの便数もけっこうあり、便利そうです。


ハナミズキ
はりまや橋で飛行機までの時間をつぶしていたら、ペギー葉山さんが植樹したハナミズキをみつけました。「南国土佐を後にして」の大ヒットをうけて植えられたものでしょう。私はこの歌が大好きでした。


かつての高知西武
残念なこともありました。西武百貨店が閉店していました。写真を撮った前日(12/25)のことです。
平成27年(2015)に見たときは、大きなパチンコ屋さんが入っていましたが、今はどうなっているでしょう。

帰宅は23:30頃。忘年会帰りの人で電車は混んでおり、大きな荷物を持っての帰宅はたいへんでした。これに懲りて、これ以降、空港からの交通は、高速バスを利用しています。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次回更新予定は5月26日です。前述の土佐市市役所前から宿毛まで歩きます。

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コメント (6)
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行当岬 不動巌 中山峠 神峯寺 大山岬 安芸 極楽寺 夜須 香取

2021-03-31 | 四国遍路

 
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後免町駅
平成14年(2002)12月20日 午後4時59分。私たち(北さんと私)は「ごめん-なはり線」の後免町駅にいました。
高知空港からバスでやって来たのでした。高知空港は、この翌年の11月、高知龍馬空港と改称されます。


阿佐線待望
ごめん-なはり線は、この夏(平成14年夏)に開通したばかりの新線でした。将来、阿佐西線たらんとの宿志を秘め、開通されたのでしたが、さて、いつのことになりますか。
阿佐西線とは、阿波と土佐を結ぶ鉄道の、土佐側の線をいいます。阿波側の線が阿佐東線で、西線・東線がつながると、阿佐線となります。
写真は、牟岐(徳島県)の辺りで見た看板です。


電車来る
次の発車は17:04発です。5分しかないとあって、高架に駆け上がりました。
それでもこんな写真を撮っているところを見ると、区切り歩き三回目にして、私たちもだいぶ鍛えられていた?
なお、時刻が入った写真が私の撮影。入っていないのは北さんの撮影です。


電車
車両のボディラインは、ごめん-なはり線各駅のマスコット人形です。
右端が、球場前駅の「球場 ボール君」。その左が、穴内駅の「あなない ナスビさん」・・といった具合です。なお後免町駅は「ごめん まち子さん」で、冒頭写真にその横顔が写っています。
遍路関連では、唐浜駅(とうのはま駅)の「とうのはま へんろ君」がいます。唐浜駅が、27番神峯寺の最寄り駅であることに因んでいます。その勇姿は、神峯寺の所でご覧いただきましょう。


奈半利駅
18:15、奈半利に着きました。遅着のことは、あらかじめ宿に伝えてあります。
ただし、しっかりしているようで抜けているのが私です。19年後の今、この記事を書こうとして、ようやく気づいたドジがあります。
私たちの宿(野根山二十三士の墓所近くにある)への最寄り駅は、奈半利駅ではなく、その手前の田野駅であることが、わかったのです。駅間距離が短いので、大した違いはないものの、遅れを気にしながら奈半利まで乗るのは、アホです。


野根山二十三士の墓所
ドジといえば、翌朝の行当岬行きバスのことも、記しておかねばなりません。行当岬は、今回の歩き始め地点です。
7:46の室戸行バスに乗るつもりでいたら、宿の人が「今日は土曜日だから、日曜ダイヤじゃないか」と話してくれました。
そうか、今日は土曜日だった。私たちは疑うことなく、「土曜日は日曜ダイヤ」を受け入れました。この年(平成14年)は、日本社会が週休二日制へ大きく舵をきった年で、例えば4月には、公立学校(小中高とも)が完全週休二日制に移行していました。ですから土曜日の日曜ダイヤ運行は、十分あり得ることと思われたのでした。


野根山二十三士の墓
私たちは、急遽予定を変更。8:25発のバスにあわせて準備し、余裕を持って、8:00過ぎに宿を出たのでした。二十三士の墓がある福田寺(ふくでん寺)の境内を抜けると、そこは国道55号で、すこし先にバス停があります。
*二十三士については、 (→H27春 2) をご覧ください。二十三士は、幕末の尊攘派の志士で、奈半利川河原で斬首されています。斬首は武士にとって、もっとも不名誉な死罪でした。


バス待ち
雨、風が強くなったので、後免-奈半利線の高架下でバス待ちをしました。ところがバスは、待てども待てども、やって来ません。
もうおわかりのこととでしょう。バスの運行は同年12月の時点では、まだ週休2日に対応していなかったのです。日本の土曜日は、休日扱いの土曜日もあれば、まだ「半ドン」の土曜もあったりで、中途半端な曜日だったのです。
結局、バスに乗れたのは9:10であったという、お粗末なドタバタですが、今は懐かしく思い出されます。


行当岬
9:49 行当岬着。雨風ともに強いので、小屋型のバス停を借り、雨合羽を装着しました。後に知った情報では、この時間、室戸岬で瞬間最大風速45Mの風が吹いたとのことでした。
写真の建物はバス停ではなく、トイレです。数日後に出会った野宿遍路の岩手君が、・・あのトイレで洗濯させてもらいました・・と語ってくれたトイレ。それが、これです。寝たのは、むろんバス停とのことでした。


不動岩
10:10過ぎ、不動岩着。
かつて女人堂として賑わったお堂です。明治初めまで、26番金剛頂寺に参る女人は、(女人禁制なので)ここで納経したといいます。
不動岩については (→H27春6) に、もう少し詳しく記しています。よろしければご覧ください。建て替えられた新しいお堂、女性のみで寄進した道標なども写っています。



今回最初の般若心経を唱えました。まだうろ覚えのため、文字通り「読」まねばならないのですが、暗くて苦労でした。
線香とローソクは、相談の上、火の用心のため消しておくことにしました。これは秩父を廻ったとき(前号)、無住の札所で学んだことでした。



当時のメモに、不動岩の上に登るルートを探したことが記されています。けれど、登ったとは記していませんから、「ルートを探したが、登ら(登れ)なかった」のです。
思うにこの頃、私(たち)はまだ、「若い頃」の記憶を引きずっていたようです。ルートを探したのが精一杯の若さ。そして登らなかったのが、歳なりの分別だったでしょうか。
あれから19年。私(たち)の「若い頃」は、はるか遠くなりにけりです。嫌も応もなく、無理せず生きる術が身についています。


羽根岬大山岬
不動岩は行当岬の西海岸にあります。よって、ここから後方の室戸岬は、見えません。
写真は前方の景色です。手前が羽根岬、奥が大山岬です。


枇杷
この辺では枇杷の栽培が行われているようです。
数年後、初夏に歩いた時は、実の一つ一つに袋掛けがされていて、まるで袋の花が咲いているようでした。


吉良川
東ノ川と西ノ川に挟まれた吉良川については、 (→H27春7) をご覧ください。水切りがついた白漆喰壁の民家や石ぐろ塀、御田八幡神社などについて記しています。
「石ぐろ」の「ぐろ」は、’ものを積み重ねる’ことを意味するようです。よって「石ぐろ塀」は、「石を積み重ねた塀」、となります。「石ぐろ漁」は、「石を積み重ねてウナギなどを獲る川漁」です。


御田(おんだ)八幡宮
社名の「御田」は、この神社が伝える御田神事から来ています。拝殿の間口が広いのは、板戸を開けば、そこが御田神事を奉納する舞台に変わるからです。
より詳しくは、上記(→H27春7)のリンクからご覧ください。


映画館?
映画館だったでしょうか?無惨ではありますが、懐かしく、撮ってしまいました。
この映画館?は、正面のみに西洋建築風の装飾がほどこされた、「看板建築」などと呼ばれている建物です。大正末期(おそらく関東大震災を機に)東京で始まり、地方にまで広がった工夫で、商店街や映画館で多く見られました。


大根
大根の長さが珍しかったのでしょう。
こんなことをしているから、なかなか前に進みません。この日も宿に着いたのは、日暮れてでした。


羽根橋
14:00頃 羽根橋通過。
海から川筋を通って風が吹いてきます。菅笠のみならずお杖までもが、持ってゆかれそうになりました。この頃はまだ菅笠やお杖が、「身について」いなかったのです。
前方に見える尾根筋は、前述の羽根岬です。羽根岬を越える道は古くからある道で、中山峠道と呼ばれています。


中山峠へ
羽根岬には、明治期、海沿いの道が通りましたが、それまでは、中山峠が唯一の岬越えの道でした。



峠の上には、かなりの平地があり、畑になっていました。また、理屈抜きに納得したのですが、先祖代々の墓地がありました。墓は、子孫たちの暮らしを見守る、高みにあります。


行当岬 と室戸岬
行当岬 (手前)と室戸岬が見えました。
24番最御崎寺を東寺(ひがしでら)と呼び、26番金剛頂寺を西寺(にしでら)と呼ぶことについて、五来重さんは、・・室戸岬と行当岬を、「行道」の東と西と考えたのが東寺・西寺と名付けられた理由だと思います。・・と、「四国遍路の寺」で話されています。
東の室戸岬と西の行当岬の間を行道する(何回も往復し修行する)うち、修験者たちは室戸岬の寺(最御崎寺)を東寺と、行当岬の寺(金剛頂寺)を西寺と呼ぶようになったようです。


空から見た東寺岬と西寺岬
東寺-西寺の呼称は、さらに岬の呼称にも及び、室戸岬は東寺岬とも呼ばれ、行当岬は西寺岬とも呼ばれるようになりました。
東寺岬と西寺岬の間の10キロほどは、修行空間として一体化し、東寺-西寺も、合わせて一つの寺として、機能したと思われます。
五来さんは、・・平安時代、(ここには、東寺と西寺の)両方を合わせた金剛定寺(金剛じょう寺)の一ヶ寺しかありません。・・と語っておられます。なお、行当岬の「行当」が「行道」の転であるのは、言うまでもありません。


進行方向
湾曲した長い海岸線です。向こうに見える陸地は、どの辺りなのでしょうか。


石畳
石畳は、急坂にこそ敷かれるものです。道が崩れやすいのは急坂だからです。
下りでは、足下が悪くならないのはうれしいですが、滑りやすくて恐いですね。この時は雨上がりだったので、なおさらでした。
この峠を下ると、古くから栄えた加領郷です。弘法大師霊跡があります。


加領郷
加領郷は、今は加「領」郷と書きますが、昔は加「漁」郷だったそうです。
言い伝えでは、江戸時代の初期、人たちはまず、林業でこの地に入植したのでしたが、やがて沖合海域が豊かな漁場であることをしり、林業に加えて漁業も始め、栄えたのだそうです。
それでこの地は加漁郷と呼ばれはじめたのだそうですが、では、いつごろ加領郷と書くようになったかは、わからないようです。なお、加領郷については、よろしければ、 (→H27春7) をご覧ください。加漁郷時代を彷彿させる、網元の家なども紹介しています。


霊跡
15:20 弘法大師霊跡
峠道を降りてくると、大きな石碑があり、「弘法大師霊跡」とあります。碑の向こうの岩礁上に、小さな大師堂が建っていて、岩屋御盥石仏が祀られています。
そこから眺めた岩礁に直径1㍍ほどの甌穴があります。この甌穴は、御盥石と呼ばれる穴です。この穴に大師が水を溜め、洗濯されたと伝わっています。
なお、道を挟んだ山側にも、大師堂らしき堂が建っています。嵐に備えて建てた、避難用の大師堂でしょうか?


警報
訓練ではない本物の警報の、発せられる時が来ませんように。


奈半利安芸方向
朝の出発点、奈半利が見えてきました。当時のメモに、次の様にあります。
17:00前、奈半利の街に帰ってきた。バス代900数十円、乗車時間35分の区間を歩いたのだ。早速、宿で場所を借り、パッキングのし直しを始めた。蛍光ベルトを出し、ザックに取りつけた。コーヒーを入れてくださるというので、ごちそうになった。こういうこと(人との交わり)は積極的に受け入れる。


宿着
そんなこともあって、唐浜の宿に着いたのは遅く、18:20でした。申し訳ないことでした。
この頃は、宿への遅着がひんぱんにありました。遅くなってもいいと考えていたのではなく、歩き方を知らなかったのだと思います。気づくと、もう手遅れの時刻になっているのでした。
あれから19年。今では予定と実際の歩きは、ほぼ合致しています。遅着は、よほどのことが起きない限り、ありません。


神峯寺へ
おかげさまで元気を回復することができました。
今日は、まず27番神峯寺に登ります。荷物は宿に預けました。


神峯寺へ
遍路転がし、真っ縦と怖れていた神峯寺道が、徐々に高度を上げてゆきます。
ふり返れば、(海の碧がうまく出ていないのは残念ですが)、それはすばらしい景色が見えています。


登り口
これからが本格的な登りです。道標に、
  これより車道 1.8粁
  これより歩道 1.3粁
とあります。この時は気づきませんでしたが、S字状に蛇行する車道を、真っ縦の道が$状に切っているのでした。ですから真っ縦の道を進んでも、車道に出る度に息継ぎができますので、それほど苦しさは感じないですみます。


真っ縦へ
どなたの句でしょうか。
  山路ゆきて 金剛杖の音 頼もしき  
北さんは歩道が狭い古いトンネルを抜けるとき、勇気を鼓舞するように、コンクリート面を金剛杖でカーン カーンとたたくことがあります。さながら、
  トンネルをゆき 金剛杖の音 頼もしき です。


奈半利
奈半利の街です。この道は本当に景色が楽しめます。


神社と寺
右、神峯神社。左、神峯寺です。
右に進む人は、ほとんどいません。


神峯神社へ
ます神峯寺にお参りし、名水をいただき、神峯神社へ向かいます。


樹齢
樹齢900年の大楠と教わりました。


神峯神社
神峯寺・神峯神社については、 (→H27春7) をご覧ください。神峯神社の発生にもかかわる燈明巌や磐座などもご覧いただけます。


砲弾
神社や忠霊塔などで、砲弾が奉納されているのをよく見かけます。私は長く、これは旧日本軍の砲弾だと思っていたのですが、間違っていました。
これら奉納された砲弾は、日清日露戦争での鹵獲品なのだそうです。ぶんどった多数の砲弾を持ち帰り、全国の神社や忠霊塔などに配ったのだと言います。敵の戦力を削いだ証として砲弾を奉納し、さらなるご加護をお願いしているのでしょうか。


奈半利
より高いところから見た奈半利です。


高知湾
これより下ります。


同行二人
神峯寺へんろ道を特徴づけるオブジェです。高知大学教授の舩木直人さんの作品だそうです。平成11年(1999)に奉納されています。私たちが歩く3年前です。


東谷へ
東谷まで降りてくると、農作業の人が聴いているのでしょうか、ラジオか大きく聞こえました。よくある風景です。
メモによると、ラジオはその時、高校駅伝を実況していたようです。その年の優勝校は、調べてみると、男子は西脇工(兵庫) 、女子は筑紫女学園 (福岡)でした。


ねずみ対策
「忍び返し」から思いついた名前でしょう。これ、「ねずみ返し」というそうです。ネズミに限らず、小動物が登って電線をかじるなど被害が出ることがあります。そのための対策です。


後免-奈半利線
降りてきました。これより宿で荷物を受け取り、安芸に向かいます。


唐浜(とうのはま) へんろ君
神峯寺の最寄り駅、唐浜駅に立つマスコット人形。名前は、「とうのはま へんろ君」です。


安芸市
安芸市に入ります。ただし市域は合併で広がっていますから、旧市街までは、まだだいぶあります。


後免-奈半利線
これより野市まで、遍路道と後免-奈半利線は、数カ所で交差しますが、ほぼ平行しています。
遍路道は、国道55号のこともありますが、多くは防波堤の道だったり、松原を抜ける道であったりで、楽しい道です。


足摺方向
足摺岬方向と書いてはみたものの、正確にどの方向であるかは、まるで分かっていません。
ある程度の見当がついたのは、この後、大山岬で教わってからです。私の見当は、まさに見当違いでした。


下山駅
この辺は国道55号が遍路道です。


大山岬
13:00過ぎ、大山岬に着きました。ここで昼食です。
食堂のご主人夫婦は遍路に詳しい方で、実際に修行もされているそうでした。いろいろ話をして下さるだけでなく、私たちが話すことはメモされていました。これから来られる方へ参考として話します、とのことでした。参考になるほどの話はしていないのですが・・。


食堂から
海側は4枚のガラス張りになっていて、太平洋がパノラマで眺められます。私が一番右のガラスを指しながら、あの辺が安芸ですか、と問うと、ご主人は少し訂正し、正しい位置を教えてくれました。次に、2枚目のガラスを指しながら、この奥の薄く見える影が足摺岬ですか、と尋ねると、今度は、いやいや、と全否定し、3枚目と4枚目の境の辺を指しながら、この方向の沖に大きな船が見えましょう、あの船から線をずっと引いてゆくと、ほら、薄く見える、あれが足摺岬ですよ、と言います。
遠い、なんて遠いんだ。私たちは、前途遼遠を実感したのでした。


磯釣り
14:00近くまで食堂で停滞の後、出発。
磯釣りの風景などを楽しみながら岬の坂を下ると、防波堤歩道への分岐がありました。
むろん国道は却下。防波堤歩道を選びました。しかし、しばらく行くと・・


伊尾木駅側の踏切
この時の、次の様なメモが残っています。
・・(防波堤の道を)行ったら、工事中で通れないことがわかった。やむなく引き返していると、車の人が降りてきて、自分が見てあげるから、ついてきなさいと言う。せっかくだから海沿いを行った方がいいよ、といいながら工事現場に入って行き、大丈夫、大丈夫、私が言っときますから、さ、気をつけて行きなさい・・。 誰に云っとくのかはわからないが、ご親切に甘え、工事中の部分を渡った。
ありがとうございました。おかげさまで堤防沿いの道を約4.5キロ、楽しく歩くことができました。


伊尾木川橋
堤防の道は伊尾木駅で終わりになります。駅側の踏切を渡り、国道55号に復帰。
これより旧安芸市街を通過するまでは、国道を歩きます。


ハングライダー
伊尾木川の川風を利用しているのでしょうか。ハングライダーが気流をうまく捕らえて飛んでいました。トンビのように舞いながら上昇しています。
どこから飛び立ったのかは、調べてみましたが、わかりませんでした。


安芸川橋
安芸川を渡ると、安芸市の旧市街です。


安芸駅
16:00過ぎ、安芸駅近くの宿に着きました。各所でゆっくりしたわりには、明るいうちに着くことができました。まあ、距離が短かかったからですが。
明朝は、安芸駅ぢばさん市場で無料のレンタサイクルを借り、旧安芸市内を見学して回ります。


野良時計
野良時計、岩崎弥太郎生家、土居廓中・武家屋敷などを、2時間半ほどかけて見学しました。
その内容は (→H27春 8) にまとめてありますので、そちらをご覧ください。実は13年後にも、またサイクリングを楽しんだのです。


堤防の道
11:00頃、ザックを担ぎ歩きはじめました。
すこし長くなりますが、当時のメモを記します。
・・旧安芸市街を出ると、道は堤防の道となり、やがてサイクリングロードに続いてゆく。ここから夜須町まで、約15kの道である。左に海を見ながら歩くが、一様ではない。堤防は、遠浅の砂浜になっているところでは、腰よりちょっと上くらいの高さだが、場所によっては3Mもの高さになり、堤防の向こうはテトラポットの山で、波が砕けている。

工事
・・私たちがまだ遠くにいるときから、工事をずっと見ているおじさんがいた。通りがかりに挨拶をすると、「どこから来たん?」と問われ、あとはヒマな者同士? 取り留めのない話が長くつづいた。
・・土地の人に出会ったら、かならず一声挨拶する。車の人へも会釈で挨拶する。・・いつしかこれは、私たちの「決め」になっていた。挨拶がきっかけとなって始まる会話を、私たちは楽しんでいたのだ。


穴内郵便局
・・穴内の辺で、パラパラと雨が降り始めた。サイクルロードでは雨の避けようがなく、一度国道に出て、適当な場所を探した。幸い穴内郵便局を見つけることができて雨宿り。10分ほどで止んだので出発した。しかし雨は、また降ると思えた。濃い雨雲が見えている。
この観天望気は、不幸にして当たりました。後述しますが、私たちは夜須で、土砂降りの雨に見舞われます。
なお、この日は12月23日で、天皇誕生日だったのです。それで日の丸が掲げられています。


八流山極楽寺
八流山(やながれ山)極楽寺は真言宗醍醐派の寺院。本尊は波切不動明王で、四国三十六不動霊場の第15番札所になっています。創建は大正12年(1923)。


草紅葉
極楽寺近くの食堂で昼食をとりました。北さんは「かつおめし」、私は「どろめ汁」を食べたようです。


行く先
中段の岬が、手結岬でしょう。あの岬を越えて、降りた先が夜須です。


赤野川
奥に、後免-奈半利線が見えています。小公園で遊んでいる子供たちが大声で何か叫びながら、手を振ってくれたのを覚えています。


伝馬船
砂浜に網を広げて繕っている漁師さんがいたので尋ねてみると、陸揚げしている漁船で4k程まで沖に出る、とのことでした。船には艪杭(艪をこぐとき支点となる小突起)も付いていますが、むろん艪ではなく船外機を使います。
・・魚が少なくなって、沖に出んと獲れんのよ。けど、出たら出たで燃料代がかかるしなあ。獲りすぎよ。獲りすぎたんよ、原因はわかっとる。・・と、自嘲とも怒りともつかぬ表情で話されました。

松原
この辺には松が植林されています。野中兼山の時代から植え足してきた「潮害防備保安林」です。



猫がたくさん捨てられるようです。


来た道
室戸岬→行当岬→羽根岬→大山岬→手結岬 と歩いてきました。


行く方向
この辺の浜は、波の引く音が琴を奏でる音にも聞こえることから、琴ヶ浜と呼ばれるそうです。
右下の建物は、海水健康プールの屋上です。海の側にプールがあるなんて、瀬戸内海側の人には、考えられないことでしょう。


土佐電鉄
和食川を渡る土佐電鉄安芸線の電車で、昭和42年(1967)撮影されたもののようです。安芸線は、後免と安芸を結んでいましたが、昭和49年(1974)、廃線となっています。
その線路跡は、まずサイクリングロードに転用され、まだ計画段階の後免-奈半利線にも使われました。


手結山越え
国道55号と後免-奈半利線は、ほぼ並行して走ってきましたが、手結山(てい山)では別れます。後免-奈半利線はトンネルを抜け、55号は山越えをします。遍路道は55号です。


夜須
手結山を越えると、夜須(やす)です。
標識には「こころのYASUらぎのまち」とあります。これより1.5キロです。


サイクリング道入口
夜須サイクリングセンターへの分岐です。この道は、トンネルも含めて、土佐電鉄安芸線の線路跡です。


手結港可動橋
手結港の辺りを、サイクリングロード(元安芸線の線路)から写した写真です。街を見下ろしているところなどは、電車の車窓から撮った一枚と見えなくもありません。
突っ立っている妙なものは手結港の可動橋ですが、何か分からぬまま過ぎていった人も多いでしょう。この時の私たちもそうでした。


手結港可動橋
少し先で数人のお年寄りが座りこみ、何やら「談義」しているのに出会いました。
北さんが、「ありゃ、何ですか?」と尋ねると、おばあさんが、よくぞ尋ねてくれたと言わんばかりの表情で、「橋ですがあ」「今、開いとる・・」と教えてくれました。他の人たちも、「めったにないもんじゃけん」「今でも動いとる」「ぐーっと下がってくるんよ」など、口々に続けます。どうやらこの橋は、皆さんの自慢であるようです。
より詳しくは、 (→H28春8) をご覧ください。なお、下の写真は、後年、撮ったものです。



ヤッシーパークに入ったとき、また雨が降り始めました。穴内の時よりも激しい降りです。
たまらずコーヒー屋さんに避難。雨が止むのを待ちました。(写真の高架上の建物は夜須駅です)
小止みになったので出ようとすると、おじいさんがやって来て、私達それぞれに100円づつ渡しました。どこかの札所で賽銭として投じてくれ、とおっしゃいます。ご自分は脚を悪くし、遍路には出られないのだそうでした。
私たちでよければと言って受けとり、今回の打ち止め寺、35番清滝寺で投じさせてもらいました。しかし、はてさて、「代参」の役目ははたせたのでしょうか。


玉錦の墓
三十二代横綱 玉錦三右エ門墓です。高知市出身の人で、努力の末、横綱になりました。双葉山連勝阻止の一番手と目されていましたが、果たせてはいません。
玉錦の相撲を、私はほとんど知りませんが、亡くなったときの様子は、大人たちからよく聞かされて覚えています。それは、安政地震津波の「稲むらの火」譚などとともに、教訓話の一席として、語られていたのでした。
・・玉錦は盲腸なのに風呂に入ったんじゃ。もっと悪いことに、痛いけん、もみほぐそうとしたんじゃな。それでよけぇ、わるーなった。ええか、あの横綱が死んだんぞ。盲腸は恐い。お腹のこの辺が痛かったら、風呂に入ったらいかん!覚えとけ!

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。宿はすぐ近くではありますが、またもや、すっかり暗くなっています。ホント、駄目な遍路であったと、今更ながら思います。
次回更新は4月28日の予定です。今号のつづきで、28番大日寺から35番清滝寺までを、ご覧いただくつもりです。

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秩父三十四ヵ所観音霊場 ③

2021-03-03 | 四国遍路

 
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横瀬駅  
今回もまた快晴に恵まれました。
秩父観音霊場巡りの三回目、初日は西武鉄道の横瀬駅(よこぜ駅)から始まります。
横瀬は、平成15(2003)の秩父市を中心とする大合併に参加せず、今も秩父郡横瀬町です。他に合併していない町村は、皆野町、長瀞町、小鹿野、東秩父村があります。吉田町、荒川村、両神村、大滝村は合併し、秩父市となりました。


9番明智寺
明智寺の本尊は、如意輪観音菩薩です。「安産子育ての観音さま」として広く知られており、次の様な譚が伝わっています。
・・一条天皇の御后が難産で苦しまれたとき、恵心僧都が香木に如意輪観音像を刻み、安産を祈願しました。すると如意輪観音さまは願いをききとどけ、御后は無事出産することができました。
観音堂が六角堂であるのは、如意輪観音の6手に因んでのことでしょう。6手は、六道のすべてに差し伸べる、救いの手と考えられています。


明智寺の文塚
「文塚」は、・・詩文などの草稿を埋めて供養や記念のために建てた塚のこと・・ですが、明智寺の文塚は、女性が苦しみ事を書いて納めると、それを如意輪観音さまが、(一条天皇の御后を救われたように)受けとめてくださり、苦しみから解放される、そんな文塚なのだそうです。いかにも女性に優しい、観音霊場の文塚です。


明智寺の板碑
板碑は「碑」ではありません。供養塔です。死者を追善供養するものと、生前に逆修供養するものとがあります。その祖型が五輪卒塔婆にあると考えられることから、板石(卒)塔婆とも呼ばれます。
鎌倉時代から室町時代にかけて多く建てられ、(なぜかは分かりませんが)戦国時代には忽然と姿を消しています。建立者は、初期には在地領主層でしたが、15C 以降は、農民へも広がっていたようです。
北海道から九州にかけて、全国の各地に分布し、地域により型も異なります。私は徳島の由宇(東由岐)で九州型の板碑を見ましたが、それは形状も石材も、写真の武蔵型板碑とは、まったく異なるものでした。 →(H26秋 2 )  


埼玉県毛呂山の青色塔婆(延慶板碑)
武蔵型板碑とは、旧武蔵国(埼玉、東京、神奈川の一部)に多数残存する板碑です。石材が青石(緑泥片岩)であることから、青石塔婆と呼ばれています。残存数は4万枚とも5万枚とも言いますから、造られた枚数は、4-5万枚を相当超えた数であるはずです。板碑の「流行」がすぎた頃、どぶ板代わりに板碑が「廃物」利用されたなどの話も残っているので、相当数が廃棄されたり、紛失したりしているでしょう。


埼玉県蓮田の青色塔婆(寅子石)
中世の人たちが青石を使った理由は、二つ考えられます。
一つは、(風化しやすいことと裏腹ですが)加工しやすいことです。まるで木の板のような石の板を作ることが出来るのも、剥離しやすいなどの特徴を持つ、青石(緑泥片岩)ならではのことです。当然、細かい細工が可能で、美しい仕上がりが期待できます。
もう一つは、この石がもつ「青」の深さ、美しさに、中世の人たちが惹かれていたということです。「青」の中に、神秘的ななにか、・・例えば邪を祓う霊力のようなもの・・を感じとっていたのではないでしょうか。


寅子石の裏面
武蔵型板碑で使われる青石は、秩父産の青石、つまり秩父青石です。
取れた青石は荒川の舟運などを使い、遠隔の武蔵国各地に運ばれました。写真は寅子石の裏面ですが、線状の刻みが入っています。運ぶとき の縄かけがうまくゆくよう 、入れたのでしょう。刻まれている文字は「銭已上百(イ+百)五十貫」です。「貫」は重さではなく、建立に要した費用です。
銭をかけ手間をかけてでも運んでくる。それほど秩父青石の「青」は魅力的だった、ということでしょうか。


阿波青石  
徳島の市場町(阿波市)を歩いていたら、たくさんの板碑にであいました。 →(H26春 その2)  いずれも武蔵型の青石塔場です。
ここにも青石の「青」に惹かれた人たちがいた、そう思って調べてみたら、徳島は「阿波青石」の産地なのでした。例えば眉山は、全山青石だといいます。吉野川中流域のある所は、川底のすべてが青石であったりするそうです。
写真は阿波市市場町の神社で見かけた石段です。ふんだんに青石が使われています。青石の石段を抜けて邪を祓い、神の領域へと入ってゆくのでしょうか。


10番大慈寺石段 
大慈寺のご本尊は、聖観世音菩薩です。
前号で記した8番の本尊・十一面観音像、前掲の9番本尊・如意輪観音像と同様、本寺の聖観音像もまた、恵心僧都御作と伝わります。
もしかすると恵心僧都にかかわる何かが、・・例えば秩父を巡錫されるなどのことが・・あったのではないでしょうか。(後述)


10番大慈寺
大慈寺では、ご本尊の御利益もさりながら、その脇に侍する子安観音菩薩の御利益が、広く知られています。子を抱く姿の子安観音は、「子育ての観音さま」として、篤い信仰を受けているそうです。
安産・子育て祈願をされる方に便利なよう、9番10番と「子育て観音」がつづいています。


11番常楽寺へ
11番常楽寺へ向かいます。9番10番は横瀬町にありましたが、11番は秩父市になります。


11番常楽寺
11番常楽寺は、江戸末期までは天台宗の寺だったそうです。一度(明治11年の秩父大火の時でしょうか?)廃寺となりましたが、その後、曹洞宗の寺として復興しています。当寺に今も元三大師が祀られているのは、元は天台宗であった御縁でしょう。
本尊は十一面観音菩薩で、病気平癒と長寿祈願の守護仏として信仰をあつめているそうです。


常楽寺の厄除け札 
   厄除元三大師  秩父十一番
曹洞宗のお寺・常楽寺が配る、厄除元三大師のお札です。元三大師が、骨と皮に痩せさらばえた夜叉と化し、疫病神を追い払っています。


11番常楽寺
前に、恵心僧都がこの地を巡錫された可能性について記しました。恵心僧都は、当寺に祀られる元三大師の高弟で、四哲のひとりとされた僧ですから、師を慕い、この地に天台の教線を延ばそうと、来秩された可能性は高い、と思うのですが、どうでしょうか。
その時の記憶が、「恵心僧都御作の像」として、8番、9番、10番に伝わっている、・・などと考えてみるのも楽しいではありませんか。


11番常楽寺
一家でお詣りです。
この日は11月14日で、埼玉県民の日だったのです。それで高校生の息子さんも同行しています。


景観
常楽寺から見た北方向の景色です。大宮郷の向こうに長尾根が見えています。長尾根の向こうに、小さく両神山も見えます。


12番野坂寺へ登り口
12番野坂寺への登り口です。
説明板によれば野坂寺には、次のような縁起があるそうです。
・・昔、秩父の山路で賊に出遭った甲斐の商人が、お助けくださいと一心に観世音を唱えると、不思議や、賊難を免れることができました。商人は観音のご利益を敬い、甲斐より秘蔵の聖観音像を当所に安置し、この寺を建立しました。
本尊の聖観音像は、等身大、杉の一木造りで、藤原時代の作とされています。


本堂
山門は、白壁に花頭窓が印象的な二階建て楼門です。これを入れば、美しい庭園の境内が広がっています。
が、あいにく私たちが訪れたとき、寺の関係者らしい方の大きなお葬式が行われており、そこでパチパチ写真を撮ることは、憚られました。そのため野坂寺の写真は、この一枚だけです。



野坂寺から秩父鉄道沿いに、26番円融寺へ向かいます。


26番円融寺・岩井堂
長享番付には、当寺は・・第6番札所岩井堂・・と載っているそうです。26番ではなく6番で、円融寺の名は載っていません。その後、室町時代に円融寺が創建され、江戸時代に入って岩井堂の別当寺となり、また番付改めもありましたので、現在は、26番 円融寺・岩井堂、となっています。岩井堂は、円融寺の奥の院という位置です。
本尊は聖観世音菩薩で、この像も恵心僧都御作と伝わるそうです。今は本堂(白壁の建物)に祀られていますが、かつては岩井堂に祀られていました。


本堂白壁
すでにお気づきと思いますが、秩父の札所はどこも、千社札がいっぱいでした。円融寺本堂もまた例にもれず、白壁にはたくさんの札が貼られていました。
ところが、たまたま最近の写真を見てみると、新しい壁に、札は一枚もありませんでした。壁を塗りかえて以降、千社札禁止を徹底しているのでしょう。どうやら秩父札所の千社札の問題は、徐々に改善されつつあると見えました。


岩井堂への石段
岩井堂(観音堂)への道を、私のメモは次のように記しています。
・・本堂から山伝いに歩き、昭和電工の敷地に一度入った。岩井堂への登り口は、この敷地内にある。グリーンベルトの道を歩くと、会社の門衛さんが道案内書を手渡してくれた。かなりの傾斜を上り、分岐を左にとってすこし登ると岩井堂だった。
「かなりの傾斜」は、この石段のことでしょう。300段あるとのことです。


岩井堂(観音堂)
弘法大師は秩父巡錫の砌、当所に立ち寄られた、そう伝わっています。まだ堂宇はない時代で、岩上に護摩壇を設けて、21日間、修法されたとのことです。
堂宇を建立したのは、恵心僧都だと伝わります。恵心僧都は、ここでもまた聖観音像を刻み、堂に納めたとのことです。(その像は前述のように、今は下の本堂に祀られています)。
山内には、(私は見ることができませんでしたが)弘法大師の護摩壇石や仏国禅師の座禅石も残っているとのことです。


岩井堂(観音堂)
岩に彫り込んだ壇に、小さな石仏が並んでいます。
ちょうどそこに光が一条射し込んでおり、思わず写真を撮らせていただきました。


灰皿
27番へ向かいます。琴平ハイキングコースをたどることとしました。
写真は、消化器を利用した灰皿です。この頃(20年ほど前)はタバコの投げ捨てを防止するため、各所に灰皿が設置されていました。まだ「禁煙」ではなかったのです。実は私もまだ、スモーカーでした。それもヘビーな。


鎖場
琴平ハイキングコースは、武甲山の山裾を南西に歩くコースです。
短い鎖場もあったりして、けっこう楽しめます。


護国観音
私たちは今、護国観音の足下にいます。
独尊の観音さまの持物は、普通、蓮の花や水瓶、杖、宝珠などですが、この観音さまは、剣を持っています。剣を以て国を護る観音さまです。名前の由来は、建立が昭和10年(1935)であることを知れば、肯くことができます。
  昭和6年:満州事変が勃発   →   (昭和10年護国観音建立) 
  昭和12年:日中戦争が勃発   →     昭和16年:太平洋戦争へ。
日本は戦争拡大の一途をたどっていました。


慰霊碑
観音像の傍に、戦没者慰霊碑が建っていました。
  歩兵七十五連隊比島戦没者慰霊碑
  歩兵七十五連隊通信隊戦没者之碑
31番近くの宿で出会った、78才の男性を思い出しました(前々号)。戦死した兄さんの供養をしながら歩いているそうでした。自らも徴兵され、苦労の末、復員されましたが、通信兵であったため「鉄砲の一発も撃たず、申し訳ないようなものですよ」と語りました。


大宮郷と長尾根
観音さまが見ておられる、北方向の景色です。
写真の中段を荒川が流れ、その両岸に大宮郷の街並みが広がっています。その奥に見えるのが長尾根で、またの名を尾田蒔丘陵(おだまき丘陵)といいます。寺尾、田村、蒔田(まいた)の各地区から(仲よく)一字ずつとって名付けた名です。長尾根の向こうには、百名山の両神山が小さく見えています。


秩父ミューズパークちびっ子広場
秩父ミューズパークのちびっ子広場です。けっこう広々とした公園ですが、この公園、実は長尾根の尾根筋に設けられています。尾根筋は普通、狭い道が通り、両側が落ちているものですが、長尾根では、尾根筋にこんな広い平地がつづいているのです。ぜひ地図で確認してみてください。
なぜこのような地形になっているのか調べてみると、どうやら長尾根は、荒川が造った河岸段丘のうち最古(50万年前)の上位段丘で、広場がある平地は、およそ50万年前の、荒川の河床らしいのです。だから平地が長く伸びています。地学などに関心を持つ人にとって秩父は、たまらなく魅力的な土地なのでしょうね。


荒川にかかるハープ橋から見た大宮郷
ここは、大宮郷が広がる荒川の低位段丘です。高位段丘との高度差は、およそ150㍍です。およそ50万年かけて、荒川は自らの河床を150㍍、下げてきたようです。
私が河岸段丘を実感したのは、四国の10番切幡寺から11番藤井寺へ歩いた時でした。吉野川への長い下り、そして吉野川からの上り。吉野川が造った河岸段丘を横切ったのです。大きかった。河食作用恐るべし、と実感したものでした。


大宮郷
ラッキー! 写真を撮っていたら、そこへSLが走ってきました。この日は県民の日で、熊谷-三峰口間を、SLが走っていたのです。
列車は、機関車だけでなく客車も、古いものを使っているのですが、乗り心地には、昔と違うところがあるそうです。まず、一本の線路の長さが、昔よりも格段に長くなっているため、あの忙しないガッタンゴットン の音は、聞くことはできません。次に、良質の石炭が使われているため、昔ほどススや臭いが酷くないそうです。


27番大渕寺山門
SLに、みんな大喜びしたのですが、大正8年(1919)、蒸気機関車の出す煤煙が原因で、大淵寺の月影堂(観音堂)が焼け落ちたと聞いては、喜んでばかりもいられません。


影森用水
山門の前を影森用水が通っています。説明板に次のようにあります。
・・安政4年(1857)、当時の上影森村名主の関田宗太郎氏が、戸数82の同村に二ヶ所の井戸があるばかりで、飲料水その他に困っているのを見て、私財をもって、三輪谷より水路を通じて村内に給水したもので、これによって上下影森の人々の飲用水の便はもとより、作物をつくるにも、非常な恩恵を受けました。


27番大淵寺(月影堂)
案内板には、・・この寺は明治、大正と二度にわたる大火で、堂宇のすべてを焼失。その後は本堂・観音堂を兼ねた仮堂として再建されていたが、平成7年(1995)裏山を切開き、三間四面宝形屋根の観音堂が再建されました。・・とあります。「大正の大火」が、おそらくSLによるものでしょう。


27番大渕寺  
同じ案内板は、次のような縁起を紹介しています。
・・その昔、行脚の僧宝明、諸国をめぐり、この地に霊境の多いのにうたれ、春秋7年を過ごし、思わぬ足の病となり、行住坐臥して念誦するのみとなりました。弘法大師この地に至りてこれを愍み、一体の観音を刻みて与えました。宝明は悦び、吾一人拝するはもったいなしと里人に伝え、一宇の堂を建て本尊を祀り、宝明を第一祖とした。
ここにも弘法大師の「足跡」が残っています。


延命水
1粒100メートルどころじゃない。一口飲むと33日長生きができるという、延命水です。
なお長命水の方は、3番常泉寺でいただくことができます(前号)。34番水潜寺でもいただけましたが、今は立ち入ることができないようです(後述)。


28番橋立堂
28番橋立堂は、切り立った岸壁の下にあります。岸壁は高さ70メートル前後で、石灰岩の岸壁です。武甲山の一部になっており、北向き採掘面の西端に位置しています。


本堂
石段を上がったところが、橋立堂(観音堂)です。江戸時代中期の建物だそうです。
本尊は馬頭観世音菩薩。馬の守り仏であるだけでなく、馬が持つ「力」を、ご利益として与えてくださいます。例えば馬が草を食むが如く、煩悩を取り去ってくださいます。また例えば、馬が道中を安全に歩くが如く、旅の安全を守ってくださいます。また旅は、人生の旅にも通じ、無病息災のご利益もあります。


石段
江戸時代に流行した観音霊験記に、橋立堂の譚が載っているそうです。
・・昔、この辺に悪龍がいて、人や馬を喰っては、村人を困らせていました。村人が橋立堂に参り、なんとかしていただきたいと願ったところ、不思議や、お堂から白馬が現れ、龍の胎内に消えていったのだそうです。


境内
・・村人は、龍が白馬を食べてしまったと思ったのですが、さにあらず。それからというもの、龍は悪さをしなくなったというのです。そればかりか、龍は善龍と変わり、ついには仏法の守護神ともなったと言います。一説には、今は洞内の石と化し、末ながく村人たちを守っているともいいます。


馬堂
左甚五郎作と伝わります。白馬です。


鍾乳洞
橋立堂の横に、鍾乳洞があります。今日は県民の日とあって、入場無料でした。
洞内は寒いだろうと思い上着を出していると、茶店のおばさんが、「みんな汗かいて出てくる。いらんいらん」と話してくれました。お言葉に従って薄着で入りましたが、正解でした。
洞内には、前述の龍とおぼしき石が、確かに在ったような。


芭蕉句碑
ほとんど読みとれませんが、側の説明板によると、
  草臥れて 宿かる頃や 藤の花  芭蕉
とあるそうです。大和路での作句だそうですが、巡礼達の心情でもあります。


29番長泉院(石札堂)
29番長泉院は石札堂(せきさつ堂・正式には石札道場)とも呼ばれています。秩父市のHPには、次のような説明があります。
・・石札は熊野産の黒石で、高さ25cm、幅8.5cm、厚さ2.5cmで、「石札定置巡礼」と刻まれている。伝えによると秩父観音霊場開山のおり、熊野権現より奉納されたものといわれている。このような石札が、西国二十四番津の国山中寺と、坂東は筑波の大御堂と、当寺の 3ヶ所に納められたと伝えられている。


手作り感
撮影はできませんが、本堂内に見逃せないものが二つあります。一つは天井です。一見、千社札を貼ったように見えますが、これは「納め札天井」だそうです。黒漆に文字を刻んだ納め札が、びっしり貼られています。
もう一つは、正面欄間の桜花の板絵です。真偽はともかく、葛飾北斎五十二才の署名が入っています。


龍女
本寺の興りにかかわる龍女の譚が、板絵に描かれています。書き込みは次の様です。
・・淵より竜女現れ龍灯を捧げ 十余人の巡礼を案内し 岩屋の中に聖観音像を見出し 御堂を建てて安置せられた。
この絵は昭和63年(1988)の奉納ですが、そのモチーフは、江戸末期の「観音霊験記」から得ています。29番長泉院の興り譚です。


よみがえり一本桜
一時は咲かなくなっていた枝垂れ桜ですが、「よみがえって」咲くようになったそうです。そこで「よみがえり一本桜」と呼ばれています。
見事な桜なので、満開時の写真はないかと寺の人にと尋ねると、「ない」とのことでした。・・でも、この先の清雲寺(南西へ900㍍)には、もっとすごい、樹齢600年の桜がある。そこなら写真があるだろう。・・と教えてくださいました。


青雲寺のしだれ桜 
残念なので翌年の春、桜見物に行きました。これは清雲寺の桜です。おっしゃるとおりに、実に見事です。


よみがえり一本桜
しかし長泉院の「よみがえり一本桜」も、なかなかに、やるではありませんか。


29番長泉院の紅葉
長泉院は、春は桜、秋は紅葉です。


子供達
秩父市街へ引き返すため、浦山口駅から御花畑駅まで、電車を使いました。
ホームに、28番で見かけた小学生のグループがいました。近頃では珍しく、子供たちだけでやってきたとのことでした。
子供たちに何かを尋ねられたらしく、駅員さんが話を始めたのですが、すると、初めはバラバラに立っていた子供たちが、いつしか二列に整列しているではありませんか。なんとも優しい駅員さんと、可愛い子たちでした。


13番慈眼寺観音堂
観音堂は明治11年(1878)、秩父を襲った大火で焼失。明治34年(1901)再建されました。その際、一番四萬部寺の観音堂を摸したことは、前号に記しました。
画面左の紅葉した木は、「目の木」です。当寺は眼病治癒にご利益があるだけでなく、人生において「め」が出ない人の「め」を出すことも、手伝ってくださいます。


鐘楼
山号は旗下山(きか山)と号します。日本武​尊が東征の折に立ち寄り、この地に御旗をたてた故事に因みます。秩父に日本武尊伝説が多く残ることは、前号に記しました。
この寺は、通称で「はけのした」と呼ばれているそうですが、これは「はたのした」が転じたものだと言います。


14番今宮坊
この日、今宮坊では、お茶のお接待が行われていました。聞けば、神仏分離で別れたはずの寺の檀家と神社の氏子が、仲良く接待に当たってくださっている、とのことでした。
そう言えば今宮坊で目につくのは、「二所参り」という看板です。「二所」とは、観音堂と八大龍王宮です。龍王を祀っているのは今宮神社ですから、この看板は、寺と神社にお詣りするよう、勧めています。


役行者飛来の地
「秩父霊場発祥の地」については、境内の説明板に記されています。一部を抜粋します。
・・(役行者は)「神か仏か仙人か」と人々から仰がれました。一説には壬申の乱(672)では天武天皇を勝利に導き、後、天皇より重く用いられました。この前後、今宮神社、武甲山、三峰、慈光寺(板東9番札所・ときがわ町)に飛来し、当処に「八大龍王」を祀り、「秩父霊場発祥の地」といたしました。凡そ800年後の天文5年(1536)、秩父札所34ヶ寺が整えられました。その後「江戸出開帳」も成功し、巡礼路も拓かれて、秩父は日本有数の霊場に発展して、役行者は秩父を開拓した恩人として、幕末まで人々から尊敬されました。


14番今宮坊
・・役行者が当社に祀った八大龍王は、水の神、仏法を守る神であり、観音菩薩から慈悲の心「宝珠=玉」を戴いただいた神さまです。(その八大龍王を祀る秩父の地に、後世、秩父三十四ヵ所観音霊場が整備されたのは、いわば必然のことだった、ということでしょう)。
・・4月4日の秩父神社のお田植え祭りは、今宮神社の霊水をいただきに来ることから始まります。(今宮神社の霊水は、武甲山の伏流水とされています)。


龍神木
境内の説明板に「龍神木」の謂われが、要旨、次の様に記されています。
・・この大欅の空洞は、昔から、龍神の棲家であると言われてきましたが、平成3年(1991)12月30日、実際、そうとしか思えない出来事が、起こりました。この日、元旦祭の準備のため数人の氏子が社殿を掃除していたところ、奉安してあったご神体(龍の彫り物)が、にわかに動き出し、突風が舞い上がったというのです。そこにいた宮司も氏子も一斉に驚きの声をあげるなか、風は竜巻となって大空を駆けあがり、やがて大欅の空洞のあたりに消えていったと言います。これ実に1時30分に起きたことと、社記には時刻まで記録されている「実事」です。


16番西光寺
西光寺には、ミニ四国八十八ヶ所(弘法大師関東八十八ヶ所特別霊場)があります。ここは珍しくも、真言宗の寺なのです。秩父札所に真言宗の寺は少なく、西光寺と21番観音寺、22番童子堂の三寺があるのみです。
他の三十一ヶ寺は、すべて禅寺(臨済宗か曹洞宗)です。浄土宗、真宗は本尊が阿弥陀如来なので、観音霊場の内には入っていません。


本堂
西光寺は、天明3年(1783)、浅間山噴火の犠牲者を供養するために建立されたといいます。
秩父郡での降灰は4-5寸とも言われますから、1寸=3.03㎝として計算すれば、12.12㎝-15.15㎝降り積もったことになります。すくなくとも農作物を全滅させるには、充分な量です。
浅間山噴火は、農作物のみならず、甚大な被害をもたらしました。


15番少林寺
例によって例の如く、暗くなってきました。
寺の方が「キリがないのだけれど・・」と言いながら、「でも今やっておけば、明日の朝、楽だからね」と、丁寧に落ち葉を掃き集めていました。
翌朝、再び私たちが参ったときは、もう、きれいに掃き清められていました。


15番少林寺
本堂(観音堂)が漆喰で塗られています。 明治11年(1878)、秩父が大火に見舞われてことは、何回か記しましたが、その教訓を活かし、漆喰塗りとしたそうです。



秩父三回目の2日目です。秩父駅近くで泊まり、皆野からバスで入ってきました。
これより34番水潜寺に参り、結願といたします。その後、札立峠-破風山(はっぷ山)-吉田町椋神社へと歩く計画です。椋神社はすでに訪れていますが(前々号)、秋例大祭の賑わいの中にありました。今度は、鎮もりの中に在る椋神社を見たいのです。


能舞台
何か分からずに通り過ぎたのですが、後で聞いたら、能舞台だとのことでした。


皆野町立日野沢小学校跡
開校は明治22年(1889)。閉校は平成14年(2002)。木造校舎は昭和30年(1955)の建造だそうです。校舎を継ぎ足したようにも見えるのですが、そのへんは分かりません。
私たちがここを歩いたのは、閉校したばかりの、平成14年の11月でした。


34番水潜寺入口
結願寺への入口です。
私たちは参拝の後、札立峠(ふだたて峠)から破風山(はっぷ山)に登りますから、もうここには来ません。


結願所の碑
「日本百観音結願所」とあります。つまり、西国三十三所・坂東三十三所を巡拝した後の仕上げとして秩父三十四所があるという設定のようです。伝えられるように、百ヶ寺にするため秩父に一ヶ寺増やしたとすれば、秩父札所の結願寺を百観音霊場の「総結願寺」とするのも、アリかもしれません。


本堂
西国、板東、秩父を廻り終えた巡礼者は、(寺名の興りである)「水潜り」で身を清めた後、打止めの札と笈摺を水潜寺に納め、「世俗」へと帰ってゆくのだと言います。再生し、新しい人生を始めるわけです。
なお「笈摺」(おいずり)とは、巡礼が着物の上に着る袖無しの衣服で、笈(荷物を入れる箱)を背負うとき、背が摺れるのを防いだと言います。「おいずり」とも言います。


本堂
百観音霊場の結願寺である水潜寺は、本尊に千手観音菩薩を祀り、脇に二如来、阿弥陀如来と薬師如来を配しています。
阿弥陀如来は西方浄土の主催者として「西国」を象徴し、薬師如来は東方瑠璃光浄土の主催者として「板東」を象徴しているのだそうです。


水潜りの岩屋へ
水潜りの岩屋は鍾乳洞です。鍾乳洞の狭いところを、(石灰岩体から湧く)水に濡れながら潜り抜けると、身が清められ、再生が果たされる、というわけです。
これまで何回かふれた「長命水」は、この水をいいます。


水くぐり 
私たちも試みてみましたが、もはや身体の柔らかさに欠けるらしく、うまく出られませんでした。二人とも、再生は断念。
なお現在、水潜りは、崩落の危険があるとのことで、禁止されています。


札立峠へ
これから札立峠に登ります。峠に、破風山への分岐があります。


札立峠へ
ふり返れば、水潜寺がみえました。
「札立」の名は、雨乞いの札を立てたのが興りだといいます。


札立峠
峠の真ん中に小さな観音さまがいらっしゃいました。
道が左右の登り道と、中の下り道に分かれています。右の上りは大前山653㍍への道。左の上りが破風山627㍍です。中の下りは、水潜寺の反対側に降りる峠越えの道で、帰途、私たちはこれを下ります。


破風山
627Mほどの山ですが、山頂直下がけっこうな傾斜です。下りを気にしながら上りました。


破風山
破風山627㍍山頂です。山容が切妻の屋根の破風に似ているので付けられた名だとか。
360度展望できます。武甲山があるので、地図の方角と実際の方角は、すぐ合わせることができました。
下からサイレンの音が気流に乗って昇ってきました。お昼です。家族連れと、おばさんの二人連れが弁当を広げましたが、私たちは例によって、その準備がありません。北さんが非常用に持ってきた大判焼きを分けてもらって、チョー延命水で腹をごまかしました。


景色
札立峠まで降りてくると、ちょっと奥に男性が一人、ヒソと立っていました。肩にハンドトーキーをかけています。
聞けば、猟友会の人で、今、仲間と一緒にイノシシを追い込んでいるのだといいます。ある一点にイノシシを追い込むべく人が配置され、その一点で、銃をかまえた人が待ち受けているのだそうです。
山の中でも、いろんなことが起きているのでした。


枯れ葉のふとん
札立峠から少し降りてくると、枯れ葉のふとんがありました。保水力は充分とみえます。


大岩
峠を吉田町の方へ下ります。長い下りです。
下りながら、ここを登りたくないと思いました。
峠を下ると、大石がありました。
元からあったのか、落ちてきたのか。
天上から天手力男命がちぎって投げたか?この石が次に動くときは、どんな時だろう?
とまれ、結願の悦びとともに眺めた大石でした。


鎮もりの中の椋神社

さて、目出度く結願ということで、秩父三十四ヵ所観音霊場のシリーズを終えさせていただきます。ご覧いただきまして、ありがとうございました。次号からは四国遍路に戻らせていただきます。
ただ実は、今現在、困っていることがあります。というのも、順当なら次号は、平成14年(2002)初冬に歩いた「行当岬→清滝寺」になるのですが、実はその写真がそっくり全部、見つからないのです。なにかの拍子に削除してしまったのではないかと心配です。フォルダを移動させるとき、あらぬ方に貼り付けてしまったのなら、探せば見つかるのですが、・・。
みなさま、とりわけ新型コロナには、くれぐれも気をつけられますように。更新は3月31日の予定です。

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コメント (2)
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