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宿毛発
一日を柏島に遊び、いよいよ今日は、宿毛を発ち、伊予路に入ります。
あいにく雨の松尾峠越えとなりそうです。
案内
電柱に「貝塚1」とあり、傍の案内板には、
← 宿毛貝塚 100㍍
← 遍路道入り口 150㍍
とあります。ここから遍路道に乗ります。
宿毛貝塚
「史跡 宿毛貝塚」です。
貝殻の散在面積は、東と西、二つの貝塚を合わせて300坪ほどと広く、貝層は50㌢-100㌢ほどもあったと言います。時代は、縄文中期から後期。4000-3000年前と考えられています。
仮に当時の海岸線が、この下、2-3㍍のところに在ったとすると、今現在の標高は8.2㍍ほどですから、海は縄文の頃より、大雑把に言って5-6㍍ほど、海面を下げていることになります。海が後退したのです。
宿毛の街
海は後退しても、現・宿毛市街地の大半は、まだ松田川がつくる沖積低地・湿原の中にあり、人が住める状態ではありませんでした。満潮時には海水が押し寄せ、海に浸かる処だったのです。「すくも」という地名は、そこが「すくも」(枯れた葦)の生い茂る土地だったことから来ている、とも言われますが、うなずけます。
宿毛の干拓が進む経緯については、→(H28春1)をご覧ください。宿毛が、野中兼山が開拓した土地であり、また皮肉にも、兼山失脚後、野中一族が押し込めに遭った土地でもあったことなどを、記しています。
遍路道
住宅地を抜け、遍路道らしい遍路道となりました。
深浦
この辺には、小深浦(こぶかうら)という地名があります。その先には大深浦(おおぶかうら)があり、そこは松尾峠への登り口です。
「浦」は、海が湾曲して陸地に入り込んだ所を言いますから、大深浦は、海がうんと深くまで入り込んでいた所なのでしょう。大深浦ほどではないが入り込んでいたのが、小深浦でしょうか。ただし宿毛では明治以降、干拓が急速に進みましたので、今では、それほど「深浦」ではなくなっています。
道
道は踏み固められ、しっかりついています。
が、その右側は、雨水でくずれています。元は畑だったように見えますが、耕作はされていません。
石造物
祀り手を失った石仏などです。紛失を避けるためでしょう、一ヶ所に集められています。
道
大深浦の先に宇須々木(うすすき)という所があり、そこに宇須々木遺跡があります。ただし出土しているのは、スクレイパー(ナイフ)と、大分県の姫島産黒曜石の破片だけです。もし本格的発掘が行われれば、宿毛貝塚よりも早い縄文早期の土器などが出土するとも期待されています。
とまれ、いま私たちが歩いているこの土地が、古くから人が住んできた土地であるのは、たしかでしょう。
枯れ葎
いまは見る影もなく枯れ果てて、哀れをさそわぬでもない「枯れ葎」ですが、どっこい、夏ともなれば再び、それはもう憎たらしいほどに繁茂するにちがいないのです。
倒木
跨ぐにも潜るにも、いずれにも難しい、意地悪な倒木です。
溜め池
やや唐突な感じで、溜め池がありました。よく管理されています。
左奥は、小深浦の集落です。
稲田
溜め池の水を使っているのでしょう。
松尾峠番所
大深浦の松尾峠番所跡です。ここを通過すると、松尾峠への登りとなります。
「えひめの記憶」に、次の様な記述があります。
・・江戸時代、国境松尾峠を越える遍路は、大深浦にあった土佐藩の松尾坂番所で通行手形である切手を役人に渡した。これは土佐の東の入り口、甲浦番所で与えられたもので、土佐藩内での滞在期間や通過地を改められた後に国境の松尾峠を越えた。遍路の土佐への出入りは、この松尾坂と甲浦以外からは許されなかった。
道標
松尾峠1.7キロ とあります。峠の標高は、約300㍍です。
赤い看板に、・・この先200メートル 地蔵堂 これより登りですので、お堂で休みなさい。 村人 ・・とあります。
地蔵堂
さっそく地蔵堂に立ち寄らせてもらいました。最近、復元がなったようです。
由来書が掲示されていました。・・此地に安養寺なる寺院有り。されど明治元年の廃仏毀釈により廃院となるが、その後、地蔵堂として今日に至る。
御本尊 木彫座像地蔵菩薩 一体
御利益 子孫繁栄 安産健勝 学業有徳
石仏など
・・当山裏山に安養寺住職(代位不明)の墓有りて、宝永六年(1709)五月七日 長田與市(当地本番所頭首建立)との記有り。此里では「ホッコーさん」の名にて丁重に祭られている。(宝永六年は野中兼山没後45年に当たる)
なお、個人情報に触れるので写真は載せませんが、長田與市さんの子孫の長田さんは、今も大深浦に住んでおられます。
晴へ
晴れてきました。これで松尾峠の景色が、これで楽しめそうです。
景色
高度が上がってきた分、宿毛湾が、姿を見せてきました。
松並木跡
この峠道には昔、松並木があったのだそうです。しかし戦時中、松根油をとるため、すべて伐採されてしまいました。
地面のえぐれているように見える所は、松の根っこを掘り起こした痕と思われます。「根こそぎ」とは、このことでしょうか。
領界石
峠には領界石が建っています。これは伊予側の領界石です。
従是西 伊豫國 宇和島藩支配地 とあります。
宇和島「藩」の文字がありますから、建立は、廃藩置県(明治4年)より前のことでしょう。しかし、宇和島「藩領」ではなく、「支配地」と記されていることから察するに、版籍奉還(明治2年)よりも後、すなわち明治2年(1869)から明治4年(1871)の間の建立と考えられます
いろいろ調べていると、この碑の建立年を貞享4年(1687)とする記事が多く見られますが、それはおそらく、「従是西伊豫国宇和島領」と記された、別の領界石の建立年でしょう。現在、松尾峠には見つかりませんが、この後に訪ねる小山御番所跡近くに、それと考えられる標石が建っています。(後述)
領界石
こちらは、土佐側の領界石です。
従是東 土佐國 とあります。「土佐国」の下には、文字スペースはありますが、文字はありません。元々ないのか、削られたのか、剥落したのか?
私見では、文字は元々なかった、のではないでしょうか。文字があったとすれば、「支配地」だったでしょうが、土佐藩は、やがて廃藩置県が近いことを充分に承知していましたから、仰々しく「支配地」などと記すことに、もはや意味は感じていなかったと思います。そこで、ただ「従是東 土佐國」とだけ記したのではないでしょうか。
これら領界石は、そんなきわどい時期に建立されたものと考えられます。
景色
標高300メートルの峠には茶屋が二軒あり、駄菓子、だんご、草鞋などが売られていたそうです。旅人たちは茶屋から宿毛湾を眺め下ろし、こんな景色に癒やされながら、一息ついていたことでしょう。
通行人は、日に200人、多い日では300人もいたといいますが、昭和4年(1929)、宿毛トンネルが通って以降は減少に転じ、ついには茶屋もなくなってしまいました。なお、松尾峠越えについては、→(H24秋遍路3)にも記載があります。篠山や沖の島での、予-土間の領土争いについては、→(H24秋遍路4)
をご覧ください。
松尾大師堂
旧大師堂の跡に新築され、平成13年(2001)12月、落慶法要が執り行われたそうです。私たちがここを歩く、3年前のことです。
(撮影時は気づいていませんでしたが)この堂は、柱として、自然木の桜を取り込んでいるとのことでした。そこで写真を調べてみると、なるほど桜の木が屋根から出ているように見えます。しかし木は、とりわけ桜はどんどん大きくなります。大丈夫なんでしょうか。
純友城址
峠から200㍍ほど先に、純友城址があります。10世紀中期、承平・天慶の乱を起こしたことで知られる、藤原純友が築いた城です。
次の様な説明看板が立っていました。・・伊予掾(掾は助けるの意。伊予守を助ける)という役人であった藤原純友は、任期が満ちても帰ろうとせず、海賊共を手下とし、豊後水道の日振島に拠って朝廷に反抗した。
・・天慶4年(841)、追討使長官に任命された小野好古は、兵船200余を以てこれを攻めた。内応する武将があったために敗れた純友は九州へ逃れたが、その時、妻とその父栗山入道将監定阿をこの純友城に隠した。
・・やがて純友と一子重太丸が討たれたことを聞いた妻は、悲しみのあまりついに物狂わしくなり、その年の8月16日にこの地で亡くなった。
宿毛湾
絵看板に、純友城から見た宿毛湾が描かれていました。方角は、上部に描かれた沖の島が、およそ南西方向になります。
なお本拠の日振島は、宿毛から北西方向へ約45キロに在ります。この図には描かれていません。
佐伯是基を自軍の副将に当てていることからもわかるように、純友は、九州を強く意識していました。その九州の拠点、豊後の佐伯は、西方向に75キロほどです。天気がよいときは見えるといいますが、どうでしょうか。
宿毛湾
写真手前、やや右寄りの港が、藻津(むくづ)港です。上図と照らし合わせてみてください。その沖のやや大きい島は大籐(おおとう)島、小さい方が桐島です。
写真奧の中央に沖の島が薄く写り、その左に蒲葵(びろう)島が小さく浮かんでいます。蒲葵島の左に伸びている半島は大月半島。その先端には(前号で記した)柏島が見える・・と思ったら、どうやら半島に隠れているようで、見えません。
宿毛湾
写真左端に片島が(半分くらいですが)写っています。かつては島でしたが、今は干拓で、陸つながりになっています。片島港については、前々号でも触れていますので、よろしければご覧ください。→(H15秋4)
写真中央に横長く写っている島が、大島です。大島漁港があります。
大島の上に、岬に隠れていますが、小筑紫があります。宿毛では小筑紫港と片島港を合わせて、宿毛湾港と呼んでいるようです。小筑紫については→(H27秋 5)をご覧ください。
伊予路
伊予側に下ってゆきます。しかし、まだ伊予国に入ったとは言えません。土佐側の大深浦に松尾番所があったように、伊予側にも番所があるからです。ここで「改め」を受けて初めて、伊予路に入ったと言えるわけです。
札
珍しい札に出会いました。「イエスを求めよ」とあります。
この後、宇和島の町を歩いていっときのことです。ローブをまとったキリスト者と見える、外国の方二人に出会いました。すれ違いざま「ご苦労様です」と、声をかけてくれたので、私たちも会釈を返したのでしたが、やがて思い出したのは、この札のことでした。もしかすると掛けたのは、この人たちではなかったか、と考えたのです。もう少し早く気づけば、面白い話が聞けたのかもしれません。
道
山道を下りてきました。これからは林道です。車も通れます。
とはいえ、この辺りでも標高は、まだ100㍍ほどはあります。
道標
そこに道標が建っていました。松尾峠から1.6キロ。観自在寺へは14.8キロ、とあります。
道標
道路道沿いに3基の領界石・道標が建っていました。これらについて、「えひめの記憶」に次の様な記事があります。
・・ 一本松町教育委員会の説明によると、この2本の領界石(左の2本)は、平成3年、橋の工事の際橋げたとして使用されているのが発見された。いずれも二つに折れていたものを修復し、番所跡近くのこの場所に移築したという。
中央の領界石
・・前述した貞享4年に建立したという史料に合致する領界石は、長さ2.4m(8尺)の、遍路道標に併用されている中央の標石であると思われる。この標石の正面に刻まれている遍路道の案内は、明治13年(1880年)とあり、領界石を後世に遍路道標として再利用したものである。
再利用した明治13年時点では、すでに伊豫国も宇和島藩も存在しないにもかかわらず、その文字を削り取ることなく、そのまま遍路道標として使ったのでした。面倒だったからかもしれませんが、おかげで、史料的価値の高い標石が残されることとなりました。
徳右衛門道標
右端は、武田徳右衛門道標です。「これより くわんじざいじへ 三り」と刻まれています。元は、松尾峠への登山口に建っていたそうです。
小山御番所跡
領界石の少し先に、小山御番所跡がありました。ただし、残っているのは、番所で使われていた井戸のみです。その井戸も民家の庭にある状態で、このお宅のご厚意で、かろうじて残っていると思われます。
説明看板に、天明4年(1784)、海堂という旅の僧が残した歌が記されていました。
関の戸を 越えゆく末は 伊予なれば いよいよ故郷 遠ざかるらむ
どうやら「伊予」と「いよいよ」を掛けて、遊んでいるようです。
城辺へ
県道299号(一本松-城辺線)を進みます。
今夜の宿は城辺の宿です。本当は別の宿に泊まりたかったのですが、休業、満員などの理由で、泊まれませんでした。なお国道56号を行くこともできますが、車が多い上にトンネルもあり、敬遠しました。
城辺へ
たぶん札掛の辺りからと思うのですが、私たちは道に迷っていたようです。どこをどう歩いたのか、今もってわからない区間があります。この日の日記には、次の様にあります。
・・遍路道としては不安定な感じの道になった。犬連れの女性に尋ねると、直進だという。しかし、ますます不安定になる。人家なく、車道。だが車は来ない。道の下方に工場の屋根がポツンと見えたりする。
・・道路工事で道が寸断されている。方向が読めない。ずっと先に道標らしいものが立っている。足摺で迷ったときに得た教訓を思いだし、止まって考えた。北さんが先まで歩いてみるという。斥候だ。お前はここにいろ、と言う。
城辺へ
・・困り果てていると、突然、天の助けか、御大師さんの助けか、降ってわいたように一台の赤い車が来た(というより私たちには「出現した」と見えた)。女性が運転している。手を挙げると、停まってくれた。尋ねた。どうやら私たちは正しい道を、そうとは自覚できず、歩いていたらしい。進むと、やがて道標が出てきた。急ごしらえの道標だった。やはり遍路道は、一時的に変更されていたようだ。だから「迷った」と感じていたのだ。「新しい道」や「工事中の道」には注意!
僧都川
観自在寺から津島までのルートは、三本あります。篠山道、中道、灘道です。
篠山道は、札掛で中道から分岐します。篠山詣りをする遍路は、札掛に荷物を置いて篠山神社に詣り、荷物をとって40番に向かうことが多かったようです。篠山詣りしない人は、札掛にある、篠山神社の一の鳥居の小祠に札を納め、遙かに(目には見えないけれど)お山を遙拝しました。
灘道は、上大道(うわおおどう)の満倉小学校を少し過ぎたところで、中道から分岐します。その後、城辺町太場(だいば)から豊田を経て、観自在寺へ。さらに柏坂を越え、津島に至ります。
豊田窯
上大道を過ぎた中道は、樫床から僧都川を渡り、大岩道-小岩道越えの険路へと向かいます。
「えひめの記憶」によると、もっとも通行量が多かったのは灘道、ついで篠山道、最も少なかったのが中道でした。宇和島藩の官道であったにもかかわらず、中道が敬遠されたのは、ひとえに、その険しさの故でしょう。かといって、他の2本が楽だったわけではありませんが。
中道については、→(H28春 7)と→ (H28春 8)をご覧ください。
夕日
城辺町でのことでした。デート中の高校生カップルに出会ってしまいました。
私たちに気づいた二人は、きっと、まぎれ込む人混みがほしかったにちがいありません。せめて麦畑でもあればよかったのでしょうが、そこは無情の一本道。そんなものはなく、近づいてきます。
私たちに出来る唯一の親切は、関心を示さないこと、すなわち無視すること、でした。通り過ぎた後、私たちが発した言葉は、”いいなあ”でした。♫二人のため 世界はあるの・・ほのぼのとした気持ちに満たされていました。
雨の出発
城辺の夜。雨と風の音を聞きました。
起きてみたら、風はおさまってきていましたが、雨はまだ、時に激しく、降っています。天気予報によれば回復に向かうとのことですが。
それよりも困ったことは、この宿は朝食が出ないことでした。宿の一階に店がありますが、まだ朝も早く、品揃えは出来ていません。仕方なく、手持ちの行動食を食べて出かけましたが、腹は満たされないままです。
山門
40番観自在寺にやってきました。愛媛県の最初の札所を楽しみだったのですが、あいにく、ひときわ大粒の雨が降り始め、しばらく山門下で、雨宿りを余儀なくされました。
方角盤
山門の天井に、直径1mほどもある、方角盤が取りつけられていました。同様のものを清滝寺でも、見た覚えがあります。
周囲に絵で干支が示され、中央の亀が酉の方角、すなわち西に向いているのは、巡拝者に、西を向いて歩けと教えているのでしょう。西とは海がある方向ですから、この亀は、灘道への方向を教えていることになります。
本堂
ひとしきり降って、気が済んだのでしょうか、雨は急速に止んできました。
山門で一緒だった犬連れの土地の方は、犬を階段右につないで、本堂に向かいました。傘を残したのは面倒だからではなく、また降り出したときの犬用です。
私たちも本堂に向かいます。彼から、ジョイフルがこの先にあると聞いたので、元気いっぱいです。
なお階段左には、海の満ち引きと共に水位が上下するという、不思議の井戸が写っています。篠山山頂の池とも通底しているのだそうです。→(H24 秋遍路 ④)
出発
お参りを終えて、亀に従って西進します。貝塚(昔、貝塚があったことから来る地名)を過ぎると、長崎(長い岬から来るのだろう)があります。
この辺は、いまでこそ国道56号が走り、苦もなく歩けますが、56号開通前は遠浅の沼沢地で、歩くことは困難を極めたといいます。そのため「えひめの記憶」によれば、・・長崎から平山まで渡し舟があり、約500mの海上を1日何回か旅人を運んでいた。・・とのことです。
写真の前を行く方は、今の私くらいのお年寄りで、「草刈り奉仕団」に参加されているとのことでした。この方とは、あと2回、お会いすることになります。
貝殻の山
すわ、貝塚!
そんなわけはありません。この貝殻は養殖真珠のアコヤ貝の貝殻で、洗って潮を落として細かく砕き、肥料として売るためのものです。土壌の酸性度に応じて、貝殻のカルシウムが徐々に溶け出すのだといいます。そのため肥効が長持ちするという、優れものの肥料なのだそうです。
貝殻山を見ていると、フォークリフトに蜜柑を積んだ数人がやってきました。佐田岬の三崎に出荷するのだそうです。まだ取り立てでスイ(酸っぱい)けれど、と言いながら、2個ずつ、お接待してくれました。
松山へ
国道56号の菊川橋です。標識には、松山へ130キロ。宇和島へは、37キロ とあります。
橋の少し手前に八百坂バス停があり、そこで観自在寺で会った方が、バス待ちをしていました。この辺から坂が厳しくなってくることを、よくご存知なのでしょう。お話では、八百坂と柏坂はバスでやり過ごし、柏坂を下りた大門から、津島町の岩松まで歩くのだそうでした。もう足が弱いからね、行き当たりばったりですよ、と話されましたが、あやかりたいものだと思ったものでした。
道標
道標が三基、建っていました。石柱の形は同じですが、字体はそれぞれに異なります。どれも別の場所から移設されたものでしょう。
平城へ 一里二十三町
きくかははし(菊川橋)
柏? 一里十五丁半
現在の菊川橋は、上の写真に写っています。
良心市
美生柑(みしょうかん)は、河内晩柑(かわちばんかん)のローカル名で、御荘(みしょう)から来ています。つまり御荘産の河内晩柑ということです。
その「御荘」は荘園の尊称。つまり観自在寺御荘、に由来しています。
室手海岸
室手(むろで)海岸は夕陽の名所で、冬至の頃にはダルマ夕日も期待できるとのことです。
三ツ畑田島
景観を楽しみながら歩きます。
手前の海に落ちている尾根は、御荘湾を構成する愛南町の半島で、三つの島は、三ツ畑田島(みつはただ島)というそうです。島を波よけにして、ここでも真珠の養殖を行っています。
内海村
内海(うちうみ)村という、柏を中心地とする村がありました。この村、私たちが歩いた8ヶ月後の平成16年(2004)10月、消滅する運命の村でした。 一本松町(松尾峠から降りてきた町)・城辺町(私たちが泊まった町)・御荘町(観自在寺がある町)と、西海(にしうみ)町(外泊がある町→H28春 7)との合併で、愛南町となります。
松山へ
11:45 柏の手前の食堂で昼食をとりました。柏まで歩いて、とも考えましたが、食べられるときに食べておく、が原則です。二人とも注文は、焼きうどん。
ポスター
店の側に「第6回トレッキング・ザ・空海」のポスターが貼ってありました。
花へんろ講演会では、早坂暁さんが講演。月岡祐紀子さんが演奏されるようでした。へんろ道俳句大会では、内海村出身の夏井いつきさんが、選句者として参画しています。
柏坂へ
柏は予想より大きい町でした。食堂もありました。
行動食が、朝食べてしまってないので、JAストアでかいました。私はパンを購入。北さんはジャコ天、ちくわです。
カメラのカードを入れ替えていると女性が来て、山を越えるのですか?と尋ねました。話しの様子では、越えるにはやや遅い時間だと、心配してくれたようでした。ありがたいことでした。
柏川沿いの道
柏川沿いの道を遡ります。
常夜灯
どちらも「奉燈」とあります。右では、篆書が使われています。
いずれも「奉燈」したのは、次代を担う若者中です。若者中は、村内の警備、消防、祭礼などを担う、村の実働部隊です。
道標
坂上り 21丁、 よこ 8丁、 下り 36丁
「よこ」とは、上り下りがほとんどない道をいうのでしょう。
柏坂図
柏坂への登り口が、標高およそ70㍍で、峠が460㍍ですから、実質400㍍ほど登ります。
石畳
さっそく石畳の道が現れました。
雨情の歌
雨情の歌を取りつけたり、ベンチを置いたりしてくれたのは、津島の青年たちだと聞いています。若者中でしょうか。
柳水(やなぎみず)大師
旅人の喉の渇きを癒やすため、弘法大師が柳の木の杖を地面に突き立てました。すると、そこから甘露の水が湧いてきたといいます。お杖の柳はそこに根づき、大樹に育ったといいますが、残念ながら見つけることが出来ませんでした。
清水大師堂(H24秋撮影)
柏坂には、もう一つ、水に関わる大師堂があります。清水大師堂です。(なぜか写真が見つからないので、平成24年に撮影したものを使いました)。こんな譚が伝わっているそうです。
・・昔、一人の娘巡礼が、この地で意識を失い、倒れてしまいました。娘は長く水を飲んでおらず、弱っていたのです。その上、労咳の持病もありました。
・・大師をこれを憐れまれ、娘に夢告していいました。・・傍らにあるシキミの木の根元を掘りなさい・・と。
・・言われたとおりに、娘がシキミの根元を掘り起こすと、そこから清水が湧いてきました。娘はその水を飲み元気を取り戻したのですが、なんとそればかりか、労咳までもが、すっかり治っていたのでした。
石垣
外泊や内海でみられる石垣積みと比べれば、この程度のものは、技術的には、何ら難しくはないでしょう。「岩松村 土居儀平 築営」の石柱が組み込まれていますが、この人は石工ではないでしょう。名を残すほどの仕事ではありません。おそらく施主なのでしょう。
明治期、近くで牛の放牧が行われていたとのことですので、牛止めの石垣なのかもしれません。あるいは、この先に「ぬたば」が在ったりもしますので、猪除けの猪垣(ししがき)なのかもしれません。
ねぜり松
「ねぜり」は、’根がねじれた’というような意味のようです。次の様な譚が伝わるそうです。
・・昔、足が不自由な人が箱車で遍路をしていたそうです。何人もの人達に引っ張られて、この大松に差しかかった時のこと。一陣の風が吹いたかと思うと、曲がった大松が、箱車を押しつぶさんばかりに倒れかかってきたといいます。
・・そこで奇跡が起きました。箱車の遍路は、自分の足で逃げることが出来たのだそうです。逃げて、奇跡が起きたことに気づきました。足が治った!
こんな奇跡話が伝わる’ねぜり松’は、お接待の場所ともなり、「接待松」とも呼ばれるようになったそうです。残念ですが、昭和30年頃、(おそらく松食い虫被害で)伐採されたそうです。
由良半島
こんな景色を見ることが出来るとは、知りませんでした。
由良半島
半島の右半分が津島町(現在は宇和島市)、左半分が内海村(現在の愛南町)です。
昔、藤原純友が密かに、どこやらの半島に運河を掘り、これを使って、半島を大回りする朝廷軍を翻弄した、・・そんな小説を読んだことがあります。
その時は、’まさか’と思っていたのですが、事実は小説より奇なり。実際に運河が掘られていたとは、驚きました。ただし昭和に入ってからの運河で、純友が掘った運河ではありませんが。
昭和41年(1966)、船越運河が由良半島で竣工しています。それまでは、小さな船なら岬を廻らず陸に揚げ、岬の反対側まで運んでいたのだそうです。
ぬたば
イノシシのお風呂です。浴槽は、電柱が建っていた跡なんだそうです。
道
快適な道を下ります。
道標
この写真を撮ったときは気づきませんでしたが、
四十番 かんじざい寺
四十番 いなり寺
とあります。正しくは「四十一番いなり寺」でなければなりません。石工のうっかりミスです。しかし、なぜ直さなかったのでしょうか。
茶堂
茶堂は、集落の集会所でした。祭祀の段取りを決めるのに集まったり、格別の用はなくても、集まったりしました。また旅人には休憩所となり、時には、お接待に与ったりしました。
建物の一般的な形状は、四本柱の上に屋根をかぶせ、壁の一面に縁起棚。他の壁は吹き抜けになっています。床面に段差はなく、皆、同じ平面に座ったようです。より詳しくは、→(H28春 4)をご覧ください。なお、この茶堂近くには茶堂大師が在るようでしたが、見つかりませんでした。
道標
橋は、小祝川に架かる小祝中橋です。傍に道標が建っており、
茶堂休憩所 2.2K
国道56号 1.7K とあります。
時刻は、15:37。急がねばなりません。柏坂の女性の心配が、本当になりそうです。
小祝川
小祝の集落を抜けてゆきます。小祝川には鯉が放たれていて、のどかです。
道
今は改善されているのでしょうが、しばらく携帯が通じず、宿の予約が出来ませんでした。やっと通じるようになったのでかけてみると、一軒目は満室でした。
二軒目。受けてもらえました。ただし、宿に着いてから聞いたことですが、「歩き遍路は断らない」という、ご主人の方針があってのことだったようです。電話が遅くなり、ご迷惑をおかけしたようです。
川沿い道
今度は芳原川沿いに、津島町岩松に向かいます。先ほどの小祝川は、芳原川の支流でした。そして芳原川は、岩松川の支流です。河口付近で合流します。
下校中の学生とすれ違いました。中学生は「こんにちはー!」。高校生になると「ちわース!」。向こうから声をかけてくれるので、嬉しくなります。
夜
宿から撮ってみました。
灯りは、岩松川の対岸の灯りです。岩松は、岩松川の河口に在って、江戸期から昭和初期まで、栄えました。「えひめの記憶」に次の様な記述があります。
・・この町は交通不便な時代には津島郷(現在の津島町の領域)の物資の集散地であり、ここから海路大阪方面に物資の積み出される港町として栄えた。岩松の港町は、岩松川の河口を利用したものであり、その河岸が船付場として利用された。・・
宿
朝、出発の時に撮りました。
この宿は、獅子文六さんが「てんやわんや」を執筆した宿として知られています。
獅子さんは昭和20年(1945)、敗戦から4ヶ月後の12月、妻の実家がある岩松に移り住みました。2年間、ここに住んだといいます。
獅子文六句碑
思ひきや 伊予の涯にて 初蜆
句から察するに、獅子文六さん、必ずしも喜んで岩松に来たのではないようです。とはいえ、住んでみれば蜆も美味いし、伊予の涯もまんざら捨てたものでもない、とも思いはじめたようです。
句碑は、岩松川河口に建っています。
岩松川
ご覧いただきまして、ありがとうございました。今号は、岩松を出発するところで、終わらせていただきます。
岩松から、今回の区切り歩きの終点である宇和島までについては、「9年前の松尾坂越え」と題して→(H24 秋遍路 ⑧)で報告しています、この道は(今は遍路道扱いされていない)旧国道56号を行く、山越え道です。
旧国道56号
補足です。
当時の「黄表紙の地図」には、次の様に記されていました。
・・現国道56号線松尾トンネル内は( 中略 )排気ガス充満の状態になる。山上線(旧国道)は、1.7km余分に歩くが、清閑で自然豊かである。日中はこの道を進行するとよい。・・
つまり、この頃の岩松から宇和島に出る道は、国道56号と旧国道56号の二本だった、ということです。二本あるが、国道56号は長いトンネルがあって勧められない、空気もきれいな旧国道を行きなさい、と助言しています。旧56号を縫うように通っていた、松尾峠の旧道が復元されたのは平成18年(2006)→(H24 秋遍路 ⑧)。野井坂越えの道が復元されたのは →H24 秋遍路 ⑤ 、 →(H28春 2)のことでした。これにより岩松-宇和島間の遍路道は、劇的に改善されたと言えます。
さて、次回更新は、11月3日の予定です。
宇和島から松山辺りまでの、リライト版をご覧いただくことになると思います。早く新しい記事を書きたいものですが。
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