楽しく遍路

四国遍路のアルバム

民宿おおひら 琴弾八幡 68番観音寺 69番神恵院 70番本山寺 71番弥谷寺

2022-06-29 | 四国遍路

 
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 三日目(平成19年1月25日)

出発
67番大興寺側の「民宿おおひら」さんを発ち、まずは68番69番を目指します。出来れば今日中に、71番弥谷寺くらいまでは行きたいのですが、どうでしょうか。昨日の歩きは14キロほどでしかありませんんでしたが、膝の症状は、少し悪い方に進んでいるようです。
とはいえ同宿の和歌山さんは、アキレス腱手術の跡が擦れて痛むにもかかわらず、早発ちしたそうです。と聞けば、私も頑張らなければ・・。


道標  
和歌山さんは昨晩の夕食時、私を大いに喜ばせる、こんな話をしてくれました。
・・脚は痛いんですけど、遍路はとても楽しいのです。私は虫が好きで、歩きながら虫がいると、(と言ってポケットから虫眼鏡を取り出し)これで虫観察をするんです。「昆虫」観察ではなく「虫」観察なのは、例えばミミズなども観察対象に含まれるからです。


道標 
それを見て、私が喜んだのは、言うまでもありません。私もおもむろに自分の鞄を開け、そこから虫眼鏡を取り出したものでした。私は(前号に記した巻き尺の他に)虫眼鏡も持ち歩いていたのです。私の観察対象は、(虫の時もありますが)苔であったり、土佐備長炭であったり、指に刺さったトゲであったりもして、和歌山さんとは異なるのですが、しかし、共に虫眼鏡の携帯者であることの喜びは大きく、大いに意気投合したのでした。


集落へ
遍路道が集落に入り込むとき、必ずと言っていいくらい思い出す、地元の方の話があります。
・・私らは今でも、隣の集落に入るときには、おじゃまします、通してください、といった気持ちで入って行きます。顔見知りとはいえ、他人様の土地に入るのですからね、勝手気ままには歩けません。


地蔵さん  
考えさせられるお話でした。他人様の土地を歩かせてもらっていることを、はたして私は(私たち遍路は)、きちんと意識して歩いているでしょうか。そこに住む人たちのお気持ちを慮ることなく、ズカズカと入り込んではいないでしょうか。
あのお話を私は、・・心して歩けとの忠言・・と聞きました。


大平正芳記念館
元総理の大平正芳さんは、この近く、三豊郡和田村(現観音寺市)の出身です。この辺は大平姓が多いのです。そう言えば、民宿も「おおひら」でした。
「アーウー」とか「暗闇牛」とか云われた政治家で、同じ香川県の社会党の論客・成田知巳さんとは、対照的でした。
なお大平正芳記念館は、今は引っ越して、琴弾公園の世界のコイン館に同居しています。


工夫
農業と全く無縁に過ごしてきた私には、農家のこんな工夫も新鮮でした。


仁池
溜め池の名前を地図で調べていると、歩き遍路が追いついてきました。お名前は後に分かりましたが、渋谷さんです。
彼は立ち止まり、昨日、三島から雲辺寺まで歩いたことや、「青空」(前号)に泊まったことを話してくれました。そこで私たちの「青空」通過(昨日)が13:00頃だったことを告げると、・・さすがにその時刻には未だ歩いていて、宿に着いたのは16:00すぎだった、・・とのことでした。それにしても、すごい健脚です。私たちの二日分の行程でしょうか。


酒屋
道路脇の空き地でミカン箱をお借りし休んでいると、休憩所で休んでいた渋谷さんが追いついてきました。彼はまた立ち止まり、私たちに加わりました。聞けば、「久しぶりの人との会話がうれしい」とのことでした。
どちらかといえば過去を見ながら歩いている私たちとは違い、彼はこの遍路を、将来に向けての「試練」と設定しているようでした。いわば遍路に「挑んでいた」といえましょうか。そんな彼にとって、私たちと過ごした時間がよき息休めの時になっていたとするなら、それは私たちにとっても、悦ばしいことでした。



そこへ女性遍路がやってきました。雲辺寺で見かけた方でしたが、ここに来て、同郷・埼玉の毛呂山さんとわかりました。
四人での話になりました。毛呂山さんの唐揚げをご馳走になりながらの話は、なんと50分に及んでいます。
誰もがそれぞれの理由で、話すことを欲していたのでしょう。私の理由が、膝を休めたいという姑息な理由であったのは、いうまでもありませんが。 


マンホール
いくらなんでももう歩かないと、ということになり、納札を交換。写真を撮りあって出発しました。ただし、渋谷さんはカメラを持っていませんでした。おそらくカメラは、彼の遍路目的には不要なのです。
なお、この後のことですが、渋谷さんとは、ある経緯で(後述)、今晩は同宿になります。毛呂山さんとは弥谷寺で再会し、埼玉に帰ってからも、お会いする機会がありました。(この集まりにはもう一人、埼玉の遍路が加わるのですが、そのことは、また後に記します)。


財田川
財田川(さいた川)です。その名は財田川事件で知っていましたが、ここを流れているとは、知りませんでした。
財田川事件は、昭和25年(1950)、旧財田村で起きた殺人事件ですが、むしろ冤罪事件として、全国に知られました。被告は死刑判決を受けていましたが、昭和59年(1984)、ようやく無罪判決を得ることができます。
なお、この時期に起きた冤罪事件には、免田事件(昭和23→60無罪)、徳島ラジオ商殺人事件(昭和28→60無罪・但し死後判決)などがあります。


琴弾神社
財田川を渡ると、かつての68番札所・琴弾(ことひき)八幡です。
札所の変遷や「琴弾」の名の由来などについては、→(R1初夏6)→(R1初冬1)で触れていますので、よろしければご覧くだ1さい。


狛犬
北さんが、「この文化圏なんだなあ」とつぶやきました。
四国の瀬戸内海沿岸も、備前焼の文化圏に入るのだなあ、というような意味でしょう。石鎚神社でも備前焼の狛犬を見たことから、そんな感想を持ったようです。


石段
長い石段です。300段ほどまでは数えましたが、あとは分からなくなりました。帰宅後調べてみると、381段なのだそうです。
私は途中、左膝に違和感を感じ始めていました。階段は膝に悪いのです。


鳥居
源義経が寄進したという木の鳥居です。屋島の戦いでの戦勝祈願でしょうか。古いので覆い屋がついています。
この地点は未だ石段の半ば辺り。まだまだ登ります。琴弾山は標高58.3㍍で、琴弾八幡神社は琴弾山の一番高いところに在ります。


伊吹島
展望所からの景色です。伊吹島=イリコの島が見えています。→(H25初夏4)
展望所で、一人の女性遍路に出会いました。「どちらから?」と尋ねると、「埼玉から」との答です。
ピンとくるものがあり、「あなたは浦和さんですか?」と尋ねると、「ど、どうしてですか」と、名前を知られていることに驚かれました。
そこで種明かし。「実は昨日、毛呂山さんから、この辺を同じ埼玉の浦和さんが歩かれている、と教わっていたのです。私も埼玉です」


観音寺港
浦和さんはたちまち打ち解けてくれて、いろいろの話をしてくれました。なかでも、札所番号が80に達した(国分寺)辺りから、やがて遍路旅が終わることへの、さみしさのようなものを感じるようになったという話は、私たちも同じようなことを感じていたので、興味深く聞かせてもらいました。
別れ際、埼玉でぱったり出会ったら、お茶でも飲みましょう、と話し合いましたが、残念ながら浦和さんとは、未だ会えていません。


寛永通宝
白砂青松の有明浜の、砂に描いた寛永通宝。
斜め上方から見て円形に見えるようにするには、横罫を縦罫よりも長くとらなければなりません。横罫122㍍、縦罫90㍍だそうです。周囲は345㍍とのこと。大きいです。
高松藩の若き藩主・生駒高俊公を慰める目的で、造られたと言われています。高俊公は、後に御家騒動(生駒騒動)に巻き込まれ、出羽に流罪となります。結果、生駒高松藩は天領となり、その後、ご存知・水戸黄門様の兄・松平頼重が常陸下館藩から入封。松平氏高松藩が始まります。


68・69番霊場
二札所が、山門を同じくしています。
明治の神仏分離で、68番札所であった琴弾八幡が札所からはずされることになり、琴弾八幡宮の本地堂に祀られていた八幡大菩薩の本地仏・阿弥陀如来は、琴弾八幡神社の別当寺であった、69番観音寺の西金堂(さいこんどう)に遷されました。これをご本尊として誕生したのが、新68番札所・神恵院です。


お杖
自分たちの杖がどれくらい短くなっているか、お店の杖と比較してみました。握りに袋が被さっているのが、北さんのお杖です。
常時携帯の巻き尺で測ってみると、未使用の杖は130センチ、北さんのものは110センチほどでした。20センチほど減ったわけです。因みに、北さんと私の杖は、北さんの方が私より、3センチ短くなっていました。北さんによれば、この差は、「大師に恃む心」の差だと言います。北さんの方が、深く大師に帰依していると、言いたいのでしょう。



大師に恃む心の弱さ故か、私に大ブレーキがかかりました。何回も休みはじめたのです。休むと歩き始めが痛いので、これまでは極力休まずに来たのですが、今回の痛みは、それでも休まなければならないほどの痛みだったのです。
どこかで大休止しなければなりませんが、北さんと相談し、本山寺まで頑張ることにしました。もう本山寺の五重塔が見えています。


予讃線
予讃線をくぐります。この下り坂は、痛かった。


本山寺
ようやく着きました。70番札所・本山寺です。
本堂は、国宝です。弘法大師が一夜にして建てたという「一夜建立」の伝説があります。この伝説に因む観音霊場・砥石観音については、→(R1初夏6)をどうぞ。


五重塔
納経所に向かおうとすると、同宿だった和歌山さんがいました。ここに泊まって、明朝、一時帰宅するのだと言います。まだ早い時間なので宿が開いておらず、ここで開くのを待っているのだとか。やはり脚の調子がよくないようです。
時間をもてあましている和歌山さんと、大休止したい私に、やはり閑らしいお寺の方が加わり、(北さんは仕方なく加わって)、またまた取り留めもない話が始まったのでした。話はお寺の方が主導したらしく、メモには「本山寺の歴史など。ガイドブックの域を出ない」と、生意気に記しています。


国道11号
ゆっくりと歩きはじめました。のんびりと休憩したのがよかったのでしょう。歩き始めの膝は、だいぶ楽になっていました。
歩けなくなったら、タクシーで和歌山さんがいる宿にもどればいい、そんなつもりで歩けばいい・・とは、北さんの有り難い助言です。


スーパー
年配の女性から、ジュースのお接待をいただきました。私が埼玉からだと言うと、「娘が埼玉の入間郡に住んでいたんです。何回も荷物を送ったので、覚えているんですよ」と、ちょっと恥ずかしそうな表情で、話してくれました。「実家からの荷物は、うれしいものですよ」と応じると、「そうでしょうか」と、うれしそうでした。
それにしても、今日は「埼玉の日」です。


笠田小学校
やはり歩くのがきつくなりました。頑張れなくもありませんが、宿着が遅くなるでしょう。タクシーで移動することとし、笠田小学校の一隅をお借りし、宿に電話しました。
ところが、最初の一軒は、現在休業中。和歌山さんが泊まっているはずの宿は、今日は休業とのこと。もう一軒は満室。近くのビジネスも満員でした。和歌山さんは、どうしたのでしょう。


タクシーへ
仕方なく、弥谷寺近くの「弥谷ふれあい温泉パークみの」をとりました。高瀬の宿をとらなかった理由は二つです。一つは「温泉」の名につられたこと。もう一つは、今朝知り合った渋谷さんと毛呂山さんが、「みの」泊まっていること。
タクシーは、すぐ呼ぶことが出来ました。明朝、またタクシーで、この写真の地点まで引き返して歩きます。


弥谷ふれあい温泉パークみの
ばったり、ロビーで渋谷さんに会うことが出来ました。
彼はとても驚いて、開口一番、「ずいぶん頑張りましたネ」と褒めてくれました。もちろん正直に、「実はタクシーで」と話すと、「では頑張りませんでしたネ」とのこと。明日、引き返して歩くつもりと話したら、「あゝ、それなら許される範囲内ですネ」とのこと。
なお毛呂山さんは、渋谷さんによると、観音寺で道を間違えたので、観音寺で連泊するとのことでした。連絡をもらったとのことでした。

  四日目(平成19年1月30)


朝食を渋谷さんと一緒にとり、そこで別れました。よい結願を!とエールを交換し合いました。
私たちは、タクシーで引き返します。ドライバーは先達さんだそうで、車中、いろいろ話してくれました。
なかでも、国道11号から県道221号に入るポイントを教わったのは、助かりました。
歩き始めの膝は、温泉の効果か、とりあえずは快調です。


麦畑
農家の友人から聞いた話です。
・・子供にも出来る畑仕事の代表が麦踏みで、子供は皆、喜んでやったものだったが、今は子供もいないし、いても、やりたがらないだろうしね。
・・知ってる?そこで子供の代わりに、麦踏みローラーってのが、発明されてるんだ。人力でローラーを引いたり、機械で引いたりするんだが、頭いいよな。


景色
遍路道から左方向の景色です。七宝連山の北端部ではないかと思います。
 

蝋梅
ろう梅が咲いていました。


子供SOS
子供と話していて嬉しかったことのひとつに、土地の子の多くが、「を」(wo)の音を引き継いでいることがありました。唇を(口笛を吹くように)丸めて発する「ゥオ」という音で、日本では、とりわけ東日本では、ほとんど失われている音です。
この音が残っているのだから、やっぱり四国はウレシイ。


弥谷寺門前
ちょっとスキップして、71番弥谷寺まで来ました。この間の道中でのことども、これからの弥谷寺境内でのことなどについては、→(R1初冬5)→(R1初夏6)を、ご覧ください。
階段上に見える「俳句茶屋」で荷物を預かってもらい、まずはお参りします。ご主人によると石段の段数は、計540段とのこと。膝には注意して登らねばなりません。


山門
仁王門から法雲橋までの参道は賽の河原を通る道と擬せられています。すなわち法雲端は、灌頂川(三途の川)に架かる橋なわけです。


香川氏歴代の墓
香川氏歴代の墓がありました。香川氏は、香川県の名の興りとなった一族です。弥谷寺から登った所にあった天霧城を居城としていましたが、秀吉の「四国攻め」で滅亡しました。
墓は、これより上方100㍍、本堂西の「西院」旧跡に埋もれて在ったものを、昭和59年(1984)、現在地に移したのだと言います。おそらく北さんは、少なくとも西院跡までは登ってみたかったでしょうが、黙っていてくれました。私の膝を心配してのことです。


比丘尼谷
大師堂辺りから本堂にかけての空間は比丘尼谷(びくに谷)とかお墓谷とよばれるそうです。
岩壁上部の弥陀三尊像の作者、作年はわかっていませんが、比丘尼谷に籠もる霊を慰めんと彫られたのは、間違いないでしょう。


磨崖仏
弥谷寺には、「弥谷参り」という風習が、古くからあったと言います。あるいは「弥谷参り」が、弥谷寺の興りとも言われます。
死者が出ると、その家の家人は死者の霊を背負って弥谷山に入り、霊が「里心」をおこさぬよう、注意しながら、帰るのだそうです。霊とは、具体的には遺髪、生前の着衣で、これらを岸壁の納骨穴に納めたと言います。
仁王門前の俳句茶屋は、かつては、「弥谷参り」の一行が帰途、精進落としをするために上がった、茶店だったといわれています。そのための食器や足付き膳が多数残っていると、ご主人からききました。


本堂
お参りしていると、女性遍路がやって来ました。道に迷って観音寺に連泊した、毛呂山さんでした。観音寺からトップスピードで歩いてきました、とのこと。
その他、昨日からの顛末の一部始終を聞きました。毛呂山さんも、誰かに話さないではいられなかったようでした。その後、一緒にお参りすることとし、大師堂に向かいました。



本堂近くからの景色です。旧三野町(現三豊市)を見下ろすことができます。
手前から二番目の山が火上山で、その山裾を巻くように、薄く写っているのが高松自動車道です。


大師堂
大師堂の入口です。弘法大師が真魚の頃、修行したという「獅子の岩窟」が大師堂になっています。
靴を脱いで上がり、正座して読経しました。
さて、帰ろうとすると、毛呂山さんからご注意をいただきました。「帰る時は、振り返っちゃいけないよ」と言うのです。霊界に引き込まれるかもしれないからね。霊がついてくるかもしれないし。むろん「弥谷参り」を踏まえたご注意です。


茶屋
俳句茶屋に帰り、「あめゆ」や甘茶で精進落とし?をしました。ご主人によれば、三代受け継いだ味だとか。美味でした。
話していると、女性遍路が通りかかりました。聞けば、埼玉から来た和光さんだといいます。またまた埼玉です!毛呂山さんも大喜び。話がはずみました。



ご主人が風邪を押して話してくれました。
埼玉の(また埼玉だ)、自由を標榜する私立高校の女の子がやって来て、
「おじさん、私も書いていい?」と言うので、「いいよ」と気軽に答えたのさ。
しばらーく経ってから、「おじさん、できた」と言うんで見たら、これさ。小さく俳句でも書いてるんだろうと思っていたら、まあ、びっくりしたね。でも、まあ、しばらく置いといたら、これが評判がいいんさ。フランスのテレビが取材に来たりしてな。


遍路道
さて、そんなこんなを話しているうちに、和光さんは弥谷寺のお参りへ、毛呂山さんも次なる札所・72番曼陀羅寺へ先発しました。私たちもそろそろ、発たなければなりません。
(弥谷寺の俳句茶屋は、令和元年12月段階では、・・現在、改築計画中・・と掲示があり、休業していました。海岸寺での営業については、→(R1初冬7)をご覧ください)。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。できれば宇多津までを今号に載せ、平成19年冬遍路シリーズを今号で締めくくりたかったのですが、ブログの字数制限にかかってしまい、はたせませんでした。今シリーズの完結は次号、7月27日更新予定、へ持ち越しです。
異例の早い梅雨明けで、今年は格別に長い夏となるようです。皆さま、くれぐれも健康には留意され、ご自愛くださいますように。

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コメント (2)
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65番三角寺 椿堂 66番雲辺寺 67番太興寺

2022-06-01 | 四国遍路

 
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お詫び
前号が61番香園寺で終ったのだから、当然、今号は62番宝寿寺からのはずですが、どうやら私はデータを管理する力に欠けているようです。どのようにしてだか、宝寿寺から三角寺までの写真を、またまた削除してしまったらしいのです。そこで、行程を追ってご覧くださっている方には誠に申し訳ないのですが、宝寿寺-三角寺間はやむおえずスキップ。今号は三角寺から始めさせていただきます。


羽田空港
平成19年(2007)1月23日、1年9ヶ月ぶりに四国遍路へ発ちます。
前回との間隔がひらいているのは、私の「都合」が悪かったためです。北さんは待ちかねてか、この間にお子さんを帯同。阿波路を歩いています。


愛車レッドアロー号
私の「都合」とは、次の様なことです。
平成17年(2005)夏、私は椎間板ヘルニアを発症。手術を受けました。リハビリ期間中には、中断していた家の改修を、やむをえず再開。予定していた娘の結婚式は、むろん予定通り挙式。ある程度の覚悟はしていながらも、どこかで先のことと思いたがっていた母の死も、受け入れなければなりませんでした。けっこういろいろの「都合」が、あったわけです。


富士山
ようやく四国を歩くことに踏み切れたのは、平成19年の正月、北さんに会ってからでした。北さんがサポート役を申し出てくれたばかりか、計画の大幅レベルダウンにも同意してくれました。
計画のレベルダウンとは、・・泊数を4泊とする。1日の歩行距離は20Kを越えない。場合によっては、乗り物の利用も可とする。・・といった具合で、健脚の北さんには、本当に申し訳ない内容でした。


高松空港着
四国、高松空港に降り立ちました。
厳しい練習を積んできたアスリートが、レース本番を前に発する言葉・・スタートラインに立てることがうれしい・・が、分かる気がしました。多くの人に支えられて、ようやくここまで漕ぎ着けてきたのです。ここに来るまでが、大仕事でした。
おかげさまで母の供養のまねごとも、することができそうです。


高松駅
高松駅から予讃線で、三角寺への登り口、川之江に向かいます。


連絡線うどん 
駅構内に「連絡船うどん」の店がありました。
宇高連絡船の船尾にあったうどん屋さんを知る人は、少なくなっています。四国を出るときは別れのうどんとして、帰るときはただいまのうどんとして、多くの人が食べたものでした。それは四国の玄関口通過の、儀礼のようでもありました。
後日のことになりますが、高瀬の宿で、このうどん屋さんを覚えている女将さんに出会いました。うれしくて、いきなり思い出話を始めてしまいました。


瀬戸内海
車中で、遍路装束に身をつつみました。
いつものことながら、奇異なものを見る目線がないことに、安堵します。


川之江駅
川之江で下車。北さんが気を使ってくれて、三角寺へはタクシーで上がります。いきなりの登りはきつかろう、ましてや明日は雲辺寺の登りが待っている、というわけです。椎間板ヘルニアも、間の悪いタイミングで発症してくれたものです。


土佐北街道
タクシーが土佐北街道を走っているとわかったときは、タクシー利用をちょっと後悔しました。北さんも口には出しませんでしたが、そう思っていたにちがいありません。
この残念な思いは、後年、何回かに分けてはらすことになります。平成24年(2012)の秋には、川之江の街をお大師さん信仰を探して歩き、その後、土佐北街道を経て、三角寺に登りました。→(H24秋)
 

梅錦の蔵
運転手さんが、梅錦の蔵です、と案内してくれました。私は思わず、止めて、と叫んでいました。私が叫ばないと、北さんは酒よりもコーヒーが好きな人ですから、叫ぶことはないのです。
梅錦は、司牡丹と並んで、私の好きな酒です。遍路中は、いずれかのワンカップをザックにしのばせていることが多いのです。味はもちろんですが、容器が紙カップなのも遍路向きで、いいですね。


三角寺口の分岐 
ここは「三角寺口」です。看板にあるように、三角寺は右方向です。
左方向は旧土佐北街道をベースにした道で、平山(後述)で三方向に分岐します。新宮方向、椿堂方向、また三角寺方向です。
この写真は平成25年、三角寺口から三角寺、三角寺から三角寺奥の院の仙龍寺、さらには新宮(後述)を歩いたときのものです。→(H25初夏1)


三角寺石段
三角寺駐車場に着きました。
この石段は、段差が高く、踏み面にはデコボコがあります。ちょっとイヤな気がしましたが、明日の雲辺寺の登りを考えれば、怯んでいる場合ではありません。杖と手すりに頼りながら、なんとか上りました。
なお、上には車椅子用のトイレがあったので、寺は、必要な人には迂回路を、用意しているようでした。


山門
1年9ヶ月ぶりの三角寺です。
あの時は、まだ桜が咲いていました。今治の泰山寺から相前後して歩いてきた浅草さんとのことや、タケノコ採りのおじさんグループとのことなどが、思い出されます。


桜の大枝
  是でこそ 登りかひあり 山桜   一茶
一茶が句に詠んだという、桜古木の大枝です。
前回、本堂の前に独り立つ淺草さんを見かけたのは、この大枝の下でした。きれいな姿勢でスッキリと立ち、微動だにせず何かを祈っておられた姿は、忘れられません。


三角の池
三角寺の寺名の由来となった三角形の池です。
四国遍礼名所図会に、・・此寺大師十一面の尊像を作り本尊とす。大師の三角の護摩壇有故に三角寺と号す・・とあります。ただし三角の護摩壇は、今は三角の池となり、中之島に弁財天が祀られています。


四季桜
三角寺の秋は紅葉で知られていますが、可憐に咲く四季桜を愛する人も、けっこう多いようです。


下り
前回、三角寺への登りを案内してくれたおじ(い)さん達は、私たちがお参りを終えるまで、どこか秘密の場所でタケノコ採りをしながら、待っていてくれたのでした。タケノコが何処で採れるかは、互いに秘密にしておきながら、遍路道の水場造りや道標建てなどでは、バッチリ協力し合うという、面白いおじ(い)さんグループでした。水場や道標などの写真を失ったのは、本当に残念です。ご覧に入れたかった。


椿堂へ
さて、時刻は12:30です。これより三角寺を発し、椿堂を経て、雲辺寺麓の宿に向かいます。なお、今号とほぼ同じコースで歩いた遍路に、→(R1初夏4) があります。よろしければ、どうぞ。


 
少しでも脚によかれと、 松葉を踏み歩きました。
一番心配なのは左膝ですが、これをかばいすぎると、他の部位に無理が生じかねません。できるだけ自然に(これが難しいのですが)歩くよう努めました。北さんには申し訳なかったのですが、痛みはなくても、こまめに立ち休みしました。


川之江の街部
「えひめの記憶」から一部引用させていただきます。・・ 昭和30年代後半から40年代半ば、我が国は有史以来の驚異的な経済成長を成しとげ、この短期間の工業化への突進は反面、公害の発生、環境破壊というマイナス面を引き起こした。本県でも東予新産業都市の中核である新居浜・西条を中心に、伊予三島・川之江、次いで松山と、開発優先に走った地域が大気・水質・騒音などの公害に見舞われた。
私はこの頃、三島、川之江をバスで走ったことがあります。車掌さんが窓を全部閉めるように言うので、不思議に思っていましたが、やがてわかりました。窓は閉めてあるにもかかわらず、腐ったような臭いが、車内に入ってきたのでした。


土佐街道
土佐街道の標識がありました。(前掲の)三角寺口で分岐した土佐北街道が、ここで遍路道と交差しています。写真手前を横に走っているのが遍路道で、写真奧から急坂を登ってきて、手前方向へさらに急坂を登ってゆくのが、土佐北街道です。
今は、この辺の土佐北街道は、ほとんど消えかかっていますが、此所は、かつては旅籠(島屋)や土佐藩の「お小屋」などがある、この地域の中心であったところです。


土佐街道
「土佐街道」の標識には、次の様に刻まれています。
  是より南 水ヶ峰 新宮村を経て高知に至る  北 川之江に至る
水ヶ峰は、弘法大師のお杖水で、水ヶ峰地蔵とも呼ばれるところです。
新宮村(現・四国中央市新宮町)は、愛媛県東端の町で、東は徳島県、南は高知県に、1000メートル級の山々で接しています。土佐北街道は、これら山々を越えて、高知に降りてゆくのです。より詳しくは、→(H24春8) をご覧ください。


休憩所
平山の「ゆらぎ休憩所」に着きました。「協力会地図」の「半田休憩所」に当たる所でしょう。近くには、前述の「平山バス停」の小屋もあります。
地域の中心は、現代は此所に移っています。前述のように、新宮-川之江を結ぶ道と、三角寺-雲辺寺を結ぶ遍路道が、此所で交差しています。


バス
新宮から三島駅に向かうバスです。平山バス停に停まり、もちろん三角寺口にも停まって、川之江から三島に向かいます。
この道は、伊予の土佐北街道をほぼなぞる道ですが、掘切トンネルを抜けるところが、根本的に旧道とは違います。


スプレー
密教法具の三鈷杵(さんこしょ)をモチーフにしたもので、歩き遍路のための道標として、吹き付けたのでしょう。前回までは見られなかった新しいタイプです。
ただし私たちは、これを「道標」とは認めませんでした。私たちの感性では、これは落書きの類です。遍路道標は小さくて目立たず(地元民の邪魔にならず)、なにより原状回復が容易であることが大切です。


白鳩
真っ白の鳩を育てている人がいました。
聞けば、鳩の「白」を維持するためには、中に、「黒」を1羽まじえておく必要がある、とおっしゃいます。白鳩だけで飼っていると、「白」が不安定になり、やがて「灰」になってしまうのだそうです。なにやら示唆的でした。



切り干し大根をつくっているおばあさんがいました。「凍る晩」に大根を煮て、寒風にさらすと、「砂糖もいらん」ほど甘くなるといいます。ただし近年、「凍る晩」が少なくなったともいいます。
実をつけたままの柿の木が目についたので尋ねると、「若いモンがおらんで、もげん」のだそうでした。「私ら年寄りには危のーて」といいます。「三チャン農業」は’60年代初頭に生まれた、農村の危機を表す言葉ですが、今や「三チャン」なら、まだ御の字という事態となっています。


棚田
惹かれる景色です。
なぜ惹かれるのか?
もしかすると私は、この景色の中にある曲線を好いているのかもしれません。私は、直線で構成された景色は、あまり好きになれないようなのです。


椿堂
足摺岬の大雨で納経帳をぬらしてしまった私は、その後、納経所に行く度に、気詰まりな思いをしてきました。時に、咎められたりもしたからです。
しかし椿堂の納経所では、ちょっと癒やされました。納経帳を一枚一枚、ゆっくりとめくりながら、・・大変な目に遭われましたね。ご苦労様です。・・と、声をかけて下さったのです。


句碑
椿堂(常福寺)の句碑です。
  境内に お杖椿や 南無大師
病に苦しむ村人を見た弘法大師は、地面にお杖を立てて、そこに病を封じ込めてくださいました。
その後、大師のお杖は地に根づき、椿の花を咲かせはじめたと言います。・・この椿が、句に言う「お杖椿」です。


おさわり大師
病を癒やしてくださるお大師さんです。右手をお大師さんに掛け、左手で自分の患部をさわりながら、快癒をお願いします。
もちろん私も、お願いしました。そろそろ左膝が痛み始めていたからです。
なお、大師像のうしろに太い幹の木が見えますが、これが、お杖椿です。


福の神
これは「福の神」だそうです。情のもつれ、身体の障りを打ち消し、良縁、子宝拝受の御利益があるといいます。
たまたま居合わせた女性の二人連れが、そっとアブチャンをめくっていました。そして見ている私たちに気づいてニッコリ。


境目トンネル
私たちの通常の歩き方だと、境目峠を越えるのですが、今回はトンネルを抜けます。伊予と讃岐の境目の、その名も境目トンネルです。
歩道は、メモによると、両側についており、幅80センチ(実質70センチ)、車道との段差30センチだそうです。この頃、私たちは巻き尺を携帯していましたから、計測したのだと思います。トンネルの長さは855メートル。


出口
12分かけてトンネルを抜けました。迫ってくる音、巻き上がる風、・・何回歩いても、トンネルは恐いです。加えて左膝も痛んできたし・・。
そんなわけで、トンネル内のどこかに在るはずの県境標識は、それどころではなく、見つかりませんでした。この写真は県境標識代わりに、交通標識を写したものです。トンネルを抜けると徳島県だった、というわけです。


トンネルの煤
怖くて壁側に寄ったのでしょう。白衣の袖がススで汚れてしまいました。
下手に触れば汚れがひろがり、手が着けられなくなってしまいます。一切触らずに宿までゆき、掃除機を借りて吸い取ることにしました。(これはいい方法で、ほとんどがとれました)。


佐野小学校
ヨタヨタ歩いていると、佐野小学校(池田町立)の生徒が、「ガンバッテ」と声をかけてくれました。私の膝は、歩いては止まりの状態になっていたのです。
なお佐野小学校は、これより7年後、平成26年(2014)に廃校となります。


宿
雲辺寺麓の宿に着きました。
同宿は、大坂と和歌山の歩きの方、大坂のバイクで廻っている方、そして私たちです。これに、ご主人、若奥さんが入って、楽しい夕食となりました。

二日目(平成19年1月24日)

雲辺寺の在る辺り
詳細な地図と、お接待のおにぎりをいただいて出発。左膝は、ゆっくり休んだせいか、今のところ温和しくしてくれています。
目指す雲辺寺は、尾根筋に並ぶ一番右の鉄塔から、林道を3キロばかり歩いたところで、ここからは見えないそうです。


雲辺寺登山口へ
ずいぶん歩いて振り返ると、ご主人が、まだ見送っていてくれました。手を振ってくれています。他の人たちにも声をかけ、皆で、礼をして謝しました。
すれ違う小学生や旗当番の人から、朝の挨拶をいただきました。こちらからも返します。静かな田舎の、朝の賑わいです。


登山口
これからが登りです。奥に見えるのは徳島自動車道です。
膝は大丈夫か、心配しながら登り始めると、宿から一緒に歩いてきた大阪の方が、「私は後からまいります」と言って、柔軟体操を始めました。登り始めには身体をほぐす、が習慣になっているそうでした。
膝を案じながら、それでもダラダラと登り始める私とは、エライ違いです。当然のように私は、やがて後発のこの方に追い抜かれます。


上から自動車道
徳島自動車道です。
高速道路を上から見ることは、めったにないことです。


マナー  
すこし登ると空き地があり、山の神かなにかを祀る小祠が、置かれています。
驚いたのは、立て札の文句です。・・この辺での大便はご遠慮ください・・と記されています。きっとお遍路さんの仕業でしょう。
このバチ当たりめが。遍路道でトイレが不備なのは、わからないではないが、それでももっと場を選べよ。せめて埋めるくらいのことはしておけよ。


追いつかれる
大阪の方が追いついてきました。手前は北さん。
彼は、しっかりと歩き、しっかりと見、しっかりと記憶する、堅実な遍路でした。「鼠面積み」の説明も、「ジャンプ」の値段表も、素通りせず、きちんと読んでいました。定年退職し、今は週一日、働いているとのこと。このあと丸亀まで歩き、一度帰って仕事をし、また歩くのだといいます。菅笠は、土佐国分寺側でかったとのこと。後に北さんも同じのを買いました。なお「ジャンプ」とは、素泊まりバス(当時一人3000円、相部屋2000円)のオーナーが経営している食堂。


鉄塔
下から眺めた鉄塔がこれです。1時間15分ほどかけて、標高650㍍ほどの尾根にでてきました。話では、急坂はほぼ終わったとのことですが、雲辺寺の標高は1000㍍弱です。まだ300㍍ほどの高度を、3キロほどの距離で稼がねばなりません。
なお、この尾根筋は、徳島・香川の県境になっており、雲辺寺も、県境にまたがる寺です。行政上は徳島県三好市池田町に属しながら、88カ所巡りでは、讃岐の一番札所とされています。


パラボラ
雲辺寺近くのパラボラアンテナが見えてきました。
うれしいことに、膝の痛みは、不思議と消えています。問題は下りでしょう。慎重に行きます。


山々
池田町には白地(はくち)という地名があります。その名が、・・孫子の兵法にいう「衢地(くち)」に由来するのではないか、・・と言われる土地です。
「衢地」とは四方八達の交通の要衝をいいますが、なるほど白地は、(トンネルなどがない時代には)四国で唯一、土佐、讃岐、阿波、伊予のいずれにも通じる土地でした。かつては「四国の辻」と呼ばれていたともいいますから、白地の衢地由来説は、すくなくとも単なる語呂合わせレベルの話ではありません。それかあらぬか長宗我部元親は、白地城をもって、四国制覇の拠点としています。


雲辺寺
白地城に居を定めた元親が、天正5年(1577)の春、四国高野なる雲辺寺に登り、時の住職・俊崇に、四国平定の野望を語った話が伝わっています。
その時の、俊崇の応えは、次の様であったと言います。
・・貴殿が四国平定など、茶釜の蓋で水桶に蓋するようなもの・・つまり、貴殿はその器に非ず、お止めなされ、ということなのでしょう。



しかし俊崇の真意は元親には届かず、元親は、こう応えたといいます。
・・ほどなく四国一円を、七つ方喰(かたばみ・長宗我部の旗印)で埋めてご覧に入れましょう。
つまり元親は、武力の誇示をもって応えたわけですが、これを元親の器の小ささの証ととるか、鬼国の小領主の出ながら、中央をもうかがわんとする、元親の気概ととるか、おそらく意見の分かれるところでしょう。


道標
  三角寺21.4キロ 雲辺寺2.0キロ 
昨日から21.4キロ、歩いたわけです。


山門
66番札所 巨鼇山 (きょごうざん)雲辺寺の山門です。 
ただし、この山門は、今はありません。新山門が別の場所に新築されています。たぶんロープウエイの開通で、雲辺寺内での人の導線が変わったのだと思います。旧山門が取り壊されたのか、どこかに移築されているのかは、わかりません。


雲辺寺
寒い。とにかく寒かったです。昨年末に降った雪が、山積みされて、溶け残っていました。トイレは凍結していて使えないそうで、ケーブルのトイレを使うように、とありました。
宿で一緒だった人たちは、もうとっくに行ってしまったのでしょう。境内には誰もいません。


おたのみなす
お寺さんも、いろいろ工夫するものです。


五百羅漢
五百羅漢が、般涅槃(はつねはん・完全なる涅槃)に入ろうとする釈尊を取り囲んでいます。→(R1初夏5)


上から見た景色
展望台があるというので、登ってみました。天気がよければ、石鎚山や今治までが見えるそうですが、残念、今日は遠景は、寺名の通り雲の中でした。
この写真は麓の写真ですが、はたして何処を写したものでしょう。メモには観音寺方面と記してあるのですが、地図と照合しても、合致しませんでした。


上から見た景色
上掲記事をご覧くださった天恢さんから、こんな写真が送られてきました。溜め池の形状や道路の走り方から、私とほぼ同じ所を撮った写真と分かりますが、幸い天恢さんの写真には、奧の中央よりやや右寄りに七宝連山、やや左寄りに小さな、三角おにぎりのような江甫草山(つくも山)、その左に68番69番のある琴弾山が写っています。
天恢さん、ありがとうございました。おかげさまで、上掲写真がメモの通り、観音寺方向を写したものであったと判明いたしました。


県境
雲辺寺境内には県境標識がいくつかありますが、これもそのひとつです。標高1000㍍とあります。


三位一体のご霊木
雲辺寺のご霊木です。一本の樹が、カシとカエデとハンノ木で成っています。
太い幹部がツクバネガシ。上の左の枝がウリハタカエデ。右がタニガワハンノ木だとのこと。


スキー場
まさかスキー場があるとは知りませんでした。昨年末の雪を根雪にして、その上を人工雪で固めてあるそうです。さすがにコースは短くて、300㍍とのこと。スキーヤーはおらず、ボーダーばかりでした。
因みに料金(当時)は、入場料1000円、リフト一日券1000円、ケーブル代2000円、計4000円で1日遊ぶことができるとのことでした。


涅槃の道場へ
  讃岐の国 香川県 最後の一国 涅槃の道場
膝の状態は、かならずしも良いとは言えませんでした。歩き始めは痛むが、我慢しているうち慣れて(麻痺して)くる、といった状態で、先行き不安はぬぐえませんでした。
ただ不思議だったのは、そんな不安を余所に、もっともっと歩いていたいとの思いが、消しがたく湧いてくることでした。「最後の一国」に入り、旅の終わりを惜しんでいたのだと思います。「さみしさ」にも似た感情の中、私たちはいつしか、一歩一歩を大切に、踏みしめながら歩いていたのでした。それは初めて経験する、感情の動きでした。


下り道
下りの道は、それはよく整備されていました。適当な間隔で横木が埋めてあり、所々、二本の横木で排水路をつくっています。おかげで路の真ん中がえぐられたりしておらず、とても歩きやすい路になっていました。
ちょっと気がかりだったのは、里に近づくにつれ、松枯れが目立ってきたことでした。松食い虫でしょうか。チェーンソーで短く切ってありますが、その意図は分かりませんでした。


供養塔
六十六部中供養塔がありました。建立した方の出身が、武州妻沼邑(めぬま・むら)とのこと。
妻沼は、私の居住地・埼玉の地名で、私もまんざら知らない土地ではありません。こんなところで妻沼の人に会うなんて、何やら近所の友達に会ったような気分がしたものでした。


林道へ  
なんとか林道にたどり着きました。林道直前の下りは急でしたが、ゆっくりゆっくり降りました。膝はまだ大丈夫のようです。
しかし、まだ終わりではありません。道標は、雲辺寺から4.5キロ、逆瀬池まで3.1キロ、次なる札所・太興寺までは、まだ5.1キロもあること を示しています。



「民宿青空」の前を通過しました。ここに泊まった東京の歩き遍路と、明日の宿を一緒にすることになるとは、この時点で私たちは、まだ知りません。彼は健脚の人で、この日の朝、三島を発ち、三角寺-雲辺寺を越えて、この宿に泊まったのだといいます。


雲辺寺のお山  
雲辺寺の展望台で、「下が見えるということは、下からも上が見えるんだよな」「下に降りたら、ここを探して写真に撮ろう」というような会話を交わしました。
この写真が、その、下から撮った、上の写真です。雲辺寺の山号・巨鼇山 (きょごうざん)の「巨鼇」は、仙山を背負う大海亀をいうそうですから、このお山は、大海亀に背負われて、ここまでやって来たのかもしれません。



畑仕事の奥さんから、野宿遍路に宿のお接待をしたら「ひどい目に遭った」話を聞きました。
奥さんは、ご主人が営んでいる山小屋を宿として、ある野宿遍路に提供したのだそうです。布団や食べ物を車で運び、誠心誠意お接待したと言います。
ところが、彼が立ち去った2日後、彼は、ある事件の容疑者として、警察に逮捕されてしまいます。彼は全国指名手配された、ある事件の被疑者だったのです。12年間も逃亡し、そのうち後の6年は、遍路として四国を廻っていました。


破れ蓮
逮捕後、奥さんは逃亡者の隠匿を疑われ、逃走幇助の中傷を受けました。「ひどい目」に遭ったわけです。
しかし奥さんは言います。・・びっくりしました。だけど、すくなくとも、あの時の、あの人は、悪い人ではなかったですよ。むしろ立派な人でした。あの人が何をしたか(しなかったか)、私は知りません。でも、あの時のあの人が悪い人でなかったことは。今でも私は信じています。だって、人は信じられんもんじゃ、では、悲しすぎません?


道標
  右 古まつをじ (小松尾寺)
  すぐ 古んぴら道 (金毘羅道)
  左 く王んおんじ (観音寺)
大興寺は、かつては小松尾寺の呼称の方が、一般的だったそうです。「すぐ」は直進(まっすぐ)を意味します。


太興寺
ようやく67番太興寺に着きました。脇門から入ることもできましたが、やはり坂を下って、正門から入りました。この辺、私たちは、けっこう律儀なのです。


修理中
この時期、弘法大師堂は改修中でした。そのため天台大師堂で兼拝するという、珍しい経験をしました。
弘法大師堂と天台大師堂を併せ持つ、大興寺ならではの荒技です。


民宿おおひら
この日の宿は「民宿おおひら」さんです。大興寺のすぐ側にあります。
昨晩同宿だった和歌山さんが先着していました。萩原寺を廻ってきたと言います。アキレス腱の手術跡が靴にあたり、苦労していたのに、たいしたものです。彼は他にも、頸椎などに故障があるといいます。大阪さんは、たぶん観音寺まで脚をのばしたでしょう。
なお「民宿おおひら」さんは、令和3年(2021)1月、閉店されました。長い間、ありがとうございました。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。一週間更新を延期し、ようやく仕上げることができました。しかし、アップロードの時点では、まだ充分な校正も出来ていません。これから少しずつ、手直しするつもりです。
次号は、ガンバリます。更新予定は、6月29日です。

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石根大頭から 妙雲寺 横峰寺 星が森 香園寺

2022-04-27 | 四国遍路

 
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平成17年(2005)4月17日(土)
今日の予定は、大頭道(後述)を経て横峰寺に登り、香園寺奥の院経由で61番香園寺に降ります。宿は小松駅近くに取るつもりです。
前を行くのは、同宿の人たちです。どちらも丹原町の宿が満室で、こちらに廻ってきたとのことでした。時あたかも春爛漫。遍路も多くが繰り出すわけです。


石根(いわね)郵便局
この辺の地名は小松町大頭(おおと)といいますが、郵便局名は(大頭郵便局ではなくて)石根(いわね)郵便局です。そういえば近くには石根公民館があり(前号)、石根小学校もあります。郵便局の隣には駐在所があるので、これも石根警察署だった可能性があります。
そこで「石根」について調べてみたところ、かつてこの辺には「石根村」が存在していたことがわかりました。これらの施設は石根村時代に設立され、その村名が冠せられているようです。


旧石根郵便局
石根村は、明治22年(1889)、町村制施行に伴って発足。昭和30年(1955)、昭和の大合併で小松町、石鎚村と合併し、小松町の一部となるまでの66年間、中山川の右岸に存在しました。
旧郵便局の洋風建築からも察せられるように、石根村は「進んだ」村だったようです。Wikipediaは、昭和初期、石根村が愛宕柿(あたご柿)の品種改良に取り組み、その栽培に成功したこと、小作人組合を結成しメーデーへの農民参加を実現していたこと、などを記しています。試しに、その頃の石根小学校在籍児童数を調べると、なんと600名という、「村の学校」の域を超えた数になっていました。


国道11号と旧道
石根村はまた、(今ではこれを知る人は少数ですが)、石鎚山への登山口としても知られていました。
石鎚山に登る多くの人たち(遍路や修験者や登山愛好者達)が、石根村大頭から、妙口、大郷(おおご)を経て横峰寺に登り、そこから石鎚山を目指したのでした。村名を「石根」としたのも、そうした石鎚と村との深い関わりがあったからでしょう。「石根」は「石鎚山の麓」を意味します。石根村は石鎚山の麓の村です。


景色
(後にも記しますが)横峰寺に上がるとき通る、妙之口川沿いの道(県道147号)は、かつては「おやまみち」の呼び名を持っていました。「おやま」は石鎚山を指していますから、すなわち、石鎚山に至る道が「おやまみち」です。
(昨日渡った)中山川に架かる橋が「石鎚橋」であるのは、「おやまみち」の名残です。大頭の先の妙口には、これも名残の石土神社があります。登山者たちは皆、この神社で無事登山を祈願し、それから登り始めました。登らない(登れない)人でも、この神社までは来て、石鎚山を遙拝したと言います。


現在の河口
石根村の登山口が衰退するのは、昭和6年(1931)、西条方面からのバス便が、河口(こうぐち)まで通じて以降のことでした。(この開通は、もっと早く、大正14年(1925)だったかもしれません)。
河口までバスで行けるとなれば、わざわざ大頭から入ってモエ坂を下るような人は、苦を修行として自らに課す人以外は、あまりいませんよね。


ロープウエイ山嶺駅
さらに昭和43年(1968)、西之川下谷-成就間にロープウエイが架けられるに至っては、七合目の成就でさえ乗り物で行くことができるのですから、大頭登山口の利用者は、ほぼ皆無となりました。いまや石鎚山は、日帰り可能な山となっているのです。


スーパー
さて、国道11号と県道147号との交差点(大頭交差点)にあるスーパーで、水や昼食などを調達。歩きはじめます。
かつての「おやまみち」(県道147号)を南進します。四国の瀬戸内側では、南進とは、山方向に進むことです。


妙之口川
すこし歩くと、道は妙之口川に沿う道となります。「協力会地図」には「流水量注目」と注意書きが記されています。
もしこの辺の水量が多いようなら、先々、進めなくなってしまうので、別ルートに変更しなさい、というのです。というのも、県道147号の先の山道は、妙之口川に注ぐ沢に沿っているからです。下流の水量が多いときは、当然、沢の水量も多いわけで、そこは危なくて渡れません。
なお、妙之口川は「協力会地図」やグーグルマップでは妙谷川と記されていますが、国土地理院地図では妙之口川です。


鳥居
石土神社の鳥居です。これも、この道が「おやまみち」であった頃の名残です。
鳥居の向こうには、高灯籠が見えています(後述)。他に、狛犬や石灯籠なども、この道沿いには多く建っていたとのことです。


扁額
「いしづち」の表記は、石鎚、石槌、石鉄、石鈇、石土、などがあります。
扁額では「石鈇」が使われ、神社名では「石土」が使われているのは、どういう事情からでしょうか。「神仏分離」を経る中で起きたことでしょうが、詳細は分かりません。 


高灯籠
昭和6年(1931)、石土神社の式年祭記念として、時の宮司が建立したコンクリート製の灯籠です。国の登録有形文化財。


石土神社
明治初期の神仏分離以前は、石土蔵王権現を祀っていましたが、神仏分離により、石土蔵王権現は(仏体とみなされ)別当寺であった妙雲寺に遷され、石土神社は、石土毘古神を祀るようになりました。


妙雲寺山門
石土神社の南隣にある、妙雲寺の山門です。見えにくいですが、右端の石柱には「六十番前札」の文字が刻まれています。
妙雲寺は、空海が定めたと伝わる、古くからの「六十番前札所」でした。横峰寺登山を前にして安全を祈願したり、なんらかの理由で横峰寺まで登れない人が、札を納めたと言います。


前札所
六十番前札所として、また石土神社の別当寺として、妙雲寺は栄えていましたが、明治の神仏分離・廃仏毀釈以降、寺運は傾きました。60番横峰寺が廃寺となることは、60番前札所である妙雲寺が、その存立の基盤を失うことを意味するからです。
やがて小松町新屋敷の清楽寺が六十番となり、欠番は埋められましたが、清楽寺のある新屋敷は平地ですから、前札所の必要はないのです。前札所は道の険しい札所にのみ必要です。因みに現在、前札所があるのは66番雲辺寺(前札所は萩原寺)、かつてあったのは27番神峰寺です。いずれも険しい山上の寺です。


妙雲寺
清楽寺に代わって横峰寺が60番に復帰したときは、妙雲寺にとって、六十番前札所に復帰できるチャンスだったのですが、ここでも妙雲寺は不運でした。その時、妙雲寺はあいにく火事に見舞われて、事実上の廃寺状態にあったのです。残念。前札所の座は清楽寺に移り、それは、妙雲寺が火事から復興しても、戻ってくることはありませんでした。妙雲寺は今は、「六十番前札所旧跡」ということになっています。


妙雲寺本堂
妙雲寺本堂です。後で分かったことですが、元は61番香園寺の本堂だったとのことです。
昭和51年(1976)、香園寺の大聖堂(後述)建立に際して、妙雲寺に解体移築されたのだそうです。


蔵王宮
ここに蔵王権現が鎮座まします、との扁額は、能書家として知られた、小松藩3代藩主・一柳直卿の手になるそうです。妙見寺が一柳氏の祈祷寺であることから、揮毫されたとのこと。これもまた「おやまみち」の名残と言えましょうか。


松山自動車道
松山自動車道を潜ります。この区間は、私たちが歩く約一年前、二車線から四車線供用に切り替わっています。


船山に登る
船、山に登る。なんでこんな山の中に船があるのでしょう。船頭さんが多かった?


台風被害
昨年の台風で崩れました。前号でも記しましたが、この台風被害は、甚大かつ広範囲にわたりました。
その様子が関東ではあまり報道されなかったのは、中越地震や福岡地震の影となっていたからかもしれません。


自転車遍路
自転車遍路さんが、しばらく一緒に歩いてくれました。休憩を兼ねて、押して歩きます、とのことでした。
彼は愛媛県の人で、・・この辺は麦の生産日本一であること、「あたご柿」(石根産だ!)が甘いこと、冬、5センチくらいの雪が積もること、台風に被害が大変だったこと、などを話してくれました。


妙之口川
蛇行部分が崩れたようです。復旧工事中でした。


被害
倒木や石が積み重なっています。


尾崎八幡神社
八幡神社が全国展開するのは、八幡神が武神として、源氏の篤い尊崇を受けるようになってからでした。源氏による尊崇は、義家が八幡太郎を名乗ったことや、鎌倉・鶴岡八幡宮の建立などで、一般的にも知られています。
八幡信仰が、この地にいつ頃届いたかは分かりませんが、勝手な推測をすれば、明治期、日本が日清・日露戦争の戦捷に湧いていた頃ではないでしょうか。


御来迎所
古い方の石碑には、「御来迎所文化十四年」とあります。新しい方は、「横峰寺御来光出現」の見出しがあります。年号は昭和48年(1973)です。



県道147号の行き止まりです。ここから山道になります。
そこにこんな掲示がありました。


天然水
これがその天然水です。天然水パワーで登りましょう!


自転車遍路
さきほどの自転車遍路さんが、ここへの到着時間を書き残してくれました。8:52とあります。私たちは、1時間ほど遅れて着きました。彼はここから横峰寺の間を、歩きで往復します。どこかでまた会えるかと期待しましたが、会えませんでした。


山道へ
急坂です。船形丁石には二十丁とあります。この二十丁は、これから横峰寺まで、どれだけ歩くかを示しています。


階段
でも、同じ足を繰り返し使わなくてすむよう、工夫してくれました。これは助かりました。段が擬木ではなく、木で切られているのも、うれしかったです。


丸太橋
新しい橋が架かっています。たぶん前の橋は流されたのでしょう。


被害
まだ整備は終わっていません。


地蔵丁石
七丁と刻まれているようです。次の丁石とほぼ同じ所に立っていましたから、七丁で間違いないでしょう。


丁石
「從峯七丁」とあります。峯より七丁、つまり、あと七丁です


観音堂
この辺に「古坊」(ふるぼう)という集落があったそうです。集落の事実上の消滅は、昭和50年代だったようです。HP「石鎚村の集落」は古坊集落の人口を、昭和25年 7世帯で29人、昭和62年 1世帯で1人 と記しています。商品経済の波が山奥の集落にも押し寄せてきたこと、(前述のように)大頭からの登山者が激減し、登山者から得ていた収入が途絶えたこと、などが原因でしょうか。


遍路墓 
堂の廻りには、石仏、墓石などが多数見られます。堂の奥には家屋が建っていたとおもわれる石垣も残っています。
なお、四国遍路道指南(真念)に「ふるほう 地蔵堂」との記述があり、これがその地蔵堂かとも思われますが、南無観世音菩薩の幟が立っているので、観音堂としておきます。


仁王門
60番横峰寺仁王門です。案外簡単に着きました。復旧工事に携わった方々のおかげです。


横峰寺
この辺りにも土石流が迫ったと、境内の一部を指して、復旧工事の人が話してくれました。
・・あんたらも登ってきたけん、わかろ。復旧するゆうたかて、ここまで上がって来るんが大変だったんよ。何時間もかけて登ってきたけんな。
ドカベンをパクパク食べながらの話でした。


別当寺
64番前神寺と60番横峰寺は、ともに石鎚信仰の中心的存在ですが、江戸期には、「石鎚山別當」を争い合う関係にありました。両寺が同一の藩に在れば、落とし所もあったかもしれませんが、横峰寺は小松藩に、前神寺は西条藩に属しており、手打ちはなりませんでした。
今は、前神寺が東の遙拝所、横峰寺が西の遙拝所ということで、うまく納まっているようです。


石段
石段を上がって右方向が本堂。左方向が大師堂です。二つが向かいあうように建っています。


本堂
上掲・別当寺の写真は、もう少し引いて撮れば、「石鈇山別當横峯寺」がきちんと入り、いい写真になったと思われます。この本堂の写真も同じです。もう少し引いて撮れば、左端に少しだけ写っている狛犬を入れることが出来たのでした。
どちらも、神仏混淆の証を見事に撮りはぐっている、お恥ずかしい写真ですが、こんなことに気づくのも、これがリライトであるからでしょう。


狛犬
後の機会に撮った狛犬です。


横峰寺の道標
お参りを終え、横峰寺の奥の院・星が森へ向かいます。
道標がありました。
   右 大頭道    左 石槌山道
右方向が、大頭から登ってくる道(大頭へ降りてゆく道)。左方向が、星が森からモエ坂を下り、虎杖あるいは河口から、成就→山頂へ登る道です。前述の「おやまみち」は、この両方を合わせた道をいいます。


星が森
説明に、・・白雉二年(651)役小角この地より石鎚山を遙拝し蔵王権現を感得さるる。弘法大師四国錫杖の砌り42歳除厄のため星供養を修し給う。因ってこの地を星森と名づく。・・とあります。
蔵王権現を感得された役小角は、その尊像を石楠花の木に彫像。小祠を建ててこれを祀ったといいます。横峰寺の創建譚です。


石鎚山方向
石鎚山が霧に閉ざされ、目視できない日もあるからでしょう。その鎮座まします方向が示されています。金子みすゞさんではありませんが、見えないけれどあるんだよ、というわけです。


道標
これより石鎚山山頂まで、(往)8時間  (復)5時間 13.1キロ 


モエ坂へ
モエ坂への道です。この頃は通行可能だったようです。今は閉鎖されています。
モエ坂を降りたところが虎杖で、かつては黒川道で成就に登れましたが、黒川道も、今は閉鎖されています。
虎杖から加茂川沿いに少し下ると河口で、河口からは、今宮道で成就に登ることができます。この道は今も歩けるようです。


石鎚山
神々しいとは、こういうのを言うのでしょうか。時間を忘れて見入っていました。


石鎚山
鉄の鳥居は、寛保2年(1742)の建立だそうです。この鳥居があるを以て、この地を「鉄(かね)の鳥居」とも称していたといいます。


香園寺へ
星が森からふたたび横峰寺に戻り、61番香園寺へ向かいます。


分岐
道路情報が記されています。・・61奥之院白滝経由香園寺道 降雨時2-3日間 流水増危険。ハイウエイオアシス経由遍路道 土石倒木で埋1没 通行不能・・ とあります。むろんこれは平成17年4月時点でのことです。


荒れた道
ここ数日雨は降っていませんから、林道から山道に降りてゆきます。
この山道は、林道が開通するまでは、前述の古坊につながる道でした。古坊の人たちは小松の街部へ出るのに、この道を生活道路として使っていたそうです。


道標
下り道に設置された道標が、やや上向いているのにお気づきでしょうか。この道、けっこう上り下りがあるのです。下り道だからといって、下る一方ではないのです。上りもあります。


道標
ここは「おこや」と呼ばれる分岐点です。かつては、数軒の茶店があったと言います。
林道から山道に降りる分岐点に、奥之院白滝経由香園寺道とハイウエイオアシス経由遍路道の二ルートが示されていましたが、この二ルートは、此所、「おこや」で分岐します。
小さな木製の道標には「岡村」とありますが、「岡村」は、ハイウエイオアシスのすこし先にある地名です。


通行禁止
ハイウエイオアシス経由岡村への道は、案内通り、閉鎖されていました。
かつてこの道は、中国地方から船で渡ってきた人たちが通った「おやまみち」でした。氷見(ひみ)に上陸し、星が森を経由して、石鎚山を目指したといいます。


景色
小松の街が見えてきました。


崩落
崩れないよう、そっと歩きます。
前年、平成16年の台風21号被害が、いかに甚大であったかがわかります。私たちが歩く1ヶ月ほど前まで、横峰寺へ歩いて登る道はいずれも閉鎖され、参拝・納経は、河口の横峰寺別院に開設された仮納経所で行っていました。私たちはその解除を知って、出発を決めました。


倒木など 
赤リボンが見え、倒木にチェーンソーの跡が見えることからもわかるように、ここは道なのです。捻挫に気をつけて歩きます。


林道へ
山道から林道へ降ります。


新緑
香園寺に17:00前に着けるか、この辺から心配になってきました。急ぎます。


奥の院
トップギヤーで歩きました。奥の院も通過です。ここから香園寺まで、二人とも、一枚の写真もありません。


61番香園寺  
一昨日の仙遊寺に続いて、今日も5:00直前の滑り込みでした。
本堂と大師堂を兼ねる大聖堂は、外観とは異なり、内部は荘厳(しょうごん)そのものです。


香園寺
ご覧いただきまして、ありがとうございました。
いつもなら本文中に何カ所も、リンクをはるのですが、今号ではそれをしませんでした。
そこで横峰寺を歩いた他のアルバムを二つ、巻末で紹介させていただきます。
→(H30秋3)このアルバムでは、香園寺奥の院ルートで横峰寺に登り、林道を下っています。成就辺りまでを散策するためです。
→(H24春遍路5)このアルバムでは、今号と同じ大頭から登り、奥の院ルートで下っています。
よろしければご覧ください。次回更新は、5月25日を予定しています。

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伊予国分寺 尼寺 蛇越池または医王池 栴檀寺 道安寺 臼井御来迎 日切大師 

2022-03-30 | 四国遍路

 
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道路標識
平成17年(2005)4月15日。
北さんと私は、伊予富田駅近くのビジネスホテルを発ち、59番国分寺に向かいました。その後、国分尼寺、栴檀寺などを経て、60番横峰寺への登り口がある、丹原町に宿をとります。しかし、予約はまだです。


国分橋バス停
県道156号に、国分橋(こくぶ橋)というバス停がありました。


頓田川
国分橋は、頓田川(とんだ川)に架かる橋です。この川を境に、これより以東が国分地区となります。
ためしに地図で、県道156号上のバス停をたどってみたら、国分橋の次が国分郵便局、その次が国分寺と、「国分」がついたバス停がつづいていました。つまりこの区間が、国分地区であるわけです。なお国分寺の次は東桜井となっていますから、ここからは桜井地区です。


境界石
国分寺に近い県道156号脇に、「是従西今治領」の境界石が建っていました。「是従西」、つまり「国分以西」が今治藩領であることを告げる境界石です。
国分地区は、元は松山藩の飛地に属していましたが、明和2年(1765年)の領地替えで、(古国分村とともに)今治領に編入されました。この境界石は、その時、境界が変更された(広くなった)ことへの注意喚起として、建てられたのではないでしょうか。
なお、この時、桜井地方の国分村と古国分村以外の松山藩飛地は、幕府に召し上げられ、天領(幕府の直轄地)となっています。


国分寺へ
国分寺への参道です。写真奧に、唐子山が見えています。唐子山の向こうは、桜井地区です。
私は平成30年(2018)、唐子山から桜井海岸に出て、大崎の鼻から栴檀寺に向かったことがあります。この白砂青松の道は、多少距離は伸びますが、絶対、お勧めです。→(H30春6)→(H24春遍路4)


59番国分寺
五来重さんは「四国遍路の寺」の中で、(伊予に限らず全国の)国分寺について、次の様に話しています。
・・天平年間(729-49)に建立された国分寺が堂宇を残しているのは非常に稀であって、・・略・・しかも国分寺がそのまま残ったわけではなくて、国分寺の中の一支院や一坊が残って、国分寺という名前を名乗っています。


本堂
・・伊予の場合も、民家の間に西塔の礎石が残っていることから考えますと、国分寺伽藍の周囲にあったいくつかの坊が、国分寺の名を称していたということがわかります。
・・現在は、景勝院の薬師堂を本堂として、国分寺の名を称しています。


大師堂
今では、どの札所にも本堂と大師堂があり、私たちはまず大師堂にお参りし、次に本堂に参ります。しかし「四国八十八ヵ所霊場巡り」の創成期、大師堂がどの札所にもあったかというと、そうではありません。


焼山寺道の大師像
大師堂はどのようにして各札所に建つようになったのか、頼富本宏さんは「四国遍路とはなにか」に、次の様に記しています。
・・四国遍路が「お大師さまによって作られた」という共通認識が広く定着すると、その「お大師さま」を表す仏像とそれを奉安する「御堂」すなわち大師堂(御影堂)が必要となってくる。
つまり、大師信仰が流布→定着してくるにつれ、その受け皿たる大師堂が必要になってきたということでしょうか。


大師と衛門三郎(杖杉庵)
大師堂の建設がいつ頃、どれくらいのペースで進んだかについて、頼富さんの面白い研究があります。頼富さんはそれを、澄禅さんが残した遍路日記と、寂本さんが(真念さんの資料提供を受けて)著した霊場記の記述から、明らかにしています。
・・承応2年(1653)、澄禅が巡拝した頃には、次の12ヵ所の札所に大師堂があったことが「四国遍路日記」の記述から知られる。(札所名略)
・・その後も大師堂は各札所に建立されつづけ、元禄2年(1689)の「四国遍礼霊場記」の頃になると、次の35ヵ所に大師堂があることが記されている。(札所名略)
つまり、「四国遍路日記」の頃、12ヵ所だった大師堂が、「四国遍礼霊場記」にかけての36年間に、3倍近くに増えているというのです。それだけの勢いで大師信仰は広まっていた、ということです。


屏風ヶ浦新四国108霊場巡りの大師と衛門三郎像
   「四国遍路日記」 (澄禅)    承応2年(1653)
   「四国遍路道指南」(真念)    貞享4年(1687)
   「四国遍礼霊場記」(寂本)    元禄2年(1689)
   「四国遍礼功徳記」(真念)    元禄3年(1690)
これら一連の出版活動を契機に「四国遍路の大衆化」が進み、また「大衆化」が出版活動を促しました。上記の内、とりわけ「遍路道指南」は、増補に増補を重ね、今でいう大ベストセラーになったといいます。
道や道標の整備も、徐々にではあっても進みましたから、人たちは講を組み、大挙して「お大師さんの国・四国」へ向かうようになりました。となれば、当寺には大師堂はありません、ではすまされないというものです。


石手寺の衛門三郎碑
僧・空海と「お大師さま」は、人物としては同じですから、当然、重なり合う部分はあるわけですが、同一ではありません。と言うより、異なるとさえ言えます。その辺のことについての頼富さんの記述は、例えば次の様です。
・・古代の辺路修行者の行場が聖地化することから発生した四国霊場は、平安時代後半から弘法大師空海の遺跡巡礼の要素を強めた。衛門三郎伝説がほぼ出来上がった中世中頃には、人間存在を超越した一種のほとけとして、しかも宇宙仏的な遍在性をも有する大師信仰が中軸となった大師一尊化が表面に出てくる。


櫻井小学校
学校で教わったところでは、国分寺は、国分僧寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を合わせて国分寺なのですが、(男性社会たる所以でしょうか)「国分寺」は、たいていの場合、僧寺を指し、それに尼寺は含まれません。
ちょっとおかしかないか?そんな思いもあって、私たちは「国分寺参拝」を完成させるべく、国分尼寺をたずねることにしました。一説には、尼寺と僧寺は、互いの鐘の音が届く範囲に建てられたそうなので、だとすれば、さほど遠くないところにあるはずです。


地図
伊予国分尼寺・法華寺は、かつては、上掲写真の桜井小中学校の辺りからJR伊予桜井駅の辺りにかけての、広大な敷地にありましたが、江戸時代初期、現在の山裾に移されたとのことです。秀吉の「四国征伐」による火災が原因だと言います。
地図中の「伊豫国分尼寺塔跡」については、→(H30春6)をご覧ください。


国分尼寺(法華寺)
伊予国分尼寺・補陀落山法華寺です。
石段脇の石板に、当寺の石段が「御砂踏み」になっていることが、刻まれています。石段の下には、四国八十八箇所はもとより、空海が密教を綬法された中国青龍寺、真言宗を開かれた高雄山神護寺、真言宗を弘められた京都東寺、そして入定された高野山奥の院のお砂が納められているそうです。
心して登ります。


国分尼寺
集められた石は、何に使うものだったのでしょうか。後でどなたかに尋ねるつもりで撮った写真ですが、分からず終いになりました。


本堂(平成30撮影)
全国の国分尼寺は、ほとんど、その跡を残すだけになっていますが、四国では、伊予と讃岐の国分尼寺が、今も法灯を灯しつづけています。→(H25初夏9)
しかし土佐国分尼寺は、残念ながら、その所在地も論定できていません。比江廃寺跡がそうではないかとは言われていますが、その礎石は、塔心柱の礎石をのぞいて他全部が、藩政期の国分川改修工事に使われてしまっているという有様で、もはや調査のしようもないのが実情でしょう。→(H27春9)


阿波国分尼寺跡
阿波国分尼寺は、場所は特定されています。この写真は、平成20年(2008)に訪ねたとき、撮ったものです。この時の遍路記がまだ閲覧できない状態なので、とりあえず写真だけ、今号に掲載しておきます。(極力、リライトを急ぐつもりではいます)。


伽藍配置
阿波国分尼寺跡は、昭和48年(1973)に国指定の史跡となっています。


瑜伽権現
本堂よりもう一段高い石段の上に、瑜伽大権現(ゆが権現)が祀られています。金毘羅大権現と「両詣り」の権現さんです。つまり、どちらか一方だけの「片詣り」は御利益が薄れる。両方詣れば、御利益は倍以上もいただけるという、バチを怖れず書くならば「商売上手」の権現さんです。
なお瑜伽権現で最も知られていたのは、岡山県倉敷市の瑜伽大権現でした。同市児島田の口の湊には、金比羅船が寄港していたといいます。


桜散り敷く
境内を借りて昼にしました。桜を楽しみながらアンパン、おにぎり、ジャコ天。


国道196号で
3人組の遍路が前を歩いていました。先頭が錫杖を持った年配の男性。その後に若い男女がつづいています。一昨日、延命寺で会い、昨日、泰山寺でも会った人たちです。
三人は、別個に歩き始めましたが、錫杖の人が声をかけてグループとなり、以来、28日、一緒に歩いてきたのだといいます。ただ、若い二人は、・・もうそろそろ独りで歩きたい・・と思っているようです。この方たちとは、この後も出会い、複数で歩くことの難しさを教えられることになります。


桜井漆器会館
桜井漆器の起源は、江戸時代後期、19世紀前半までさかのぼるそうです。漆も木地材も豊富に採れるとはいえない海沿いの地・桜井に、なぜ漆工芸が根づいたのか。そのきっかけとなったのが、(前述の)桜井地方の天領化だったと言います。天領で集めた年貢米を別子銅山(新居浜)や大阪に運ぶ必要上、桜井に河口湊が発達。やがて御用米を大阪に運んだ廻船業者が、帰り船に紀州黒江(和歌山県海南市)の漆器を積むようになったのです。


桜井漆器会館
持ち帰った漆器は、初めは国分寺を初めとする近辺の寺社に納めていましたが、そのうち漆器行商船(椀舟と呼んだ)を仕立て、九州にまで運んで行商。帰り船には唐津、伊万里の陶器を積んで、阪神、和歌山方面で行商するという、いわゆる「混合行商」をするようになったといいます。
(以下、端折りますが)「漆器は儲かる」ことを知った桜井の人たちが、「ならば自分で作ろう」となるのは自然のことだったようです。


湯ノ浦温泉
やや旧聞に属しますが、「熱海温泉は東京の奥座敷」に倣えば、(今治にはすでに鈍川温泉という奥座敷があるので)湯ノ浦温泉は今治の新・奥座敷でしょう。湯ノ浦温泉には大型の宿泊施設が、3軒もあるのです。いつか泊まって、燧灘の素晴らしい景色を眺めてみたいものです。


孫兵衛作バス停
バス停の名前「孫兵衛作」は、この辺の地名です。近世初期、この辺を支配した土豪・長野孫兵衛通永が開拓した土地であることから、孫兵衛作という地名になったとのことです。かつては孫兵衛作村という土豪村を形成しており、天正13年(1585)、秀吉の「四国征伐」では、孫兵衛一党は金子備後守元宅率いる地元軍に敢然と参陣。西条市氷見の野々市原の戦で敗れています。
この辺の盆踊り唄(トンカカ踊り唄)は、その戦いを次の様に唄っています。・・頃は天正13年 予州風雲告げるとき 文月はじめに寄せ来る敵は 隆景軍の参萬騎 軍議まとめる金子の殿は 義理の義の字の華と散る・・→(H31春2)


北条の「石風呂」
石風呂は、かつては瀬戸内海沿岸に、多数あったのだそうです。
そういえば鎌大師の近くの海沿いにも、「石風呂」という地名が残っていました。北条の街で見られる「塩(潮)湯」は、その流れを引いているのかもしれません。石風呂は洞窟を利用した蒸し風呂で、熱くなると海に入り、身体を冷やします。お大師さんが、・・除病延寿に、これに過ぎたるはなし・・、とおっしゃったとか。→(H24春遍路4)


蛇越池または医王池
この池は、長野孫兵衛が孫兵衛作村の灌漑用池として工事したものです。ただし孫兵衛は池の完成を見ず、亡くなっています。
名前の蛇越池は、この地に伝わる龍女伝説あるいは栴檀寺が伝える水呑龍伝説から来ています。医王池の名は、この池の水源である医王山からとったものです。(「医王」については後述)。


蛇越池の湿地
・・この池に龍女・・大蛇ともいう・・が棲んでいたそうな。村人は旱魃の年でも龍女のために、池の水は少し残すようにしていたんじゃが、ある酷い旱魃の年に、村人は困り切って、池の水を全部使わせてはくれまいか、と龍女にお願いしたんだと。
・・龍女は村人を憐れんだんじゃろか、願いを入れて池を去り、どこへやら行ったというが、以来、この池は水が涸れんばかりか、きれいなサギソウが咲く池になったんじゃ。龍女が通った跡が湿地になって、そこにサギソウが咲きだしたんじゃ。


分岐
道路標識に「世田薬師」とあります。次の目的地である世田山栴檀寺のことです。


蛇越踏切
蛇越池から名前をとった、予讃線の踏切を渡ります。
高架は、今治-小松自動車道です。


西条市
蛇越池の写真(上掲)に「東予市」と書いた道標が写っていますが、実は私たちが歩いた時点で、もう東予市はありませんでした。
東予市は昭和の大合併で、周桑郡壬生川町と三芳町が合併して誕生した市でしたが、平成の大合併で、今度は西条市の一部になったのでした。


栴檀寺
  薬壺封じ道場 世田薬師  
  四国霊場 世田山栴檀寺
とあります。山号の世田山は、栴檀寺の背後の山で、山上には栴檀寺の奥の院があります。(山上の奥の院、山腹の不動明王像については、 →(H30春7)をご覧ください。


栴檀寺本堂
前述の水呑龍伝説は、
・・栴檀寺には左甚五郎の作といわれる龍像があっての、これが夜な夜な寺を抜け出でては、医王池の水を呑みほしてしまうんよ。困った百姓がえらいお坊さんに頼んだところ、お坊さんは法力で龍を八つ切りにし、「かすがい」でとめてしもたというぞ。
・・さあ、そうなっては龍も動けん。今は世田薬師さんの本堂で、温和しうしとるとよ。おかげで池は満々と水を溜めてな、百姓は水に困ることがのーなったちゅうことじゃわい。


医王山
栴檀寺の駐車場から見た医王山です。
この山を栴檀寺の本尊である薬師如来=医王に見立て、医王山と呼んでいるわけです。


建築中
信徒会館のようなものでしょうか。建築中でした。瓦はむろん菊間瓦じゃ、とのこと。


傾斜
ご覧のように、四国山脈からなだらかに落ちてゆき海に至るのが、四国の瀬戸内海側の基本地形です。
降った雨はすぐ地下にもぐって伏流水になるか海に流れ出してしまいますから、灌漑用水を安定的に確保するには、「溜め池」が必要でした。溜め池の造池は江戸時代中期に始まったとされています。


崩落
雨の少ない地方に、たまに大雨が降ると、溜め池の洪水調整機能は充分ではありませんから、大災害が起こります。私たちが歩いた前年の平成16年(2004)には、愛媛県地方は台風15号・21号・23号にみまわれ、大きな被害を受けました。
例えば台風21号が新居浜市などの瀬戸内側に降らせた雨量は、時間雨量100ミリを超えたといいます。明日登る予定の横峰寺道も、何カ所もが崩落し、つい最近まで不通になっていました。


懐かしのスバル
スバル360!懐かしさに、思わずシャッターを切りました。
1950年代末に売り出された、比較的安価な軽自動車です。フォルクスワーゲンのかぶと虫をもじって、てんとう虫と呼ばれていました。まだ日本車が米車など外車に、劣等感を持っていた頃の車です。


北川
この川の左岸をキロほど遡ると、実報寺があります。よいお寺です。私はこの後、二度訪ねています。→(H30秋1)→(H24春5)


医王山道安寺
敷地から奈良時代の瓦が出土しているといいますから、古い寺なのです。しかし、正平19年(1364)、河野通朝と細川頼之の間で争われた世田山合戦→(H30春7)
に巻き込まれて堂宇を全焼失。その後再建するも、また焼失をくりかえし、ついには持っていた寺領も失ってしまったといいます。
山号は本尊の薬師如来(像は聖徳太子御作と伝わる)に因んで医王山と号します。世田薬師の栴檀寺と同じ山号です。


臼井御来迎
老婆の願いで大師が臼から湧かせたという井です。この湧き水に念ずれば、水の輝きの中に諸仏の御来迎が拝めるといいます。また、まぜれば虹が出現するとも。



「臼井」の臼です。→(H30春8)


桜散る
そろそろ桜も終わりのようです。
けれども明日は、標高745㍍の横峰寺に登ります。上では、まだきれいに咲いているかもしれません。


カブトガニ
この辺りは、生きた化石とされるカブトガニの生息地だったといいます。昭和30年(1955)頃までは、たまに海で見かけたと言います。海は、その頃まではきれいだったのです。夜、海で泳ぐと、夜光虫が人型に光ったといいます。
瀬戸内海の汚染は、昭和39年(1964)、今治市,西条市,新居浜市,四国中央市を中心とする、燧灘に面する一帯が「新産業都市」に指定されたことにより、致命的に進みました。海岸線が壊され、工場排水が海を汚すようになったからです。


日切大師
○○までにお願いします、と願えば、その日限を守って願いをかなえてくださいます。だから日切大師さんです。


お大師さん川
日切大師の側を流れている川は、案内板によれば、・・正式には真手川というが、土地では、お大師さん川と呼ぶ・・ようです。
川に架かる橋も、正式には真手橋ですが、出張橋(でばり橋)が通称だそうです。かつて三芳村が大洲藩の飛び地で、毎年、代官派遣が行われていたことからくるといいます。


光明寺
日切大師の前に光明寺があります。生活臭があって、私の好きなお寺です。


無料遍路宿
光明寺境内に、無料遍路宿がありました。近所の人の話では、昔、日切大師が遍路を泊めていたそうですから、その伝統を引き継いだのかもしれません。
張り紙がしてあって、・・ものもらいをする人、遍路の格好をして人の善意を食べ物にする人、四国を放浪して何度も泊まる人は「お断り」・・と書いてありました。いわゆる「へんど」お断り、ということでしょうか。


けしき
「へんど」は「へんろ」の訛りで、「遍路」を意味しましたが、やがて、乞食(こじき)や「ものもらい」を指す語として自立しました。喜捨に頼って歩く遍路から、乞食やものもらいが連想されたようです。風呂はもちろん洗濯も満足には出来ない長旅でしたから、汚れた格好ではあったのでしょう。


大明神川
大明神川は、かつては暴れ川として知られ、たびたび氾濫を繰り返したそうです。時には(近くを流れる)新川につながって、その水路を横取りしてしまったりもしたそうです。
しかし暴れん坊のすることが、なんでも悪いわけではありません。いいこともします。私たちが今、歩いている周桑平野は、大明神川が氾濫を繰り返す中で造られました。


県道150号
遍路道はこの先、安用(やすもち)で二つに分かれます。ひとつは、県道150号から151号を経て西山興隆寺に至る道で、もうひとつは県道155号から147号を経て、生木地蔵(いきき地蔵)や横峰寺登山口の妙雲寺→(H30秋1)・・・・・に至る道です。


野間馬
突然、遍路道沿いに野間馬がいました。デカイ頭、長いたてがみ、ヅン胴の体型は、典型的な野間馬です。また蹄が固いので、蹄鉄をつけていないのも特徴です。
ここにもいるということは、だいぶ個体数がふえてきているのでしょうか。絶滅寸前だったとのことでしたが。(前号参照)


丹原町
三芳町から丹原町に入ってきました。私たちは丹原町を抜け、その先の小松町にある宿に泊まります。
出来れば丹原町にある古くからの宿に泊まりたかったのですが、満員とかで、泊まれませんでした。なおその宿は現在、廃業しています。


新川
前述した新川です。この川も周桑平野の形成に、一役買いました。
なお周桑平野とは、旧東予市(壬生川町、三芳町)、丹原町、小松町にまたがる平野です。(次号で記すことになる)西条平野とあわせて、道前平野ともよばれています。なお「道前」は、「道後」と対になる語で、桜井の国府が在る辺りを「道中」とし、それより都側を「道前」、都に遠い側を「道後」と呼んだようです。ですから「道後」は、今では温泉が在る辺りだけを指しますが、本来はうんと広かったのです。


田植え
この辺の田植えは5月中旬から6月初旬にかけてだと思っていたら、4月中旬の今、すでに田植えが終わっていました。たぶん早期栽培というやつでしょう。台風被害を受ける前に、収穫してしまおうというのでしょうか。


鯉幟
都会ではなかなか見られない、見事な鯉幟です。鯉の泳ぎ方から、風が強いことが分かります。



麦畑の風の道を写したかったのですが、成功していません。


中山川
中山川です。架かる橋は、石鎚橋。川の手前は丹原町。渡れば小松町です。
この川もまた暴れ川でした。この川の河口近くにあった62番札所が、度々の洪水を避けて現在地(小松駅近く)に遷ってくる顛末は、→(H30秋2)をご覧ください。


石根公民館
横断幕に、新「西条市」誕生!!とあります。西条市、東予市(壬生川町、三芳町)、丹原町、小松町の2市2町が合併して、新「西条市」が発足したのは、平成16年(2004)11月11日でした。私たちがここを歩く5ヶ月前のことです。間もなく新西条市の市議会議員選挙のようです。


石根郵便局
県道147号と国道11号の交差点を右折します。
石根郵便局の建物は洋風です。かつて、この辺が栄えていたことを思わせます。


旧道
国道に寸断されながらも、昔の道が残っていました。道の両側に商店が並んでいたようです。

さて、もうすぐ宿というところで、今号は終わらせていただきます。出来れば香園寺までを今号に入れたかったのですが、間に合いませんでした。
次号は横峰寺登山から始まります。更新予定は、4月27日です。ご覧いただきまして、ありがとうございました。

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大西町から 54番延命寺 55番南光坊 56番泰山寺 57番栄福寺 58番仙遊寺

2022-03-02 | 四国遍路

 
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井手家の大楠
宿から出ると、大楠に目を奪われました。こんな大きな樹なのに、昨晩は気づいていなかったのです。宿に着くのが遅くなり、気忙しかったからかもしれません。
樹齢は約350年といいます。江戸時代初期からの大西の変遷を、逐一承知の大樹です。


井手家の大楠と母屋
大楠の側に、珍しい住宅が建っていました。井手家住宅です。本瓦葺の屋根に2個の天水甕が据えられています。
これらは、近隣から火事をもらわぬための工夫です。瓦葺屋根は天水甕を支えるだけでなく、藁葺き屋根や板葺き屋根よりも火が燃え移りにくい利点があります。天水甕は、中の水を撒き散らして飛び火を消したり、いよいよとなれば、甕を壊して一斉に水を流し、火を消すこともできます。


井手家住宅
しかし、井手家住宅の天水甕には、防火以上の意味があるそうです。
井手家は大坂夏の陣で、(西日本の大勢が豊臣方に与する中)敢然と徳川方に味方し、戦功をあげたのだそうです。「本瓦葺と天水甕」は、その功績を愛でて許された、井手家の「格式」を示しているというのです。今風にいえば、ステータスシンボルでしょうか。天水甕は井手家のステータスを四囲に誇示するシンボルとして、高々と屋根に座っている、というわけです。


井手家住宅
本瓦葺の屋根は重く、江戸時代の初期、その重量を支えることの出来る躯体の建築物は、城郭や大寺社を除いては、まず存在していませんでした。
そんな時代に、重い本瓦葺のみならず、その上に天水甕を置く家を、地方の一豪族にすぎない井手家が建てるなどは、考えられないことであったに違いありません。


井手家住宅
因みに、江戸の街に瓦屋根が普及するのは、ようやく八代将軍・吉宗の時代になってからのことでした。度重なる大火に手を焼いた幕府が、桟瓦(さんがわら)の発明を契機に、瓦屋根や漆喰壁を義務化しようとしたのです。ご存知・大岡越前の活躍もあったりして?江戸では町人地にあっても、(すくなくとも表通りだけは)すっかり瓦屋根となり、卯建も上がったのでした。
なお桟瓦とは、それ 一枚で、本瓦葺の平瓦・丸瓦の両方を兼ねる瓦で、これにより瓦屋根の軽量化が進みました。


バス停
昨夕バスに乗った、西ノ谷バス停に引き返してきました。電車、バス共に適当な便がなく、やむをえずタクシーで来ました。
今日は、54番延命寺→55番南光坊→56番太山寺→57番栄福寺→58番仙遊寺→富田駅前の宿 と歩く予定です。私たちには、札所が多いこともあり、ちょっと難儀な距離かもしれません。


景色 
昨晩の雨は、いったい何だったのでしょう。いい天気です。


あいロード
国道196号は、「あいロード」と呼ばれるチューリップ街道です。「あい」は「愛媛」の「愛」でしょうか。 


あいロード
秋にはコスモス街道に変わるそうです。


造船の町
  またのおこしを タオルと造船の町 大西町
造船の町・大西町の「造船」は、かつては来島ドックが支えていました。今は、来島ドックが1980年代の造船不況で整理されたため、新来島ドックが支えています。タオル業にかんしては、今治タオル業組合 組合員名簿に記載された大西町の業者は数少なく、「えひめの記憶」が記すように、・・町の経済にとって、その比重はあまり大きくはない・・のかもしれませんが、各業者のHPを閲覧してみたら、製品開発に励むなど、大いに健闘する姿を見ることが出来ました。


造船の町
大きなスクリューが、造船の町に入ったことを知らせています。 


金毘羅神社のスクリュー
これは、別の機会に金毘羅神社で撮った写真です。航海の安全を祈願したのでしょう。→(H21秋4)


造船の町
こちらは延喜観音・乗禅寺で撮りました。やはり航海安全の祈願でしょう。きっと他にも、各所に奉納されているのでしょう。→(H30春3)


造船の町
新来島ドックのクレーン群です。


大西町新町の角
えひめの記憶は大西新町を、・・明治維新までは松山の城下にあるものは何でもあるといわれるほど栄えた免租の在町・・と記しています。その中心が、この辻で、江戸時代、ここには種々の布告や禁令の制札を立てておく札場があったといいます。そして(前述の)大庄屋・井手家の住宅も、このすぐ近くにあります。
遍路道は右方向ですが、直進すると、この道は県道15号(大西-波止浜線)で、波止浜(はしはま)という町に達します。
波止浜は魅力的な街で、かつては製塩業で栄え、今は今治造船(通称イマゾー)の街として知られています。


波止浜湾を塞ぐ来島
すぐ沖に、波止浜湾を塞ぐように、村上三島水軍の一、来島水軍の根拠地・来島がみえるのも魅力です。糸山展望公園に上がれば、来島、波止浜の街、来島海峡、そして「しまなみ海道」が一望できます。
私はようやく平成30年(2018)になって、波止浜、来島、その沖にある小島を訪ねることが出来ました。→(H30春2)でご覧ください。 


新来島ドック寮
新来島ドックの寮です。


菜の花畑
  うらゝかや げんげ菜の花 笠の人   森鴎外
「笠の人」はお遍路さんだと、私は勝手に思っています。


野間馬ランド
野間馬ランドに寄り道しました。歌が流れてきました。
 ♫ のまのま のまうま かわいい おうま たくさん あたまに さわってごらん しぜんに笑顔になれるから 仲よくしてね のまのま おうま・・・
覚えやすい歌で、この後ずっと、歩くリズムになっていたの覚えています。


野間馬
日本の在来馬では、最も小さい馬だそうです。特徴を挙げると、頭が大きい、たてがみが長くて豊か、ヅン胴の体型、蹄が固く、蹄鉄が要らないくらい、それでいて力が強い、・・などです。
江戸時代、野間村は馬産地として栄えましたが、小型であることが野間馬に悲劇をもたらしました。小型馬は軍馬には向かないし、食肉用の馬としても(とれる肉が少なく)向いていません。そのため明治政府が、明治18年(1885)と明治30年(1897)の2度にわたり、小型の馬の繁殖を禁止したのです。そのため野間馬は激減し、絶滅直前まで、その数を減らしたのでした。


野間馬
しかし、こんなに小さくなってしまったのは、むろん野間馬が悪いのではありません。こんな話が残っています。
・・江戸時代初期、松山藩主が野間郷(当時は延命寺までが松山藩領で、野間郷も松山藩領だった)の農家に馬の飼育・繁殖を命じたのだそうです。藩は、生まれた馬のうち、馬体の大きな馬だけを買い上げたので、結果、農家には小さな馬体の馬だけが残り、小さな馬と小さな馬を交配させるから、野間郷の馬は、ますます小さくなってしまった。・・という話です。ウソのような、ホントの話です。


橋脚の島・馬島
写真の、来島海峡に浮かぶ島は、「馬島」といいます。実は野間郷の前に繁殖地に選ばれていた島で、それに因んで、「馬島」の名がついています。
しかし、馬島での繁殖は失敗しました。飼料不足で馬が弱っているところに、疫病が流行してしまったからです。そこで馬島に代わって、野間郷にお鉢が回って来たという次第です。
それにしても、もはや「繁殖の島」でもないのに、馬島という名だけが残る島が、今度は「しまなみ海道」の「橋脚の島」となっている姿には、なにか寂しいものを感じます。


延喜郵便局
局名の「延喜」は、醍醐天皇(10C初頭)の元号から戴いた地名です。
この地に在る乗禅寺が、「延喜の聖帝」と呼ばれた醍醐天皇の勅願寺となったことが縁で、この地もまた、「延喜」と呼ばれるようになったといいます。


延喜観音・乗禅寺
勅願寺となった経緯は、乗禅寺HPによると、要旨、次の様でした。
・・醍醐天皇の御世の初めの頃、頓魚上人という名僧が、野間郡小谷村(後に延喜村となる)に居られました。その法力仏力の効顕なることを耳にされた醍醐天皇が、勅旨を出して頓魚を召されたところ、帝の病は三日と経たないうちに快癒。喜ばれた帝は、当地に七堂伽藍を建立して下さった、とのことです。
・・こうして乗禅寺は創まり、やがて改元を機に、醍醐天皇・延喜の聖帝の勅願寺となったのでした。


八木忠左衛門碑
乗禅寺の門前には、延喜村の庄屋・八木忠左衛門の顕彰碑が建っています。
忠左衛門は、貞享3年(1686)の大飢饉で、農民を飢えから救わんとして代官所に免租を直訴。聞き入れられぬとみるや、代官所を飛び越し、江戸藩邸への越訴に及んだ人です。願いは一部聞き入れられ、農民は救われますが、忠左衛門と、その子・小太郎は越訴の罪を問われ、打ち首となります。


八木忠左衛門碑
この碑は、忠左衛門父子の徳を慕う村民によって、建てられたものだと言います。
これから訪問する延光寺境内に墓がある、隣村・縣(阿方)村の庄屋・越智孫兵衛とは、対照的ともいえる生涯であると思い、ちょっとふれておきました。越智孫兵衛については後述。


54番延命寺参道入口
延命寺は聖武帝(8C初)の勅願により、行基が創建したと伝わります。かつては近見山(244㍍)の山頂近くにあったといい、これに因んで、山号を「近見山」と号しています。現在地に移転したのは、江戸中期の享保12年(1727)とのことです。
寺号は、かつては「圓明寺」と書いていました。そのため53番の「圓明寺」と紛らわしく、住民や遍路達は、所在地を冠して「阿方(あがた)の円明寺」、「和気の円明寺」などと、面倒な呼び分けをしていたそうです。


参道
しかし、斯様な煩わしさにもかかわらず、明治に入るまで、53番も54番も「圓明寺」を続けてきたのは、なぜだったのでしょう。Wikipediaに、答のヒントとなる一文が載っています。
・・(遍路達は)海岸山圓明寺と近見山圓明寺の両方の円明寺を四国側のかがり火(円い明かり)として大三島(55番札所大山祇神社が在る)に渡っていました。


溜め池
「圓明寺」という寺名には、大三島に渡る遍路達を導く、「明かり」が詠み込まれているわけです。となれば、そう易々とは変更出来ません。
ようやく寺名変更に踏み切ることが出来るのは、神仏分離令により、大山祇神社が55番札所でなくなってからのことでした。「明かり」にこだわる理由がなくなった以上、紛らわしさは、すぐにも解消するに越したことはありません。


改刻された道標(延命寺境内)
五来重さんは、54番圓明寺について、「四国遍路の寺」で次の様に話しています。・・(海の)難所をを通る場合、月明かりのない夜は公開が非常に危険ですから、おそらくこのお寺(現・延命寺)の常夜灯は、来島海峡を通る船の目印になった枢要な灯台ではなかったかとおもわれます。
思うに、そのような「枢要な」任務を負った寺として、「圓明寺」の名は、なかなか棄てがたかったのでしょう。なお53番円明寺が、(現在は街中に在るけれど)、元は海岸山円明寺と号し、和気の海近くに在ったことは、前号で記しました。和気浜から宮嶋への船が出ていたのでした。


改刻された道標
上掲の道標は、延命寺境内にあったものですが、この写真の道標は、大西町の安養寺門前にあるものです。元は(前述の)大西町新町の辺りに建てられていたものが、移されたのだといいます。
どちらも、削られた部分に「延命寺」と記されていますが、そこに、元は「圓明寺」と刻まれていたはずです。


山門
この山門は、今治城の城門の一つを移したのだそうです。明治6年(1873)の廃城令により今治城は解体されましたが、その時、城門を延命寺に移したのだと言います。(前述の、延喜の乗禅寺にも一つ移されています)。
今治城は美須賀城(みすか城)とも吹揚城(ふきあげ城)とも呼ばれる、美しい城でした。(現在は天守が復元されています)。美須賀の「み」は、「美」の呉音。「すか」は砂丘。すなわち「美しい砂丘の城」が美須賀城です。また吹揚城も同様の意味で、「風が砂を吹き上げて出来た砂丘の城」を言います。


本堂
延命寺は、養老4年(720)、聖武天皇(7C前半)の勅願を受けた行基が、不動明王像を彫像。これを本尊とし、堂宇を建てて開基したとのことです。
ただし御詠歌は、不動明王ではなく、奥の院の本尊である薬師如来の御利益を詠っているようです。
  くもりなき 鏡の縁と ながむれば 残さず影を うつすものかな


延命寺境内
御詠歌について、五来重さんは、次の様に話しています。
・・御詠歌の「鏡の縁」は、弧になってずっと見えている海岸線を指しているのかもしれません。ここからすべての景色が見えるということを詠んだものかとおもいます。薬師如来を拝むお寺であれば、鏡に罪・穢れ・病気を移して薬師様に受け取ってもらって治してもらうということで、病気平癒のために鏡を納めることがしばしば行われています。(略)延命寺の本尊は不動明王です。ただ、もう一つ薬師さんがあるので、あるいはそれかもしれません。本堂の左手に薬師如来をまつる含霊堂(位牌堂)があるので、それが御詠歌の鏡だとすれば、非常に古い御詠歌になります。


越智孫兵衛墓
説明看板には、次の様に記されています。
・・翁は元禄時代の縣村(あがた村・今は阿方村)庄屋で、慈悲深く智慧優れ、郷土の発展、福利増進に努力して大功あり、お上の表彰を受けた。その時代、松山藩の農民は「七公三民」の重税に苦しんでいたが、翁の尽力により縣村だけは「六公四民」に免下げしてもらえた。そのおかげで享保17・18年(1732-3)の大飢饉の時も餓死者が出なかった。元文3年4月2日に亡くなられたとき、特に延命寺境内に葬り、今日まで毎年8月7日に、感謝の慰霊祭を続けている。翁の顕彰碑は、阿方公民館に建立されている。  阿方文化連盟


越智孫兵衛顕彰碑
これが、阿方公民館の顕彰碑です。
江戸時代、農民の側につこうとした庄屋のほとんどは、(前述の)八木忠左衛門のような運命をたどりました。
越智孫兵衛のような例は、希有といってよいでしょう。


獅子舞
54番延命寺を発ち、55番南光坊に向かいます。
道沿いに、阿方獅子舞保存会の格納庫がありました。しまなみ海道と、今治地方独特の獅子舞「継ぎ獅子」の絵が描かれています。
継ぎ獅子は、最上段に獅子頭をつけた子供が乗り、大太鼓に合わせた舞いを、天の神さまに奉納するものです。この絵は四段継ぎの継ぎ獅子ですが、ある時期、天に近い方がよいということで、五段、六段と、危険覚悟で競い合ったこともあるそうです。


獅子舞の練習
平成29年(2017)、大西町の大山八幡神社へ太鼓の音に導かれていってみると、大西町の別府獅子連が獅子舞の練習をしていました。祭日直前の総仕上げ練習とあって、衣装も本番通りです。
左下に大太鼓をたたく姿が写っていますが、今治地方の獅子舞は、テンツクテンツクではなく、ドンドンドーンに合わせて舞われます、勇壮な獅子舞です。
→(H29春5)



55番南光坊へ
道標に従って進みます。


しまなみ海道
「しまなみ海道」です。写真奧が波止浜方向で、海道は波止浜から、海の上となります。
海道の下を潜ると、遍路道は大谷墓地に入ってゆきます。今治市営の大きな墓地です。


石仏たち  
しまなみ海道が通り、それとの関連で周辺道路が整備されました。そこで路傍の石仏さんたちも、棚の上に疎開です。


今治市街へ
大谷墓地の出口付近です。右の建物は花屋さんで、閼伽桶なども貸してくれます。
前方には今治市街が見えています。高い建物は、今治のランドマークタワー・国際観光ホテルです。
この坂を下りると川にぶつかるので、これを左折。しばらく川沿いに歩きます。川は、浅川という川です。


浅川
これが浅川です。
やや残念な施工です。こうなると、もはや川というより、溝渠というに近いのではないでしょうか。44番大宝寺への途中で見た、小田川の「近自然河川工法(多自然型川づくり)」が思い出されます。きれいな川でした。
帰宅して今治北高(後述)の校歌を調べてみると、♫ げに逝く水や 浅川の 岸の若くさ 丈のびて・・と始まっていました。やはりこの川も、かつては両岸に、若草萌える堤防がのびていたのです。


浅川
今治のお年寄りから聞いた、戦争中の話です。
・・あの日は、今治の真ん中が焼けたけんの、皆、四方八方に逃げたんよ。東には海があるし、南北には浅川や蒼社川が流れとるけん、頭じゃあ、西の山の方に逃げた方がええとはわかっとったんじゃが、あんた、あんな火炎を前にしたら、西も東もなかったわい。なんせ、熱いんじゃけん。ともかく弟の手を引いて、時には背負って、逃げ回ったよ。ワシは16才じゃった。


南光坊に建つ戦災碑
・・後で聞いたら大概の人は、気がついたら海や川に阻まれて、もう逃げ場がのうなっていたらしい。ワシの場合は、何回か火のトンネルを抜けて、・・恐かったぞ、もう終わりかとおもた・・気がついたら、そこが浅川じゃった。
・・当時の浅川は今より水が多かったけん、もしかしたら、これで助かるかとも思ったけんど、甘かったわい。今度は艦載機が来ての、川をたどるように機銃掃射しながら飛ぶんじゃ。飛んでいっては、また引き返してくるんよ。憎かったぞ。あいつら遊びよった。もし生き残ったら、絶対、アメリカ人殺したると、あの時は思うた。


姫坂神社
すぐ姫坂神社下を通過します。延喜式神名帳に式内社と記されているという、大きな神社です。
祭神は市杵島比売命(いちきしまひめ命)。宗像三女神の一柱で、安芸宮嶋の祭神でもあります。


神社碑
神社碑の後方に城のような建物が見えますが、これは城ではなく、城風に建てた個人の住宅なのだそうです。


今治北高
浅川を校歌に歌った今治北高校です。
校門前でお婆さんに呼び止められ、お接待をいただきました。食べ物や飲み物を持ち合わせていないので、お金を受け取ってくださいとのことで、小銭入れから一円玉も含めて、ありったけ全部を出してくれました。
後で数えてみると、556円でした。「もっとあるかと思ったんじゃが、少なくてごめんなさい」と謝ってくれましたが、申し訳ないのはこちらでした。お賽銭に使わせてもらいました。


予讃線の高架
しまなみ海道の高架かと思っていたら、予讃線の高架でした。予讃線の高架は、けっこう珍しいのではないでしょうか。


大山祇神社
(前述の)「延喜」がそうであったように、地名が寺社名や由緒に由来している例は、よくみられます。当地もその例にもれません。
当地は、「別宮」と書いて「べっく」と言います。今治市別宮です。すでにお気づきのように別宮は、当地に大三島・大山祇神社の別宮(べつぐう)が鎮座することに由来しています。


南光坊山門
南光坊入り口の石橋に、大山祇神社の神紋が刻まれています。隅切折敷縮三文字(すみきり・おしき・ちぢみ・さんもんじ)です。というのも、神仏分離以前には、大山祇神社と南光坊は一体であり、境内を共にしていたからです。この神紋は、その頃の名残です。


本堂
五来重さんは「四国遍路の寺」で、次の様に話しておられます。
・・55番の南光坊は大通智勝如来(だいつうちしょう如来)という非常に珍しい仏様を本尊にしています。法華経には、ある王子様が非常に仏教に帰依していて、難行苦行の末に過去七仏というお釈迦様の前の仏様の一つの大通智勝仏になったと書かれています。これが大三島の大山祇神社の本地仏であったために、大山祇神社の別宮の南光坊にまつられたのだとおもいます。


境内
さらに続けて、
・・『四国遍礼霊場記』を見ますと、納経受付は神社がしています。別宮そのものがやっていたので、境内に神社と坊が共存していたことになります。しかし、神仏分離以降、大山祇神社の別宮と南光坊の間に道路ができて、截然と分けられてしまいました。


南光坊大師堂
昭和20年8月5日夜半から6日未明にかけての空襲で、今治の市街地は焼け野原と化しました。その中にあって南光坊大師堂が焼け残ったのは、奇跡だったといえます。大師堂に避難していた人たちは、焼夷弾が屋根をカラカラと滑り落ちる音を聞いたとのこと。お大師さんの結界が私たちを護ってくださったのだと、語り伝えています。
なお、今治空襲の余塵いまだ消えやらぬ同日8時15分、対岸の広島に原爆が投下されています。


長州大工・門井友祐の彫刻
写真は、大師堂の、焼失を免れた彫刻です。長州大工の門井友祐が、堂の廻りに干支を彫っています。他にもご覧になりたい場合は、→(H30春4)を覧ください。南光坊、大山祇神社について、もう少し詳しく記しています。


伊予水軍船 
空襲で火の中を逃げたというお年寄りに、この船はなんですかと尋ねると、こんな面白い話をしてくれました。
・・そりゃ、村上水軍の戦船にきまっとる。村上三島水軍のうちの、来島水軍じゃ。今治には、村上水軍の子孫が多いんよ。組には(クラスには)村上姓が何人もおるけんな。あと、越智も多かったが。
・・その人らには、村上水軍の末裔じゃちゅーことを、誇りにしている人が多いんよ。なーにが水軍じゃ、海賊じゃないか、なんか言われても、オー、海賊けっこう、ちゅうもんじゃわい。


来島城址
  来島の 瀬戸の渦潮 とどろとどろ
      高鳴る聞けば 雄心(おごころ)の湧く   吉井 勇


泰山寺へ
南光坊を発ち、56番泰山寺へ向かいます。
写真奧に見える高架は、予讃線の高架です。これを渡り返します。


今治駅西口
今治駅の西口です。閑散とした感じは否めません。
では今治の中心施設(今治市役所、今治港、今治城など)がある、東口はどうかといえば、こちら側も、けっして賑やかとは言えません。今治一といわれた商店街でも、多くの店がシャッターを閉ざしており、松山に次ぐ愛媛県第二の都市の、面影はありませんでした。私たちはこの後、坂出でも同様の景色を見ることになりますが、なんとも寂しいことでした。


西口の風景
今治は海城である今治城の城下町として始まり、明治以降は、港町としての発展を遂げてきました。とりわけ戦後の発展は、目を見張るものがあったようです。(他に地場産業として、タオル生産があったことは、ご承知の通りです)。
戦後の今治港は、別府-大阪航路の中間寄港地として観光客を集め、尾道連絡船の発着港として、高松に次ぐ「四国の玄関口」となりました。昭和40年代には、車の普及に対応し、多くのカーフェリー航路が新設されました。おそらく、この時期が今治の最盛期だったでしょう。その後、車社会化が一層進み、本四連絡橋が開通。瀬戸内海の海運業に陰りをもたらしたことは、前号で記しました。


ゴミ箱  
こんなものが目に入りました。これがなんなのか、わからない人も多くなっていますので、載せておきます。
答は、ゴミ箱です。昭和30年代まで、各家の前に置かれていました。写真のゴミ箱はコンクリート製ですが、木製のものもあり、単なる木箱であったりもしました。
ゴミ箱が姿を消すのは、東京オリンピック(昭和39年・1964)を前にした、東京からでした。外国からのお客さんに見られたらミットモナイということで、ゴミ箱は蓋付きのポリバケツに変わり、それが全国に広がっていったのでした。斯くてゴミ箱は姿を消し、ポリバケツもやがてビニル製ゴミ袋に変わって行きます。その転変は世相の移り変わりを映し、面白いのですが、ここでは略します。


今治西高
県立今治西高校です。旧制中学の流れを汲んでいますが、共学校です。前述の今治北高校も、前身は県立高等女学校でしたが、共学校になっています。
戦後の学制改革で、東日本は、高校の男女別学が残りましたが、西日本では、共学・小学区制が徹底されました。もっとも最近では、昔帰りが進んでいるようですが。


野球練習所
今治西高は昭和40-50年代、高校野球で甲子園に度々出場し健闘していましたが、近頃は、ちょっと不振のようです。


泰山寺へ
四国五十三番泰山寺 とあります。


大師堂
泰山寺のHPは、寺の興りを次の様に記しています。
・・弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころ。蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。
・・この事情を聴いた大師が村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。


不忘松
・・大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられる。「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。


本堂
上記は、寺伝を基に記されたものですが、それを踏まえながら五来重さんは、次の様に記しています。
・・泰山寺も、もとは太山寺といったのだとおもいます。ところが、同じ名前のお寺がいくつもあると煩わしいので、「太」という字を「泰」という字に変えました。そうすると、お産が安らかだということで、安産の信仰ができました。安産の地蔵尊をまつって、「女人泰産」から、泰山となったようです。


石垣
右の新しい石は、今治沖の大島で採れる「大島石」のようです。
左の石は、古くからの石垣でも使われていたものですが、どれも角が取れているところから見ると、蒼社川の水流の中でもまれたゴロ石だと思われます。さすがに、野根ゴロゴロで見た石ほどの滑らかさはありませんが。


栄福寺へ
栄福寺へ、広い田圃の中を歩きます。
この平地は、おそらく蒼社川の氾濫原だったでしょう。元々は、軽く傾斜がかかり、デコボコがあり、石だらけの土地だったはずです。そんな土地を、石を取り除き、デコボコを均し、水平の、田圃に適する土地にまで改良したのです。氾濫は繰り返しましたから、その度に、初めからやり直す苦労は、大変なものだったでしょう。よくぞここまで、「土地改良」したものです。


道標
多くの道標が、様々な都合で場所を移動させられているなか、この道標は地主さんのご厚意で、建立時の位置に建ちつづけているようです。
  右 和霊大明神 三十丁  奈良原本社 五里半
  手差し  へんろ道
和霊大明神は、宇和島伊達家初代藩主の家老・山家公頼(通称 清兵衛)を神として祀ったもので、元々は宇和島藩のローカルな神でした。→(H24秋8)→(H28春3)


宇和島の和霊神社
しかし生前の、生き神様とも呼ばれた生き様の純粋性と、純粋故に殺されねばならなかった悲劇性が、清兵衛の神性をいやが上にも高めたようです。和霊の神様は宇和島の枠を越えて、ここ今治でも祀られています。なお、宇和島の和霊大祭で清兵衛神に供奉する牛鬼は、菊間・加茂神社にも現存し、これも宇和島だけのものではなかったことがうかがえます。


別宮大山祇神社の奈良原神社
奈良原神社(ならはらじんじゃ)は、元は今治市玉川町の楢原山(1041㍍)にあった神社で、牛馬の守護神としても、篤い信仰をあつめていました。上掲の道標「奈良原本社 五里半」は、その頃の(楢原山山頂の)神社を案内したものです。
現在の奈良原神社は、別宮大山祇神社に、境内社として鎮座しています。遷座は、氏子全員が村を棄て、今治市内へ移住したためでした。貨幣経済が山間の集落にも浸透し、従来の自給自足・物々交換にたよった生活は、もはや成り立たなくなったのです。昭和47年(1972)には、わずかに残っていた二戸も離村したといいます。


行き倒れ遍路の墓
古い遍路道を歩くとき、きまって行き倒れた遍路の墓石に出会います。
阿波路を歩いている頃は、その数の多さに驚いていたものでしたが、やがて気づいたのは、この人達は墓石を建ててもらえた、数少ない人たちなんだ、ということでした。おそらく圧倒的多数の人たちは、「土饅頭」を盛られただけだったでしょう。埋められもせず遺棄された人も、けっこういたはずです。
このように存在の痕跡が消滅してしまった人が、どれほど多くいることか、その数は、今や知る由しもありませんが、おそらく私たちの想像を超えているのではないでしょうか。


蒼社川
蒼社川にやってきました。土地では「大川」と呼ばれているようです。江戸の人たちが隅田川を大川と呼んだのと同じです。
この川を昔の遍路達はどう渡ったのか、どう歩いて栄福寺に至ったのか、そんなことについて、→(H30春5)に記してみました。ご覧ください。なお、鉄塔の下に見えている山が、後に出てくる八幡山です。



急いで過ぎ去るには、もったいない道であり、景色です。というわけで、ここで休憩しました。北さんが言い出して、私が即、同意したのです。
ただし、状況は切迫していました。時刻は4:00近く、これから57番栄福寺、58番仙遊寺にお参りし、富田駅近くの宿まで歩かねばなりません。しかも仙遊寺には5:00必着です。もし遅れたら、明日また、仙遊寺のお山に登ることになり、計画は大狂いします。


栄福寺
57番栄福寺は、石清水八幡宮への登り口にあります。明治の神仏分離以前、まだ二つの寺社が一体で、栄福寺が石清水八幡宮の別当寺だった頃の位置関係が、今に残っているようです。写真左の道を奥に進むと、石清水八幡宮に至ります。
ただし、蒼社川を渡渉してきた遍路たちは、山向こうから登って八幡宮に参り、写真の道に降りてきました。よって写真の道は多くの遍路にとっては、下り坂だったでしょう。


57番栄福寺
石清水八幡宮がある山は八幡山などと呼ばれていますが、この山には他にも、伊予国総社の論社とされる伊加奈志神社(いかなし神社)、栄福寺の前に石清水八幡宮の 別当寺であった浄寂寺、新三島神社、鳥越地蔵などがあり、興味深い信仰空間が形成されています。
栄福寺の興りなどについては、→(H30春4)を、八幡山の寺社については、→(H30春5)をご覧ください。


犬塚池へ
前方に犬塚池の堤防が見えてきました。可愛そうな犬の譚を残す池です。
・・昔、栄福寺と仙遊寺(写真奧の左側に小さく見える)の両方で可愛がられている犬がいました。寺の鐘が鳴ると、そちらの寺に行き、お坊さんの手伝いをしていました。
・・ところが、ある時、二つの寺の鐘が同時に鳴ってしまったのでした。いずれの寺へ行かんか、窮した犬は、この池に身を投げてしまったといいます。


犬塚池へ 
・・以来、この池は犬の形になり、その名も犬塚池と呼ばれるようになりました。この池の水が涸れたことがないのは、あの犬のおかげと、土地の人は伝えてきました。


犬塚池
満々と水を湛えています。
池を高いところから眺め、その犬型を確かめてみようとしましたが、うまく行きませんでした。地図上では、頭部と足が四本、ありますが。


仙遊寺へ
仙遊寺への登りで今治市街が遠望できました。ゆっくりと眺めたい景色ですが、そうもしていられません。のんびりと休憩を取ったツケがまわってきたのです。
息を切らしながら、それでも道のインからアウトへ出て、なんとかシャッターを押しました。執念で撮った一枚です。


仙遊寺山門
すこし手前に「仙遊寺まで100メートル」の表示があったので、これで安心、間に合った、と思ったら、とんでもない。
仁王門の先に、とんでもない坂がありました。ここでも、ともかくシャッターを切って、急ぎます。
途中、降りてくる人がいたので「あとどれくらい?」と尋ねたら、のんびりとした調子で「まだだいぶありますね」とのこと。ガンバレの一言もないんかいと、心中で毒ついてしまいました。


弘法大師御加持水
五来重さんは仙遊寺について、・・縁起では仙人が遊んだから仙遊寺だとありますが、そうではありません。泉が湧くという泉涌寺(せんにゅう寺)です。・・と話しておられます。
急坂の途中に、五来さんが言う「泉」に当たるであろう、弘法大師御加持水があるのですが、私たちはそれに気づいていませんでした。この写真は、後年(平成30年春)に撮ったものです。→(H30春6)


境内
4:58、ようやく着きました。遍路は誰一人としておらず、ひっそりとしています。
休む間もなく、納経の御朱印を先に戴きました。お参りは後回しです。線香、ローソクは、すでに片付けが始まっているので省略。扉を閉めずに待っていてくださったお坊さんに感謝しつつ、読経を済ませました。


本堂
こんなに大慌てしないですむ方法に、私たちは気づいてはいました。簡単です。仙遊寺の宿坊に泊まればよかったのです。
なぜそうしなかったのか。
申し訳ないことですが、この頃の私は「宿坊」がきらいだったのです。(理由は略させていただきます)。そのため富田まで歩くことに、私が押し切って決めたのでした。


大師堂
なお念のため、その後、私は仙遊寺の宿坊に二回泊まっています。
温泉も夜景も精進料理の食事も、とても気に入っています。特に朝食のお粥は、ごちそうです。


犬!
ヤッ!発とうとすると、仙遊寺に犬がいました。犬塚池に身を投げた犬の子孫か!・・そんなわけはないか。
それにしても、この犬、一目見て絶対に噛まれないと分かる犬でした。人への警戒心がないのです。優しい人に囲まれているからでしょうか。


下り石段
下山し、宿に向かいます。


山門
山門まで降りてきました。またまた大師御加持水をすっ飛ばしています。


休憩所
急坂を降りてくると、仁王門の先の休憩所に野宿遍路がいました。急いでいても、こういうことには引っかかってしまうのが、私たちでした。
青森から来た人で、・・今夜はここに泊まらせてもらいます・・とのこと。大変ですね、と言うと、応えは、・・とんでもない。花咲く庭に池まであって、ここは御殿ですよ・・。


ご朱印
青森から年一回だけやってきて、野宿しながら、40日ほどかけて廻るのだそうでした。今回で五巡目だとのこと。
この方、この頃の私たちには、まだ理解の及ばない方でした。朱印が五個押された納経帳を、不思議なものでもあるかのように、写真に撮らせてもらったのを覚えています。


分岐
国分寺方向への分岐点です。五郎兵衛坂を下ります。五郎兵衛さんが転んで腰を打ち、その怪我が元でなくなったという坂です。
・・昔、仙遊寺に大音を発する太鼓があって、その音は桜井海岸にまで聞こえていたそうです。漁師の五郎兵衛さんは、その音で魚が逃げてしまい漁にならないと腹を立て、仙遊寺に登り、包丁で太鼓を破り、あまつさえ仏様に悪口雑言を浴びせたのだそうです。
・・五郎兵衛さんが坂で転んだのは、その帰り道でのことでした。


今治市街
また今治の街部が見えました。中央にランドマークタワー・今治国際観光ホテルが見えます。左端には「しまなみ海道」が写っているのですが、カメラの性能が届かないようで残念です。


宿へ
陽が傾いてきたら、ちょっと寒くなった来ました。宿まではまだ3キロ弱はあるでしょう。


日没
案の定といいましょうか、日没となってしまいました。
ただ、宿はビジネスなので、大きく迷惑をかけることはないでしょう。それくらいの時刻には、着けるはずです。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号では、できれば61番香園寺辺りまで、記したいと思っています。更新予定は、3月30日です。
更新の頃、コロナはどうなっているでしょう。ウクライナはどうでしょう。世界史に残る出来事が、二つ同時並行しています。桜は咲いても、春は名のみ、かもしれません。羽生君ではありませんが、春よ 来い。

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51番石手寺 52番太山寺 53番円明寺 遍照院 大西町

2022-02-02 | 四国遍路

 
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羽田空港
平成17年(2005)4月12日。北さんと私は、飛行機で松山に向かいました。1年ぶりの四国遍路です。
できれば昨秋にも来たかったのですが、北さんはまだ週二日は勤務しており、私も家人の体調に不安を感じていたりで、日程を明けることが出来なかったのでした。


機中から
幸い機は、厚い雨雲を抜けるときこそガタガタと音を鳴らして揺れはしたものの、雲上に出てからは然したる揺れはなく、無事、松山に着陸することが出来ました。
ただし、下記のようなメモが残っていました。こんなこともあった、という話です。ご一読下さい。


松山着
・・「この先、多少の揺れが予想されています」との機内放送があったとき、アーッ!と、悲鳴とも聞こえる声を出した人がいた。迷いに迷ったうえで搭乗を決めた人なんだろう。降ろして-!と叫びたかったのかもしれない。つい2ヶ月前、ノースウエスト機が乱気流に巻き込まれ、乗員乗客47人が負傷したばかりだ。その記憶も新しい。
・・興味深かったのは、奇声とも聞こえる大声にもかかわらず、それを笑う声は、客席のどこからも聞こえなかったことだ。運命を共にする者同士として、笑えなかったのかもしれない。私はそうだった。


転車台
空港から路線バスに乗って、石手寺を目指しました。リムジンバスを使わなかったのは、私たちの「好み」の故でした。おそらくリムジンの方が早く着けたのですが、リムジンの旅には、概して面白味がありません。
思った通り、路線バスを使ったおかげで、面白いものが見られました。道後駅にはバスの転車台があり、私たちのバスがこれに乗って、回転したのです。写真は、その車内から撮ったものです。機関車の転車台は見たことありましたが、バスのは初めてでした。これだけでも乗った甲斐がありました。


51番石手寺
松山はもう雨域から抜けているかと期待したのですが、この雨域は広かったようです。松山も雨でした。
石手寺の納経所脇に置かれたベンチをお借りして、遍路姿に「変身」。さらに雨具を上下、着用しました。「着る晴れ、脱ぐ降る」という(枯雑草さんのブログで覚えた)原理が、今回もまた働くのではないかとは思いましたが、「脱ぐ降る」よりは「着る晴れ」の方がまし、と考えました。


石手寺
赤い幟に、・・衛門三郎 四国開創千二百年・・とあります。衛門三郎が初めての札を(後に「札始大師堂」と呼ばれることになる)お堂に納めてから、1200年が経った、ということのようです。
因みに、お大師さんが四国霊場を開かれた「四国霊場開創千二百年」は、この9年後の、平成26年(2014)のこととなります。


石手寺 
阿波の杖杉庵から始まった衛門三郎の伝説世界が、三坂峠を下りて以来、実物大の大きさで展開されてきました。
文殊院は、衛門三郎の屋敷跡に建っているとされています。→八塚は、衛門三郎の亡くなった子供達(男子5人、女子3人)の墓。→札始大師堂は、衛門三郎が四国遍路で初めて札を納めた所です。→そして石手寺は、再来・衛門三郎が握っていた(とされる)小石を寺宝とする寺で、衛門三郎伝説を完結させる寺です。


イラク侵攻
前号でも記しましたが、石手寺は世界の今日に、積極的に関わっています。
イラク侵攻は、この前々年、平成15年(2003)のことでした。スマトラ島沖大地震は、前年、平成16年(2004)の、12月26日に起きました。地震による被害のみならず、津波による被害も広域かつ甚大でした。


ネオン坂歓楽街
12:10、歩き始めました。
北さんが「花街」の跡を見たいと言い出し、探してみましたが、見つかりませんでした。
見つかったのは、まっこと正直なネーミングの「ネオン坂歓楽街」でした。


愛媛県護国神社
愛媛県護国神社の祭神は、ウィキペディアによると、・・愛媛県出身の国事殉難者、郷土産業発展の功労者、女子挺身隊等49,727柱、・・だそうです。
護国神社は、元は招魂社といいましたが、昭和14年(1939)、護国神社と改称されました。「愛媛縣」がついているのは、・・一部の例外を除いて各道府県に1社のみ創立を許可すること、・・とされていたことによるようです。なお靖国神社は、元は東京招魂社でした。その意味ではローカルな存在でした。


一草庵
一草庵は、種田山頭火の終焉の地です。
  濁れる水の 流れつつ澄む 山頭火
死の1ヶ月前の作といわれるこの句は、庵の前を流れる樋又川を詠んでいます。惹かれる句です。
  

一草庵
句碑の句は、
  鉄鉢の中へも霰  山頭火
凍てつく中での托鉢を詠んでいます。山頭火は本当に写実が上手です。句を詠むと、すぐ情景が浮かんできます。


来迎寺山門
この寺の裏に、日露戦争で捕虜となった、ロシア兵の墓地があります。3386名が収容され、98名が亡くなったとのことです。
私は後年、平成24年(2012)、ロシア兵墓地を訪ねています。→(H24春1)


花へんろ
北さんが花へんろさんになりました。白衣姿だともっとよかったのですが、仕方ありません。


志津川沿いの道
志津川沿いの路に、山羊が放し飼いされていました。



52番太山寺への道です。雨もあがり、道が乾いてきました。 


けしき
今年の桜も、この雨で終わりでしょうか。



舗装が切れました。柔らかさが、なんともよい心地です。



田植えの準備が始まっています。田にトラクターを入れる工夫です。次なる作業は、田起こしでしょうか。


踏切
予讃線です。
松山市立北中学の近くで、お年寄りが道を教えてくれました。・・近くて平坦な道を教えてあげる。楽な方がよかろ。
しかし、申し訳ないことながら、山沿いの路の方が楽しそうなので、そっちを選んでしまいました。


けしき
桜が溜め池にきれいに映っていました。


規格板
蜜柑農家のお婆さんが、蜜柑の色基準とサイズ基準を教えてくれました。この二つで、値段が決まります。
別れ際に、お接待として蜜柑を5個、いただきました。お婆さん曰く、4個は数字が悪いじゃろ、3個は少ないので5個にした、とのこと。色基準表とサイズ規格表に合わせると、かなり上位ランクの蜜柑でした。


一ノ門
大宝寺の一ノ門(総門)も、同じ形式でした。


二ノ門
これより本堂まで570㍍、とあります。車は、この門を迂回してゆきます。



二ノ門(仁王門)をくぐります。桜がお出迎えです。


本堂へ
本堂へ向かいます。右側には、本坊や納経所があります。


本堂
三ノ門から見た本堂です。
太山寺本堂は「一夜建立の御堂」に始まりますが、現在のお堂は、鎌倉時代に再々建されたものだそうです。国宝に指定されています。 
「一夜建立の御堂」については、→(H29春1)をご覧ください。


三ノ門
三ノ門は四天王門になっています。持国天・増長天・広目天・多聞天(=毘沙門天)が四方に配され、仏法僧を守護しています。
その守護する方角は、トンナンシャーペイ(東南西北)順に、持増広多(じぞう・こうた)と覚えるのだそうです。こういう記憶法は昔、寺子屋などでも行われていました。「木の上は、いまだ短し、すえ長し」は、「未」と「末」の区別を覚える方法です。「己」と「已」と「巳」の区別法などもあります。


屋根瓦
本堂の屋根瓦が、なんとも魅力的です。
→(H29春1)では、より多くの写真がご覧になれます。本堂の写真、鐘楼堂の地獄絵や落書き、太山寺奥の院の写真などです。


下山
53番円明寺へ向かいます。約2キロの行程です。
途中、新しい道が通っている所では、少し迷ってしまいました。すると自転車の女性がやってきて、「なにかお困りでしょうか」と尋ねてくれます。「円明寺はこの道でいいのでしょうか」と問うと、丁寧に教えてくれた上、私たちが正しい方向に曲がるまで、ずっと見ていてくれました。感謝して、角を曲がりました。


道標
  右 へんろ道
  左 宮嶋道
誰が言い出したか、「信仰 健康 観光」などと言われますが、それは昔もまた変わらなかったようです。いえ、他国を旅する機会など、一生に一度、あるかないかの昔の方が、観光熱は高かったのかもしれません。
「宮嶋道」とは、・・札所巡りをおろそかにするつもりはないが、観光もしたい、・・そんな人向けの、オプションルートだったのではないでしょうか。
55番札所が大三島の大山祇神社であった頃、大三島へは船で渡るほかありませんから、その船旅に「観光」を付け加えたのです。


道標
「四国遍礼名所図会」に次の様な記事があります。
・堀江浦問屋藤七殿にて船をかり、船頭与七殿船に乗り宮じまに出船いたす。七ツ時ニ当浦をいだす。沖にかゝる。
・七日(岩国錦帯橋) 八日(厳島) 九日(みたらひ・赤瀬潟) 十日 日和よし。大三島、此所へ朝六ツ時に着舟、大三島(町広し、繁盛の地なり。上方より芝居来る、遊所在)
・五十五番三島社 祭神大山積大明神 ・・略・・五ツ時小船を出し、・・略・八ツ時に迷田の浜(?)に着する。此所より上がり迷田村、是より延命寺迠二里。


円明寺中門
創建当時の円明寺は、和気浜の西山という海岸にあり、「海岸山・圓明密寺」と称していたそうです。しかし戦国時代、戦火に遭って焼失。元和年間(1615-24)に入って、土地の豪族・須賀重久が現在の地に遷し、「須賀山園明寺」として再建したとのことです。
「海岸山・圓明密寺」の跡地には、現在、十一面観音を祀る小堂が建てられ、円明寺奥の院とされています。→(H29春1)


円明寺境内
円明寺で見たいと思っていた銅板製の納め札や、左甚五郎作と伝わる龍の彫刻は、やや憚るところがあって、撮影できませんでした。特に銅板製納め札は、「遍路」と言う文字が入った史料としては、最も古いとのことで、撮りたかったのですが。
ただ、キリシタン灯籠は、屋外にあるので、撮ることが出来ました。→(H24春1)に載せてありますので、よろしければご覧ください。


和気浜
今晩は、楽しみにしていることがあります。前々号で記した「亀さん」たち・・大洲から久万までを、ウサギとカメのように相前後しながら歩いた女性遍路お二人・・が、宿を訪ねてくれるのです。おふたりは、北条に住んでおられます。
早めに風呂に入り、夕食を済ませて待っていると、6:30、呼いの声が聞こえました。


和気浜
1年ぶりの再会です。同宿の遍路もいるだろうと(実は私たちだけだったのですが)、北条の地酒「雪雀」、ジャコ天、チクワなどを、いっぱい差し入れてくださいました。ジャコ天などは、わざわざ宇和島まで買いに行ってくださったとか。
楽しい晩でした。砕氷船、イタリア、俳句、手塚妙絹さん、あちこちの札所のことなど、話はいつ止むともなくつづきました。



今日は今治市大西町の宿まで歩く予定です。途中、札所はありませんが、私たちの関心を引きそうな所が多く、うまくたどり着けるか心配です。特に、昨晩お会いした方のお宅が遍路道沿いにあり、そこでコーヒーをご馳走になることになっています。それは大いに楽しみではあるのですが、時間を過ごしすぎはしないでしょうか。気がかりです。


堀江港
   堀江港フェリー乗り場  広島方面 呉(あが港)行
松山の堀江と呉の阿賀をむすぶフェリー「呉松フェリー」の案内です。私たちはこの時、「呉松フェリー」がなくなるばかりか、堀江港までが廃港となるなど、考えてもいませんでした。
私たちが歩いた翌年(平成18年)、しまなみ海道が全面開通したことにより、本四間の交通は、ほぼ瀬戸大橋としまなみ海道に集約されてゆきました。結果、従来の、ローカルな港と港を結ぶ本四連絡船は、次々と廃止されていったのでした。その流れのなかで、堀江港も廃港となったのでしょう。この記事を書くに当り、Wikipediaで「堀江港」を調べてみると、・・現在、(堀江港の)桟橋や待合室は撤去されている・・と記され、その跡地は、「海の駅・うみてらす」になっている、と記されていました。さみしいことです。


伊予の早曲がり
この意味は、たしか、右折車が気忙しく「早曲がり」してしまうことへの、注意喚起だったと記憶しますが、どうでしたでしょう。


葛籠宵城
堀江から洋光台へ向かいます。特徴的な形の山は、葛籠宵城跡(つづらくず城)の一部です。戦国時代末期、因島村上氏の村上吉高が居城としていたと伝わります。



ドッカーン ザザザザザー、の太平洋に比べ、なんとも穏やかな、パシャン、パシャンの瀬戸内海です。しかし、これでも沖に出れば潮の流れは速く、鯛の身はシマッテイルと言います。


粟井へ
前方の岬から、遍路道は粟井エリアに入ります。岬の先端には大きな食堂があり、県道347号を隔てた向かい側には、粟井坂大師堂があります。


予讃線特急
松山の次は今治に停車します。


北条市
今では懐かしい写真となりました。
北条市は平成17年(2005)の1月1日、松山市に編入されましたから、私たちが歩いている同年4月13日時点では、この標識はもう「松山市北条」に変わっているべきものだったのです。


粟井坂大師堂
粟井坂大師堂です。その名が示すように、昔、ここは粟井坂への登り口でした。現在の海沿いの道がまだなかった頃、旅人が歩いた、山の道です。大師堂の前身は茶堂で、元は粟井坂に在ったものを、大師堂として下に降ろしたと言われています。
より詳しくは、→(H29春2)、→(H24春遍路2)をご覧ください。


子規の句
   涼しさや 馬も海向く 粟井坂  子規
この句にある「粟井坂」は、汗ダラダラで登った山道の粟井坂ではなく、明治13年(1880)に開通した、海沿いの粟井坂新道(現在のへんろ道・県道347号の下敷きとなった道)です。この道の開通を機に、茶堂が大師堂となって現在地に降りてきたわけです。なお作句年は、明治25(1892)でした。


蓮福寺大師堂
粟井川河口にある、大きな大師堂です。ゆっくりと滞在してみようと思いながら、いまだ果たせていません。


斎灘
沖を白い船が行きます。手前が、粟井川の河口です。


粟井川
粟井川の上流方向です。川筋が風の道となって、ホロホロと春風が抜けて行きます。この時間では、海風です。
橋を渡ってしばらく歩くと、「亀さん」が待っていてくれました。私たちが行き過ぎはしないかと、朝から何度も通りに出ては、待っていてくれたのだそうです。お宅にあげていただいて、コーヒーをご馳走になりました。ちょっとした出会いを、こんなにも大切にしてくださるのは、遍路道での出会いであればこそです。


立志之地碑
  中江藤樹先生立志之地
近江聖人・中江藤樹は、元和3年(1617)、10才の時、祖父に従って米子より大洲藩に移り、その後、13才まで、大洲藩の飛び地であった、風早郡(現松山市北条)で過ごしています。吾十有五にして学に志す。まさに当地は、中江藤樹先生立志之地であるのでしょう。


酒蔵
北条の地酒「雪雀」の酒蔵です。昨晩、このワンカップをたくさんいただきました。


高浜虚子像
西ノ下大師堂の敷地に、県道179号の方に向いて立っています。右の碑には、
  この松の下に たゝずめば 露のわれ   虚子
ずいぶん環境が変わったようです。今は「松の下」ならぬ「排ガスの中」です。


花へんろ
「花へんろ」がNHKで放送されたのは、昭和60年(1985)から平成9年(1997)でした。作者・早坂暁さんは、北条の生まれなのだそうです。


養護院お杖大師
たくさんの情報が刻まれています。まず養護院の宗派は真言宗醍醐派で、山号寺号は、青面山 養護院。四国八十八ヵ所霊場の番外札所になっています。
次に、当院は「風早四国」の49番札所と52番札所にもなっています。「風早四国」とは、明治初期、旧猿川村の長老達により開創された「写し霊場」で、札所は、旧風早郡(旧北条市と考えてよい)の全域に点在しています。原則、四国霊場八十八ヵ所に対応していて、49番札所としての養護院は、四国霊場の49番・浄土寺に合わせて、ご本尊は釈迦如来となっています。ただ、52番としての養護院は、四国霊場52番の太山寺には対応せず、お杖大師の由来に基づき、弘法大師をご本尊としています。



石碑には刻まれていませんが養護院は、「花へんろ第四番札所」でもあります。早坂さんの「花へんろ」に因んで制定された札所巡りで、その1番札所は、これからお参りする鎌大師。→2番は、前述の粟井坂大師堂→3番は高縄寺→(H24春3)→(H29春3)、そして4番が養護院・お杖大師で、ここが結願寺となっています。


山並
立岩川に架かる橋を渡り、北上します。
写真奧に、風早平野の北を画する山の連なりが見えています、それぞれのピークに名前がついていますが、ここでは、「その名もをかし」腰折山のみを紹介させていただきます。中央右寄りの、葛籠宵城(前述)の山容にも似た山が、それです。
なお、私たちの次の目的地・鎌大師は、腰折山の、左側の峠道沿いにあります。


花叟句
   腰折と いふ名もをかし 春の山   花叟
マンホールには、こんな句も刻まれていました。「腰折」には下手な短歌という意味もあるので、なおさらおかしいのでしょう。


立岩川 高縄山
立岩川の上流方向です。
奥に高縄山が見えています。中央よりやや左の、一番高いところが、山頂(986㍍)です。この山頂をすこし下ったところに、風早四国第12番札所であり花へんろ第3番札所の高縄寺があります。→(H24春3)→(H29春3)
川に架かる橋は、予讃線の鉄橋です。



春です。色の帯が虹のようです。


レンゲ畑
近頃では珍しくなった、レンゲ畑です。


麦畑
  青麦に 沿うて歩けば なつかしき   星野立子
麦の青は、子供の頃を思い出させる色です。


ゲートボール場
鎌大師に隣接して、ゲートボール場があります。
地面の白は、花崗岩が風化して出来た真砂土でしょうか。敷き砂としてまいたと思われます。関東ローム層の地面に慣れた者の目には、まぶしくも懐かしい白です。


鎌大師
鯖大師さんも、なぜ鯖なのか頭をひねったものでしたが、鎌大師さんも、謂われを聞かないでは、わかりません。
・・弘法大師が、泣きながら鎌で草を刈っている少年に、目をとめられました。泣いている訳を尋ねると、村には疫病が流行り、大勢が死んでいる。少年の姉、弟も瀕死の状態だ、との答です。
・・大師はこれを憐れんで、少年の鎌で木片に自分の像を刻み、この像に疫病退散を祈るよう伝え、去ってゆきました。


案内板
・・少年が「鎌で刻まれた大師像」を祀り、村人と家族の病気快癒を祈ったところ、どうでしょう、病がたちまちにして癒えたではありませんか。村人はこれに感謝し、お堂を建てて大師像を祀り、いつしかこれを、親しみを込め「鎌大師さん」と呼ぶようになった、とのことです。


境内
昨晩、和気の宿で「亀さん」たちが話してくれた手塚妙絹さんは、鎌大師の堂守さんでしたが、この2年前、平成15年(2003)、ご高齢のため、引退されたとのことでした。出来ればお目にかかりたかったとの思いが募りました。
なお手塚妙絹さんは、平成23年(2011)、惜しまれつつも、お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。合掌


案内 
一茶の道が案内されています。
一茶の道は、北条での一茶の足跡をたどる、約4.5キロの道です。
→(H24春3) このリンクは、平成24年(2012)に私が歩いた時の、一茶の道の記録です。


エヒメアヤメ自生地
エヒメアヤメ自生地とは、前述の腰折山のことです。
エヒメアヤメは、朝鮮半島と日本が陸続きであった頃に、現在の中国、朝鮮半島、日本に分布した、と考えられています。日本では、ここが自生地の南限とのこと。国指定の天然記念物です。


植林
延命寺に向かいます。峠越えの道です。
途中、植林が行われていました。土留めに使われているのは、杉の間伐材です。


北条
だいぶ上がってきました。ふり返ると、北条の街が見えました。
写真奧やや右寄りに、葛籠宵城の山が小さく見えています。


浅海
峠に出ると、浅海(あさなみ)の街が見えました。


浅海
浅海は松山市の北に位置しており、写真奧の岬を越えると、向こう側は今治市菊間になります。


目立とう桜
町の年寄り達が(もう少し若かった頃)、桜の苗木を山の上に持ち上げて植えたのだそうです。その一人であった方によると、・・目立ちたいちゅうことじゃった・・とのことでした。
さらに加えて、・・満開の頃、弁当下げて山に登りよる人を見るんは、うれしいことよ、・・とのこと。今は桜が咲く毎に、まだ若かったあの時のことを思い出すそうです。


化粧地蔵
これはなんとも可愛い六地蔵さんです。年に一度、土地の人からお化粧をしてもらえるのだそうです。あぶちゃんも取り替えてもらえます。


予讃線
予讃線を越えて、浅海の街部に入ります。


道標
徳右衛門道標が建っています。
  御自作 やくよけ大師
  遍照院まで一里二十二丁


原地蔵
上掲写真の左下に、石柱道標が、ちょこっと写っています。
  風早四国番外17番 原地蔵堂
祀られている地蔵菩薩は、「原のおじのっさん」の愛称を持ち、面白い譚が残っています。→(H24春3)


境界
予讃線はトンネルを潜り、車や人は海沿いの道を通り、今治市菊間町に入って行きます。
海沿いの道もトンネルもなかった頃は、窓坂という峠道を越えてゆきました。窓坂については、→(H29春4)をご覧ください。



今治市の境界標識がありました。この標識が新しいことにお気づきでしょうか。3ヶ月前に取り替えたばかりなのでしょう。


生け簀
伊予路に入って、ある宿のおばあさんが言っていました。・・高知の魚は大味じゃ。ワシには合わん。やっぱり瀬戸内の魚が美味い。鯛はうまいし、小魚が、また美味いんよ・・。
地元贔屓のきらいもありますが、確かに瀬戸内の、特に小魚は美味いです。鯛は、この頃すでに、天然ものは私たちの口には入らなくなっていました


鯉幟
「こいのぼり」は、鯉だけでも「こいのぼり」ですが、本来は、鯉と幟で「鯉幟」なのでしょう。
しかし、幟まで立てた本式の鯉幟は、今日、都会ではなかなか見られません。


瓦の街・菊間
菊間は、「菊間瓦」の街です。750年の歴史を持つといいます。丈夫で、なおかつ、「いぶし銀」と称される独特の光沢をもっていることから、和風住宅のみならず寺社の屋根にも、多く使われてきました。


瓦の街・菊間
菊間が瓦の産地として発展したのは、1.瓦の原料となる粘土が、近くに産したこと。2.背後の三方から山が迫り、瓦を燻すための松が豊富に採れたこと。3.前面には海が迫り、重い瓦の海上輸送に便利だったこと。しかも菊間は近畿、九州のほぼ中ほどに位置し、消費地獲得に有利だったこと。こうした諸条件に恵まれて、菊間は瓦の街として、発展してきました。


瓦の街・菊間
お年寄りから、面白い?話を聞きました。昔、まだ人力で粘土をこねていた頃の話です。
・・菊間の男子は、頭はどうでも、大足が喜ばれたんよ。その子は粘土踏みになったら、食いっぱぐれることはないからな。
やや問題を感じなくもありませんが、瓦造りが盛んだった頃の話として、聞きました。


遍照院
厄除け大師・遍照院です。
浅海の原地蔵堂の側に道標があり、・・御自作 やくよけ大師  遍照院まで一里二十二丁・・とありました。
その謂われについて、遍照院のHPは、次の様に記しています。
・・四国御巡錫の折、自らの42歳の厄除けと末代緒人厄除けのために、御自身の御尊像をきざみ、もってここに本尊として安置し、厄除けの秘法を残されたと伝えられるお寺です。


魔除けの門
厄除けの霊場である遍照院の門は、魔除けの鬼瓦が護っています。もちろん菊間産の鬼瓦です。


本堂
遍照院は、元は菊間町の友政という所に在りました。元禄4(1691)、現在地に遷ってきたと言われています。
→(H29春4)は、元遍照院跡を訪ねた時の記録です。ご覧ください。


菊間の街
遍照院を発ち、今日の宿がある大西町に向かいます。


菊間川
菊間川の上流方向です。すぐ先に予讃線の鉄橋が見えています。その奧の白い建物は菊間小学校です。
さらに上流には、遍照院と並んで菊間を代表する、加茂神社があります。お供馬(おとも・うま)の走りこみ→(H24春4)で知られていますが、節分大祭には、魔除けの鬼瓦神輿が出るそうです。


広告
ブリキ看板の愛好者には、この家、けっこう知られていたのではないでしょうか?令和の今日まで残っているかは、疑問ですが。


太陽石油
陰が長くなっていることからおわかりと思います。だいぶ日が傾いてきました。



急いだため、青木地蔵さんのことが頭から吹っ飛んでしまい、素通りしてしまいました。 →(H29春5)


菊間と大西の境
日が暮れてきました。宿がある大西駅まで、まだ4キロはあります。
西ガ谷というバス停があったので、あまり期待はせず調べてみると、ラッキー!すこし待てばバスが来るようでした。私たちはバスを利用することに即決。バス乗車区間は、明日引き替えして歩くことにしました。


翌朝写した西ヶ谷バス停
数少ないバス便に当たっただけでもラッキーだったのに、もうひとつ、ラッキーが重なりました。バスに乗ってしばらくすると、雨が降り始めたのでした。通り雨ですが、強い降りでした。もし歩いていたら、大慌てしたことでしょう。
この二重の幸運、なにがもたらしてくれたのでしょうか。これに値するほどの善行を積んだ覚えは、二人共に、まるでなかったのですが。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
そんなわけで次号は、バス乗車地点へ引き返すべく、大西の宿を出るところから始まります。宿を出るや、昨晩は暗くて気づかなかった大楠に目を奪われ、瓦葺の屋根に消火用の瓶を積んだ、井手住宅に魅了されるのですが、それは次号のお楽しみです。更新予定は3月2日です。

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三坂峠から 46番浄瑠璃寺・・・ 51番石手寺

2022-01-05 | 四国遍路

 
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松山方向
三坂峠を少し下ったところから見た、松山方向です。
お天気次第ですが、松山沖の伊予小富士=興居島(ごごしま)まで、見えるそうです。真念さんは伊予小富士を、「駿河の山のごとし」と記しています。


鍋割坂
鍋割坂は、険しい坂です。石柱に「鍋割坂 仰西翁偉績」 と刻まれているのは、険しいが故に壊れやすい坂道の修復に、翁が尽力されたからでしょうか。
「鍋割」の謂われは、・・行商の金物屋が商売用の鍋を石畳に落として割ったことから、・・とも、・・足を滑らせたお遍路 さんが、背負っていた自炊用の鍋を割ってしまったことから、とも言われています。


石畳
仰西(山之内仰西)は、江戸時代初期の久万村の商人です。私財を投じて仰西渠を工事したことで知られていますが、→(H28秋 5) それだけでなく、三坂峠道の改修にも、尽力したようです。


源流域
この辺りは、御坂川の源流域です。御坂(みさか)は、三坂の異字でしょう。
滴る水は、やがて御坂川となって三坂峠を流れ下ります。札始大師堂の辺まで、遍路道とつかず離れず流れ、その後、重信川に注ぎます。


下り坂
疲れました。というより、力が入りません。峠のきつさに空腹が加わり、なかなか足が進まないのです。
食べ物を調達することなく山に入るという失敗を、これまでに何回、繰り返したことでしょう。北さんのカリントウを分けてもらって食べましたが、腹の足しにはなりません。「協会地図」によれば八坂寺近くまで、食堂はないらしいのです。困りました。


放置自転車
なんとも解せない自転車でした。迷惑な場所に放置したものです。
遍路でしょうか?無謀にも自転車で、旧道の峠越えを試みたようです。国道440号を降りれば、火野正平さんではないですが、下り坂最高!だったでしょうに。
最近ではずいぶん改善されていますが、一巡目の平成13年(2001)頃は、遍路道に粗大ゴミの投棄が目立っていました。



いい道です。


四阿
四阿がある場所に、一ノ王子社があったそうです。石鎚信仰が熊野信仰を取り込んだものと言えましょうか。→(H28秋5)


厳重警戒
棚田がありました。松山から見て、一番山奥の棚田です。
・・猪、ハクビシン、最近では猿も出てくるようになり、手に負えんで、とうとう「でんぼく」(電気牧柵)を張った、・・とのこと。電線は500Mで十万円!(当時)、とても採算に合わず、若いモンは、モー、ヨーヤランと米作りを止め、(山を)降りてしまったそうです。
それでも年寄り達が止めないでいるのは、山を荒らさないためだと言います。・・止めたら、山はたちまちジャングルじゃけんね。ここは、引いたらいかんのよ。 ・・


棚田 
・・ここ(隣接する空き地)の大将は米を止めて、代わりに檜を植えたんじゃが、それもたちまち、猪に根を食べられて、枯れてしもた。脅し銃鳴らしても、50M離れると、ヘーキな顔シヨルけんね。もう、どうでも電線を張るしかないんよ。
・・あいつらホント賢いから、いよいよ明日取りいれよう、という時に入るんよ。ガックリじゃわい。一匹入ってしもたら、もう駄目やけんね。売れんだけじゃない、家でも喰えんようになる。臭いけんな。・・ 


棚田 
この写真は、12年後、平成28年(2016)に撮ったものです。
獣との戦いは、まだつづいていました。おかげで、私たちは安全に歩くことができています。ありがたいことです。


お遍路さんの道の駅
「お遍路さんの道の駅」だそうです。どなたかが休憩所として作ってくださったようです。しばらく休ませていただきました。
ただ残念なことには、この休憩所は平成28年(2016)、歩いた時には、手入れが届かなくなったらしく、やや荒れていました。今はどうなっているでしょうか。


集落
歩いていると若い遍路がやってきました。ちょっと面白い格好をしています。菅笠はかぶらずザックに結び、そのためか顔が真っ赤に日焼け。高知の古物屋さんでもらったという瓢箪を、ザックに吊しています。雨が降ったら房の色が出テシモテ、エライことでした、とのこと。どうやら京都の人らしい。


田の管理
手に持つ杖は、ツルが巻きついた太い木の枝で、置物にはなるが、実用には役立ちそうもない代物。徳島県のどこかで拾ったものだそうです。オモトーテ、と言いながらも捨てることなく持ってきたのは、その苦労を越える、なにかの価値をそこに視ているからでしょう。
この方、実は腹具合が悪く、トイレを探しているのだといいます。それは大変。私たちも道の駅まで引き返して、探してみたりしましたが、・・そうこうしているうちに、待ちきれなかったらしく、いなくなっておりました。


集落
来た道を、ふり返ってみました。あの山のどこか、定かには分かりませんが、三坂峠が通っています。
平成28年の遍路でのことです。ふとふり返ると、あの山に黒雲がかかっていました。♫向こうのお山に 黒雲かかれば ・・!あの黒雲には、つかまりたくない。私は迫り来る黒雲から、必死に逃げたものでした。


バス停
中之坂バス停です。この辺で、坂をほぼ下り切った、と言えましょう。


出口橋
「出口」は、この辺の小字名のようです。松山平野からの出口なのかもしれません。(あるいは、その逆?)
とまれ、この辺が三坂の登り口(降り口)ということでしょう。そういえば、近くに在る坂本小学校の「坂本」も、坂の登り口に由来するのかもしれません。


46番浄瑠璃寺
12:30 浄瑠璃寺着。瓢箪の彼と再開しました。
・・トイレがきれいですよ-、洋式もあります、後で見てください。一見の価値ありですよ-、・・と話してくれました。ここまで我慢したのだそうで、「こんなトイレに出会えて、我慢したかいがありました」と、ご機嫌でした。私たちも、後で使わせてもらいましたが、本当にきれいなトイレでした。


46番浄瑠璃寺
余裕ができた彼に、杖を持たせてもらいました。確かにこれは重い!杖の先端には、鉄鋲までついていました。オモトーテと言うはずでした。
それにしても、1グラムでも荷物は減らしたいのが私たちだというのに、よくぞここまで運んできたものです。


46番浄瑠璃寺
しかし、反省があります。ついつい彼の外見の楽しさに気をとられ、内面に持っている真摯さに気づかないでいたことは、大きな誤りでした。
彼のお参りの仕様を見たとき、私たちは、そのことに気づきました。彼が見せた真摯なお参りは、敬意をもって見るに値するものでした。地に正座し、五体投地し、読経し、・・こんなお参りを、私は見たことがありませんでした。


子規句碑
浄瑠璃寺門前の子規句碑です。松山での、戦後初の句碑だと言います。揮毫は柳原極堂だとか。
  永き日や 衛門三郎 浄瑠璃寺  子規


夏アザミ
浄瑠璃寺のお参りを済ませ、(八坂寺に至る四国の道は通らず)食堂を探し歩きました。
しかし、やっと探し当てた食堂は、嗚呼無情。本日閉店。・・結局、何とか食べ物を口にできたのは、西林寺を過ぎた所のコンビニだったというお粗末。その時刻は14:25。店先で、パンと牛乳、トマトを買って食べたのでした。遅かったせいか、オニギリはありませんでした。


47番八坂寺
写真を撮り忘れたのですが、境内に句碑がありました。
  お遍路の 誰もが持てる 不仕合   白象 
白象(はくしょう)は虚子の門下で、高野山第406世座主・森寛紹大僧正の俳号です。
亡くなった三男の遺骨を携え、四国遍路に出たときの句だそうです。大僧正の高みからではなく、一遍路として、同じ遍路が「持てる不仕合」に、温かい眼差しを当てています。


溜め池
溜め池は給水の都合で(池よりも低いところにしか、給水できない)、やや高い所に造られている例が、多く見られます。この溜め池もそうでした。八坂寺を出た、すぐ先にあります。


松山平野
高い所にあるため、堤防から見る景色が、広く開けています。写真は、溜め池から見た松山平野(道後平野)です。


諏訪神社
溜め池の近くには、諏訪神社もありました。なにやら懐かしい景色です。普段は静かですが、お祭日には、♫ ドンドンヒャララ とお囃子が聞こえてくるような、そんな懐かしい景色です。


文珠院
文珠院で、興味深い方との出会いがありました。松山の高校の先生だそうですが、やって来る遍路を待ち受けて、その写真を撮っているそうでした。私たちも頼まれて被写体となったら、帰宅後、焼き付けて送ってくださいました。
なぜ、そういうことをされているのかと尋ねたら、・・


文珠院
・・(白象さんの句をお借りすれば)「持てる不仕合」を滲ませたお顔や、(札所を回るうち、いくぶん心が楽になったのでしょうか)「安堵の色」を浮かべたお顔など、皆さん、人それぞれに、異なる表情をしておられます。そんなお遍路さん達の、百人百様の人生を写真に残しておけたらと思い、撮らせてもらっているのです。・・とのことでした。
この方との出会いは、衛門三郎所縁の、文殊院ならではの出会いでした。


交通標識
石手に向かっています。しかし今日は石手寺まではゆかず、宿は、48番西林寺の先の、たかのこ温泉にとります。


重信川
15:50 重信川通過
(今ではあまり耳にしませんが)重信川は、「外川」(そとかわ)とも呼ばれていたそうです。後に出てくる、西林寺前を流れる「内川」と、対になっていたのでしょう。
子規は、内川と外川を詠み込んで、こんな句を作っています。
  内川や 外川かけて 夕しぐれ  子規
内川から外川にかけての一帯を、夕しぐれが通ってゆく様子なのでしょう。


大師堂
石柱には、四国八十八ヵ所大師堂、と刻まれています。右の道を行くと、48番西林寺です。
なお、この大師堂は、グーグルマップには「八ヵ所大師堂」と記載されています。もしかすると、(正面左側にかかっている)小さな寺名看板を、調査員が読み間違え、そう記載したのかもしれません。


寺名看板
看板の文字が、「四国八十」は小さく、「八ヵ所番外」が大きく書かれているのです。それでつい、ここは「八ヵ所大師堂」だと早合点?
(私が間違っていたら、グーグルさんごめんなさい)。


電柱
懐かしさに、思わず撮ってしまいました。子供の頃、よく見た電柱です。
撮影から20年近くも経っていますから、さすがに、もう撤去されているでしょうね。若い方へ、昔の電柱は、こんなだったのですよ。


西林寺門前の内川に架かる橋
西林寺の門前を流れる川が、重信川(外川)と対になっている、内川です。内川は(前号で記した)御坂川に流れ、御坂川は、外川の重信川に流れ込みます。


48番西林寺
平成28年(2016)の遍路で、’夕しぐれ’ならぬ、三坂峠の黒雲に追われた話を記しましたが、その時、駆け込んだ先が、この西林寺でした。黒雲に気づいたのは、札始大師堂でのことです。
当時の日記に、次の様にあります。・・気づいたら、三坂峠から黒雲が下りてくる。捕まれば、ここ(札始大師堂)では雨を凌げない。合羽を着けるか着けないか。出した答は、着ける時間を惜しんで、走れ!だった。しんどかったが、それは正解で、山門に駆け込むやいなや、ドシャブリの雨。西林寺の境内に、たちまち雨水がたまった。


句碑
さすが松山は俳句の街です。ここにも句碑がありました。
  秋風や 高井のていれぎ 三津の鯛  子規
「高井」は、西林寺辺の地名。因みに、西林寺の住所は松山市高井町です。重信川の伏流水が豊富に湧く所で、その代表的な湧水池が、西林寺の奥の院・𠀋の淵(じょうの淵)です。「ていれぎ」は、水辺に育つ植物の名で、刺身のツマとして重宝されます。「三津」は、子規にとってすこぶる懐かしい所。子規は、三津の浜から東京へ発ちました。「秋風」は、・・晋の張翰が、秋風が吹く頃になると故郷の料理が食べたくなるので、ついには退官して、故郷に帰ってしまった、・・という中国の故事を含意しています。


子規句碑
というわけで、この句もまた、子規の望郷の句、と思われます。
張翰は帰郷を果たし、故郷の料理を食べることができましたが、子規には、それは出来ません。出来るのは、三津の鯛を刺身にして、高井のていれぎをツマに食べたら美味いだろう、と思うこと、それだけです。


宿
今回の遍路の最終夜を、温泉で過ごすことにしました。
宿に着き、一眠りして温泉にはいりました。入浴後の牛乳は美味しかった。それから、夕食です。


大洲城
食事中、(前々号に記した)大洲城の幕落としが、TVで報じられていました。
一枚一枚、工事用の覆いが落ちてゆくのを、肱川大橋に集まった、小学生を含む市民たちが、歓声をあげながら見ています。私たちも、それに和しました。
この後、大洲城は内装が施され、同年9月、一般公開の運びとなります。


踏切
今日は石手寺まで歩いて、あとは松山観光です。飛行機は最終便ですから、ゆっくりできます。
チェックアウト制限時刻ぎりぎりに出ました。
今日最初の札所、49番浄土寺は、伊予鉄道高浜横河原線を渡って、すぐです。


49番浄土寺
渋滞の道沿いにある寺ですが、境内は、静謐に満ちています。
  御詠歌 十悪の わが身を棄てずそのままに 浄土の寺へ まいりこそすれ
浄土寺は、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」とおっしゃった、親鸞聖人の浄土真宗です。十悪の人であればなおさらのこと、身を棄てる前に、浄土寺へ参りなさい、と詠っています。


浄土寺
市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖などと讃えられた空也上人(平安中期)が、数年間、この浄土寺に滞留。村人を教化したといいます。
その記憶を伝えるためでしょうか、当寺には、教科書などでお馴染みの空也像(六波羅蜜寺蔵)とそっくりの空也像が伝わっているそうです。鹿杖を持ち、口から六体の阿弥陀小化仏を吹き出している(南無阿弥陀仏と唱えている)、あの像です。


浄土寺句碑
境内に、空也を詠む子規の句碑がありました。
  霜月の 空也は骨に 生きにける  子規
「骨に生きる」は、「空也は死んでもその教えは今も生きている」の意と解されるのが、普通のようです。私には、ちょっと難しすぎます。


浄土寺句碑
浄土寺には、もう一つ、句碑がありました。
  お遍路や 杖を大師と たのみつゝ  森 白象
白象さんは、前にも記しましたが、高野山第406世座主という「偉い方」です。ですが、その句は、一遍路として、素直に共感できるものばかりです。それは、おそらく、白象さんの視線もまた、一遍路の視線であるからでしょう。


日尾八幡神社
ここに米山の書があることを、私は知りませんでした。天恢さんに教わり、併せて、この写真もいただきました。
天恢さんは、1巡目を報告したご自分のHPに、・・赤い大きな鳥居の前に、大きな「魚躍」と「鳥舞」の二本の石柱が奉納されていた。松山人はセンスのある方が多いとお見受けした。・・と記しておられます。
  鳥舞 魚躍
注連柱の文字は、江戸から明治にかけての、伊予の能書家・三輪田米山になるものです。→(H30春1)


50番繁多寺
10:50 繁多寺着
寺伝では、この寺は天平勝宝年間(8C中)、孝謙天皇の勅願を受け、行基が開創したと伝わります。寺名は、天皇から数流の旛を賜ったことから、初めは「旛多寺」と呼ばれていたそうです。
今では、繁多寺に変わっていますが、旛多寺(はた寺)の名は、寺周辺の字名として、今に残っています。因みに繁多寺の住所は、松山市「畑寺」です。


繁多寺 
前述の浄土寺には空也上人(平安中期)が滞留しましたが、こちら繁多寺には、一遍上人(鎌倉中期)が逗留しています。一遍上人は時宗の祖で、遊行上人とか捨聖と讃えられました。河野一族の生まれであることから、衛門三郎の生まれかわりと言われることもあるようです。


溜め池
繁多寺前にも溜め池があります。辰濃和男さんの「四国遍路」で有名になったアイスクリン屋さんがいる、溜め池です。(この時は、残念ながらいませんでした)。


松山
前述のように、この溜め池も、やや高い所にありますから、そこから見る景色は、広く開けています。
中央の山は、松山城の城山でしょうか。


石手川
石手川は、松山市の上水の約半分を供給しているという、重信川水系の一級河川です。高縄半島の主峰・三方ケ森を水源とし、石手川ダムを経由して、松山市内を南西に流れています。


標識
石手川を渡ると、すぐ、この標識に出会います。
国道317号は、高縄半島の山間部を通って今治へ、さらには「しまなみ海道」を経て、尾道に出る道です。平成8年(1996)に全通したそうです。
松山-今治間のルートは、もう一本、海沿いの国道196号がありますが、車での所要時間は、196号、317号共に一時間余で、ほとんど変わらないそうです。


石手寺山門
12:40 51番石手寺です。
五重塔の前に、「イラク侵攻 あらゆる暴力に反対 人命尊重」と大書されたタテカンが立っていました。イラク侵攻が起きたのは、この前年・平成15年(2003)のことでした。
時々、このような石手寺の活動への「批判」を耳にすることがありますが、少なくとも、イラク侵攻反対が間違いでなかったことは、今日の(令和3年の)イラクの現状をみるとき、明らかです。


石手寺
「衛門三郎再来」と記された小石を左手に握って、男子が生まれてきました。男子は長じて河野家7代当主・息利となり、領地に善政を敷いたといいます。


花祭
今日、5月26日は、旧暦の4月8。花祭の日です。お釈迦様は「花咲き匂う 春八日」、ルンビニー園でお生まれになりました。
子供の頃、お釈迦様の乗った白象を引きながら、こんな歌を歌ったものです。
  昔も昔 三千年 花咲き匂う 春八日 
  響き渡った 一声は 天にも地にも われ一人

  我らは仏の子供なり 
  うれしいときも かなしいときも
  みおやのそでに すがりなん


道後温泉 
石手寺を次回の打ち始めと決め、飛行機までの時間で、市内観光をすることにしました。飛行機は最終便なので、だいぶ時間はあります。
まず、道後にやって来ました。
少彦名命も入られたという「神の湯」に入りに来たのですが、混んでいるようだったので、「椿の湯」にしました。
鷹ノ子温泉で朝湯に入りましたから、今日、2回目の温泉となります。


道標
椿の湯の中庭に、遍路道標が建っていました。
  太山寺道 小林家先祖代々 為菩提


萬翠荘
ここは萬翠荘です。松山藩藩主家の直系・久松定謨が、大正11年(1922)に別荘として建築したものだそうです。「萬翠荘」の名は、定謨の子で(元愛媛県知事地の)久松定武氏の命名だそうです。 


愚陀佛庵
ここは愚陀佛庵。移築したものですが、漱石の松山での、二度目の住まいになります。子規や極堂やが集い、松山文壇・俳壇の、さながら梁山泊でもありました。


空港
17:20 大街道から空港行きリムジンバスに乗りました。松山駅で混んできて、ほぼ満席です。皆さん、羽田行きに乗るようでした。
19:10 松山発。右、後方にきれいな夕焼けを見ながらのフライトでした。
23:00 自宅で入浴。やはり落ち着きます。
23:30 ぐっすりと眠る。
翌朝 6:30 朝食。普段食べる量を、ぺろりと食べてしまいました。遍路から帰った一週間ほどは、心身共に、実に健康です。すぐ元に戻ってしまうのですが。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
7号にわたって綴ってきました平成16年(2004)春遍路のシリーズは、今号をもって終わりとなります。次号からは、平成17年(2005)の春遍路シリーズです。アップロードは、2月2日の予定です。
もはや毎度のこととなりましたが、コロナに、くれぐれもご用心。

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コメント (2)
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44番大宝寺 45番岩屋寺 三坂峠

2021-12-29 | 四国遍路

 
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大宝寺へ
平成16年(2004)5月24日、久万町の宿に泊まった北さんと私は、44番大宝寺に向かっています。
登校中の小学生たちが元気に、「おはようございます」と挨拶してくれました。


大宝寺へ
グループ登校に遅れた子が一人、ランドセルを鳴らして、駆けてゆきました。息を切らしながらも「おはよ・・ます」と、私たちへの挨拶は欠かしませんでした。
写真奧に見えるのは、大宝寺の総門です。総門とは、総構えの正門をいうそうですから、かつては、ここからが、門前町をも含みこんだ、寺域だったのでしょう。橋は、久万川に架かる橋で、その名も総門橋。あたかも久万川が城の外堀であるかのように流れています。


久万川の流れ
今日は大宝寺→岩屋寺とお参りし、ふたたび久万町に戻って連泊します。
不要な荷物は宿に置いてきましたので、身軽です。
なお、今号に記したのとほぼ同じ行程を、平成28年(2016)にも歩いています。次のリンクから、併せてご覧ください。→(H28秋 4)


勅使橋
保元元年(1156)、病に取り憑かれた後白河天皇は、大宝寺に勅使を遣わし、病気平癒を祈願させたといいます。
すると病はたちまち快癒。お喜びになった天皇は、妹宮を大宝寺住職として下向させ、直前に焼失したばかりの伽藍を再建。大宝寺を勅願寺とした、と伝わります。
赤い橋は、この故事に由来する「勅使橋」です。前方に朝の光が射し込んでおり、森の深さを感じさせます。


山門
44番大宝寺は、88ヵ所の真ん中であることから、「中札所」とも呼ばれます。
多くの遍路は中札所まで来て、これまでは漠然と遠くにあった88番が、計算可能の射程に入っていることに気づきます。
ある人は、結願の可能性に確信を持ったかもしれません。あるいは逆に、不安を感じ、なんらかの修正を迫られた人もいたでしょう。結願までの日数を、かなりの確度で計算できるのも、中札所です。


本堂  
私たちが中札所で得た感触は、「なんとか結願はできそうだな」でした。のらりくらりと歩き、日数もかかったけれど、なんとかここまで来られたではないか、これなら、なんとかなりそうだぜ、と私たちは、楽観的見通しを話し合っていたのでした。
まさかこの翌年、平成17年(2005)、私が椎間板ヘルニアを発症。手術を受ける事態に陥るとは、(むろん神でも仏でもない身の)知るよしもありませんでした。


元愛媛県知事 
久松定武氏は、元愛媛県知事です。旧伊予松山藩藩主家・久松松平氏の嫡流に生まれた、「殿さま知事」でした。香淳皇后(昭和天皇の皇后)は、知事の従妹にあたりました。
平成5年(1993)には、「殿さま宰相」が誕生することでもあり、「殿さま○○」は、起こり得ないことではなかったのですが、しかし、この方の初立候補(昭和26年)が日本社会党からであったと聞けば、ちょっとビックリではありませんか。もちろん社会党の政策が実現されることは、ほとんどなかったのですが。・・まあ、いろんなことが起きていた、という話です。


遍路道
今は45番の岩屋寺も、かつては大宝寺の奥の院であったといいます。
すなわち、大宝寺から岩屋寺にかけての広い山域は、信仰空間として一体化しており、大宝寺が、その中核として在ったということです。
その、かつての姿を彷彿させるかのように、大宝寺からの遍路道は、石造物をたくさん残す、山道になっていました。


峠御堂トンネル
しかし、その道も(ちょっと残念ですが)1.4キロほどで切れてしまいます。見えているトンネルは、昭和49年(1974)竣工、長さ623㍍の峠御堂(とうのみどう)トンネルです。
トンネルを抜けて走っている道は県道12号で、この道が、現代の遍路道になっています。


県道12号
県道12号に降りてきました。
この道は、標高500㍍余のところを走っており、岩屋寺に向かって左側が山側で、右が、眺望の開けた谷側になっています。
写真では左側が谷側になっていますが、それは、この写真が後方を撮った写真だからです。写真奧に向かって歩いている人がいますが、この人は岩屋寺から歩いてきた人です。これから大宝寺に向かうのか、(もう大宝寺は打っているので)トンネルを抜けて三坂峠を越えるのか、それはわかりません。


道標
ここから岩屋寺へゆく道は、大きく分けて二本あります。一本は、このまま県道12号を歩きつづけて、岩屋寺の下に出る道です。車を利用している方は、この道を進みます。
もう一本は、途中で県道12号から別れ、古い修験の道である八丁坂を経て、岩屋寺の裏門(かつての正門)に至る道です。私たちは、こちらの道を進みます。


有枝川
隅田川とテムズ川ほどは離れていませんが、有枝川(写真)の水が仁淀川に通じていると言えば、多少は驚かれるかもしれません。なにせ仁淀川は、35番清瀧寺に向かう途中で渡った、太平洋に注ぐ土佐の大河なのですから。きれいな水が印象的な川でした。
有枝川は南流して、三坂峠方面から流れてきた久万川(前掲写真)に合流し、久万川は御三戸(みみど)で面河川に合流します。そして面河川は高知県に入ると、仁淀川と名をかえますから、有枝川の水は、流れ流れて仁淀川に通じ、太平洋に注いでいる、となるわけです。水は、私たち人間には想像もつかぬほど、楽しく、またエキサイティングな旅をしているようです。


県道12号
この方も、岩屋寺近くに泊まられたのでしょう。


へび
車道(12号)を避けて畑の中の道を歩いていると、前を蛇が横切り、隠れました。
しかし頭は隠しても、尻尾は残っています。気づいていないのでしょうか。(我が人生で初めて)蛇にかわいらしさを感じ、カメラに収めてしまいました。
そんな遊びをしながら、ふと車道の方を見みると、昨日知り合った若いお坊さんが、手を振っていました。私たちも手を振り、すぐ車道に上がることにしました。


休憩所
車道に上がると、近くの休憩所に遍路が二人座っていました。一人はお坊さんで、もう一人は、これも昨日知り合った、野宿遍路でした。近く医師の国家試験を受ける予定なので、医者としての「性根」を確かめたく歩き始めた、とのことでした。今頃は性根の座った医師として、コロナ相手に戦っておられるかもしれません。
しばらく歓談し、「これで最後ですね」と言って別れました。私たちは、もう半日分も彼らに遅れているので、追いつくことは出来ないと考えたからです。お二人も、それはわかっていて、「お気をつけて」「お元気で」と、(もう会うことはない)別れの挨拶を交わしたのでした。


八丁坂
県道12号から離れて、 八丁坂と呼ばれる岩屋寺への修験道に入ります。
案内板に次の様な文が記されていました。
・・昔の人は、急なこの延長2800メートルの坂道を、修行のへんろ道として選びました。弘法大師が開かれた岩屋寺は、霊場中、もっとも修行に適した場所であるから、参道は俗界の道を行かず、峻険な修行道として八丁坂を「南無大師遍照金剛」を唱えながら登りました。


八丁坂
・・俗界の道を行かず、峻険な修行道として八丁坂を「南無大師遍照金剛」を唱えながら登りました。・・とは、歯長峠のところで天恢さんが紹介して下さった、・・苦をとるか楽をとるか、胸三寸の分かれ道・・を思い出させるような文です。敢えて苦をとる、これもまたよし、です。


道案内
伐採の後、チェーンソーを使って、こんな細工をしてくれました。ありがとう。


道案内 
こんなのもありました。


道標
岩屋寺まで1.9キロ、とあります。
この四国の道道標の隣には、「八丁坂の茶店跡」と題する、下掲の案内板が立っています。


案内板
案内文中の・・野尻から中の村を経て、槙ノ谷から上がる「打もどりなし」のコース・・は、「協力会地図」に「農祖峠遍路道」として記載されたコースと、ほぼ同じです。農祖峠を越えて45番岩屋寺を先に打ち、44番大宝寺→三坂峠→松山、と歩きます。


「遍照金剛」と彫った大石
案内文に、・・七鳥村の組内30戸ほどの人たちが、この道こそ本来のコースであることを示そうとの意気込みを持って、延享5年(1748)に建てた「遍照金剛」と彫った大石が建っています。・・とある「大石」が、これです。文字は、もうほとんど読みとれません。
七鳥(ななとり)村の村名は、この地に七種の霊鳥が棲むとの伝承に由来するそうで、今も久万高原町の字名として残っています。例えば岩屋寺の住所は、久万高原町七鳥 です。なお七種の霊鳥とは、三宝鳥(ぶっぽうそう)・慈悲心鳥(じゅういち)・慈悲声鳥(うぐいす)・鼓鳥(きじばと)・鈴鳥(きびたき)・笛鳥(ひよどり)・鉦鼓鳥(ほととぎす)である、とのこと。


景色
茶店跡の辺りから見た景色です。なるほど、茶屋があったとうなずける、素晴らしい展望です。この景色を楽しみながら、しばし足を休めていたのでしょう。



木が、やせ尾根を崩落から守っています。また、これなら転落しても、どこかで止まりそうで、歳とともに高所恐怖が昂じてきている私でも、楽々通れます。


まむし注意
「落石注意」と同じくらい、対処が難しい警告です。塚地峠で会った人なら、(まむし酒を造るため)シメタとばかりに捕まえにかかるのでしょうが、→(H15秋1)私たちに出来ることではありません。 
なおニホンマムシは、毒を持つが故に退治されたり、黒焼きやマムシ酒用に捕獲されたりして、今や絶滅の危機に瀕していると言われています。ネズミを食べるなど、人間様の役に立っているにもかかわらず、これほど絶滅が危惧されない絶滅危惧種も、少ないのではないでしょうか。


逼割禅定(せりわり禅定)
案内板には、次の様にあります。
・・開山の法華仙人が、弘法大師に通力を見せた跡と伝わります。岩の裂け目を鎖と梯子でよじ登り、頂上の白山大権現に詣でます。山岳修験者たちの古くからの行場で、山岳重畳の眺望をほしいままにし、はるかに石鎚を望むこともできます。
なお法華仙人は女性の仙人で、空を飛ぶなどの通力を得ていると言われています。


逼割禅定
岩屋寺の山号・海岸山の「海岸」は、かつての岩屋寺の御詠歌・・
  山高き 谷の朝霧海に似て 松吹く風を 波にたとえむ  空海
・・から来ているとのことです。雲海というがごとくに、谷を埋める朝霧の広がりが海に喩えられ、海岸山とは号したのでしょう。


三十六童子巡り
山門の手前に、三十六童子巡りの行場があります。三十六童子は、岩屋寺の御本尊である不動明王の眷属です。これら童子を巡っては、その名を唱え、悪霊退散、病快癒などを願います。
若い遍路が、童子に札を納めて回っていました。聞けば、・・僕は、好きな札所には何日も留まります。・・とのことで、岩屋寺は、今日で2日目だそうでした。この後、逼割禅定に登るとのことで、一緒にどうですか、と誘われましたが、ちょっと(恐くて)その気にはなれませんでした。


赤不動
台風による被害でしょうか。お不動さんが倒れていました。


山門
前述のように、県道12号を来た人は、この山門からは入りません。この山門を潜るのは、八丁坂を越えてきた歩き遍路だけです。
車社会の今日では、12号側の門の方が参拝者数も多く、「正門」のように感じられていますが、車による参拝がなかった時代には、この門が「正門」だったでしょう。


洞窟
岩屋寺という寺名の興りとなった、窟=岩屋です。
写っている庇は、本堂の庇です。


本堂と岩屋  
岸壁は、海底から隆起したとされる礫岩層です。
壁には小さな穴がたくさん開いています。礫が剥落した跡と考えられ、寺でも事故の発生をおそれ、立ち入り制限するなど、気を配っているようです。


岸壁
この写真は、仰向けに寝て撮ったものです。礫が混じっているのを、ご覧いただけると思います。剥落すれば、大事故にも繋がりかねません。梯子は、法華仙人の窟に登るためのものですが、現在は登れなくなっているのではないでしょうか。


本堂
  大聖の いのる力の げに岩屋 石のなかにも 極楽ぞある
現在の岩屋寺御詠歌です。海との縁を詠った前の御詠歌とは違って、御本尊・不動明王を詠っています。大師は、木に刻んだ不動明王像を本堂に安置しましたが、同時に、石にも不動明王像を刻み、こちらは、岩の中に封じ込めたと伝わります。そのことを指して、「石のなかにも 極楽ぞある」と詠っているのでしょう。


下山
参道を下り、県道12号に向かいます。この参道は、八丁坂の案内板に言わせれば「俗界の道」ですが、上るには、けっこうきつい坂です。車で着た人も、この坂は自力で登らねばなりません。


昼食
ぐずぐずしている内に、2時を過ぎてしまいました。ようやく昼食です。そば屋さんですが、うどんをいただきました。
食堂のおばさんは七鳥生まれの七鳥育ちで、いろいろと土地の話を伺うことができました。中でも印象的だったのは、「ここから峠御堂までは、基本的に登りなんです。自転車通学の中学生たちは、皆、難儀してます。立ちこぎです」でした。言われなければ気づかなかった、地元の人だけの土地勘です。


古岩屋トンネル
平成11年(1999)竣工。長さ254㍍。


古岩屋
五来重さんの「四国遍路の寺」から、引用させていただきます。
・・(大宝寺と岩屋寺の岩屋を)両方合わせて菅生の岩屋と呼んでいました。その間にもう一つ古岩屋(ふるいわや)という非常に大きな洞窟があります。
・・一遍上人が籠もったのは(岩屋寺か古岩屋か)どちらかわかりませんが、寺伝では古岩屋ではないかといっています。いずれにしても、大宝寺と古岩屋と岩屋寺は一連の行場になっていました。


ふるさと村
向こうから修験者が歩いてきました。ガイジンサンです。頭を手ぬぐいで覆い、白の半袖、白の裁着袴、白の脚絆に白の地下足袋。白装束に身を固め、結袈裟(菊綴のような房を付けた輪袈裟)をつけています。手には鹿杖にも似た、八尺ほどの自然木の杖を持ち、荷物は野宿対応。聞けば、ドイツ人だそうでした。日本語は自由に話します。
北さんが「たぶん私はあなたと一度会っている」と話しかけました。「大峰奥駆道で私が下っていると、あなたが登ってきて、やがて降りてきたあなたに追い抜かれた」のだそうでした。彼は覚えていませんでしたが、自分が歩いた時期と合致しているので、きっと、お会いしたのでしょうね、とのこと。北さんは、大峰の同行者に見せようと、彼とのツーショットをカメラに収めました。
彼から聞いた百日回業の話は、興味深いものでした。・・初めは足が痛く、つらかったが、沢の水の冷たさが元気をくれた・・など、体験をいくつか話してくれました。


崎御堂トンネル
崎御堂トンネルに戻ってきました。往路では、大宝寺の山からトンネル出口に降り、県道12号を歩きましたが、復路は、トンネルを抜け、久万町の市街地に入ります。私たちは久万に連泊します。
なお、岬御堂トンネルが開通する前には、千本峠道で仰西に出、そこから三坂峠を越えの道(久万街道)に入るというルートがありました。千本峠遍路道については、→(H28秋 5) をご覧ください。


札の辻七里
久万町に入りました。
「松山札の辻より七里」の里程標が建っていました。より詳しくは、→(H28秋 5) をご覧ください。
この道は松山から久万に通じていることから、久万街道(久万官道)と呼ばれていました。また、さらには土佐国府にも通じているので、土佐街道(土佐官道)とも呼ばれ、里程標はむろん、土佐国府にまでつづいていました。


久万泊 
今日は久万の宿に泊まります。
足の悪い年寄り遍路(女性)が同宿でした。お孫さんでしょうか息子さんでしょうか、にエスコートされて廻っています。彼女は、ずっと畑仕事をしてきたそうで、腕力が強く、孫(息子)の腰ベルトを後ろからガッシとつかんで歩きます。いつもそうしているからなのでしょう、彼女は当たり前のように孫(息子)のベルトを掴み、孫(息子)も、当然のように掴まれて、汽車ごっこのように、縦に並んで歩いていました。
心和む、いい景色を見せてもらいました。


翌朝
一夜明け、今日は快晴です。三坂峠を越え、松山に入ります。峠までの途中には、大除城(おおよけ城)、仰西渠(こうさい渠)、高殿宮(こうどの宮)など、見るべきものがありますが、これらについても、上記リンクよりご覧ください。


三坂峠へ
三坂峠に上がる長い坂道です。この道に国交省が与えた正式名称は、国道33号または国道440号です。この辺では、二つの国道が重なっています。
ただし、看板に見える「三坂道路」の開通以降は、異なってきます。新道と旧道の分岐点で33号と440号は分離され、新道(三坂道路)が33号、旧道は440号とされました。


三坂第1トンネル図
標高710㍍の三坂峠には、けっこう雪が降るそうで、車両のスリップ事故などが多発してきたそうです。この辺のドライバーは雪道には全く慣れていませんから、雪の日は、事故がなくても、大渋滞したのでしょう。その交通のネックを解消するため、三坂道路は建設されました。写真の三坂第1トンネルは、峠の下を抜ける長さ3.1Kのトンネルで、まさに三坂道路の目玉です。
私たちが歩いた平成16年(2004)には、まだ開通しておらず、その2年後、平成18年(2006)に貫通します。ただし三坂道路全線の開通は、平成24年(2012)のことでした。今や三坂峠を越える車両は、激減していることでしょう。


自転車遍路さん
この頃はまだ、ご覧のように、多くの車が走っています。
前方の自転車遍路さんは、ついさっきまでは、ガンバッテこいでいたのですが、もう押して上がることにしたようです。長い坂ですから、仕方ないでしょう。
しかし、坂の最高点は間もなくです。ひとたび最高点を越えたなら、あとは地球の引力を動力として、長い長い下り道を楽しむことができます。


三坂峠へ
この道は、蛇行する国道440号(旧国道)をショートカットする道です。
ただし、440号が通ってからショートカット道が出来たのではなく、ショートカット道の方が440号より先に、久万街道として通じていたことは、言うまでもありません。


ホダ場
ホダ場がありました。ホダ木(クヌギでしょうか)を並べて、キノコを栽培しています。
よいホダ場であるためには、風当り、排水、庇陰度、給水など、いくつもの条件が揃わなければならないとのことです。また作業の便のため、道路に近いことも大切だと言います。なるほど、このホダ場も道の側にあります。



ホダ場のすぐ先に、小さな池がありました。ここから水を取っているのかもしれません。


峠へ
丸木橋は、沢に架かっています。沢は、池に注いでいます。


国道440号
国道440号に出てきました。
「またのお越しを!気をつけてお帰りください 久万町」とあります。三坂峠は、久万町(今は久万高原町)と松山市の境界になっています。
なお、右脇は「良材と集成材の久万森林組合」、左脇は「久万の木で家を建てよう」と記されています。林業は古くから、久万の主産業でした。


道標
国道440号の最高地点です。車両は、これより下ります。
が、歩き遍路は、まだ下らず、もう少し登ります。440号は峠を切り通して通っていますが、歩き遍路道には、切り通しはないからです。
道標・・右 へんろ道・・ここからが旧遍路道です。


旧道へ
案内板に、三坂馬子唄が紹介されていました。
  むごいもんぞや 久万山馬子はよ 三坂夜出て 夜もどる ハイハイ
朝は朝星、夜は夜星と言いますが、それよりも「むごい」のが、三坂峠です。夜出て夜もどります。


下り道
さて、大宝寺から石手寺までを、一つの号に納めたかったのですが、あれもこれもと書いている内に、字数オーバーとなってしまいました。
そこで、やむを得ず予定を変更。 二つの号に分割してご覧いただきます。
三坂峠から石手寺までの続編は、年を越した令和4年1月5日アップロード予定の、次号でご覧ください。

  追加

阿佐海岸線路線図
オミクロンで暮れ、オミクロン明けようとする年末年始ですが、朗報があります。報道によれば、阿佐線の東線(阿波と土佐を室戸岬経由で結ぶ、阿波側の路線)の残る区間が、この12月25日、阿佐海岸線として開通したとのことです。水陸両用ならぬ、鉄道と道路の両方を走る、DMV(デュアル・モード・ビークル)を導入するという、ある意味、奇手を用いての開業です。これで阿佐線の残る未通区間は、阿佐西線の奈半利-室戸間のみです。ガンバレ!阿佐西線。
阿佐線については、本ブログでも何回か取り上げてきましたので→(H27春4)、ついうれしくなり、追加記事として掲載しました。なお写真の路線図は、阿佐鉄道のHPからお借りしたものです。下の写真は、平成27年に、私が撮ったものです。


甲浦駅終点
線路は続かず、甲浦駅途切れていました。


阿佐東線建設の呼びかけ
甲浦の先には、こんな看板がありました。

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大洲 十夜ヶ橋 突合 新田八幡 鴇田峠 久万大師

2021-12-01 | 四国遍路

 
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大洲の朝
曇りがちのお天気ですが、歩くには丁度いいでしょう。雨の心配はないようです。
大洲駅近くの宿から、十夜ヶ橋→内子→小田川沿いの道を、ゆっくり楽しみながら歩き、楽水大師近くの民宿に泊まる予定です。
日記に次の様に記しています。・・民宿に予約した。突合まで2.1Kのところだ。上黒岩遺跡は断念した。岩屋寺からタクシーという方法がまだ残ってはいるが、難しいだろう。


上黒岩遺跡・女神石
北さんと私は、上黒岩遺跡を訪ねる腹案をもっていたのです。縄文時代草創期から縄文時代後期まで、1万年近くにわたって人が住んでいた複合遺跡で、側の考古資料館には、興味深い出土品が展示されています。もうこんな所に来ることはないから(と当時は思っていた)、ぜひ見にゆきたかったのですが、残念でした。
私が上黒岩遺跡を訪ねるのは、(北さん抜きの単独でしたが)平成22年(2010)になります。写真は、その時に撮った線刻礫「女神石」です。上部の線は長い髪、乳房。下部の線は腰蓑と考えられています。なお、その時のアルバムは、まだリライトできていないので、閲覧できません。


朝食
ビジネスに素泊まりでしたので、朝食も外食です。
食事を終え、外に出ると、道を隔てた向こう側を、女性遍路の二人連れが歩いていました。互いに気づいて、軽く会釈でご挨拶。
道を挟んで、双方、歩きはじめましたが、これがうれしい出会いのはじまりとは、この時は思ってもいませんでした。


十夜ヶ橋交差点
ごめんなさい。いきなり十夜ヶ橋までスキップです。
ずいぶん端折ってしまいましたが、この区間の諸々については、(H28秋 1)に書きましたので、ご覧ください。


十夜ヶ橋
十夜ケ橋(とよがはし)の名の由来は、よく知られています。
・・四国巡錫の砌、当地で野宿を強いられた大師は、橋の下で一夜を過ごそうとされました。しかし飢えと寒さは耐えがたく、その一夜は、十夜にも感じられる、長い一夜となってしまいました。
・・土地の人々は大師のご苦労を偲び、小祠を建てて大師を祀り、この地を十夜ヶ橋と呼ぶようになりました。
といった譚です。
なお、一夜が十夜にも感じられる夜を過ごした譚は、同じ肱川流域では、バラ大師に残されています。こちらでは大師は、野バラのトゲの上で、一夜を過ごされます。→(H28春 4)


十夜ヶ橋
この譚には次の様な、’戒め’とも言うべき譚が続いています。大師の入定信仰と結びついた譚です。
・・お大師さんは今も四国をまわり、修行を続けておられます。ですから、橋を渡るときは、杖を突いてはなりません。橋の下で、お大師さんが休んでおられるかもしれないのです。お大師さんの眠りを妨げないよう、橋では、杖を突かず、そっと歩くようにしましょう。


十夜ヶ橋


五十崎町黒内坊(いかざき町くろちぼう)
五十崎町との境に来ました。遍路道は、この先で国道56号とわかれ、左に切れ込んでゆきます。泉ヶ峠を越える旧道に入るわけです。
前を歩いている方は、もしかしたら三間で会った方かもしれないのですが、旧道には入らず、国道をまっすぐに進みました。国道の方が平地を歩くので早い、との判断があったのでしょうか。


道標
しかしその選択は、私たちの選択ではありませんでした。私たちは、少しばかり遅くなっても、古い道を好んで歩くからです。
泉ヶ峠の道は、土地の人から「歴史の道」と呼ばれる道です。今は遍路くらいしか通りませんが、明治末期までは、通行量の多い物流の道でした。
道標にある八日市地区や、それに隣接する護国地区は、和紙や木蝋によって栄えたところです。この道は、和紙や木蝋を小田川の舟運に乗せるための道であり、また、その原材料や生活雑貨を、内子に運び上げるための道でもあったのです。


道(H28撮影)
泉ヶ峠の道への、取り付きの道です。
一軒のお宅の庭先を通り過ぎるとき、女性が花の手入れをされていたので、「失礼します」と声をかけました。すると奥さんが私たちを呼び止め、缶コーヒーなどをお接待して下さいました。改めて「庭先を申し訳ないことです。お邪魔でしょうね」と話すと、「いえ、お遍路さんの鈴の音を聞いていると、心が安まります」と答えてくださいました。別れ際には、「この先はぬかっております」と教えてくださいました。


ぬかるみ(H28撮影)
ぬかるみと言えば、この先で、楽しいガイジンサンに出会いました。ぬかった道を裸足で歩いているのです。靴は手にぶら下げています。
なぜか?カタコト英語で尋ねると、靴を洗うより足を洗う方が簡単でしょ、それに裸足は楽しいし、だそうでした。古代ギリシャ碩学の弁ではありませんが、人はいろいろ考えるのです。
なお写真のぬかるみは、後年、撮ったもので、だいぶ乾いています。平成16年(2004)の時は、たしかに靴が汚れるほどぬかるんでいました。



ちょっと入ると、国道の喧噪から隔絶された空間がありました。
暦の上ではもう夏だというのに、のんびりとウグイスが鳴いていました。


棚田
道の右手に、よく手入れされた、田圃が見えてきました。沢が造った小さな扇状地を、棚田に切っています。
実はこの時点(平成16年)では意識にのぼっていなかったことですが、改めて写真を見直したとき、猪除けなどの柵が見られないことに気づきました。すでにあちこちで耳にしていた、猪や鹿などによる食害は、この辺では、まだそれほど深刻ではなかったのでしょう。


平成16年の畑
これが17年前(平成16年)の畑です。杭を打っていますが、この柵の対象は、明らかに人間です。人に対して、境界を示しています。


平成28年の畑
ところが、その12年後(平成28年)の秋に歩いた時は、ご覧のように、隙間のない柵が巡らされていました。聞けば、イノシシ、野ウサギ、ハクビシンなどの食害が酷いとのことでした。
10年ほどの間に、当地にも、大きな変化が起きていたわけです。


内子運動公園 
泉ヶ峠に上がると、内子運動公園がありました。
高校生のチームが練習試合をしていたので、休憩がてら観戦していると、女性遍路がやって来ました。朝食後、道を挟んで会釈を交換し、十夜ヶ橋で改めて挨拶を交わしたお二人です。


昼食
時刻はまだ11時頃でしたが、お腹もすいており、一緒にお昼をとることにしました。四人横並びで食べながら、自分たちのことや、今後の予定などを話し合ったのでした。
お二人は松山の方で高校の同級生。年齢は私たちと同じ。この後、久万高原まで歩いて、バスで帰宅するとのことでした。結願を目前にしているわけです。食後、いっぱいお菓子をいただいたので、お返しに、大洲の食堂でいただいた小分け羊羹を差し上げました。


内子座
運動公園から下り、予讃線の内子線を潜ると、内子の観光地区です。
櫓がある大きな建物は内子座です。


内子座
内子座の変遷や内子の街のことなどは、(H28秋 2) に記しているので、ご覧ください。


交通標識
この先を右折し、国道379号に移ります。この道は、小田川沿いに蛇行する道です。


生コン工場と松山自動車道


小田川
泉ヶ峠のところでも触れましたが、この辺の人流・物流は、まずは小田川の水運に頼っていました。小田川から肱川に出、肱川から海に出ていたのです。川舟の下り荷は炭、和紙、木蝋などでした。また木材を筏に組んで、流してもいました。上り荷は,和紙の原料となる楮(こうぞ)、木蝋の原料である櫨(はぜ)の実、そして日用雑貨などでした。


国道379号
しかし、水上輸送が主流であったのは、大正時代までだったと言います。筏流しは昭和に入っても続きましたが、これも昭和23年(1948)を最後に、終わっています。
木蝋、和紙等の生産に陰りが見え始めたこと。道路が通され、陸上輸送が容易になってきたことなどが原因のようです。例えば明治37年(1904)には、前述の泉ヶ峠越えの道に代わって、鳥越を通る道(現国道56号のベースになる)が開通しています。大正7年(1918)には、愛媛鉄道(現JR四国)も整備されています。


小田川
小田川沿いに歩きながら思っていたのは、「いい景色だ」ということでした。よくよく見れば、治水工事は行われているのですが、コンクリートで塗り固めた無粋な堤防などは、見当たりません。自然に優しいとでもいいますか、そんな工事がされていて、私たちはそれが嬉しくて、河川敷にまで降りて、しばらく時を過ごしたほどでした。
帰宅して「小田川」を調べてみると、小田川の治水工事には、「近自然河川工法(多自然型川づくり)」が採用されていることがわかりました。そうか、だからだったんだ、と合点したものでした。


小田川
水量が豊かです。土地の人によると、(私には理解できませんが)・・今年は、もう季節なのに水が多く、鮎が育っていない、・・のだそうです。
そういえば鮎釣りはみんな、浅瀬でやってますね。川底の藻を食べる鮎にとっては、深すぎるのはよくないのでしょうか。


小田川
河原にまで降りてみました。宿まで、まだ10K以上はありますが、今日はもう峠越えがなく、のんびりしてしまいました。


長岡山トンネル
峠越えがないのは、トンネルのおかげです。かつては通っていたと思われる峠越えの道は、今は、藪の中に埋もれているようでした。
長さ392㍍。竣工は、昭和63年(1988)。


長岡山トンネル
トンネルを出ると、すぐ前に「お遍路無料宿」がありました。個人のご厚意によるものでしょうか、それとも地域で設けて下さったのでしょうか。
なお、このルートには、無料の「宿」が、もう一軒あります。後に記す千人宿記念大師堂です。


無料宿内部
きれいに整理整頓されていました。


和田トンネル
長さ190㍍。竣工は昭和60年(1985)。


大瀨の茶堂
大瀨に入ると、茶堂がありました。三面が吹き抜けで、一面に縁起棚が設えられるという、典型的な茶堂の形式を踏まえています。
フシ無しの木材(桧だったか?)で造られ、居合わせた人の話では、建築費2000万円?とかの豪華版です。1丁目と2丁目に1軒ずつ建っていました。なお3丁目から、おら方にないのは不公平だ、との声が上がっていると聞きましたが、どうなったのでしょうか。


大瀨の茶堂の縁起棚
かつてはここに、神仏が祀られていました。
茶堂については、→(H28春 4)に、ある程度のことを記していますので、ご覧ください。


大江健三郎生家
内子町大瀬の、大江健三郎さんの生家です。表札だけ撮らせてもらいました。この頃は、兄さんがお住まいとのことでした。
大江健三郎さんは、大瀨で中学までを過ごし、内子高校に進みますが、1年終了時に松山東高へ転校し(伊丹十三との出会いがあった)、東大仏文に進みました。
東大在学中、作家として作品を発表し始めますが、とりわけ初期の作品で執拗に描く「閉塞状況」には、’僕が育った谷間の村’=大瀬・内子での体験が、大きく反映されています。


曽我十郎神社
こんなところで曾我兄弟(十郎・五郎)に会えるとは、思ってもいませんでした。曾我兄弟が父の敵・工藤祐経を討つ物語は、子供の頃、何度も聞かされ、また読んだものでした。クドウスケツネ・・なんと憎々しげな名前であることよ、私たちはみんな、曾我兄弟贔屓でした。
そのせいでしょうか、敵討ちがなった後、十郎がスケツネの家来によって討たれたり、五郎が梟首(さらし首)に処されるという悲劇的な部分は、私の記憶からは抜けています。あるいは子供向けには、ハッピーエンド仕立てになっていたのでしょうか。


曽我十郎神社
十郎神社に伝わる話では、十郎の家来が、(五郎の首は取り返せなくとも)せめて十郎の首は守りたいと、自分の郷里、宇和島に持ち帰ろうとしたのだそうです。ところが、ようやく大瀬までは来たものの、首が痛み始めてしまい、やむなくこの地に埋めたのだと言います。曽我十郎神社は、その首塚を祀る神社です。
幟が立っていることからもお分かりのように、明日はその、十郎神社の大祭です。武者行列も出るとのことですが、残念!見ることはできません。


鬼の手橋
・・昔々、喉が渇いた大鬼が、小田川の水を呑んだのだそうな。その鬼はよほどの大鬼だったみえて、鬼が去ってから見てみると、なんと鬼が手をついた岩に、鬼の手形が残っていたのです。
その鬼の手岩が此所から見られるというので、探してみましたが、残念、見つかりませんでした。


千人宿記念大師堂
千人宿記念大師堂です。この地で善根宿を営んできた人が、昭和5年、千人の宿泊を達成した記念として、この大師堂を建て替えたのだそうです。以来、そのことに因んで、この大師堂は「千人宿記念大師堂」と呼ばれるようになったとのことです。
ちょっと覗くと、4人の若い遍路が卓を囲んで、食事の準備をしているところでした。4人は道中で知り合った者同士だそうでしたが、いかにも親しげで、修学旅行にでも来ている雰囲気でした。うらやましくなり、自分もやってみたいと思いましたが、野宿は、もう私には無理ですね。
なお写真は、別の機会に撮ったものです。この時撮った写真は人物が入っており、使えません。


筏流しの里
この辺の地名を川登といい、筏は、川登筏と呼ばれています。私たちが歩いた時は、「筏流しの里」として売り出そうとしているところで、近々、民宿もオープン予定とのことでした。その建物は、昔、当地にあった遍路宿を忠実に写しているとのことでした。


川登筏
写真は、ポスターから拝借した川登筏です。多くの乗客は、観光客でしょうか。


楽水大師堂
昔の旅人は、今日からは想像も出来ないほど、水に苦労したようです。水場が枯れていて喉の渇きに苦しんだり、飲んだ水に当って下痢を起こして苦しんだり、それは大変だったのです。私も子供の頃、生水は飲むな、知らない土地の水には気をつけろと、よく言われたものでした。
そんな水の苦労を少しでも和らげてくれるのが、楽水大師堂でした。ここには、お大師さんの美味しい水が湧いており、それをたっぷりと飲むことができたのです。それで「楽水」なのでしょう。


大師像の水瓶と沓
道中で見かける大師像の台座に、水瓶と沓(くつ)が彫られていることがあります。沓には、しっかりと最後まで歩き通すことが出来ますように、との願いが込められ、水瓶には、旅人が飲み水に苦労することがないように、との願いが込められているのです。


宿
今夜の宿です。
泊まり客は、大洲で出会った女性遍路二人と私たちの計4人。夕食時には、宿のご主人もまじえて、楽しい時をもつことができました。
とりわけ忘れられないのは、私が「亥の子歌」を採集していると話すと、女性二人とご主人が、ご自分の土地の「お亥子さん」を唄ってくれたことです。


宇和の亥の子歌
この思い出は平成24年(2012)秋の遍路にも繋がっています。
卯之町の宿でのことです。夕食に食堂へ行くと、テーブルに冊子が2冊、置いてありました。宿に入る前に私が訪ねた「宇和民具館」の方が、持ってきてくれたのだそうでした。1冊は「宇和の古城跡」で、もう1冊が「宇和の亥の子歌」でした。地道な調査、採集の結果が集大成されたもので、大変ありがたく、また心温まる出来事として忘れられません。→(H24秋6)


山の上
夕食後、外に出てみました。山の上の方に民家の灯がともっていることに気づき、ご主人に尋ねると、あれが本来の遍路道なんです、といいます。
・・今の人は、あんな高い所で不便だろうと言われますが、あそこが昔の一等地だったんです。陽当たり最高ですよね。川沿いの私の家なんか、日の出は遅いし、日の入りは早いし、おまけに洪水の危険はあるし、昔はこんな所、誰も住まなかったですよ。
写真は、翌朝、話を思い出して撮ったものです。


遍路墓
もう一つ、昨晩宿で聞いた話です。
かつてこの辺では、行き倒れて亡くなった遍路の供養は、その遍路が倒れた土地の所有者に課せられていた、というのです。
・・だから、この辺では皆、早起きじゃったんよ(笑)。朝起きてみて、もし自分の地所に倒れた遍路がいたら、他家の地所に移さにゃいけんですからね。また他所から移されんように、見張っとらないけんですよ。
落語のような話で、多少、脚色されてもいるのでしょうが、善意ばかりの世の中ではありません。案外こんなことも起きていたのかもしれません。


共同作業
田植えを前に、総出で水路を掃除しています。
男性が「あんたら昨日、どこに泊まったん」と尋ねるので、近くの民宿だと答えると、「近々、もう一軒、オープンするけんの」とのことでした。
(前述の)筏の里のことを言っているのだと、すぐわかりました。「昨夜の宿もよかったですよ」と応じると、「そうじゃろうな。けどコンセプトちゅうんかな、それが違うんよ」とのことでした。


標識
この交通標識は突合(つきあわせ)という、面白い名の土地に建っています。ここから道が、二本に分かれます。
右方向の国道380号は、小田川沿いの道です。農祖峠遍路道(のうそのとう遍路道)を行く人は、こちらへ進みます。
(私たちが進む)左方向の国道379号は、田渡川(たど川)沿いの道で、鴇田峠遍路道(ひわた峠遍路道)を行く人が進む道です。田渡川は突合で小田川に合流しています。


田植え
植えたばかりの田に、どこか不都合なところはないか、点検しているようです。


田植え 
八十八回の手間をかけて、ようやく米は実るとか。
日本のお百姓さんは、本当に勤勉です。


新田八幡神社
国道379号から、中田渡集落を抜ける旧道に入ると、新田八幡神社がありました。
新田義貞の三男・新田義宗は、北朝方・足利尊氏らとの戦い(武蔵野合戦)に敗れ、(諸説ありますが)河野氏を頼って宇和島に逃れました。後に宇和島から当地・中田渡邑に移り住み、明徳4年(1393)に没したとされています。
新田八幡神社は、村人たちが義宗を、武の神として祀った神社です。人を神として祀っています。


日本誕生
新田八幡神社には、生殖器信仰が伝わっています。ただ、これが義宗が祀られる以前の、この神社の姿なのか、それとも後から加えられたものか、(残念ながら私には)わかっていません。
生殖器は、自然の生産力や豊饒力を象徴しています。「日本誕生」は、古事記が伝える、伊耶那岐命・伊耶那美命の交合による「国生み」を言うのでしょう。


手水場
陽根の側に手水場がありますが、その手水鉢が、陰根にあたります。そのことを示すように、手水場の梁の上にも、木彫りの陽根が置かれています。
見ていると土地の人がやって来て、ナカナカ、エエモンジャロ、と自慢げでした。


彩雲
境内で靴を脱いで休んでいると、上の国道379号を、同宿だった女性二人が歩いていました。私たちに気づいて、手を振りながら、何か言っていますが、わかりません。どうやら私たちの所へ降りて来ようとしたのだけれど、むずかしく、あきらめたようでした。
もっとも、来たら来たで、ナカナカ、エエモンジャロ と言うわけにもゆかず、少々困った事態になっていたかもしれません。


中田渡大師堂修復なる
神社の裏手で、何人かの人が作業をしていました。聞けば、中田渡大師堂の修復が成ったので、大師に仮住まいからお戻り願っているところだ、とのことでした。


中田渡大師堂
儀式張ったことはせず、土地の人たちだけの作業です。その気楽さに甘えて、しばらく見せてもらうことにしました。


お大師さん
お大師さんは、珍しく、彩色されています。


田植え
中田渡集落を抜けて、国道379号に復帰します。


薬師堂
(中田渡の上流である)上田渡にある薬師堂です。落慶間もないという新しさです。


落合トンネル
落合トンネルは、上田渡にあります。平成12年(2000)開通で、長さは103メートルです。


交通標識
落合トンネルを抜けるとすぐ、道が分岐します。直進が国道379号ですが、遍路道は(379号から別れて)右折し、県道42号に入ります。


亀さんたち
女性二人に追いつきました。追いついたり、追いつかれたりを繰り返しています。
それがウサギとカメのようだということで、帰宅後、「ウサギとカメの記」という、記念CDを作ることになりますが、それはまた後のことです。


若いお坊さん
前を若い僧が歩いていました。小刻みに、しかし早いピッチで歩いています。荷物は、後で聞いた話では、20Kgを越えるとのことでした。
私たちの気配に気づき振り返った彼は、すぐ笠をとり挨拶をしてくれました。見るからに若い、21才のお坊さんの顔が、そこにありました。自分のことを「僕」と呼ぶのも、とても新鮮に感じられました。
互いに荷物を下ろして、立ち話となりました。今日の歩きは30キロだから、ゆっくりできます、とのことでした。いつもは40キロを歩くのだそうですが、そのことを気負った風もなく、淡々と話してくれました。
しばらく話し、私たちが先行しました。



私たちが休んでいると、今度は僧が追いついてきました。私たちの歩きを、速いと感心してくれましたが、それはそうでしょう。私たちの荷物は5Kgほどです。
昨晩食堂でいただいた羊羹をお接待し、またしばらく話しました。高三の時、四万十川を旅し、いつか四国を回ってみようと思っていた話、これまでは高野山で修行していた話など、興味深い話でした。
彼とは、もう会えないかと思っていましたが、次の日、もう一度会うことになります。ただし私たちは岩屋寺に向かっており、彼は岩屋寺から戻っているときでした。約半日分、差がついていたわけです。今度こそ、もう会えないね、と言って別れ、実際、もう会うことはありませんでした。


棚田
しばらく歩くと、亀さん達が休んでいました。いくらも歩いていない私たちですが、お付き合いで、また休憩。
やがて若い僧が来ますよ、好青年ですよ、と伝えると、「私たちもお会いしました。眉目秀麗、凛々しかったわア」とのこと。この人たちも遍路旅を楽しんでいるのです。


厄除大師
この大師堂は、後に(平成22年)、建て替えられたそうです。
写真で比べてみたところでは、屋根が瓦葺に変っていました。建物の衣装などは、同じ模様を引き継いでいます。「延命山厄除大師」の横看板も、以前のものを、そのまま使っているようです。


三島神社
11:30 三嶋神社着。ちょっと早いが昼にしました。宿に(女性たちを見習って)頼んでおいたオニギリは大きく、漬け物や卵が付いています。これに、宇和島で買ったジャコ天を添えると、最高のご馳走でした。


オニギリ
汗で濡れた白衣と靴下を、参道に置いて乾かしました。しかし、ここは標高410㍍です。すぐ寒くなり、ウインドブレーカーをはおることになりました。
ある畑仕事の女性が言っていました。・・この辺は、朝は寒くて、昼は暑い。‘お化粧替え’がたいへんだよ、ハッハッ・・。昼夜の寒暖の差が大きいのでしょう。日向と日陰でも、ずいぶんと違います。
なお三島神社については、→(H28秋 3)に記しましたのでご覧ください。


背負子
道端の小屋に背負子が掛けてありました。その左は、鍬でしょうか。まだ使われているようでした。


登り口
12:40 上畦畦(かみうねうね)の標識があります。下坂場峠登り口に至る畦畦農道の入口です。農道は、車一台ほどの簡易舗装された道です。


標識
12:50「鶸田峠遍路道」という標識に出会いました。これより下坂場峠(H570)への、詰めの急登となります。
なお、ここでいう「鶸田峠遍路道」は、突合から大宝寺までの、(下板場峠や鴇田峠をふくむ)長い遍路道を指しています。だから下坂場峠に登る道も、「鶸田峠遍路道」なのです。


風景
少し登ったところの木陰で休んでいると、一人、お遍路さんがやって来ました。十夜ケ橋で足を痛めていた野宿の人でした。・・あの時にもらった羊羹を、ついさっき登りの元気づけに食べたばかりです、・・とのこと。すっかり元気を回復した様子で、先行して行きました。大洲の食堂でいただいた羊羹(前号)は、本当に役立ってくれています。


久万町
久万町の表示が写っています。そして道は、下り気味です。
ということは、私たちはすでに下坂場峠を越え、久万町に入っているわけです(下坂場峠が内子町と久万町の境です)。しかし、峠の写真がないのは、なぜでしょうか。色々と探してみましたが、見つかりませんでした。
とまれ、これよりは二名川まで下ります。そして、ふたたび鴇田峠に向けて登ります。


へんろ道
遍路道が庭先を通っています。
石標の正面は「智證妙果大師」。左側面には「へんろ道」とあります。


葛城神社
13:35 葛城神社通過。
葛城氏の祖ともされる一言主命が、御祭神です。葛城氏は、5C頃の有力豪族でした。大王家(→天皇家)と両頭政治を敷いていた、との見方もあります。
新しい鳥居が建っていますが、平成13年(2001)の芸予地震で笠の部分が崩落。3年後の平成16年(2004)・・私たちが歩く直前に・・復元が成ったのだそうです。なお、写真に一部写っている注連柱も、その後(平成18年)、自然崩壊。そのため今は、新しくなっているとのことです。


シャクヤク
庭先にシャクヤクを咲かせている農家がありました。花を誉めると、「お褒めにあずかり、恐縮です」とおじいさんが丁寧に応えてくださいました。おばあさんも出てこられ、話に加わりました。
お二人とも丁寧な物言いをされます。ゆっくりと流れる時間を、共に過ごしておられるのでしょう。熱いお茶でも、と勧められ、いただきました。冷たいものばかり飲んでいたので美味しく、何よりのお接待でした。


二名川(にみょう川)
二名川まで降りてきました。



二名川に架かる葛城橋を渡って、今度は反対側の段丘を上り、鴇田峠にとりつくことになります。


納経塔
納経塔が建っていました。坂東・秩父・西国霊場 納経塔とあります。 秩父三十四ヵ所霊場については、秩父1 秩父2 秩父3をご覧ください。



少し変わった雰囲気のエリアに入ってきました。別荘地が売り出されているのです。その売り文句は「四国の軽井沢」。
久万町は、私たちが歩いた3ヶ月後の、平成16年(2004))8月、面河村などと合併して久万高原町となり、町内に石鎚山・面河渓・四国カルストなどを擁する、県内有数の観光スポットとなります。そんなことを睨んでの、別荘地売り出しだったでしょうか。


大師堂
「だんじり岩」の側にある大師堂です。
「だんじり」とは「じだんだ」の転訛だそうで、自分の修行の足りなさに腹を立てた大師が、地団駄を踏んだ岩なのだそうです。岩には大師の足跡がついていると言います。
ただ、この頃、岩は草に埋もれており、写真には撮れませんでした。


鴇田峠の看板
なぜでしょうか。下板場峠につづいて、ここでもまた峠の写真がありません。かろうじて看板の写真があるのみです。峠と認識できず通過してしまった?そんなはずはありません。
とまれ、看板の説明文は、次の通りです。
・・この峠は標高800Mに位置し(久万町役場は厄00M)古くは二名地区と久万地区を結ぶ主街道として賑わった所で、昭和30年頃まではこの場所に茶屋があり、行き交う人々が一休みしたそうです。「鴇田峠」の名称は、一説には、「日和だ」の転訛だと伝わります。弘法大師が八十八ヵ所開基の折、大洲からずっと雨続きだったのが、この峠に来てやっと晴れ、思わず「日和だ」と叫ばれたのだそうです。それが訛って「ひわだ」となった、というのです。
 

鈴の音
やむを得ず、手ぶれの写真をつかわせてもらいます。
折り返しの道が、すでに下りになっています。つまり、この写真は、峠越えした後の写真です。左端に見える白衣の人物は、結願を前にして歩く亀さんたち、お二人です。
よく通る鈴の音が聞こえてきます。街部を歩いているときは、耳障りになる人もいるとかで、鳴らないようにしてありますが、ここでは人に迷惑をかけることはありません。チリーン チリーン 澄んだ鈴の音の中、結願への一歩一歩をきざんでおられる二人です。


久万町
15:50 前が開けて、久万町が見えてきました。
私たちは、今日はここで泊まります。お二人はバスで帰宅します。


通り
松山へのバス停まで一緒に歩き、再会を約して別れました。私たちの次の区切り歩きは松山を通過するので、その時、会おうというのです。
宿に荷物を置いて、お久万大師に参拝。喫茶店のテラス席でコーヒーを飲んでいると、二人を乗せたバスが通過して行きました。


ツバメの巣
  ♫ 柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日・・
ツバメが通りを飛び抜ける景色は、かつては日本のどこにでも見られた景色でした。しかしそれも、今や懐かしい景色となっています。
久万で私たちは久しぶりに、子育て中のツバメを見ることが出来ました。食欲旺盛な子たちに応えんと、親ツバメたちは街中で、アクロバティックな飛行を見せていました。


久万大師
久万大師には、久万の地名由来譚が伝わっています。弘法大師と、大師ををお接待した、クマという名の娘(老女ともいう)の譚です。「えひめの記憶」を参考に記してみますので、ごらんください。
・・ある日、クマが機を織っていると、チリーン チリーン お遍路さんがやってきました。経を唱えて物を乞うので、クマは機織りの手を休め、台所から麦をお皿にすくって、お遍路さんに与えました。
・・クマは機織りを再開しましたが、チリーン チリーン 前に来たお遍路さんが、またやって来ました。お遍路さんは今度は、娘が織っている布が一尺五寸ほどほしい、と言います。クマは、いやな顔もせず、布をハサミで切って与えたといいます。


発祥の遺跡
・・するとお遍路さんが、(実はお大師さんの仮の姿なのですが)、言いました。「お前さんは、ほんとうに気立てのよい子じゃ、何か望みがあったらなんでも一つだけかなえてあげよう」と。
・・クマが「このさびしい村を、もっと明るい町にしてほしい」と答えると、なんと、その2-3年後のことです。願いは叶えられ、ここには立派な町が出現していたといいます。「久万」という地名は、お大師さんが娘の名をとって、その町につけた名前なのです。
なお、「久万」は「熊野」のクマにも通じ、それは「異界・他界」を意味しているとも言われますが、これについては、また機会を改めて記すこととします。

さて、20年近くも前の古い記事にもかかわらず、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次回更新は、12月29日を予定しています。久万の宿を発ち、大宝寺→岩屋寺→三坂峠と歩いて、石手寺まで行く予定です。これを以て平成16年春のシリーズは終わり、次は、平成17年春のシリーズ、石手寺→三角寺となります。
新型コロナ。また新手が出てきたようです。年末を迎えています。昨年末の轍は、なんとしても踏みたくはありません。

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宇和島 龍光寺 仏木寺 歯長峠 明石寺 卯之町 鳥坂峠 大洲

2021-11-03 | 四国遍路

 
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宇和島駅
平成16年(2004)5月、2ヶ月半ぶりに宇和島にやって来ました。6日の予定で松山まで歩きます。
できれば期間をもっと長くとって、四国通いの回数を減らしたいのですが、体力が持ちそうもなかったり、この頃はまだ、けっこう「野暮用」もあったりして、どうしても細切れになってしまうのでした。


じゃこ天
とはいえ細切れも、悪いことばかりではありません。行動食用にじゃこ天を買いに行ったときのことです。
店のご夫婦が私のことを覚えていてくれて、「たしか前にも・・。でも、あの時はお二人だったような・・」などと話しかけてくれました。もう一人はオニギリを買いに行ったので、じゃこ天は私一人で買いにきた、と訳を話すと、「ああ、そうですか。今回はどこまで歩かれますか」など会話が進み、別れ際には「ではご無事を祈って・・」と、少しオマケしてくれたのでした。
・・と、まあ、こんな風に、たまにはいいこともあるのです。


三間へ
県道57号(広見-三間-宇和島線)の長い坂を歩いて、三間町務田(むでん)に向かいます。今回最初の札所・41番龍光寺は、務田から少し入ったところにあります。
前を歩く方は何か故障が生じているようで、私たちでさえ、すぐ追いつきました。追いつくと、彼は立ち止まり、足を痛めているのだと話してくれました。片方が痛み出し、今は両足が痛むのだとか。一番近い三間に宿をとって足を休めます、とのことでした。・・この方とは後日、再開した記憶があるのですが、日記には記載がなく、わからなくなっています。記憶では、足は回復し、私たちに追いつき追い越してゆきました。


光満川
光満(みつま)川です。
当時の日記に、・・川が左側を流れるようになると、間もなく三間町だった、・・と記しています。始めは、進行方向に向かって右側を流れていた光満川が、左側を流れるようになった、するとやがて三間町との境界に達した、というわけです。
帰宅後、地図で距離を測ってみると、町境は、およそ700㍍先でした。


ようこそ三間へ
ここから三間町です。
三間町は、この頃はまだ北宇和郡三間町でしたが、私たちが歩いた翌年の平成17年(2005)、いわゆる平成の大合併で、宇和島市三間町となっています。
江戸時代は、伊予吉田藩に属していました。吉田藩三万石を支える穀倉地帯で、その産する三間米の名は、上質米として、その頃すでに知れ渡っていたとのことです。三間盆地の二つの札所・龍光寺と仏木寺のいずれもが農耕にかかわりを持っているのは、そんな土地柄のせいであるでしょう。


三間の稲荷寺・龍光寺
龍光寺は「三間のお稲荷さん」の愛称を持つ寺で、穀霊神・農耕神を祀っています(後述)。寺名に取り込まれた「龍」は、稲妻を光らせ、雨を降らせる神様です。稲妻は稲を実らせ、雨は稲を育てます。
また仏木寺は、家畜を守護してくださる寺、として知られています。家畜、とりわけ牛馬は、農耕には欠かせない働き手です。かつては、牛や馬を引き連れてお参りする、農民の姿が見られたと言います。



この峠を越えると、すぐ三間町務田(むでん)です。
交通標識は、・・仏木寺 龍光寺 県道31号へ左折・・と案内していますが、これは車用の案内です。私たちは徳島で、車用の標識に従がってしまい、えらく遠回りしたことがありました。


予土線務田駅
歩き遍路の私たちは、遍路札に従って、跨線橋を渡ります。
下に見えるのは、予土線です。駅は務田駅。私たちが登ってきた峠を、予土線は、トンネルで抜けてきたわけです。だから下に見えます。


三間川
遍路道は、三間川まで降りてきました。三間川は、三間町をほぼ東西に貫流する川で、三間盆地を形成した川です。四万十川水系の川で、この先、鬼北町の出目(いずめ)で広見川に合流。広見川は高知県の江川崎で、四万十川に合流します。
台風2号の接近で、四国はここ数日雨でした。そのため増水しています。草木は洗われて、その緑がきれいなのはうれしいのですが・・。
なお台風は、この後、スピードを早めて高知沖を北東に進み、翌朝には伊豆諸島にまで達します。翌日、関東は雨でしたが、四国地方は、台風一過の晴天に恵まれたのでした。


龍光寺
41番札所・龍光寺は、前述のように、稲荷信仰の寺です。お稲荷さんの赤い鳥居が、石段を上がった真っ正面に建ち、その先の、境内で一番高いところに、稲荷神社が祀られています。寺の本堂と大師堂は、稲荷神社の下、左右に配されています。神様も仏様もいらっしゃる、いわゆる「神仏混淆」色を残す、興味深いお寺です。
御本尊は、稲荷明神の本地仏とされる、十一面観音菩薩を祀っています。弘法大師が、この地で五穀明神を感得。十一面観音菩薩像を削り出され、安置されたことに創まるとのことです。


県道31号
県道31号(宇和-三間線)を仏木寺に向かいます。
龍光寺から31号までは、後に(平成28年に)国指定の史跡となる「仏木寺道」が通っていますが、私たちはこれを通りませんでした。というのも歩き遍路の間に、「前方に道の崩落箇所があり、通行不能になっている」との情報が、流れていたからです。私たちは念のため、この道を避けたのでした。


仏木寺へ
霧雲(層雲)が垂れ込めています。
この中に入って行くのは、正直、不安です。まして「道が崩落」などと聞かされていては、なおさらです。しかし今は、前に進みます。正確な情報が得られそうな所へ、行くほかはありません。
私たちは、仏木寺へ急ぎました。


仏木寺
お参りもそこそこに、納経所の僧に道路事情を尋ねてみましたが、応えは、「わからない」とのことでした。
自分でなんとかするほかはない、と思いました。( 因みに「自己責任」が盛んに使われ出したのは、この年でした )。やむなく山門をでると、脇の東屋に4人の若い遍路が集まっていました。聞けば、皆さん単独行の歩き遍路で、中には野宿の人もいました。この先、情報を得られそうな所はないので、仕方なく留まっていたのでした。


本堂・大師堂
そこへ、この先にある遍路宿のご主人がやってきました。自分の宿の宿泊客を捜してやってきたのでしたが、(自分の客だけでなく)そこにいた6人全員を対象に、彼が知る情報を、丁寧に伝えてくれました。
・・今、修復工事から帰ってきたところです。車はまだ通れませんが、大丈夫、人は通れます。「通行止め」の表示があっても、人は通れるので進んでください。崩落箇所は、○○です。(聞いたけどわかりませんでした)。
・・この雨と霧です。歯長峠は断念して、歯長隧道を抜けることをお勧めします。
ご主人は、要旨このようなことを、聞いているものを安心させる話しぶりで、話してくださいました。


道標
さて、たしかな情報を得て仏木寺を出発。歯長峠へと向かいます。
田植えが終わったばかりの景色に癒やされました。雨のなかの田圃には、風情を感じます。写真奧は、溜め池の堤防です。きれいに管理されています。


溜め池
しかし残念ながら、ふと気づいてしまいました。
雨大好きの、蛙たちの泣き声がないのです。これは、やはりさみしい。この時季の雨の日なら、大合唱が聞こえていても、おかしくはなかったのですが・・。田圃から蛙たち、虫たちが姿を消してしまいました。


登り口
県道31号に上がる山道です。
日記には、次の様に記しています。・・短い距離の登り。傾斜は急だ。しかし、あっけない感じで登りは終わった。まだ疲れていない。すこし下ると、県道31号だった。


霧中の遍路
県道31号に降りてきました。予想通り、ガスっています。
31号を進むと、ブルドーザーの音が聞こえてきました。
歯長隧道へ向かいます。途中にあったはずの、歯長峠への登り口は、ブルの音に気をとられていたからでしょうか、ガスのせいでしょうか、見落としてしまいました。


通行止め
通行止めの看板を過ぎると、その先でブルが働いていました。さほど大きな崩落とは見えませんでしたが、車が埋まりかけたなどの話も聞こえていました。一歩間違えば大事故に繋がっていたことでしょう。
脇に避けながら、慎重に通りぬけました。


歯長隧道入口
やがて歯長隧道が見えてきました。入り口は北宇和郡三間町で、中は吉田町、出口は東宇和郡の宇和町という、込みいった位置にあるトンネルです。(ただしこの後、三間町と吉田町は、平成17年(2005)の合併で宇和島市に、宇和町は、平成16年(2004)の合併で西予市になります)。
左に上がる道を道標が示していますが、これは、高森山→法華津峠への道です。私は平成24年(2012)、歯長峠から高森山→法華津峠と歩いています。とても感動的な道なので、ぜひ歩いてみてはいかがでしょう。→H24 秋遍路 ⑥をご覧ください。


歯長隧道
車が通りませんから、トンネル恐怖症の私でも、これなら大丈夫です。
仏木寺で会った野宿遍路が追いついてきて、お二人一緒の所を撮りましょうか、と言ってくれました。めったにないことなので、お願いしました。トンネルの道の真ん中に並んで座り込んだ写真は、いい記念になっています。


水量
峠を下りにかかりました。小さな沢を、水が噴き出すようにして流れています。この水は肱川に注ぐようです。


下宇和中学跡
下宇和中学校については、→(H28春 4)をご覧ください。


歯長大橋
流れる川は肱川。架かる大橋は歯長大橋です。
歩き遍路道は、歯長大橋を渡って歯長峰口を左折。肱川源流域である鳥越峠に向けて進みます。途中、43番明石寺にお参りしますが、鳥越峠までは、およそ18キロです。


四阿
歯長大橋の手前の東屋に、隧道でお世話になった野宿遍路が居ました。今日はここで寝るのだそうです。
退職金は全部、女房に取られて、私は野宿ですよ、・・などと話しながら、でも、(この歳で野宿できることが嬉しいのでしょう)やや誇らしげに、野宿の苦労話をしてくれました。
写真は、野宿遍路必携の「野宿が可能な場所の手引き」です。誰がまとめたものでしょうか。精密でした。宇和島で買ったジャコ天と、龍光寺でお接待でいただいた饅頭を又お接待し、私たちは歩きはじめました。


民宿へ
肱川右岸の道を歩いています。普通は、左岸の県道29号を行きますが、車を避けて、歩いてみました。小さな冒険です。


県道29号
歩いている道から見た、県道29号です。民宿まで、まだ3Kほどあります。到着が遅くなる旨、先ほどの東屋で連絡はしてありますが、やむを得ない事情があったとはいえ、申し訳ないことでした。


道引大師
道引大師にお参りするため、橋を渡り、肱川左岸にでてきました。
道引とは「導き」に通じ、「遍路道はこっちだよ」と、大師が導いて下さっているのだと言います。というのも大師ご自身が、歯長峰口で反対方向へ右折。肱川下流方向に進んでしまい、大変なご苦労をされたからです。
誤った方向に進んだ大師は野宿を強いられ、野バラのトゲの上で一夜を過ごされたといいます。そこは今、トゲなしのバラで知られる「ばら大師堂」になっており、その辺一帯は、一夜が十夜にも感じられたことから、十夜野(とおやの)という地名で呼ばれています。バラ大師については、→(H28春 4)をご覧ください。 


道沿いの景色
ご覧のように、日が暮れてしまいました。
しかし宿のご主人からは、(かつてなかったことですが)褒めてもらえました。・・昼に宇和島を出て、この雨のなか、崩落事故もありながら、よくここまで来ましたよ。なかなか健脚ですよ!
年がいもなく、ちょっと嬉しかったりして。


民宿
民宿着。車庫のような広いスペースに洗濯機、乾燥機があり、雨具なども干せるようになっています。
まず新聞紙をもらい、靴に詰めました。新聞紙はこの後、計2回、取り替えました。
入浴後、洗濯機を回して食事。眠気が忍び寄ってきますが、寝るのは、衣類を干してからです。乾燥機は、今夜は使いません。一晩干した後、明朝、乾燥機にぶち込み、一機に乾かしてしまうつもりです。


翌朝
翌朝、民宿から見た肱川です。雲は落ちていますが、次の写真でもおわかりのように、今日は台風一過の晴天です。雨に洗われて、緑がきれいです。
ただし歩くには、少々暑いかも知れません。雨には濡れることはありませんが、汗に濡れるのではないでしょうか。(この予想は的中しました)。なお予報によれば関東は今も、強い雨が降っているそうです。


台風一過
靴は、ほぼOKの状態でした。新聞紙を2回取り替えたことが、よかったようです。
洗濯物は、乾燥機で乾かしてしまいました。(このやり方は、乾燥機が混んでいるときにも有効で、この後もチョクチョク使っています)。
今日は、肱川と、肱川の支流・宇和川を遡り、鳥越峠を越え、大洲に降りる予定です。大洲に泊まります。


風景
手前を流れるのは、岩瀬川。肱川の支流です。右奥に宇和高校が見えます。
見えにくいですが、犬を散歩させている人が写っています。ワンチャンも久しぶりの外出で、うれしいのでしょう。元気です。飼い主の前に出て、歩いています。


風景  
長閑な景色の中に、ある意味では無粋な、松山自動車道が走っています。今は全線開通している自動車道ですが、この頃は、つい1ヶ月前の平成16年(2004)4月に西宇和IC-大洲北IC間が開通したばかりで、西宇和IC-宇和島北IC間は、まだ開通していませんでした。
西宇和-宇和島北間が開通したのは、これより8年も遅れた平成24年(2012)のことでした。おそらく新歯長トンネルの掘削に時間がかかったのだと思います。私たちが通った歯長隧道の下を貫く、長さ2053㍍に達するトンネルです。なお歯長隧道の開通は昭和45年(1970)で、長さは422.6㍍とのことです。この間の技術の進歩には、驚かされます。


明石寺奥の院・白王権現
43番明石寺・奧の院・白王権現です。遍路道沿いに、ひっそりとありました。
  御詠歌  聞くならく千手の誓いふしぎには 大盤石もかろくあげ石
明石寺の御詠歌に詠われる「大盤石」が、小祠の後ろに見えています。白王権現のご神体とされる岩です。その大部分は、地中に埋もれているのでしょう。
「かろくあげ石」は、白王権現の化身とみられる乙女が大盤石を軽々と担ぎ上げ、ここまで運んできたという譚を伝えています。人々は、その大盤石を祀って寺を建て、その寺を「あげ石寺」と呼んだというのです。「あげ石寺」、すなわち、後の明石寺です。今は、「めいせき寺」と読んでいます。


明石寺
明石寺本寺では、「乙女」は千手観音菩薩の化身とされ、御本尊として千手観音菩薩をお祀りしています。


奉納大草鞋 
茶店の横に、昨日、歯長峠下で別れた野宿の方がいました。荷物をいっぱい広げています。
  おはようございます。早いですね。
  ええ、野宿遍路は、日の出前から準備を始め、日の出と共に歩き始めます。
  暑い日には、日の出前に、星を見ながら歩きますよ。
  朝早く東屋を出、陽が昇ってきたので、ここで「店開き」させてもらいました。ハッハッハッ。・・とのことでした。
久しぶりの天気なので、濡れたものを乾かしているのだそうです。テントも乾かすために、張っていました。


鐘撞き堂 
鐘撞き堂の近くで、バイク遍路と会いました。赤いヨットパーカーの上に革ジャン。その上に白衣を着て、下はGパン。丸坊主。21才だそうでした。
北さんと一緒の写真を撮らせてもらうと、あとで送ってくれないか、とのこと。ならば、もっと撮ろうと駐車場に移動し、バイクの前で直立した姿、バイクに跨がってVサインをした姿なども撮りました。
納め札を交換して別れ際、(今日は岩屋寺まで行くとのことだったので)あまり進まないんだね、と言うと、えゝ、遊びながら行きますから、とのこと。こんな風にかい?と言うと、そうですねハッハッ、との応えでした。


ででむし
私たちの歩みにも似て。



当面の目的地は、卯之町の街部です。
卯之町を私は、二宮啓作で知っていました。二宮はシーボルトを師とし、蘭学、医学を学んだ人ですが、文政11年(1828)、「シーボルト事件」で国外追放されたシーボルトが、娘・楠本イネの養育を託した人物としても知られています。
二宮は、自らも江戸、長崎からの所払いを受ける身となり、やむなく故郷・宇和郡磯崎浦に戻りましたが、やがて卯之町で医業を開業。イネを呼び寄せ、養育しました。イネは長じて、日本初の女医(産科)となります。
二宮もイネも、決して世に受け入れられていたとは言いがたい人物でした。しかし卯之町は彼らを、受け入れていました。「蛮社の獄」(嘉永2年・1849)で逃亡中の高野長英は、二度にわたり卯之町を訪ね、二宮を頼っています。


宇和高校農場
宇和高校のHPに、次の様な一文がありました。
・・「大地と共に心を耕せ」という教訓は札幌農学校の教育理念とされ、農蚕学校を前身にもつ本校の「農場訓」として引き継がれています。
・・豊かな心を持ち、たくましく今世紀を生き抜く生徒を育成する本校にとって、この「大地と共に心を耕せ」は、普通科・農業科から成る総合制高校の教育理念として最もふさわしく、誇らしい言葉です。
農学科は生物工学科と名を変え、宇和高校に今も設置されています。


卯之町
卯之町には、古い街並みが残っています。ただし、多くの観光地がそうであるように、観光客目当ての「美観地区」として、残っているのではありません。古い街並みは今も、暮らしの場として現役です。


ヤマミ醤油
この醤油屋さんも、現役です。観光客向けの「展示」ではありません。
試しに「ヤマミ醤油」で検索してみて下さい。・・伝統の製法で手作りに徹した製品・・などの文言が出てきます。醤油造りに精を出しているのです。


ギャラリー喫茶店
造り酒屋さんをギャラリー、喫茶店に改装して、営業しています。
コーヒーをいただいていると、おばあさんが話しかけてきました。


卯之町
おばあさんの話です。
・・内子の街を今のようにするまで、何年もかかりました。それは大変な努力でした。けれど内子の現状は、その中心になった人たちの思いとは別の方向に進んでいるのです。観光地にしようとは思っていなかったのですよ。卯之町はだから・・卯之町を観光に売り渡したくないんです。
もし宣伝すれば卯之町は、大洲、内子のようにもなれるだろうが、生活の場所を観光に売り渡し、生活の場を失いたくない、というのです。
卯之町は、こんなおばあさんが住んでいる街でした、


マンホール
マンホールの蓋に、洋風の建物が描かれています。
開明学校です。日本で最も古い学校の一つだと言われています。開明学校の前身である、申義堂が開校されたのは、明治5年(1872)です。
また洋風建築物としては、西日本最古のもの、とのことです。現存の校舎が竣工したのは、明治15年(1882)でした。


開明学校へ
開明学校へ向かいます。


開明学校
入ってみると、修身=道徳教育の展示がされていました。
展示の中に、松屋旅館の先代が使ったという教科書や、彼が書いた習字などがありました。幼い文字が、学年を経る毎、少しずつしっかりしてくる様子は、微笑ましくも逞しく感じられました。
松屋旅館は卯之町で知られた老舗旅館で、数多の有名人が泊まったことでも知られています。もちろん現役の旅館で、お遍路さん歓迎だそうです。宿泊料金も、お遍路さん価格があるとのこと。*ただしコロナ禍中の休業には注意。


開明学校
展示された「おんがく1」の教科書に、こんな歌が載っていました。昭和22年(1947)の歌です。
  お花をかざる みんないい子
  きれいなことば みんないい子
  なかよしこよし みんないい子 
この歌は、私も習いました。今でも歌えます。松屋の先代は、たぶん私とほぼ同年なのでしょう。


麦の秋
卯之町から国道56に戻りました。所々で、残った旧国道を歩きます。
予想通り暑くなりました。麦秋が、ムッとする暑さをため込んでいます。


境界石
 是従南 宇和嶋領
初めは東多田に在った口留番所に建っていたものが、岩崎八幡神社(写真)の境内に移され、さらに道沿いの現在地に移されたのだそうです。
口留番所は境目番所ともいい、この先の鳥坂峠(とさか峠)に大洲藩領との境界があることから、設置されていました。境界を越えて通行する人や荷物の管理が、その役割です。もちろん大洲藩側にも口留番所はあります。(後述)


道標
  左 鳥坂峠へんろ道 札掛庵へ5.5K
  右 国道通行 番外霊場札掛庵 44番へ60K
私たちは「国道通行」を避けて、左、鳥坂峠越えの道を行きます。



前方に立ちふさがる山に向けて、道が延びています。道の先が鳥坂峠です。標高差200Mほど。


道標
  明石寺 11.2K
  鳥坂峠 1.5K 


大洲藩口留番所
鳥坂峠 1.5K の道標のすぐ先に、大洲藩の口留番所跡がありました。
ちょっと驚きました。というのも私たちは、鳥坂峠が大洲-宇和嶋の藩境だと考えていたからです。だから、大洲藩の番所は峠の向こう側にある、と思っていたのです。土佐藩と宇和島藩の番所が、松尾峠を挟んだ両側にあったように。
ところが、違っていました。藩境は、鳥坂峠の手前にあったようです。この辺では境界争いが激しかったそうですから、そんなことも起きていたのかもしれません。国境争いについては、H24 秋遍路 ⑦をご覧ください。


峠へ
山道になりました。


卯之町方向
だいぶ登ってきました。写真奧が卯之町でしょうか。
ふと海援隊の歌の一節が、思い浮かびました。♫はるばる遠くへ来たもんだ・・


山林
杉の木が、モヤシのように立っていました。間伐されていないからでしょう。
四国を歩いていて、手が入っていない山が、本当に多いことを実感しました。


日天月天さま
・・昔々、世の中で一番尊いものは昼はさんさんと光を注いでくれる「お日様」、夜はほのかな灯りを与えてくれる「お月様」、この二つだと考えられてきました。この社は、この尊いものを神様として祭っているといわれ、「日天様 月天(がってん)様」と呼ばれています。ご神体は、この山から切り出されたと思われる、半円形をした石で、梵字(古代インド文字)が刻まれています。→H24 秋遍路 ⑦


大洲方向
峠を越えると新たな景色が開けました。松山自動車道が見えています。
大洲の街部は、写真奧です。


旧道
山道から56号の旧道に入ってきました。現在の56号は、旧道にほぼ並行して、旧道の左下を走っています。車の走行音も聞こえてきます。
左右に整然と積まれているのは、この時はキノコ栽培用のホダ木だと思っていたのですが、改めて見ると、それにしては少し細いようです。


札掛大師堂
国道56号に旧56号が合流する手前に、札掛大師堂があります。山門の寺院表札には「札掛山仏陀懸寺(ふだかけさん・ふだかけじ)」とありますが、「協力会地図」には、佛陀懸山札掛大師堂(松下庵)とあります。
いずれにせよ「ふだかけ」は、弘法大師が当地にて休憩された際、釈尊のお札を松の枝に掛けられたという故事に、由来すると思われます。「松下庵」は、札を掛けた「松」に因む呼び名でしょうか。
なお、この写真には釣り鐘が写っていますが、平成24年(2012)に訪れたときは、なくなっていました。なぜかはわかりません。→H24 秋遍路 ⑦


国道56号
56号に降りてきました。奧に、松山自動車道が走っています。


冨士山
ゴルフ場を抜け、北只で、肱川の支流・嵩富川(かさとみ川)に架かる金山橋を渡ります。
つまり嵩富川の右岸に出て、県道441号を進むわけです。前方に、大洲を象徴する、冨士山(とみす山)が見えてきました。この山裾を、肱川が流れています。


肱川
ふたたび肱川に出会いました。肱川源流部に向かって遡っていたはずなのに、峠を降りてきたら、また肱川です。
肱川の流路が、「の」の字を左右反転したように流れていることから、こういうことが生じています。 


嵩冨橋
嵩冨川が肱川に合流する手前に、嵩冨橋が架かっています。
県道441号は、左にほぼ90°曲がって嵩冨橋を渡り、大洲市の街部に向かいます。


肱川と冨主山
嵩冨橋から見た景色です。
山は冨主山、大きな橋は、新冨主橋です。


昭和燈
大洲の街部に入ってゆきます。
石段は、大洲神社の石段です。大洲神社があるお山は、神楽山といいます。神楽山は、臥龍山荘があることでも知られています。
常夜灯は「昭和燈」と呼ばれ、昭和天皇の即位を記念して、昭和3(1928)、建てられたそうです。高さ12メートル。昭和燈の近辺は、「東京ラブストーリー」のロケ地だったとか。平成3年(1991)、マンガがテレビ化され、高い視聴率を得た番組です。


町屋造りの商家
このお宅は、かつては何かを商う商店だったのでしょう。
折りたたみの縁台のようなものが見えますが、「ばったり床几」などと呼ばれている台です。これを降ろして、その上に商品を並べたりしました。また、そのことを考慮に入れているからでしょう、軒が、普通より長く張り出しています。


通り
大洲の街部は、昭和41年(1966)に放送された、朝ドラ「おはなはん」のロケ地で、「おはなはん通り」があったりします。
また昭和52年(1977)に上映された、「男はつらいよ・寅次郎と殿様」の舞台にもなっています。マドンナ役は真野響子さん、殿様役は、アラカンこと嵐寛寿郎さんでした。
なお写真の通りには、建物の表口がありません。表口は、この通りに交差する、別の通りにあります。


赤レンガ館
写真の建物は、明治34年(1901)に大洲商業銀行の本店として建築されもので、壁面はレンガ、屋根は瓦葺の和洋折衷になっています。


 
古い雰囲気を残す街並みに、今風のアクセントをつけています。


大洲城
肱川と大洲城です。
聞けば、大洲城天守の復元工事は大詰めにかかっており、数日後には、天守を覆うシートが取り外されるとのことでした。
残念!見たかったのに。北さんと私は大洲城天守に、あるの感慨を持っており、数日差で見られないことを、とても残念に思ったのでした。


建築中の大洲城天守
というのは、この2年前のことです。私たちは他の友人たちと共に、松山から八幡浜にかけて旅行しており、その時、私たちは伝手を頼って、復元中の天守に入れてもらったことがあったのです。工事は、まだ躯体構造が露出している段階にあり、私たちは、初めて見る本格的和式建築の木組みに、おおいに圧倒されたのでした。


心柱
その時の、私と北さんの会話が、日記に残っています。
・・自分たちは遍路で、いつ大洲に来るのだろうか。
・・はたして来られるかが問題だが・・。
 (その頃は、ようやく清滝寺まで着いていましたが、2年余もかけてたどり着いたのでした)。
・・もし天守が完成していたら、乾杯だな。
なお心柱のサイズは、33㎝*33㌢です。材木を拠出した如法寺は、大洲藩主の菩提寺で、寛文9年(1669)、大洲藩主加藤泰興の開基。私は平成24年(2012)、如法寺を訪ねていますが、残念ながら工事中でした。(H24秋7)


建築中の大洲城天守
幸いにも3日後、私たちは松山の宿のテレビで、天守お披露目の場面を見ることが出来ました。
シートが一枚一枚落とされ、少しずつ天守が姿を見せてゆきます。その度に起こる市民の歓声に、思わず私たちも和していました。天守の美しさを称えながら、また同時に、ここまでたどり着いていることの喜びを、かみしめてもいたのでした。
夕食時だったので、もちろん乾杯しました。


天守からの景色
天守から見た、冨主山、肱川です。肱川に架かる橋は、新冨主橋。


外食
宿はビジネスにして、夕食は、外に食べに出ました。2年前に昼食をとった店へ、行ってみたかったからです。


外食
幸い、女将さんは私たちを覚えていてくれて、話がはずみました。観光客として来た私たちが、今度は遍路としてきたことを、とても喜んでくれたのです。
女将さんは、子供の頃に見た「ヘンド」の話や、平成大合併の裏話、合併への評価、松山自動車道開通への地元の評価などなどを話してくれました。
お別れには、合掌して「いってらっしゃいませ」と言って、送り出してくれました。この時いただいた羊羹は、小分けされており、とても重宝しました。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号は、大洲から三坂峠くらいになるでしょうか。更新予定は、12月1日です。

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コメント (2)
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