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このアルバムは、平成22年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
その点、ご注意ください。
平成22年(2010)7月16日 第六日目のつづき
浄瑠璃寺の蓮池
時刻は11:00過ぎ、46番浄瑠璃寺から、47番八坂寺へ向かいます。
八坂寺へ
八坂寺までの道は、嬉しくなるような、いい道でした。
こんないい道を、前回(平成16年/2004)、私(と北さん)は、歩きはぐっているのです。うかつにも宿に昼の弁当を頼み忘れたからです。食べるものがなく、空腹をかかえて、食堂や店を探しまわっていたのです。もったいないことをしました。
生目(いきめ)神社
久谷地区町づくり協議会の久谷マップに、生目神社の興りについて、次の様な記載があります。・・平景清が源氏との屋島の合戦に敗れ、自らの目を岩に打ち付けたが、目を患っている人の病が、それを拝むことによって治ったことから、生目神社として祀ったことがはじまりと言われている。
負けず嫌いの景清は、敗残の姿など見たくもないと、目をくりぬいて岩に打ち付けたのでしょう。「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名をもつ、景清らしい振る舞いです。(この場合の「悪」は、猛々しく強いことを意味します)。
47番八坂寺
「八坂寺」の「八坂」(やさか)は、「弥栄(いやさか)に通じるといいます。いよいよ栄える、めでたい寺名です。
また「八坂」は、伊予の国司・越智玉興が創建時に切り開いた、「八つの坂」に由来するともいいます。
山号の熊野山は、・・紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野八坂寺」とも呼ばれるようになった(霊場会HP)・・ことに由来するとのことです。
本堂
八坂寺は真言宗のお寺。本尊は、阿弥陀如来です。
本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊像が祀られており、その数は8000体に上るとのことです。
天井絵
本堂に向かう「極楽門」の天井には、阿弥陀如来来迎図が描かれています。
えばら池
八坂寺を出ると、溜め池がありました。えばら池といいます。
古くは「土用部池」(どようぶ池)と呼んだようですが、今は地域の地名「惠原」を冠して、「えばら池」と通称しているようです。
なお、なぜか国土地理院地図やグーグルマップは、(「池」ではなく)「えばら湖」と記していますが、私は『えひめの記憶』などの記述にも従い、「えばら池」に与します。
諏訪神社の杜
堤防の下の道に出ると、♫村の鎮守の神様の・・と歌いたくなるような、なんとも懐かしい景色が見えてきました。向こうに見えるのは、諏訪神社の杜です。
しかし残念なのは、この景色に見とれてしまい、愛媛県内最古とされる遍路道標・・貞享2年(1685)・・を見落としてしまったことです。この写真を撮っている私のすぐ後に、それは在ったのです。
大失敗でした。もし気づいていたなら、この景色、もっと感慨深く眺めることが出来たはずでした。
諏訪神社
愛媛県神社庁の公式サイトによると、・・元正天皇養老5年(721)8月越智玉純が信州諏訪の鎮守明神を勧請し荏原郷の鎮守と定め国家平安を祈ったという。・・とのことです。
なお引用文中の「荏原」は、今は、「惠原」の字を当てています。越智玉純(たますみ)は、(前述の)玉輿の子で、河野玉純としても知られる伊予の国司です。石手寺の創建にもかかわります。
別格9番文殊院
46番浄瑠璃寺門前の句碑、
永き日や 衛門三郎 浄瑠璃寺 子規
にも見られるように、浄瑠璃寺から51番石手寺にかけての遍路道には、説話上の人物・衛門三郎の世界が、「実在」として展開されています。
写真の文殊院は、衛門三郎の邸宅跡に建っている、とされています。つまり、此所に住む衛門三郎にお大師さんが喜捨を乞い、衛門三郎がお大師さんに無礼を働き、あまつさえ、お大師さんの鉄鉢を割るのです。鉄鉢が八つに砕け三郎の子どもたち八人が次々と死んでゆく、そのはじまりの場が此所なのです。
文殊院・衛門三郎菩提所
文殊院の次に訪ねる札始大師堂は、衛門三郎が初めて札を納めた所とされています。つまり札始大師堂は、四国遍路始まりの場、というわけです。
札始大師堂の先には、(今回の遍路では訪ねませんが)、父の悪行故に亡くなった八人の子どもたちの墓(八ツ塚群集古墳)→(H28秋 6)があり、さらにその先には、再来・衛門三郎が「手」に握っていた「石」を祀るという、石手寺があります。
ゴミ出し場の表示
・・地区外の人は出されません
ゴミ出し場に、伊予弁を使っての注意書きがありました。「出されません」は、(出すことが出来ないではなく)「出してはいけません」という、禁止を意味します。伊予弁では(土佐弁、阿波弁、讃岐弁でもそのようですが)、未然形+れん(られん)で、「禁止」の意味を表すのだそうです。
方言を用いているのは、注意書きが引き起こすかもしれない、気持ちのざらつきに配慮してのことでしょう。
泳いではいけません
ところで、ここで言う「地区外の人」に、もしや遍路が含まれてはいまいかと、心配です。この種のルール破りを農村部の住人がすることは、めったにはないからです。遍路(地区外の人)が持ち歩いてきたゴミをポイと捨ててゆく、それもゴミ出しの日でもないのに、・・どうか、そんなことが起きていませんように。
写真は、前に讃岐路でみた注意書きです。「泳がれん」は、「泳いではいけない」の意です。
道
この石標が初めから此所に在るのだとすれば、右に入る遍路道は、かつては(こんなに細くはなく)もっと大きかったと思われます。でなければ、「左 松山道」と案内する必要が生じないからです。
松山道は、何本もある土佐街道の一本です。土佐街道とは、四国の各地と土佐の高知を結ぶ街道をいいます。今は、その多くが国道などに吸収されていますが、例えば私たちが室戸に向かう途中で歩いた、国道55号の「八坂八浜」は、土佐浜街道(徳島-高知)の名残です。
久谷川(くたに川)
親柱に「久谷川」と記されているこの川は、国土地理院地図では「御坂川」となっています。
前号に、御坂川と久谷川が合流することを記しましたが、その合流した川を、この辺では「久谷川」と呼び、国土地理院は「御坂川」としているわけです。
昔は、川や道には統一した呼び名はなく、その土地その土地で違っていましたから、きっと、その名残なのでしょう。
空模様
久谷川(御坂川)の上流方向(南東方向)を撮った写真です。
本来なら、この時点で空模様の変化に気づいていなければならないのに、私はまったく意に介しておりませんでした。おかげで、えらい目に遭うことになるのですが、それは後の話です。
ジャンボタニシ
ジャンボタニシの卵塊です。
やっぱりいました。大洲や内子では見かけなかったので、喜んでいたのでしたが。
ジャンボタニシは、1980年代、食用目的で輸入されて養殖がはじまり、その後、遺棄されたり養殖場から逃げ出したりして、野生化したといいます。寄生虫に感染していて人に有害であるばかりでなく、水田に移植後の苗を食い荒らし、稲作に大きな被害をもたらしています。ピンク色のものは、水に落とすと孵化しなくなりますが、右下の白っぽい卵塊は、孵化直前のもので、水に落ちても孵化してしまうそうです。強い繁殖力を持っています。
札始大師堂・小村大師堂
前述の札始大師堂です。三坂峠から、ほとんど休むことなく歩いてきたので、ここで大休止しました。
汗をふき、靴を脱ぎ、弁当(パン)を食べ、宿を予約しました。
宿は、区切り歩きの最終夜を海の側で過ごしたくなり、少々奮発。梅津寺の松風亭にお願いしました。伊予鉄「鷹の子」から電車を利用して行きます。明日は、鷹ノ子に戻って石手寺まで歩き、17:00の飛行機で帰宅する予定です。
雲行き
予約を終えて、ベンチで横になり、昼寝しました。
どれくらい寝たでしょうか。目が覚めて、ふと空を見ると、・・大変だ!
ようやく気づきました。♫向こうのお山に黒雲かかれば・・!すぐ地図で確認。1.9キロ先の、48番西林寺に逃げ込むことにしました。
急いでザックからポンチョを取り出し、ビニル袋に入れて手に提げ、歩きはじめました。後方から、ドーンドーンと、雷様の太鼓が聞こえてきました。(岩屋寺で会った)青梅さんはまだ三坂峠を歩いているはずだ、・・チラッと気になりましたが、ここは自分のことで精一杯です。
黒雲
ドーンドーンという雷音が、ドドドドーンといった風に変わってきました。近づいてきているのです。
もう降る!ガソリンスタンドの屋根をお借りして、ポンチョを着けました。
私に出来る最大速度で歩きます。まだ離れている内に、重信川は渡っておかねばなりません。
久谷大橋から南方向
大橋を渡るときは、本途、怖かったです。ドドドド-ンがシャッドンガラガラに変わってきたのです。しかし逃げ場がありません。布団を被る気持ちもわかろうというものです。クワバラクワバアラ。
川風にあおられないよう、ポンチョを身体に巻き付け、歩きました。それでも数枚の写真を撮っているのは、ブログ作成者としての「根性」でしょうか?
西林寺へ
あと300㍍ほどで西林寺です。この左方向に、西林寺の奥の院・杖ヶ淵がありますが、お参りは断念しました。→(H28秋 6)
杖ヶ淵が伝える譚は、衛門三郎譚の対極にある譚です。大師が水を運ぶ老婆に一杯の水を乞うと、老婆は、干魃で水不足にもかかわらず、惜しげもなく大師に差し上げるのです。杖ヶ淵の豊かな水は、大師が老婆の親切に感じて湧かせた、お杖水なのだと伝わります。
47番西林寺仁王門
門に逃げ込む前に、降り始めました。
営業マンらしい人も、避難しています。・・動きがとれないんですよ・・などと、ケータイで連絡を取り合っています。
強い降りなのです。小降りになるまで、ここで待たせていただくことにしました。
本堂
小1時間も雨宿りをさせてもらったでしょうか。小降りになったので歩きはじめたのでしたが、私はここで大失敗をしてしまいます。
写真をご覧ください。奇しくも写り込んでいたのですが、このお杖を、私はここに置き忘れてしまうのです。遍路を始めた頃こそ、こんなこともありましたが、近頃では起きていないことでした。
本堂
言い訳をすれば、・・いつもお杖を握っている右手が傘で塞がっていた、だから気づかなかった、・・ということになります。しかしそれにしても、気づいたのが2.5キロも歩いてからだったとは。これではもう、「失敗」の域を超えていたでしょう。お大師さまには、お詫びの仕様もありません。
激しい雨
ふたたび降りがひどくなったので、高井簡易郵便局の自転車置き場に避難しました。この道はへんろ道からは外れていますが、私は鷹ノ子で伊予鉄に乗るつもりなので、道を間違えているのではありません。
ここでは、10分ほども過ごさせてもらったでしょうか。私は北さんに電話し、雷雨で西林寺に逃げ込んだことや、歩きはじめたらまた降り出したことなどを、詳しく伝えておりました。♫ハハ のんきだね・・。のんきなトーサンです。
日射し
フッと雨が止み、日が射してきました。
ふたたび歩き始めました。右手には、まだ(お杖ではなく)傘が握られています。降ってはいないのですが、差して歩いて乾かそう、というわけです。浅知恵とでも申しますか。
お杖を忘れたことにようやく気づいたのは、鷹ノ子駅に入るため傘を折りたたんだ、その時でした。
一瞬、頭が真っ白になりました。混乱し、どこに忘れたか、それも思い出せぬまま、とっさに引き返しはじめていました。
鷹ノ子駅ホーム
郵便局まで引き返しました。しかし休んでいた所には、ありません。恥を忍んで局員さんに尋ねましたが、そんな届け出は「ない」と言います。お大師さんを置き去りにする遍路がいるなんて、局員さん、きっとあきれたことでしょう。
西林寺へ向かいます。・・だれかが納経寺に届けていたりすると、(取りに行くのが恥ずかしくて)いやだな。・・などと、見当違いの心配をしていました。ということは、この辺ではもう、西林寺に置き忘れたことを思い出していたようです。
西林寺に着くと、あった!(幸い)お杖は山門に、私が置いたままに在りました。私はホッとしていました。
車内
とまれ、山門から本堂に向かって感謝の合掌。鷹ノ子駅へ、私はふたたび歩きはじめました。
往復5キロの、余分の歩きは堪えていました。電車に乗っても、さすがにしばらくは落ちこんでいました。
ようやく気持を取り戻すことが出来たのは、この言葉に思い至ったときでした。
これもまた遍路
私はけっこうご都合主義なのです。
梅津寺駅
鷹ノ子駅から30分ほどの乗車だったでしょうか。梅津寺駅(ばいしんじ駅)に着きました。
今回はただ泊まりに来ただけですが、梅津寺や、梅津寺の一つ手前の三津浜、一つ先の高浜(伊予鉄の終点)などは、いつか訪ねてみたいと思っていた所です。
レトロな三津浜の街を歩き、無賃の渡し船で梅津寺側に渡り、梅津寺を抜けて高浜に進み、高浜から51番太山寺奥の院に登って太山寺本寺に降りる、この念願のコースが実現するのは、これより7年後の平成29年(2017)春のこととなります。→(H29春 1)
海
駅は海の側です。晴れていればきれいな夕焼けが見られたのですが、残念です。
まだ雨は降り続けています。
宿の窓から
着いたら電話するように言われていたので掛けると、駅まで車で迎えに来てくれました。
早速、入浴。一休みして夕食です。
夕食
大きな部屋で、いっぱいの海の幸がならんでいます。左の皿は真鯛のカブト煮。骨だけにしてしまいました。奧には、私の大好物、サザエの壺焼きが見えています。ツノがない、瀬戸内海独特のサザエです。刺身は一見、ありふれてみえますが、下にイイダコが隠れています。これは美味。他に、写っていませんが、鍋もあり、私は3時間ほどをかけて、堪能させてもらいました。あの「大失敗」は、すっかり忘れて。
瀬戸内海のさざえ
瀬戸内海のサザエです。棘がありません。
瀬戸内海という波閑かな環境では、流される心配がないので、不要な棘は出していない、ということのようです。美事、環境に適応して生きている、というわけです。
ところで、何方か教えて欲しいのですが、瀬戸内海のサザエは、環境の変化次第では、棘を出すことができるのでしょうか。そのような遺伝的形質を、いまだ保持しているのでしょうか。それとも、もう喪失してしまっているのでしょうか。
窓外
当地の雨は、20:00頃に止みました。
工場地帯の光でしょうか、きれいに見え始めました。
明日の天気予報
明日の天気予報は、晴と出ました。もしかしたら、梅雨明けかもしれません
被害
今日の雨は、私が想像した以上の、大雨だったようです。
瀬戸内海を挟んだ広島では、河川が氾濫しているようです。より大きな被害とならないことを、祈りました。
平成22年(2010)7月17日 第七日目
海
予報通り、晴れてきました。
三津浜港からフェリーが出てきました。どこへ行くのでしょうか。もしかしたら中務茂兵衛さんの生地であり、また長州大工さんたちの故郷でもある、周防大島だったりするかもしれません。とすると、あの船は1時間10分ほどで、周防大島の伊保田港に着くのでしょう。
アゝ、ここにも行きたい所がありました。(天恢さんはもう2回も訪ねているそうですが)、私はまだ一度もありません。
海
四国ガス松山工場やコスモ松山石油油槽所だと思います。
昨晩に見た光は、ここの光だったのでしょう。
久米駅
梅津寺から伊予鉄で、久米駅へ移動しました。今日の歩き始めは、ここからです。
駅のすぐ側には、かつては久米八幡宮と呼ばれた日尾八幡神社と、同社の別当寺であった、49番浄土寺があります。
日尾八幡神社
日尾八幡神社は、初めは、久米八幡宮とよばれたそうです。かつてこの辺に所在した久米郡や久米村、あるいはそこに盤踞した古代豪族・久米氏に由来し、こう呼ばれたのだと思われます。このことの信憑性は、(後述しますが)当神社中殿に、伊予比売神が祀られている事実により、裏付けられると思います。伊予比売神は、かつて久米氏が祖神として奉齋した神なのです。
社名は、中古に至り、神社が鎮座するお山「日王山」に因んで、「日王(ひおう)八幡宮」と改められましたが、後に「日王」が「日尾(ひお)」と改められ、今は「日尾八幡神社」となっています。
祭神は、八幡三神(応仁天皇とその父母)の他、海の神である宗像三女神(海底の神、海面の神、中程の神)、そして前述の伊予比売神などの諸神です。
日尾八幡縁起
境内の松山市教育委員会の説明板は、次の様な伝承を紹介しています。
・・中殿に奉齋する伊予比売命は、伊予豆比古神社にまつられる伊予比古命とともに、元は夫婦神として久米郡神戸郷古矢野神山にまつられていたが、洪水で流され、今では分かれてまつられていることで有名である。
日尾八幡神社が中殿に奉齋している伊予比売命が、かつては久米氏が久米郡神戸郷古矢野神山に祀っていた神であることが、記されています。その神は夫婦神でしたが、洪水で別れ別れになり、夫神は今は伊予豆比古神社に祀られている、と記されています。
市教委の説明板
ただし、この譚は、(私が調べて範囲では)伊予豆比古神社の由緒には記されていません。というより、伊予豆比古神社は、この譚を認めてはいないらしいのです。
というのも伊予豆比古神社には、伊予豆比古命という男神の他に、伊予豆比売命という女神がちゃんと鎮座されており、どうやらこの神が、伊予豆比古命の妻神とされているのです。
魚躍 鳥舞
江戸末から明治にかけて日尾八幡神社の神主であった三輪田米山は、国学、漢学、和歌に通じ、また書も能くすることで知られていました。写真は、その米山揮毫になる注連石と社名石です。(他にも米山揮毫の神名木額がありますが、残念ながら写真がありません)。
なお日尾八幡神社の縁起に、・・大神朝臣久米麿(三輪田の祖)を斎主とせられた・・なる記述があることから察して、米山の三輪田家は「朝臣久米麿」に連なる家で、代々、当神社斎主(神主)を継いできたと考えられます。
北条の正八幡神社
写真は、後年、平成29年(2017)になって、北条の正八幡神社で撮った、米山揮毫の注連石です。→(H29春2)
テーマは日尾八幡神社と同じで、鳥と魚です。
左 魚游於水 右 鳥遊於雲
魚の「あそぶ」は、三水の「游」になっています。
生目神社
日尾八幡にはたくさんの境内社がありますが、その中に、生目神社もありました。
49番浄土寺
行基菩薩(7-8C)彫造の釈迦如来像を本尊とし、法相宗の寺として開創されたが、後に荒廃。弘法大師(8-9C)が訪ね来て再興し、真言宗に改宗したと言います。
さらに、平安中期の天徳年間(957ー61)、四国巡歴の空也上人が当寺に滞在。口称念仏の布教に勤めたと言います。
なお浄土寺には、空也上人の像・・鹿角の杖を突いて、六体の阿弥陀小化仏を吐いている、誰もが知っている、あの痩身の遊行僧の像・・が安置されているそうです。鎌倉期の作といいます。
50番繁多寺へ
県道40号(松山東部環状線)から、右に入ってゆきます。
梅雨明けを待っていたかのように、クマゼミ・・土地の子たちは「シャオシャオ」と呼んでいる・・の声が凄まじく聞こえます。
この蝉の生息域は、かつては西日本(東海以西)でしたが、現在、北上中のようです。埼玉県でも、まだ多くはありませんが、大合唱が聞こえる場所ができています。温暖化の影響でしょうか?
繁多寺へ
墓地の中を遍路道が通ります。
リライト版ゆえに書けることですが、遍路道が墓地の中を抜けるのは、この先、54番延命寺から55番南光坊へ下るときと、80番国分寺から81番白峯寺に登るとき、そして71番弥谷寺でしょうか。ただし弥谷寺は、墓地の中を通るというより、墓地が寺なのですが。
畑寺
繁多寺の住所は、松山市「畑寺」(はたでら)です。繁多寺の開創当時の寺名「旛多寺」(はた寺)に由来すると思われます。
「旛多寺」は、天平勝宝年間(8C中)、孝謙天皇から数流の旛(はた)を賜ったことに因む寺名だと言います。
50番繁多寺
ちょっと変わった雰囲気の山門です。御所の門になぞらえた山門で、泉湧寺型というそうです。
繁多寺と泉涌寺、さらには天皇家との関わりを、繁多寺HPは、次の様に記しています。・・(繁多寺は)天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺とのゆかりも深く、応永2年(1395)には後小松天皇(在位1382〜1412)の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となっている。こうした縁から寺には16弁のご紋章がついた瓦が残っている。
梵鐘と格天井
寺名が・・用が多くて忙しい・・を意味する「繁多」とは?これ如何に。
その疑問に御詠歌が答えています。
・・よろづこそ繁多なりとも怠らず 諸病なかれと望み祈れよ
むろんご本尊は薬師如来像です。
繁多寺本堂
繁多寺は、僧・一遍が長期滞在し、修行したことでも知られています。
一遍は、鎌倉中期の僧で、捨聖とも呼ばれ、また時宗の祖ともなる人です。(前述の)空也上人を、尊敬して止まなかったといいます。
河野一族の出であることから、衛門三郎説話では、衛門三郎の再来であるともされていますが、生誕地は、石手寺近くの宝厳寺だとのことです。
宝厳寺・平成28年撮影
一遍は、延応元年(1239)、河野通広(みちひろ)の第二子として、宝厳寺→(H28秋 6)で生まれました。
父・通広は、(次の記事に登場する)23代当主・通信(みちのぶ)の子で、24代当主となる通久(みちひさ)の兄に当たる人です。
一遍が生まれた頃、河野氏は没落の極みにありました。承久の乱(大まかには公家と武家の戦い)で、当主・通信をはじめとして、河野氏のほとんどが後鳥羽上皇側について戦い、敗れていたからです。ために一族の主なものは、断罪あるいは流罪となっていたのです。
宝厳寺・平成28年撮影
かろうじて河野氏を継いでいたのが、出家しているが故に難を免れた、一遍の父である通広(僧名は如仏)と、その弟・通久でした。通久は河野氏で唯一、幕府方に付いていたため助命され、24代当主を継いでいました。
没落していた河野氏が勢いを取り戻すのは、通久の孫である26代当主・通有(みちあり)の時でした。道有は文永・弘安の役(元寇)で活躍。河野氏は勢いを取り戻し、道有は「河野氏中興の祖」と呼ばれました。
とまれ、一遍はこんな時代の、こんな境遇の人だった、ということです。
溜め池
繁多寺の前に、松山市の上水道池があります。北谷池と呼んでいるようです。
アイスクリンIMG_6489.JPG
繁多寺の前に「アイスクリン」屋さんがいました。
この「アイスクリン」屋さんは、有名人です。というのも、辰濃和男さんの『四国遍路』に登場するからです。
『四国遍路』より
辰濃和男さんは、次の様に記しています。
・・50番霊場、繁多寺は、小高い丘にあり、すぐ側に水源地がある。山門前にアイスクリーム売りのおじさんが居た。前にも、同じこの場所で会っている。「野宿して歩いている娘さんの遍路がいて、家で泊めてやったことがあった。野宿ではおちおち眠れなかったんだろうね。夜十時に寝て翌日十一時まで寝ていた。安心して眠れたんだろうな」これもまた遍路道中のひとこまだろう。
へんろ橋
へんろ橋です。流れる川は石手川。この川の上流には「石手川ダム」があり、松山市の上水の約半分を供給している、とのことです。むろん重信川水系の川です。
51番石手寺
通りを渡ると、51番石手寺です。
土地の人が話す「いしてじ」は、関東人の耳には、「いしてぇーじ」と聞こえるかもしれません。西の方の人は、母音を大切に発音するからでしょう。「手」は、関東風の「テッ」ではなく、「テエ」なのです。
本堂
衛門三郎再来の場面です。
・・大師は路傍の石を取り「衛門三郎再来」と書いて、まさに身罷ろうとする、衛門三郎の左の手に握らせました。
・・翌年、伊予国の領主、河野息利に長男が生れました。だが、なぜかその子は、左手を固く握って開こうとしません。
再来の石
・・安養寺(後の石手寺)の僧が祈願をして、やっと開いた子の手には、小石が握られており、その石には、「衛門三郎再来」と記されていたといいます。
・・その石は安養寺に納められ、今も、石手寺と改められたこの寺に、祀られているとのことです。
茂兵衛道標
さて、石手寺を打って、今回予定していた7泊8日の区切り遍路は、終わりとなりました。
飛行機での帰宅となりますが、予約した便(17:00発)までは、まだだいぶ時間があります。現在時刻は11:00過ぎです。
道後近辺をゆっくりと見学し、適当な時刻に、松山市駅からシャトルバスで空港へ向かうことにしました。
すげの木
・・播州赤穂から贈られました・・とあります。その由来は、次の様だと言います。
・・元禄16年(1703)2月4日、松山藩預かりの赤穂義士10名は、江戸三田の松山藩邸に於いて、幕命により切腹した。時の松山藩主松平隠岐守定直は義士たちを武人の鑑として丁重にあつかった。後にこのことを知った播州赤穂の人々は、赤穂の特産の櫨の苗木を感謝の記念として、松山に送り届けてきた。(中略)因みに菅谷半之丞は伊予郡松前の生まれであり、杉野十平次は與居島の人である。中村勘助の娘るりは大洲新谷に嫁いできた。こうして考えると大洲藩名産ろうそくにも関係があるかもしれない。
なお、その他の松山藩預かりの義士は、大石主税良金、堀部安兵衛武庸、不破数右衛門正種、千馬三郎兵衛光忠、木村岡右衞門貞行、岡野金右衞門秀包、貝賀彌左衛門友信、大高源吾忠雄らです。
道後・湯築城
湯築城について、城内の説明看板は、次の様に記しています。
・・湯築城は、中世の伊予国守護河野氏の居城でした。南北朝期(14世紀前半)から戦国時代(16世紀末)まで、250年以上にわたって、伊予国の政治・軍事・文化の中心でした。現在の道後公園全体が湯築城跡(南北約350M、東西約300M)で、中央に丘陵があり、周囲に二重の堀と土塁を巡らせた平山城です。
なお、築城は河野氏27代当主・通盛とも伝わりますが、定かではありません。ただこの平山城が、防衛機能と政庁機能を併せ持つ、当時としては先駆的な城であったことは、確かでしょう。その意味では名城の名に恥じない城だと思います。
坊ちゃん列車
運よく「坊ちゃん列車」が走ってきました。小説『坊ちゃん』で、坊ちゃんがマッチ箱に喩えた汽車です。
作中で坊ちゃんは、いかにも東京っ子らしい闊達な語り口で、次の様に語っています。
・・停車場はすぐに知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。・・
からくり時計
こちらは「坊ちゃんからくり時計」です。坊ちゃん、マドンナ、赤シャツなど、小説『坊ちゃん』の登場人物が、様々の仕草で楽しませてくれるとのことです。
動いているところを見たいと、少し待ってみたのですが、動きませんでした。「営業時間外」だったのかもしれません。
愚陀仏庵跡
「愚陀仏庵跡」「坂の上の雲ミュージアム」が案内されています。
「愚陀佛庵」は夏目漱石の下宿先で、漱石の俳号「愚陀仏」から、そう呼ばれています。子規など文人がたむろしたところです。松山市二番町にありましたが、その建物は空襲により焼失。場所を変え、松山城城山の麓、萬翠荘(旧久松家別荘)の裏手に復元されていました。
在りし日の愚陀仏庵
・・復元されていた・・と書くのは、(帰宅してから知ったことですが)このせっかく復元された愚陀佛庵もまた、残念ながらこの5日前、土砂崩れで全壊してしまっていたからです。
思いもよらないことでした。土砂崩れは、私が出石寺に登っているときに降っていた、あの雨の最中でのことだったのです。→(H22夏2)
写真は、平成16年(2004)春に撮った、在りし日の復元・愚陀佛庵です。→(H16春7)
『坂の上の雲』の宣伝のぼり
『坂の上の雲』は、司馬遼太郎の小説です。松山出身の秋山好古、真之兄弟と正岡子規の生涯を通して、明治という時代の日本を描いています。NHKはこれをテレビドラマ化し、平成21年(2009)から平成23年(2011)にかけて放送しました。
「坂の上の雲ミュージアム」は、・・当館では小説に描かれた主人公3人の足跡や明治という時代に関する様々なイベントを企画し、毎年テーマを変えて展示を行っています。(松山市HP)・・とのことです。
松山市駅
レトロな伊予鉄松山市駅の建物です。
此所からリムジンバスで、松山空港へ向かいます。
更衣室
松山空港の「お遍路さん更衣室」です。他に高松空港でも見た記憶がありますが、徳島、高知はどうだったでしょうか。
着替えた後、缶ビールを楽しみました。疲れはあるものの、心地よい疲れです。
帰途
帰宅後のことですが、熱中症で倒れた歩き遍路がいるとの報道がありました。
梅雨明け後の炎天下、いっそう厳しい遍路がつづけられているのです。青梅さんの無事結願を祈りました。
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
平成22年初夏に歩いた、伊予路(出石寺-石手寺)のシリーズを今号で終わり、次号からは、同年秋の土佐路(土佐佐賀-高岡神社)シリーズとなります。ただし、その前半部はすでにリライトを終えているので、後半からつづけることになります。更新予定は、10月30日です。
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ただ、天の裁きを待つにしても、問われているのは候補者よりも選ぶ側かも?
さて、今回は「楽しく遍路」さんが平成22(2010)年の夏に歩かれた「47番八坂寺 ~ 48番西林寺 51番石手寺」までのリライト版をコメントすることになります。 もう十数年前の遍路ですが、酷暑の夏の現在では地獄の修行としか思えません。 ところで天恢も、この47番から51番までの怖いお話しを記録として残していましたので、ここで紹介することにします。
47番八坂寺
『山門と一つになった橋を渡る。 この極楽門の天井を見上げると、天女たちに取り囲まれた阿弥陀如来が描かれており、参拝者を極楽浄土の世界へ誘っているかのようだ。
大師堂と本堂との間に八坂寺の人気スポット「閻魔堂」が建っている。 両端に小さなトンネルの入り口があり、右が「極楽の途」、左が「地獄の途」となっている。 内壁に極楽浄土と地獄の絵図が描かれ、「おまえはどちらに選ばれるのか?」と、問われているような気がする』
48番西林寺
『仁王門をくぐると正面に本堂、その隣に大師堂がある。 小川に囲まれた西林寺は、川の土手より低い場所に境内があることから、罪あるものが門をくぐると、死後絶えることのない極限の苦しみを受ける無間地獄に落ちるとされ、「伊予の関所寺」と呼ばれてきた。 大悪を犯した者とって怖い寺である』
51番石手寺
『石手寺の七不思議の一つに、山門前にある「渡らずの橋」がある。 この橋は大師が架けたもので歩くと足が腐るといわれている。 近年の話だが、この橋の下をくぐった者がいたが命を落としたという。 絶対に渡らず、くぐらずである』
怖い、怖いお話しでしたが、自分はきっと地獄へ落ちるだろうと身に覚えのある方に朗報です! 八坂寺のお土産に『閻魔大王の通行手形』があります。 懺悔して必ずゲットしてください。 次に閻魔堂のトンネルは、必ず『地獄の途』から入って『極楽の途』から出ます。すると極楽浄土へ行けるそうです。 世の中万事、地獄の沙汰もカネ次第です。
さてさて、今回のタイトルは 『♪人生楽ありゃ苦もあるさ~』 です。 昭和に生まれ育った人なら、ご存じテレビ時代劇 『水戸黄門』の主題歌 「あゝ人生に涙あり」です。
♪人生楽ありゃ苦もあるさ 涙のあとには虹も出る
歩いてゆくんだしっかりと 自分の道をふみしめて ・・・ と、続きます。
最近、思うことあって「幸せって何か?」と自問自答しております。 生きていれば、楽しい時ばっかりじゃないし、苦しい時、悲しい時もあります。 それでも楽も、苦も、それがずっと続くはずはありません。 そうだ遍路に行きたい!
いよいよ投票日が近づいてきましたね。裏金への審判、はたして鉄槌は下されるのでしょうか。それとも、せいぜいお灸を据えるくらいでおわるのでしょうか。あるいは「禊ぎ」はもうおわっているとして、許されるのでしょうか。
かつてイギリスの作家は、・・政治は国民を映す鏡である・・と言い、我が日本では松下幸之助さんが、・・国民はみずからの程度に応じた政治しかもちえない・・と警句を発していますが、次なる選挙が日本国民の「低度」を顕す結果とならないよう、祈りたいと思います。
・・問われるべきは候補者よりも選ぶ側・・然りそのとおり、私もそう思います。
どなたが言い始めたのでしょうか。日本は「お・も・て・な・し」の国ならぬ、「表なし」の国になってしまったのだそうです。つまり表がなくて、「裏ばかり」の国だというのです。「裏金」然り。「検査結果の改竄」然り。「闇バイト」然り、ということでしょう。
残念ですが、こうした状況は、おそらく匿名ネット社会の拡大・進化で、ますます助長されてゆくのでしょう。秘匿性が高いことに隠れての「言いたい放題」や「やりたい放題」が、野放図にネット上に蔓延。「表社会」に、分厚く張り付いた「裏社会」が、徐々に「表社会」に浸潤しつつあります。
「表なし」とは、こういう状況を指して言うのかもしれません。行きつくところは、事の善し悪しは関係なく、バレなきゃいい、・・ということ?
さて、こんなことを書き連ねていると、なぜ昔の人たちが、閻魔様やお天道様、あるいは三尸の虫や関所寺などの、「すべてお見通しの存在」を必要としたかが、わかるような気がします。
おそらく昔もまた、(今日と同様に)人は「自らを自らが正す」ことが、出来ないでいたのです。人は善いこともするが、悪いことも、必ず、してしまいます。「バレなきゃいい」が許容される社会は、不謹慎ですが、意外と居心地がいいのです。
思うに、だから昔の人たちは、自らを制御するための装置として、「自分を裁くべき、大いなる存在」を、自分の心の外に(自分には操作できないものとして)設定したのではないでしょうか。それが「すべてお見通し」の閻魔様であり、お天道様であり、三尸の虫であり、関所寺であったのです。
「表なし」の今日、なお学ぶことが多い工夫と思われますが、どうでしょうか。
なお三尸は、人の体内に棲んではいますが、庚申の夜、宿主の罪業を天帝に報告すべく宿主からはい出しますから、これはやはり、宿主にとっては「外」なる存在です。
さてさて、終わりに、天恢さんに質問です。
天恢さんが「天恢」を名乗るのは、あるいはそうしたことへの、自戒としての名乗りなのでしょうか。疎にして漏らすことのない「天網」の存在を、常に心に刻んでおくための工夫・・?違っていたらごめんなさい。
それが、20年も過ぎて、益々老いてくると、今じゃ、「天恢」と名乗るもおこがましく、せめて自分だけでも悪いことはやっちゃ駄目だと自戒、自省の念が先行するようになりました。
それにしても、「浜の真砂は尽きるとも、世に悪人の種は尽きまじ」で、世の中は大小の悪人で満ちあふれています。 世界に目を向ければ、独裁者という超極悪人までがあちこちで出現しています。 もし、こいつらが核兵器まで自由に操るとなると「天」より強そうです。
終活の一環で、「人類は有史以来何を求めようとして生きてきたのか?」を知るため 世界史を読み直そうと決めたのですが、もう人類の先は見えています。 こんな世を創るため人類はあくせく藻掻いて歴史を育んできたのです。 人類がこんなことで「年貢の納め時」を迎えるなんて余りにも情けない!
質問などと、よけいなことを書いてしまって、またまたお手数をおかけしてしまいました。
そこで今度は短く一言だけ。・・世界史の終わりとならなければいいのですが・・。